小言を言う軍師と聖王 「ルフレ! ルフレ!」と、もうすっかりお馴染みになった声に、この国の軍師は小さくため息をついた。仮にも一国の王なんだからそう情けない声を出さないでほしい。そうぼやきつつマグカップから紅茶を一口。目の前の書類を一瞥して右手に持った羽根ペンでさらさらと意見を書き付ける。「いるのは分かっているんだ!」悲鳴のような声と共に扉がガンガンと叩かれて、ルフレはしぶしぶ立ち上がった。イーリスの城はそこそこに古い。ルフレが根城にしているこの書斎も例外ではなく、王国屈指の馬鹿力でノックされた木の扉は実に嫌な音で軋んでいた。
「やあクロム。訓練場の壁を壊すのに飽きたからって僕の部屋の扉を壊すのはやめてくれないかな」
「まだ壊してないだろう!」
「ノックはもっと丁寧に。あとそう何回も叩かない。ルキナが真似したらどうするんだい。君と違ってあの子は女の子なんだよ」
「ああもう小言は後で聞く! 今はとにかく匿ってくれ! 後生だ!」
とうとう手を合わせて懇願し出したクロムにルフレはこめかみを押さえた。このまま頭も下げだしそうな勢いだ。素早く廊下を見渡し、周囲に誰もいないことを確認して扉を開けたまま小さく促すと、クロムはするりと書斎に入り込む。クロムの力任せなノックを六発は耐えた重厚な扉は、重たそうな音を立てながらバタンと閉まった。
やれやれと首を振る。「あのねえクロム、王様がそう簡単に臣下に頭下げちゃダメだからね」と振り向き様に注意をすれば、そんなことは心得ているとばかりにクロムはひとつうなずき「ああすればお前は部屋に入れるだろう」としゃあしゃあと宣った。ちっ、と小さく舌打ちしてしまったのは、友人特権で許してもらいたい。
「賢くなったじゃないか」
「頭の良い軍師が側にいるお陰でな」
「そりゃあどうも。一時間前に淹れた紅茶しかないけど文句言うなよ」
「お茶が出るだけ有難い。逃げ回ってへとへとだったんだ」
勝手知ったるなんとやらで(というか、この城自体、王である彼の持ち物ではあるのだが)書斎のソファに腰かけたクロムを、ルフレはとっくり見分する。ずいぶんと質素な出で立ちだ。普段からクロムの服装は王族とは思えないくらいに質素だが、生地は流石に高い物を使っているし、王族であることを誇示するように聖痕のある右腕を晒していることが多い。それが今に至っては、庶民が身に付けているようなシャツにズボン。ファルシオンも袋に入れる徹底っぷりだ。そして先程の逃げ回っている発言である。へえ、ほおう。
「先に言っておくけど僕は味方しないからな」
「……」
「お忍びの視察は結構だけど、護衛は絶対つけろって前から言ってるよね、僕」
王子だった時代を含めると数えるのも嫌になるくらい言ってきた。王位を継いでからは王としての自覚も出たのか回数は減ったはずなのだが、またやらかしたらしい。
「君は近衛兵の胃に穴を開ける気か」
「違うんだ。今回は急を要していたというか」
「別に難しいことを要求してるわけじゃないんだよ。たった一人でいいんだ。護衛をつけてくれれば」
「だが、フレデリクは目立つんだ……!」
今もクロムを探しているであろう彼の近衛騎士筆頭を名指しして、クロムの顔は一気に苦くなる。クロムやリズが躓かないように先回りして小石を全部拾っておくような男だ。忍べるわけがないだろうと。
まあそれは一理あるが、とルフレはため息をつく。何も一番目立つヤツをわざわざつれていくこともないだろう。もっと小回りが利いて市井に馴染んでなおかつ腕のたつ者をつれていけばよかったのだ。例えば、そう。
「クロム、君の半身は誰だい? 声に出して言ってみろよ今すぐにだ」
「お前はあの時会議だったんだ!」
顔を覆って項垂れたクロムに、あああの時か、とルフレはひとつ頷いた。それならまあ仕方ないかもしれない。
「納得してくれたか」と恐る恐るこちらを見るクロムがあまりにも情けなくて、ルフレは「分かったよ」と舌鋒を収めた。
クロム曰くの急用は、半年前のの視察で商人から入手した焼き菓子にあったという。半年に一度しかこちらに訪れない東国の商人が作る素朴な焼き菓子を、いっとう気に入っていたのは彼の愛娘であるルキナだった。「また買ってきてやる」と言ったクロムに、頬を薔薇色に染めて嬉しがり「きっとですよ、おとうさま!」と跳ねていたのはルフレも微笑ましい光景として記憶している。その材料が商人の出身地でしか手に入らないが故に数に限りがあり、その上大人気であるということも。
そのくらい献上させろと思わないでもないし、実際マリアベルやティアモ辺りはそういうだろう。だが、「ほしいものはなんでも手に入るとルキナに思わせたくない」と苦く言って、「市民のものならば市民として手に入れるのが道理だ」と主張する青い王をルフレは敬愛していた。もしも行商人を召せば大騒ぎになったいただろうし、走らせた遣いが声高に聖王と王女の気に入りだと言わないとも限らない。
一応はお前を待ったのだとクロムは弁明した。ただ思いの外会議が長かったのだと。それについてはルフレにも非がある。一時間で終わるはずの会議がさらに三十分長引いたのは事実なのだから。
「お前のぶんの菓子もある。これでひとつ、大目に見てはくれないか」
「ああもう、分かったって。もう怒らない。しばらくここに匿ってもいい。ただしフレデリクが自力で嗅ぎ付けた場合、もう僕にはどうにもできないからね。そのときは素直に怒られてよ」
「ああ、もちろんだ」
嗅ぎ付けた場合、というか、恐らくフレデリクは既に嗅ぎ付けているのだろう。昔からクロムが逃げ込むのはいつもルフレの元だったのだから。
こうしていると、昔に戻ったようだと錯覚する。まだクロムがただの王子で、ルフレが右も左も分からなかった戦術師だったころ。一人で街に下りたクロムを真っ先に見つけて、小言をいうのはいつもルフレだった。そして最後には折れて、フレデリクからしばらく匿うのも。
クロムが王位を継ぐと決めたあの日から、王子は確かに王になった。国を背負う自覚が生まれて、いくつかのものを手放した。ルフレが小言をいうことも少なくなった。
素性を伏せて街に下りるのはいいが、せめて僕を連れて行けと主張したのはいつだっただろう。
「お前に叱られるのもなんだか久しぶりだな」
「叱られてる自覚はあるのかい」
同じことを考えていた気恥ずかしさを隠して、ルフレはそう呆れて見せた。
クロムが手渡した菓子は不思議と懐かしい味がする。今度は僕もマークに買ってあげようかなと言えば、その時は今度こそ一緒に買いに行くかとクロムはのんきに笑った。