【にゃんちょぎ♀】3割かわいい 猫殺しくん、見なよ。そんな一声が、雄気堂々、自信満々、そんな感じでかけられたために、南泉は声の方を見て──一瞬で顔ごと逸らした。その際にぐきっと嫌な音が鳴ったので若干涙目になったが。そんなこたどうでもいい。
「お、おま、なん、なんつうカッコを……」
「ようやく届いたんだ。ほら君お望みの格好だよ」
「人を変態みたいな言い方すんにゃ!! 服着ろ!!」
「着てるだろう」
「前を!! 閉じろ!!」
初だなあ、と呆れたように長義は言って(南泉としては呆れられる意味が全くわからないし自分の苛立ちは正当なものだと思うのだが)自分の格好を見下ろす。そんなに変な格好をしているか? と。
まあ南泉が動揺するのもそのはずというか。長義の今の格好はというと下着の上からパジャマの上を羽織っただけの状態だ。それでも不満を述べられるのは納得がいかないと頬を軽く膨らませる。「だいたい、君から言ったんじゃないか」と、ぶちぶち言いながらボタンを閉じ始める。
「寝るときもブラつけろって」
「……言った! 言ったけどにゃあ!」
「だからわざわざ取り寄せたのに。そこそこ高かったんだよ、このナイトブラ」
「だからって見せびらかすにゃ!」
「どうせいつか見るのに?」
「そんなところで開き直ってんじゃねえ! 慎みを持て!」
枕をポイとぶん投げると、長義は涼しい顔でキャッチする。そしてお返しとばかりにぶん投げ返した。剛速球ならぬ剛速枕は南泉の顔にクリーンヒット。ベッドの上に仰向けに倒れて、なんでこうなったと頭を抱える。
話の発端は一月前。南泉が幼馴染でもあるこの女、山姥切長義と籍を入れて、ふたりで過ごす二日目の夜のことだった。
昨夜はまあお楽しみだったわけだが、今夜は紳士的にぐっすり眠ろうと、まあそう思っていたわけだが。
風呂上がり、ふらりとリビングに現れた妻は上の下着をつけていなかった。
後は寝るだけの状態だ。ハーフパンツにTシャツといった軽装だったために、形のいい胸の輪郭がはっきりと浮き出て見える。その先端も。
「お、おま、なん、なんでしたぎ」
口をぱくぱくさせながら指をさす南泉に、あろうことか長義は「は?」と言った。そして自分の姿を見下ろして、ああ、と特に大したことのないように言う。
「俺、寝る前はブラつけないんだよね」
「つけない!?」
「猫殺しくんはつけたことないから知らないだろうけどあれ結構しんどいんだよ? 締め付けられるし、窮屈だし」
「だ、だからって……お前……」
道理で一緒に夜を過ごしたときには大概上の下着をつけていなかったわけである。てっきりわざわざ手間を省いてくれているのかと思っていたがあれが日常とは。
そうだとしても今の格好は刺激が強い。これからはつけられないかと言うと眉を寄せ、「やだ」の一言だ。「だいたいたかだかブラつけてないくらいでなんだ。童貞じゃあるまいし」と挙げ句南泉が悪いと言わんばかりである。いや悪いのかもしれないが。それでも男所帯上がりには刺激が強い。
頼むそこをなんとかと顔をそらしながら頭を下げると、長義はむううと唸って「考えておくよ」とだけ言った。
それから一月。長義は下着をつけないままだったし、南泉もまた悶々とすることはあれ徐々に慣れていった。
その「考えておく」と言った結果がこれである。薄いブルーのレース生地ではあったが、ナイトブラ、というのは日中つけているものとは違うらしい。タンクトップの上半分のような形は見慣れなかったが下着は下着だ。
「その、ナイトブラ? っての、普通のとは違うのか……にゃ……?」
「ああ。寝転がるとこう、胸が垂れて普通のブラならカップから溢れるんだけど、これなら全方位ホールドしてくれるから溢れることがない。締め付けも緩いし窮屈な感じもないよ」
「……そ、うか……にゃあ……」
「割と高かったけどね。まあでもブラせずに寝ると垂れるとも聞くし、いいタイミングだったんじゃないかな」
「垂れるのか……」
「あくまで噂だけども」
すっきりとした顔で、ベッドの上でストレッチを始める長義を眺めながら、南泉はなんとも言えない気持ちでいた。まあ喜ばしいことだ。少なくともどぎまぎすることはなくなった。なくなったのだが。
「………………にゃあ……」
心頭滅却。オレも筋トレしようとベッドから降りて腕立て伏せを始める南泉を見て、長義は呆れたように目を細めた。
「助平」
がたん! と盛大に床に突っ伏した南泉に、いよいよ堪えきれないと長義は腹を抱えて笑った。
めっちゃ噛んでるなこいつ。南泉は洗面台を見てそう思った。正確には洗面台のコップに刺さった、二本の歯ブラシのうち水色の方を見て思った。いやめっちゃ噛んでるなこいつ。
歯ブラシは南泉がオレンジ色を使うようにしている。水色は長義のものだ。つるりとしたクリアボディだったはずのそれは既に歯型がついてボロボロになり、ブラシは毛先が開いているなんてレベルじゃないくらいにボロボロだった。鬼のように噛んでいる。歯ブラシになんか恨みでもあんのか。
と、後ろからぬっと女が顔を出した。
「何してるの、猫殺しくん」
「いや、歯磨き」
「歯ブラシ取らせて」
少し身を引くと、長義は水色の歯ブラシを取り上げる。ミント味の歯磨き粉をぼさぼさのブラシに塗り付けて、形のいい唇を開きそのままぱくりと含んだ。
そして噛む。
「……」
そういやこいつの吸ったあとの煙草、フィルターめちゃめちゃになってたな、と思い出す。飴も結構な頻度で噛んでたよな。ストローも癖なのか噛んでいて、吸い終わったら先端がひしゃげていたっけ。
「……」
「……何?」
「いや……」
口の中に入ってるものは噛まずにはいられない性分なんだろうか。ひゅ、と下半身が冷たくなった。思い出すのは昨晩で、うん。南泉は短く頷く。
「……愛を感じてた……にゃ……」
「はあ?」
何言ってるんだこいつと言わんばかりに左右不揃いになった眉を見下ろし、南泉は自分の歯ブラシを取り上げる。
愚息は噛まれたことがなかった。
あ、待って。そんな声をかけられて彼は足を止めた。振り返ると同僚である、絶世の美女が地面に座り込んで真剣にスマートフォンを操作している。なんだなんだと近づこうとすると、しーっと指を立てられた。言われるがまま、そろりそろりと近づいて、同僚がしゃがみこんでいる理由を理解する。
路地裏に一匹の猫がいた。どうやら同僚はこの猫の写真が撮りたいらしい。
へえ、と彼は目を細めた。部署内ではやれ「鉄の女」だの「血が氷でできている女」だの言われている仕事の鬼だが、可愛いところがあるじゃないか。まあこの同僚にそういう少し抜けたところがあることくらい、彼は結構前から知っているのだが。付き合いは長いので。
それにしたってまたどうして猫なんか。大分前、犬派か猫派か聞いたときに「犬派」と即答していたのに。理由を聞いたら「命令に従順な方が好きでね」とやっぱりろくでもない返事があったのだが。
男性からは思慕の目で、女性からは羨望の目で見られる麗しの銀髪はアスファルトの地面にぺちゃりとついていて。せめて髪を上げなよと長い髪を持ち上げてやると、撮れたのか満足そうに彼女は立ち上がった。
「今月こそ猫殺しくんに勝つ。勝てる。この猫は可愛いだろう」
「勝つって、何が」
「猫デュエル」
猫デュエル?
はてな、首をさらに傾げた彼に向けて、彼女はどこか自信満々にスマートフォンをかざした。開かれているのはメッセージアプリで、上には彼女の夫の名前。そんなプライベートを簡単にご開帳していいのかと思うが、見せられているので確認すると、先程撮ったとおぼしき可愛らしい白猫の写真が送信されていた。
だが、数秒後、ぽこん、と音を立てて一枚の写真が送られてくる。同じく猫の写真だ。腹を空に向けて無防備に寝ている三毛猫の写真。
と、同僚はすぐさまスマートフォンを自分に向け直し、送られてきた写真を確認して──がっくり肩を落とした。
「負けた……」
「何が?」
「だから、猫デュエルに」
「うん、そもそも猫デュエルってなんだい?」
「撮った猫の写真でデュエルするんだよ。どっちが可愛いか」
「……」
暇なのだろうか。
いや、夫婦のコミュニケーションには口を挟むまいが。
「猫殺しくんは手強い。名前の通りだよ。すべての猫は彼の前では骨抜きにされる」
「そうなんだ」
「でも俺は負けられない。たとえ猫デュエルであろうと猫殺しくんに泥をつけられるなんて、この山姥切長義が許していいわけがないからね。だから勝つよ、俺は」
「がんばってね」
彼はなんとかそう言った。拳を握りしめて天地の万物に誓う彼女には悪いが心底どうでもよかった。
だがまあ、良かったのかもしれない。彼もまたスマートフォンをかざして、まだその場できょとりとしている白猫を撮ってみる。ローアングルで、猫が小首を傾げたタイミングを狙ったベストショット。「おお」と長義が感嘆の声を上げる。
「山姥切がようやく良い人と巡り会えたみたいでよかったよ」
「巡り会えたというよりかは、観念したが正しいかもしれないけれど」
「そうなの?」
「ずっと側にはいたからね」
「これいる?」と聞いてみると「いる」と返事。「試しに猫殺しさんに送ってみたら?」と言ってみる。自分もまた、メッセージアプリを開いて親友の名前を呼び出した。猫、好きだし。
と、ぽこん、と着信音。
「猫殺しさんから返事?」
「うん」
「何か言ってた?」
「ずるすんな、って」
ずるじゃない、試しに送っただけなのに。ぷんすこ怒る長義の手にあるスマートフォンを覗き込んで、彼はははは、と小さく笑った。長義は、誰が撮ったなんて言っていないのに、写真だけで長義撮影じゃないことを見抜いたらしい。
怖〜……と小さく心中で呟いて、彼は自分のスマートフォンを見る。親友からは既読と、「可愛いな」というメッセージと、スタンプがひとつ。うん、自分の親友が癒しだ。
「さて、そろそろ戻ろうか。昼休み終わっちゃうし」
「ああ、うん。……清麿」
「何?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
猫はもう興味を無くしたらしい。くるりと路地の奥へと向かっていくのを見送って、二人もまた職場へと歩き出した。
「南泉先輩の奥さんってぇ、どんな感じなんですかぁ?」
そんな甘ったるい声に、周囲はぎくりと固まった。その表情は「またやってるよ」と言わんばかりである。一方、声をかけられた側の南泉はというと、面倒くさそうな顔のまま、「どんな感じって言われても」と頬を掻く。
まあるい目を光らせて、南泉を一心不乱に見つめる少女じみた彼女は、随分前から南泉にお熱なのだ。そんな彼女を青天の霹靂が襲ったのは一月前。南泉が左手に指輪をしてくるようになった。話を聞けば入籍したという。聞いていないと言った彼女に南泉は言った。「言ってないからにゃあ」と。
そこで折れない、めげないのが彼女のすごいところである。なんとかして南泉の嫁の情報を聞き出して、自分のほうが良い女だということを証明したいらしい。
「たとえば、どんなところが好きなんです?」
あ、それは普通に気になるかも。それぞれは作業に集中しつつも耳だけそちらにそばだてた。なんせ南泉は嫁の話をしない。国文学専修の五月雨にはちょこちょこ溢しているらしいが、研究室内で南泉が嫁の話をすることは皆無と言ってよかった。結婚してから良人の存在を知るぐらいだ。
南泉はしばらく黙っていたが、「ねえ、南泉先輩」と押されて「好きなところにゃあ……」と呟いた。たっぷり考えてからようやく口を開く。
「……洗濯籠に靴下入れるとき、必ず表に返して入れるところ……?」
「は?」
は?
後輩の彼女だけでなく、研究室全員が思ったことだろう。なんて?
「ほ、他には……?」
「便所のスリッパ必ず揃えて出てくるところ……?」
「他には!」
「米研ぐときちゃんとボウル使うところ……?」
「なんでそんな好きなポイントが所帯じみてるんですか!?」
よく言った。研究室全員が珍しく彼女の肩を持った瞬間だった。と、それまで黙っていた一人が手を挙げる。
「南泉くんさあ、それって好きなところじゃなくて都合のいいところじゃないのお?」
口を挟んだのは研究室で同じく既婚者の女性だった。「そうですよ」援護を得て後輩の彼女も勢いづく。「他にないんですか、好きなところ!」
女性二人に詰め寄られて、うにゃあ、と南泉は呻く。好きなところ、好きなところ。
「………………顔?」
「……」
「…………」
「な、なんか言えにゃあ!」
「ねえ佐々木ちゃん、南泉くん以外にも男はたくさんいるんだからこの男だけはやめておきなさい?」
「ちょっと……考えます……」
百年の恋も冷めるとはこのことか。すごすご自分の机に戻っていった彼女らを尻目に、南泉は疲れたと机に突っ伏す。くすくす面白がっているのは他のメンバーだ。
「ね、南泉くん。他にはないんですか、好きなところ」
「どうせ都合のいいところだよ……」
「そんな風には思わなかったけどなあ」
「……卵買ってきてっつったら絶対L寸買ってくるとこ」
「あとは?」
「トイレットペーパーはシングル買ってくるとこ」
「南泉くん、それってさ。都合がいい人、と言うよりは、馬が合う人、なんじゃないですか?」
ぺちゃり、机に頬をつけた南泉が非常に複雑そうな顔をするので、研究室中がまた笑いに包まれた。
今日も地獄の激務を倒し切り、家に帰ってエプロン姿の旦那様に迎えられ、「飯の前に風呂入って来い」とお玉で指された長義は大人しく脱衣所に向かっていた。ふたりで暮らし始めて一ヶ月と少し。風呂に入っている間にご飯を作ってくれる相手のいることのなんと有難いことだろう。ストッキングをするすると脱ぎ、スカートとブラウスを手洗いモード用の籠に放り込んだ。はーやれやれ。下着を外して肩を回し、くたびれたくたびれたと風呂場の扉を開ける。
と、いつもと違う爽やかな匂いが鼻についた。柑橘系のようなそれは、シャンプーを変えたのかと一瞬思ったが違いそうだ。
なんだなんだと風呂の蓋をくるくると開けてみて、長義はぱちくりと瞬いた。お湯が黄緑色をしている。手で掬うとほんのりととろみがあった。
「猫殺しくーん!」
脱衣所から大声で叫んで見る。「なんにゃー!」と、台所から大声で返事があった。無精なのはお互い様だ。
「お風呂が何だか変なんだけどー!」
「変ってお前! あれだ! 温泡にゃ!」
「温泡?」
いや温泡は知っているが。あれだろう、バブみたいな。要するに入浴剤で。だがまたどうして。
一ヶ月一緒に暮らしてきたが、入浴剤が入っていたのは今日が初めてだ。日常的に入浴剤を使っていたわけではなさそうだし、長義はもっぱらシャワー派だ。湯船に浸かる習慣は、南泉が湯を溜めてくれるようになってからできた。
「なんでかな」
大声での会話に疲れてきて、脱衣所から顔だけ出してみると南泉もまた同じように考えていたのだろう。菜箸片手に廊下に顔を出している。
「なんでって、お前、やばかっただろ」
「やばいって、何が」
「肩。鉄板入りか?」
それに、ああ、と長義は頷いた。
デスクワーク中心の長義の肩は万年ガチガチに凝っている。数日前、戯れに肩を触った南泉が、真顔になってマッサージを始めたくらいには。
「だから温泡?」
「だから温泡」
南泉は頷き返した。その、あんまりにも真剣な顔! 長義はぷす、と吹き出す。
「な、なに笑ってんだ……にゃ!」
「いや、ふふ、お気遣いありがとう……ふふふ、そうか、そうだね、肩こりには温泡か……!」
「にゃー! オレの気遣い返せ! にゃ!」
「いや、もう返せないかな……! 有り難く受け取るよ、はは」
ひらりと手を振ってひっこめようとして、長義は少し考える。廊下の方に再度顔を出すと「ん?」と南泉が振り返った。
「一緒に入る?」
「……遠慮しとく。鯵焼きてえしにゃ」
「俺より鯵を取るのか」
「アホ。お前に食わせんだよ。さっさと入ってこいにゃあ」
しっし、と手を振るのに頬を膨らませて、長義は脱衣所の扉を閉めた。柚子の匂いがするお湯に、そっと足から浸かってみる。
猫殺しくんのくせに。あの馬鹿みたいに真面目な顔を思い出してくすりと笑う。今日のお湯は一段とあたたかい。
山姥切長義は考えた。自分は一文字南泉という男を振り回しているのではないかと。
そんなことを思ったのはつい先日。職場の先輩からの一言だった。曰く「そんな旦那さんがいていいわねえ」という。
「だって、ご飯の準備も、家事も、全部旦那さんがやってくれてるんでしょう?」
「はあ……まあ分担はしていますが」
掃除はもっぱら長義の領分だし、台所に立たないわけではない。ただ、長義と違って時間に融通が利く彼のほうがよく家事をするというだけで。だが、彼女は何かを勘違いしているのか、あるいは意図的に思い込もうとしているのか、「でも気をつけなきゃ駄目よお」と妙に粘っこい声で言う。
「甘えっぱなしで愛想つかされちゃったら大変だもの」
「……」
「山田さん、課長がお呼びですよ」
「あらやだ。ありがとう」
さ、と席を立った彼女の隣、かーっ、と顔を顰めたのは長義がよく可愛がっている後輩だった。「気にしないでいいですよ、山姥切先輩」と、さっぱりとした顔をくちゃくちゃにして、憤懣やるかたないと乱暴に椅子の背もたれを叩いた。
「女が家事やらなきゃ〜、なんて何世代前の遺物だっつーの。山姥切先輩が仕事も私生活も順風満帆だからやっかんでるんですよ」
「私生活はともかく仕事が順風満帆とは言い難いかな……?」
現に机の上には書類が山積しているわけで。いやまあそれはともかくだ。
南泉を小間使いのように扱う言い草にカチンとこなかったわけではない。仮にも先輩でなければその場でぐうの音も出ないほど言い負かしていただろう。だが、若干考えることもあったのは事実だ。
一人暮らしの自由な生活と比べて、結婚生活には色々と柵があるのは事実。もとより猫のように気ままな彼に、少し負担はかけているかもしれない。
であれば即断即決。日曜日、長義はまだ南泉の眠る寝室を抜け出して、簡単に身支度を整えて家を出た。そうすればたまの休み、南泉も伸び伸びと猫背を伸ばせるだろうと思って。
「……言い訳はそれだけか? にゃ」
「言い訳というほどのことではないけれど、そうだね」
場所は街中の素敵なオープンカフェ。頭にやや寝癖をつけたまま、常にもましてラフな格好の南泉は盛大にため息をついた。がっくりと項垂れ、かと思うときっとこちらを睨んで言う。
「報・連・相!!」
「サプラーイズ」
「心臓に悪い!」
「書き置きはしただろう」
「三行半かと思ったわ!」
べし、とテーブルに叩きつけられた書き置きには、『一人暮らしが恋しいかと思ったので家を出ます』の一言。ふむ、確かに書き方が悪いといえば悪いか。
「飯の支度も面倒くさかったらやらねえし! 文句あったらその場で言ってらぁ、にゃ!」
「そうだね。君はそういう男だね」
「しょうもないお局の取るに足らねえ言葉の方がオレより信用できるってんならお前との付き合い考え直すぞ」
「いや、あの人の言葉は心底どうでもいいと思ったけど。一人暮らし恋しくないの?」
「だから、恋しかったらそう言ってるっつの! にゃ!」
あー! 伝わんねえ! 面倒くせえ! 頭を掻いて怒鳴る南泉に、わからないなと長義は首を傾げた。面倒くさいなら関わらなきゃいいのに、南泉はこういうところがわからない。
「あーもう。いい。帰るぞ」
「あ、待って。どうせ街まで出たなら映画とか見て帰りたい」
「お前はそういう女だよにゃあ……」
「先に帰ってていいよ」
「いい。次何仕出かすかわかんねえから見張っとくにゃ……」
人を問題児みたいに扱わないでほしい。眉間にシワを寄せてキャラメルマキアートを一口飲んで。「何見るんだよ」「アサイラム」「お前まじでB級映画好きな……」呆れ顔を見て、「あ」と気づく。
「もしかしてデート?」
「次からはもうちょいまともに誘え……にゃ……」
「まともに誘ったら付き合ってくれる?」
「気分による」
そう言いつつも付き合ってくれるんだろうな。スマートフォンで映画館を検索し、スカスカの劇場のど真ん中の席ふたつを押さえて、長義はくすりと微笑する。
「帰りはデパ地下でローストビーフ買って帰ろうね、猫殺しくん」
「はあ……もう好きにしろ……にゃ」
「うん。好きにさせてもらうよ」
だって嫌だったら嫌だって言うもんね、君。
「お前さんら、ほんっとうに式挙げる気ないのかい」
白昼堂々、いちおう新婚真っ只中の夫婦のリビングにて、お茶請けの煎餅をぼりぼり噛りながら南泉の伯父はそう尋ねた。対して、尋ねられた側の夫婦はというと、それぞれ色も柄もちぐはぐなマグカップを片手にして顔を見合わせ、問うた方の男の顔を見て、そろってこっくりと頷いた。
「ない」
「ねえにゃ」
「……まじ、か?」
「マジにゃ」
「マジだね」
ふむ、と男は顎を擦る。「理由は?」フランス人形も顔負けの麗しの美貌をこってりと傾げて尋ねるのに、口を開いたのは南泉の方だった。
「こいつが」
「こいつが?」
「ドレスなんて苦行、一度やれば十分だって」
それに、男は南泉とそろいの豊かな金髪をゆったりと掻き上げ、ゆっくりと天を仰いだ。そして──「うっはははは!」と火がついたように笑い出した。
「則宗、近所迷惑だ。静かに」
「おっま、御前に対してなんちゅう言い草」
「いや、愉快! 冠婚葬祭の御披露目をやらんなんざ一文字家始まって以来の珍事じゃないか!?」
「それを言うならバツ付きの女を娶った時点で一文字家始まって以来の珍事だろう」
「お前にゃあ……言い方……」
「事実だ」
ばっさりと言い切って長義はカップを傾ける。中身がなくなったのに気づいて、サーバーから新しいコーヒーをつぎ足し、「第一、君たち男は知るよしもないだろうけどね」と柳眉を跳ね上げる。
「ウエディングドレスって死ぬほど、死ぬほど面倒くさいんだよ。やれブライダルエステだ、やれダイエットだ、やれドレスのお試着だ前撮りだ……人生で一度経験すれば十分じゃないか?」
「お前でもエステとか要るのかよ」
「そういう商売だから」
何気なくぽとりと落とされた感想だったが、則宗はうーむと目を細める。相変わらず、うちの坊主は嫁御の容貌に対する評価値が高い。
「第一、金銭面的にもね」
「山鳥毛に言えば湯水の如く注ぎ込むと思うが」
「だから言いたくねえにゃ……」
今度は南泉が空を仰いだ。給料三ヶ月分が相場だという結婚指輪だが、残念ながらまだ学生身分の南泉の所得三ヶ月分となるとしょっぱい額にしかならない。そこを「一文字家の男が嫁を娶るなら相応のものを用意しなくてはな」と微笑んで、お年玉気分で札束をスーツケースに入れて出してきたのが一文字家の現当主だった。丁重にお断りをして貯金を叩いた。
「ドレスが嫌なら神前婚はどうだ?」
「猫殺しくんの袴姿は成人式で見たしなあ」
「オレ基準かよ……」
「南泉の坊主はどうなんだ。山姥切ののめかし込んだ姿は見たくないのか」
「見たくねえって言ったら嘘だけどよ。別に無理強いするもんでもねえしにゃ」
はーまったく良い男に育ったもんだ。則宗は心中独り言ちてもう一枚と煎餅を手に取った。南泉はやれと言われればやる、くらいの気概だろうが、問題は長義にあるのかと頬杖をつく。
「節目をつけることが怖いか」
長義の青い瞳がつまらなそうに細められた。「まあそうだね」と、彼女にしては珍しくすんなりと頷いて。
「節目がつくことで、何かが変わらない保証もないだろう」
最初はそれすらも嫌がったという、左手薬指の指輪を光らせてそう答えた長義に対して、南泉は特に何も言わない。ただ穏やかに、伴侶の言葉のそのように、共に足並みを揃えて歩くだけだ。
「ま、別に今すぐやらなきゃいけねえもんでもねえしにゃあ」
くあああ、と南泉がひとつあくびをする。「それよか、この煎餅うめえにゃ。どこのなんだ?」指についた滓も舐めとり尋ねるのに、則宗はふふんと鼻を鳴らした。
「おにぎりせんべいだ」
南泉の体毛は薄い方だ。小・中・高と教師から疑惑の目を向けられてきた金髪は地毛だし、それもあってか体毛が目立たない。それを指摘すると本人はかなり微妙な顔をするのだが。
そんなことをぼんやり考えていた。布団の中で。朝の光の中で、南泉はすやすやと健やかな寝息を立てている。その、整った顎のラインが照らされて、わずかに体毛がきらきらときらめいて見えた。
髭である。
「……」
そ、と手を伸ばして触ってみる。目立たないが確かに短くて太い毛が生えている。チクチクとした感触が楽しくて、擦るように触る。
「……んー……何にゃ……」
もぞもぞと動いてゆっくりと瞼が開いた。とろんとした目は焦点が合っていないが、狼藉を働いているのが長義だとは認識したらしい。「何やってんだお前……」とむにゃむにゃ言いながらも払いのけようとはしない。
「いや、髭だなあと思って」
「髭ぇ……? そりゃ生えるだろ……生きてるんだし……」
「いつも剃っちゃうだろ」
「生やした方がいいかあ」
「いや、別に」
そういえば、洗面所にシェーバーがあったなと思い出す。使っているところに遭遇したところはまだないけれど、彼もまた髭を剃るのだと思うと奇妙な気持ちになった。
「南泉が代謝してる。生きてるんだな、君」
「当たり前のことに感動してんじゃねえにゃあ……触んな寝かせろぉ……」
そう言われると触りたくなるのが人間の心で。結局長義は南泉がぱっちり目を覚ますまで顎を擦り続けたのだった。
独り立ちしてからこの方、山姥切長義には季節感というものが存在していなかった。いや、春夏秋冬という感覚は存在する。衣替えしなかったら焼け死ぬか凍え死ぬので。そういう意味ではなくて、たとえば今年こそはちゃんと捲ろうと思っていたカレンダーは三月ほどで時を止めるし、食卓にはいつも栄養バーが十秒メシ。そんな感じの人生だ。
だからこそ、隣を歩くようになったこの男のマメさには時々本心から感心してしまう。
食後、「ちょい待て」と言われて大人しく座っていると、目の前に小さな皿が置かれた。その上には、小豆が乗った白い三角の外郎。ぽかあんとしながら南泉を見上げると、眉を軽くひそめられた。
「夏越だろ、今日」
「……はああ、そういえば君、お公家さんだったねえ……」
「お公家さんって何にゃ」
そう、この男、一見してコンビニに屯しているヤンキーにしか見えないが、生まれは千年続くやんごとなきお貴族の家である。庶民教育だと言って彼の伯父が公立小学校に南泉を放り込まなければ接点などほぼなかっただろうご身分だ。
そのご身分がスーパーのプライベートブランドのティーバッグで冷えた緑茶を淹れている。南泉と住むようになるまで湯呑なんて自前のものは持たなかった。アイスブルーのころんとした湯呑には氷が二つと薄い緑のお茶。
「まさか明日から七月だって忘れてたわけじゃねえよにゃ」
「いや、それは流石に覚えてたけど……なんだろう。君といるとシームレスに季節が過ぎていかないよね」
端午の節句には菖蒲を買ってきて粽を食べた。長義にとってはただの六月三十日が、南泉の手にかかると夏越の節句になる。不思議なものだと思いながらフォークで水無月を一口分切り取った。
「嫌か?」
「嫌じゃない。嫌だったら言ってる」
ただ、ふわふわとした心地よさがあるだけだ。
「俺の家、雛人形出しっぱなしだったんだよね。どうせ来年も出すんだからって」
「うちの大祖母様が聞いたら卒倒するにゃ」
「君がいると仕舞い忘れなくてよさそうだなと思った」
「もう要らねえだろ、結婚してんだから」
あぐ、と水無月を一口含んで、南泉がしばらく考える。別の可能性に気付いたのは数秒後。何かと鋭い彼にしては間抜けなことだなと冷茶を飲んだ。
「皐月人形って仕舞い忘れると何か不味いんだっけ?」
「……調べとく……にゃ……」
やった、勝った。なんて。口の中で快い甘さを転がして長義は少し笑った。
なんとなく、彼女はずっと自分の手の届くところにいるのだと思っていた。
誇り高く、それ故に性格が悪く、その割に抜けているところがあって、複雑で広い人間関係を築き上げていて、しかしどこか孤高な彼女だ。彼女の頭の中で描かれた人生という航路を、たった一人で行くものだと──それが当然だと思っていた。
その幻想ともいうべき思い込みが打ち壊されたのは、いつだっただろう。左手の薬指に光るものを見つけたときか。共通の知人でもある男と連名での招待状が届いたときか。それに特に何も考えずに、出席に丸をつけたときか。純白のトレーンを引きずって歩く彼女を見たときか。誓いのキスを冷めた目で見ていたときか。
どれも違う。どれも南泉は他人事のように見守っていた。実際他人事だった。こんな、結婚だなんてちっぽけな契約で、彼女の孤高さが損なわれることがあるはずもないと思っていた。
それが嘘だと突きつけられたのは、彼女が結婚して一週間。よく見慣れた筆致で綴られた、『山姥切』でない名字を冠した彼女の名前を見たときだった。
結婚しても、長義は南泉との交流を止めなかった。恋人には理解してもらえないと苦笑していたB級映画鑑賞には南泉を誘ったし、南泉の買ったポップコーンのカップから勝手に食べるのも変わらなかった。
だが、その後、「飯でも行くか」と誘ったとき、首を横に振るのは変わったところだった。そして、どこか透明な顔で「旦那が帰ってくるから」と返すのだ。
「結婚なんて、そんな劇的な恋愛の末に行われるものじゃないよ」
塩味のポップコーンをつまみながら、長義はつまらなそうに上映前の広告映像を見ていた。
「適当な時期に付き合っていた人と、たまたまタイミングがあったから、一緒になった。それだけ」
B級映画はいいよね、と指についた塩を行儀悪く舐め取って呟く。
「チープでシンプル。わかりやすくて人生とは大違いだ」
山姥切長義は人生の航路に『結婚』という海峡の通過を当たり前のように組み込んだ。だが、その海峡を、彼女という舟がすんなりと進めるかどうかは、通ろうとしてみないとわからない。
南泉が思うに、その海峡は長義にはいささか狭すぎて、避けて通ったほうがいいようだった。だが、長義は頑固で、生真面目だから、皆がそこを通るならと、無理を押して通ろうとしているようにも見えたのだ。
海は広いから、決して道は一つではないのに。
ひと月だった。長義が『結婚』を諦めるまでにかかった時間は、短いようで長かった。
あろうことか、長義は今や元がつくことになった自宅から、彼女の実家への運転手に南泉を指名した。無言で荷物を詰め込んで、助手席に乗り込んだ彼女に何がだめだったんだとは尋ねなかった。ただ、少し痩せた頬を撫でた。そのまま自然に重なろうとした唇を長義が止めた。
「もう、そういうのはいいだろ」
「あいつにはしたのに?」
「そういう儀式だ」
「儀式が耐えれたんなら、これも我慢できるだろ」
「口吻が、耐え忍ぶものだとは知らなかったな」
「人生はチープでもシンプルでもねえからにゃ」
は、と彼女は鼻白む。
「結婚一ヶ月で即浮気、相手は幼馴染でバレて離婚……そんな筋書きをお望みかな」
「お前がこうしてここに呼びつけた時点で向こうはそんなストーリー考えてんだろ。お前の策に乗ってやってんだよ」
「今なら疑惑で済む。君を縛り付けるまではしたくない」
「縛られてやるって言ってんの、わかんねえ?」
「……物好き」
「そうだよ」
悲しいかな、好きだったのだと気づいたのだ。
誰かのものになってから、誰のものでもない山姥切長義が好きだったと気づいてしまったから。
もう長義は抵抗しなかった。ただ、触れる直前に目を開いて、尋ねる。
「君、トイレットペーパーはシングル? ダブル?」
「シングル」
「じゃあいいよ」
なんだそれ。含み笑いは唇の間で押しつぶされて消えた。