サニーサイドアップ 西尾暉には、目下気になっている人が二人いる。
一人は言わずもがな、遠見真矢先輩だ。暉の所属するクレー射撃部のOGで、今は大学近くで作業療法士として活躍している。暉のバイト先である洋食店『楽園』のお得意様で、近くに来るたびに顔を出してくれる。──もっとも、それ目当てでここのバイトに志願したのだが。「あたしのよく行く友達のお店が、人手が足りなくて困ってるらしくて」と、小耳に挟んでしまったのだから仕方ない。なんでも、学生時代に彼女もまたここでバイトをしていたらしい。その理由が、現在の店主である一騎と彼女が中学の同級生で友人だったから、と聞いたときは若干ショックだったが、それはそれ、いつか一騎を追いこしてやると修行の日々である。
そしてもう一人。真矢と同じく『楽園』の常連客であり、一騎のおそらく友人であろう男について、真矢とは全く違う意味で、猛烈に気になっているのである。
『楽園』の営業時間は、ランチとディナーの二つに分かれている。ランチは十一時から二時まで。ディナーは六時から九時までだ。営業時間終了の三十分前がラストオーダーで、その時間がすぎると店の看板はクローズドにかけかわる。そうなると、基本的に客は入ってこなくなる。まあ常識的に考えて。
だけどその人は、その「看板がクローズドになっている時間」に、基本的にやってくるのだ。
夜の八時四十五分。最後のディナー客を見送り、食器類を下げると、一騎が「早いけどもう上がるか?」と聞いてきた。
「明日ゼミ発表なんだろ?」
「嫌なこと思い出させないでくださいよ……」
「悪い悪い」
くしゃっと笑う一騎に、暉は唇をとんがらせた。発表原稿は出来ているし、一騎に心配されるほどピンチというわけでもない。だが、確かに若干手直ししたいところがないわけでもない。ここは素直に帰っておくかとエプロンを外した。
同時に、からんからん、とドアベルが鳴る。もしかして、と振り返ると、そこには案の定例の人がいた。
「いらっしゃい」
「……タイミングが悪かったか」
明らかにしまったという顔をしているが、本当にしまったと思うのならちゃんと看板と時計を見てきてから入ってほしい。暉は嘆息しつつ「いらっしゃいませ、総士先輩」と声をかけた。迎えられた総士は間の悪さを誤魔化すように眼鏡のブリッジを指で上げる。
「いいよ暉、上がって。後は俺がやるから」
「すみません」
「発表、がんばれよ」
促されるまま、暉は総士に会釈をしてスタッフルームに引っ込んだ。「発表?」遠くで総士の声が聞こえる。「ゼミの発表なんだってさ」「そうか、もう四年か」「院? には行くらしいけど」「工学部といっていたからな」ぽんぽんと続く会話は、一騎が総士を追い出す気がさらさらないことを示している。制服を脱ぎながら、暉は再度、深々とため息をついた。
その人の名を、皆城総士という。地元住民、学生、はたまた大学教員から深い寵愛を受けているちっぽけな洋食店『楽園』の中でも、かなり特別な常連客だ。今まで多くのお客さんを見てきたが、営業時間外に平然と来店するのは彼くらいだ。他の客だと、一騎はやんわりと営業時間が終了していることを告げる。つまり、総士だけの特権なのだ。
その理由を、一騎は「総士の生活リズムは大分特殊だから」と説明した。以前に一度だけもらった名刺には、暉の通う大学の名前と、大学院医学研究科博士課程の文字と、小難しくて記憶にすら留められなかった専攻がずらずらと並んでいた。要するに総士の生活リズムは、何時何分何秒とかいう人間の都合ではなくて、培養される細胞や実験にかかる時間に左右されているのだ。比重としては、そのあと付け加えられた「それに、総士あんまり人が多いところ好きじゃないからさ」の方が大きいような気もするが。
でも、たとえ総士の時間が、人間には如何ともしがたいような都合で回っていたとしても、それに合わせて店も回る必要はないだろうに。結局一騎が相当総士に甘いのだ。
着替え終わって鞄を持ち、店から出る前にちらっとホールの方を見た。一騎は手早く何かを作っていて、総士はタブレットで何かを読んでいる。「お先に失礼しまーす」と控えめに声をかけると、そろって顔がこっちを向いた。
「ああ、お疲れ様」
「気をつけてな」
一騎も総士も柔らかく笑うものだから、なんだかむずむずして暉は適当に会釈を返し勝手口に向かった。店の前にとめておいた自転車にまたがり、夜の道を走り出す。
一度だけ、前の店主である溝口に「いいんですか、あれ」と聞いたことがある。溝口は肩をすくめて「一騎がそうしたいって言うんなら、まあいいんじゃねえの」と返すばかりだった。同じことを真矢にも聞いた。「一騎くんだからねえ」と苦笑された。答えになってないじゃないか。
正直、シリコン半導体の技術開発なんかよりも今は真壁一騎と皆城総士の関係のほうがよっぽど気になっていた。こういう詮索は、自分よりも双子の里奈の方が得意なはずなのだが。
翌朝、暉は昨日のんびりと帰った道を自転車で爆走していた。鞄の中に入っているはずのアレがないのだ。
──発表原稿、『楽園』に忘れた!
休憩中に控室で読んでいたことが徒となった。プレゼンスライドの手入れは終わったが、原稿なんて頭の中に全部入ってるわけがない。ゼミは三限で、時間があることはあるが、不幸なことに二限はばっちり入っている。そして暉のラボは、コアタイムが九時から始まる。それまでに何とかして『楽園』から発表原稿を回収せねばならないのだ。
『楽園』の営業開始は十一時からだが、一騎が店の二階に住んでいることは知っている。店が開いてなくても、裏口のチャイムを鳴らせばきっと出てくれるはずだ。無論、起きていればの話だが、そこはもう祈るしかない。甲高い音を立てながら暉は自転車を店の前につける。騒がしくスタンドを立ててもどかしく鍵をかけて、店の方をあおいで、はて、と目を丸めた。
店舗部分の灯りがついている。
『楽園』はモーニング営業なんてやっていないし、看板はやっぱりクローズドのままだ。もしかして、一騎がもう店に入って仕込みをしているのか。早くないか? と腕時計を見る。まだ朝の七時なのに。
でも、起きていてくれているなら好都合だと暉はリュックを背負って店の前に立つ。ごんごんとドアをノックすると、中にいる人の気配がわずかに動いた。同時にドアが揺れる。
鍵がかかってない?
「すみません、一騎せんぱ──」
い、と続かなかったのには訳がある。
『楽園』にいた人影はひとつではなかった。一人は、キッチンで鉄鍋を振るい、もう一人はカウンター席に座っている。片方は言わずもがな真壁一騎で、もう一人は皆城総士だった。
絶句する暉に、一騎がひとつ瞬く。
「ええと……いらっしゃい?」
「おはよう、ございます……?」
総士がゆるゆるとこちらを見た。太陽光を眩しそうに浴びながら、眉間にしわを寄せている顔は明らかに「まだ眠いです」と語っている。そして何よりも問題はその格好だった。
いつもはジャケットやシャツなど、きっちりした服装をしている総士が、ゆったりとした部屋着を着ているのだ。
「どうかしたのか?」
一騎に声をかけられてはっと目を見開く。そうだ、こんなことをしている場合じゃない。
「あの、スタッフルームに忘れ物して」
「忘れ物?」
「今日の発表原稿です!」
ばたばたと暉は店の中に入る。スタッフルームに転がり込んで、自分のロッカーを開けると、すみっこの方にファイルに入った原稿が落ちていた。ほっと息を吐いてリュックサックの中に仕舞うと、入口の方から「あったか?」と声をかけられる。
「ありました。すみません、お騒がせして」
「いいよ。俺の方こそ、ちゃんと昨日スタッフルーム確認すればよかったな」
「……えっと」
暉の視線はそこでうろうろとさまよった。顔だけ出していた一騎はきょとんとして、それからじわりと苦笑する。
「朝からバタバタだっただろ。朝飯食ってくか?」
「……いいんですか?」
「二人分作るのも三人分作るのも変わらないよ」
その返事は、暉の予想を実質的に肯定していた。つまり、皆城総士はここで朝ご飯を食べているのだ。
カウンター席に戻ると、総士は先ほどよりかはしゃっきりした顔をしていた。だけど格好はやっぱり部屋着のままで、容赦なく差し込んでくる太陽光に恨めしそうにしている。大昔絵本で読んだ吸血鬼みたいだと思った。
「機嫌が悪いわけじゃないんだよ。朝に弱いだけで」
「……一騎、やはり採光窓にカーテンをつけるべきだと思うんだが」
「ダメ。日光浴びるのが体内時計のリセットに良いって言ってたの総士だろ」
「む……」
眉間の皺を指でもみほぐしながら総士は更に難しい顔をした。「昨日遅くまで起きてたお前が悪い」と一騎はにべもない。その会話の端々から何となく察しがついていたが、暉は確認のために勇気を振り絞って尋ねた。
「あの、一緒に住んでるんですか?」
「ああ、うん」
「……いつから?」
「いつからだっけ」
「僕は学部の五年だった」
「なら六年くらいになるのかな」
六年。暉は思わず素っ頓狂な声で復唱した。暉がここで働き始めてもうすぐ三年になる。その前から、総士はここに住んでいたことになるのか。そりゃあ営業時間終了ギリギリに来店しても一騎が迎えるはずだった。だってここは総士の家でもあるんだから。
「なん、なんで一緒に住んでるんです?」
「その方が都合がいいからかな」
「都合って何の都合ですか」
「総士のラボ、こっから自転車で五分もないし、いつも飯ここで食べてるのにわざわざ下宿まで帰るの大変だろ?」
「そんな理由ですか!?」
思わず食いついた暉に、一騎は何か変だろうかと言わんばかりの反応でこっくり頷く。「なあ、総士?」と同意を求めた先の男は、どちらかというと感覚は暉寄りでいてくれたようだ。先ほどよりも頭が痛そうにしながら「おおむね間違っていないが、暉が驚く理由は理解しろ」と言葉を濁した。
「普通、それだけの理由で常連客を店に住まわせたりはしない」
「総士がちゃんと飯食ってるか確認できるっていうのもある」
「……普通、店主は常連客の食事管理をしようとしない」
「常連客っていうか、友達だし」
いや友達でもその行為は十分特殊だと思う。気まずくコーヒーを飲み、二度、三度、言葉に迷ってから、ええいままよとぎゅっと目をつぶった。
「友達、なんですか」
「ん?」
「ただの、友達なんですか」
一騎と総士がぽかあんと顔を見合わせた。「えっと、別に偏見があるとかそういうわけじゃなくて、先輩方、その、あんまりにも仲がいいから」誤魔化すように早口でまくしたてながら、何を聞いてるんだ自分はと冷たい汗が背中に流れる。やっぱり聞いちゃまずいことだったか。でもどうしても気になるのだ。
恐る恐る二人の顔を窺うと、総士も一騎も思っていたよりも穏やかな顔をしていた。
「友達だよ」
「つ、つきあってたり、とか」
「一般的な友人関係と比較して、多少距離が近すぎる自覚はあるが、お前が想像しているような交際はしていないな」
「おかしいのか?」
「おかしい。そこは自覚しろ」
ううん、と一騎は顎を擦って首を捻った。「いやおかしいですよ」思わず本音が口から出る。
「だが悪いとは言っていない」
さらりと総士が言って、「そっか。ならいいか」と一騎は微笑んだ。
やがて、ことんと目の前に皿が置かれる。「そんなに量はないんだけどな」と前置きつつ出された朝食は、半熟の目玉焼きとサラダに、カリカリに焼かれたトーストだった。
真壁一騎はよく「おおらかな性格をしている」と評されてきた。瀬戸内海に浮かぶ小島でのびのび育ったおかげなのか、それとも元来の性格なのかはわからないけれど、確かに細かいことにはこだわらないなと自分でも思う。多少閉店時間が後ろにずれ込んでもまあしょうがないかで済ませるし、メニュー外の注文でもよほど面倒な客でなければ受けてしまうし。かつて友人に、「一騎くんってたいていの問題は「困ったな」からの「まあいいか」のコンボですませちゃうよね」と苦笑されたときはそんなことはないだろうと言ったが、自分のこれまでの行いを振り返るとおおよそその通りだった。
そしてその「困ったな」からの「まあいいか」のコンボでどうにかなってしまった例の最たるものが、皆城総士との関係と言えるだろう。割と最近のことのようにも、大昔のことのようにも感じる出来事だが、総士は「六年前」と言ったので、意外と、なのだ。
一騎が初めて総士をうちにあげたのは、その六年前──総士がまだ学生で、臨床実習が始まったばかりの春の頃だった。
その頃には既に皆城総士は『楽園』に通い詰めていた。クラシック音楽とコーヒーを好む総士にとって、アンティークな外観で常にクラシック音楽が静かに流れている『楽園』は趣味のど真ん中だったのだろう。学部一年の頃からちょくちょく顔を見せるようになり、いつの間にかほぼ毎晩になっていた。さらに、学部四年になってから総士が配属されたラボは、先代の溝口が店主だった頃からのお得意様である日野研だった。そういうこともあって、単なる店主と常連客というだけでなく、気心の知れた友人という立場にはいたと思う。
だからちょっとほっとけなかったのだ。
*
「総士。そーぉし」
「……ん」
「閉店時間だぞ……?」
と、控えめに肩を揺すってみても総士はテーブルに突っ伏したまま動かない。閉店時間だと言ったが、時計はとっくにその一時間後を指していて、店の閉店作業も全て終わっていた。あとは総士を店から送り出せば一騎も上がりだ。なのにその総士が起きそうにない。
五年生になった総士は目に見えて疲れていた。今日もあんまりにも眠そうな顔をしていたから、見るに見かねて一騎が店の奥に通したのだ。ここでなら居眠りくらいしても目立たないからと。
総士も食後五分くらいうとうとするだけのつもりだったのだろう。だが、彼の意志に反してこれはガチ寝だ。
「どうするかなあ」
ぼそりと呟くも特に名案があるわけでもない。脳裏に蘇っていたのは、ここで働くことになったときに、溝口にかけられた言葉だった。
大学というのは、とても大変なものなのだと。
そりゃあ楽しく遊んでるやつらもいるにはいるが、研究室にこもって毎日難しいことをやったりしているやつも大勢いる。成果が出なくて焦ったり、失敗をして落ち込んだり、それでも一生懸命頑張っている人たちが、ほんの一時、ほっとできるような料理を振る舞ってやってほしい、と。
総士のいる医学部というところを一騎はよく知らない。普通の大学は四年で終わるのに、医学部は六年かかるらしい。以前、剣司と総士が何かを話していたが、一騎には一パーセントも理解できなかった。
何やら実習というものも始まったらしく、一騎には想像もつかないくらい大変な生活をしているらしい総士。労ってやりたいのは山々だが、ベッドで寝ないことには疲れもとれないだろうし。もう一度、今度は強めに揺すると、ようやくうっすらと目が開いた。
「総士? 起きられるか?」
「……むりだ」
「そこを何とか。帰らなきゃ疲れもとれないぞ」
「わかっている……五秒、いや十秒……」
と言いながらも総士はもぞもぞと丸くなってしまう。人の目のあるところでは極力だらけた姿を見せない総士がここまで芋虫になるとは、よっぽど疲れているんだろうなと一騎は少し気の毒になった。小さく「かえりたくない……」とも聞こえる。
もういっそ、総士をこのまま寝かせてやれたらどれだけいいだろうか。そんなことを思いながらみたび肩に手を掛けようとして、はたと手を止めた。
このまま寝かせてやればいいんじゃないか? と。
「総士」
「……わかってる、一騎」
「ちょっとごめんな」
肩に腕を回して「よいしょ」と気合を入れる。テーブルの奥から総士をひっぱりだし、というか引きずり出せば、流石に目が覚めたのか総士は目をしぱしぱと瞬かせた。それを無視して膝の下に腕を差し入れ、肘の窪みにひっかける。
「おい、お前まさか!」
「起きたなら首に腕かけてくれないか。ちょっと自信なくてさ」
「なんの自信だ!」
と、吼えつつも総士は大人しく腕を一騎の首に回した。せーの、と小さく弾みをつけて持ち上げる。これでも体力はあるのだ。学校の体育の成績で五以下はとったことないし。総士は細いしまあ大丈夫だろうと思っていたが、予想よりは少し重くて微妙にふらついた。総士が小さく悲鳴を上げる。
「な、にをして」
「このままじゃいつまで経っても帰れないだろ」
「いい! 自分で歩く!」
「遠慮するなって。疲れてるみたいだし」
「歩けないほどでは──おい、どこに行くつもりだ」
「え?」
一騎が足でドアを開けると総士は明らかに狼狽えた。なにか変なことをしただろうかと首をかしげると、「外の扉はあっちだろう」と総士が一騎の後ろを指さす。
「だって総士、帰りたくないんだろ」
「な」
「いいよ。帰らなくて。うち泊まってけば」
階段に足をかけるときにぐらついた。一騎の首に総士の腕がさらに強めに絡み付く。というかもはやしがみついていた。「かず、な、え?」と言葉になっていない総士をひとまず二階に運搬して、靴を脱ぎ捨てて寝室に向かう。先代が使っていたまま残してあるから、同年代の一人暮らしよりも家具は揃っている方だ。
「かず……一騎! おい!」
「荷物は後で持ってくるから」
「そうじゃない! 僕の話を聞け!」
「聞いたよ。眠くて動けないんだろ」
何を暴れることがあるんだろう。寝室のドアをまた足で開けて、ディナー営業前に敷いておいた布団の前に立つ。「足、ちょっと上げといて」と一言添えてから総士をそっと下ろした。下ろすというか、もはや置いていた。
紐を解いて靴を脱がせた。布団の上に土が落ちないように慎重に。「冗談だろう」総士が呻いた。何が冗談なのか分からない。
二足とも脱がし終わると、靴底を上にしてまとめて持った。総士はなぜか心底恥ずかしそうな顔をしていて、やっぱりこういうの、しっかりしてる人にとっちゃ恥ずかしいのかなと一騎はやや反省した。次からはもうちょっとゆっくり事をすすめよう。
「ね……寝る、のか?」
「寝るだろ」
「…………」
総士は唇を真一文字に引き結んで、何か言いたげな目をこちらに向ける。さっきから何が言いたいのかさっぱりだった。やっぱり疲れてるのかもしれない。
やがて、何やら腹を括った顔で「わかった」とひとつ頷かれた。わかってもらえて何よりだ。一騎はほっとして微笑む。
「じゃ、俺は荷物取ってくるから、総士は寝てろよ」
「──は?」
「いや、は? じゃないだろ」
総士は先程の覚悟を決めた表情から一転、鳩が豆鉄砲をくったような顔をした。なんだよ、眠いんじゃなかったのか? 一騎が眉間に皺を寄せると、総士が何かを察したようで、深く、それはもうふかあああくため息をつかれた。なんだっていうんだ。
靴を玄関に揃えて置いて、荷物を持って上がり、寝室に顔を出すと総士は眠そうに目をしょぼつかせながらも一応は起きていた。「寝てていいのに」と呟くと「そういうわけにもいかない」と固い声が返ってくる。
「疲れてるんだろ。無理しなくていい」
「だが、お前の迷惑になるだろう」
「迷惑じゃないよ、別に」
たかだか一人、家に泊めるだけだ。これが五人や六人なら流石に困ってしまうけど。
「明日も早いのか?」
「……病院実習だからな。朝八時に集合だ」
「俺、六時半にいつも起きるんだけど、それで間に合いそうか?」
「十分だ。すまない」
「だからいいって。大変なんだなあ」
病院実習とかいうのが何をするのか分からないが、『楽園』で働いている学生バイトが一限は八時四十五分からだと言っていたから、それより前には行っておかなくちゃいけないのだろう。
「実際に患者の前に立つこともある。カンファ……会議にも参加しなければならないし」
「実際にお医者さんするってことか」
「見学がメインだがな」
「ほんとに大変なんだな……」
そりゃああんなにくたびれるだろう。「スウェットならあるし、風呂なら明日の朝に入れるように沸かしとくからさ」と言うと、「沸かす……」と未知の文化に触れるように復唱された。話を聞けば、実習が始まって以来、数分程度のシャワーで済ませるのが常態化しているという。
「お前といると、自分が一人の人間として生きていることを思い出す」
「大袈裟だなあ」
「大袈裟じゃない。食事にしたってそうだ。エナジードリンクやバランス栄養バーで済ませる奴も大勢いる」
医学部は医者を育てるところなのに、早速不養生を教え込んでいていいのだろうか? 他人の健康を気にする前に自分の健康を気にしろよ。本心は口に出ていたのか、総士は「全くだな」と苦笑する。
「いいからさ、いつでも来いよ」
「……いや」
「迷惑とかじゃなくて、俺がそうしたいんだよ」
別に総士を頷かせるための方便でもなんでもなくて、本心からの言葉だった。
困ったように視線を彷徨わせた総士は、やがて「考えておく」と微苦笑した。たぶんこの場を切り抜けるための方便だなとは思ったが、その時は、ただ総士が考えておいてくれるだけでも十分に嬉しかった。
それから総士が再び一騎の家に上がるまで、さほどの時間はかからなかった。そのスパンがだんだん短くなり、いつのまにか一騎の家には総士の着替えが常備されるようになった。正式に総士の住所が『楽園』の二階になるまでにはもうひと騒動あったのだが──それはまた別の話。