pkmnSw/Sh ──親愛なるピオニー。
お元気ですか? オレは元気です。
*
ガラル地方の中央部を占めるワイルドエリアは、その名の通り豊かな自然にあふれた地域だ。街や道路と違って、人の手はごくわずかしか入っていない。野生のポケモンたちはその生態そのままに、生き生きと暮らしを営んでいる。研究者にとっても、トレーナーにとっても垂涎のフィールドだ。
そして、ありのままの自然ということは、すなわち、とっても厳しいということだ。
「のわ─────ッ!」
かくいう俺が、その厳しさとやらを身をもって痛感しているのである。
背後から全速力で追いかけてくるのはオンバーンだった。先程までの深い霧をようやく抜けたと思ったら、叩きつけるような豪雨と雷が降ってきて、逃げ込むように入った洞窟がどうやら巣穴だったらしい。飛び出ると同時に背後で岩が崩れたのは見なかったことにした。気づくのが一秒でも遅れていたら我が身だったとか考えたくないもんな。そんなこと考えてる暇あったら足を動かせってんだ。
全力でロトム自転車をこいでもじりじりと距離は詰められていく。そういえばオンバーンって、ドラゴンタイプの中でもかなり速い部類に入るポケモンじゃなかったっけかと考えるとさあっと血の気が引いた。ロトムのターボは既に切れかけ、俺の体力もジリ貧。万事休すとはまさにこの事だ。
いや、待て。どこか冷静なもう一人の俺が囁きかける。むしろ、これはチャンスだ。お前は何のためにワイルドエリアに分け入ったんだ?
俺は、ポケモンを鍛えるためにここに来たのだ。向こうはちょうどドラゴンタイプ。相手にとって不足はないだろう、と!
俺はベルトのボールを確かめて、ちらっと背後を振り返る。
そこには、明らかに怒った顔をした、それはそれは強そうなオンバーンの姿があった。
「──ッ、やっぱ無理!」
だってなんかあいつ明らかにやばそうなんだもん! 俺の背丈くらいある岩を一撃で砕いたんだもん!
相手取るのを早々に諦め、俺は遮二無二自転車をこいだ。ベルトについているボールの中で、相棒たちがエールを送っているのか、それともやばかったら呼べと呼んでいるのかガタガタと震えているのが分かる。
ひとまずエリアを抜けてナックルシティに戻ろう。運が良ければその間にレンジャーたちに保護してもらえるかもしれない。一縷の望みをかけて爆走する俺だったが、視界に入った深い青に急ブレーキを踏まざるを得なくなった。
増水した湖だ。
ロトム自転車は水上移動もできるが、この湖の荒れ様を考えるとどうしても速度は落ちてしまう。一方、羽ばたきの音はまだやる気十分のようで、どんどん近づいてきているのがわかった。
ええい、ままよ。俺はボールを取って振りかぶった。
「頼むぞ、パルスワン!」
せめて一矢報いてやる。低く唸ったパルスワンが地面を掻き、オンバーンが大きな耳を震わせた。
その時だった。
「ぼうふう!」
矢のようにすっ飛んできた別のオンバーンが、野生のオンバーンを吹っ飛ばしたのだ。
べちゃんと地面に落ちたオンバーンは目をぐるぐると回している。その上を、さっき攻撃した方のオンバーンがぐるりと旋回して、「お? まだやるのか?」と言わんばかりに耳をぴすぴす震わせた。
目を回しているオンバーンも強そうだったが、このオンバーンはとても強そうだ。その目がぎろりとこちらを見下ろして、ひいっと俺は縮み上がった。
いや、でも待て。さっき、このオンバーンが暴風を放ったときに、人の声が聞こえなかったか?
「そこのトレーナーさん!」
雷音に紛れて大型ポケモンの羽音がする。オンバーンが顔をあげて、声のした方にむかってふわりと舞い上がった。つられて俺も空を仰ぐ。
そこには、見たことのないドラゴンポケモンがいた。青い体に、赤い翼を持った、大きなポケモン。
その背には、女の人が一人乗っている。
「大丈夫だったー!?」
心配してくれているのだと一発で分かる柔らかい声だ。へなへなとへたり込んだ俺の顔をパルスワンがぺろぺろ舐める。しょっぱい。
*
いやあ大変だったねえとトレーナーさんは赤い翼のドラゴンと顔を見合わせて苦笑した。彼はボーマンダと言うらしい。少し前までは晴れていたのが、急に雷雨になったからあわてて高度を下げていたところで、オンバーンに追い掛け回されている俺を見つけたのだという。
ピオニーと名乗ったトレーナーさんは完全に気絶していたオンバーンを手早く回復させると、戦意を剥き出しにして唸るオンバーンにオボンの実を投げて寄越した。恐る恐る齧ったオンバーンは、どうやらこちらに敵意がないことを分かってくれたらしく、元来た方角へと戻っていく。
立ち話もなんだからとピオニーさんが案内してくれたのは、そこからほどなくしたところにあった小さな建物だった。小屋といえば小屋、家といえば家という雰囲気のこぢんまりしたそれは、現在のピオニーさんの本拠地なのだそうだ。
「霧の中を走ってたら雷雨のエリアに出て、雨宿りに入った洞窟でオンバーンに襲われたの? 踏んだり蹴ったりだね」
タオルを差し出しつつピオニーさんはころころと笑う。笑い事じゃないんですよと俺は渋い顔になった。一緒に自転車で大爆走してくれたパルスワンも不本意そうに尻尾で地面を叩いている。それに「ごめん、ごめん」と謝りながら、「でも、ここに来るなら情報はちゃんと確認しておかないと」と釘も刺した。
「今の時期、オンバーンは特に気が立ってるからね。エリア情報に載ってたはずだよ」
「……そんなの載ってましたっけ?」
「オンバーンのいるエリアには警告出てたはずだけど」
「ええ、でも巨人の帽子エリアには、」
そんなの載ってなかったような、とスマホをタップして、俺ははたと気が付いた。
つかぬことをお伺いしますが、と顔を向けると、じんわりした苦笑を浮かべつつピオニーさんは頷く。
「うん。ここはげきりんの湖だよ」
よく来たねえという労りの声が悲しかった。そういえば、霧の中を走ってるときに池のような何かを渡ったような気もする。あれは湖だったのか。
げきりんの湖といえば、豊かで厳しくて危ないワイルドエリアの中でも特ランクに厄介なエリアだというのに。よく生きてたな、俺。ぞっとしつつ身を擦ると、くしゅんとくしゃみが一つ出た。ピオニーさんはちょいちょいとスマホを指で呼ぶ。
「ロトム、この雨、いつ弱まりそう?」
「朝まで降水確率は八十パーセント以上キープロト! 雷もこれからバンバン落ちる予報で、これからのお出かけは絶望的ロト~」
「ゲッ」
じゃあ帰れないってことじゃん! 立ち上がった俺に対して、ピオニーさんのスマホロトムは「そうなるロト」と冷静かつ無情に肯定する。どうしようと憔悴する俺に、ピオニーさんは「泊まっていけばいいよ」とのんきに言い放った。
「流石にそこまでご厄介になるわけには……」
「この雨の中飛び出されて何かあった方がご厄介になっちゃうよ」
「それはそうなんですけど、でも」
「何か急ぎの用事でもあるの?」
「ない、ですけど」
「じゃあいいじゃない」
にっこりとピオニーさんは笑う。元から穏やかな雰囲気を纏った人だけれど、笑うと余計にその空気が和らいだ。
「嬉しいなあ。外からのお客さんは久しぶりだから」
そのくせ、もはや有無を言わさない。俺は困惑顔のまま、分かりましたと渋々承諾した。
シャワーを浴び、借りたジャージに着替えて(年上とはいえ女性であるピオニーさんの服でサイズが合うというのは、男心的にやや複雑だった)小さなおうちのうち居間として使っている部屋に戻ると、ピオニーさんはパルスワンを既に手懐けていた。浅めのお皿に温めたモーモーミルクを注いでもらったパルスワンは尻尾をぶんぶん振って大喜びだ。食い意地が張っていて恥ずかしいと頬を掻けば、「素直でいい子ね」とピオニーさんはパルスワンの頭を撫でた。
「それによく育ってる。ひょっとしてジムチャレンジャー?」
「はい」
「バッジはいくつ?」
「七つ。次が最後です」
「ナックルスタジアム?」
俺はこくりと頷いた。そっかあとピオニーさんは目元を緩める。
何を隠そう、俺がワイルドエリアをさ迷っていたのも、そのジムチャレンジが原因なのだ。
「キバナさんに勝てなくて……」
ナックルシティのジムリーダー。押しも押されぬトップジムリーダー。ドラゴンストーム。これまでも、決して余裕で勝ち抜いてきたわけではなかったけれど、八つ目のバッジを前にして俺の足は完全に止まってしまった。
足元にも及ばないとはこういうことを言うのだろう。
「キバナさんは、また挑みに来いと言ってくれたんですけど、どうしても勝てる道が見えなくて、それで、ワイルドエリアで特訓しようと思ったんです」
ワイルドエリアなら、天候を操作して戦術を組み立てるキバナさんとのバトルの練習にうってつけだ。ポケモンのレベルも高いから、純粋な訓練にもなる。
そう考えれば考えるほど、あのオンバーンとはやっぱりバトルをすべきだったんじゃないかと思う。キバナさんが使わないポケモンとはいえ、ドラゴンタイプだ。絶対に、良い訓練になったのに。
なのに、俺の目は、足は、強そうなオンバーンを前に竦んでしまった。
思い出すのは、あの時、圧倒的な強さで俺のポケモンたちを喰らっていった、キバナさんのドラゴンポケモンたちだった。
「特訓しようと思ってたのに……」
気付いたら、勝てるポケモンにだけ勝負を挑んでいた。自分が強いということを確かめるように。部の悪い相手からは逃げ続けていた。自分が弱いということを認めたくなかったから。
どうしてもキバナさんに勝つ自分が想像できなかった。
「……あ、あの! ピオニーさんのオンバーンも、とてもよく育てられてて、その……もしかして、キバナさんにも」
「もう随分昔のことだけどね」
「……どうすれば、」
つっかえながら発した言葉は想像していたよりもずっとずっと弱々しく響いて、瞬いた彼女から逃げるように俯いた。
ミルクを舐めていたパルスワンが、いつの間にか俺の近くに来ていた。だらんと垂れ下がった掌に頭を擦りつけて、ぴすぴすと鼻を鳴らしている。申し訳なさそうに下がった眦に、俺は淡く唇を噛んだ。その視界に、ふと、彼女の靴の爪先が入り込む。
「──どうすれば、キバナくんに勝てるか知りたい? それとも、どうすれば強くなれるのか、知りたい?」
「……キバナさんに勝つことと、強くなることは、おんなじことじゃないんですか」
それにトレーナーさんは笑って答えなかった。
「どのみち、私に教えられることはないかな。キバナくんに勝ったのも、うんと昔のことで辛勝って感じだったし、強くなる方法なんて私が知りたいくらいだし。強いて言うなら勇気と根気?」
「こ、根性論……」
「でも、実際そうだと思うよ。たとえ今の君がキバナくん必勝法を見つけたとして、それでスタジアムに行けるかどうかって別問題でしょ?」
彼女の人差し指が俺の心の中心を刺す。言葉もない俺に、彼女はにっこりと小首を傾げた。
「負けることは悔しいことだけど、怖いことじゃないよ」
はらりと、心を戒めていた、見えない何かがたった今、ほどけたような気がした。
かあ、と顔が熱くなる。言葉に出していないのに、負けたことを恥じる自分を見透かされたようで、それでいて、そんな自分を受け入れられたようで。何も言うことが出来ない俺に、ピオニーさんは穏やかな笑顔のまま、「勝利の秘訣は分からないけれど、尋ねてきてくれたら、お茶くらいは出すよ」とそっと俺の肩を叩いてくれた。
翌朝は、驚くほどの快晴だった。今日の砂塵の窪地は、ロトムによると砂嵐。フライゴンが現れることもあるのだと、ピオニーさんは教えてくれた。
「あ、あの!」
「ん? 何?」
「俺、また来ますから、その時は……そのオンバーンとバトルさせてください」
去り際、俺がそう頭を下げると、彼女は一瞬きょとんとして、それからにやっと笑ってこう手を振った。
「待ってる」と。
*
戦闘不能になったパルスワンを抱えて去っていった少年トレーナーに、彼は正直、来る確率は半々だろうなと考えていた。
夢と希望に胸を膨らませたジムチャレンジャーは、ジムリーダーにぶつかるたびにその数を減らしていく。街で一番のポケモン使いでも、ガラル全体で見ればひよっこに過ぎない。その事実は、少しずつ彼らの心を削いでいく。その道のりが順調であればあるほど。その壁にぶつかるのが後になればなるほど。
先日キバナに負けたあの子もまた、そんな人間の一人だったのだろう。青くなった顔に、キバナは「また来い」と声をかけた。
あの敗北から一週間経つ。
「来るんでしょうか」
「さてなあ」
今期のジムチャレンジャーのうち、最後のジムチャレンジを突破できたのはまだ片手の指が余るほどしかいない。最後の一人になるならば彼だろうと思っているが、ジムチャレンジの終了まで、もう日はさほど残されていなかった。
今日も来ないか。控室のソファに沈んだまま、退屈に欠伸をかみ殺していたその時だった。
「キバナさま!」
息を切らせてジムトレーナーが駆け込んできたのは。
「──チャレンジャーです」
スタジアムには既に多くの観客が詰めかけていた。バトルフィールドの中央には、パルスワンとオンバーンを連れた少年が立っている。
「来たか」
「はい、来ました」
あの時と比べれば、ずいぶんとマシになった顔で少年は笑った。キバナもつられてにぱっと笑う。
「随分遅かったな。オレさま、待ちくたびれちまったぜ」
「すみません、ずっと修業してて、気がついたらこんなに時間が経ってました」
「成果はどうだ? オレさまには勝てそうか?」
わざと挑むように小首を傾げてやれば、少年はじんわりと苦笑した。「どうでしょう」とパルスワンたちを見下ろして呟く彼に、おいおい、自信は失ったまんまかよ、と、口に出さないまでもキバナはがっかりする。
だが、こちらを向いた彼のまなざしは、思いがけずまっすぐに澄んでいた。
「キバナさんに勝つことは、目的じゃなかったのだと知りました」
「ん?」
「あなたも、ひょっとしたらチャンピオンも、俺の目標だけど、目的じゃない。だから、あなたに勝つかどうかは戦ってみないと分かりません」
それに、キバナはきょとんと眼を丸めてから、ふっと唇を緩めた。
不遜な台詞だが、そうきっぱりと言われると清々しい。ボールを二つ、ベルトから取り上げる。これ以上の言葉は無用だった。
*
最後のジムチャレンジ突破者をスタジアムの外へと送り出したあと、薄暮のナックルシティを眺めながら、そういえば、とキバナは首を傾げた。
「あいつの連れてたオンバーン、なんか覚えがあるんだよな」
ぼそりと呟くと、ボールから出ていたフライゴンがちらりとキバナを見て、パーカーの袖を軽く咥えて視線をスタジアムの方に誘導した。
「ああ、そうか。あいつもオンバーン連れてたな、そういや」
こくこくと頷き、懐かしそうに目を細めたフライゴンは上機嫌に尾を振る。
彼女が連れていたオンバーンと、あの少年が連れていたオンバーンは似ても似つかぬ顔立ちをしている。オンバーンを連れているトレーナーはそう珍しくもないはずだが、どうしてだが彼女を思い出した。
なんでだろうなあと腕を組むキバナに、フライゴンは羽を震わせ、何かを伝えるように何度か鳴く。手と足を使って懸命に示して見せるのは、戦い方だろうか。
「確かに、バトルスタイルは似てる……のか?」
伝わって嬉しいのか、満足げに目を細めるフライゴンを横目に、キバナはうーむと顎を擦った。
「だったら面白いんだろうけどな」
彼女がナックルシティのジムリーダーを下りて八年。キバナがナックルシティのジムリーダーに就任して八年。
彼女がキバナの前から姿を消して、もう八年になろうとしていた。
──海を見たことはあるか?
*
本当にこんなところに人間が住んでいるんだろうか。吹き荒ぶ吹雪の中で、私は呆然とそんなことを考えた。
オダマキ博士から、ガラル地方のワイルドエリアという地域はフィールドワークのメッカだと唆されたのが一年くらい前。ガラルの文化や風土を学んで、ホウエンから単身飛んできたのが三ヶ月くらい前。調査・研究のためにワイルドエリアに立ち入る許可をもぎ取ったのは、おおよそ一月前くらい。この地方のポケモン研究の権威であるマグノリア博士からもお墨付きをもらい、意気揚々とワイルドエリアに足を踏み入れたのは三日前だ。
最低二週間は、ワイルドエリアにこもってフィールドワークを行う。老齢の博士にかわってエリアの入り口まで見送りに来てくれたソニアさんは、「本当に気を付けてね」と眉を寄せたが、その時の私は力こぶしを作って強がって見せた。
「大丈夫です! 過酷な環境ならオダマキ博士に引きずられて慣れてますし、私のポケモンも、これでもホウエン地方のジムは制覇したくらい強いですし、オオタチもいますしピッピ人形もありますし」
「それならいいんだけど……」
ううん、と腕を組んだソニアさんは、しばらく何かを考え込んで、はたと鞄からノートを取り出した。
はてな、と首をかしげた私の前で、ソニアさんはさらさらさらりとノートに何かを書き付けて、そのページを破って私に手渡す。
「何かあったら、ワイルドエリアのここの座標に向かってみて。わたしかおばあさまの名前を出したら、きっと力になってくれると思うから」
その時は心配性だなあと笑ったけれど、ソニアさんの不安はとても的確なものだったと今は思う。
一日目、二日目はそれなりに順調だった。ワイルドエリアは噂通り、ポケモンが自然のままの姿でのびのびと生きている。ホウエン地方にも生息しているポケモンが、ホウエンとは違う環境でまた違った暮らしを営んでいるのを、私は夢中になって観察した。恐れていたような強いポケモンの襲撃にもあわなかったし、夜はテントで、トレーナーだった頃に戻ったような気持ちで手持ちたちと丸くなって眠った。
だけど、三日目には問題が起きた。
ワイルドエリアの天気は荒れやすい。フィールドとしていたエリアに振りだした雪は、やがて吹雪となって容赦なく私の体力を奪い出した。
「……天候が変わると、活動するポケモンの種類も変わるのかあ。エリア内での住み分けの事例として面白いかも」
ぼそぼそと呟いていると、足元にへばりついたオオタチはそんなことを考えてる暇があったら避難しろとばかりに鳴く。おっしゃる通りです。
エリアを移動すれば雪はやむかと思いきや、現在はエリア全域で雪ところにより吹雪らしい。アーマーガアタクシーを呼ぼうにもこの天候では飛ぶに飛べない。なんとか数時間耐えてくれというドライバーの悲痛な懇願に、私は頷くことしかできなかった。
かと言って、ここでただじっとしていたら死を待つだけだ。どうにか雪をしのげる場所はないかと考えていると、オオタチが身を伸ばして私の鞄をごそごそと探る。
あった! と示したのは、ソニアさんが手渡したメモだった。
「……げきりんの湖」
ワイルドエリア初心者の私でもわかる、超弩級の危険地帯である。
前門の狼、後門の虎。いや、虎穴に入らずんば虎児を得ず? 迷ったのは一瞬だった。こういうときに手をこまねいていたら待っているのは死だけだ。
どうにかこうにか海を渡り、深い霧の中を手探りで歩いていると、ソニアさんが言った通り、そこには小屋のようなこぢんまりしたおうちが見えた。猛吹雪にもびくりともしない頑丈な作りのドアに、飛び付き、すがるようにノックをしても返事はない。聞こえてないんだろうか?
心中で謝りながらドアノブを回せば、扉はあっさりと開いた。
おうちの中は、灯りがついていなかったけれど、確かに人が生活しているような形跡があった。小さなソファにはストールがひっかかっていたし、ローテーブルには可愛いマグカップも置いてある。住んでいるのは女の人なんだろうか。
オオタチがとてとてと歩いて壁の前で立ち上がる。何を見ているんだろうと近づいていけば、壁にはたくさんの写真が貼ってあった。
「……ガラル地方の写真?」
スマホロトムで撮ったのを印刷したのだろうか。縦横の比率が変わっていたし、それも随分古そうだ。つい手を伸ばしたのは、バウタウンの海の写真だった。
それに触れるか、触れないか、のとき、オオタチがさっと後ろを振り向いた。つられて振り返ると、目と鼻の先にいかついポケモンの顔がでんっとある。
呼吸が一秒くらい止まった。
「ひゃ────────────ッ!?」
「ダァ────────────ッ!?」
人間とポケモンのどでかい絶叫に、雪崩が起きなかったことが奇跡だと思う。
*
「じゃあ、ホウエンから遥々ガラルまで?」
「は、はい」
「キツかったでしょ、ワイルドエリアの吹雪」
このおうちの住人であるピオニーさんは、そうのほほんと笑った。確かに、温暖なホウエン地方じゃこのレベルの吹雪にはそうそう出遭えない。今更寒くなってきた気がしてこくこく頷けば、ピオニーさんはさらに顔を柔らかくして、マグカップを差し出してくれた。
「ロズレイティー。砂糖とミルクはお好みでどうぞ」
「ありがとうございます」
「オオタチにはモーモーミルクでいいかな」
私の相棒は、おかまいなく、と言わんばかりに気取っているが、ミルクのお皿に添えて出されたモモンの実に視線は釘付けだ。ため息をつきつつ「すみません」と謝れば、「いいの、いいの」と彼女は微笑んだ。
私が侵入したときにはちょうど、この今の隣にある寝室にいたらしい。ピオニーさんは、ソファに座った私に向かい合うようにスツールを出してきて腰を掛けた。
「ソニアちゃんのお友達ならなおのこと無碍にはできないし。そう言いつつ、たいしたおもてなしもできていないけれど」
「いやいやいや、十分です!」
この三日間、温かいご飯が食べられれば御の字みたいなキャンプ生活だったのだ。そこに、雨風しのげる空間を提供してもらった上、良い匂いのするお茶まで用意してもらって、これがたいしたおもてなしでなくて何だと言うのか。
わたわたと手を振る私に、ピオニーさんはくすりと吹き出した。気まずくカップに口をつけると、ふと、ボーマンダがこっちをじっと見つめていることに気付く。
「ああ、ごめんね、怖いかな。ボーマンダ」
「いえ、というよりも……ボーマンダにも、びっくりさせちゃってごめんなさい」
まだ警戒されているのだろうか。恐る恐る目を合わせてみると、彼は静かに目を瞑ってその場に伏せた。「取り乱したから恥ずかしいのかもね」と彼女は苦笑する。
「あの、ボーマンダって、この地方にはいませんよね? もしかして、ホウエンに来たことが?」
「ううん。この子は貰った卵から孵したの。ホウエンにも、ガラル以外の他の地方に行ったことも、実は旅らしい旅もしたことがなくって」
「そうなんですか?」
意外だと私は素直にこぼしていた。昔取った杵柄で、ポケモンを見る目にはそこそこ自信がある。私から見て、このボーマンダはとてもよく育てられているように思えた。それも、コーディネーターやブリーダーの育て方じゃない。バトルを想定した鍛えられ方。
てっきりジムチャレンジ経験者だと思っていたのに。でもまあ、ワイルドエリアに住んでいるなら、おのずとポケモンは育つのかもしれない。ひとりで納得していると、彼女はずいと身を乗り出した。
「ねえ、君はフィールドワーカーなんだよね?」
「ええ。まだほんのひよっこですけど」
「じゃあ、とてもたくさんのフィールドを渡り歩いたってことだよね?」
「たぶん、一般的な研究者よりは」
オダマキ博士に引きずられながら育った私は、研究者の中でも割とアクティブな方だと思う。ホウエンはもちろん、カントー、ジョウト、シンオウも。イッシュやカロス、アローラは、本格的な調査こそまだだけれど、何度か顔を出している。
じゃあ、と彼女は顔を輝かせた。
「聞かせて、他の地方のお話」
年はさほど変わらないはずなのに、子どもみたいな顔をしてねだられて、私はつい「いいですよ」と反射的に答えていた。
それから私は乞われるままに話をした。ホウエンでの初めてのフィールドワークが砂漠で大変だったこと。その次はテンガン山。間違って北に抜けて凍え死ぬかと思った。アローラは生態系が全然違って、なんとロコンが氷タイプだという話。
「ボーマンダの生息地も調査に行ったりしたんですよ」
そう言うと、ピオニーさんはいっそう目をきらめかせた。
「この子、卵の状態で私のところに来てからずっとガラルにいるの。だから、本当の生息地を知らなくて」
ボーマンダの首に抱き着くようにした彼女は、そのままぺたんと体を預けて、「どんな感じなのかなあ」とうっとりと目を細めた。
「……旅、しないんですか?」
「ううん、時々考えることはあるけれどね。……なんだか怖くって」
「怖い?」
それだけ強いポケモンがいたら、きっと大体のことは何とかなるだろうに。それとも、やっぱり女の子だからだろうか。
「君は、どうして旅をするの?」
まっすぐに問われて、どうしてだろうと改めて胸に手を当てた。
ポケモンの研究をするのに、フィールドワークは絶対条件じゃない。文献を読んで研究する方法もあるし、ポケモンを飼育して研究する方法もある。わざわざ自然の中に分け入って、時々死にそうな目に遭ったりして、本当に死にかけたりもしながら、それでも私はザックを背負ってフィールドに行く。
どうしてなんだろう、と思ったとき、ふと、オオタチの姿が目に入った。
「……森や野原に住むオオタチと、街に住むオオタチとでは、身のこなし方が少し違うんです」
「住んでいる環境が違うから?」
「はい。でも、どう違うのかは、やっぱり実際に見てみないと分からない」
木のうろに巣を作るのか、街の水道管を住処にするのか。
文献にもたくさん載っている。だけど、センチメートルやグラムで表せても、実際にどれくらい狭いのか、温度は、巣の内部は、周辺環境は、そんなことは、肌で感じてみないと分からないこともある。
「食物連鎖の起こり方、ポケモンたちの持つ独自の文化、暮らし方……地続きで環境が似てるって言われてるカントーとジョウトだって、実際どれだけ離れているのかは、自分で歩いてみないと分かりませんでした」
「……寂しいって思ったことはない?」
ぽつんと彼女は尋ねた。
「知らない街にひとりでいて、どこに自分を置けばいいのか、わからなくなることはない?」
「ううん、そうですねえ。帰りたいって思うことはしょっちゅうあります」
というか、実際今も帰りたいと思っている。この二週間の調査が終わったら、我が愛しのホウエンに戻って、フエンタウンの温泉に入って煎餅を食べてサイコソーダを飲むと決めている。
でも、それは別に後でもいい。
「帰りたかったら帰りますからねえ」
ゆらゆらと揺れているピオニーさんの瞳に向かって、私は安心させるように笑いかけてみた。
「旅って、どこかに行くことではあるけれど、どこかに行ってしまうことではないと思うんです」
大きく目を見開いた彼女は、しばらくそうやって驚いていて、やがてゆっくりと元のように、柔らかい顔に戻っていった。
「そうだね。そうだったのかもしれない」と、穏やかに呟いて。
朝になると嵐は過ぎて、雲は薄く残っていたけれど調査には問題がないくらいに天候は落ち着いた。すぐにでも出発しようとする私を引き留めて、ピオニーさんは最後にと、木の実やキノコが採れる場所や非常時に駆け込んでも比較的安全な洞穴なんかを記した地図を渡してくれた。
「またいつでもおいで」
「はい。ありがとうございます」
「君の話を聞いていたら、なんだか私も、外に出て見たくなっちゃった」
あのね、とピオニーさんは、内緒話でもするみたいに声を潜める。
「私、海が見てみたかったの」
「海、ですか?」
「そう。ワイルドエリアにも、ナックルシティにも海はなかったから」
「だから、壁にバウタウンの写真が……」
ずいぶん古い写真だった。画素も荒くて、だけど大事にされていたことがよく分かる写真。彼女は驚いたように「海の写真だけでバウタウンのものだって分かるの?」と目を丸めた。
「同じ港町でも、ホウエンのカイナシティやシンオウのミオシティ、ジョウトのアサギシティとは、映り込んでるポケモンが違ったり雰囲気が違ったりするので、大体は」
「すごい。すごいね」
「実際に見てみたら、きっともっと分かりますよ」
悪戯っぽく言えば、彼女も笑った。
イッシュ地方では、旅立つ人間の幸運を祈る言葉がある。私たちはそれを別れの挨拶にした。いつか、ひょっとしたらどこかの街で逢えたらいいな、なんて、淡い希望も抱きながら。
*
「ええ、じゃあやっぱジムチャレンジできねえの?」
「うん。ごめんね、キバナくん」
記憶の中の彼女は、いつもぼんやりとした微笑みを浮かべていた。その時の彼女もまた、ぼんやりした微笑みのまま、困った顔をしていたことを覚えている。
「おじいさまが亡くなっちゃってから、おうちのこともあるし、ナックルシティを長い間離れるわけにはいかないって……」
「ちぇっ、つまんねえ」
そう言われても、と彼女は苦笑してコモルーを撫でる。十にも満たない、自分と同じ年ぐらいの少女が妙に大人ぶっているように見えて、キバナはむっとしたまま「別に」とそっぽを向いた。
子どもには逆立ちしたってどうしようもないことがあることくらい、キバナにだって分かっている。ここで駄々をこねても彼女が一層大人びた顔をして困るだけだということも。
「ジムチャレンジはできないけど、キバナくんと戦えないわけじゃないよ」
「当たり前だ。勝ち逃げは絶対許さねえからな!」
びしっと指をつきつけてそう宣言すると、彼女の曇った顔は幾分か晴れたようだった。だけど、本当の心残りは、もっと別のところにあることもまた、キバナは知っていた。
お互いに初めてポケモンを手にして、トレーナーズスクールに通っていた頃には、よくポケモンリーグのガイドブックを見て胸を躍らせていたのに。
──バウタウンは港町で、ジムリーダーが使うタイプは水!
──へえ、オレ、ホンモノの海は見たことねえな。
──ナックルシティに海はないもんね。
──オマエは? 海を見たことはあるか?
──ないよ。ここから出たことないもん。
ああでも、と在りし日の彼女はこう笑った。
──ジムチャレンジの旅に出たら、一緒に見に行こうね。海。
「……オマエ、今度スマホ買ってもらえよ」
「え、どうして?」
「海の写真、送ってやるから」
目を逸らしつつそう言うと、彼女はきょとんとして、いつも穏やかに浮かべていた笑顔を一瞬だけくしゃくしゃに歪めて、「ありがとう」と小さく呟いたのだ。
「──フライゴン、降下だ」
短く命じると、長年の相棒は承知したとばかりに一声鳴いて高度をうんと下げた。湖面ギリギリを滑空し、岸に着地する。いたわるように首を一度撫でてやってその背から降りると、深い霧の向こうに小さな家があるのが微かに見えた。
先日のパルスワンとオンバーン使いは、無事にリーグを勝ち上がって来て再びキバナと相まみえた。次に勝ったのはキバナの方だった。
負けましたと悔しさをにじませながら、それでも清々しく笑った彼に、ワイルドエリアのどこで修業をしていたのかと問えば、げきりんの湖だと答えられた。
一週間ほど前に、ダンデの紹介状を携えてキバナのもとを訪ねてきたのは、ホウエンからやってきたポケモン博士だった。ワイルドエリアのフィールドワーク中に猛吹雪に遭って、げきりんの湖にいたトレーナーに助けてもらったのだと話していた。
オンバーンとボーマンダを連れたポケモントレーナー。心当たりがないこともない。
晴れの日でも、雷雨の日でも、不思議と白い霧に包まれた一角があることは把握していた。ワイルドエリアを管理しているローズやオリーヴに聞いても言葉を濁されたその場所に、キバナは初めて足を踏み入れる。
閉ざされた扉に手を当てる。小さく深呼吸をして、ノッカーに指を引っ掻けた。
──ゴン、ゴン。
「……留守か」
それとも居留守か。視線で問えばフライゴンは黙って首を振る。人の気配はない、ということか。
恐る恐るドアノブを握って捻れば、あっさりと扉は開いた。
そこには、人間の住んでいた形跡がそのまま残っていた。大型のポケモンでも座れるくらいの大きさのソファにクッション。本棚にはドラゴンタイプのポケモンにまつわる本が整然と並べられ、食器棚にも綺麗に磨かれたグラスや皿が仕舞われている。その近くには、ポケモンの名前が書かれた餌皿が詰まれ、ポケモン用のおもちゃも箱の中に片付けられていた。
キバナは無言でその家の中を歩く。二つしかない部屋の片方は寝室だった。そこにも入ろうとすると、すかさずフライゴンがフードを咥え、無言のままに抗議する。「わかったよ」笑って扉を後ろ手で閉めた。
人がいた気配は確かにあった。電気は通っていたし、蛇口を捻れば水も出た。ただ、冷蔵庫はコンセントが抜かれて中身はきれいに空だったし、ゴミ箱も、洗濯機の中身も空だった。
勝手知ったるなんとやらで、キバナはソファに腰をかける。傍らに控えたフライゴンが、ふと壁に視線を向けた。
そこには、古ぼけた写真が何枚も飾られていた。
バウタウンの海。ルミナスメイズの森。鉱山。ヨロイ島の風景。カンムリ雪原なんて真っ白で何が何だか分からない。
前時代のスマホで撮った写真だ。画素も荒くて、紙に印刷してしまえば余計ぼやけてしまう。そんなものを、彼女は今も大切に飾っていた。
「──ピオニー」
呼びかけても返事はない。キバナは立ち上がり、ただ黙ったまま、その写真を撫でた。
──強くなってやるからな。
*
ターフタウンは農業が盛んなのどかな町で、オブラートに包んだがつまりは結構な田舎ってことだ。だから、この町の人間かそうでないかはすぐに分かる。
スタジアムがあるせいで、ジムチャレンジの時期になるとチャレンジャーが集まるけれど、オフシーズンに訪れる人は珍しい。女の子ひとりなら尚更だ。ユーはどうしてガラル地方に? なんてテレビ番組があったけれど、それとほとんど同じテンションで私が聞いたら、ピオニーさんは困ったように笑ったまま「本物の地上絵が見たくて……?」と答えた。
「どうして疑問形なのさ」
「なんというか、ひとまずの目標だからかなあ」
そう言って彼女はウールーの頭を撫でた。
「この子で全員揃ったかな」
「うん。ありがとう。助かっちゃったよ」
「ううん、気にしないで。そもそも柵を壊しちゃったのは私の方だし」
後ろの方で眠たそうに欠伸をしていたチルタリスが気まずそうに首をすくめた。それを言うならあたしにだって否はあるはずだ。だって、ピオニーさんのチルタリスがウールー牧場の柵を壊したのは、元をたどればあたしのバイウールーがチルタリスに喧嘩を売ったからなんだから。
あたしが生まれた日に生まれたバイウールーは、ウールー時代からの仲良しで、せっかちで負けん気の強い性格だ。父さん母さんや兄弟は失礼なことにあたしに似てるって言うけれど、バイウールーほど短気ではないと思う。
だってこいつときたら、ピオニーさんが放していたチルタリスを見るなり、すぐに突進の構えを取ったのだ。当然チルタリスも応戦するでしょ。まあ確かに、バトルフィールドでもないこんな野原でいきなり流星群を撃つチルタリスもチルタリスだけど。
「こちらこそ、ごめんなさい。バイウールーの回復までしてもらっちゃって」
「いいの、いいの。ポケモンセンターに行ってる場合でもなかったし、ウールーを集めるのならチルタリスよりもバイウールーの方が得意でしょう?」
そうは言ってもだ。せめて傷薬代は出しますと主張しても、ピオニーさんは頑として受け取らなかった。
バイウールーはすっかり凹んでしまっているみたいで、ウールーの塊の中でしょんぼりしている。一方、トレーナーさんのチルタリスときたら、バイウールーの全力の突進でもほとんどダメージを受けなかったみたいで、ケロリとしたまま草の匂いがする風を全身に受けている。
「……強いんだね、ピオニーさんのチルタリス」
「そりゃ鍛えたからね。君のバイウールーも、なんていうか、すごくガッツを感じたよ」
「ガッツだけはね」
本当にお前はバイウールーなの? と言いたくなるくらいには。じっとりと睨むあたしに、ピオニーさんはにっこり笑った。
「きっと強くなりたいんだね」
「バイウールーが?」
「私にはそう見えたけどなあ」
だとしても、自分よりも倍以上は強そうな、しかもドラゴンタイプのチルタリスに喧嘩を売るなんて割と無鉄砲だと思うんだけど。特性が不屈の心になったからって頑張りすぎじゃない?
呆れつつもあたしはバイウールーを呼んだ。ウールーまんじゅうの中で大福になってたバイウールーは、恐る恐る顔をあげてこっちにのそのそと歩いてくる。
「もう怒ってないよ。まったく、あんたってば。バトルしたいならまずあたしを呼んで。トレーナーの指示なしで戦うのはただのケンカ!」
ぐめめ、と小さく鳴いたバイウールーは本当に反省しているらしい。このくらいで許してやりますかと腰に手を当てて胸を張れば、ピオニーさんとチルタリスがそろってぷっと吹き出した。
ピオニーさんは今日ターフタウンに着いたらしい。今日はここで一泊して、明日か明後日にはバウタウンに向かうつもりなのだと話した。
「だから宿を探してて。ポケモンセンターでもいいかと思ったんだけど、せっかくだから」
「宿かあ。バウタウンに行くなら、アーマーガアタクシーを呼びやすいところがいいよね」
「いや、その辺りは特に拘らないよ。バウタウンには歩いて行くつもりだから」
「歩いてェ!?」
いや、歩けない距離ではないんだけどさ! でも、ガラル地方にはアーマーガアタクシーっていう便利な手段があるのに。ピオニーさんだって、ターフタウンには流石にタクシーで来たんでしょと聞けば、「エンジンシティから歩いてきたよ」と当たり前のように答えられた。嘘でしょ。
「……もしかして、今ジムチャレンジ期間と勘違いしてるとかないよね? ヤローさんなら頼んだらバトルくらいはしてくれるかもだけど」
「あはは、流石にしてないよ。ないない」
開会式もしていないしねと付け足されたがそういう問題じゃない。だったらどうしてこんな七面倒くさいやり方で旅をしてるんだろう。
「あ、もしかして、元ジムチャレンジャー? それで思い出の道を一緒に歩いてるとか」
「ううん、実はジムチャレンジしたことないんだよね」
「嘘!?」
「ほんと」
でも、一度やってみたかったかな、と、ピオニーさんはあっけらかんと言った。それに、あたしは絶句するばかりだった。色々と予想外が多すぎる。
そんな私を置いて、トレーナーさんはのんびりとチルタリスに笑いかけた。
「だから、宿の立地については特に注文はないかな。強いて言うなら、この子が入っても大丈夫なくらい広い部屋があれば嬉しい。あと、手持ちの中には百キロ級の子がいるから、できれば一階が有難いかな」
「えっと……」
ぐめめぇ。バイウールーがあたしの方を見て鳴いた。
「うち、民宿もやってて……来る?」
ぱああっと音が出そうなくらい、ピオニーさんの顔が輝いた。
*
うちで一番広い部屋が、そのままピオニーさんの泊まる部屋になった。それでも、大型の子が多いという彼女の言通り、手持ちを全員出すとぎゅうぎゅう詰めになってしまったけれど。
人は見かけによらないとは言うけれど、ピオニーさんのふわふわして穏やかな雰囲気に似合わず、手持ちは本当にいかつい子が多かった。ふわふわしていたのはチルタリスくらいだと思う。後はオンバーンに、ドラパルト、サザンドラ、オノノクス、あと、ガラルでは見たことのないポケモンは、ボーマンダだと教えてもらった。
見事にドラゴンタイプで統一されている。出身はナックルシティだと言っていたから、キバナさんに影響されたのかもしれない。「ひょっとしてファンとか?」と聞くと、おかしそうにくすくす笑ってから「そうだね。ファンかな」と返ってくる。
「もったいないなー。どうしてジムチャレンジしなかったの? こんなに皆強そうなのに」
「色々あってね。君のバイウールーもとってもよく育ってる」
「あたしのバイウールーは、ヤローさん直々に鍛えてもらってるの」
鍛えてもらってるというか、いつも遊んでもらってるというか、だけど。それこそ、バイウールーがウールーだった頃から、ヤローさんにはお世話になっている。
だったら、と彼女はこてんと首をかしげた。
「ヤローくんに見てもらえてるのに、君こそどうしてジムチャレンジしないの?」
それに、あたしは口をつぐんだ。
「……しないんじゃなくて、できないの」
ピオニーさんは静かにひとつ瞬いた。
きっと頼めば、ヤローさんは推薦状を書いてくれるだろう。強くなったと褒めてもらえることもあった。だけど、あたしはターフタウンを離れられない。
「あたしの家、農家で、民宿やってて、妹や弟もまだほんのチビだから、父さんも母さんも大忙しなの」
──お父さんもお母さんも大変よねえ。
──お姉ちゃんは手伝ってあげてえらいわねえ。
そう声をかけられるたびに、暗に、この町から離れてはいけないのだと、かげふみでもされているような気がした。
だから、旅に出たいなんて言えなかった。
「ほら、ターフタウンって最初のスタジアムじゃない? あたしよりのほほんとして、あたしよりポケモンが弱そうな子が、チャレンジを突破する度に、本当はずっと悔しかったの」
「だからバイウールーは私のチルタリスに喧嘩を売ったんだね」
「そうなの?」
「たぶんそうだと思う。この子、とっても賢い子だから。見てたら分かるよ」
ピオニーさんはバイウールーを見つめて微笑んだ。
「……強くなったら、ひょっとしたらって思ってた」
「うん」
「とっても強くなって、あたしに、バトルの才能を見いだしてくれる誰かがいたら、ひょっとしたらジムチャレンジに行くように、町の皆を説得してくれるんじゃないかって」
だけどそんな夢みたいな話、当然叶うわけもなかったのだ。
膝の上でぎゅっと拳を作るあたしに、ピオニーさんはしばらく何かを言いあぐねているようだった。こんな暗い話をしてごめんなさい、と謝ろうとして、ひぐ、と喉が詰まったとき、ピオニーさんは凪いだ瞳をこちらに向ける。
「私もなの」
「……え?」
「私も、ジムチャレンジ、しなかったんじゃなくて出来なかったんだ」
似た者同士だね、と彼女は笑った。
「スクールに通ってた頃、とても仲が良くて、ポケモンバトルも同じくらいか、きっと私よりも強くなるんだろうなって友達がいてさ。その頃は、ジムチャレンジの推薦状をもらうなら、私とその子に違いないんだってずっと思ってた」
実際に約束もしたのだとピオニーさんは懐かしそうにボーマンダを見つめる。
「一緒にジムチャレンジの旅をしようって。だけど、私が九つになった頃におじいさまが突然事故で亡くなってしまって、おうちのお仕事が出来る人が私しかいなくなってしまったから」
もう過ぎてしまったことを、たんたんと語る彼女の声には、それでも一握りの後悔が滲んでいた。
「スクールに通ってた頃は、うんと強くなったらどこにでも行けるんだと思ってたし、実際、手前味噌だけど、そこいらのトレーナーに比べたら私すっごく強いと思う」
「それは、うん、そうだと思う」
「でしょ? でもね、結局、どれだけ手持ちの子達が強くなっても、どれだけバトルが上手くなっても、私は何処にも行けなかった」
今なら分かるけれど、それはきっとね、と彼女は静かに、きっぱりと言った。
「私が弱かったからだと思うの」
吹き抜けた風が、ピオニーさんの髪をわずかに揺らした。
「何処にも行けないんだって、物分かりが良いような顔をして、お行儀よく座って、陰でふて腐れてるくらいなら、ちゃんと言えばよかった。駄々をこねてみたらよかった。そうしたら、こんな風に、昔のことを呪ったりしなかったと思う」
「昔のことを……呪う……」
「どれだけお願いしたって、私は旅に出ることを許してもらえないかもしれないけれど、でも、何もしなかったときよりはきっとすっきりしてたと思うんだ」
「あなたが今旅をしているのも、呪いを解くため?」
「そうかもね」
彼女はついと視線を窓の外に向ける。薄暮の迫るターフタウンの野原はオレンジ色に染め上げられていて、その中をワンパチとパルスワンに追いたてられたウールーたちが牧舎へと戻っていく。
「この光景を──くんも見たのかなあ」
ぼそっと呟かれたピオニーさんの言葉は、肝心の部分は上手く聞き取れなかったけれど。
あたしもつられてその光景を、日が暮れるまでじっと見つめていた。
*
ターフタウンジムリーダーのヤローには、最近目をかけているトレーナーの卵がいる。
牧場と民宿を兼業している、近くの家の娘さんだ。年の頃は十を少し過ぎたくらいで、バイウールーを連れている。バトルセンスは粗削りだが、磨けばきっと光るだろうことを予感させ、何より強くなりたいというガッツと、ポケモンが好きだという心がよく分かった。
てっきりジムチャレンジをするのだろうと思っていたし、本人が望むなら推薦状を持たせてやろうとも思っていた。だが、予想に反して、旅立てる年になっても彼女はジムチャレンジのジの字も口にしなかった。
遠慮をしているんだろうということは簡単に想像が出来た。ターフタウンが一番忙しくなるのはジムチャレンジの時期だ。その時に、働き手がひとりいなくなってしまうことを気にしているのだろう。それに、彼女の家にはまだ小さい子がたくさんいて、彼女の父母だけではとても回していけない。
推薦をしても良かったが、返ってそれが彼女を苦しめるのではないかと思うと余計口が出せない。せめてバトルの腕を磨く場は用意してあげたかった。だから、スタジアムの出入りを許して、時々面倒も見ていたのだが──その日の彼女は少し違った。
「ヤローさん!」
ばん、と勢いよくスタジアムの扉を開け、のしのしと音がしそうなくらい力強く歩んできた彼女は、モンスターボールを握りしめ、ヤローの前に仁王立ちになった。
「どうしたんです? そんなに勢い込んで」
「あの……あの、あたし、ずっと、言いたくても言えなかったことがあって!」
ジムトレーナーたちがぎょっとしたのが分かった。だが、ヤローはきょとんとしたまま続きを促す。
「あたし、ずっと……本当は、ずっと、ジムチャレンジがしてみたかったんです!」
「……」
「父さんにも、母さんにも、まだ何も話してないし、家のこととか、どうするとか、全然、ノープランなんですけど、それでも、心残りを作りたくなくて……! ヤローさんには聞いてもらいたくてっ」
ぶるぶると震えた手の中で、バイウールーがボール越しに不安そうにこちらを見ているのが分かった。彼女はうつむいたまま、今にも泣き出しそうな声で、「ごめんなさい」と謝る。
「こんなこと、言ったってどうしようもないのに……」
「どうしようもなくはないですよ」
「ヤローさん……?」
「そんなに強く噛んでたら、唇が切れてしまいますわ」
よく言ってくれたとヤローは笑った。ジムトレーナーたちも目配せをして、ほっと肩の力を抜く。
「推薦状、実はとっくに用意しとったんですわ」
「え……?」
「でも、肝心のきみの気持ちがよく分からんかった。だから、ご両親にお話しすることも出来んかったんです」
ターフタウンは良く言えば長閑で、悪く言えば田舎の町。悪く言えば人付き合いが大変で、良く言えば皆の結束が強い町だから、どうにかする手段はきっとたくさんある。
「次のジムチャレンジが始まるまでに、ぼくから話をしてみましょ」
「えっ、でも、そんなの」
「いいんですよ。子どもは子どもらしく、やりたいことを言って、大人にどーんと甘えてたらいいんじゃ」
その代わり、とヤローはひとつウインクをする。
「やりたいことをやりきること。ぼくのチャレンジも、しっかり突破してほしい」
「──はい!」
彼女は力強く頷いた。その顔が出来るなら安心じゃとヤローもまた笑って頷きを返した。
いつものトレーニング後、バイウールーのケアをする彼女に、そういえば、とヤローは首を傾げた。
「どうして急にぼくに言おうと思ったんです?」
「あー、それですか。いや、話すとちょっと、恥ずかしい話なんですけど」
ブラッシングの手を止めて、ポケットに手を入れた彼女が取り出したのは、一枚のリーグカードだった。
「ポケモンだけじゃなくて、あたしも強くならなきゃダメなんだって教えてもらったんです。どうせダメだって思っても、やりたいことがあるなら口に出さないとって。そうしないと、本当に心残りになっちゃうから」
「──そんなことを、それをくれた人が言うとったんですか」
「はい。これは餞別だってくれました。ひょっとしたら高値で売れるかもしれないから、何かの足しにしてって」
差し出されたカードを見て、ヤローはしばらく言葉を失った。
「あたし、よく分からないんですけど、それ、そんなに貴重なんですか?」
「貴重は貴重かもしれませんなあ。なんせ、一年もおらんかった」
「もう帰られたんですか」懐かしそうに目を細めるヤローに対して、彼女は戸惑いつつも「はい」と答える。
「次はバウタウンに行くって」
「そうかあ……そうですか。そうか」
ヤローは何度か、うんうんと首を振ってそのカードを彼女に返す。それから、バウタウンの方にちらりと視線をやった。
「キバナさんは知っとるんじゃろうか」
──ごめんね。
*
いつしか、彼女はぼんやりした笑顔しか浮かべなくなっていた。
他の子どもたちと比べるとやや浮いた雰囲気の女の子。この地方には生息しないポケモンを従えたドラゴンタイプ使い。キバナの幼馴染。昔はもう少し豪快に笑うやつだったと記憶していたが、スクールに進学してからは、特に高学年と呼ばれる頃になると、凪いだような、妙に冷めた穏やかな笑顔ばかりになった。その日だって、クラス対抗戦で、隣のクラスで向かうところ敵なしだったというトレーナーを相棒のコモルーでボコボコにしたというのに、彼女は興奮も狂喜もせずに、ただ静かに笑って「ありがとう」と手を差し出しただけだ。
「オマエ、もうちょっと喜べよ」
「喜んでるよ」
「勝って当然って顔しやがって」
「それは……まあ、相性やレベルの問題もあるし」
確かに、ピオニーが従えているコモルーは進化後のポケモンだ。このスクールで、既に進化を経験しているのは彼女のコモルーくらいだろう。対して、相手のポケモンはガーディで、コモルーの方に利があったのは事実だ。
だけど、その冷めた態度が妙に癇に触る。
「明日の相手、オレ様だからな。せいぜい足元掬われないようにしとけ」
「まさか。キバナくん相手に油断なんかするわけないじゃん」
「ほう、油断しなきゃ勝つってか?」
「そこまでは言ってないけど……でも、勝つよ」
そこでようやく、彼女らしい笑顔がわずかに覗いた。分厚い雲の隙間からようやくこぼれた陽光のようなそれに、キバナは内心ほっとしつつもそれをおくびにも出さず「絶対負かす」なんて舌を出した。
「そうだ、放課後ちょっと付き合えよ。そろそろナックラーが進化するかもしんねえから、特訓したいんだ」
「あー……放課後はちょっと」
「またジム関連か?」
「うん。最近断ってばっかりでごめんね?」
別に謝ることはないが、キバナは「しゃーねえなあ」とわざとらしく尊大に胸を張った。
「次はちゃんと付き合えよ」
「うん」
頷いたピオニーの顔に、まただ、と思う。またあの、のっぺりとした凪いだ海のような笑顔だ。
分厚くて、深くて、その下にあるものが全く見えない。その顔が、キバナは大嫌いだった。
スクールの生徒たちは口を揃えてこう言った。
「あの子は別格だから仕方ないよ」
なんて。
「ジムの英才教育の賜物だろ」
「おじいちゃんがジムリーダーで、ジムチャレンジ終わったらジムを継ぐって決まってるんでしょ? そりゃあ強いよね」
「むしろあたしたちみたいなのに手こずられると困るって」
なんて。
勝って当たり前だと、喜びもしなくなったあの顔に、いつか吠え面をかかせてやると思っていた。そして、ざまあみろと笑ってやるつもりだった。オマエよりもオレの方が強いのだと。
だからそんな風にヘラヘラしてるんじゃねえ、と。
彼女の祖父が、ダイマックスポケモンの放った技に巻き込まれて事故死したと知らされたのは、その日の夜のことだった。
*
早朝のバウタウンはしんと静かで、海鳥の鳴き声だけが朝靄の中に響いている。アーマーガアタクシーから降り立って早々、潮の匂いがする澄んだ空気を、キバナは深呼吸して肺に満たした。
「そんじゃ、キバナさん、また後で迎えに来りゃいいんですね?」
「おう、頼むぜ」
「はいよ。見つかるといいね、探し人」
運転手の掛け声と共に、籠をぶら下げたアーマーガアが空へと舞い上がる。その黒い姿が点になるまで見送ってから、キバナはくるりと踵を返した。
音信不通、かつ行方不明になっていた友人の目撃情報が舞い込んだのはつい昨日のことだった。情報源はターフタウンジムリーダーのヤロー。彼が最近目をかけているトレーナーに発破をかけて、早々に旅立ったらしい。
「次はバウタウンに行くと言っとったそうです」電話越しに困惑気味にヤローは言っていた。それから「やっぱり知らんかったのですね」とも。
心中には色々な感情が渦巻いていた。だいたい、目撃情報が急すぎるのだ。今日だって普通に仕事がある。八時半にスタジアムに行って、終業は六時だと考えるとバウタウンに向かえるのは朝しかない。馴染みのタクシー運転手は、「今日は顔がちょいと険しいですね」なんて笑っていた。ポケットの中には、彼女の家から拝借した写真が入っている。
あの時と変わらない海を眺めながら道を歩いていると、ふいに、じゃり、と砂を踏む音がした。
「ピオニーならもう行ったわよ」
「……なんだ、ルリナか」
「わたしでごめんなさいね」
トレーニングの最中だったのか、スポーツジャージ姿にグソクムシャを従えたルリナが、霞の中に立っていた。「いつ?」と聞けば「昨日の夕方ごろに」と答えがある。
「次はエンジンシティだって。歩きだって言ってたし、今から追いかけたら間に合うかもよ」
「あー……いや。やめとく」
「何? 煮え切らない返事」
ルリナが怪訝そうに眉を寄せる。それに、キバナは気まずく頬を掻いた。
ここに来たのも、半ば衝動のようなものだった。ヤローから話を聞き、タクシーに乗り込んだはいいものの、いざバウタウンの海を見ていると頭が徐々に冷えていった。
「ターフタウンに、バウタウンだろ? 次はエンジンシティ」
その次はラテラルタウンだろう。そのまた次はアラベスクタウン、キルクスタウン、スパイクタウンと続くのだ、きっと。
彼女は間違いなくジムチャレンジの道のりを辿っている。タクシーではなく、歩いて旅をしているのがそのいい証拠だ。だとしたら、と思う。
「今更会ったところで、オレは何を言えばいい?」
一緒に旅に出ようと約束した。彼女はジムチャレンジを諦めて、キバナは彼女を置いてジムチャレンジに挑んだ。
そして、彼女がジムチャレンジを諦めた理由であるその席に、今、座っている。
もう八年も顔を合わせていない。噂では、ダンデや彼の友人であるソニアとは何度か会っているらしい。ヤローは「やっぱり」と言った。やっぱりって何だ。
避けられているのだろうとは分かっていた。未練をなぞるようにジムチャレンジを再現する彼女の前に、自分が立っていったい何を言えばいいというのか。
「知らないわよ、そんなの」
呆れたようにルリナは目を細めた。まあ、そりゃそうだよなとキバナは笑う。
「だけど、あの子がジムチャレンジをなぞってるなら、いつかナックルシティにはたどり着くわ」
「……あっ、」
「遅かれ早かれ会うことにはなるんだから、それまでに世間話の中身について考えておいたら?」
それは、そうか。ぽかんとするキバナにルリナはため息をついた。
「──見てみたかったんだって言ってたわ」
「あ? ……何を?」
「バウタウンの海」
悠々と、キャモメが空を飛んでいく。
それを目で追いかけて、ルリナは肩を竦めた。「思わず聞いちゃったわ。それだけ?」って。
「そしたら、本当にそれだけだって。強いて言うなら防波堤でランチもしてみたかったって。てっきりバトルがしたいって言うと思ってたのに拍子抜けしちゃった」
「したのか?」
「どっちについて聞いてる?」
ぎらりと輝いたグソクムシャの瞳に、キバナは無言で結果を悟る。「今度はソニアも誘って楽しみましょ、って約束したの」と微笑む彼女の目は微妙に笑っていなかった。成程、だから早朝からロードワークに励んでいるのか。
「ヒントになったかしら」
「なんとなく」
「そ。じゃあわたし、もう行くわね」
「あなたも気が済んだら早めに帰りなさいね。そんな格好のまま彷徨いてたら、パパラッチのいい獲物よ」と、親切に釘を刺して、ルリナとグソクムシャは颯爽と駆けていく。
キバナはぼりぼりと頭を掻いた。帰ってすぐに出勤できるようにと気は回していたが、確かにほとんど変装らしい変装はしていなかった。今は霞でよく見えないが、これが晴れる前には帰った方が良さそうだ。
少し早めにタクシーの運転手を呼ぶかとスマホを呼び出したとき、ふいにボールが軽く揺れた。
「どうした、フライゴン──」
あっちを見ろ、とばかりに鳴いた彼につられて顔を向けた先、ロトムがほおう、とため息を漏らした。
射した陽光に、凪いだ水面が鏡のように空を映している。
──親愛なる我が友人へ。
お元気ですか? オレは元気です。
今日、バウタウンのジムリーダーに勝った。次はエンジンシティだ。一番乗りでナックルシティにたどり着いてやるから覚悟しとけよ。
追伸。そういえばオマエ、海を見たことないとか言ってたから写真撮って送ります。バウの海だ。めちゃくちゃ海が近いからか、シーフードがものすごく旨かった。ポケセンの近くの防波堤って店。ランチなら意外と安いぜ。ジムチャレンジ期間が終わったら──
物思いに耽るキバナを呼び覚ますように、こつんとボールが股に当たった。
「……写真撮っとくか。いや、自撮りじゃなくて。……そうそう。頼むぜ、ロトム」
「SNSにアップするロト?」尋ねたロトムにキバナは首を横に振った。
「帰るか」
「エンジンシティには行かなくていいロト?」
「いいんだよ。行ったらルール違反(アンフェア)になっちまう。なあ、フライゴン?」
ボール越しに合った瞳はにっこりと笑んでいた。
ジムリーダーはチャレンジャーを迎えに行かない。旅人は迎えるものであって追いかけるものではないだろう?
*
「キバナには会ったの?」と聞けば、彼女はじんわりと苦笑して「まだだよ」と答えた。「どうして?」と問えば「どうしてもだよ」と答えにならない答えを吐いた。
撮影後、スタジアムに帰る途中のルリナがばったり出くわしたのは、かつて彼女の前に立ちはだかった壁であり、今はただの一トレーナーであるピオニーだった。もう八年になるだろうか。一瞬、動きを止めて、そそくさと去っていこうとした彼女を引き留めたのは、実を言うとルリナの方だった。
見覚えがあるんだけど、と言えば顔を背けられ、恐る恐る名を呼べば観念したように手を挙げる。「綺麗になったね、ルリナちゃん」なんて歯の浮きそうな言葉を吐いた彼女は、昨日ここに来たばかりなのだと言う。
「ジムリーダー辞めてから全然見かけないんだもの。どこにいってたの?」
「ううん、昨日まではターフタウンに」
「なぞかけしてるんじゃないんだけど……」
眉を寄せたルリナに、ピオニーは困ったように笑った。
思い立ってエンジンシティのスボミーインに泊まって、ターフタウンからバウタウンまで歩いてきたと言われると、ルリナにはすぐにそれがジムチャレンジを辿る道だと気付いた。元ジムリーダーがジムチャレンジャーになるなんて聞いたこともないし、そもそもチャレンジ期間でもないだろうと言えば、ジムチャレンジのつもりはないのだと彼女は首を振った。
「ただ、そうだな。海を見にきたの」
「海!? それだけ!?」
「ええと、あと強いて言うならランチを食べに? 防波堤ってお店の」
言い募られれば言い募られるほどルリナは唖然とするばかりだった。あまりにも短期間だったとはいえ、ルリナたちの代のジムリーダーの中では間違いなく台風の目のひとつだった彼女が、海とランチのためにターフタウンから歩いて?
つっこみどころが多すぎる。せめて、せめて道場破りとか言えないの? と呟けば、「ええと、する? バトル」と控えめに提案され、微妙に腹が立ったのでそのままバトルにもつれ込んだ。勿論、現役ジムリーダーと元ジムリーダーが野良バトルをするわけにはいかないから、観客のいないスタジアムのコートに場所を移して、だ。
「勝った方が防波堤のランチを奢るってことで、いいわね!」
「えええ、私もう固定収入ないんだけど!」
焚き付けるための売り言葉は思いがけず功を奏したようだった。負けるわけにはいかないと、ピオニーの顔が真剣になったから。まあ結果、ルリナの財布が少し薄くなったのだが。
手を抜かれるのは不本意だが、てっきり衰えていると思ったのに。悔しがるルリナに対して彼女はほっとしたように笑いながらペスカトーレをフォークで掬った。
ピオニーのバトルスタイルはシンプルだ。ドラゴンタイプ中では最速を誇るドラパルトとオンバーンを中心に、一気呵成に畳みかける速攻型。後任であるキバナは『ドラゴンストーム』の愛称で知られるが、彼とはまた違った『嵐』の戦い方をする。
「本当に、どうして急にいなくなったりしたの? キバナにジムリーダーを譲ったのだって、確かにあなたはドラゴン使い最強じゃなくなっちゃったかもしれないけれど、ジムリーダーとしての力量はまた別でしょう?」
「ルリナちゃんは、キバナくんがジムリーダーにはふさわしくないと思ってる?」
「そうは言ってないわよ。だってトップジムリーダーよ? 悔しいけど」
「うん、私もそう思う」
手放しの賛辞にルリナはこめかみを押さえた。全く話が進まない。
キバナには会ったのかと聞けば、まだだと返された。どうしてと問えば、どうしてもだと返される。「はぐらかさないでよ」と唇を尖らせれば、「ごめんね」と微笑まれて、それ以上言葉を継げなくなった。
「ルリナちゃん、私ね、本当はキバナくんに合わせる顔なんてないの」
食後のロズレイティーを飲んでいるとき、ピオニーがぽつんと零した。「どういう意味?」と尋ねると、彼女はまた困ったような笑みを作る。
「私ね、口ではキバナくんのためだ、なんて言って、本当は逃げたの」
「ジムリーダーを、交代したときの話?」
「でも、逃げたのに、結局どこにも行けなかった」
ずっと、と彼女は囁くように言う。
「どこかに行きたいって思ってたけど、その『どこか』が、何なのかなんて考えたことなかった。だけどね、あれから、いろんな人にあって、いろんな話をして、旅にも出てみて──」
そこで、うつむきがちだったピオニーの顔がほんの少し上がって、ルリナはは、と目を丸めた。
「……見つかった?」
「ちょっとだけ、だけどね」
内緒話をするように声を潜めたピオニーの笑顔は、今までのものよりもほんの少し、明るかった。
第二鉱山の入り口についたのは西日が赤く染まるころだった。バウタウンの後はエンジンシティ、その後はラテラル、アラベスク、キルクス、スパイクと行くつもりだと彼女は言う。
「ナックルシティは?」
「勿論」
「そう」
「今度はソニアも一緒にランチしましょ」との提案には、「喜んで」と、スマホの番号を一緒に渡された。
「それじゃ、またね」
「ええ、また。今度は勝つわ」
「ふふ、負けないからね」
せっつくようにドラパルトが鉱山の中で一声鳴いた。「ああ、はいはい」と走っていく後ろ姿は、あの時、スタジアムの中で見たものよりもずっとずっと、彼女らしいと感じた。