膝丸くんとそれから。チョコレート・アソート、マロングラッセ
クリスマスとバレンタインは一年の内で表情が無になる行事トップツーだ。いや、超個人的に、が頭につくけれどね。
別にリア充爆発しろだとかメリークルシミマスだとかハッピーブラッディバレンタインだとかそういうことは考えていない。リア充だろうがなんだろうが大切なお客様には変わりない。いつも通り心を込めて誠心誠意お菓子を作らせていただくまでのことだ。
そう、たとえ自分に恋人がいようがいなかろうが、誠心誠意、心を込めてお菓子を作らせていただくまでのことだ。
「つっても、恋人いるんなら勝ち組だろ」
「人っていうか、神様なんですけどね」
「それでもいるだけいいじゃんか。俺なんか彼女いないのにハートまみれの店内でハート型のチョコ作り倒すんだぞ……」
「それは……ご愁傷さまです」
バレンタインを前日に控えた閉店後の厨房で、明日のチョコレートの仕込みを済ませながら、涙目になっている先輩に私は乾いた笑いを漏らした。
「まさか刀剣男士様の間でもバレンタインやるとは思ってませんでしたねぇ」
「今年はようやくこの苦行から解放されると思ってたんだがなぁ……」
「そうですね……」
私がここに来る前に勤めていたのは、京都のブランド洋菓子店。バレンタイン前になると、可愛らしいお嬢さん方が本命チョコとおぼしきお菓子を買っていくのを見て、癒されると同時にわが身を振り返り虚しくなったものだ。
まあ確かに、先輩の言う通り、今年は……今年は、うん、確かにあげる予定の方はいるんだけど、ねぇ……
「いつ渡せるんですかね、これ」
「あー……まあ、頑張れ」
びっしりと名前で埋まった予約リストと、当日厨房に入る人員を計算しながら、なんて膝丸くんに言い訳をするか、足りない頭で必死に考えていた。
うん、どう考えても会う時間は取れそうにないし、渡す時間も取れそうにない。かわいい女の子が意中の人や刀剣男士様に渡すためのチョコレートを買っていくというのに、私は恋人に渡せないという事実に毎度のことながら嘆息した。いや、仕方ないんだけどね。うん……最近膝丸くんが忙しかったから、バレンタインをきっかけに顔だけでも見られないかな、とか期待してなかったわけじゃないけど。
バレンタイン。恋人のための日とはいうものの、その範疇に、どうやら私は含まれていないようだった。
*
今日はバレンタインだね、と、冷やかし半分に声をかけられるたびに、膝丸は渋い顔を返してきた。何故なら事前にこのようなメールが送られてきているからだ。
『多分猛烈に忙しくなるので、チョコは当日に渡せなさそうです。ごめんね……』
いや、当然だ。本来チョコレートなどもらえることが稀有。当日に渡せない、ということは後日に渡してもらえるということだろうし、そもそも無理を強いてはいけない。最近はバレンタイン商戦で忙しくしており、またこちらもなかなか時間を作れずにいる中、もしかしたらバレンタインをきっかけに会えないかなどそんなことは全く考えていないのだ。本当だぞ? 誰に言うでもなく、脳内で膝丸はそうまくしたてる。
「おーい、お膝ァ、聞いてる?」
「なッ、なんだ? 主?」
思わず飛び出た上ずった声に、主君の隣に控えていた鶴丸が吹き出した。審神者にじっとり睨まれて慌てて口を抑えてはいるが、目が笑っているのを隠せていない。顔を赤くして視線を鋭くした膝丸が、一つ咳払いをして審神者に向き直った。
場所は執務室。出陣続きだったのを配慮してか、或いは別のことを配慮してか、今日一日膝丸には何の予定も入っていない。
「悪ぃんだけどさ、城下までちょっと頼まれてほしいんだわ」
「頼まれる……?」
「正式書類用の鳥の子紙と墨汁がもうすぐ切れそうだから、万屋までひとっ走りしてほしいんだよ。あー、別に、急ぎじゃないぞ? 急ぎじゃないから。だけど、まあ、時間があるときに買っといた方がいいよな、と思って」
「それはそうだな。頼まれた」
ぶふっと奇妙な音がしたので、音の方を見れば鶴丸が顔を真っ赤にして肩を震わせている。何かおかしかっただろうか、と首を傾げれば、鶴丸はヒッヒッとひきつったような声を上げながらぶんぶんと首を横に振った。
相変わらず奇天烈なやつだ。膝丸が眉を寄せながら立ち上がる。邪魔をした、と一礼して執務室から出た後数秒して、ばたんと何かが畳の上に倒れ込む音と、パシィンという甲高い平手の音が聞こえたが、まぁいつもの喧嘩だろうと特に気にも留めなかった。
それよりも頼まれたものだ。万屋の場所は何度も向かったから知っている。部屋に一度戻って、今ではもうすっかり自分の一部だと感じられる佩緒ごと太刀を取り上げ、財布を手に取ってから外へ出た。
大手門から街へと下りれば、いつも以上に人が多いような気がする。刀剣男士ではなく人が、だ。普段はお付きをつけて下りて来ることが多い審神者だが、今日はお付きを連れない、所謂お忍びで来ている者が多いように見えた。
その大半が女子で、さらに向かう先は一方向。ちら、と視線をやれば、何度も通った屋根が見える。
そしてぎょっと目をむいた。
「なんだあれは……」
入り口まで溢れかえらんばかりの人だかりである。思わずそのまま店の前まで行けば、いつもならそこから見えるはずの厨房すら人の頭で見えない。店の前では、待たされているのか入るのを諦めたのか、所在なさげに佇む刀剣男士達がいた。
「君も主を待ってるの?」
呆然と立ちすくんでいる膝丸に、店の壁にもたれかかっていた燭台切が声をかけた。いや、俺は、と言葉を濁せば、金の瞳がぱちぱちと瞬く。
「じゃあお使い? どちらにせよ、災難だね。今日はずっとこんな感じだと思うよ」
「それほど恐ろしい行事なのか、ばれんたいんというのは」
「この城下でチョコレートを扱っているのはこの店か、通販くらいのものだから、混むのは仕方ないけれど、確かにちょっと異常だよね」
「だが、その、情人にちょこを贈る行事ではないのか?」
「うーん、最近は大切な人にチョコを贈る、友チョコってのも増えてきててね?」
友ちょこ、と膝丸は復唱した。大切な人など審神者にとってはごまんといるだろう。うぬぼれでなければ刀剣男士全員がその中に入るだろうし、となるとお客一人当たり五十ほどのチョコレートを作らねばならない計算になる。
ぞっとしない数だ。こわごわと厨房の方を向くが、やはり人の波にかき消されて想い人の姿は見えなかった。
その中に、ちらほら男の姿を見つけて膝丸は首を傾げる。
「男子も贈るのか?」
「男の人から女の人に贈る、逆チョコっていうのも流行っているみたいだね」
「なんでもありなのか?」
「おいしければいいんじゃないかな」
それはそれでどうなんだろう。少し考えたが、神道である審神者を奉ずる審神者が耶蘇のバレンタインを祝っている時点で今更かと思い直す。
しかし、逆ちょこ、と膝丸は口内で音を転がした。
彼女と知り合うまではとんと経験がなかった菓子作りだが、何度か本丸に招いている間に、簡単なものならば膝丸だけでも作ることができるようになった。そのほとんどは大体本丸の連中の胃の中なのだが、そういえば彼女に菓子を贈ったことはない。
バレンタイン、逆チョコ。この様子だと膝丸にチョコレートを用意する暇もないだろう。もしかすると、いつぞやのように食事もままならない状態かもしれない。
「あ、主が出てきた。ごめんね、世間話に付き合ってもらっちゃって」
「いや、こちらこそ礼を言う。良い話が聞けた」
「そう? ならよかったよ。それじゃあね。君もチョコがもらえますように」
佩緒を指さしてから、ひらりと手を振って去っていった伊達男に、膝丸はほんのり頬を染めた。やはりこういう扱いは慣れない。
さて。一度顔をペしりと叩いて足を万屋の方に向ける。まずは主からの頼まれごと。それからでも十二分に時間はあるだろう、と。
*
膝丸様いらっしゃってたわよ、という店長の呑気な一報を聞いたのは、一周まわって快感になってきたチョコレートの香りとの死闘を終えた閉店後だった。
ぷえっ!? という裏返った声に爆笑する先輩方を睨んで、いつのことかと聞けばお昼前。一番忙しかった時だと顔を青くする。
「お店の前で、燭台切様と少しお話をなさってからすぐにお帰りになっていたから、気付かなくても仕方ないとは思うけれど……」
それって店の外まで行列が出来て、整理券導入について考えながらガナッシュ丸めてた時だ。いや分からないわけだよ、と頭を振りながら、それでも折角来てくれたのに気付けなくて申し訳ないな、という思いもある。一応ラッピングしてから持ってきて、冷蔵庫の中で眠らせてあるチョコレートも渡せなかった。
重たい息を吐きながら着替えて店の外に出ると、もうすっかり日が暮れていた。次はいつ会えるだろう。最近は新しい地域に遡行軍の進行があったとかで、膝丸くん結構出陣してるみたいだし、下手したら来月とかもあり得るかもしれない。そうなるとこのチョコレートは私が消費することになる。
好きなひとのために作ったチョコレートを、自分で食べることほど虚しいことはない。今回は出なかったけれど、例えるなら現世で働いていた頃に、売れ残りの商品を買い取って食べたときの悲しさに似てる。いや、それよりもショックだろうなぁ。
息を吐けば真っ白で、消えていく向こうに、目いっぱいおしゃれした審神者様が刀剣男士様と歩いていくのが見えた。こいびと、なのかな。
「私も審神者だったらなぁ……」
声に出してから、審神者だったらこうしてお菓子を作ることもできなかったし、何より膝丸くんにも会えなかっただろうことを思い出して勢いよくその考えを打ち消した。
それでも、好きな誰かといつでも会えて、直接力になれる関係が、羨ましくないわけじゃない。
私がどれだけおいしいお菓子を作っても、膝丸くんの怪我は治らないし膝丸くんが強くなるわけじゃない。考え始めるとどんどん気持ちは落ち込んできて、自然下がった肩と視線のまま歩き出したところ、どんっと誰かに正面衝突した。
「すみません。前方不注意で──って……」
「大丈夫か?」
「膝丸くん!?」
どうした? と首を傾げた膝丸くんに、それはこっちの台詞だと思わず大きな声を出す。
「なんで!?」
「君を待っていた」
「いつからいたの!?」
「閉店時間からだが……」
「閉店からって……一時間以上経ってるじゃない!」
刀剣は寒さに弱いというのは、審神者じゃない私だって知っていることだ。慌ててチョコレートの入っている紙袋を置いて掌を包み込めば、芯から冷え切っていて泣きそうになる。蛇っぽい蛇っぽいとは思ってたけどもしかして変温動物かなんかなの? 風邪でも引いたらどうする気なんだろう。私みたいなただの人間よりもずっとずっと大事な体なのに。
「あああ体温戻らないしホントもう膝丸くんのバカ!」
「ば、バカ!?」
「バカでしょ! 今二月なんだよ!?」
幸運なことに雪国ではないけれど、大和の冬だって寒いのだ。膝丸くんの掌を私の掌でサンドして摩擦していれば、徐々にあったかくはなってきた。怒っていることを目で示すべく睨めば、膝丸くんも微妙に不機嫌そうな、でもちょっと嬉しそうな複雑な顔をしている。なんですか、私は結構怒ってるんですけど。
「いや、久方ぶりに会った第一声がバカだとは思わず」
「私だって怒ってるんだからこれくらい許してよ」
「……今日は随分と積極的だな、と」
その言葉にはたと気付いたが、確かに結構近い距離で、結構恥ずかしいことをやっている。一気に現状を認識して顔に血が上った。
「不可抗力です!」
そう叫ぶと、腹が立つくらいの綺麗な顔で「そういうことにしておこう」なんていうものだから、余計恥ずかしくて居た堪れなくなった。
「で、待ってたって……」
「ああ、そうだ。渡したいものがあってだな」
渡したいもの? 膝丸くんは肩から下げていた袋をごそごそと漁っている。私が渡すもの、じゃなくて、膝丸くんが渡したいものってなんだろう。
中から出てきたのは、薄緑色の和紙で包まれた、ちょうど片手に収まるくらいの箱だった。開けていいのかな。聞けば視線をふいっと逸らしながら膝丸くんが頷く。
きまりが悪くなったり気まずくなったら視線を逸らすのは膝丸くんの癖。一体何が入っているんだろう。萌葱の水引をほどいて手首に巻き付けておいて、箱を開けば、敷き詰められた薄様の上に細長い茶色の塊が行儀よく鎮座している。
鼻を動かせば、冬の澄み切った空気と一緒にオレンジの匂いが胸に満ちた。
「膝丸くん、これ……」
「なかなか君のようにはいかず……それでも見目のよいものを選んだのだ」
鼻頭から耳まで赤くした膝丸くんが、視線を逸らしたまま早口で言った。確かに見た目は不格好だ。チョコレートの湯煎だってきっと初めてだっただろうし、テンパリングなんて知らないだろうからブルームが起きている。
でも、私が作ったどのお菓子よりも、今まで見てきたどのお菓子よりも、ずっとずっととうといもの。
「オランジェットだ……」
私と膝丸くんのはじまりのお菓子。横を向いたままの頭が、照れ臭そうにこくんと上下した。
どんな顔をして、どんな風にして作ってくれたんだろうと思うと、それからどんなに優しくて甘い味がするんだろうと思うと、もうそれだけで嬉しくて、切なくて、幸せで、零れそうな溜息を押しとどめる。
「ちょこばかり作った後で、ちょこを渡すなど、いささか気遣いに欠けただろうか」
「ううん、そんなことないよ。嬉しいです。……すっごく。ありがとう」
本当に、不器用で、優しくて、温かい刀だ。ああ、好きだなぁ、と、出会ってから何度思ったか分からないことをまた思って、茶色い宝石を一つ摘まみ上げる。
そのまま口に運んで、舌にのせれば、少しざらついた感触の後にとろりとミルクチョコレートが解けた。歯を立てれば柑橘の爽やかな匂いと、オレンジピールのほろ苦い酸味がチョコレートの甘みと混ざり合う。一体となって喉を滑り、胃の腑に完全に落ちた後、吐息と一緒に言葉が自然にこぼれ出た。
「おいしい」
「そ、うか」
季節外れの桜が視界を遮る。
「そうか……!」
なんだか全部食べるのはもったいなくて、でも全部食べたい気持ちもある。もっと、もっと欲しい。あれだけチョコレートの匂いを嗅いで、味見もして、もう嫌ってくらいだったのに、不思議だ。白い薄様の上に、膝丸くんらしく几帳面に並べられたオランジェット達を目でなぞった。
「あ」
その中、うずもれるようにして、真ん中に鎮座する別の茶色の輝きがあった。あ、これ、もしかして。調べたのかな。この時期の栗は高いだろうに。そっと上目で窺うと、膝丸くんは桜を散らしたまま、まだそっぽを向いていた。
指摘して揶揄うのもいいけれど。迷った末に膝丸くんをここに立たせておくわけにはいかないと蓋を閉める。向こう一年分以上の元気をもらった気分だ。
そういえば、誰かからこうして手作りのお菓子を貰ったのっていつ以来だっけ。嬉しいなぁ、とほくほくしながら紙袋の中に仕舞いこんで、はっと気づく。
「では、また来る。体を冷やさんようにな」
「いやそれ私の台詞──じゃなくて! 膝丸くんこれ!」
本来渡すべきは私だ。勢いよく紙袋から、ラッピングした小箱を差し出して、大きな声を出したこととあまりにも勢いよくつきつけ過ぎたことにちょっと恥ずかしくなりながらもチョコを押し付ける。
膝丸くんが首を傾げた。
「チョコレート、です。いつも、ありがとうございます」
片言になりながらもなんとか伝えると、まさか今日もらえるとは思っていなかったのか、膝丸くんはぽかんと口を開けていた。あ、犬歯、なんて随分冷静な私が分析しているのに対して、テンパっている私は汗を流しながら早く受け取ってくれ、早く、と念じている。
「ありがたく受け取ろう」
ふわっと笑った膝丸くんのレアな表情に、私は微妙に固まりながら、ぎこちなく箱から手を離す。いつも生真面目な、ともすれば怖そうな顔をしているくせに、そういう、緩んだ顔をするのは本当に反則なので勘弁してほしい。というか、今の今まで忘れていたけど、ここ店の前だ。気付くとより恥ずかしくなって、足のあたりがそわそわする。ないと思うのに、どこかから視線を感じる気がして叫びたくなった。
「じゃ、じゃあ、膝丸くんも風邪ひかないうちに早く帰ってね。次はちゃんと相手できると思うから!」
「あ、君」
何か言いたげだったが、これ以上は私が限界だ。急いで紙袋を拾って脱兎のごとく走れば、それ以上追いかけられることもなかった。膝丸くんが本気で走ったら私なんて二秒もかからず抜かされてしまうから、今日のところは見逃してくれたのだと思う。
それにしても、あのオランジェット、おいしかったなぁ。まだ口の中がふわふわとしている。あの時、私が作ったオペラも、こんな味だったとしたらいいのになぁ、と、ふと思った。
*
部屋に戻ってきた弟は、なんだか締まりのない顔をしていた。てっきり今日はそのまま彼女の家に泊まってくるものかと思っていたが、どうしたのだろうと尋ねれば、「逃げられた」という短い返事。源氏の重宝で、太刀の中でも足が速い膝丸が、たった一人の女の子に逃げられるなんて、あまりにも容易に想像できて思わず笑った。
「チョコレートはもらえたのかい?」
「ああ」
「よかったねえ。頑張って失敗したオランジーナを食べたかいがあったよ」
「だから権利的に拙い間違いをせんでくれと言っているだろう兄者……」
膝丸は座布団の上に座り込んで、袋から大切そうに小箱を取り出した。リボンで丁寧にラッピングされたそれは、今まで彼が買ってきた洋菓子屋の包装とは全く違う。一目で、あの子から私的に贈られたものだと分かるそれを、じれったくなるくらい丁寧にひとつひとつ解いていく。
「わぁ、綺麗なチョコだねぇ」
覗き込んだ髭切が思わず感嘆の声を上げた。膝丸も唇の隙間からほう、と声を漏らす。小箱に詰められていた小さなチョコレートは、繊細な工芸品のようだった。
ハートの形をしたもの、トリュフと呼ばれる種類のもの。金箔で包まれたジャンドゥイオット。香り高いボンボン。中でも、艶やかな表面にホワイトチョコレートで葉脈を描いた、若葉を象ったものと、立方体に切り取られたオレンジにチョコレートを半分だけコーティングしたものは目を引いた。考えることは同じかと思うとむず痒くなる。
「あれ、これだけチョコレートじゃないけれど……」
髭切が指で示したのは、薄いフィルムで包まれた茶色い木の実だ。膝丸は数度瞬いて、じわじわと頬を染めていく。
「弟?」
「あ、あぁ、栗だな。まろんぐらっせ、というやつだ」
「へえ、この時期に栗が手に入るなんて凄いねぇ。でもどうして栗?」
しまった、と膝丸は口内を甘く噛んだ。あの時無反応だったから、知らぬものだと思い、ほっとしていたが、しっかり伝わっているじゃないか。
出来心でやらかした、と思う反面、考えることが似てきた嬉しさもあり、悶々としているうちに髭切の細い指が伸びてきて慌てて箱を天井に向かって掲げる。
「ちょっと見ようとしただけだよ」
「駄目だ!」
「ええ、じゃあどうして栗なのか教えてよ」
「それは……言えん! ご自身で調べてくれ!」
「えぇー」
油断も隙もない。溜息を吐いてから、チョコレートの箱を覗いて、膝丸は真ん中の栗をまず早々に口に入れた。
柔らかく崩れて、ほろりととろけて、甘くて、少しだけ残った渋みが舌を撫で、それがまた甘さを引き立てて。口の中から消えても、余韻が口の中に残っている。口から息を吐きだすのが勿体なくて、唇を引き結んだまま鼻から大きく息を吐けば、彼女の甘い匂いが抜けるようだった。
このまますべて食べてしまいたいような、食べつくすのが勿体ないような気分で箱を見下ろす。
次はいつ会えるだろうか。また会ったら、その時はどんな顔をしてくれるだろうか、と、そんなことも考えながら。
四種の野菜カレーと寒天トマトゼリー
城下街の娘ととある本丸の膝丸が紆余曲折あって結ばれてから季節は少し巡り、春爛漫。いじらしくも相変わらず城下に通う平安生まれの太刀に、「平安だから通い婚なのか?」と言ったのは誰だったか。かなりゆったりとした速度で進展しているこの恋路を、本丸全員がほほえましく見守っている。口をつっこむのも野暮だろうと。
「……いやでも、さすがにそろそろピュアすぎない?」
カァン、と音高く漆の杯が机に叩きつけられた。
「膝丸さん何歳? そんで職人さん何歳?」
「ううん、細かいことは覚えてないけど、弟は千歳くらいじゃないかなぁ」
顔を真っ赤にしてべろんべろんな乱が尋ねると、同じくふんわりと頬を色づかせた髭切も答える。いや、大体同じ年代に生まれたんだからもっと詳しく答えられるだろ、と鶴丸は声に出したかったがぐっとこらえた。
「で、どこまでやったの?」
「接吻はしたって言ってたよ」
「乙女か」
「繊細な子だからねぇ」
「千歳だけに?」
あはははは、と机を叩いて笑う乱と髭切に、酔ってはいるがまだ冷静な鶴丸は冷や汗を垂らした。大丈夫かこのふたり。
いや、それよりも、だ。
「……接吻だけ!?」
思わず身を乗り出して尋ねた真白の太刀に、髭切も乱も急に神妙な顔になった。
「あいつら、番になってどれくらいだ?」
「半年くらい」
「半年間」
「接吻だけ」
亀の方が速いぞ。呆れたように呟いた鶴丸に、乱も同調した。純真なんだと髭切はやんわりとフォローするが、それにしたって(見た目で言えば)良い年した青年が半年間も恋人に食指を伸ばさないなんて。あり得ない、と口をそろえて言う鶴丸と乱に、髭切も視線を逸らした。
「もしかしたら、職人さんのほうに原因あるとか? だとしたら詮索は無粋かなぁ」
「あー……その可能性はあるな」
「人間のことは僕たちには分からないしねぇ。あ、主はどう思う?」
「あ?」
面倒なのに捕まった、と顔をしかめた審神者をどうどうと座らせ、髭切はにこにこと酒を勧める。それを固辞しつつ、麦茶を舐めた審神者はことの次第を聞いて、何を言ってるんだとぽかんとした。
「いや、なんで手を出さないもなにも、場所がねぇだろ」
「場所?」
「お前、通い婚つったって通うのは店だぞ? どこでそういうことするんだよ」
ああ、と納得したように手を合わせる髭切と乱に、審神者はうんうんと頷く。
「そっかぁ。場所かぁ。膝丸さんは色茶屋とか入るの躊躇いそうだしねぇ」
「本丸に呼んだらどうかな?」
「アホか。イチャつく為に本丸貸してくださいなんてお前の弟とあの子が言うわけないだろ」
確かにぃー! すっかり酔っぱらいのテンションで、髭切と乱が揃って声を上げた。そろりとその場から逃走を図った鶴丸だったが、長い裾を逃さず審神者が掴む。
「じゃ、場所を確保したらいいのかぁ。どうしようかなぁ。そうだ、主、城下の一角をこう、つぶして」
「つぶして!?」
「弟の為になんかこう、場所を」
職権乱用の極みを提案する髭切に、こめかみを押さえて渋い顔をした審神者の肩を、鶴丸がいたわるように叩いた。相変わらず突拍子もないことを言い出す髭切に、もうそろそろ寝室に連行すべきかとまだ冷静なふたりが静かに分析し始めたとき、後ろにタイミング良く膝丸が現れる。
「お膝、お前の兄ちゃんどうにかしろ」
「……兄者、また何かしたのか」
「お前のシモの心配して、城下街に御殿を造れとおっしゃる」
「話が全く見えんのだが」
弟だ、弟だとふにゃふにゃ笑う髭切の腕を肩に掛けて立ち上がった膝丸が、眉を寄せて首を傾げた。まぁそうだろうなぁ、と麦茶のコップを揺らした審神者が、本刃に聞くのが早いとまっすぐ目を見つめる。
「なぁお膝」
「なんだ」
「お前、彼女さんとこれしたの?」
これ、で示されたジェスチャーに、膝丸がぴしりと固まった。二次災害的にふにゃふにゃしていた髭切が廊下に前のめりに倒れる。ありゃ、という暢気な悲鳴とともにバタンと痛そうな音がした。
「あッ、兄者ッ!」
「いや、お前だからな、元凶」
「うーん、ボクはあるじさんが原因だと思うなぁ」
「乱もあんま飲み過ぎるなよ。このメンツだと一期に怒られるの俺か鶴だ」
「何故俺が!」
いや、そんな話をしてる場合じゃなくて。ようやくショックから立ち直った膝丸が髭切を助け起こして審神者を凝視する。
「そッ、そんなッ、ことを、聞くか!」
「あー、この反応はやってませんね乱サン」
「やってませんねぇ。しかも膝丸さん側に問題あるとボクは思うなぁこれ」
ひそひそと話し合う短刀と主に、誰よりも顔を真っ赤に染め上げた膝丸が噛みついた。
「いや、進展遅いの、合意だったらいいけどさ。ただでさえお互い忙しいし、あんまり会えないんだから、牛歩すぎたら職人さん不安にならないかな?」
「……不安?」
「女の子って寂しがりでしょ? そ、れ、にー……職人さんは待つことしかできないんだし、ひょっとして飽きられてるのかなって不安になることもあると思うなぁー、ボク」
実年齢も見た目年齢も下の刀から説かれる女心とは……ぽそりと呟いた鶴丸が乱の笑顔の威圧を受けて沈黙する。沈黙しているのは膝丸も同じだった。考えもつかなかった、と狼狽する弟に、髭切はにっこりと笑って頭を撫でる。
「戦うことだけ考えればよかったあのときとは違うからね。ゆーっくり、他の誰かを想うってことに慣れていこうね」
おお、お兄ちゃん、と感心したように審神者が手を叩く。
「ま、お前のペースがあるのも分かるけど、相手のペースがお前と一緒だとは思わないようにな」
そう締めくくった審神者に、膝丸は何事かを考え込むように黙りこくったままだった。
*
ふむ、膝丸くんが何を考えていたのかは分かった。ことのあらましが長々とつづられた達筆の手紙を何とか読み終え、私は自分の部屋で頷く。膝丸くん、メールのやり方は覚えたんだけど、一本指打法でキーボードを使うから、長文は書いた方が早いって手紙にしちゃうんだよね。書く方は早いかもしれないけど、平安のくずし字は現代人にはちょっときついです。
さて、そんなことはさておき。追ってメールで来た内容を見て、私は一人で頭を抱えた。
『予定はこちらが合わせる。一晩君の時間を貰い受けたい』
潔すぎてこっちが困るわ、と思わず携帯端末を放り投げた。つまりこれはあれだ。お泊まりデートさせろってことか。
決闘状か何かのごとく送りつけられてきた、絵文字も顔文字もないメールに、かれこれ一時間くらい頭を抱えている。本丸は恥ずかしすぎて死ぬから却下。城下にある江戸時代版ホテルに膝丸くんを連れて行くのは私のSANが死ぬ。現世? そんなの無論却下! つまり残された選択肢は私のおうちにお泊りってわけなんだけど。
城下の外れに存在する、城下職員の居住区にある私のおうちは、独身らしくワンルーム。ふたり泊まれないほど狭いってわけではないけど、ここに、膝丸くんが、上がる……?
とりあえず空いている日と、本当に控えめに私の家に来たらどうか、という内容をつけて返信すると、正座待機して十分後に携帯が震えた。
『わかった。ならばその日に、君の店の前で待っている』
男らしいにもほどがある返信に、また私は頭を抱えることになるのだ。数分間ゴロゴロ転がった後、髪の毛にくっついた埃に、とりあえず掃除するかと掃除機を引き寄せた。
源氏の重宝様をお迎えできる部屋にしなければ。
仕事をして、空いた時間に部屋の掃除をして、膝丸くん用の布団やら食器やらを用意しているとあっという間に日が経っていた。当日だどうしよう、と緊張のあまりテンパって、何度か店長に注意されたりもした。
謝りながら、今日膝丸くんが泊まりに来るんだと言えば、ちょっと驚かれて「まだ来てなかったのね」なんて言われてしまう。うう、進展が遅いのは自覚してます。
「でも、なんだか貴女達らしいわ」
「そうですか?」
「ええ。もう、ハラハラしちゃったもの。そのくらいゆっくりなのがいいのかもしれないわね」
そう笑って、店長はこっそり、今度の野菜スイーツフェアで仕入れた野菜から、おつとめ品を袋に入れて私に差し出す。
「形は悪いけれど、味は保証できるわ」
「……いいんですか?」
「いいのいいの。私のご飯になるだけだったし、気にしないでちょうだい。うふふ、膝丸さんに手料理を作ることになるのよねぇ」
それが何か、と首を傾げて、私もはたと気がついた。そういえば、私、膝丸くんにお菓子を作ったことは結構ある、というかずっと作ってきたけど、普通のご飯を作るというのは初めてでは……?
「て、店長」
「はぁい?」
「お料理のコツって何ですか」
「それは、私より貴女の方がよく知ってると思うのだけれど」
そりゃそうだ。包丁握って何年経つと思ってるんだ私は。
お菓子作りとお料理なんて同じようなもんだと思われるかもしれないけれど、私にとっては全然違う。お菓子は、お客様にお出しするものだ。身も蓋もない話になるが、お菓子は別に特別な感情がなくても出来る。いや、おいしく食べていただきたいとは思うけどね。ただ、私にとってはお菓子は商品で、商品を作る気分で丁寧に作っている。
お料理は違う。一人暮らししてから、そりゃ自炊なんてしょっちゅうしてるけれど、自分が作ったお料理を家族以外の誰かに食べてもらったことなんてない。あ、やばい緊張してきた。ぎゅうっと野菜の入った袋を握っていると、店長はあらあらと如何にも困っていなさそうに困っている風を取り繕って笑った。
「トマトがつぶれちゃうわ」
「はっ」
それはいけない。
とにかくそわそわしっぱなしの私を思ってか、今日は一番下っ端の私に接客業が回ってくることはなかった。正直お客様をお相手にするよりも一心不乱にメレンゲを作っている方が落ち着くのでありがたい。その余裕も閉店時間が近づくにつれてだんだんなくなっていくのではあるけれど。
「膝丸さんがお見えよ?」
「分かってて言ってますよね店長!」
うちの社員かってくらいこの店に馴染んだ膝丸くんをいじる先輩に、とりあえずあの人は一発殴ると決意を固めて、本日最後の仕事である清掃を半ばやっつけで終わらせたのだった。
「……お、お待たせしました?」
「待ったには待ったが、さほど待ったという気はしないな」
「さ、さいですか……」
ひたすらいじられたらしく、ややお疲れ気味の膝丸くんがお店のバックヤード前で待っていてくれた。どこかお店で待ち合わせとかしておけば良かったかな、と思ったけれど、私の店が閉まる時間帯って大体どこのお店も閉まってるよねと考え直す。本丸というホームがある城下では、閉店時間は軒並み早いのだ。
「それは?」
「ああ、店長がくれたの。今度野菜を使ったお菓子フェアがあるから」
「野菜を菓子に……?」
「うん。トマトゼリーとか、人参カップケーキとか、カボチャのフィナンシェとか」
想像できないのに頑張って想像しようとしている膝丸くんにくすくす笑っていると、手の中の重たい袋が急になくなった。お? と思っていると、膝丸くんの片手にビニール袋が移動している。
これだから膝丸くんは! と心中ごちて、早々に歩き出している黒い背中を追いかけた。
「居住区はこっちだよ」
「こんなところにも街があるのか……」
「城下はあくまで審神者様と刀剣男士様の場所だからね。私たち一般市民はこっち」
刀剣男士様方を気遣って江戸時代あたりに似せてある城下と違って、居住区は現代の日本の風景。物珍しそうにマンション街を見上げている膝丸くんに、くすくす笑って私の住んでいるワンルームの方へと袖を引いた。
「えっと、長屋で分かるかな」
「一度主について現世に行ったことはある……が、本当に人が住んでいたとは……」
無音で開くエレベーターにびっくりしたり、廊下から見える景色に過剰反応したりしているあたり、髭切さんが絡んだことを除いては、普段落ち着きがある彼らしくないなぁ、とちょっとおかしい。
指紋認証と声紋認証の二重ロックを解除すれば、膝丸くんは「魔術か?」なんて目を白黒させた。いいえ、現代技術です。
「狭いんだけど、が、我慢してください……」
「邪魔をする」
アルミの扉にぺたぺた触りながら、膝丸くんはそろっと顔を出した。
部屋の電気をつけると、独り身にふさわしい手頃さのワンルームが照らし出される。靴を脱いで荷物を置いて、上着をハンガーに掛けたり。あれ、何で私一人分の音しか聞こえないのかなと振り返れば、膝丸くんは玄関で固まっていた。
「あ、あのー……?」
「す、すまん! 不躾に!」
「いや、あの、散らかっててごめんなさい……?」
ようやく再起動したらしい膝丸くんが、靴を揃えてうちに上がる。それからもそわそわと落ち着きがない。やっぱり、刀剣男士様方が住んでらっしゃる御部屋とは全然違うだろうし、珍しいのかもしれない。
とりあえず座布団を渡して座って置いてもらうと、膝丸くんはさらに落ち着きがなくなった。ううん、なんかそこまで態度変わると困るぞ。
「なんか、変なものでもあった?」
「い、いや、変なものはないが……」
うろうろと視線をさまよわせて、最終的に膝丸くんは下を向いてしまった。……本当に大丈夫かな?
「ご飯まだだよね? 何か食べたいものとかある? なかったら適当に作っちゃうけど」
「任せる」
「うん、じゃあ一時間くらい時間もらうね」
ワンルームからキッチン併設の廊下に出て、ついでに部屋につながる扉も閉めて、ふうっと息を吐いて気合いを入れる。
店長が直接目利きした食材もある。後はいつも通り作るだけ。いつも通りだ。厨房に立つときの習慣で、エプロンをつけて手をガシゴシ洗いながら、呪文のように何度もいつも通り、いつも通りを繰り返す。
ビニール袋から、いただいたつぶれかけのトマト、人参、かぼちゃ、ほうれん草を取り出して、しばし悩んでカレールーを取り出した。
定番が一番安全だというのは、話を聞きつけたバイトさんが女の子らしく頬を染めながら教えてくれた。ありがとう、女子力の師範。私もがんばります。
*
泊まりにいく当日は、それはもう様々なアドバイスやら冷やかしやらが山のごとく膝丸に寄せられた。まずはどんな部屋が出てきても褒めること、というのは加州清光が口を酸っぱくして言ったことだ。
「いーい、膝丸さん。職人さんは忙しい上に、俺達と違って一人暮らしなんだから、掃除したり片づけたりする時間もないかもしれないから、どんな部屋が出てきても受け入れること!」
無論だ、と頷いた。彼女の多忙さは身をもって知っている。それに押し掛ける立場だ。はなからけちをつけるつもりなんて膝丸にはこれっぽっちもない。
実際に上がった彼女の部屋は、きちんと整頓されたきれいな部屋だった。厨房の扱いから清掃癖がついているのかもしれない。自分が使うにはややかわいらしすぎる座布団を尻に敷いて、膝丸は途中で出された茶を飲みながら落ち着きなく身じろいだ。
「あんまり逸っちゃ格好良くないからね。お泊まりだけど、どうするかは職人ちゃんに合わせてあげてね」
燭台切光忠はそう笑ってたしなめた。当たり前だと返したが、一つ屋根の下、生活臭のする部屋で、手の届く範囲に彼女がいるというのはどうも落ち着かない。その上、と膝丸は手で顔を覆った。
どこもかしこも彼女の匂いがする。
「不埒な……」
思わず口に出した言葉に、あと! と出発前に乱が付け加えた一言が脳裏によぎった。
「今日は不埒禁止。好きな人が欲しいってことを否定しちゃ、職人さんきっと傷つくよ。自分を好きになって後悔してるのかなって」
なるほど道理だとそのときは思った。思ったのだが。
いざこうして彼女の部屋に招かれて、みっともなく緊張している自分が情けなく、さらにその程度のことで容易に揺らぐ心もまた未熟。
さらに、と膝丸はちらりと自分が持ち込んだ、少ない荷物を見やってため息をついた。
「お膝、いいか。今までのアドバイス全部忘れても良いからこれだけは忘れず持って行け。お前らの行動に責任持つって言ったのは俺だが、こればっかりはマジで責任取れねえから」
「主、きみ最低だぞ」
「いや大事だろ、これ」
確かに大事だ。大事なことだったがもう少しムードとか雰囲気とかいうのを弁えて欲しかった。
いよいよ生々しくなってきた事態に、テーブルに突っ伏し低く唸る膝丸を、たしなめる者は当然いない。彼女は台所で、今はこの部屋に自分一人なのだから当たり前だ。
落ち着け、平常心、と顔を上げたとき、ひくりと鼻が別の匂いを拾った。
本丸でも何度も嗅いだ匂いだ。短刀にも人気のメニューで、食卓に並ぶ度に今剣が顔を輝かせた。強い匂いは部屋中に回って、彼女の匂いを上手く誤魔化していく。
ごくりと知らずの内に唾を飲んだ。同時に、ぐうっと腹が鳴る。
「お待たせしました」
かちゃ、と扉が開くと、エプロン姿の彼女が鍋を片手に立っていた。
*
かれえか、と膝丸くんは腰を浮かせた。そんなにお腹がすいてたのかな。ちょっと悪いことしたかも。
お皿ではなく、お茶碗によそったご飯を渡せば、膝丸くんは不思議そうにこちらを見る。私の持っている片手鍋の中をもう一度のぞき込んだ。
「……かれえか?」
「カレーだよ」
「皿に米を盛るものではないのか?」
「今日のはちょっと特別です」
陶製のちょっと大きめのお碗を二つ並べて置いて、私は片手鍋の中身をぐるりとかき混ぜた。さらさらとした、ルウというよりもスープみたいなカレーは、量を食べるのには結構良いらしい。ごろりと入った人参やカボチャ、細かく刻まれたほうれん草に、豚の角煮を忍ばせて、隠し味はつぶしたトマト。盛りつけて膝丸くんに差し出せば、珍しそうに匂いを嗅いでいる。
「かれえだな」
「スープカレーです」
「すうぷかれえ?」
「うん。冷めない内にどうぞ」
スプーンとお箸を渡して手で示せば、膝丸くんは意外なことに躊躇せずにスプーンをお碗の中につっこんだ。
さらりとしたカレーを音を立てないように啜って、目をぱちぱちさせる。
「旨い」
いつもの一言に、私は詰めていた息を思いっきり吐いた。
「ど、どうした!?」
「いや、良かった……って……口に合わなかったらどうしようって……」
味見は何回もしたけど、それでも辛さの好みとか色々あるだろうし、もし不味いって言われてたら立ち直れなかった。
カレーはカレーでもスープカレーなんて変わったもの作っちゃったし、やっぱりスタンダードなカレーの方が良かったかもなんて、できあがった鍋を前にバイトさんに内心めちゃくちゃ謝っていたのだ。よかった、よかった。安心して私もスプーンを握る。
「それにしても、膝丸くん、最初めちゃくちゃ警戒してたのに割と勢いよく食べたね」
「そうか?」
「そうだよ。もうちょっと時間かかるかなって思ったのに」
「君が作ったものが不味いわけがないからな」
「そういうのきっぱりと言い切らないでくれます……?」
この方本当に私をどうしたいんだ。恨みがましく見上げれば、膝丸くんは涼しい顔をしてスープカレーを口にしたまま。くそ、ずるいなぁとじとりと見つめる。
「あ」
「どうかしたか?」
「いや、ごめん、なんでもないよ」
前言撤回、全然涼しい顔なんてしてないじゃない。心の中で呟いた。膝丸くんの耳がほんのり色づいていたから。照れつつも、なんだかんだ褒めてくださるこの優しい神様が、やっぱり好きだなぁ。そうしみじみ思った。
「旨かった。馳走になった」
「いえいえ、お粗末様でした」
「礼に皿くらいは俺が洗おう」
「え、いいの? カレーの鍋とかあるよ?」
「案ずるな。慣れている」
膝丸くんが皿洗い……思わずあの使い勝手の良さそうな厨房に並んでスポンジを握っている、エプロン姿の膝丸くんを思い浮かべて吹き出した。想像出来ないようで出来るのがすごいなぁ。突然笑い出した私に困惑気味に膝丸くんがのぞき込むけど、いや大丈夫だよと手で制する。
「スポンジはこれで、洗剤はこれ。必要ならたわしも出すけど」
「必要になったら呼ぶ。おそらくこれで事足りると思うが」
「結構さらっとしてたから、普通のカレー鍋よりは洗いやすいと思うよ。うん」
上着を脱いだ膝丸くんが、シャツの袖を捲って蛇口をひねった。私のうちに膝丸くんがいて、お皿洗ってるなんてなんか変な感じだ。几帳面な手つきでお皿を一つ一つ洗っていく膝丸くんに、むずむずとくすぐったい感じがした。
「……なんか、新婚みたい」
「ブッ!」
「うわっびっくりした!」
めちゃくちゃ小声で呟いたのに、ばっちり聞いていたらしい膝丸くんが思いっきり吹き出した。すんでのところでお皿を割らずに空中でキャッチした膝丸くんが、泡だらけの手のままぎぎぎと振り返る。顔はトマトみたいにみるみる真っ赤で、たぶん私も負けず劣らず赤い。
「へ、変なこと言いました……忘れてください……」
「わ、忘れるも、なにも……」
膝丸くんはそれだけ言った後、無言のままお皿洗いを再開する。なんで私あんなこと言っちゃったんだ、と後悔してももう遅い。口をぐにぐにと摘んで渋い顔をしていれば、きゅ、と蛇口をひねる音がして、水の音が止まった。
「……するぞ」
「うん?」
「期待、するぞ……いいのか?」
何の期待だろう、と首を傾げていると、顔をほんのり染めた膝丸くんはつかつかと歩み寄ってきた。そのままむんずと手首を掴まれて、状況が把握できないままいつのまにか腕の中に収まっている。は、と一気にパニック状態になる思考に、触れている胸からも激しい拍動が伝わってきた。
「その、俺も、男だからな。好いた女には、当然、欲が湧く。が、君が、まだ早いと思うのなら……」
何を言っているのかくらい、私もそこそこの年齢だから分かる。分かるけれど、改めて言われると恥ずかしい。お互い顔もまともに見れない。
いったい私は何歳なんだと自分で自分に呆れるけれど、直視できないまま言葉を探した。
「あ、あの」
「なんだ」
「私、期待してないのに、好きな人を泊めたり、しません……」
思わず昔の口調に戻っても、膝丸くんは眉間にしわを寄せることはなかった。ただ、上の方にあるオレンジみたいなきれいな目が、ぱち、ぱち、とゆっくり、私の言ったことばを噛みしめるように瞬きするのを、ようやく上げることのできた視界で私は見た。
「ひ、膝丸くん……?」
おそるおそる声をかければ、背中に回った腕に力がこもってぎゅっと体が押しつけられる。続いて降ってきた柔らかい感触に、ふっと目を閉じた。
ぬるりと入ってきた舌に、そっと触れれば絡まって、優しく吸い上げられる。決して無理はさせないけれど、ひたむきで、まっすぐな何かが流れ込んでくる。ふわふわとキスに浮かれて、顔がゆっくりと離れていったその時、あ、失敗したなとちょっと思った。
「膝丸くん」
「なんだ?」
「次、家に来たら、もうちょっと匂いのキツくないものごちそうするね」
すっごいカレーの味がする。ぼそりと呟いた、色気もムードもない私の一言に、一瞬きょとんとした膝丸くんは、ふっと吹き出して、それからしばらく楽しそうに、柔らかな声で笑っていた。
*
で、と朝帰りの膝丸を待ち受けていたのは、野次馬根性丸出しの刀達だった。すでに門で待ちかまえるという逃がす気ゼロの面々に、思わず後ずされば、背後にすでに極まった後の乱と今剣が立っている。
「どうだったんですか? おとまりかい!」
「詳しく聞かせて欲しいなぁ」
目が笑っていない。助けろと岩融に視線を送れば、元は主従関係にあった薙刀は素早く目を逸らした。文字通りの四面楚歌。あれだけ行くときは緊張したのに、すでにもう彼女の家に帰りたい。早急に。
じりじりと後ずさる膝丸に、周りの刀達もじりじりと距離を詰める。万事休すか、と思ったときに、救世主の声がした。
「ほらお前ら! 仕事の時間だぞ。散った、散った!」
高らかにパンパンと叩き合わされた掌は、この本丸の主のもの。残念そうに方々へ散っていく刀達に、膝丸はほうっと安堵の息をついた。
だが、背後の短刀ふたりは去らない。出陣を申しつけられていないのかと見下ろせば、にっこりと非番だと返された。救いを求めるように主を見れば、面倒くさそうに一言。
「仕事のない奴が何しようが、俺は止められねぇからな」
救世主は去った。それぞれに両腕をからめ取られて膝丸はぐうっと言葉に詰まる。さらに正面には、明らかに非番の格好をした髭切と岩融が保護者のような笑顔で立っている。しばらく何とか逃げようと足掻いていた膝丸だったが、すぐに諦めてうなだれた。
「わぁっ、すごいですよ薄緑!」
「これ、ゼリー? 宝石みたい!」
ずるずると連行されるまま広間に戻り、すでに疲労の色が見える膝丸を置いて、短刀ふたりの興味は彼が持っていた袋に移ったようだった。ガラスの瓶に詰まっているのは、透き通った赤が美しい球のお菓子。そうっと瓶の蓋を開けて、ふたりはぱちくりと目を丸める。
「どこかでかいだにおいのような……」
「……あ、あれじゃない? トマト」
指でつまめばわずかな弾力が返ってくるそれに、今剣と乱が膝丸を見れば、促す様に頷かれた。そうっと口に入れれば、想像していたよりも歯ごたえがある。普段食べるトマトよりも甘いのに、砂糖の不自然の甘さじゃない、果物のような味が広がってふたりの目は輝いた。
「寒天ぜりー、だそうだ」
「おいしい……!」
「びみですね!」
頬をおさえて幸せそうな短刀に、膝丸もゼリーをつまみ上げる。一口で食べられるサイズのそれは、今朝彼女がお土産にと持たせたものだ。
プレゼントだから、と笑った顔に、もう金を対価に物を貰うだけの関係でないことが嬉しい。しまりのない顔で、しばらく掌中の宝石を眺めていると、生温かい視線を感じた。
「で、結局どうだったの、膝丸さん」
「どうだったんですか、薄緑!」
詰め寄ってくる短刀ふたりに、言葉に詰まったまま顔を赤くして逃げようとする膝丸を見て、髭切は顔をほころばせた。瓶の中のゼリーをつまみ上げてひょい、と口に入れていると、岩融が不思議そうに見つめているのに気付く。
「どうかしたかい?」
「いや、どうだったか聞かぬのか、と」
「ああ。うーん、別に聞く必要もないからね」
うん、おいしい、と髭切は岩融に瓶を差し出した。
「幸せそうだし、それでいいよ。君もそうだろう?」
「がはははは! そうだなぁ」
膝丸の悲鳴を聞いて、そろそろ助けるかと髭切と岩融が腰を上げる。平和な時間が流れる中、太陽の光を受けて、瓶の中の赤いゼリーがキラリと小さく輝いた。
膝丸くんとアップルパイ※どっかに載せた気がするんですがpixiv見たらどこにもなかったので載せます。再掲だったらごめんなさい。
お菓子に果物はつきものだ。いつぞや作ったフレジエもといショートケーキには、瑞々しい苺が必要不可欠だし、シースケーキにもとろとろで柔らかい桃がのっている。フランボワーズも最近人気が高いし、オレンジピールなんか苦くて甘くて最高だし。お菓子を作っている以上切っても切り離せない果物だから、私も当然大好きだ。
でもなぁ、と眉間にしわを寄せる。今年もこの季節がきてしまった。
つやつやと光る表面は、ナイフを入れればサクッといい音が鳴る。中からとろりとあふれるリンゴの砂糖煮は、歯ごたえを残しつつも柔らかく仕上げた。
「今年もこの季節か」
感慨深げに目を細めて、膝丸くんがショーケースを見つめるのを、思わず睨んでしまった。
「何だ?」
わかってるくせに空々しい! 内心憤慨しながら、あくまで丁寧にご注文は、と問いかけた。返事はわかっている。
「あっぷるぱいを頼む」
笑いをかみ殺しているのが丸わかりなんですけどね。まったく!
*
季節はずれの林檎が大量に持ち込まれたのは、初夏の日差しが眩しいある日のことだった。大玉の林檎は、赤く綺麗に熟していて、触っただけで蜜が詰まっているのがわかる。
いつもは注文をなさるだけの膝丸さんが、珍しく差し出したその袋に、思わず目が点になった。
「……これは?」
「遠征先でしこたま林檎を貰ってしまった」
「そ、そうなんですか」
しこたま、の表現がぴったりくるくらい、確かにその林檎の量は尋常じゃなかった。業務用の小麦粉が入る麻袋に、ごろごろ入った林檎はぎょっとする量だ。
もしかして、これを使って何かを作ってほしい、とかだろうか。膝丸さんの顔色をうかがうと、膝丸さんはちょっとうんざりした顔で林檎を見ている。
「実はこれでも減らした方なのだ」
「えっ?」
「燭台切と歌仙がもう林檎はしばらく見たくないという程度には減らした」
いったいどれだけ貰ってきたのだろう。だってあの本丸って、結構刀剣男士様が顕現なさってたよね。それでもしばらく見たくないほどって、桁を間違えた誤発注レベルの騒ぎだろうに。
「余り物を押しつける、という形にはなってしまうが、林檎ならば菓子でもよく使うだろう? 試作などで使ったり、店員で分けたりしてほしい」
つまりはお裾分け、ということか。ううん、お気持ちはありがたいけど、と私は頬を掻く。
「膝丸さんがいただいたものは、政府で『供物』として判断されるので、私たちがいただく、つまり食べることはできないんです、すみません」
ガァンと、膝丸さんは明らかにショックを受けた様子。ううん、本当に申し訳ないんだけど規則は規則だ。
でもなぁ。ちらりと林檎の詰まった袋を覗き見た。これを全部消費するのは確かに量が多すぎる。その上これでも減らしたのだから、結構もう召し上がっていることは確実。腕を組んでふうむと唸ること数秒、そうだ、と林檎を取り上げた。
「ですが、少しでも保存が利く形にしてお出しすることはできますよ」
「本当か?」
「はい。これだけ多いとなるとそうだなあ……時間はかかりますが、林檎のジャムとコンフィ。すぐに出せるものだと、アップルパイですかね」
コンフィなら日持ちもいいし、ジャムだとパンやクラッカーに塗って小腹が空いたときにいつでも食べられる。後はアップルパイだけど、パイ生地は開店前に作って冷やしてあるものがあるし、せっかく丸々の林檎がいっぱいあるからちょっと変わったものにしよう。
「それにしても、こんなに貰うなんて、お殿様にでも謁見したんですか?」
そう冗談めかしてそう尋ねると、膝丸さんは生真面目にわざわざ否定してくださった。
「たまたま立ち寄った農村の娘に気に入られてな。大量に持たされたというわけだ」
すごく墓穴を掘った気がする。
「へ、へえぇ……そうなんですかぁ。膝丸さんかっこいいですもんね」
「うんッ!?」
「じゃあ準備してきますね、ははは……」
いや、あの、うん。我ながら人生最大級に馬鹿なことをしたなぁと思います。どうしてわざわざ聞いちゃったんだろうね。そりゃね、膝丸さんほど綺麗な人だと遠征先で林檎の一つや二つや百二百貰うよね。
はあっと息を吐いて頬を叩く。切り替えだ。切り替え。そもそもが身に余る感情なんだし気にしない。
林檎は表面を洗って芯をくり抜く。数は聞いていないけれど、コンフィとジャムの分を考えて、膝丸さんと髭切さんと審神者さんと今剣くんと……うん、とりあえず十個くらい。
冷やしておいたパイ生地の上に芯をくり抜いた林檎をおいて、砂糖、バター、カシスジャムとクルミを詰めた。自然に漏れたため息までパイの中に詰まってそうで思わず口をつぐむ。私のため息でせっかくの林檎が不味くなったら困る。
横に積まれた、私の知らない誰かさんから送られた林檎をちらっと見た。
ちょっとくらい不味くなっても……いや、お菓子を作る人間が考えちゃいけないことだ。ぶんぶんと頭を振りながらよこしまな考えを追い出した。
*
「ガロパンです」
「……確か、ぶるどろという名ではなかったか?」
「ラボートです」
「どれだ!?」
ちょっとした意趣返しのつもりで、わざと複数の名前を出せばやっぱりまじめな膝丸くんはすぐに混乱した。かわいげがないのはわかっているけれど、ふん、と鼻を鳴らすことくらい許してほしい。
アップルパイはアップルパイでも、パイ生地で林檎のフィリングを包んだものではなく、林檎丸々一個をパイ生地で包んだお菓子。名前は膝丸くんが言ったブルドロでも正解だ。しかめっ面のままテーブルの上にことんとおけば、はたと気づいたように顔を上げる。
「ふれじえと同じか?」
「うん。でも今回はフレジエよりたぶん多いよ」
丸い形がしっかりと残った、私の拳よりも大きいパイに、膝丸くんはちょっと楽しそうに、本当に腹立たしいことにわかりやすくちょっと楽しそうにナイフを立てた。さくっという良い音とともに、中から蜜がたっぷり詰まった林檎と、カシスジャムとバターが溢れてくる。四分の一を切り取って、一度横に倒してから、それを半分に切ってフォークで刺した。それでもまだ口よりも少し大きいアップルパイを、膝丸くんが大口を開けてかぶりつく。
「うむ、旨い」
「それは何より」
「まだ怒っているのか?」
「いつまでからかうのかなぁ、と思っただけです」
同じ製菓の職人の技術やセンスに嫉妬したことはあるけど、こういう嫉妬なんて初めてだったから仕方ないじゃない。
それでも何だかんだで、普通のアップルパイじゃなくてブルドロを作っちゃうあたり私も何だかんだ絆されてるのだろう。
ちょっと怒ってるぞ、と眉を上げていると、膝丸くんはアップルパイを飲み込んで、少し黙ったままボソっと何かを呟いた。
「……し」
「うん?」
「……少し、嬉しかったので、な」
今度は私が黙り込む番だった。もうこの方本当にずるい。許さざるを得なくなる。
一つ小さくため息をついて、「怒ってないよ」と声に出せば、膝丸くんの顔が明るくなった。くっそ、悔しいなぁ。それでも、今年の秋は、林檎を見ても顔をしかめずに済みそうだった。
膝丸くんとフリアン
意外に思われるかもしれないけれど、この職業についてから自分が口にするもののカロリーなんてあんまり気にしたことがなかった。
よく、お菓子職人なんて味見のしすぎで太るんじゃないの? と聞かれることがあるけれど、修業時代はむしろ爆痩せした。久しぶりに会った友人に「……やつれた?」って聞かれたくらいには体重がガタ落ちした。もはや痩せるってレベルじゃなかったのだ。
なんせ丸一日立ち仕事で重量上げか? ってレベルで重たい小麦粉の袋を抱えて右往左往して、腱鞘炎になるレベルでクリームをホイップしての繰り返しだ。忙しいときは昼ご飯を食いっぱぐれることだってある。その消費カロリーがスポンジケーキの一口やクリームの一すくいで補えるわけがない。補えるなら今すぐお菓子を嗜好品のジャンルから外して栄養食品として強く売り出していくべきだと思う。へし切長谷部様とか、博多藤四郎様とか、最近だと山姥切長義様とかあたりにもバカ売れするんじゃなかろうか。
閑話休題。つまり私はこの職に就いてから、太ったことがないのだ。というか、太っても気にしなかった。どうせ繁忙期で痩せるもん。現世に帰ったら話題のスイーツを研究と称して食べ漁り、日頃のご飯も割と食べる方だと思う。焼き肉も大好きだ。先輩は私を指して「冬眠前のクマ?」とド失礼なことを言ったけど、せめてリスあたりにしてほしい。
だけど今、私はおそらく中学時代ぶりに、真剣な顔で体重計に乗っている。
「…………これは、流石にヤバいのでは……」
先輩の冬眠前云々の例えなら今確実に私は十二月くらいの哺乳類だ。心なしか顔も丸い気がする。
この一週間で食べたものを思い出す。まずこの間のお休みでは他サーバーの城下町に視察にいって新作のケーキをしこたま食べた。それから本部の講習も重なったから政府職員向けの食堂で三食きっちりおいしいご飯を食べた。ご飯もおかわりしたかもしれない。花椒の利いた麻婆豆腐がとてつもなくおいしかったからいけない。それからお店の勤務に入ったけど、今はちょうど忙しくなるようなイベントもない暇な時期でそれほど動いてもない……これはまずいな!?
普段ならさっきも言った通り「ま、いつか痩せるし平気平気!」なのだが、最近はそれじゃ困る退っ引きならない理由が出来てしまった。私は恐る恐る、部屋に貼ってあるカレンダーを振り返る。ちょうど今週末の日付に薄緑色の蛍光ペンでマークがしてある。友人には「もっとシールとかハートとかあるでしょうよ」とツッコまれたけど、とてもそんなあからさまな印は恥ずかしくてできなかった。
つまり、膝丸くんと会う日だ。
「……まじか」
まじなんですよ、私さん。もう一度体重計に乗っても現実は無情である。お腹を思いっきり凹ませたりしてみても十秒ともたない。すぐに冬眠前のクマに逆戻りだ。
エックス・デーまであと二日しかない。こんなんなら体重計に乗らなきゃよかった。いや早めに乗っておけば良かったのか? しょんもりした気持ちで私は端末を手繰る。「痩せる すぐにでも」検索。怪しげな薬の通信販売が死ぬほど出てきた。いやちゃんとフィルタリングかけなさいよ政府! なんとかしてたどり着いたまともっぽいサイトには「体型をキープするには日頃のトレーニングが不可欠です」なんてド正論が書かれていて私は泣きながら画面を切った。ちくしょう、そんなの分かってますよう。私だって普段はそれなりに運動してるんだ、不可抗力だけど。上腕二頭筋なんてめちゃくちゃあるんだぞ。なんで腹筋は鍛えられてると褒められるのに腕の筋肉だと微妙な顔をされるんだろう。世の中って不公平だ。腕の筋肉だって役に立つんだぞ。
改めて私は自分の体をまじまじと観察してみる。火傷があったり、腕だけ太かったり、胸がなかったり。異物が入らないように髪は短くしてあって、化粧も基本しないし、激務だと家に帰って即布団に入ることすらあるから肌も荒れ気味だ。女の子向けアニメに出てくるキラキラしたパティシエールには程遠い。あんなのフィクションだし、努力の跡が残っている自分の体は嫌いではないけれど、どうしたって複雑な気持ちにはなるのだ。なんせお相手は文字通り人外レベルの美男子なので。
むむむ、としばらく鏡とにらめっこしても、すぐにお腹が固くなるわけでもない。ええい、ダメで元々だ、と私はベッドの上で学生以来になる腹筋運動を開始した。
*
「……腹でも撃たれたかい?」
「そんなわけありますか! 筋肉痛です筋肉痛!」
翌日、身をかがめるたびにお腹を押さえる私に対して、蓮の飾りをつけた鶴丸さんは大変失礼なことをおっしゃった。城下町で腹を撃たれる人間がいたら大問題だ。そんなことが起きたらまず鶴丸さんの主である審神者さんのお耳に入るわ。
すばやくツッコんだ私に、鶴丸さんは「いやあ冗談さ冗談」と両手をぱたぱたして、「このフランボワーズのショートケーキと、ダックワーズを頼む」と誤魔化すように注文する。はいはいフランボワーズケーキとダックワーズですね。推察するに、ショートケーキの方がクリーム大好き甘党な審神者さんで、ダックワーズの方がそれに付き合って一服する鶴丸さんのおやつになるのだろう。
「審神者さん、毎回こんな甘いもの食べてよく太りませんね」
「まあなあ。彼奴は俺たちに霊力を吸われてるぶん食う必要があるんだとかなんだとか言い訳してたが……太らないのは体質だろうな」
なんて羨ましい。私はしょんもりと紙箱を組み立てる。「薬研あたりは飲水になるといい顔はしないんだが」「いんすい?」「ああ、ええと……糖尿病だな」なるほどそれは困る。少し大きめのケーキを選ぼうとしていたのを、小さめのものに変えておいた。
「じゃあ鶴丸さんはどうなんですか」
「刀が鈍っちゃ世話ないからな。最近は書類仕事が中心ではあるが、鍛錬は欠かしちゃいないし、それと」
「それと?」
「俺達は手入れすりゃもとに戻るからなあ」
「何ですかそれ!」
ずるい。ずる過ぎる。思わず叫んでしまった私に、鶴丸さんは「ははあ、なるほど」とにやりと笑った。
「さては体型を気にして腹筋を鍛えようとしたな?」
「うっ」
「別に気にするほどじゃあないと思うがなあ」
ええまあそりゃあ服の上からだといくらでも誤魔化せるでしょうよ。というか鶴丸さんの「気にしない」は微妙に信用できないところがある。この方は時々、ご自身の審神者さん以外の人間を全部まとめて『人間』というカテゴリーにぶちこんでいるようなところがあるのだ。きっと私が力士並みに太っても「別に気にならんがなあ」と言うだろう。
「彼奴も気にせんだろう」
「それこそ言われなくても分かってますよう……」
今度こそ私は項垂れた。そんなの改めて鶴丸さんから念を押されるまでもないことだ。
膝丸くんはとんでもなく良い方だ。時々神様か? と思う。いや神様なんだけど。体重が数キロ増えた程度でドン引きしたり萎えたりするような男じゃない。その辺の心配を杞憂だと言い切れるくらいには、ちゃんとしたお付き合いをさせていただいている、はずだ。
じゃあ何が気になるんだと鶴丸さんは仰る。不思議に思う気持ちはもっともなのだけど、こればっかりは理屈じゃない。強いて言うなら、
「甘えているみたいで嫌というか……」
「甘える?」
「膝丸くんはたぶん、それこそ私がとんでもないブサイクになっちゃったとしても、全然気にしないと思うんですよ」
私よりも美人で、性格が良い人なんて掃いて捨てるほどいるだろうし、これに関しては認めるのが癪だけど、きっとその中には私よりもお菓子作りが上手な人だっているだろう。それでもたぶん、膝丸くんは見向きもしないんだろうな、という確信がある。惚気ているんじゃなくて、諦めだ。私よりも神様の恋人歴が長い審神者さんには「神様に愛されるなら、諦めの感覚をなるべく早く身に着けることが大事なんですよ」とややうんざりしたように言われた。最初は、神様に愛されているのに諦めってどういうこと? と思ったけど、最近は審神者さんのおっしゃろうとしていたことがよく分かる。神様の愛は深くて広い。決して重たくはないのだけれど、時々その海みたいな広さに呆然としてしまうことがある。気がついたらぐずぐずに甘やかされてしまいそうになるから、適度な引き締めが大事だと思うのだ。
両拳を固めて力説する私に、鶴丸さんは「きみもうちの主と似たようなことを言うなあ」と呆れたように目を細めた。
「黙って甘やかされていればいいのに」
「人間は弱いので、刀剣男士様に甘やかされたら一瞬で堕落して溺死します! あとお会計六百八十円です」
「分からんなあ。別にいいじゃないか、堕落したって。……細かいのがないな。千円からでいいかい?」
「はい。三百二十円のお返しです。……いやだから、堕落したらまずいんですって。なんていうか、上手く言えないんですけど、」
一人で立てなくなっちゃいそうだ、という言葉が浮かんだが、口に出したら鶴丸さんは「いいじゃないか、一人で立てなくなったって」と言うのだろうし、膝丸くんもたぶん同じことを言う。審神者さんはこうも言っていた。「個体差もあると思いますが、彼奴らと人間は根本的な考え方が違うので、分かり合えないところについても早めに諦めた方が楽です」と。まったくその通りだと思う。持つべきものは人生の先輩だ。審神者さん見た目は完全に子どもなんだけど。……あれ、審神者さんっていくつなんだろう?
ともかく、と私は紙箱をお渡ししながら言い切った。
「これは私の、人間くさい悩みの部分なので! 膝丸くんには内密にお願いします!」
「分かった、分かった。人間の悩みじゃあ俺の領分じゃないしな。膝丸にも言わない。ここだけの話にしておこう」
「ただまあ」と鶴丸さんは顎を擦り、ぱちりとウインクを一つする。「あまり無理はするなよ? それできみが潰れると膝丸の方が悲しむだろう」と。
それはもう仰る通りだ。ぐうの音も出ない。食わなきゃ痩せる式と薬飲めば痩せる式はやめておこうと思った。あと、動けなくなるレベルの筋肉痛になる腹筋も。
*
人間の、審神者でも神職でもない娘と恋仲になったとき、膝丸は今剣はじめ、人間に近しかった短刀たちにぐるりと取り囲まれて、こんこんと人間の機微のなんたるかを教え込まれた。特に女人の近くに控え続けたものや、外形から女人に性質が近しい乱藤四郎辺りからは女心というものが如何に複雑で繊細なものなのかを切々と説かれた。とりわけ、外見に対して言及するときには気をつけろと。
「特に体重とか体型とか! 太った? とか、丸くなった? とか、そういうの絶対言っちゃダメだからね」
「普通に失礼なのではないか、それは……」
「鶴丸、だいぶ前だけど、主を抱き上げたときに「目方が増えたな」ってドストレートに言ってぶん殴られてたんだよね」
「それは彼奴がおかしいだけだろう」
不動の密告に膝丸は思わず遠い目になった。「本刃は「成長を喜んでたんだ」とか言ってたんだけど」というフォローもかえって逆効果にしかならない。家畜を抱き上げた時の感想ではないのかそれは。
たとえば髪を切ったり、服を変えたり、化粧を工夫したり、そういったところに気付いてもらうことが人間にとっては嬉しいものなのだと、皆は口を酸くして言った。そこまでやるとやや過剰なのでは? と膝丸はやや怯む。特に、膝丸が職人と呼ぶ彼女は、化粧っ気も薄く、外見に頓着している様子もあまりない。あまり持ち上げすぎると不気味に思われるのではないだろうか、と。
それに対して、「いや、乱たちの言う通りだと思うけど」と同意を示したのは、意外なことに審神者だった。
審神者こそ、見た目にあまり気を使うような男ではなかった。いつぞや、鶴丸が贈った髪紐を身に着け始めただけで本丸中が震撼したくらいだ。失礼ながらも思わず「君もか」と聞き返せば、審神者は「そりゃまあそうだよ」と呆れたように笑った。
「特に彼女は老いるだろ」
それに、はっと膝丸は目を見開いた。
「俺達人間は、お前ら刀剣男士と違って四六時中完璧でいられるわけじゃない。その中で、特にお前ら側から「太ったか?」って言われるの、その気がなくても責められてるような気がするんだよ。どうして? って」
「……俺は美醜のみで彼女を選んだわけではないぞ」
「分かってるよ。お前らの性癖って人間からしたら意味不明だもんな。見た目で選ぶんなら博物館図録見てた方がよっぽど興奮するってやつもいるし、魂の質しか見てねえってやつもいるし。だけど人間にはそれが理解できねえんだよ」
どうしても、自分が相手に釣り合う外見なのかが気になる。自分の思い通りに外見を制御できるわけではないと、余計に自分に対して焦りや苛立ちが募る。どれだけ膝丸が外見など些末なことだと思っていても、たとえ皺だらけの老婆になったとしても構わないと思っていたとしても、それが相手に伝わるまでには途方もない時間がかかるものだと審神者は言った。
「ならば、俺はどうすればいい?」
「別に無理に褒めろって言ってるわけじゃねえよ。本心で、あ、良いなと思ったら褒めればいいだろうし……向こうさんが気にしてるときも、あんまり無理に「気にしてない」って言わないでいる、くらい?」
「そうなのか?」
「気ぃ遣ってんのかなって思うだろ」
なるほど。「書き留めてもいいか?」「いややめろよ」師匠と呼びたいくらいなのだが、眉をハの字にした膝丸に、審神者は気恥ずかしそうに止める。
「長い間付き合ってたら、そのうちお互い諦めがつくようになるから」
「諦め」
「悪い意味じゃねえよ。「ああ、こいつってそういうヤツなんだな」っていうの含めて受け入れられるようになるだけ」
「君と鶴丸のようにか」
「流石に「太ったな!」って言われたらたぶんぶん殴るけどな」
拳を固めて審神者はそう笑い飛ばした。おそらく刀装すら削れないくらいの細やかな打撃なのだろうなと膝丸も苦笑した。
あの時の教えがふと蘇った。目の前には、茶房の品書を前に難しい顔をしたまま固まった彼女がいる。珍しいなと思ったのが、たぶんきっかけなのだろう。
夏が近づいた茶房の前には、新作の幟がはためいていた。品書には別刷りで「新作! 夏のおすすめ! 抹茶×黄な粉の贅沢和パフェ」とチラシが入っている。普段の彼女なら間違いなく即断即決でこれを頼むだろう。競合店が出している菓子ならば研究熱心な彼女はまず食べようとするだろうし、その上ぱふぇといえば洋菓子なのだから。
ところが、たっぷり時間をかけて悩んでいる。となると、別の理由があるはずだ。膝丸はぼんやりと彼女を眺める。普段はあまり化粧をしない彼女だが、膝丸と出かけるときは白粉をはたくし紅も差す。いつもは白い制服姿なのだが、出かけるときは洋服に身を包む。今日はゆったりとしたわんぴいすなる衣に、華奢な靴を履いている。涼やかで似合っていると言えば気恥ずかしそうに喜んでいたなと思い出しては首を振った。ではなく。
うん? ゆったりとした衣? 回想の中でひっかかりを覚えて膝丸はぱちりと瞬いた。付け加えて、先ほどよぎったあの出来事だ。
もしや、と思い、注意深く見つめると、彼女は「あ、ごめん」とはにかんだ。「待たせてるね」と。
見比べているのは飲み物の頁と、先ほどのぱふぇの紙だ。ここまでくると、流石の膝丸もぴんと来る。
「ぱふぇにしなくていいのか」
「ん? んー……そう、なんだけどねえ、いや、豪華だよね、これ……」
そふとくりいむに加えてすぽんじ、小さなどら焼き、白玉、わらびもち、ぜりいにふりあんという謎の菓子までくっついて、大ぶりの湯飲み一杯分はある。膝丸から見れば胸焼けしそうなくらい最初から最後まで甘味だらけだ。だがこのくらい、普段の彼女なら造作もなく平らげるだろう。休日に菓子屋を五軒は平気ではしごする人間だ。
それが悩む、ということは、おそらく。口を開き、出そうとした言葉は寸でのところでとどまった。
──向こうさんが気にしてるときも、あんまり無理に「気にしてない」って言わないでいる、くらい?
主の声がよみがえる。中途半端なところで固まった膝丸に、彼女はこてりと首を傾げた。
「は」
「は?」
「半分なら、どうだ……?」
彼女の目がきょとんと丸くなった。「はんぶん」たどたどしく復唱する。「半分だ」膝丸も念を押すように繰り返した。
「それくらいならば、食べられるのではないか、と」
思った。徐々にしりすぼみになっていく膝丸の言葉に、彼女はぽかあんと絶句して、膝丸の言外の意図を汲んだのか、え、あ、とわたわたと手を動かす。最終的に耳まで赤くなって、蚊の鳴くような声で「半分こで、お願いします……」と答えた。
「ひ、膝丸くん、大丈夫? 食べれる? わりとクリームが、こう、クリームだけど!」
「大丈夫だ」
おそらく、というのを飲み込んだのは矜恃のようなものだった。ここで負担をかけるわけにはいくまいと踏ん張った。女給が笑顔で「お煎茶二つと特製パフェ一つ、スプーンお二つと取り皿もご用意させていただきますね」と注文を取って去っていく。なんだかものすごく恥ずかしいことをしたような気がして、誤魔化すように水を呷った。
「この辺の、どら焼きとか、フリアンとかならそんなに重くないんじゃないかな」
「ふりあん?」
「フィナンシェの親戚みたいなもんだよ。フィナンシェは延べ棒の形をしてるから、『金持ち』って意味の名前がついてるんだけど、フリアンは特に決まった形があるわけじゃないの」
「そんな意味だったのか」
「意外だよね。私ももっとつつましやかな名前なんだろうと思ってた」
先程は顔を真っ赤にしていたのに、菓子のことになると目を輝かせてすらすらと話し始める。「使ってる材料はシンプルで素朴なのに、味が不思議と上品なんだよね。だから作り手の腕が試されてるなって思うし。食べる側としてもそのシンプルさのおかげで飽きが来ないから本当に無限に食べられちゃって罪というか」とうっとりと語る様子に、微笑ましいなと感じていると我に返ってこほんと咳払われた。
「なんで気付いたの」
「何にだ」
「もしかして鶴丸さんリークですか」
「だから何がだ?」
「…………太ったこと」
非常に言い辛そうに告白した彼女に、やっぱりかと膝丸は答え合わせをしたような気分になった。彼女が太ったという情報を何故鶴丸が掴んでいるかについては後日問い詰める必要があるなと頭に書き止めつつ「特に彼奴から何かを聞いたというわけではないが」というと、彼女は一層顔を暗くする。
「見てて分かるレベルですか……」
「いや、そういうわけではない。ただ、君がぱふぇを頼まないのは妙だと思った」
「……それだけ?」
「それだけだが」
わんぴいすを着ていたのも手掛かりにはなったが、見た目で太ったとは思わなかった。むしろ健やかに育っているのはこちらとしては嬉しいぐらいなのだが、鶴丸の二の轍は踏むまい。彼女の場合、流石に殴りはしないだろうが。
「君がふくよかになった程度で、愛想をつかすような男に見えているだろうか」
「それはない。ないです。そこは信頼してます」
「そうか」
「……あからさまに機嫌よくされるとものすごく恥ずかしいなあ」
憮然と彼女はそうぼやいた。そこまで態度に出ていただろうかと居心地悪く身じろぐと、「責めてるわけじゃなくてね」と彼女がとりなす。
「なんていうか……その、そう、人間の機微というか。膝丸くんは良くても、私がダメというか」
「ああ」
「ごめんなさい」
「何を謝る必要がある」
しゅん、と肩を下げていた彼女は、「え?」と顔を上げた。
「人間の機微は、正直分かりかねる部分もあるが、それが君にとっての重大事ならば分かち合いたいと俺は思う」
その時、ちょうどぱふぇが運ばれてくる。大きな湯呑にこれでもかと盛られた抹茶と黄な粉の山は、確かにちょっと怖気づくような量だった。明らかに若干引き気味の膝丸に、正面の彼女はくすりと吹き出す。
「じゃあ、これと、これが膝丸くんで、私はこのでっかいソフトクリームをまず片付けちゃおうかな」
「こちらがどら焼きで、これがふりあんか?」
「そう、ご名答」
金属の細い匙で器用にぱふぇを解体しながら、彼女は頷く。「フリアン、私もちょっとほしいから貰うね」「半分か?」「ええと……五分の一くらいで」しっとりとそふとくりいむに濡れた方の端をえぐり取って、彼女は自分のほうの皿にのせた。
「ふぃなんしぇという名に意味があるのならば、ふりあんという名にも意味があるのだろうか」
「あるよ」
「どのような意味なのだろうか」
「美味しいとか、大好きな、って意味」
ぱふぇの小山を半分ほど崩してから、彼女はわくわくと手を合わせた。いただきます、と手を合わせる。膝丸もそれに倣った。
ふりあんの欠片を一口。抹茶の風味が濃厚に広がる。なのにしつこくないのは、黄な粉がうまく打ち消しているからだろうか。「うまいな」ぽつんと零すと、「本当にねえ」と幸せそうに頬張った彼女が同意した。
「あ、でも若干悔しい」
「それも人間の機微か?」
「人間というか、菓子屋の機微? 洋菓子で負けるのは悔しいです、流石に」
どの辺が美味しかった? らんらんと目を光らせる彼女に、膝丸は「そふとくりいむが溶けてしまうぞ」と笑った。