カニクリームコロッケ そんなの見てて何が面白いの? と、友人に言われたことを思い出す。「サイボーメンエキって、頭こんがらがっちゃわない? しかも日野先生の研究室ってブラックなんでしょ?」と。
何が面白いのかと言われれば、上手く説明できないけれどさ、里奈。芹は顕微鏡の中を覗きこみながら、頭の中の幼馴染に言い訳をする。なんていうか、ロマンだと思う。生き物の仕組みを解明するって。それに、ブラックだって言われるけれど、日野先生はいい人だよ。ヒト由来サンプルをメインにして、マウスをあんまり使わないところも芹にあっていると感じる。ブラックだって言われるけど、コアタイムはちゃんとしてるし、ただ、あんまり好奇心の邪魔をしないというか──
顕微鏡に押しあてていた顔をそっと離し、ノートにボールペンでスケッチを書き込む。こちらのシャーレは順調のようだった。さて、次の行程は、と手を止める。背後で作業をしている先輩に指示を仰ごうと振り返り、ふと時計が目に入って息が止まった。
長辰は十二。短針は十。本日二度目のこの形は、つまり夜の十時だ。
「そ、総士先輩!」
悲鳴のような声に、丸くなった白衣の背中がもぞりと動いた。
「なんだ、立上。器具でも壊したか」
「そうじゃなくて! 時間! 時間です!」
「時間……?」
完全にヘルパーT細胞とミクロの世界に没頭していた芹の先輩は、緩慢な動きで顕微鏡から顔を上げる。真上の時計をじっと見て、瞬きを三回。ついで深々とため息をついて頭を抱えた。愛、あるいは悲哀をこめてラボ畜と呼ばれる大学院生ならともかく、ラボに入りたての学部生が実験室に残っている時間ではない。
「すまない、時間管理を怠った僕のミスだ」と謝罪するのは、芹が現在総士の研究を補助する立場にあるゆえだろう。傍から見ればアカデミック・ハラスメントそのものだ。学部生をこんな時間までこき使っているのだから。だが、芹にも過失はあるのだ。総士は確かに黙っていれば厳しそうで威圧的に見えるが、無理矢理学部生をラボに縛り付けるようなことはしない。むしろ、ちゃんと芹が声をかけさえすれば五時には帰れたはずだ。「私も完全に時計見るの忘れてて、えと、あの……」とあたふたと謝罪したが、総士は首を横に振った。
「今日はここまでにしよう。本当にすまなかった」
眼鏡を外し、気だるげに眉間の辺りを揉んだ総士は低い声でそう唸った。「帰れるか?」と尋ねられたのは、終バスもそこそこ危うい時間だからだろう。「私、自転車通学なので大丈夫です」と胸を叩けば、「そうか」と頷かれた。
「先輩こそ、大丈夫なんですか?」
「僕も家は近い方だ。それに、いざとなれば研究室にシュラフもある」
「それは大丈夫じゃないんじゃ……」
というか、ラボの片隅にあった小型の寝袋は総士先輩のだったのか。芹はわずかに苦笑した。助教から、院生の中にはラボに棲んでる人もいるって聞いてたけど、まさか直属の先輩がそうだったとは。
後片付けをしながら、芹はちらっと総士を横目で見る。皆城総士。今年で二十八になる、芹とは年の離れた博士課程の先輩だ。
この大学の医学部医学科の学生は、臨床実習に出る前の四年次に、短期間だが研究室に配属される。芹が予てより興味のあった、免疫細胞生物学の日野研究室にいたのが、皆城総士だった。
亜麻色の長髪に、怜悧な印象を与える、イケメンというよりも美人と表現した方がしっくりくる綺麗な男の人だった。実際、一緒に研究室見学に行った友人のほとんどがすっかり見惚れてしまっていたし、総士がいるが故にあのラボに行きたいと考える子もそれなりにいた(もっとも、基礎医学系でも指折りの厳しさと噂される日野研に進んだのは結局芹だけだったが)。だが、二ヶ月ほど同じ研究室で実験をしてみて芹が皆城総士に感じたことは、案外天然なんじゃないかなこの人、の一点に尽きる。
ラボ棟の外に出ると辺りはすっかりと暗くなっていた。苦々しい顔をした総士は「本当にすまなかった」と再度謝罪する。
「いえ、ほんとに大丈夫なので! 私も熱中してしまいましたし……」
手を振ってもなお総士は気遣わしげにする。いや本当に大丈夫なので! 芹が再度主張しようとした、その時、ぐう、とお腹が鳴る音がした。
「…………」
「……そういえば、昼以来何も食べていないな」
「そう、ですね」
誤魔化すように言った総士により一層いたたまれなさが増す。穴があったら埋まりたいレベルだ。秋に入り、冷え始めた夜風以外の理由で身を縮めた芹に、総士はふむと顎を擦る。
「詫びと言ってはなんだが、夕食を奢ろう」
「ふぇっ!?」
「時間が難しいようであれば無理にとは言わないが」
「い、え」
むしろこの時間まで帰らなかった場合、家に食べるものは恐らく残されていないし、芹にとっては願ってもないことだ。なの、だが。
総士の薄紫が煙る灰の双眸がじっと芹を見つめる。この人は絶対に無自覚だ。
「……行きたいです」
絞り出すような芹の声を遠慮ゆえと判断したのだろう。総士は「過失は僕にあるのだから、あまり気にしなくていい」と苦笑した。そういう問題ではないのだけど、これは分かっていない。絶対に。
食事に行くと決まったら、すぐに総士はどこかに連絡を取っていた。どこに連絡をしたのかと問うと、知り合いのやっている店だと返ってくる。
「この時間になると居酒屋ぐらいしか開いていないだろう」
「まあ、そうですね」
「居酒屋の食事はしっかり腹が膨れた気がしなくてな。何より、疲れているときにあまり騒がしい場所には行きたくない」
だろうなあと芹は頷く。勝手に決めたことを再度謝罪されたが、芹としても総士と二人で居酒屋というのは身の置き場に困っただろうから、むしろ有難いくらいだった。
「でも、先輩、こういうこと、あんまりしない方がいいですよ」
自転車を押して歩きながら、芹がぼそりと言うと総士は気まずげに頬を掻いた。
「普段は極力コアタイム内に帰るようにはしているんだが」
「じゃなくて! えっと、食事に誘うとか……」
思うに、総士は自分の行動にあまり頓着していないのだ。明らかに寝起きの顔のまま(恐らく例のシュラフを使っていたのだろうが)ラボで謎の色気を振り撒き秘書さんを骨抜きにしていたりする。普段ピリッとしている分、緩むと大変なのである。今だって、後輩の女子を食事に誘うなんて普通色々と勘ぐってもしょうがない事態だ。芹が、皆城総士はこういう人なのだと認識しているから大事にはなっていないが。
「誤解されるというか」
「もしや、これもセクハラに入るか」
「近いけど限りなく遠い……」
でもまあそういうことでいいです。がっくり肩を落とした芹に、総士は明らかに狼狽した。アカハラに引き続きセクハラである。ハラスメントに厳しいご時世だ。先輩後輩という関係だと、嫌でもなかなかそう言い出せないことだってある。よかれと思ったことが裏目にでることも。「立上が不快ならば無理強いをするつもりはない。遠慮なく断ってくれ」と眉を下げる荘子に、芹は思わず食い気味に叫んだ。
「いえその! 私は! 嬉しいので!」
「そ、そうか」
総士がやや気圧されぎみに頷いた。「乙姫、織姫……女心はお前たちの言う通り難しいな……」やらなにやら言っているが、難しいのは女心ではないと思う。
と、総士が足を止めた。
一軒の、レトロな佇まいの洋食店だった。磨りガラスの窓からはオレンジの温かな光が漏れている。「ここなんだが」と総士は『楽園』と書かれた看板を見上げた。
「知っているか?」
「はい」
というか、この大学で『楽園』を知らない人はいないだろう。サークルに所属していたなら絶対に新歓でお世話になる店だ。
お洒落な店内に、ありふれているが丁寧に作られた洋食の数々。でも、お値段はリーズナブル。芹も、里奈や広登に連れられて何度か食べに来たし、なんなら友人で里奈の双子の弟である暉がここでバイトをしていたはずだ。
だけど『楽園』って確か、九時ラストオーダーだったような。ちらっと見た扉には確かにclosedの札が下がっている。それなのに、総士は躊躇いなくドアを押した。
からんからん、と、ドアベルが鳴る。閉店しているはずなのに、穏やかなクラシックが流れる店内で、ふと、カウンターに頬杖をついていた人影が顔を上げた。
「──いらっしゃい、総士」
優しそうに微笑んでいたのは、白いコックコートを着た黒髪の男の人だった。
芹の脳内に思い出されるのは、以前、暉の勇姿を一目見ようだとかなんだとか言いながら里奈とここに来たときの記憶だ。カウンター越しに見える厨房で忙しく立ち働くコックさん。まだ若いけれど『楽園』の店主さんで、時々ホールにも出てくることもある。「笑った顔が可愛いって、一騎さん目当てのお客さんもいるんだって」と言っていた。暉に何事か言って笑っている姿に、確かに綺麗な人だなと思った覚えがある。
その人が、総士の後ろに立っている芹を見つけて、きょとんとした。
「女の子?」
「ラボの後輩だ。実験に遅くまで付き合わせてしまって、その詫びにと」
「そっか。こんな時間まで大変だったんだな」
男の人は気遣うように目を細める。「とにかく座れよ」と立ち上がり、二人をそっと促した。
「奥の席空けてあるから」
「無理を頼んですまない、一騎」
「いいよ。その代わり、賄いになっちゃうけど」
一騎、と呼ばれた男の人は、軽やかな手付きでコップにレモン水を注いだ。総士は勝手知ったる足取りで店内を進み、奥の席の椅子を引く。
「ああ、そうだ、ええと……」
「立上だ」
「立上さん、嫌いなものあるか? あと、食べられないものとか。今日の賄い、カニ使ってるんだ」
「いえ、特には……」
「やけに豪勢だな」
「今度出す新メニューの試作なんだよ」
『楽園』のキッチンは、ホールと一続きになっていてテーブル席からよく見えた。油を熱する音、ついで、何かを揚げるパチパチという音が聞こえて、芹は再度そっとお腹を押さえる。
「でも、あんまり感心しないぞ。こんな夜遅くまで後輩付き合わせて」
「それについては言い訳のしようもない」
「あの、私も悪いんです。私も実験楽しくて、時計見てなくて」
「へえ、熱心なんだな」
「将来有望だ」
さらりと褒められて顔が熱くなる。無言のまま俯く芹に、くすりと一騎が笑った。
「お待たせしました」と、一騎が皿をもって現れたのは、それからさほどもしない頃だった。薄黄緑のキャベツの繊切りの上に、狐色に揚がった俵型のコロッケが三つ座っている。それから、皿に盛られたライスと、コンソメスープと、「あとこれ、サービスな」と小さなケーキまで添えられた。
「いいんですか?」
「いいんだよ。総士の後輩ってことは、難しいことやってるんだろ? がんばってな」
「立上、もらっておいてやってくれ。こういうヤツだ」
「お前は遠慮しなくなったよな」
「流石に十年も受けとればな」
十年、と芹は小さく呟いた。十年といえば──「僕が学部の一年だった頃からの付き合いだ」と補足されて息をつく。そんなに。
「ここの食事は美味いぞ」
そう言われて芹はナイフを取った。箸でも十分に切り分けられそうなくらい、外はさっくりとしていて中は柔らかい。半分に切った断面からは、とろりとクリームが溢れた。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
溢さないように、慎重に口にコロッケを運んで、ぱくり。目を輝かせた芹に、一騎も総士も顔を見合わせて笑った。
皆城総士が、大学からほど近いところにある『楽園』の常連になってもう十年になる。
最初は、学生街に似合わないレトロで小ぢんまりした外見に惹かれた。次に、クラシックが静かに流れる空間に惹かれた。その次に惹かれたのは、丁寧に作られた洋食と、芳醇で舌にぴったりと合うコーヒー、それから。
「立上さん、本当に送っていかなくて良かったのかな」
論文を片手に二杯目のコーヒーを飲んでいた総士の意識は、気遣わしげな一騎の声に引き上げられた。皿洗いを終えた一騎は「いくら自転車って言っても夜だし」と心配そうに窓の外を見ている。
「僕としても心配だが、男性が家まで送り届けることも女性にとってはリスキーだろう」
「そうなのか?」
「見ず知らずの男に住所を教えるようなものだ」
「ああ、そっか」
そこでようやく合点のいった一騎は、「都会って大変なんだな」と微妙にずれた感想を漏らした。学生街であるこの周辺は夜になっても人通りはそこそこあるし、家までは明るい道を通ると言っていたし、ご両親に連絡もしていたから大丈夫だろう。
抜刷を捲っていると、先ほどまで芹がいた向かいの席が引かれて、一騎が座った。「それにしてもいい子だったな、立上さん」と屈託なく笑う。
「あんなに喜ばれると作りがいあるよ」
「絶品だったぞ、カニクリームコロッケ。いつも食べているものとクリームを変えたか?」
「店で出すものだから、一応な」
家では時々横着するホワイトソースをベシャメルソースにしたのだと一騎は言う。料理は自活できる程度にしかしない総士には、ホワイトソースとベシャメルソースは何が違うのか分からない。一騎がT細胞とB細胞の違いが分からないのと同じことだ。ただ、美味しいということが伝わればいいと、珍しく総士にしては投げやりに考えている。
「うちに直接後輩連れてくるのなんて初めてだったから、ちょっとびっくりしたんだ」
「そうだったか?」
「そうだよ。しかも営業時間外に」
言われてみればそうだったかもしれないなと総士はこれまでを振り返る。ゆるく肯定すると、一騎は眉をハの字にしつつ笑った。
「ちょっともやっとしたかな」
「……他意はないぞ?」
「知ってるよ」
それくらい分かってるさと一騎は唇を尖らせる。もしかして、最初、芹を見たときにわずかに声が固かったのはそういうことだったのか。
テーブルの下でぱたぱたと爪先を上下させる一騎に、総士は少し、言葉に悩んだ。
「僕にとっては、この店は特別な場所だ」
「うん」
「下手に乱されたくないと思う気持ちがあった」
「それも知ってる」
「立上はその点、下手に大声で騒いだり、この店と僕の関係についてあれこれ言ったりしないと判断した」
「暉の友達らしいしな、立上さん」
「……何故特別だと思うかの理由まで言語化すべきか?」
「してくれたら嬉しいけど、恥ずかしいならまた今度でいいよ」
気まずく論文に視線を落とした総士をしばらく観察していた一騎は、おもむろに「店閉めるな」と立ち上がった。
閉めると言っても簡単な作業だ。内鍵を閉めておしまい。家は店舗の二階にあるし、あとは電気を消してしまえば完全閉店だ。コックコートのボタンを外しながら、一騎はふと「言い忘れてたけど」と総士に目を向ける。
「なんだ?」
「お帰り、総士」
「……ああ。ただいま、一騎」
コーヒーをソーサーに置いて、読み終えた論文をファイルに綴じた。