1
黒板に向かってピンと伸びた手が白墨を掴む背中が好きだ。
「えー、このように、五、七、五、七、七の三十一字で作る、短い詩のことを短歌と言います」
教科書を読むときちょっと俯いた猫背気味の君が好きだ。
「古代から短歌は思いを伝えるツールとして活用されてきており、たくさんの和歌集が編まれました。特に、日本最古の和歌集とされる『万葉集』では、死を悼む挽歌、四季の美しさなど様々なことを詠んだ雑歌、恋について詠んだ相聞歌など──」
眼鏡の縁から覗く睫毛と睫毛、黒い瞳がやっぱり好きだ。
「……北原さん、聞いていますか?」
「は、はい!」
慌てて立ち上がる。そうすると、茶色い縁の眼鏡越しに黒い瞳が呆れたように細くなって、「立たなくっても結構ですよ」と言った。顔にかっと熱が上るのを感じる。「すみません」蚊の鳴くような声で謝って席に着くと、隣に座っていた美紀がくすくすと笑って、明梨は唇を尖らせてきっと睨んだ。「では、資料集を開いて」教壇の男はそう言って自身の資料集を開き、授業を再開する。
「古代から詠まれてきた和歌は、明治時代正岡子規によって革新運動が起こり、それまでの形式重視のものからより自由で個性的な近代短歌へと変化しました」
そこで一度息を継ぎ、男が再度話し始めようとしたとき、スピーカーからチャイムが流れ出す。視線を上に向け、はつりと瞬きをした男は、ぱたりと資料集を閉じて、「今日はここまでにしましょう」と言った。
「来週から歌の鑑賞に入ります。実際に皆さんに歌を詠んでもらいますので、そのつもりでいてください」
はあい、とか、ええ、とか。そんな声を聞き流しながら、男は手早く荷物をまとめて小脇に抱えた。日直の生徒が立ち上がり、男のくっきりとした字を消していく。なんとなく惜しいような気がしてそれを眺めていると、「ちょっと、明梨」と美紀がくすくす笑いながらこちらを向いた。
「水川先生のこと見過ぎでしょ。めっちゃわかりやすい」
「み、見てないし……」
「上の空だったのは事実でしょ?」
にやにやとつつかれると流石に言い返せない。口を閉ざして俯いた明梨に対して、美紀は無責任に「告っちゃいなよ」なんて言い放った。
「独身だし、彼女いないらしいよ?」
「いや、マジでそんなんじゃないって」
「ほら、もうすぐバレンタインだし、チョコあげてみたら?」
「だから、」
「何、何、何の話?」
ば、と顔をつっこんできた男子生徒に、明梨はぴゃっと肩を跳ねさせた。美紀はさっきまでのにやつき顔を一転、むすっとした顔になって「ちょっと鯰尾」とそちらを向く。
「女子トークに入んないでよ」
「えー? 今時そういうこという? ジェンダーレスが現代のトレンドでしょ」
「またわけわかんないこと言って」
「つか、水川先生の話してただろ。あの人、三月に転勤ってマジ?」
美紀はばっと鯰尾を振り返った。「は? 曖昧な情報流さないでくれる?」と眦をつり上げるのに、鯰尾は首を横に振って「いや職員室で話してたんだって」と言う。「北原なら知ってるかなと思ったんだけど」とそろそろ伺うのに、明梨はこくりと頷いた。
そういう噂があるのは知っている。水川先生は担任も持っていないし、年数的にもそろそろだと言われてはいた。「じゃあマジじゃん」と鯰尾が腕を組む。それに美紀はやっぱり柳眉を逆立てて「マジでサイテー、デリカシーなさすぎ」と鯰尾を睨んだ。
「タイムリミットは知っといた方がいいじゃん」
「それはそうだけど……」
言いよどんだ美紀に鯰尾が小首を傾げていると、「鯰尾くーん」と声が聞こえた。そちらを振り向くと、隣のクラスの物吉が手を振っている。「すみません、体操服持ってませんか? ボクの友達が忘れちゃったみたいで」と言うのに、鯰尾が「ちょい待ち!」と返した。一瞬、美紀と明梨に会釈をしてから、ぱたぱたとそちらへ駆けていく。
「流石学園のお助け王子……」と美紀がぼやき、は、と明梨を見た。「で、どーすんの、明梨」と声を潜めて尋ねるのに、「どうって」と視線を彷徨わせた。
「チョコとか渡したら? マジで」
「うちの学校、バレンタイン禁止じゃん……」
「固いこと言ってないで。ほんとに最後かもしれないんだよ」
「だとしても、」
水川先生は大人で、明梨も美紀も中学生だ。高校生ならまだしも、十近く歳の離れた子どもなんて相手にされないに決まっている。好きだって言ったって、きっと先生を困らせるばかりで、迷惑だ。
だいたい、こんなの。この歳にありがちな憧れってやつなんでしょう。膝の上でこぶしをきゅっと握り、何も言わないまま明梨は視線を落とした。
「それで明梨が後悔しないんならいいけどさ」
美紀が言った、その言葉が重く沈んだ。何かを言おうと口を開いた、それに被さるようにチャイムが鳴って、がらりと教室の戸が開き教師が入ってくる。美紀は慌てて正面を向いて、明梨もまた顔を上げた。
黒板には、習字のお手本のように美しい水川の筆跡が薄く残っている。その上に、教師が数式を描いていった。
*
放課後、明梨は鴨川沿いをとぼとぼと歩いていた。母親から頼まれたおつかいを済ませ、そのまままっすぐ家に帰っても良かったのだが、自室にいるとくよくよと悩んでしまいそうだったからだ。せめて少し歩いて気を紛らわせようと思った。冬のひんやりとした空気が川面を撫で、白いユリカモメが群れを成して飛んでいく。
やがて四条の辺りまで歩くと人通りも増えてきて、明梨はそっと脇道に逸れた。団栗通を折れて、一本奥の通りをぶらぶら歩く。花街にほど近い地域だからか、町家がぽつり、ぽつりと建っている。ゲストハウスなのだろうか、大きなバックパックを抱えた観光客が入っていくのが見えた。
その中の一軒。ふと、明梨は足を止めた。
ちびうお
堂々たる、見事な筆跡の書だった。白い半紙に書かれたその文字が、冬風にそよそよと揺れている。顔を上げ、看板を見る。「山姥切代書店」と、これまた立派な文字が躍っていた。
「代書」の文字をじっと見る。何と読むのだろう。「ダイショ」でいいのだろうか。「手紙代書」とは、手紙を代わりに書くということだろうか。誰が? 何のために? 自分で書けばいいのではないか?
中の様子は窺えない。明らかに一見さんお断りの雰囲気を醸し出している。きっと自分には縁遠い、それこそ京都に長く住んでいる人が使うところだろう。そう納得して、再度歩き出そうとした。その時、目の前の扉がからからと音を立てて開いた。
「あら」
中から出てきたのは、いかにも上品そうな雰囲気の婦人だった。藤色の着物を纏って、肩にショールを掛けている。リップ、というよりも紅と呼んだ方がしっくりきそうな、赤色に染まった唇を少しだけ開いて、驚きの表情を示したあと、すぐに麗しく微笑んで「かんにんえ」としなを作った。その口調に、すぐに、あ、花街の人だ、とわかった。
「あ、あの、こちらこそすみません」
「代書屋さんに用事?」
「え? え、いや」
「長義くん」
婦人はすぐに振り返ってそう呼びかけた。やばい、お客さんになってしまう。カチコチに固まった明梨の前、足音が近づいてくる。
「何ですか、花多江さん」
奥から聞こえてきたのは、涼やかな男の人の声だった。「お客さん」と婦人がにっこり笑う。いや、お客さんじゃなくて、と否定する間もなく、奥から人影が現れて、そして明梨は息を呑んだ。
薄暗い中でも、否や薄暗いからこそよく分かる美丈夫だった。控えめに差し込む夕日にきらきらと輝く銀髪に、理知的な青い瞳。抜けるように白い肌は、墨色の着物によく映えた。上から白いストールを羽織り、こちらに向かって小首を傾げる。その余りの美しさに声も出せない明梨を前にして、花多江と呼ばれた婦人は「あらまあ」ところころ笑った。
長義と呼ばれた青年は、「寒いだろうから、中に」と明梨を建物の中へ誘った。風が抜けやすいつくりをしているのに、中は不思議と暖かかった。長義は明梨に紅色の座布団を勧めて、ぽってりとした可愛らしいカップに紅茶を注いで出してくれた。
「いただきます」
ドキドキとしながら明梨はカップに口をつける。砂糖もミルクも入れずに紅茶を飲むことは初めてだった。うんと苦いのを予感して口にふくんだ、しかしそれはほんのりと甘かった。
「宇治田原で作られた紅茶なんだ」
「日本で作ってるんですか!?」
「そう。渋みを抑えて、後味がほんのり甘いだろう」
へえ、と驚く明梨に、長義は品良くくすりと笑った。そして「それで、用件は何かな」と尋ねる。は、と明梨は固まった。
そうだ。お客さんの顔をしてここに座っているけれど、たまたま通りかかっただけで、特に用事はないのだ。ええと、と明梨は言いよどむ。うん、と長義は微笑んだまま頷いた。特に、用は。そう言いかけて、ふと、視線の先に文机と、その上に乗った「歌集」の文字を見つけた。
「あ、あの」
「はい」
「手紙って、なんでも書いてくれるんですか」
「法に抵触しない限りであれば」
明梨は小さく息を吸う。あの、とつっかえながら、口にした。
「ラブレター、って、代書、できますか」
長義は明梨をじっと見た。明梨は視線をさっと下げて、跳ね上がった心臓を押さえつけた。何言ってるんだろう。きっと真面目なお店なのに、ラブレターなんて代わりに書いてもらえるわけがない。
すみません、と頭を下げようとした、その前に長義が口を開いた。
「できるよ」
「……え、」
「むしろ、得意分野だ」
そう笑った長義が語って聞かせたのは、この店の初まりだった。
山姥切という変わった名字の初代は、かつては京で有名な字の達人だったそうだ。乱世になって主人を徳川家に改めると、右筆という主人の代理で書状や文書を書く秘書として仕えた。そして文明開化後、再び京都に居を移した山姥切が、おもな客としたのは花街の遊女たちだった。
「字も上手く書けない、決して表沙汰にしてはならない恋を取り次いできたのがうちでね。そういうわけで、実は遠方からも恋文の代書を依頼に来る人がいるんだ」
「そうなんですか」
表沙汰にしてはならない恋、というのに、明梨の心臓はとくりと跳ねた。「それで」と長義は紅茶を口に含み、にこりと尋ねる。
「どういう恋文の代書をご所望かな」
そうだった、代書を頼むなら、言わなきゃいけないんだ、この人に。この美人に、自分の恋の話を。
それってめちゃくちゃ恥ずかしいことなんじゃないか。かあ、と頬が熱くなりながらも、明梨はなんとか言葉を探した。「あの」と何度も言いながら、おろおろとしながら。
「……伝えるか、どうかも迷っているんです。相手は、中学の先生で」
好きになったのは、明梨がまだ一年生のとき。課題で書いた作文がきっかけだった。名前を隠して張り出され、学年で講評されることになったそれの、何が琴線に触ったのか、明梨の作文が噂になったことがあった。「独特で面白いよね」「ワードセンスが絶妙っていうか」その言葉だけを切り取ると賞賛のようにも聞こえるが、中に混じっていた揶揄いの色を明梨は敏感に感じ取っていた。「誰が書いたんだろうね」と声が聞こえる度に、誤魔化し笑いをしていた。
「水川先生も、面白いと思うよね、これ」
誰かが水川を仰いでそう言った。それに、水川は首を縦には振らなかった。
「一生懸命伝えようとしている、素敵な作文だと思います」
それに、目頭が熱くなった。
初めて、伝えようとしてあがいた、自分の頑張りを拾ってもらえたような気がしたのだ。
「国語の先生で……すごく、真摯な人、なんです」
明梨は膝の上でゆるく拳を握る。水川はいつだって、まっすぐに言葉を見つめてくれる。こちらが一生懸命伝えようとしていることを、辛抱強く待って聞いてくれる。
長義はつっかえつっかえ、水川について語る明梨に耳を傾けた。
「三月で、転勤するらしいんです」
だから、それまでに、と明梨は言う。それまでに、伝えたい。伝えて良いのか、分からないけれど。でも。
「……バレンタインに、チョコ渡したらって、皆言うんですけど。うちの学校、チョコ禁止だし、先生にあげても怒られるだろうし、それに、チョコってきっと困ると思うんです」
「どうして?」
「だって、それ、告白じゃないですか。告白、したいわけじゃなくて」
付き合いたいわけじゃない。そりゃあ、水川先生が明梨のことを好きでいてくれたら、きっと本当に嬉しいと思うけれど、でも手を繋ぎたいとか、キスしたいとか、そういうわけじゃ、きっとないのだ。
そんなものじゃなくて。かといって、ふざけ半分で友チョコを渡したいわけでもなくて。
「もっと、」
もっと、真剣なものを伝えたいのだ。有難うとか、大好きですとか、そんなものを全部含んだ、大きなものを渡したいのだ。
そこまで言って、明梨は口を閉ざした。こんな依頼、きっと長義も困るだろう。恐る恐る、顔を上げてそちらを見る。長義はただ座ったまま、じっと何かを考え込んでいた。
そして、小さく微笑んだ。
「わかった」
「本当、ですか?」
「その、水川先生にだけ伝わるように書いてみよう」
「そんなこと、できるんですか」
「たぶんね」
こくりと頷き、長義は文庫から二枚、葉書を取り出した。一枚は無地、もう一枚は薄いクリーム色の地の右側に、一輪のヒヤシンスが刷られた葉書だった。それを両手で丁寧に文机の上に置いて、長義は硯に墨を擦る。
小筆に墨を含ませて、息を小さく吸い込んで。無地の葉書に、長義はするすると言葉を綴った。
ちびうお
書き終わったそれを乾かして、真白の封筒に収めて長義はそれを差し出した。はつりと瞬いた明梨に、長義は「お代はいらないから」と口にした。
「それが、君の心にあっていると思ったら、君の字で絵はがきに書き直して、君が好きなタイミングで水川先生に渡すといい」
「いいんですか」
「構わないよ。素敵な話を聞かせてもらったことだしね」
そして長義はふわりと微笑んで、「最後に君の名前を聞かせてもらえるかな」と尋ねた。明梨は頷き、自分の名前を口にする。それに長義はぱちりと瞬き「偶然もあるものだな」と呟いた。
*
三月の最終登校日、水川の机の上には寄せ書きや手紙が山になっていた。「好かれてますねえ、水川先生」にこにこと笑う、同じく国語教諭の今谷に、水川は微苦笑を返す。「若い男性教諭が珍しいんですよ」と言うと、「またまた、照れちゃって」とからりと笑って返された。
「バレンタインも凄かったじゃないですか、チョコの山」
「それこそ、若い男性が珍しいだけでしょう。この年頃の子どもは、大人に憧れるものですから」
「でも、その憧れもホンモノの心ですよ。まっすぐ好意を向けられるの、嬉しいものですよね」
「リカちゃん先生も、昔はそうだったんですか?」
「あ、生意気言いましたね。新任の頃は可愛かったのに」
ふふ、と笑い、水川はひとつひとつ、手紙を仕分けた。顧問をしていた部活動の部員達から貰った寄せ書き、三年生の女子から貰った恐らくラブレター。そしてこれは、と分けて、ふと無地の封筒が指先に触れた。
ほとんどの生徒達が可愛らしい封筒を使っている中、その手紙だけが異彩を放っていた。無垢の洋封筒は薄く、他の生徒が綴りきれないと沢山の便箋を使っているのとも対照的だった。渡してきた生徒のことははっきりと覚えている。二年生の北原明梨さん。二年間、国語を担当した生徒。
水川は封筒の中身を端に寄せて、ペーパーナイフで封を切った。中には一枚の葉書が入っている。取り出して、目をまるく見開いた。
ちびうお
「……それだけ?」
不思議そうに小首を傾げた今谷に、水川は首を横に振った。そういえば今谷の専門は中古文学だったか。ならば知らないのも無理はない。
「白秋ですよ、今谷先生」
震えるボールペンの字で書き綴った、その上の句はひたむきだった。思い出すのは彼女が一年生の頃。四百字詰めの原稿用紙に書き綴られた作文。そのまぶしさに水川は目を眇めて、封筒の中にそれを納めた。
「確かに、嬉しいものですね」
確かに若く、青いかもしれない。その瑞々しい輝きを、自分に向けてもらえた幸福に、水川は小さく笑った。春の陽気が、窓硝子越しにちらちらと机に光を落としていた。
2
冬の冴え冴えとした空気に、春の陽気が混じり始めた午後、鴨川沿いの通りを一台のタクシーが北上していた。もうじきに桜が開くだろう外に視線を向けながら、ややむっすりとした顔で長義が口を開く。
「過保護」
それに、同乗していた金髪の青年──南泉がむ、と唇を尖らせた。「まあまあ、そない言うたらんとり、長義くん」と取りなしたのは運転手で、長義が幼い頃からもう長い付き合いになる。初めて会ったときよりも皺の増えた顔にさらに笑い皺を寄せながら、「南泉くんも心配なんやろ」と言った。
「コトさん亡くならはってから、病院ついてってくれる人もおらんわけやし」
「何年同じところに通ってると思ってるんだ。ひとりでも行けるよ」
「まあまあそんなつんけんせんと。ほらもう着くから」
タクシーは滑るようにロータリーの中に吸い込まれていく。京都でも大きな医大の名前を掲げた病院の入り口、医師が立っているのに長義は眉間に皺を寄せ「過保護がもう一人いた」と小さくぼやいた。
自動で開いた扉に、まず南泉が下りる。「こんにちは、燭台切先生」と会釈をした南泉に、「こんにちは、南泉くん」と嬉しそうに目を細めた。「今日も有り難う」と言うのに「別に、たいしたことじゃねえです……にゃ」と南泉は視線をあさっての方向に向けた。それにさらに長義は不機嫌になる。
「さて、長義くんは」
「ここです」
「……機嫌悪いね?」
「ひとりで来られる、ガキ扱いすんなーって、タクシーでずっと拗ねてんだ……にゃ」
「拗ねてない」
ほら、と南泉が手を差し出すのに、長義は口をへの字に曲げつつもその手を取った。車から下りると、運転手が「先生、長義くんのこと、よろしくお願いします」と手を振って。エンジン音と共にタクシーは去って行く。
誰も彼も過保護すぎる。複雑な顔のまま立っていると、燭台切は「それじゃあ診察室へ」と長義を振り返った。「南泉くんはどうする?」
「待合で待たせます」長義は間髪入れずに答えた。どうせいつもの検査で、結果もいつもと代わり映えしなくて、それなのに一喜一憂されても面倒だ。
待合ロビーに南泉を置いて、白い廊下を長義と燭台切は歩いた。「南泉くんには話したのかい」診察室の扉を開けながら尋ねる燭台切に「何をですか」と長義ははぐらかす。分かってるくせになあ、とは言わず、燭台切は「余命のことだよ」と躊躇わずに口にした。
「パートナーなんだろ」椅子に腰掛けながら首を傾げる燭台切に、「違います」と長義は否定した。
「一緒に住んでるだけの、他人です」
「パートナーシップ制度を使うにしろ、使わないにしろ、一緒に住んでいるならば南泉くんには知っておいてもらったほうがいい……というのが医者の意見だ」
長義は口を閉ざす。燭台切の言うことはもっともだった。
「君の心臓はいつ止まるかわからないんだから」
俯いた。生まれつきいびつな形をしている心臓を、皮膚と筋肉越しにじっと見下ろす。うまく体に酸素を送ることができず、この歳まで病院の外で生き延びていることが奇跡だといわれる体を。
「……考えておきます」
結局長義はそれだけ口に出した。燭台切は「そう」と微笑む。
「デリケートなことだから、慎重になる気持ちも分かるけれども、何も知らずに置いて行かれるのもまたつらいことだから、ね」
じゃあ検査しようか、と燭台切がカルテを立ち上げた。長義は頷き、おとなしく診察台に横になる。
一通り終わらせた検査の結果はやはりいつもと変わらない。緩やかにだが、確実に死に向かっているというそれだけの内容。燭台切の説明を受け終わるころには、二時間近く経っていた。スマートフォンに「今終わった」とメッセージを送ると、すぐに既読がつく。
「待合にいる」短い返事に、呆れながら了解と打ち込んだ。まさか二時間ずっと待合にいたのだろうか。大学病院のロビーなんか楽しいものなんてないだろうに。テレビは確かあったと思うがそれくらいだ。
待合に向かうと本当に南泉は固いソファに座ったまま待っていて、「猫殺しくん」と声をかけると眠そうな目がこちらを向いた。
「終わったか……にゃ」
「まだ。会計して薬もらわないと」
「そ」
ふああ、と大あくびをする南泉に、院内喫茶にでも行っていればよかったのにと思いながら隣に腰をかける。「どうだった」と尋ねる横顔を見ないまま、「特に変わらず」と平坦な声で答えた。
「せっかく外に出たんだし、どこかで食べて帰ろうよ」
わざと話題をそらした長義に、南泉は何も言わなかった。「そうだにゃあ」と眠そうなまま同意するだけ。うどんとかどうかな、なんて続けようとしたとき、「長義くん」と女性の声が名前を呼んだ。
「あれ、安藤さん」
そちらを見て、ぱち、と瞬く南泉に、長義は「看護師さんだよ、循環器内科の」と紹介する。いかにもベテラン然とした──実際、長義が子どもの頃から世話になっているのでベテランもベテランである──看護師は、南泉に「こんにちは」と軽く頭を下げた。
「どうかしましたか。何か伝え忘れとか?」
「いいえ、そういうのじゃないけれど……長義くんにちょっと頼みたいことがあって」
「頼みたいこと?」
「代書屋さんの山姥切さんに、お願いがあるの」
それに長義は顔を引き締めた。
薬の処方と会計を終えた長義と南泉を連れて、安藤が向かったのは別病棟だった。「小児病舎だよ」長義が南泉に小さく耳打ちする。
やがて安藤がある個室の前に立ち止まると、長義の顔は引き締まった。ノックの後、「はあい」と聞こえた声は明るくて、それに少しほっとする。
「こんにちは、まどかちゃん」
明るく声をかけた安藤に、まどかと呼ばれた少女はベッドに寝たままこちらに笑顔を向けた。そして見知らぬふたりの男にきょとりとする。
「お客さん?」
「代書屋さんよ」
「代書屋さん?」
「まどかちゃんの代わりに、お手紙を書いてくれる人」
まどかはぱっと顔を明るくした。起き上がろうとするのに、安藤が背中を支え、クッションを沿える。示された椅子に長義と南泉は腰をかけた。
「代書屋の、山姥切長義と言います。こっちは、一文字南泉」
「堀内まどかです」
はきはきと名乗ったまどかは、長義が差し出した名刺に目を輝かせた。「名刺、もらったの初めてです」とはしゃぐのに、安藤が優しげな視線を向ける。
「堀内さんは、手紙を書いてほしいのかな」
「はい」
「誰宛に?」
「友達に」
そう言って、まどかは枕元の箱から手紙を取り出した。
「昔、ちょっとだけの間、一緒に入院してたひとみちゃんと、文通をしてるんです」
差し出された手紙には、錦戸ひとみという名前と、滋賀県から始まる住所が綴られていた。「中身を読んでも?」長義が尋ねると、まどかはにこりと頷く。広げた便箋を、南泉もまた覗き込んだ。
とりとめのない、子どもらしい手紙だった。学校であったこと、最近流行のゲームのこと、好きな芸能人の話、そして最後には「いつか遊ぼうね」と結ばれている。
おしゃべり好きなのだろう。たくさんの便箋を費やしてめいっぱい書かれた手紙に、思わず顔がほころんでしまう。「これのね、お返事を書いてほしいんです」まどかは言った。
「本当はね、たくさん私もお返事を書きたいの。でも、最近はすぐ疲れちゃって、長いお手紙が書けないから」
お願いできますか、と手を合わせる、小さな顧客に長義は「勿論」と笑った。安藤はほっと息をつき、まどかはやった、と小さく飛び跳ねる。
「明日、封筒と便箋をたくさん持ってまた来るよ。ひとみちゃんが好きな柄はあるかな」
「あのね、ひとみちゃん、この間生物係になったそうなの。うさぎさんの柄とか、ある?」
「あるよ」
「じゃあ、うさぎさんがいい、です」
頷いた長義が小指を差し出す。意をくんだまどかもまた小指をからめて、数度振った。
それから、長義と南泉は週に一度、まどかの病室に通うことになった。頼まれたのは長義だけだったが、ほとんどの場合南泉も着いてきた。あれもいる、これもいると大量の文房具と便箋、封筒を南泉に持たせ、長義はせっせと病室に通った。そして病室の小さな机に、これでもかとそれらを広げると、まどかは目をきらきらさせるのだ。
「可愛い! 長義さん、今回はこの、チューリップのやつがいい」
「承知したよ」
「それでね、シールは……この蝶々の」
「かしこまりました」
わざと恭しく言うと、美しい男が執事のように頭を垂れているのにお姫様のような心地になったのだろう。顔を真っ赤にしてまどかはくふくふ笑う。「ほら、あんまはしゃぐなよ」と釘を刺すのは南泉だ。「大丈夫よ、南泉さんったら心配性なんだから」そう言い張るのに、長義もまた笑って「それは同感だ」と肩をすくめた。
そうして便箋と封筒、封をするシールを選んだら、まどかは書く内容をとりとめもなく長義に話して聞かせる。この間お花見をしたこと。食事で出たお団子がおいしかったこと。院内学級のテストで一番だったこと。図書館で読んだ小説の話。喋るのにも疲れるのか、休み休み、それでも話し続けるのに、長義も丁寧に言葉を綴った。
まだ幼いまどかとひとみが読めるように、はっきりとした大きな文字で。
ちびうお
書き終わると、まどかに確かめてもらって、宛名を書いて封をする。病室を出ると大抵安藤が待っていて、「お疲れ様、長義くん、南泉くん」とふたりをねぎらった。そして決まって嬉しそうに「まどかちゃん、ふたりと会うといっつも楽しそうなのよ」と言う。
「ありがとう」
それにふたりはくすぐったく顔を見合わせて、「どういたしまして」と返すのだ。
「便箋、買い足しとくか」
病院を出て南泉がそう言うのに、長義はこくりと頷いた。緑色の市バスに乗り、南に下って寺町で下りる。鳩居堂のドアをくぐり、並んだ便箋を眺めていくつか柄物を買い求めた。
「三条のロフト辺りも見るか。まどかちゃんの好きなキャラものもあるだろ……・にゃ」
紙袋を取り上げて南泉が言うのに、長義は少し、迷った。
「南泉」
言うべきか。言った方がいいのだろう。だが、と躊躇う気持ちが声に籠もっていたのかもしれない。南泉がこちらに向けたまなざしは、いぶかしむようなものだった。
「……個室に入院する意味って、分かる?」
南泉がゆっくりと瞬き、首を横に振る。そうだよな、と長義は視線を一瞬地面に落とし、南泉を見据えた。
「普通あの病院だと、大部屋に入院するんだ。個室に移るのは、特に注意して様子を見なくちゃいけない子が多い」
つまり、と躊躇い、躊躇いながら、長義は口にした。
「堀内さんはそう長くない」
南泉はじっと長義を見つめた。
何人かが脇を通り過ぎて行った。ふたりを怪訝そうに見つめる者もいた。だから、と長義は何度か言おうとした。
だから?
「で、だからどうすんだよ」
南泉が言った。長義は頷く。
そうだ。だから、どうするんだ。
「やっぱり、ロフト行こうか」
「まどかちゃん、最近マイメロにハマってるらしいにゃ」
「ちょっと待て、なんでお前が知ってるんだ」
「お前がこないだトイレ行ってるときに聞いた」
「そういうのは代書屋に言ってくれないかな!」
わいわいと騒ぎながら歩き出す。長義の心は、不思議と軽くなっていた。
*
その時は、いつだってあっけなくやってくる。まどかが亡くなったという一報が入ったのは、それから一月後のことだった。
お別れを言いに来てあげてください。涙ぐんだ声でまどかの両親からそう言われ、南泉と長義は喪服に袖を通し、会場に向かった。「この度は、ご愁傷様です」静かに頭を下げたふたりに、まどかの両親は目元を何度もハンカチで拭いながら頭を下げ返す。母親が告げたまどかの疾患は、長義のそれと同じだった。
生まれてから何度も入退院を繰り返し、小学校にもあまり通えなかったまどかの葬式に出席しているのは、ほとんどが大人だった。その中に、ひとり、まどかと同じくらいの歳の少女がいた。見つけて南泉が軽く長義の袖を引く。長義もまた頷いた。きっと彼女が「ひとみちゃん」なのだろう。
ひとみは、笑顔で写るまどかの写真をぼうっと見上げていた。その手にしかと掴まれているのが、マイメロディの封筒だと気付いて、ふたりはそっと目配せをする。
「代書屋さん」
まどかの父親が長義に声をかける。それに、ぱ、とひとみが顔を上げた。
「代書屋さん……?」とぼとぼと近づいてくるのに、「ああ、ひとみちゃん」とまどかの父親が長義と南泉を手で示す。
「この方たちが、まどかのお手紙を代わりに書いてくれたんだよ」
「……そう、ですか」
ひとみはじっと手元の手紙を見つめた。その封筒に、シールがついたままだと気付く。封を切られた形跡もない。「まだ、読んでないのかな」膝を折り、長義が尋ねるのに、ひとみは口を引き結び、泣きそうな顔を引き締めて、首を横に振った。
「亡くなったって、連絡が来た次の日に届いたの」
「そう」
「読もうと、思ったの。でも、読めなくて」
読んだら、と唇をわななかせる。
「読んだら、終わっちゃう、から」
ぽろぽろと涙がこぼれた。長義はかける言葉を失って、ひとみを見上げたままでいることしかできない。必死に拭ってもなお落ちる涙が、宛名の「ひとみ様」を滲ませていく。
と、隣にしゃがみ込む音がした。
「ほら」
ハンカチを差し出したのは南泉だった。
「別に、今読まなくてもいいんじゃねえの」
長義が南泉を見る。南泉はひとみを見つめたまま、白いハンカチで赤くなった目尻をそっと拭った。
「ただ、いつかは読んでやってくれ……にゃ」
「……」
「まどかちゃん、ひとみちゃんに伝えるために、ずっと一生懸命だったぜ」
う、とひとみの口から声が漏れて、抱きしめた手紙に皺が寄って。それを守るように南泉がハンカチを広げる。その姿をまぶしく見上げて、長義はいつかくるいつかに一瞬、想いを馳せた。
*
夜中。南泉が寝静まったのを見計らい、長義はゆっくりと身を起こした。冴え冴えと輝いた月を見ながら、一階の店の間まで下りて、鍵付きの抽斗を開けて日記を取り出す。
隠すことでもないのだが、なんとなく見られるのが気まずくて、こそこそつけるのが習慣になってしまった。今日の日付と起きたことを記し、再び抽斗に仕舞う。寝室に戻ろうとして、ふと、ゴミ箱に四つ折りになった紙片が落ちているのに気がついた。
ずいぶん小綺麗な紙片だった。こういうものには、大抵「何か」が書かれていることを、経験則で知っている。長義はそろりとそれを広げ、中身を盗み見た。
ちびうお
三十一字をそっと唇に乗せ、長義はその文字を目に刻みつけて、再び紙片を閉ざしてゴミ箱に戻した。
一文字南泉。南泉一文字。平安より続く歌道一文字流の継承者にして、歌人。そして、長義の同居人だった。