夜を数える「とっくに消灯時間は過ぎたぞ」渋い顔をした幼馴染に、一騎は同じ顔で「お前に言われたくない」と返した。検査室を出たときに確認した時計の針は一の少し前にあったから、きっと今は一時くらいだろう。もしかしたら、とは思ったが、宵っ張りは案の定まだ起きていた。
「眠れないのか」
「そんなところ」
今日は──というか、日付では昨日なのだが、検査と同時に新薬の投与があった。経過観察のために、今日はアルヴィス内で一泊するようにと千鶴に指示されているが、検査室から出てはいけないとは言われていない。
昔から、眠れない夜というものはあった。そういうとき、自分の場合はいつまでも布団の上にいるのは逆効果だと経験で知っている。気分転換に散歩でもするかと起き上がり、暗い廊下を歩いていたときに、総士の部屋から細く光が漏れていたのを見て、呆れると同時に少しだけ安堵した。
「検査の後だろう。寝て体力の回復に努めろ」
「そう言うけど、今日は一日中検査台の上だったんだぞ。仕事も家事もしてないし、眠くなるわけない」
「何?」
どうしてこう、医者って理屈ばっかりなんだろうと思う。遠見先生や剣司はまだこちらに理解を示してくれるが、総士は理屈を通したがる。検査をしたから、治験をしたから、寝ろというのは正しいが、ロボットじゃないんだからスイッチを切るようには眠れない。
じとっと睨んでいたのが功を奏したのか、総士は一つため息をついた。
「なら、せめてふらふらうろつくな。倒れたらどうする」
「チップもあるんだし、場所は分かるだろ」
「事が急を要したらどうするという話だ」
「大丈夫だと思うけどなあ」
「それを判断するのはお前じゃない。……はあ、入れ」
彼の中で、そうすることが合理的だという判断がついたのか、それとも単に諦めたのか、総士は部屋に一騎を招き入れた。
相変わらず物のない部屋だった。机の上には色々な資料やら本やらが山のように積まれていて、パソコンもタブレットもフル稼働状態で、先ほどまで総士が何か難しいことに取り組んでいたのだろうということが分かる。今度は一騎がため息をついた。
「お前、いつ寝る気だったんだ」
「切りのいいところまで進めたら終わるつもりだった」
おそらくその切りのいいところは、一騎がドアをノックしなければ、朝になるまで来なかったのだろう。もの言いたげな一騎を遮って、総士は「お前はいいから寝ろ」とベッドの方に一騎の肩を押した。
「あ、おい」
「横になっているだけでも体力は一定程度回復する」
そういう問題じゃないんだが、眉間によった皺といい、こうなった総士は梃でも自分の意見を曲げないことを知っている。頑固、と呟けば、「お前に言われたくはない」と返され、一騎はおとなしく靴を脱いだ。
一騎が枕に頭をつけたことを確認して、総士は再び机の前に座った。よく見れば、長い髪はいつものように結わえられておらず、流したままになっている。風呂には入ったらしかった。本当に、気になったところを切りのいいところまで進めようとして、ずるずる起きていたのだろう。
「総士」
横になっているだけでいいのなら、話をしたって大丈夫だろう。呼びかけても返事はなかったが、聞いていてくれていることは分かっている。
「眠れない夜は羊を数えるといいってよく聞くけど、あれって根拠あるのか?」
「英語では羊をSheepと呼ぶ。眠ることはSleepだろう。発音が似ているというだけの単なるおまじないだ」
「じゃあ、日本人には効果はないのか?」
「単調な作業をすることで睡眠を誘発することはできるかもしれない。試しにフィボナッチ数でも数えてみたらどうだ」
その数が何なのか分からない。「ふぃぼ……?」と中途半端に復唱すると、総士はキーボードを叩く手を止めないまま、「二つ前の項と一つ前の項を足し合わせて出来る数のことだ。一、一、一足す一で二、一足す二で三、という具合に」と答える。
「三、……五?」
「八、十三、二十一」
横になっているだけの一騎が答えを出すよりも早く、色々な資料を捲って難しい構想をしているはずの総士が答える。すらりとした人差し指がタブレットを叩く、カツ、カツという音が合いの手を打つようだ。
「三十四、五十五、八十九」
パソコンの青い光が総士の輪郭をぼんやりと照らしていた。CDCのキーボードは仮想タイプで音がしないけれど、総士の部屋のキーボードはカタカタと音がする。八十九と五十五を足したらなんだっけ、と考えている間に、総士の唇が「百四十四」と答えを紡いだ。
二百三十三、三百七十七。穏やかな声が規則正しく数を数える。吸い込んだ空気には総士の匂いが混じっていた。六百十、九百八十七。
「……一騎?」
キーボードを打つ手を止めて振り返ると、幼馴染はいつの間にか眠り込んでいた。軽く首を振って伸びをする。その顔を見ているとなんだかこちらも眠くなってきた気がして、総士はパソコンの電源を落として立ち上がった。照明のスイッチを落とし、一騎の隣にもぐりこむ。フィボナッチ数はもう数えなかったが、すうすうと聞こえる寝息がその代わりだった。