【イデnot監♀】モイラに僕らは背を向ける【注意事項】
名前固定の夢主(♀)やモブが出てきます
イベントストーリー・パーソナルストーリーをすべて読んでいるわけではありません
ストーリーも6章の途中までクリアしている状態です(情報自体は追っています)
このジャンルでお話を書くのは久しぶりなのでいろいろとお作法がなっていないかもしれません
嘆きの島・オリンポス社・ジュピター財閥などに関する捏造が多いです
地雷を踏んでも薄目でスルーしてください
なんでも許せる方向け
自分の婚約者になる人は、とても不幸だと思っていた。
ブロットを燃やす呪いの体質。先祖代々受け継がれてきた『お役目』。嘆きの島に縛り付けられる運命。それが、イデアの抱えてきたもの。
この家に生まれてきてしまった自分でさえクソッタレだと思うその全てに、巻き込まれてしまうことになるのだから。
だから、彼女が。その全てを知っている彼女が、イデアの手を取ったのは、今でも、なにかの間違いじゃないかと思っている。
*
魔導工学が進んだ現代において、生身で研究報告をする意義はいったいどれほどあるのだろうか。僕は常々疑問に思っている。皆様お忙しいのにも関わらずわざわざ場所取って一堂に会して正直時間も手間も会場代も全てがムダ。だったら全部リモートにしちゃえば経費も時間も削減できて色々ハッピーなんじゃないのJK。なんでお偉いさんたちはあれだけ理論をこねくり回して学術的進捗を日進月歩生んでいるのにそういうところには頭回らないのかまったく不思議でならない。まして学生の分野横断研究報告会なんか、ほっとけばブツブツ喋りだすやつもいるんだからお口チャックできるオンライン開催が無駄なく手間なく滞りなく進行できて素晴らしいと思うんだけど如何か?
「──と、言ってあなたはリモート参加かと思っていましたが、ちゃんとお越しになったんですね、イデアさん」
「うん……正直アズール氏が言ったことほぼ一言一句違わずに思ってる節あるけど……ぶっちゃけ部屋戻ってリモート参加じゃいかんか? と思ってるけど……」
てか、何でいるの。ちらりと横目で後輩を見やると、「懇親会含め、研究報告会にオクタヴィネル寮が一枚噛んでいますので」と涼しい顔で言う。眼鏡をくいと直した、その視線の先にあるのは、外部顧問として呼ばれた提携企業のお偉方たちだ。少しでも知見と人脈を広げるのが目的か。そんなことだろうと思った。
「でも、会場に直接来た。学園長に引きずられでもしましたか?」
「あー、まあそんなとこ……」
「はっきりしないお返事ですね」
「別に、どうだっていいだろ」
ふむ、とアズールはひとつ唸る。興味を失ったのか、それともこれ以上尋ねても時間の無駄と思ったのか。それ以上口を突っ込むことはしなかった。「それでは僕は会場の運営がありますので。ご報告、楽しみにしていますよ」にこりと笑ってイデアの隣を離れる。その後ろ姿に、「うわー……ヤなこと言いますわ、アズール氏」と呟き、俯く。
手元には会場で配られた今日のプログラム。NRC、RSAを始めとした名門魔法学校がずらりと並び、それぞれの才ある生徒たちの名前と、それぞれの研究テーマが誇らしげに並んでいる。ナイトレイブンカレッジ、イデア・シュラウド、魔導工学。それを視線で撫でた。
「それでは、全国魔法士養成学校合同、分野・領域横断交流学術発表会を開催いたします──」
ページを捲る。
「報告に先立ちまして、今回開催校ナイトレイブンカレッジの学園長ディア・クロウリー氏よりご挨拶を──」
賢者の島程近くにある、名門女子学校の生徒が並んだページで止まる。
「クロウリー氏、ありがとうございました。それでは一人目の報告者に移ります──」
その、一番上に記されていた名前を指でなぞった。
「────カレッジ、ペルセフォネ・ナルケ・ジュピターさん、『魔法麦の屋内栽培における魔導光源装置の基礎的研究』」
こつ、こつとブーツの鋲が優雅に床を叩く。つられるように顔を正面に向け、イデアは目を細めた。
他校の制服に身を包んだ、少女がそこに立っている。スライドが映し出されたスクリーンを背に、凛と背筋を伸ばして。
「ご紹介に与りました、────カレッジ三年生のペルセフォネ・ナルケ・ジュピターです」
ほう、と息を吐いたのは、『ジュピター』という家名に関してか。少女は薄く微笑みを浮かべたまま、指を一振りしてスライドを替えた。
「近年の宅地開発や都市化により、農地は減少傾向にあり、中でも魔法麦は広くまとまった空間を要請するために農地減少の影響を強く受けます──」
その、『ジュピター』の名につられた人々の目が、次第に違った質で輝き始める。
「──そこで私は、解析魔術を新たに発明することによって、魔導光源装置の質的差異の観測を可能にしました。この結果を用いて、光魔法が作物に及ぼす影響について基礎的な考察を行ったのが次のスライドの──」
よどみなく話す少女のその才能に。
従来「作物を成長させる魔法」の開発に牽引されてきた魔法農学分野において、「作物の成長の補助を行う魔法」という新たな視点を切り開く、少女の利発さに。
穏やかに、まるで寝物語を読むように、語り聞かせる研究成果に、企業の研究者たちが瞳を輝かせるのを、イデアはなんとも言えない気持ちで見ていた。
「それでは、質疑応答に移ります。質問がある方は挙手を」
なぜなら、
「ケレスアグリカルチャーのマディソンです。大変興味深いご報告ありがとうございました。弊社も屋内栽培には強い関心を持っておりまして、ジュピターさんにはぜひ弊社にお越しいただいてご研究を深めていただきたいのですが……」
質疑応答の枠から外れたその勧誘に、司会が口を挟むまもなく、少女はにこりと微笑んだ。
「大変光栄なお誘いをありがとうございます。ですが、将来の結婚が決まっておりまして」
その一言に、フロアが一斉に失望に傾くのを、イデアは複雑な気持ちで見渡していた。
ジュピター家の才媛。魔法農学の時計を十年速める天才。その彼女の将来が、結婚で閉ざされるなんて。
(あんまり、だよなぁ。フツー……)
自分が魔導工学の天才であることを棚に上げつつ、イデアは目を細めて彼女を見つめた。その視線に気づいたのか、壇上のペルセフォネはイデアを見つけ、ふ、と微笑む。
ペルセフォネ・ナルケ・ジュピター。英雄の国の、名家ジュピター家の庶子にして、魔法農学の若き天才研究者。
イデア・シュラウドの婚約者だ。
*
──ペルセフォネ、って名前、大げさで少し恥ずかしいの。だから、フォニーって呼んでくれる?
そうもじもじと頼み込んできたとき、彼女もイデアも幼い子どもだった。せっかくの婚約者との初対面で、ひょっとしたら記念日になったかもしれないその日でさえ、嘆きの島は相も変わらず陰気くさくて辛気くさかった。
その時から引きこもりがちで出不精だったのがイデアだ。その日も部屋でオルトの性能向上のために研究に明け暮れていた。周りが騒がしくなっていたことに気づいたのは、オルトが「兄さん」と呼びかけたからだった。
「通常より人の移動量が四五パーセント増加してる。何かあったのかな」
「さあ……マズいことになったら放送かかるでしょ。僕たちには関係ない」
「廊下の話し声を聞く限り、お客さんが来たみたい」
「客? S.T.Y.X.に?」
モニタから顔を上げて振り返るが、やはり自分には関係のないことだとすぐに作業に戻る。「ねえ、僕、見に行っていい?」とオルトが尋ねるのには、一瞬渋い顔をしたが「危ないことしないなら」と答えた。
はあい、とオルトが部屋を出て行く。いざというときのために護身用の機能はいくつも搭載してあるし、もしもまた『あんな』ことがあっても対処できるようにはしてあるが、それでも少し気になって、イデアは監視カメラの映像をサブモニタに投影した。
確かに人の往来がいつもよりも激しい。マイクの音声も一部拾うと「聞いていない」だとか「突然の訪問は困る」だとか。どうやら嘆きの島にアポ無し訪問をしてきた奴がいるらしい。どこのどいつだよ、と小さく呟く。普通の企業や研究所ならまだしも、ここは特殊中の特殊、例外中の例外だぞ?
まあいい、それよりオルトだ。対象をオルトに設定し、自動で監視カメラの映像が切り替わるように設定すると、オルトを追尾するようにカメラが切り替わる。イデアの大事な『弟』は、研究員の何人かと話しながらすいすいと廊下を進んでいたが、やがてぴたりと動きを止めた。
──こんにちは、君がお客さん?
オルトの声にイデアはカメラに視線をやる。さて、アポ無しでこんな僻地に入り込んできたのはどこのどんな物好きだろうか、と考えながら。
いかめしい政治家? あるいはえらそうな財界人? いやいやひげもじゃの研究者だったりして──なんて、半笑いで立てた予想はすべて裏切られた。
そこにいたのは小さな女の子だったから。
その女の子が外の人間だということはすぐにわかった。S.T.Y.X.の制服でもない、研究にも不向きな、上等でかわいらしいワンピースを纏っていたからだ。オルトがゆるやかに着地をしても、彼女の方が少し背が低かった。
──あなたは?
──僕はオルト。ここに住んでるんだ。君はこんなところで何をしているの?
──お手洗いに行っていたら、迷ってしまって。
──ここには誰かと一緒に来たの?
──お父様と。
ふうん。じゃ、そのお父様がいかめしい政治家かえらそうな財界人かひげもじゃ研究者の可能性があるってわけか。イデアはデスクの上にあったコーラのキャップを開けて一口飲む。
──ふうん。じゃあ僕がお父さんのところまで案内してあげる!
──いいの?
──もっちろん!
言うや否や、オルトは女の子の手を取って歩き出した。「僕はね、嘆きの島の全カメラの映像を確認できるんだよ」と得意げに。それに彼女は頬を染めて「すごいのね、あなた」と微笑んだ。
オルトと彼女の探し人は、ものの数分で見つかった。意外だったのは、その探し人のすぐ隣に、自分の父親がいることだった。
探し人は、いかにも厳格そうな、厳めしい中年の男だった。魔力の籠められた上等なスーツを着ていて、キラキラと輝くラペルピンの意匠には見覚えがあった。オリンポス社のマークだ。
探し人が女の子の父親だったらしい。その場にしゃがみ込むと彼女を抱きしめ、「探したんだぞ」と意外と優しく声をかけていた。彼女はしゅんとした様子で「ごめんなさい、お父様」と謝ってから、ぱっとオルトを振り返る。
──でもね、オルトが助けてくれたの。
──オルトというと、シュラウド家の……
父親がオルトをじっと見る。それに、彼女はどこか誇らしそうに言った。
──とっても良い人なの。
それに、イデアは思わずボトルを取り落とした。
人、と言った。彼女は。
今のオルトはまだ調整途中もいいところだ。いつか人間と遜色ないヒューマノイドにしてやるとは思っているが、それでも機動も発話も未完成。それなのに。
人。イデアは小さく繰り返す。オルトは、良い人。
と、トントンと部屋の扉が控えめにノックされる。
「……何」顔を出すと、そこには母親が神妙な顔をして立っていた。
「ついてきて頂戴」
「……それ、今来てるお客さんと関係ある?」
「ジュピター財閥の代表が、イデアと年の近いお嬢さんを連れてお越しなの。お話相手になってあげて」
お金持ちのお嬢様のお相手なんて、正直絶対に御免だった。だけど、その時素直に母親について行ったのは、彼女の発言が頭の中を巡っていたからだった。
オルトは、良い人。
カメラ越しで無く、実際に対面してみると、彼女は思っていたよりもずっと小さかった。「兄さん」とぱっと顔を明るくして、オルトがイデアの隣に並ぶ。父親に背中をとんと押されて、彼女は足を少し後ろに引いて、綺麗なカーテシーをした。
「ペルセフォネ・ナルケ・ジュピターです。お初にお目にかかります、シュラウド家のイデア様」
「……イデア・シュラウドです。お初にお目にかかります」
ぎこちなくもお互いに挨拶を済ませた、その様子をジュピター財閥の現代表はどこか満足げに見つめて頷いた。そして顎を少し擦って、「実はね」と切り出す。
「うちの娘を──ペルセフォネを、イデアくんの婚約者にしようと思って来たんだ」
は?
という気の抜けた声は、イデアの隣の父親から聞こえた。
「……すみません、代表、今なんと?」
「年も近いだろう。ペルセフォネはヘラとの子でこそないが、私の子で家柄も問題ない。こちらとしても、シュラウド家であれば申し分ないと考えているよ」
「で、でも、あまりに急すぎませんか」
「なに、今すぐ結婚しろと言っているわけではないよ。あくまで最初は婚約者と考えてくれればいい」
うわ、出た、子どもを自分の物かなんかと考えている親。イデアはくっと眉を寄せる。家柄だとか血統だとか、犬猫じゃあるまいし。
彼女も初めてその話を聞いたのか、ぽかんとした顔で自分の父親を見ている。そうこうしている間にも、代表とイデアの父親の押問答は代表優勢で続いていく。頑張ってください父上、今折れてもらうと拙者的にも困るというかなんというか。
ぐだぐだの堂々巡りにいったんの終止符を打ったのは、意外なことに彼女だった。
「お父様、婚約と言っても、当人同士の相性もありますわ」
鈴の鳴るような声でそんな正論を言って、そっと父親の袖を引く。
「お父様たちがお話をするように、私とイデア様とでも、お話をさせてくださらないかしら」
それに代表はぱちりと瞬いた。「ね。このままお父様たちのお話を聞いているのも楽しいけれど、せっかくですもの」と一つ押せば、代表はうむう、と頷く。
「そうですね。イデア、ペルセフォネ様をつれて遊んできなさい」
ええ、とは言える空気では無かった。ここで不平を垂れたら、また父親たちの延々と続くぐだぐだ劇場に巻き込まれることになる。「わかった」と素直さを繕って返事をして立ち上がると、ペルセフォネもまたゆっくりと立ち上がった。
嘆きの島に遊べるところなんて多くない。せいぜいがテレビゲームくらいだ。つまらないだろうけれど、ゲームでもしてもらおうかと考えながらオルトも連れて研修室に入ると、彼女は小さな声で「ごめんなさい」と言う。
「……何で謝るの」
「お父様があなたを巻き込んだから」
「それは君の父親のことであって、君の過失じゃないだろ」
「でも、身内のしたことは謝りたいの」
身内、身内ね。イデアは心中で繰り返す。そんな自分ではどうしようもないもの背負うなんて、よっぽどのお人好し馬鹿らしい。
上から下まで良家のお嬢様だ。オルトのことを「良い人」と言ったのだって、ドのつく人の良さからだろう。こういう良い子ちゃん、嫌なんだよな。八方美人って言うか。
はあ、とため息をついて、「謝っても何か解決することじゃないだろ」と言う。そうすると、彼女は少し傷ついたように笑って、「そうね、ごめんなさい」とまた謝った。
「言っておくけど、ここに遊べるものほとんどないから。ゲームくらい? ゲームしたことある?」
「ええと……兄様方がやっているのを見たくらい」
「ふーん」
「でも、見るのは好きよ」
「……じゃ、今日は自分でコントローラー握ってみたら?」
「いいの?」
「いいも何も……ずっと見てるだけとかつまんないでしょ」
オルト、と呼ぶと「はあい、ゲームだね」と明るい声でオルトがモニタを操作する。ぱ、と現れたゲームタイトルの数々に、彼女の目が輝いた。
「僕には兄さんと僕がセレクトしたゲームデータが搭載されているんだ」
「すごい……すごい人なのね、オルト」
「すごいでしょ? でも、僕にこの機能をつけてくれたのは兄さんなんだよ!」
ペルセフォネのきらきらとした目がこちらを向く。イデアはとっさに目を逸らした。
正直、すごいなんて言われ慣れている。S.T.Y.X.の所員には何度も天才だと褒められてきた。だから、すごい、も、天才、も、当たり前だ。それなのに。
「オルトもすごいし、イデアもすごいわ」
「……呼び捨て」
「あ……ごめんなさい。イデア様だと、よそよそしいかと思って……」
「いいよ、別に」
「ふふ、じゃあ遊ぼう。ペルセフォネ・ナルケ・ジュピターさん、どれから遊ぶ?」
そこで彼女はぱ、と頬を染めた。「あ、あの、ね」と小さくオルトの手を引いて。
「ペルセフォネ、って名前、大げさで少し恥ずかしいの。だから、フォニーって呼んでくれる?」
後で知ったことだが、ペルセフォネは異説によると死者の国の王が伴侶にした女性の名前らしい。今思うと、なんだか因果を感じてしまうことだった。
*
フォニー、と呼ばれて彼女は振り返った。見ると、同じ学校からこの合同発表会に来た級友が、グラス片手に上機嫌で歩いてくる。もう、とペルセフォネは呆れた顔をした。
「お酒飲んでないでしょうね?」
「飲んでない、飲んでない。モクテルだもん。フォニーも飲んできたら? 美味しいよここのシャーリーテンプル」
「発表が終わったからって浮かれちゃって……」
「いやあ緊張の糸が切れちゃってねえ」
うふふ、とだらしなく笑っているが、その彼女もまた魔法薬学において優秀な成果を出している立派な科学者だ。現に、彼女にいつアプローチをかけようか虎視眈々と目を光らせている企業研究者の多いこと。
もう少しお上品に狙えないのかしら。ふうと息を吐きつつ、ターコイズブルーに黒のメッシュが入ったウエイターからジンジャーエールのグラスを受け取り、ペルセフォネもまた喉を潤した。「大変でしょ、スカウト」と声をかけると、ピンチョスを摘まんでいた彼女は「まあねえ」とからりと笑う。
「そういうフォニーは……っと、そうか、牽制かけたんだっけ」
「牽制じゃないわ。事実だもの」
「恒例だよね。『こんにちは。ドコドコカンパニーの者ですが、ジュピターさん今後の進路については』『結婚です』のやりとり」
「恒例芸にされるの、複雑なんだけど……」
「あーでも、恒例芸になってるけど私フォニーの嫁ぎ先知らないや。どこなの?」
「秘密」
「えー!」
教えてよう、とすがりつこうとするのをさらりとかわして、ペルセフォネもまたカナッペを口にする。と、こつこつと足音が聞こえてきて、二人は慌てて居住まいを正した。
「楽しんでいらっしゃいますか」
こちらに歩いてきたのは、ウェーブのかかった銀髪に眼鏡をかけたナイトレイブンカレッジの学生と、もう一人。燃える青の髪をした人。
ぱち、とペルセフォネは瞬いた。その隙に、いかにもお嬢様ぶった級友が上品に一礼する。
「ええ。とても。お料理も飲み物も美味しくて。ナイトレイブンカレッジの学生さんたちが羨ましくなってしまうくらい」
「それは光栄だ。実は、この会場は僕が経営しているモストロ・ラウンジがセッティングさせていただいたんです」
「まあ! 私とほとんど年も変わらないのに、もう経営をなさっているんですか!」
「いえ。まだまだですよ。其方こそ、発表拝聴いたしました。同年代であることを恥じ入るばかりの素晴らしいご研究でした。ああ申し遅れました。アズール・アーシェングロットと申します」
「こちらこそ申し遅れました。レナ・メルクリと申します。初めまして」
アズールと名乗った美丈夫の微笑みに、級友はすっかりぽうっとしている。いつもの五倍増しで被られた猫に、せめてアズールさんが騙されないといいけれど、と思っていると、眼鏡越しの柔らかな視線とかち合った。
「ジュピターさんも、素晴らしいご発表でした。実は僕の出身は海でして。こうした栽培の研究は、僕たちの故郷での食糧問題にも繋がりますし、興味深く聞かせていただきました」
「私の研究が少しでも何かの益になれば幸いです」
「……後ろにいる、僕の先輩も実は発表をしていましてね」
後ろにいるというか、ひっついているというか。パーティーみたいな場は本当に嫌だしずっと引きこもっていたいと常日頃から主張していたのにわざわざ出てきたのか。それでも一人でいるのが、彼曰く「無理すぎ」てこうして知り合いの陰についているのか。まったく、変わらない人。
「ええ、ええ! 伺いました。私、魔導工学については素人なんですけれども、それでも趣旨が明快でとても面白かったです」
「ど、どうも……」
「せっかくだからご挨拶をさせてください」
ほら、と級友がペルセフォネを小突く。それに薄く微笑んで、小さく息を吸って、吐いて。あの時のように美しいカーテシーをして。
「初めまして。ペルセフォネ・ナルケ・ジュピターと申します」
「……初めまして、ジュピターさん、メルクリさん。イデア・シュラウドです。どうぞよろしく」
初対面を繕った婚約者がほっとしたような顔で挨拶を返したので、ペルセフォネは微笑んだまま、軽くグラスを持ち上げた。
「支配人、少しよろしいですか──」
「すみません、先ほどの魔法薬学のご発表で質問が──」
それぞれが話し出そうとしたその時、タイミング悪く二人に声がかかる。「すみません、少し外します」「私も」と会釈をしてその場を離れて行って、場にはペルセフォネとイデアだけが残った。
「フォニー」
微妙な沈黙をイデアが破る。初対面の「ジュピターさん」ではなく、知己の「フォニー」として。
「なあに?」
首を傾げると、イデアは複雑な顔をして「しばらく一緒にいていい?」とか細い声で尋ねた。
「ほんっと、こういうとこ無理……なんでパーティーとかするの? 意味わからん……やっぱ全部オンラインでいいでしょ、オンラインなら懇親会なんてなかった……」
「最近はオンラインでも懇親会をやるそうよ。一度に大勢が喋れないから一人の演説になるか沈黙が広がるかの二択だってお兄様が言ってたわ」
「それなら対面の方が良か……いや良くないが? オルト……兄ちゃんを支えてくれ……」
「そういえば、今日はオルトは?」
「学園長から会場立ち入りNG出た……魔導砲が搭載されてるからセキュリティがウンタラカンタラとか、言い出したら拙者たちもマジペン持ってる時点でセキュリティとかお察し(笑)なんですけどほんと何世紀前の脳味噌なわけ」
「私も久しぶりにオルトに会いたかったから残念ね。寮には流石に入れないだろうし」
「絶対無理」
「寮長権限でどうにか」
「イグニハイドの陰キャたちをおなごの光で焼いて殺す気か?」
ふふ、とペルセフォネは小さく笑う。おなごの光って何かしら。ペルセフォネも昔よりは知識をつけて、イデアの影響でソーシャルゲームやマジカメに手を出したりもしてそこそこ彼の言っていることがわかるようにはなってきたが、それでも独特の語彙センスには感心してしまう。
「そんなに嫌なら、無理して来なくても良かったのに」
「そりゃ、だって……」
口内でもごもごと消えたその音が、「君と話せるだろ」だったらどれだけいいだろう。そんなことを思った。
イデア・シュラウド。嘆きの島の、冥府の番人を宿命づけられたシュラウド家の長男。魔導工学の百年に一度の天才。
ペルセフォネ・ナルケ・ジュピターは彼に恋をしている。
*
初めて嘆きの島に足を踏み入れたとき、そこはペルセフォネにとって未知の世界だった。英雄の国は、太陽の光に満ちて緑豊かなところだ。対して嘆きの島は地下にあって、研究員は中核施設であるS.T.Y.X.に閉じこもって出てこない。初めて会った子どもはヒューマノイドで、次に会った子どもは青く燃える髪をしていた。英雄の国では子どもの遊びと言ったら公園に出て鬼ごっこをしたりかくれんぼをしたりだけど、イデアとオルトが勧めてきたのは兄たちが遊んでいるようなテレビゲームだった。
「上手い、上手い! 初心者とは思えないよ、フォニーさん!」
「そ、そう……?」
「まあ初心者にしては上出来なんじゃない? まだまだ上には上がいるけどね、フヒッ」
イデアが勧めてきたのはスター・ローグというゲームで、上から落ちてくる攻撃を避けて敵機を撃墜するシューティングゲームだった。兄たちが好んでやっているRPGとは風合いが違う。あれは、たたかうとか、にげるとか、コマンドを選択するだけでこんなに一瞬一瞬の判断が問われなかった。
「あー、ドラゴンの冒険とか、そういうやつっすな。あれも名作。拙者は5が好き」
「大空の花嫁だね! ストーリーが重厚で面白いんだ。一気に嵌まり込んでほしいから、体験プレイよりはまとまった時間がほしいけど……」
「でも、スター・ローグも面白いわ! シューティング? はハラハラするし、ストーリーも面白いし!」
「そうだ! せっかくだし兄さんのプレイも見てよ! コントローラー逆持ち縛りでノーダメージクリアするからさ!」
難易度は最高、ペルセフォネに渡されたコントローラーをオルトの言ったとおり逆持ちにして、スタートを押しかけたその時、けたたましいブザーが鳴った。
何、と天井を見上げると、研究員の声が流れてくる。「ヒトサンマルマルより、被検体ROS-735B、SUS-1876Cのテストを開始します。現在、該当ファントムのケージを凍結解除中。職員の安全に万全を期すため、テスト終了まで館内の扉はすべて施錠されます──」
ファントム、とペルセフォネは呟いた。「知らなかったの?」イデアが冷えた目でこちらを見る。
「知らなかったわけじゃないわ」
ここがどのような施設なのか、来るまでに父親から知らされている。ブロットの研究施設だということも、オーバーブロット時に発言するファントムという化け物を収容していることも。
そもそもシュラウド家がジュピター財閥の分家なのだ。ジュピター家に連なっている者として、シュラウドの使命も教えられている。そう言うと、イデアは唇の片端を引き上げた。
「じゃー、知っててシュラウドのお嫁さんにって連れてこられたんだ。可哀想」
「……可哀想と評するには、まだ情報が足りないと思う」
「いや、十分可哀想でしょ。本当に僕のお嫁さんになったら、こんな陰気くさい島に閉じ込められて、一緒に冥府の番人をすることになるんだ。僕だったら絶対に御免だね」
ペルセフォネはそれに何も返さなかった。ただじっと、黙ってゲームの画面を見つめる。
「まあ、まだ婚約だし? 破棄の可能性もあるし。そうなるとレテを通るわけだけど」
「……レテ?」
「あれ、レテは知らないの? 忘却の魔導装置だよ。S.T.Y.X.は内部機密だらけだから、ここから出るときは皆レテを通る。そうするとここで起きたことを全部忘れるんだ」
全部。ペルセフォネは目を見開いた。オルトの方を向くと、「事実だよ、フォニーさん」と明るく肯定される。全部、とペルセフォネは再度、確かめるように繰り返した。
「イデアや、オルトのことも?」
「そうだね、寂しいけれど」
「寂しいかぁ? こんな陰キャのこと、覚えてても得とかないでしょ」
「もう、兄さん! ……さ、それよりも兄さんのスーパープレイ、見たいでしょ? 三時間もあるなら、any%RTAでもいいかもね!」
「フヒヒッ、なんでもござれ」
コントローラーを握り直したイデアがゲームスタートを押す。それを見ながら、ペルセフォネは複雑な気持ちのままでいた。
スター・ローグのプレイと、ファントムの実験はつつがなく終了した。ゲームクリアの表示が出たのと、ロック解除のブザー音が鳴り響いたのはほぼ同時。ペルセフォネは興奮と感動で頬を赤らめて、思わずその場で立ち上がって拍手をしていた。フレーム単位のグリッチ、ピクセル単位調整の回避、それを可能にしたイデアの超人的な集中力。
本人は「は~! 疲れた~!」と大の字になって伸びていた。オルトは「自己ベスト更新! さっすが兄さん!」とはしゃいでいる。その二人の中に飛び込んで、ペルセフォネもまたイデアを讃える。「すごい、すごい人だわ、イデア」と思わず手を握って詰め寄ると、イデアは照れくさそうに頬を染めて「ま、拙者にかかればこれくらい余裕ですわ」と笑ってみせた。
「最短経路を考える論理的思考に、それを実現するテクニック、ゲームって奥が深いのね」
「えへへ、ゲームの楽しさ、わかってもらえて嬉しいよ!」
「つ、次は何する? ピンキーボールってゴルフゲームなら、三人でもプレイできるけど……」
「僕と兄さんは三つのボタン縛りのハンデ付きでやるから、フォニーさんも楽しめると思うよ」
「それじゃあ、その──」
ピンキーボールで、と言おうとした、その時再度けたたましいブザーが鳴った。また実験かしらと天井を見上げたペルセフォネと違って、オルトとイデアは険しい顔をする。
「今日の実験はあれで終わりのはず。オルト」
「ちょっと待って、兄さん。今調べるから」
だが、オルトが調べ始めるより前に、放送がその事態を知らせた。「緊急警報、当施設の攻撃を確認。現在ドローンが偵察中」
「襲撃者……?」
「ドローンの映像をモニタに出力するね」
モニタがゲーム画面から海上の様子に切り替わる。青い海原に、一人の女性が箒に立っているのが見えた。杖を一振りして、インビジブルシールドに容赦なく攻撃を与えていく、その姿に息を呑んだのはペルセフォネだった。
「……母様!?」
「母様!?」
「データベースとの照合開始……うん、フォニーさんの言うとおり、攻撃してきたのはペルセフォネ・ナルケ・ジュピターさんの実の母親、デメテル・ポピア・ジュピターさんみたいだ!」
「な、なんで!? なんで母親が娘のいる施設を攻撃してるの!?」
「音声出力します」
ぱちり、とスピーカーの接続音と共に、波の音と共に悲痛な母親の叫びが木霊した。曰く、
「娘を返して!」
悲鳴じみた声に、オルトとイデアはペルセフォネの方を見つめる。ペルセフォネもまた、困惑気味に二人を見返した。
ひとまず収容して落ち着かせることに決めたらしい。カローンたちに連れられて、デメテルが嘆きの島に迎え入れられる。程なくして、イデアの父親がペルセフォネを迎えに研修室の戸を叩いた。が、その表情は疲れ切っていて、イデアもペルセフォネもますます困惑を深めるばかり。
「何があったの、父さん」
歩きながらイデアが尋ねると、イデアの父はとても苦い顔をした。「実は代表が」と重く口を開く。
「ペルセフォネ様の母親──デメテル様に、無断で婚約を決めたらしいんだ」
「……は?」
「デメテル様は代表に娘をさらわれたと主張して大激怒。嘆きの島に単身乗り込んでいらっしゃったらしい」
「は、はた迷惑な……」
代表とやら、独断専行が過ぎないか? イデアは思わず遠い目になった。それに、連れ去られたからって単身で乗り込んでくる母親も母親だ。聞けばインビジブルシールドは破壊一歩手前の状態らしく、どんな魔法士だよと背中に冷たい汗が流れる。
通された応接室は、冥府以上に地獄の様相だった。代表は床に座らされ──確か、極東では「正座」と言うんだったか──デメテルはその前に仁王立ちをしている。ドアの開いた音にこちらを向いて、ようやく怒りをひっこめ安堵に顔を緩ませた。その場に膝をつき、手を大きく広げる。
「フォニー!」
「母様、その」
「ああ、フォニー。愛しい私の娘。抱きしめさせてちょうだい。母様を安心させて?」
おずおずとペルセフォネが母親の元に向かう。デメテルはペルセフォネをぎゅっと抱きしめて、嗚呼、とひとつ大きな息を吐いた。
「帰りましょう、フォニー。こんな恐ろしいところにいて、怖かったでしょう?」
「母様、私、怖くなんてなかったわ。イデアもオルトもすごく良くしてくれたもの」
良くした覚えはあまり無かったが、イデアは何も言わず親子の感動の再会を眺めることにした。デメテルはどうやら人の話をあまり聞かないらしく、ここが恐ろしい場所だと信じて疑っていない。それも失礼な話だなと思ったが、イデアは口には出さなかった。
話がまとまったのか、イデアの父親もほっと息をつく。「ひとまず、代表との話は保留として──」言葉を濁したのは我が父ながら英断だと言わざるを得ない。ここでもし、この嘆きの島の番人との婚約が決まりかけていたなんて言ったら、デメテルは卒倒していただろう。
「今日のところはおかえりいただきましょう。レテの準備を」
その指示が、まとまりかけていた議論を振り出しに戻すなんて、誰も思わなかった。
ペルセフォネがぽかんとイデアの父親を見上げる。「レテ?」聞き返すのに、イデアの父は頷いた。「規則ですから」と。ペルセフォネはしばらく何かを考え込むように、デメテルの腕の中で黙っていた。だが、やがて何かを決めたように、顔を上げてイデアの父親を見つめた。
「あ、あの!」
「何でしょう、ペルセフォネ様」
「レテは……レテは通れません。だって、わ、私は、イデア・シュラウド様の婚約者なのでしょう!?」
時間が止まった。
「すべて、すべて忘れてしまっては困るはずです! ですから、私はレテを通りません!」
「な、何を……」
「父様がおっしゃっていましたもの!」
何をいきなり言い出すんだとイデアは目を剥いた。ここまで全部丸く収まりそうな雰囲気だっただろ? 何ぶち壊してんだこの子、と。
それでも、ペルセフォネは自分がイデアの婚約者だと主張する。
ふら、とデメテルの体が傾いだ。後ろに倒れそうになったのを、すんでの所で抱き留めたのは代表だった。首を振る。失神したらしい。
「……何考えてんの、君」
「だ、だって」
そこでペルセフォネは顔を真っ赤にして拳を握りうつむいた。「自分でも馬鹿なことだってわかってる。でも」と絞り出すように。
「でも、イデアやオルトのこと、忘れたくなかったんだもの……!」
泣き出す寸前の声に、イデアは怒るに怒れなかった。呆れることすらできなかった。そんな感情を向けられたのが、そもそも初めてだったのだ。
以来、ペルセフォネはイデアの婚約者になった。ただし、婚約破棄までの距離は短い。ペルセフォネが一度首を横に振れば、デメテルは旦那をふん縛ってでも婚約を取り消させるだろう。こんな曖昧で不安定な婚約を継続させるシュラウド家もシュラウド家だが、ジュピターが持つ家の力は大きいし、さもありなん、という気すらする。
イデアの父親は真面目な顔でペルセフォネに言った。婚約破棄をしたときは、嫌でもレテを通ってもらう。ペルセフォネはそれに了解を示した。婚約破棄は、文字通りこの関係の終わりを示すのだ。
どうせ長くは保つまいと思っていた。嘆きの島の花嫁なんて碌なもんじゃない。婚約者になってからは、月に一度は島を訪れてブロット研究の研修を受けるように言い渡されたらしい。育ちの良いお嬢様には無理だと、イデアは決めてかかっていた。
だが。
「イデア、思うんだけど、嘆きの島でも農作物の生産ができないかしら。食料を外に依存してばかりなの、万が一があったときに危険だと思うの」
「ここの研究員の人たちは魔法が使えない人も多いから、育てる魔法を使うよりは、魔導機械を用いた自動化の方が実現可能性が高いわよね。魔導工学からの意見がほしいのだけど」
「聞いて、イデア。スター・ローグのステージスキップグリッチができるようになったの! 見ててね」
ペルセフォネは折れなかった。どころか、いつの間にか嘆きの島に実験農場まで建設していた。イデアのゲーム機にペルセフォネのセーブデータができたし、母親はペルセフォネが作ったイチゴジャムがないと朝が始まらないとさえ言っている。
「また来月!」笑顔で嘆きの島を去るペルセフォネを見るたびに、この関係がずっと続けばいいのに、なんて、思うようになってしまった。
ペルセフォネが望めば、彼女はイデアのことも、オルトのことも、嘆きの島のこともきれいさっぱり忘れて。英雄の国で上流階級のお嬢様らしく生きていくのだろう。
それが、嫌だった。
嫌なのに。
「……ねえ、本当に君はそれでいいの」
壇上。ケレスアグリカルチャーのマディソンに質問に対して、きっぱりとした返答をしたペルセフォネを見ながら、イデアの口はそんなことをこぼしていた。
もしも、それでいいなら──いいや、そんなことはあるはずないけれど。
泡沫の夢だ。もう少しだけ、浸らせてほしいとイデアは目を伏せた。
「寮長、昨日美少女と話してたってマジですか」
「……は?」
ボードゲーム部の部活中、トークンを手の中でもてあそびながら、後輩にして寮長仲間がうんうん唸っているのを愉悦の表情で眺めていたイデアは、そんな寮生からの問いかけに危うくそれらをばらまきかけた。
ボードゲーム部はその活動内容の形態からイグニハイド寮生の所属も多い。方々から「裏切り者」だとか「寮長だけは仲間だって信じてたのに」と口々に上がるのに、一体何のことかわかりませんとイデアは両手を前に突き出して振る。
「待って待って、なんでそんな噂立ってるの。拙者がマジモンのコミュ障で女の子と喋れないの皆も知ってるでしょ」
「クラスメイトのオクタ寮の奴が言ってました。なんか途中からパーティー終わるまでずっと一緒だったって」
「オッフ」
「どうなんですか寮長」
詰め寄られてイデアはさっと目を逸らす。逸らした先にいたオルトは「兄さんにお友達?」と目を爛々と輝かせている。いや友達というかなんというか。もごもご口ごもっていると、向かいのアズールが盤面から顔を上げた。
「ああ、もしかしてジュピターさんですか。あれからずっと一緒にいたんですか、もしかして」
「ジュピターさん? ジュピターさんって、フォニーさんのこと?」
「ちょ、オルト……ッ!」
「フォニー?」
「ペルセフォネ・ナルケ・ジュピターさんのことだよ」
アズールがぱちりと瞬いた。オルトの口を塞ごうと持ち上がった手が中途で止まる。ひとり、オルトだけがにこにこしていて「フォニーさんも来ていたんだね! 僕も行きたかったなあ、分野・領域横断学術交流会!」と言う。
「……イデアさん?」
「な、なんでござるかアズール氏」
「確か、昨日あの場でジュピターさんと貴方は初対面だったはずでは?」
「そ、そのう……これには海より深い事情があるというか」
嘘だ。幼児用プール並みに浅い理由しかない。オルトはちょっと呆れた顔で、「もう、兄さん」とイデアの顔をのぞき込んだ。
「またフォニーさんのこと、初対面だって嘘ついたの?」
「嘘?」
「ああああの、嘘というかあの場では初対面だからあながち間違いじゃないというか」
「イデアさん、どうなんです」
「……初対面じゃないです……」
アズールがくいと眼鏡のブリッジを上げる。ざわ、とボードゲーム部員がざわついた。「寮長におなごの知り合い」「美少女って言ったよな? どれくらいの美少女だ」「待って検索する」「つうか、『ジュピター』って言ったよな?」「まさかあのジュピター財閥の?」
ああこれだから嫌だったんだ。小さくなっていくイデアに、アズールはふむと小さく唸る。
「……まあ、ジュピターさんも優秀な科学者ですし、イデアさんとああいった場で知り合っていてもおかしくはありませんが」
「あ、あー……そゆことですわ……」
「でも何故黙っていらしたんです? ジュピター財閥にコネ……こほん、知り合いがいるなんて、すごいことだと思いますが?」
「君にそういう目で見られるからなんだけど……」
イデアはいじいじと服の袖を伸ばしつつそうぼやいた。「だいたい、ジュピター財閥の子って言っても、フォニーは庶子だし……」確かに外部の人間に比べると顔は利くかもしれないが、正妻のヘラの子ほどではない。本人もジュピター財閥に行使できる権限はほとんど持っていないと言っていたし、人脈としての価値は低いだろう。
が、その場にいた大勢が気にしたのはそこではなかった。
「……フォニー?」
「待って、シュラウド、もしかして女の子のことあだ名で呼んだ?」
「ピ」
しまった。オルトが自然に「フォニーさん」なんて呼んだから釣られた。固まるイデアにさらに周りが詰め寄る。いったいどういう関係なんだと。なんせここは男だらけの男子校。女子が関わる話なんてめったにない。
どういうことなんだ、説明しろの合唱に、オルトが口を開く前にイデアが叫んだ。
「お、おお、おさな! なじ、み……っていうか……」
──まさか口が裂けても婚約者だなんて言えない!
苦肉の策で口にした、あながち嘘でもない関係性に、今度固まったのは周囲の方だった。
たっぷり数秒、空気がフリーズして、
「……幼馴染ィ!?」
いっせいに息を吹き返した。
「お、幼馴染ってあの幼馴染!?」
「ちょ、画像出たホントに美少女なんですけど!」
「寮長絶許」
「魔導工学の異端の天才に美少女の幼馴染ってそれなんてラノベ?」
「これでオタク陰キャじゃなければ」
「わかんねえだろ最近のラノベオタク陰キャ主人公多いし」
「シュラウドを許すな!」
そこから始まるシュラウドを許すなの大合唱。イデアは小さく、小さくなって、だから嫌だったんだを念仏のごとく繰り返す。これだから、これだから! 嫌だったの! 何のためにフォニーが気を遣って「初めまして」って言ってくれたと思ってるの! それをぶち壊しにしたの誰!? あ、もしかして拙者がずっと一緒にいたから? そうなの?
「もう! 皆! 兄さんをいじめないで!」
「い、いじめてるわけじゃ……」
「僕、怒るよ」
「ご、ごめんなオルト……」
ガタガタ震えるイデアの前に仁王立ちになったオルトに、渋々皆が刃を引っ込める。それまで我関せずで部員の反乱を見守っていたアズールが、トークンを一枚場に置いてカードを取り、「そういえば」とイデアを見た。
「イデアさん、ジュピター家のご令嬢といったいどうやって幼馴染になったんです?」
「……まあ、いろいろ……昔からあの子、賢かったし」
「成程?」
上手く煙にまけただろうか。ふうと息を吐いてイデアもまたトークンを場に置いた。
いつ頃からだろう。ペルセフォネと「初めまして」を繕うようになったのは。
*
覚えている一番古い記憶の中で、「初めまして」を口にしたのはイデアからだった。その日はジュピター財閥が主催する社交パーティーで、良家の子女たちが大勢集まっていた。シュラウド家の人間はこういった場にめったと参加はしないけれど、その時は限られた招待客しか参加しないこと、ジュピター財閥の構成家を中心とした小規模なパーティーだということで、イデアも半強制的に参加させられたのだ。勿論、散々嫌がって、オルトの同行を交換条件にしたが。
慣れないかっちりとした格好をして会場に入ると、そこはもう本当最悪としか言いようがない空間だった。嘆きの島に引きこもっているシュラウド家と違って、他のジュピター財閥の構成家たちはこういった場に積極的に出て行っている。要するにもう仲良しグループができあがっている状態だったのだ。そこに圧倒的コミュ障で、しかもめちゃくちゃ目立つ燃える髪をした陰キャが単身乗り込んでいくんだから、絶望としか言いようがないだろう。オルトがいて良かった。
もうこうなれば極限まで存在感を薄めて壁に張り付くことしかできない。何人かコミュ強が「御機嫌よう」とか声をかけてきたが、御機嫌ようなんて返せるわけも無くぼそぼそした情けない声で「ア……ドモ……」としか言えなかった。もう嫌だ消えたい。
うつむいて消えたい、消えたいを呟いていると、不気味がって誰も近づいてこなくなった。よし、このままパーティー終了まで乗り切ってやる。社交パーティーの社交が表す意味なんて知ったこっちゃないとばかりに決め込んだイデアに、オルトが「兄さん」と声をかけた。
「な、何、オルト」
「あそこ」
つん、と袖を引かれて示された先。
ゆっくりとホールの扉が開いて、入ってきたのはジュピター財閥本家の面々だった。きゃあ、と会場が沸き立つのを、イデアは冷めた気持ちで見る。それがどうかしたの、とオルトに尋ねようとした、その時、兄たちの後ろについて歩く、一人の少女の姿に口を閉ざした。
ペルセフォネ。
「フォニーさんも来てたんだね」
「そりゃ来るでしょ……ジュピター財閥のパーティーだし」
ペルセフォネは他の兄弟姉妹たちがそうするように、父親に一礼をした後、誰かを探すようにきょろきょろと辺りを見渡していた。何探してるんだろ、とぼうっと眺めていると、ぱちりとその目が合う。
もしかして、とぎくりとした。いやいや、流石に自意識過剰すぎ。ふるふると首を振って視線を床に戻した。かつかつとヒールの足音が近づいてくるような気がするが気のせいだ。
「ペルセフォネ様、御機嫌よう」
「え、ええ、シレーナ、御機嫌よう」
「御機嫌よう、ペルセフォネ様。先日は僕の家のパーティーに来てくれてありがとうございました」
「ご、御機嫌よう、コスタス様。先日は素敵なお誘いありがとうございました」
「ペルセフォネ、御機嫌よう。この間のピアノ発表会、素晴らしかったわ」
「御機嫌よう、エラト姉様。お越しいただき光栄です」
ほら、とイデアはほっと息をつく。ペルセフォネが一歩踏み出す度に、御機嫌よう、御機嫌ようと声が飛び交う。彼女は自分と住む世界が違う陽キャ。何の間違いか今は婚約者になっているけれど、それもすぐ無くなる話だ、と。
だけど、足音はずっと近づいてきた。
「兄さん」
オルトがイデアの袖を引く。促されるまま顔を上げて、イデアはは、と息を呑んだ。
ペルセフォネがそこに立っている。上品な白のドレスを身に纏って、頬をわずかに紅潮させて。
あ、とイデアは口にしかけた。こんにちは、とか、どうも、とか、そんなことを言いかけたのかも知れない。
だけど、それが言葉にならなかったのは、ペルセフォネの後ろに見えた、たくさんの人の表情で、だった。
皆がイデアをじっと見ている。あのペルセフォネが直々に声をかけに行った男の顔を。ある人は疑わしそうな目で──こんな陰気くさい男にどうしてわざわざ声をかけにいくの?、と──ある人は嫌悪感を露にして──燃えた髪、あれはシュラウドの一族だ。呪われた一族がどうしてここに?、と──
そのすべてに、イデアは竦んだ。自分一人なら、あるいはオルトと二人なら、これまでそうしてきたように、あーはいはい、なんか言われてますわ、くらいで済んでいた。
だけど、今は。
「イデア、ご──」
「初めまして」
機先を制してイデアがそう口にすると、ペルセフォネもオルトも目を見開いた。
「イデア・シュラウドと申します。お噂は兼々伺っております、ぺ、ペルセフォネ様」
「兄さん……?」
頭を下げる。沈黙が広がった。ペルセフォネの顔を見るのが怖かった。だからずっと、頭を上げることができなかった。
やがて、彼女が口を開く。張り付いた唇が剥がれる音が、やけに大きく聞こえた。
「……初めまして、イデア・シュラウド様」
それが許しのように聞こえた。
「こちらも、お噂は兼々伺っております。魔導工学で優れた才能を発揮されているとか」
「……どう、も」
「そちらのヒューマノイドも、イデア様が作られたのですよね?」
「そうです。オルト、挨拶」
オルトは困惑したようにイデアとペルセフォネの顔を交互に見た。だが、二人の顔色が少しも変わらないのを見て何かを諦めたのか、「オルト・シュラウドです」と頭を下げる。おお、と周囲がどよめいた。
「一度、お話を伺ってみたかったんです」
ペルセフォネは笑顔を貼り付けたままイデアの顔をじっと見つめた。イデアは目を逸らして、「光栄です」と答える。
ペルセフォネは、どうして、とは聞かなかった。イデアを責めることもしなかった。ただ、粛々と、イデアの意を汲んで受け入れた。
それでも、あの時。うつむく前に見た、大きく見開かれたペルセフォネの瞳の色が、どうしても忘れられずにこびりついている。
ひどく傷ついた色をしていた。
*
「どうして、あの時兄さんに「初めまして」って言ったの?」
オルトがそう尋ねてきたのは、あの社交パーティーからしばらく経って、ペルセフォネが嘆きの島を訪れたときだった。
嘆きの島にペルセフォネが通うようになってからもう長く経つ。最近では、島の農場にも出入りするようになっていて、その片隅を借りて実験区画に改装しているような状態だった。その時は苺の水耕栽培をしていて、授粉作業の真っ只中だったように覚えている。
そのために試験的に開発した魔法を使いながら白い花の雌しべに花粉をつけながら、ペルセフォネは少し言葉に詰まった。
「その時は、それがいいと思ったから、かしら」
あの時、イデアの顔は強ばっていた。何を考えていたかなんて、完全ではないにしろ推し量ることはできる。自分が婚約者であると、周りに知られるのが嫌だったのだろう。イデアの性格は、決して短くはない交流の間でわかっている。目立つのが嫌いで、出不精の引きこもり。あそこでもし、イデアがペルセフォネの知己であると知られたなら、周囲はきっと騒いだだろうから。
「理解はしたよ」
「納得はしてない?」
「納得という行為が僕にはまだ少し難しいんだ。フォニーさんは兄さんの行動に納得している?」
ヒューマノイドの澄んだ瞳に見つめられて、ペルセフォネはまた言葉に窮した。
「しているわ」
きっとバイタルからそれが嘘だと、オルトに見抜くのは容易だっただろう。だけどオルトは何も言わなかった。「そっか」とだけ言って、ふわりと浮かんだかと思うとペルセフォネのすぐ側に着地する。
「僕もお手伝いしていい?」
「勿論。でも、意外と繊細なコントロールがいるのよ?」
「実はね、兄さんが精密作業用のアタッチメントを作りたいって言ってるんだ。だから、この通常ボディの限界を知っておきたくって」
「そういうことなら喜んで」
どのみち、魔法士のみで受粉作業をするのも効率が悪い。いつかオルトのようなヒューマノイドや、あるいは魔導機械にアシストしてもらったほうがいいだろう。ペルセフォネは微笑んで、オルトに試作魔法を簡単に教えた。途中からはオルトの方が器用に受粉作業をこなし出して、やっぱりすごい人、と苦笑する。
職員が顔を出したのは、ハウス一つ分の受粉作業がすべて終わった頃だった。「ペルセフォネ様、そろそろご帰宅の時間です」と言うと、オルトがええーっ、と声を上げる。
「またすぐに来るわ。それまでオルト、苺の様子を見ていてくれる?」
「うん。フォニーさんにもらったマニュアルの通りに育てるね」
約束、と拳をぶつけ合って、ペルセフォネは土のついた手を白衣で払った。職員が促すまま、ハウスの外に出て、そこで小さく息を呑む。
青く、燃える髪の持主が、珍しく農場の入り口にたたずんでいたからだ。
「あ、あの……」
何かを言いかけては口ごもる、その姿にペルセフォネは少し迷って、やがてゆるりと微笑んだ。
「オルトなら、私のハウスにいると思うわ」
「……そ、そう」
「オルトったらすごいのよ。私が開発した人工授粉用の魔法をすぐに覚えちゃって、もう私よりもコントロールが上手いの。データ、たくさん採ってたみたいだから、上手く使ってあげて」
「あ、精密作業用アタッチメント作るって話、したのか……うん、ありがと」
「……それじゃあ、私、行くから」
また、と言っていいのかわからずに、結局それだけを言って立ち去ろうとした、その時。
「フ、フォニー」
呼ばれて立ち止まり、振り返る。イデアが物言いたげに立っている。何度か口を開けては、閉ざして、そして結局「なんでもない」と首を振って、ハウスの方へと走って行った。
ペルセフォネは、フォニーは、目を細めてその後ろ姿を見送って、ひとつ、小さく息を吐いた。
嘆きの島から英雄の国に戻る飛行機の前には、ジュピター財閥お抱えの護衛が待機していた。飛行機の中には使用人たちもいて、ペルセフォネは「ただいま戻りました」と短く会釈をする。
「出発してください」声をかけると魔導エンジンがかかる音がする。シートベルトを締めている間にも、使用人たちは恭しくペルセフォネの世話を焼いた。泥のついた白衣を預かり、乱れた髪を整えて。
「ペルセフォネ様、滞在中、アレス様から映像メッセージを預かっております」
「……アレス兄様から?」
「はい。スマートフォンに転送しておきましたので、ご確認を」
わざわざ使用人を介して届けるなんて、私信ではなさそうだ。もっとも、とペルセフォネは片目を眇める。
正妻であるヘラの長男、アレスが、庶子であるペルセフォネに私信を送ってくるなんてまず無いことなのだが。
イヤホンを耳につけ、再生ボタンを押すと、かっちりとしたスーツを着込んで、厳めしい顔をしている。口から尋ねられるのは、こちらが「元気です」と返すことしか想定していないような「元気にしているか」という問いや、当たり障りの無い言葉ばかり。
そして決まって最後はこう終わる。
「フォニー、庶子であれお前はジュピター財閥の一員だ。己の務めを果たすように」
それだけ。ぷつりと終わったメッセージをフリックで閉じて、目を瞑る。無音のイヤホン越しに、使用人たちのささやき声が聞こえてくる。
「またペルセフォネ様、農場に出入りなさったみたい」
「流石、魔法農学博士の娘よね。才覚がお有りなのよ」
「でも、大丈夫なのかしら。この間のパーティーも、婚約者の方に「初めまして」って言われたそうよ。交流しなさすぎて忘れられてたりして」
「せっかくシュラウド家っていう『もらい手』が見つかったのに? ……まあ、新興企業に『もらい手』なんて山ほど居るでしょうけど……」
「どうかしら。デメテル様ってそもそも代表と折り合いが悪いじゃない? あんまり積極的に欲しがる人もいないんじゃないかしら……」
強く、強く目を瞑る。
所謂ショットガンマリッジで生まれたジュピター財閥の末子。他の兄弟に比べて、コネクションとしても有用性の薄いジュピター財閥のフォニー。
大丈夫、自分の立場なんてわかっている。膝の上に置いた手をくっと握ると、思い出されるのは嘆きの島のあの兄弟のことだ。
──兄さんはすごいんだよ!
──兄ちゃんに任せとけ。
人間とヒューマノイド、血なんて繋がりようもないのに、深い絆で結ばれたシュラウドの兄弟。
美しいな、と思った。遠くに感じるその輝きを、なくさないように胸の中にしまい込んで。
──フ、フォニー。
あのとき、何て言ってくれようとしていたんだろう。そんなことを考えていると、意識がずん、と重くなって。目を瞑ったまま眠りの中に引き込まれていった。