いたいのいたいの、 なんだこれは。
思わず口から漏れた言葉に、困った顔をしたのは大人たちの方だった。普段から難しい顔をしていることに定評のあるアルヴィス総司令は珍しく全面に困惑を出し、何をどう説明すればいいのか口をもごもごさせているし、その友人である豪快な男も眉を八の字にしつつ呵呵と笑っている。「体調や命に影響があるわけではないのよ」と説明をする女医はそろそろと視線を下げて、そしてそこにいるのは自分──皆城総士の妹である可憐な少女ともうひとり。
「……随分と縮んだな」
「?」
乙姫に手を引かれてこちらを見上げる幼子は、記憶にある真壁一騎の、ちょうど五歳頃と同じ姿をしていた。
簡単にいえば、乙姫の仕業なのだという。朝、真壁史彦が目を覚ましたときには、既にこうだったから、いつごろこうなったのかは分からないが、本人の自供を信じるならば今朝の四時半。どうして、という理由には、笑顔で答えず、乙姫は「明日の朝には戻るよ。一日だけの魔法なの」と答えた。
どうやら体と同時に記憶も退行してしまっているらしい。幼くなった一騎には、今のような穏やかさも、少し前のようなはりつめた感じもなく、屈託がなかった。ファフナーやアルヴィスなどの話題には反応せず、この十年間の出来事にも首を傾げる。決定打となったのは、対面したカノン・メンフィスを知らない人だと言ったことだった。
間違いなく、五歳の頃に戻っている。真壁史彦はこめかみを押さえつつそう断じて、それに異議を唱えるものはいなかった。
しかし、驚くべきことに、自分と同じ見た目年齢でない皆城総士を迷いなく「そうし」と呼んで笑ったのだ。
アルヴィスの多目的ホールの一角で、幼くなった一騎は、方々からかき集めた知育玩具などで遊んでいる。
「なんとなく分かってるのかなあ」
甘やかな声でぽつりと溢したのは遠見真矢だった。
「何が?」
「一騎くん。私のこと、まやって呼んだんだ」
名前で呼ばれたの、久しぶり。はにかむ真矢に総士は何も言えないまま視線を一騎の方にやる。最初の頃は、こちらに積極的に話しかけていた一騎は、何かを察したのか、今はひとり黙々とブロック遊びに勤しんでいる。随分と広がった空想の街には、庭付きの素敵な屋敷が目下建設中だった。
本当は、部屋で遊ぶよりも外を駆け回る方が好きな子どもだということはよく分かっている。にも関わらず、地下に閉じ込めるよう指示したのは総士だった。竜宮島の貴重なファフナーパイロットの一人が、一日だけとはいえこうなってしまったと広まれば島民に無用な心配を招きかねない。
「おねえさんになった、って。私まだ十四なのに、一騎くんにとってはおねえさんなんだね」
「それは、そうだろう」
「なんか、変な感じ。さっきも、一緒に遊ぼうって言ったら、『いい』って言われちゃった」
「一騎が?」
うん、と頷いた真矢の顔は、先程と変わってどこか寂しげで、靴の爪先がこつんと床を蹴る。
「分かってるんだと思う。今の私だと、遊ぶんじゃなくて、遊んであげる、になっちゃうから。そういうの、嫌がるでしょ、一騎くん」
「そうだな」
「難しいね。今なら、一騎くんにしてもらったこと、色々返せると思ったのに」
「……一騎がファフナーに乗れない今、島の守りは遠見たちだ」
「うん。ありがとう。私が一騎くんと島を守るから」
小さな決意を拾ったのか、一騎がふとこちらを向いた。「まや?」と首をかしげて近寄ってくる幼子に、「ううん、何でもないよ」と破顔する。
「私、そろそろ行くね。訓練の時間だから」
「そうか」
「皆城くん、あんまり怖い顔して、一騎くん泣かせちゃダメだよ?」
誰が泣かせるか、と言いかけたのは、足元にいる幼子が誰が泣くか、という顔をしたので飲み込んだ。真矢はおかしそうにくすくす笑って、「それじゃあね」と部屋から出ていく。
そこそこの広さの部屋には、ふたりがぽつんと残された。白のブロックと茶色のブロックが建設途中の家の周りに転がっている。それだけ切り取ると、作っている途中なのか壊された直後なのかわからないなと明後日のことを考えていた。一騎はじっと総士の顔を見上げている。
やがて、一騎がふと、真矢の座っていた椅子によじ登った。なにを、と思っていると、ふいに、ぺた、と温もりが触れる。
「……危ないぞ」
椅子の上に膝立ちになり、思い切り身を乗り出していて危なっかしい。子どもは頭が大きいから重心をとりにくく、すぐ転ぶのだと本で読んだ。たとえ一騎の運動神経が優れているとわかってはいても、ついはらはらとしてしまう。それでも座り直す気はないらしく、総士は渋々と床にしゃがみこんだ。これで転ぶことはなかろうと思えば、次にふくふくの掌は総士の顔に触れた。
その手が触れる場所には覚えがある。
「けがしたのか?」
ああ、そうか──まだこの頃は。
傷つけないように、恐る恐る、柔らかく傷をなぞる指に目を伏せる。「いたいのいたいの、とんでいけ」たどたどしく紡がれる言葉に、かつての記憶が蘇る。
島中を駆けずり回った日々のこと。しょっちゅうあちこちに傷を作っては、大活躍した魔法の呪文。そんなの、まやかしだと知っていたけれど、でも、彼が唱えると不思議とほんとうに痛くなくなったのだ。
「まだいたむか?」
大きな目でじっと見つめたまま一騎が尋ね、総士は首をゆるく横に振った。
「もう、痛まない。傷はずいぶん昔に塞がっているんだ。それに……これは痛くていいんだ、一騎」
幼子はこてんと首を傾げた。さらりと髪が揺れる。心臓の辺りから喉、鼻腔にかけて、かあっと熱いものがこみ上げて、こらえるように小さな頭を両腕で抱き寄せた。「そうし?」と、高い声が自分を呼ばう。
「どうかしたのか? やっぱり、どっかいたいのか?」
「何でもない」
「そうなのか?」
小さな掌はそっと亜麻色の後頭部に回って、ゆっくりと輪郭を撫でる。子どもにそうするように。
ありがとう、と、呟くと、一騎はへにゃりと笑った。
*
念のために、と、アルヴィスで一夜を明かすことになった真壁一騎は、どういうことか翌朝には元の姿に戻っていた。幼くなっていたころの記憶はないらしく、千鶴たちによってあれこれと体の様子について尋ねられては、やや戸惑いつつ答えている。バイタルに異常はなく、二日前と同じ状態だと証明されただけだった。
ひとまず大事を取って今日は休むようにと命じられた一騎は、よく分からないという顔のままだったが素直に頷いて家へと帰っていった。やれやれ一安心だと言ったのは溝口で、昔を思い出したんじゃないのかと史彦に絡んでは渋い顔であしらわれている。
総士は、昨日一騎が閉じ込められていた多目的室の後片付けに向かっていた。万一今日も一騎の姿が戻らなかったときに備えて、昨日借りてきた玩具がそのままにしてあるのだ。ノックの後、部屋に入ると、案の定というか、そこには先客がいた。
「乙姫」
「総士」
昨日一騎がせっせと作った街の近くにしゃがみこみ、乙姫がこちらに向かってにこりとする。同じように街に近づけば、彼女は嬉しそうに場所を譲った。
どうしてこんなことをしたのか、と問いたい気持ちは当然ある。いつフェストゥムが襲ってくるか分からないこの状況で、島の守りの中核を担う一騎がファフナーに乗れないなんて危険極まりない。だが、そんなことは乙姫が重々承知しているだろうし、それを踏まえてなおあの行動だとしたら、それは総士が口を出せる範疇を超えた思惑なのだろう。つまり何を言っても無駄なのだ。
「一騎とお話は出来た?」
「ああ、まあな」
「そう。よかった」
お話、というのは昨日のあれだろう。若干気まずいながらも頷いた総士に、乙姫は微笑んだ。
「お前にも礼を言うべきだろうか」
「いらないよ。一騎が勝手にしたことだから」
「そうか」
片付けないとね、と言って、乙姫はブロックの入っていたバケツを引き寄せた。屋根を外し、壁のブロックを一つ一つほぐしていく。子どもが一日かけて作った街は、一時間も経たずに更地に戻った。夢の跡地を見下ろして、総士はひとつ、息をつく。
優しい指先の感触は、まだ残っていた。