ぼくは『せいおう』のぐんし ルフレは基本的に自分のものを持たない。いや、持っていない、が正しいんだろう。彼は、魔術の書と護身用の剣以外は着のみ着のままで倒れていたわけだし。真面目な彼は自警団の給金だって、殆どは戦術書や新しい魔道書に使ってしまっているらしく、時折ヴェイクなんかに「お堅いねぇ」なんて笑われるくらいだ。
どうしてクロムがそんなことを思い出したのかというと、城の書斎で書き物をしている軍師の姿をちらと目にしたからだった。
最近はペレジアとの終戦処理だったり自分の婚約だったり聖王の扱いだったりと、処理しなければならない案件は山積みで、特に軍師として直接戦闘を記録したルフレはあちこちに呼び出されてついでに色々な仕事もしていたようだ。つまるところ、顔をあわせる機会がまるでなかった。
大きなデスクの上に積み上がった本だったり、上等なパーチメントの書類だったりを見る限り、今も仕事中らしい。クロムはそろそろと書斎の扉からその小さな背中を見つめていたが、突然その頭はぐるりとこっちを向いた。
「用があるなら、さっさと入ってきたらどうだい」
「気付いていたのか」
「君は色々と存在感があるから」
呆れた顔でルフレは手に持っていたペンをペン置きに寝かせる。彼らしく、飾り気のない陶器のペン置きに、カラスの風切羽で作った素っ気ないペンだった。
「邪魔をしたか」
「それは君の用件次第かな」
ぐぐっと背筋を伸ばしたルフレの唇が意地悪に歪むと、クロムはうっとひきつった声を出す。そのあからさまな様子に、ルフレはカラカラと笑った。
「……すまん」
「いいよ。僕もそろそろ休憩したかったし」
それから椅子を動かして、入口に突っ立っていたクロムを手まねいた。
実に数週間、まともに顔を合わせていないのに、彼は何の気まずさもなしに、本当の旧友であるかのようにクロムを迎える。手づから紅茶を淹れて、本の林の根本には、柄も大きさもちぐはぐなカップとソーサーが添えられた。
自分の座っていたクッションつきの椅子をクロムに譲り、ルフレは背もたれのないスツールに腰かける。
「何の仕事をしていたんだ」
「色々だよ。ペレジアとの休戦条約締結とか、フェリアへの謝礼とか、戦没者への慰霊とか、エメリナ様の国葬の費用計上とか──っと、すまない」
ぐちぐちと呟いていたルフレは、そこではっと口を閉ざした。
恐る恐る窺う眼差しに、クロムは緩く首を振る。
「いつまでも気にしてはいられんさ」
「そっか」
その答えに、ルフレはほっとして笑みを浮かべる。
何の気まずさもなしに、といったが、それは違って、単にルフレが何も気にしていない風を装っているのだろう。それがあまりに堂に入っているからわからないだけだ。本当の旧友なら沈黙を恐れやしないだろうに、今日のルフレはよく喋った。
「ルフレ」
「それで、ティアモが、ガイアにもう少し身なりを気遣えって」
「ルフレ!」
何、と言わんばかりにルフレはクロムを見上げた。
「いや、何でもないが……」
「何でもないのにそんなに大声を出したの? 君ってつくづく変なやつだな」
余計な一言は、ルフレの歪んだ唇からするりと溢れてくる。
「いや、今日の君が変なのかな」
「それはお前だって同じだろう」
「そうかな? 僕はいつも通りだと思うんだけど。疲れているのかもね」
ルフレはそう自嘲ぎみに肩を竦めて、随分と短くなった羽ペンに手を伸ばす。
「お城に入ってからペンを支給してもらってるんだけど、ほら、もうこんなに短くなっちゃって──」
「ルフレ」
「なぁに、クロム」
「俺がやったペンはどうした」
あの後ろ姿を見たときから引っ掛かっていた疑問を口に出せば、ルフレは虚を突かれたように言葉に詰まり、それからくしゃりと泣きそうに顔を歪めた。
「使えないよ。あんなの」
あの人に申し訳ないだろ、と囁くルフレの声は、ひどく頼りなくてか細い。
*
ルフレが何かを記録する道具を欲しがっているのは、行軍中の仕草から明らかだった。同じ戦術書を何度も何度も読み返しては、ページに折り目をつけたり栞を挟んだり。鳥を狩ったときはよく羽をむしってペンの代わりにしていたが、素人の手製だ。書き味は推して図るべきだろう。
そんなにペンが要るのなら、行商人から羽ペンを買えばいいだろうと言ったこともあるが、彼の答えは決まって「もったいない」だった。事実、一本一本が手製の羽ペンは決して安価とは言えないし、ルフレにかかると三日も待たずにダメになる。耐久性のあるつけペンは、ペン先が金でできているから、高くて買えたものじゃない。消耗品にお金を割くよりは、何度も読み返せる本にお金を使うべきだというのが、ルフレの主張であった。
その本だって、読み終わると自警団の書庫に差し込まれている。それなら経費で買えばいいものを、彼は頑として自費で戦術書を購入し続けた。
だから、行軍中に立ち寄ったある街で、行商人が差し出したそれを見たときは天啓だと思ったのだ。
「ルフレ! おい、ルフレ!」
天幕を仕切る布を持ち上げ、大声を上げながら若き戦術師の名前を呼べば、彼は本から顔をあげることなく生返事をする。
「なんだいクロム。また壁に穴でも?」
「違う!」
「じゃ、フレデリクを怒らせでもした? 勝手に一人で街に見回りに行った件なら僕は味方しないからな」
「いや、それは……近付いたには近付いたがそれも違う。というか何故知っているんだ」
「君から果物の匂いがするからね。でも昼御飯はもうとったし、おやつの時間でもない。そもそもうちに果物をたっぷり仕入れる経済的余裕はない。となるとどこぞのそそっかしいお嬢さんが君に果汁でもぶちまけたんじゃないのかい? ちょうどここの特産は白桃で、たとえ頭から被っても目立たないだろうしね」
本から顔を上げることなくすらすらと答えたルフレに、クロムは内心舌を巻く。流石若年ながらもこの自警団の戦術を一手に引き受ける軍師だ。
「で、言い訳は以上? 勝手に街に下りたことに関しては僕も少し物申したいんだけど」
「勘弁してくれ」
そこでようやくルフレは顔をあげて、情けない顔をしているクロムを見つめる。
「じゃ、一体全体どうして真っ昼間から大声なんて上げてたのさ」
「……さっさと本題を言えと言わんばかりだが、本題に入れなかったのはお前が揚げ足ばかりとるからだからな」
「はいはい、そうだね。で?」
どうやらルフレはそれなりにご立腹のようで、クロムは重たく息を吐く。腰に手を当てて、その拍子に指先に触れた袋にようやく本題を思い出した。
差し出した細長い小箱に、ルフレが怪訝そうな顔をする。
「……これは?」
「特別手当だ」
ますます訝しそうに眉を寄せ、ルフレは恐る恐るその箱を受け取った。木で作られたしっかりした箱だ。麻紐を慎重にほどいたルフレは、ゆっくりと上蓋を持ち上げて目を見開いた。
「えっ、これ……」
目の高さまで持ち上げたそれは、繊細な絵付けが為された美しい工芸品だった。
頁を手繰るルフレの細い指に挟まれ、天幕の中で透き通った光を放っている。
「幾ら書いても先が減らないペンだそうだ」
硝子を加工して作ったペンだと言う。金のペンと違って材料が安価だからか、まだ手の届きやすい値段だった。
ぽかあんと間抜けな顔を晒している、らしからぬ軍師の様子に、クロムはなんだか勝ったような気分で口元を緩める。
「……高かっただろうに」
「そうでもない。それに、お前は特に重い責務を背負っているだろう。特別手当てがあったっていいと、ずっと思っていたんだ」
貰えないとは言わせない。そう言ってペンを押し付けるクロムに、ルフレは戸惑いがちに背丈のある友人を見上げた。
「……僕には、ちょっと綺麗すぎない?」
硝子で出来た軸には、紫のシザンサスがあしらわれている。中性的なデザインだが、男が使っておかしいものではないだろう。それになにより。
「お前に似合うと思ったんだが」
「また君はそういう……」
二三、何事か言おうと口を開きかけた彼は最終的に口をつぐんだ。しばらく黙りこんだあと、躊躇いがちに口に出す。
「……いいの?」
「お前に選んだものだ。受け取ってくれ」
そう押しきるクロムに、ルフレは緩く笑ってそのペンを抱いた。
「ありがとう」
目尻を下げて、頬を僅かに染めて、大切そうに、愛おしそうに。
その表情に、クロムは面映ゆく首の後ろを掻く。
「なんで君が照れるんだよ」
「お前が、その、そんな顔をするから……」
「全く初だなぁ君は。そんなんじゃ、好い人が出来たときに贈り物の一つも、でき、な……」
顔を染めたまま、むっとした顔で睨み付ける王子様に、ルフレは苦笑して手を伸ばした。無愛想な顔は笑みを浮かべることはなかったが、目を伏せて心地良さそうに掌を甘受している。
「悪かったよ」
「いいか、ルフレ。お前が何と言おうと、俺は確かにお前のことを大切に思っているし、愛おしくも思っている」
「うん」
「お前自身が『好い人』でないような言い方は止めてくれ」
「ごめんって、クロム」
ルフレは困ったように笑って、クロムの頭から頬へと掌を滑らせた。
「使わせてもらうよ、これ。君が僕のものである限り」
「……含みのある言い方だな」
「大切にしたいってことさ。なんせ、僕は君の半身で、ということは君も僕の半身なんだから、ずっと君は僕のものも同じだろう?」
その時は、クロムもそういうことかと釈然としないながらも頷いた。それが全く違う意味だと気づいたのは、クロムが所帯を持ってからだ。
婚約を発表したあの日以来、ルフレがあのガラスペンを使っているところは見たことがない。
*
すっかり軍師の私物と化している書斎には、戦術書から日常の本までごっちゃになって配架されている。住人であるルフレですら把握しきれていないその書架については、意外なことに第一王女であるルキナが一番詳しかった。
子どもの隠れ家にはぴったりの、かび臭くて障害物だらけのその部屋は、まだ幼いルキナのお気に入りなのだろう。ルフレが放置してそのまま置き場を忘れた本でさえ、ここにあると立派に助手をして見せる。
いつだって、ルキナはえらいねぇと男の人にしては細い指で、ルフレはルキナを撫でてくれた。そうして一頻り褒めたあとで、お礼にと忙しい時間を工面して、お伽噺を読み聞かせてくれるのだ。
今日もルキナは重たい扉を押して、暗い書斎に足を踏み入れた。辺りをきょろきょろと見回したが、どうやらルフレは留守らしい。彼がよく作業している机の上には相変わらず書類やら地図やらがごちゃごちゃに置かれていて、本の位置も昨日入ったときと変わっている。
ルキナはまだ頼りない歩みで使い込まれた机に近づいた。明かりとりの北向の窓からは、光の筋がすうっと差しこみ、漂う塵がきらきらと輝いている。
その光の一条が、卓上に立てられたガラスペンに吸い込まれ、鮮やかに反射していた。
「きれい……」
女の子が持つにはシンプルすぎるデザインのそれは、恐らくルフレの私物なのだろう。彼がこのペンを使っている姿は見たことがなかったが、いつも机の上に置かれているから大切なものであるのは間違いない。
この美しい工芸品に、ルキナは密かに憧れを抱いていた。
うんと背を伸ばしても、広い机に置かれたガラスペンには届かない。どこか足をかけられるところは、と辺りを探していると、ふいに後ろに影が射した。
「こらっ」
「ぴゃっ」
部屋の主が帰ってきていたのだ。積み重ねられた本に足をかけようとしていたルキナは、飛び上がって振り返る。案の定ルフレはそこにいて、珍しくちょっと怒った顔をしていた。
「危ないだろう」
「ご、ごめんなさい……」
「君に何かあったら、僕がフレデリクや乳母さんに怒られるんだよ?」
ルキナは、自分の世話係をしている乳母がかんかんになってルフレを叱る様を想像して縮こまった。あの乳母の怖さは身をもって知っている。
本当に反省している様子のルキナに、ルフレはようやく怒っているポーズを解いた。
「もうやっちゃダメだよ」
「はい」
しゅんとしたルキナの眼前に、膝を折って目線を合わせ、ルフレはガラスペンを翳す。
「これかい?」
こっくりとルキナは頷いた。
「そっか。ルキナも女の子だもんな。気になるよな」
「ガラスですか?」
「そう。硝子」
ほああ、とルキナは目を目一杯見開いて、そのキラキラした人造の水晶を見つめる。
「シンデレラのくつみたい……」
自身が読み聞かせたお伽噺の姫の名前に、ルフレは笑ってガラスペンを眺める。
「そうだね。これは硝子の靴だ」
「ルフレさんも、おひめさまをさがしてるんですか?」
「……どうだろう」
ルキナは首をかしげる。ルフレの声が途端に沈んだものになったから。
「むしろ、僕が迎えに来てもらえるのを待ってたのかもね」
「ルフレさん……?」
湿った声に、ルキナが心配そうに声をかけた。うつむきがちになって、前髪の隙間から覗く瞳は硝子のように透き通っていて、濡れたように光っている。
「ね、ルキナ」
「はい?」
「もしルキナが読み書きが出来るようになったら、これをあげるよ」
「いいんですか!?」
うん、とルフレは笑った。
「僕にはもう使えないものだから」
無邪気に喜ぶルキナに目を細めながら、ルフレは掌の中の光を見つめている。
あの日から何も変わらない光なのに、どうしてか、ひどく遠いものに思えて。