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    膝丸さんと私。オランジェットビスコッティ・アマレッティヴィクトリアサンドイッチケーキガレット・デ・ロワショートケーキジンジャーブレッドマン和三盆リンツァートルテミルクレープシースケーキアイスクリームガトー・オペラプチフールカーテンコール:ポルボロンカーテンコール:カスタードプリンオランジェット
     突然だが、どこにでもいる平凡な菓子職人のはずの、私の職場環境はかなり変わっている。
     そんなのどこもそうだろうって? いやいや、他とは一線を画するレベルで違うのだ。まずもって、店舗が所在する位置が違う。東京の下町? 寂れた百貨店の地下? 全部はずれで正解は異空間。周りに話すと気でも狂ったかと言われるけれど、これが本当なんだからどうしようもない。東京でも、大阪でも、名古屋でもない。じゃあどこかっていうと、これもまた時代錯誤なことに大和国なんてご大層な名前が付いている。
     次にお客様が違う。外国人とか、動物とか、そんなのじゃなくて、来店されるお客様の八割が神様だ。それも、同じ顔の違う神様がいっぱいくる。これは企業秘密で、誰にも口外しちゃいけないんだけど。店長なんかは、全部の神様を性格や動作の違いで見分けるけれど、接客なんかが大の苦手な私にはどだい無理な話で、厨房の奥から楽しそうにお菓子を選ぶ、同じ顔の神様をこっそり覗いては、あれはこの間の人かな、そうじゃないのかなと想像することしかできない。
     そんなトンデモ職場に幸か不幸か配属されてしまった私は、今日もお菓子をただ製造するだけの職人としてここにいるのである。
     さて、配属されて数ヶ月が経った。この異空間にも大分なれてきたけれど、やっぱりたくさん現れる同じ顔の神様には慣れない。やってくるお客様の貴重な二割を占める人間の方々は、皆ちゃんと区別が付くらしいから驚きだ。
     私が唯一区別を付けることができるのは、毎週顔を出すこの鶴丸さんだけ。何で区別が付くようになったかというと、この鶴丸さん、他の鶴丸さんと少しだけ刀の拵えが違う。金の鎖の佩緒に、金色の蓮の飾りがついているのである。
     本日のお買い上げはフォレ・ノワール。手渡す際に、かねてから疑問に思っていたことをぶつけると、鶴丸さんはこともなげにこう言った。

    「纏っている霊力の質が違うからなぁ」

     でた、トンデモワード。私は小さく心の中で呟いてから、鶴丸さんの言った言葉を復唱する。

    「霊力、ですか」
    「ああ。きみは少ないから感じられんかもしれんが、刀剣男士は審神者の霊力によって顕現しているからな。違うと直感的に分かるのさ」
    「へぇー……」

     そりゃ私に区別がつかないわけだ、納得。白いケーキボックスにワンホールまるまる一個のフォレ・ノワールを詰めて渡すと、微妙な顔をして鶴丸さんがそれを受け取る。ううん、この鶴丸さん、どうもクリーム系のケーキが苦手なようなのだ。それでもしっかり片手に下げると、ばらりと財布の中身をカウンターにぶちまけた。鶴丸さんはいつも商品に対して高すぎる額のお金を置いていく。今日こそ定額で買ってもらわなければと私がお釣りを取り出したとき、チリンチリンと来客を示すベルが鳴った。

    「お、膝丸じゃないか。珍しいな、きみが菓子屋に来るなんて」

     どうやらお知り合いのようだ。視線を少し上に持ち上げると、薄緑色の髪をした、眼光鋭い男の人──もとい神様が立っている。確かに、この神様はあんまりうちの店にはお見えにならない方だ。ええと、名前はなんと言ったっけか。今は店長は外にでているし、私が粗相をしないように対応しないといけない。

    「膝丸、あまり怖がらせてやるなよ?」
    「む、すまない。怯えさせるつもりはなかったのだが……」
    「あ、いえ! 確かにあまりいらっしゃらないお客様だったので緊張してしまっただけです。ご注文がお決まりでしたらお伺いしますが」

     膝丸さんというらしい神様は、うむ、と一つ唸って、それから眉根を少しだけ寄せた。

    「名前は分からんのだが、蜜柑に黒いものがかかった紅毛の菓子を頂きたい」
    「……蜜柑に、ですか」
    「兄者がたいそう気に入ってな」

     こういうやつだ、と中に絵を描いて示してくれる膝丸さん。大変ありがたい。そして内容はよく分かった。おそらくあれだろうという確信もある。だが、だ。空になったショーケースを見やる。

    「多分、オランジェットですね。すみません、あいにくと現在品を切らしておりまして……」

     オランジェットに使うのは砂糖に漬けたオレンジかオレンジピール。原料になるオレンジが現在高騰中なのだ。旬が過ぎたのもあって、店頭に並べるのはちょっとためらわれる価格になってしまう。
     それ故、泣く泣く下げざるを得なかった。残っているのは、私のおやつになるのを待っている、前に作り置いた分の失敗作のみ。品切れを告げるのは少し怖かったけど、ここで嘘をついても始まらない。恐る恐る言うと、膝丸さんは、想像よりずっと穏やかに眉を下げた。

    「そうか」
    「申し訳ありません」
    「いや、ないのであれば仕方がない。また出直そう」
    「こちらも早めに再販できるように努力いたします。……で、鶴丸さん、お釣りなんですけど……っていない」

     所在なさげなお釣りたちを手に、私は途方に暮れた。いつも店長は笑って「ご厚意だから受け取っておいていいのよ」と笑うけれど、そういう問題じゃないと思うのだ。やっぱり、提示してある値段で買い取ってほしい。
     あ、そうだ、膝丸さん。ぱっと私が顔を上げると、膝丸さんは少したじろいた。大変図々しいお願いだが、ここは一つお使いを頼まれてほしい。

    「膝丸さん、鶴丸さんとお知り合いでしたよね?」
    「あ、ああ……」
    「あの、身勝手なお願いだというのは重々理解しているんですが、お釣りを鶴丸さんに届けていただけませんか」

     膝丸さんはぽかんとしている。やっぱりこんなお願いを一小市民の私が神様に頼むなんて分不相応だったのかもしれない。今からでも追いかけて、ああでも、店に今いるのは私一人だ。どうしよう、と視線を下げると、小さく声が聞こえてくる。「驚いた」鶴丸さんの常套句は、膝丸さんが発したものだ。

    「あれは、この店に納めるつもりで払ったのだと思うが」
    「多すぎるんです」
    「その価値があると判断したからだろう」
    「それでも、やっぱり最初に提示した定価で買い取ってもらわないと、申し訳ないです……!」

     何とかその手に釣り銭を握らせようと必死の形相で説得する私を、膝丸さんは読めない表情で見つめた。それから、淡々とした口調で、至極当然のことだというように一つ聞く。

    「俺が金子を持ち逃げるとは思わなかったのか?」

     思っても見なかった切り返しだ。ぐっと私は言葉に詰まって、ええいままよと反論にもならない答えを返した。

    「そのときはそのときです!」

     その答えを、変わらない表情で聞いていた膝丸さん。だめだろうか、と肩を落としたときに、ふっと口角が緩んだのが見えた。

    「分かった」
    「本当ですか!?」
    「俺は嘘をつかない。しかと渡しておこう」

     膝丸さんはお金を数えてしっかり握る。そのままカウンターに背を向けるんだから、あ、と私は短く声を上げた。

    「待ってください」

     売り物にもならないけれど、お礼くらいにならいいだろうか。包装も何もされていない、オレンジピールにチョコレートをコーティングしただけの不格好なオランジェット。急いで小さなビニールに詰めて差し出すと、膝丸さんは驚いたように私とオランジェットを交互に見る。

    「ええと、市販できる見た目じゃないB級品なんですけど、食べる分には問題ないと思います。私のおやつになる予定だったので……」

     早口になったせいで余計言い訳じみた私の説明に、膝丸さんはゆっくり数度瞬きして、確認するようにおずおずと尋ねる。

    「いいのか?」
    「タダ働きさせるわけにもいきませんし、その、報酬がこんなので申し訳ないんですけど」

     それなのに、膝丸さんはふわっと笑って、彼の手には小さすぎるビニールの包みを取り上げた。

    「有り難い。兄者も喜ぶ」
    「いえ、むしろこんなもので本当に申し訳ないんですけど」
    「そんなことはない。鶴丸が余計な金子を払って買い上げるほど、君の菓子は旨いのだろう」

     大切そうに懐にオランジェットをしまい込んで、膝丸さんは一言、優しい声音で最後に言った。

    「また来る」

     ちりりん、とドアベルの残響も消える頃になって、ようやく私は力を抜いてへたりこんだ。
     ここの神様は、さすが神様ってくらい見目も整っていて、そんな人があんな風に笑ってあんな風にお礼を言うのは、いくらなんでも反則だと思うのだ。
     顔の熱が引かない。見慣れない神様の接客をしたからだ。ぶつぶつと呟いて頬に手を当てた。お菓子を作るから化粧も何一つしていなかったのが、なぜだかとっても恥ずかしく思えた。その思いも泡立て器を持つと霧散するわけだけれど。







     膝丸は早足で執務室へと向かっていた。万年近侍のあの太刀が、この時間にいる場所はあそこしかない。
     部屋の主である審神者に確認をとって、襖を開ければ案の定そこに鶴丸はおり、審神者とともに買ってきた洋菓子をつついている。

    「お、膝丸、帰ったのかい」
    「鶴丸、店の娘が困っていたぞ。ちゃんと定められた額で買って貰わねば困るとな」
    「気持ちなのだがなぁ。いつも主が世話になっているし」

     むせかえるような桜桃の匂いと、濃い黒色の洋菓子をちみりちみりと削りながら鶴丸は笑った。その脇に釣り銭を律儀に数えておく膝丸に、審神者が尋ねる。

    「お膝も食うか? 旨いぞ、これ」

     差し出されたケーキに、膝丸は一瞬逡巡して、それから丁重にそれを押しとどめた。

    「いや、俺は遠慮しておく。紅毛の菓子は、なんというか、苦手でな……」
    「あー、そういやそうだったか」
    「兄者なら喜んで食すだろう。是非兄者を呼んでやってくれ」

     失礼する、と膝丸は立ち上がった。
     相変わらず慇懃な応対に、審神者はフォークをくわえたまま苦笑する。性格を表すようにぴったりと閉まった襖の向こう、規則正しい足音で気配が遠ざかっていく。
     膝丸は廊下をきびきびと歩きながら、懐に収めた黒い菓子を上着の上から押さえた。
     さて、どうするべきか。髭切から依頼された品なのだから、髭切に渡すのが筋だが、あの娘は膝丸にとこれを渡したのだ。ならば、己が食べるべきで、だが膝丸はあまり紅毛の菓子を好まない。

    (くりいむ、とやらがどうもな……)

     審神者や髭切は旨い旨いと食っているが、膝丸はあのぺちょりとした甘みがどうにも苦手だったのだ。それ以来、紅毛の菓子には苦手意識が先行して、なかなか手をつけられずにいる。見たところ、これはクリームは使われていなさそうだが、それでも製法は似ているのだろうし。どうしたものかと持て余していたところ、都合良くよく見知った姿が向こうから歩いてきた。

    「あれ、蓙丸、どうしたの?」
    「膝丸だ、兄者。この間兄者が旨いと言っていた菓子を手に入れた……というか、頂いてな」
    「あ、あれ? えーっと、オランウータン」
    「おらんじぇっとだ、兄者」

     それは猿の名前ではなかったか、と半目になる膝丸に、髭切はほえほえと笑って「そうそうそれそれ」と頷いた。
     膝丸は懐からビニールの包みをとりだし、テープを剥がす。手のひらに収まるほどの小さな包みには、チョコレートでコーティングされたオレンジが数個入っている。
     一つをつまみ上げて、髭切がぱくりと口に放り込んだ。目を細めて、ぽぽぽ、と誉の桜を舞わせる姿は本当に幸せそうで、ほっと膝丸は安堵した。良かった、これで間違っていなかったようだ。

    「ほら、雛丸も」
    「だから膝丸だ兄者……」
    「だって、彦摩呂が貰ったものなら、彦摩呂が食べないとね」
    「むぐっ」

     膝丸だ、の訂正を入れるまでもなく、やや強引に口の中に突き込まれたその黒い菓子を、何とかカリカリと歯で削って食べる。口内にふわりと柑橘の匂いが広がった。
     苦い。けれど甘い。砂糖で漬けてあるのだろうか。蜜柑とは違ったさわやかな味だ。てっきりクリームのようなべっとりした甘さが来ると身構えていた膝丸は、驚きで目を丸める。
     蜜柑と甘味の宝石箱や、と脳内で誰かがささやいたが、それは無視して。

    「ね、美味しいでしょう?」
    「……旨い、な」

     もう一つ、今度は自分からオランジェットを一欠片掬って食べた。いつのまにやら、はらはらと何かが降っているのに気がつく。己の桜だと気づく頃には、手の中の宝石は一つ残らず消えており、そして胃袋はがっちりとあの娘に捕まれていたのだった。
    ビスコッティ・アマレッティ
     神様は、どうやら舶来のお菓子が珍しいらしい。特に奉納されている刀の方々は、お供え物やら参拝客が食べている物やらお祭りの出店やらで洋菓子は見ていたから、実際に食べることに興味津々でいらっしゃった。今日もどこの本丸かは分からないけれど蛍丸さんと太郎太刀さんが洋菓子の詰め合わせをお買い上げ。接客担当のバイトさんが、明るい声で見送っているのを聞きながら、私は厨房の奥で仕込みに勤しんでいた。
     この季節は新人さんが多く着任する季節で、挨拶回りようの贈答菓子が飛ぶように売れる。が、審神者さんはともかく刀剣男士様は男の方ばかりで、甘い物を好まれないケースも多いのだとか。そこで甘さ控えめだったり、さっぱりした口当たりの焼き菓子の需要が高く、制作班は毎日アーモンドプードルやコーヒーと戦うことになるのだ。
     特に最近好評を頂いているのは、イタリアのお菓子であるアマレッティ。『少し苦い』の意味を持つ名前に違わない、ほろ苦さとほんの少しの甘みが癖になるお菓子だと、制作者の私は自負しているが、はてさて。オーブンの向こうでふっくり焼き上がるアマレッティを確認して、私は何気なくガラス戸の向こうを見やった。
     この厨房、パティスリーにありがちな、外からも中が見えるガラス張りの厨房となっている。つまり中からも城下の様子が見える訳なのだが……すごく見覚えのある方がこちらを見ている。
     ええと、あの刀の名前は確か膝丸さんだったはずだ。先日オランジェットを渡した。でもあの膝丸さんかは私には分からない。ひょっとしたら別の方かもしれない。
     膝丸さんは少しぎこちない足取りで、こちらの方へ歩いてくる。まぁ、あまりいらっしゃるお客様ではないし、緊張しているのかもしれない。チリンチリンとドアベルが鳴って、バイトさんの明るいいらっしゃいませ、が厨房にも届いた。
     そういえば、また来るとおっしゃっていた膝丸さん、あのオランジェットにご満足いただけただろうか。形が悪かっただけで、味には問題ないと思うんだけど。オーブンからかりっと焼きあがったアマレッティを取り出し、形の悪い物や割れが酷い物を除いてケーキクーラーの上に置いておく。

    「あの、職人さん」

     私はうん? と首を傾げて、いったんお菓子から手を離した。ここでは本名で呼び合うことは原則禁じられており、役職名や立場で呼び分ける。職人さんはお菓子を作る人を総じて呼ぶときに使われる言葉で、今ここにいるのは私のみ。控えめにバイトさんは厨房をのぞき込んだ。

    「あの、膝丸様がご所望の品が分からなくて……」

     ああ、仕方ないよねぇ。だってバイトさんは入って一ヶ月のまだピカピカの新人さんだ。ショートケーキやチーズケーキみたいな定番お菓子ならまだしも、ここで取り扱っているのはそこそこマイナーなものも多い。ジャンドゥイオットなんて普通の人が聞いたら呪文だろうし。
     今行きます、軽く返事をして、ざっと手を洗って外にでる。私にとっては二度めましてだけど、きっと彼にとっては初めましてだろう。膝丸さんはこちらを生真面目そうな顔で見た。

    「本日はなにをお探しでしょうか?」
    「あ、あぁ……このくらいの大きさで、さっくりとした、少々苦いらしい菓子を頂きたい。先日主に献上されたものだが、兄者がたいそう気に入ってな」

     また兄者か。私は何とか笑いをこらえた。以前いらっしゃった膝丸さんも確か同じ事をおっしゃっていた。兄弟仲が良いことは素敵なことだ。
     さて、本日のお探しの品はさっくりとした菓子、ということはボーロやクッキー、ビスケット系の焼き菓子と見て間違いないだろう。大きさを見るにボーロだろうか。いや、でも苦いと言っていたし。
     はた、と思い立って厨房を見やる。

    「おそらくビスコッティ・アマレッティと思われます。見本を持ってきますので、お確かめいただけますか?」
    「うむ、頼む」

     一度厨房に引っ込むと、まだあら熱が残っているが摘めないほどではないアマレッティが網の上でスタンバイしている。お客様にお出しする際に使う小皿に数個取り分けて、申し訳なさそうなバイトさんに、あら熱がとれたらすぐに包装するようにとお願いした。多分、これで間違ってないはず。

    「お待たせしました。ビスコッティ・アマレッティです」

     膝丸さんは小さい一口大のそれを細くて長い指で摘んで、目の高さまで持っていく。上から下から斜めから、とっくりと眺め回されて、作った私の方からしたら少し恥ずかしい。変な物は入れてないし、店に出すのは全部自信作だけれども。

    「これだろう」
    「よければお食べになってみてください」
    「……いや、俺は」
    「お会計は頂きませんし」

     この膝丸さんがあの膝丸さんと同じような性格だったら、きっと悩むのは金銭面だろうと思って、私はそう一押しした。むしろ、ここでご希望の物と違う物を自信満々に出してしまうほうが申し訳ない。
     逡巡した様子の膝丸さんは、意を決したように口を開いた。そんなに身構えなくてもいいのに。あ、犬歯、なんてのんきな事を考えていると、さく、さくっと良い音がして、アマレッティが膝丸さんのお口に消える。

    「……旨い」
    「ありがとうございます」

     面と向かって言われるとやっぱりうれしい。かなりしまりのない顔になった私は、残りもどうぞと小皿を膝丸さんに押しつけた。戸惑っていらっしゃる様子だったけれど、私のお菓子をほめてくれたお礼だ。どんどんお食べください、と強く推すと、膝丸さんは遠慮がちに、それでもきれいに全部食べてくださった。見ていて清々しくなるほど空っぽになった小皿に、膝丸さんはしまったと口を押さえる。

    「すまない! かなりの量だったと思うが!」
    「いえいえ、構いませんよ」
    「ならん。きちんと金を払わねば、俺と兄者の面目が立たん」

     私がいいって言ってるのに、なかなか強情な人だ。お金を払う、要らない、払う、要らないの問答をしている間に、バイトさんが包み終わったアマレッティを紙袋に入れて持ってきてくれた。これはさっさと商品を渡してお金を払ってお引き取り願った方が面倒じゃないかもしれない。それにしても本当に兄者さんが好きだな、この神様。

    「わかりました」
    「ならば」
    「このアマレッティは広告としてお考えください。膝丸さんがこの広告で、うちをご贔屓にしてくだされば、うちは儲かるという寸法。どうだ参ったか。ではお会計八百円になります」

     無論定価だ。ぴっぴっとレジを打つ私の前、あっけに取られたようにぽかんとした膝丸さんは、初めて見たときよりも随分幼く見えた。
     レジに表示された合計は八百円。膝丸さんは懐から財布をとりだして、それから困ったように笑う。

    「これは一本取られた」
    「お買い上げありがとうございます。これからもご贔屓に」

     こうして私は今日も定価でお菓子をお買い上げ頂いたのだった。多すぎる代金に悩むことになるのは、あの鶴丸さんだけでもう十分なのである。
     けれど、その後私は膝丸さんのこぼした一言で、少々固まることになるのである。

    「あのおらんじぇっといい、君には世話になっているな」

     貴方、あの膝丸さんだったんですか。全然気付かなかった。






     最近、お菓子箱に洋菓子が供給されている確率が高くなったなぁ、と髭切は茶を啜りながら思った。審神者が甘味好きなのも由来するだろうが、膝丸の前で「これ、美味しいよ」と勧めたものが高確率で紛れ込んでいる。きっとあの弟が気を利かせて買ってくれたのだろう。わぁいうれしいな。髭切はほかほかと笑った。
     美味しいものは心を温かくする。仲の良い弟とともに食べるのなら尚更だ。膝丸は一番最初に食べた、コンビニスイーツの生クリームで洋菓子が苦手になったそうだが、それ以外にも美味しいお菓子はたくさんある。これでもっと膝丸が洋菓子を好きになってくれれば、髭切ももっと幸せだ。湯飲みにお代わりの紅茶を注いで、髭切は城下に行ったらしい弟の帰りを待った。
     帰ってきたのはちょうど八つ時。片手に下げているのは、審神者御用達の洋菓子店の紙袋である。

    「お帰り、痣丸」
    「今帰ったぞ、兄者。それから膝丸だ」

     紙袋には、前に主が国替の挨拶で審神者から貰ったのと似た菓子が詰まっている。透明のビニールとカラフルな留め具を楽しそうにはぎ取る髭切に、膝丸は安心したように眉を下げた。

    「うん、これ。ええっと、アリエッティ」
    「兄者、それは権利的に問題があるからやめてくれ。あまれってぃだそうだ」

     あれ、違ったかな、と髭切は丸っこいそれを口に入れる。ほろ苦い焼き菓子は蜂蜜をたっぷり入れた紅茶によく合うのだ。ひらひらと桜を舞わせる髭切を横目に、膝丸もアマレッティをつまみ上げた。そのまま口にひょいと放り込む、甘味嫌いの弟に、おや、と髭切は目を丸めた。
     前にこれが美味しいのだと教えたときだって、結局は一口も食べなかったのに、どういう風の吹き回しだろう。

    「美味しい?」
    「ああ」

     ストレートの紅茶を口に含みながら、膝丸は花弁を隠さずに頷いた。
    ヴィクトリアサンドイッチケーキ うちのお店の売りは、本場イギリスの紅茶を直輸入して使っているところ、らしい。お安いティーバッグで淹れた紅茶を普段飲んでいる私からしたら、カウンターにずらりと並んでいるフォートナム&メイソンの缶だけで垂涎ものだ。紅茶の販売も取り扱っているので、お茶に一家言ある鶯丸さんなんかはよくお越しになっては缶を根こそぎお買い上げになる。
     そのときにしばしば一緒にお買い上げになるケーキが、私が今仕込んでいるケーキだ。クリームやムースをいっぱい使った華奢で上品なケーキも悪くないけれど、刀剣男士の方々は、割とこういう素朴なケーキの方が好きだったりするみたい。

    「いらっしゃいませ」

     バイトさんが明るい声でお客様をお迎えする。最近は日差しも温かくなってきて、メレンゲを作っていると汗ばむくらいだ。型にケーキ生地を流し入れて、常にスタンバイ状態のオーブンに入れてタイマーを合わせる。少し待てば出来上がりで、その間休憩でもしようかなと調理台を拭きながら考える。

    「職人さん、休憩入ってください」
    「はぁい」

     今日のおやつは上手にナイフが通らずに、綺麗に等分できなかったケーキ。一人で食べるには少し多いから、ほかの職人さんやバイトさんの為に適当に切り分けて一切れだけお皿に載せた。このお仕事の幸せで辛いところはとにかくお菓子を食べまくらなきゃいけないところだ。繁忙期なんて何度クリームをなめて味を確認したことか。何度スポンジをかじったことか。お菓子の花形はクリームたっぷり細工たっぷりのデコレーションケーキだっていうのは分かっているけれど、裏方は案外大変なもので、ほうっと息を吐きながら缶の底に微妙に残っている紅茶を入れて、クリームも何もかかっていない、粉砂糖とジャムだけの素朴なケーキを持ってバックヤードに向かおうとする。
     と、窓ガラス越し、ふと見知った強い瞳と目があった。
     膝丸さんだ。なんだか最近よくお越しになる気がする。膝丸界で洋菓子ブームでも起きているんだろうか。だとしたら有り難いことだ。私はちょっとだけ会釈をする。
     と、膝丸さんの口がぱくぱく動いた。なんて言ってるんだろう。口の形から伝わる母音はおえああんあ……それはなんだ、だろうか。

    「ヴィクトリアサンドイッチケーキですよ」

     膝丸さんは首を傾げた。当たり前だ。オランジェットとビスコッティ・アマレッティを見事なまでにひらがな発音していたあの膝丸さんを思い出してくすりと笑った。どの膝丸さんもそんな風なんだろうか。だとしたらすっごく可愛らしいな。

    「店長、外で休憩してもいいですか?」
    「今はお客様も少ないし、三十分くらいなら構わないわよ」

     有り難いことにお許しがでたので、私はお盆に自分のお菓子とお茶を載せて、映画の給仕さんのように片手で持って厨房から外にでた。膝丸さんが少し目を丸めている。その隣を通り過ぎて、お店に作り置かれている小さなカフェスペースに腰を下ろした。手を合わせていただきます。

    「君」
    「いらっしゃいませ膝丸さん。私は今から休憩なのでどうぞお構いなく」

     大きなカップに並々入れた紅茶を音を立てないように啜りながらフォークを取り上げる。膝丸さんの目はケーキに釘付けだ。あまり見た目はよろしくないのでそんなにガン見しないでほしい。できればショーケースに入っている綺麗なケーキたちをご覧になってほしい。

    「それは」
    「ヴィクトリアサンドイッチケーキです」
    「びく……?」
    「ヴィクトリアサンドイッチケーキ」

     膝丸さんはぱちぱちと数度瞬きする。

    「これがけえきか?」
    「はい。これもケーキです」

     というか、お客様を立たせっぱなしにして従業員が座ってケーキ食ってるのは非常に申し訳ないので、とりあえず座るか飲み物をご注文になるかどうにかしてほしい。バイトさんの視線がいたたまれないんです。
     結局、膝丸さんも向かい側に座って早めのお茶の時間をとることにしたらしい。少し眉を寄せて品書きを見ている。うちのお店はお茶を頼めばお茶菓子が一品ついてくるシステムなのだが、そのお茶菓子に悩んでいるらしかった。ビバレッジのページではなくフードのページに視線が固定されている。わかりやすい。

    「お悩みですか?」
    「……どれがなんの菓子か分からぬ」
    「でしょうねぇ」

     わかりやすいお菓子の名前にしているけれど、カタカナ語に疎そうな膝丸さんのことだ。ショートケーキですら上手く想像できないのかもしれない。一つ一つ指で示しながら、私は簡単に説明を添えた。

    「ショートケーキは、苺とホイップクリームのケーキです」
    「一期……?」
    「赤くて瑞々しい果実です」
    「この、もんぶらんというのは」
    「栗と栗のクリームのケーキです」
    「がとーしょこら」
    「チョコレート……黒くて甘い生地に黒くて甘いクリームを挟んだケーキです」

     膝丸さんの顔がどんどん険しくなっていく。一気に情報を詰め込みすぎたかな。あ、もしかして。ぴんときた私はなるべく膝丸さんが答えにくくないように、首を傾げて聞いてみた。

    「クリームが苦手なんですか?」
    「……!?」
    「いや分かりますよ」

     別段珍しくもないことだ。私だってクリスマス前はクリームに呪詛の言葉を吐きながら毎日毎日白くてとろとろのあいつを舐めまくっているのだから、気持ちも分かる。というか膝丸さんがわかりやすすぎる。

    「……すまん」
    「何で謝るんですか。珍しくもないですよ」
    「だが、その、菓子の店でくりいむに対し文句をつけるなど」

     しゅんとすぼまった肩に、思わず笑ってしまった。この膝丸さんも、あの膝丸さんと同じで、やっぱり誠実で優しい方じゃないか。

    「クリームを使っていないケーキにしましょう」
    「あるのか?」
    「現に目の前にあるじゃないですか。すみません、ヴィクトリアサンドイッチケーキをお願いします」

     はあい、とバイトさんの柔らかい声が聞こえた。やっぱり言えないらしい膝丸さんは、何度もびく、びくと、と眉間にしわを寄せながら繰り返している。本当に可愛い神様だな、この方。

    「今剣に菓子を強請られてな」
    「はぁ」

     今剣さんと言うと、時々お見えになる可愛らしい烏天狗の短刀様だろう。仲が良いのかと聞けば、昔、主が一緒だった時期があるらしい。へぇ、でも今剣さんの昔の主って源義経じゃなかったっけ……

    「最近兄者にばかり菓子を買い与えてずるい、と」

     それでわざわざクリームが苦手なのに洋菓子店に来たわけか。なんだかんだで律儀な方だ。

    「だが、今剣が好きそうな菓子など分からず、俺自身菓子についてさほど詳しくもない。君がいてくれてよかった」
    「え、いえいえ、そんな」

     突然の安心しきった声に少しだけ、本当に少しだけ心臓が跳ねた。イケメンがそういうこと言うの本当にずるいからやめてほしい。どの膝丸さんも天然タラシだということか……恐ろしい刀だ……

    「お待たせしました」

     私が密かに撃沈している間に、注文のケーキが運ばれてくる。お店によってはクリームを挟むところがあるけれど、うちの店はどっしりめに作ったスポンジケーキに、季節のジャムを挟んで表面に粉砂糖をふっただけの簡素なもの。

    「どうぞ召し上がってください。そんなに甘くないはずですから」

     特に、今日使っているジャムは甘さを控えめに仕上げたラズベリー。おそるおそるといったようにケーキにフォークを差し入れて、一口口の中に放り込んだ膝丸さんが、数度咀嚼してゆっくりと飲み込む。ごくんと喉仏が動く瞬間はやっぱり緊張した。

    「……美味い」

     よかった。思わず間抜けな声と一緒にそう漏らしそうになってあわてて押しとどめた。
     膝丸さんはもう躊躇も遠慮もなくフォークでどんどんケーキを切り崩していく。時々思い出したように紅茶を飲んで、目を細めているのは非常に可愛らしかった。そうでしょう美味しいでしょう。うちの紅茶は本当に美味いのだ。

    「イギリスのお菓子ですからね。紅茶には合うと思いますよ」
    「えげれすの菓子なのか」
    「はい。どうしてもクリームやムースのケーキが目立つんですけれど、意外とクリームを使わないものや甘すぎないお菓子も多いんですよ。またお声をかけていただいたら私からも紹介しますし」
    「そうか」

     膝丸さんが短く返すと同時、ひらりと頭上から薄桃が舞い降りてきた。紅茶の上に落ちてしばらくたゆたい消えていくのは、桜の花弁だろうか。あぁ、そういえば聞いたことがある気がする。刀剣男士の皆様は気分が高揚すると桜の花が舞うとか何とか。
     ……つまりこの刀は私のケーキに満足して桜を舞わせてくれているってことか?

    「ま、まずは今剣さんのお菓子ですね」
    「ああ、そのことだが、これをもらおうと思う。びくとりあさんどいっちけえき」
    「……ちゃんと言えてる」

     どこか得意げにする膝丸さんに、ちくしょうこの刀可愛いなと視線を逸らして、私は一つ咳払いした。

    「分かりました。ではお包みしますので少しお待ちください」
    「ああ。また君には世話になってしまったな」

     食器を持ち上げた手をぴたりと止める。また?

    「あまれってぃの宣伝分は返せたかと思ったが、また恩を受けてしまった」

     性質が似てるわけだ。同一人物じゃないか。人じゃないけど。







     目の前で切り分けられる、きらきらした粉砂糖がかかったケーキに今剣は感嘆の声を上げた。断面から現れるトロリとした赤い光沢。きめのこまかいしっとりとしたスポンジ。サービスでつけてもらったらしいクリームは、少し掬って一緒に食べるともっと甘くなるのだとか。

    「薄緑、ありがとうございます! ……薄緑?」

     だが、ケーキを買ってきた当の本人はどよんとした雰囲気を纏っている。お菓子を強請ってから岩融に教えられたが、膝丸はそれほど甘い物が好きと言うわけでもなく、そのせいで澱んでいるのだろうか。髭切を見ると、「そういうわけでもないと思うけどなぁ」という返事。

    「お、膝丸が買ってきたのはヴィクトリアサンドイッチケーキか」

     流暢にカタカナ語を駆るのはこの本丸でも最古参の太刀である鶴丸で、ひょいと一切れ掴むと一口がぶりと食らいつく。あー! と抗議の声をあげる今剣にすまんすまんと笑いつつ、浮かない表情の膝丸に気付いたのか、どうかしたのかと小声で尋ねた。

    「帰ってきてからこの調子でね」
    「ふうむ」
    「おかしやでなにかあったのかも」

     心ここにあらずという様子の膝丸が、ゆっくりと視線を鶴丸に据えた。久しぶりに見せた反応らしい反応に、今剣と髭切が膝丸を見つめる。

    「鶴丸」
    「お、おう」
    「普通の人間には、俺と他の俺の区別がつかぬのか」

     ようやく合点がいった。悲しみにくれている膝丸に、どう声をかけるべきか、数秒迷った鶴丸は素直にこくんとうなずいた。やはりか、とうなだれる膝丸に、鶴丸はがんばって作った笑顔で励ますように肩を叩いた。

    「まぁ、元気を出せ、膝丸。いつか覚えてもらえるさ」
    「そうだよ。いつか覚えてもらえるよ」
    「髭切がいうとまったくせっとくりょくがありませんね」

     全くだ。完全にしょぼくれてしまった膝丸に、それにしても、と髭切は首を傾げる。
     別に、店員に顔を覚えてもらえなかった程度で、この子はそんなに悲しまないと思うんだけどなぁ。
    ガレット・デ・ロワ
    ここ数日の溜息の種は、先日いらっしゃった膝丸さんへの対応だった。流石に申し訳ないことをしたなぁ、と思っている。店長もバイトさんも仕方ないことだとは言ってくれたけれど。というか、一般ピープルの私に霊力とかそんなトンデモパワーで見分けをつけろと言われても困るのだ。
     とはいえ、大切なお客様を傷つけてしまったのは事実で、ううむと首をひねること数日。良いことを思いついたのは、あの膝丸さんと同じ本丸にお住まいの鶴丸さんが来店されたときだった。
     私が唯一他の同じ刀様と見分けがつけることができるその鶴丸さんは、他の鶴丸国永と違って佩緒に蓮の飾りをつけている。トンデモパワーが使えない私は外見に頼ることしかできないから、膝丸さんにも何かしら目印になるものをつけてもらえればいいんじゃないだろうか。大変身勝手なお願いだけれど。
     そうと決まれば善は急げだ。けれど、男の人がつける装飾品って何だろう。今日も大量にケーキをお買い上げになった鶴丸さんの上から下までじっくり眺めてみる。

    「お、どうしたんだい。見惚れたか?」
    「そんなわけないじゃないですか」
    「……そうもはっきり言われると流石に傷つくな」

     じゃあ聞かなきゃいいのに。
     そうじゃなくて、と私は首を振る。

    「膝丸さんに装飾品でも贈ろうかと思うんですけど、何か良いものないでしょうか」
    「春か?」
    「違います」

     この刀、実は女子中学生かなんかじゃないだろうか。どうしてそんなにコイバナに飢えてるんだ。思わず半目でねめつけると、鶴丸さんはからりと笑って湿度の高い視線から逃れた。

    「この間からご贔屓にしてくださっている膝丸さんの見分けがつかないのが、いい加減申し訳なくて」
    「ほう」
    「鶴丸さんならその飾りで見分けがつくんです。だから、何か目印になるようなものが贈れたらいいな、と……まあ私の我が儘なんですけど」

     顎に手を当てて真剣に考えてくださっているらしい鶴丸さんが、セルフサービスのお茶をコップに淹れた。どうやら真剣に考えてくださるらしい。

    「チョーカー……はハイネックだから邪魔になるし、イヤリング……は外れそうだし、指輪は刀握るときに邪魔ですよね……ブローチ……あ、そうだ」

     鶴丸さんだって佩緒に何かつけてるんだし、と私はぽんと掌を叩く。

    「佩緒に飾りをつけてもらうのはどうですかね」

     瞬間、鶴丸さんがお茶を吹き出した。

    「きっ……みはいったい何を言い出すかと思えば!」
    「え、駄目ですかね」
    「駄目に決まって……はないが、あのなぁ、刀というのは俺達そのものなんだぞ……」

     なにを今更。そう言う私に、鶴丸さんはやれやれと溜息を重く吐き、懇切丁寧に指を立てた。
     刀は武士の魂であると同時、刀剣男士そのものであること。
     それに贈られた飾りをつけるということは、つまり女人で言うところの贈られた着物を着るに等しいということ。
     何かおかしいだろうか。首を傾げる私に、鶴丸さんはなんだかよく分からない奇声をあげて髪をかき混ぜた。
     今回はきっちり定価でお買い上げいただくことに成功し、ほくほく顔で外までお見送りした私に、鶴丸さんが叩きつけるように一言。

    「どうなっても俺は知らんからな!」

     何がだろうか。
     そんなことがあったのが数日前。お客様リストに載っている膝丸さんの膝丸さんの写真を上から下までとっくり眺めて、それから私なりに膝丸さんのことも調べて、お給料のそこそこの額をはたいて金具でひっかけられる小さな金の飾りを買った。途中、何で膝丸さんにそんなことまでしてるんだろうとちょっとばかり思ったけれど、日頃のご愛顧への感謝を込めてだと強引に私を納得させる。うん、別に悪い気はしないと思うんだ。
     でも、まぁ、鶴丸さんの反応が気にならなかったわけでもないから、刀につけてもらえなくても、キーホルダーか何かに使えるようなデザインを選んでおいた。刀のみなさんがキーホルダーを使うかという疑問はさておく。
     問題はどうやって渡すかだ。
     直接プレゼントですー、と渡すのは余りに恥ずかしいというか、お客様に媚びを売っているみたいで恥ずかしい。私もなんだか変に意識してしまいそうだし。
     ううん、と唸りながらメレンゲを作っていたら、泡立てすぎだと注意を受けてしまった。私としたことが。
     というか、なんでこんなに悩んでるんだろう。ただ見分けがつかないのでこれつけて置いてくださいって渡すだけなのに。そう考えるとどんどんおこがましく思えてきて、やっぱり渡すのやめようかな、と縮こまっていく。次は小麦粉の振るいすぎで怒られてしまった。悲しい。

    「職人さん、恋でもしてるんですか?」
    「へ? 私が? ないない」

     唐突にバイトさんから声をかけられて、私はぶんぶんと首を横に振った。そんなのありえない。
     慌ててそう返事をすると、バイトさんは釈然としない様子で首をひねっていた。

    「あ、喫茶のお客様のご注文、クレープシュゼットです」
    「はぁい」

     切り替えだ。パン、と頬を叩いて、作り置きのクレープ生地に手をかけた。
     クレープシュゼットは、クレープにオレンジの風味をつけてリキュールでフランベする豪快なお菓子だ。本丸では火にトラウマを持つ刀様も多く、なかなか作ることができないということで、うちのちょっとした看板商品にもなっている。今日は失敗が多いから、特に注意して作らないと、とグラン・マルニエを注いで、ふと、これくらいなら膝丸さんも食べられるんじゃなかろうかと思った。
     いや、でもうちのシュゼットだと少し甘さがしつこいかもしれない。オレンジ自体はオランジェットを好まれていたし、嫌いではないんだろうけれど、和菓子の和三盆の餡子のさっぱりした甘さと違って、カラメルソースはすこしねっとりしているし。となるとシュゼットしない、お食事用のクレープ──ガレットの方が……

    「あ!」

     そうだガレットがある! ぽんと手を打つと同時に、シュゼットから豪快に炎があがった。
     炎が収まる頃に素早くお皿に移してバニラアイスクリームを添える。ミントを飾ってバイトさんに手渡すとき、ガラスの窓の向こうで顔面蒼白になっている膝丸さんと目があった。あれ、あの膝丸さんかなぁ。いや、流石にスパンが短くない? 今日は違うかもしれない。

    「私サーブしてくるので、職人さん接客お願いできますか?」
    「はぁい」

     とにかくガレットだ。ほくほく笑顔でショーケースの前に立つと同時、すさまじい勢いで扉が開かれた。膝丸さんだ。

    「いらっしゃいませ、膝丸さん」
    「何だあれは!? 火傷などしていないな!?」

     どうやらこの膝丸さん、初めてフランベを見たらしい。あわあわと手を振って私の無事を丁寧に確認してくれる。いや、嬉しいんだけどそんなにじろじろ見られると照れるというか。

    「大丈夫ですよ。あれはああいう料理法なんです」
    「なんと面妖な……」

     ですよね。初めて開発した人の正気を疑うよね。私も最初は怖かったよ。だって火柱だよ?
     あちこち確認してようやく人心地ついたらしい膝丸さんに、とりあえずお礼を言っておく。ひょっとして膝丸さんも炎にトラウマを持っていらっしゃるのだろうか。

    「いや、俺は特に焼け身になったりはしていない。ただ、もし君に万一があればと思っただけだ」
    「はぁ……それは、ご心配をおかけしました……?」

     膝丸さん、私の腕とか見たら卒倒するんじゃないだろうか。飴細工やらなんやらで火傷の痕だらけなんだけど。
     で、この膝丸さんはあの膝丸さんでいいんだろうか。尋ねないことには始まらないけれど、思わずしげしげと見てしまうことを許して欲しい。私の視線に若干居心地悪そうに身じろいだ膝丸さんは、数秒して何かに気付いたのか、咳払いを一つする。

    「先日のびくとりあさんどいっちけーきは、美味だった。今剣も喜んでいた」
    「……! ありがとうございます。嬉しいです」

     なんて優しいんだ膝丸さん。自分があの膝丸さんだとアピールした上でさりげなく私のケーキをほめてくださった。これは膝丸さん、相当モテるんじゃなかろうか。
     膝丸さんがあの膝丸さんだと分かればこちらのものだ。がしっと手を掴んで私はなるべく早口にならないように言う。

    「膝丸さん、あのですね、是非食べていただきたいケーキがあるんです。今から仕込まなきゃいけないので時間はかかるんですが、お時間あるなら是非食べていただけませんか」

     かなりの迫力だったらしい。数歩膝丸さんが後ずさる。ドン引かれたのかもしれない。ちょっと顔が赤くなっている。
     はっと気付いて思わず掴んでしまった手を離すと、膝丸さんはこくこくと頷いてくれた。

    「あ、ああ。かまわん。今日は非番だからな。時間はある。問題ない」
    「そうですか! 一時間ほどかかってはしまうんですが、よければしばらく城下でお過ごしいただいて、またお立ち寄りください。あ、ご注文等あればお窺いします。というかそっちが先でしたね、すみません」

     良いアイデアすぎて少々取り乱した。申し訳ないことをと膝丸さんに頭を下げれば、膝丸さんは気にするなと視線を逸らしたまま言う。あ、なんだか少し傷つくような……いや私が悪いんだけど。

    「今日は、特に何か入用という訳ではなく、ただ、その、何というか、君の紹介してくれる菓子に興味があり」
    「なら丁度良かった。試作品になるのでお代もいただきませんし」
    「そういうわけには」
    「では作ってきますので、少々お待ちくださいね」

     こういうのは封じた者勝ちだ。戻ってきたバイトさんに後を任せて早々に厨房に引っ込むと、私は一人分の小さなセルクルと、あらかじめ作って置いて寝かせておいたパイ生地を取り出した。二枚。それから、膝丸さんに贈るつもりだった飾りも。
     飾りは鍋にお湯を沸かして煮沸消毒する。その間にパイ生地に挟む生地作りだ。アーモンドをベースにして、所々にドライフルーツを散らす。甘いのはお好みにならないだろうから、砂糖は控えめ。でも苦くなりすぎないようにと、食感にアクセントを添えるためのレモンピールとドライフルーツ。その中に目立たないようにそっとプレゼントを忍ばせた。上からパイ生地をかぶせて、上の生地に王冠を模した柄を描く。
     そういえば、こういう風に誰かの為だけにお菓子を作るのはいつ以来だろう。いつも、誰かは分からないけれどお客様のためにと考えて作っていたから、こうして誰かにあげる為に作るのは、懐かしいような新鮮なような不思議な気分だった。変に緊張するような、落ち着かないような、むずむずする気分。
     作り始めるとあっという間で、後片付けと次の仕込みをしている間に焼きあがってしまった。クーラーの上にできあがったパイを取り出してさますこと十分。お皿の上に取り分けて、ストレートの紅茶を注いでいると、ようやくガラス窓越しにこちらを見ている膝丸さんに気づいた。え、ひょっとしてずっと見てたの。

    「お待たせしました……?」

     窓越しに声をかけると、ちょっとだけ表情がゆるんだ。これ、もしかして笑ってるんだろうか。

    「これは?」
    「ガレット・デ・ロワ。フランスの、お正月のお菓子です」
    「がれっとでろわ」

     ひらがな発音での復唱ありがとうございます。とても可愛いです。切り分けることなく、膝丸さんが座っているテーブルの上にお菓子とお茶を置いた。これくらいの大きさなら、今までの食べっぷりから察するに食べきってもらえるだろうと予想して、一人分サイズのホールでご用意させていただいた。
     一方、膝丸さんは見たことがない円形のそれをもちあげたり見つめたりして、慎重にフォークを取り上げる。

    「では、ごゆっくり」
    「……ああ、そうか。君は仕事に戻らねばならないのだったな」
    「ええ、残念ながらそうなんです」

     それだけ言って頭を下げてそそくさと退散すると、厨房の前には店長が修羅もかくやという表情で立っている。
     あ、もしかして、勝手にガレット・デ・ロワを作ったのがまずかったかな。いや、絶対にそうだ。材料費だってタダじゃないし、試作申請もなにもしてなかった。完全に思いつきで作っちゃったわけだし。
     さぁっと顔を青ざめさせる私の前、店長はズビシィッと効果音がつきそうな勢いで厨房の外──膝丸さんの方を指さした。うん?

    「職人さん!」
    「は、はい!」
    「どうして戻ってきたの! せっかくいい雰囲気なんだから、膝丸様のお相手をなさいな!」

     滅多に怒らない、優しい店長の怒り顔は有無を言わさぬ迫力があった、と付け加えておこう。
     かくして涙目で膝丸さんの元に戻る羽目になった私が立ち会ったのは、膝丸さんがパイの中に隠されたフェーヴ──刀の飾りを見つけた瞬間だった。
     ジーザス。八百万の神々がいる中で思わずつぶやいてしまったことをどうか許してほしい。でも本当に言うしかなかった。ジーザス。

    「……これは」
    「あっガレット・デ・ロワには昔からフェーヴという陶製のお人形を入れて焼く風習がありまして切り分けたときにたまたまフェーヴが入っていた人はその一年幸せになれるという言い伝えもあってですね面白いですよねだから決して異物混入というわけではなくそうわざとで」
    「そうか。陶製には見えんのだが」

     終わった。
     実はこれ膝丸さんへのサプライズプレゼントなんです、なんてよくよく考えたらイタすぎるじゃないの、私。何でこれが良いアイデアだと思ったんだろう。下手したら普通に渡すより恥ずかしいじゃないか。

    「何かの飾りか……? 根付けのように見えるのだが……」

     そこでこましゃくれた私の口からするりと飛び出したのは、なんとも言えないお粗末な言い訳だった。

    「ええと、そう、試作! 試作なんです! 刀の皆さんにもフェーヴに親しんでもらうためにはどうすればいいかなぁって考えたら、下緒や佩緒にひっかけてみたり根付け的に使ってもらえるのだと長くご愛顧いただけるかなぁってそんな風に思って! 膝丸さんはよくご来店いただいているので、反応を少し窺いたくて、そう、そうなんです!」

     少し尻すぼみになる私の早口のまくし立てに、膝丸さんは怪訝そうな顔を一切せずに、アーモンドクリームにまみれたそれを紙ナプキンで丁寧に拭ってからじいっと見つめた。

    「そうか。だが、これだと単価があがってしまうのではないか? 見たところかなり高級そうに見えるが」
    「そ、そうですね……今回は少し奮発しすぎました……あはは」

     至極まともな反応に、私は乾いた笑いを漏らすほかない。

    「だが、とても美味だった。仕掛けもなかなか面白いな。今剣や短刀たちが喜びそうだ」

     掌の中で刀飾りを転がしながら微笑む膝丸さんに、いたたまれなくなって頭を抱えるのをすんでのところで止めた。

    「お喜び頂いて、何よりです」







     膝丸の本体に、何か見慣れないものが付いている。手合せの最中に目敏くそれを見つけた岩融は首を傾げた。
     佩緒につける小さな若葉の金飾りだ。贅をつくした一級品というわけではないが、しっかりとした作りのそれは無骨ながらも膝丸の太刀に華を添えている。岩融はふむ、と顎に手を当てた。洒落っ気のある刀ではないということは、昔から知っていることだ。ならば誰かから贈られたものだろうか。
     膝丸が自分の依代に贈られたものを飾るのを厭わないのは、双刀の片割れか、主を共にしたあの短刀か。可能性が高いであろう源氏の重宝は、湯呑を傾けながら目を丸めた。

    「弟が? いや、僕に覚えはないかなぁ」
    「今剣でもないだろう。俺に報告に来るはずであろうしなぁ」

     となると、誰だ。漆の菓子鉢に入った西洋の焼き菓子をつまみながら、岩融と髭切はそろって腕を組んだ。

    「兄者、ここにいたのか。ああ、岩融も一緒か」

     噂をすればなんとやら。タイミングよく現れた戦装束の膝丸に、髭切はぽんと一つ手を打つ。

    「ねぇ、膝之助、その太刀の飾りはどうしたんだい?」
    「膝丸だ兄者……」

     この本丸に来て何千回と繰り返したやり取りを今日も繰り返し、髭切は太刀についた小さな金の飾りを指で示した。膝丸は、ああ、と軽く頷き、佩緒からそれを外して掌の上に乗せる。

    「先日から贔屓にしている洋菓子屋の娘が、試作だと言って仕掛けのある菓子をくれた。けえきに人形や飾りなどが入っているそうだ」
    「ふうん、それがその仕掛けの飾り?」
    「菓子のおまけにするには値が張りそうだな」
    「ああ。だから商品にする際には別のものを埋めると言っていた。これは試食の礼にと」

     やや不満そうなのは、金を払おうとして断られたのか。律儀な彼のことだ。また恩を返しにと洋菓子屋に足を運ぶに違いない。
     それにしても、と髭切は目を細める。あの弟が、贈り物を身に付ける、まして自分自身になんて。一体どんな女人だというのか。

    「うん、決めた」

     弟を信頼していないわけではないけれど、ちょっとくらい気にしたっていいよね。お兄ちゃんなわけだし。
    ショートケーキ
     「注文……は特にないけど、おすすめのケーキがあれば、それがいいなぁ」
    「はぁ……」

     本日は接客担当のバイトさんがお休み。店長も不在。店内には製造担当の職人さんのみで、一番若い私が接客担当に回っている。なんだか膝丸さんが初めて来たときを思い出すなぁ、と、変な懐かしさを感じながらお仕事を始めて数時間。次のお客様が終わったら接客交代しましょうか、というありがたいお言葉を先輩からいただいた矢先、いらっしゃったのがこちらの髭切さんだった。
     髭切さん自体はたまにいらっしゃるお客様だから、顔と名前は覚えている。個刃の識別はやっぱりできない。けれど、こういう注文は初めてで、思わず生返事をしてしまった。

    「おすすめ、ですか」
    「うん。あ、あと、ここで食べていきたいなぁ。だから一人分。それからもう一つ注文いい?」
    「あ、はい。どうぞ」
    「よく弟がお世話になってる人が作ったケーキが食べたいな」

     今度こそ目が点になった。
     お菓子の注文をせずに職人の指名だけしてくるお客様なんて本当に初めてだ。困惑する私に対して、髭切さんは首を傾げて尋ねる。外見は成人男性だというのに、眉を少し下げたその表情と仕草はとんでもなく可愛い。間違いないこの御刀様策士だ。じゃなくて。

    「だめ?」
    「えっ……と、その、弟さんというのは」
    「ああ、ええと、名前はなんて言ったかなあ。ひ、ひ……ヒトデマン?」

     ポケモンかよ。
     というか、弟の名前を覚えていらっしゃらないのか。ほのぼのとしたオーラと外見も手伝って、何というか、おおらかな方だ。崩れ落ちそうになるのをなんとか抑えて、へたくそな営業スマイルを髭切さんに向ける。

    「お名前じゃなくてもいいので、何か他に情報をいただけますか?」
    「ううんとね、とても強い子だよ。僕と同じく源氏の重宝で、双刀なんだ。あとね、いっぱい名前を持っていて、だから覚えられないんだよね」

     だめださっぱり分からない。お菓子の勉強以外に刀の勉強もすべきかもしれない。ひきつりそうになる口端に力を込めながら、何とか聞き取りを進める。

    「外見の特徴は……」
    「よく似てるって言われるんだけど、どうかな。あ、あと、髪の色は薄緑色だよ。それから、よく僕にお菓子を買ってきてくれるんだ。なんて言ったっけなぁ。うーん、覚えてないけど、蜜柑に黒いものがかかった甘いお菓子と、これくらいの苦いさくさくしたお菓子と……」

     そこまで言われて、ぴーん、と効果音が響きわたった。
     なんだか聞いたことがあるぞ、その刀。いつも兄者兄者って言ってる刀だ。ここ最近もいらっしゃって私が大変な失態をかました。と、いうことは、だ。

    「膝丸さんのお兄さん!?」
    「ああ、そうそう、膝丸。……あれ?」

     そこで髭切さんはぱあっと顔を笑顔でいっぱいにして、私をずびしっと指さした。

    「じゃあ、君が僕の弟がお世話になっているお菓子屋さん?」

     何で私、今一瞬「墓穴を掘った」と思ったんだろう。どうしてか一気に逃げられない雰囲気が漂った店内で、髭切さんはにこにことほほえんだまま、私の片手をがしっと掴んだ。

    「会いたかったぁ」

     会話だけ聞いていると、新手のナンパか何かかな、と思いたくなるような状況だけれど、なぜか私の背中には冷や汗が伝っていた。

    「じゃあ、よろしくね。時間はどれだけかかってもいいから。あ、あと、できれば君とお話ししながら食べたいな。考えてくれると嬉しいよ」

     威圧感もなにもない。人当たりの良い柔和な表情で手を握っている髭切さんに、恐怖は一切感じないし、むしろ好感を持っている。
     それなのにどうして顔がひきつるのか。思い当たる答えはただ一つ。
     ──あ、これ絶対面倒くさいことになるわ。たぶん。







     運良く探し人をすぐに見つけられた髭切は、ほくほくとしながらポットで運ばれてきた紅茶を飲んでいた。
     あの後、一時間から二時間ほどかかる旨を説明されて、髭切はすぐに頷いた。今日は出陣はお休み。遠征も、内番もお休み。だからどれだけ時間をとられようと、別に困ることはない。
     白磁のティーポットには、香りも味もいつも飲んでいるものに比べて上等なお茶がなみなみと入っている。それを少しずつ楽しみながら、髭切はあの子がお菓子を運んでくるのを待つ。
     長く生きてきて、いろんな人間を見てきた。絶世の美女や、裕福な姫君。そのどれにも当てはまらない。強いて言うなれば普通。ちょっと作り笑顔が下手だった。それは弟に似ているな、と思う。
     でも、弟が彼女のどこを気に入ったのか、それはさっぱり分からなかった。

    「……兄者?」
    「あれ?」

     紅茶もすでに三杯目。流石にそろそろ退屈してきた。そんな頃だった。
     からん、とドアベルを鳴らして店の中に入ってきたのは、確かに自分の大切な片割れだ。

    「暇丸?」
    「膝丸だ、兄者。いや、何故ここに……」
    「いちゃいけない?」

     見るからに慌てた様子の膝丸は、変わらず佩緒にあの飾りをつけている。あっちを見たりこっちを見たりしながら、早足で髭切の元へと近づいてくる。接客担当の人間が困惑気味に膝丸を見るが、そんなことにかまっている余裕がないらしい。

    「な、何か欲しいものでもあったのなら俺に言ってくれれれば……」
    「うーん、欲しいものは特にないかな。ちょっと気になってたんだ。おまえがそんなに足繁く通うお店ってどんなところなんだろうって」

     組んだ手に顎を乗せてこてんと首を傾げ、足繁く通う、をわざと強調して言ってやると膝丸はわかりやすくうろたえた。うんうん、素直なのはいいことだよね。平安生まれにしてはちょっと心配になるくらい初だけど。カップを取り上げて帰る気はないと態度で示せば、膝丸は静かに椅子を引いて座った。

    「なんだか、おもしろそうな子だね、あの子」

     その『あの子』に、膝丸がぴくんと反応する。ガラス戸の向こうでせこせこ働くいつもの少女に視線をやって、まさか、と髭切を見つめる目はまん丸だ。

    「しょくにんに会ったのか!?」
    「あれ、そういう名前なの?」
    「いや、そうではないと思うが……他の者がそう呼んでいた」

     ふうん、と髭切は生返事だ。たぶん明日になれば綺麗さっぱり忘れる名前だろう。直に聞いていないのにいちいち呼び名を覚えている膝丸の方が変だと、そう髭切は思う。やっぱりあの女の子が絡むと膝丸はおかしくなるみたいだった。
     それがもし、万一悪い方向におかしくなっているなら、なんとしてでも阻止しなくちゃいけないなぁと、少々過保護気味に思いながら。

    「しかし、何故しょくにんと兄者が……」
    「洋菓子が苦手なおまえが洋菓子の店に来るなんて何かあると思ったんだ」
    「兄者ぁ……」

     完全に野次馬根性丸出しの自分の兄に、膝丸はがっくりとうなだれる。おおかた、面白がって覗きにきたのだろう。今剣や岩融を伴ってこなかったのを幸いとすべきか。膝丸は膝丸でそんなことを考えていた。
     しょくにんとは別の店員が、しょくにんより上手に作られた笑顔で紅茶を運んでくる。もう少々お待ちくださいとお決まりの一言に、髭切は柔らかく、膝丸はややぎこちなく笑った。







     さて、おすすめと言われたがいったい何を作ろうか。髭切さんの情報があまりにも少ないから、万民受けするお菓子がいいだろう。木ベラを片手に考えこむ私に、先輩がエールを送ってくれる。
     髭切さんはおいしければなんでも幸せな個体が多い、という役に立つのか立たないのかいまいちわからないアドバイスを受けつつ、膝丸さんが前に落としてくれた髭切さんの記憶をたぐった。
     膝丸さんの性格から鑑みたらクリームは出さない方がベターなんだけど、うちにくるときの膝丸さんの決まり文句はだいたい「兄者が欲しがっていた」だ。じゃあ、膝丸さんほどクリームに気を使わなくてもいいかもしれない。むしろ、クリームを使った方が目新しくていいかも。
     となると、とショーケースを振り返った。たくさん並んでいるケーキだが、そろそろフレジエが残り少ない。じゃ、フレジエで。安直極まりないが、そう呟いて私はボールに卵白を落とした。
     フレジエはフランス語で苺を意味する。要するにフランス風ショートケーキのことで、日本のショートケーキとは少々スポンジの作りとサンドするクリームの質が違う。だが、うちの店で提供するショートケーキは全てフランス風だ。ショートケーキくださいと言ってもフレジエが出てくるし、フレジエくださいと言ってもショートケーキが出る。
     じゃあ違いは何かと言えば、ショーケースに飾るときはフレジエと表示するが、メニュー表に乗せるときはショートケーキと書く。それだけだ。店長曰く、その方がイメージしやすいから、とのこと。
     まあ厳密に言ったらフレジエとショートケーキは別物なのかもしれないけれど、そんなことはこの店と、洋菓子に詳しくない刀剣様たちにとっては些細な問題だ。
     焼きあがったスポンジにナイフを入れてしばらく冷まし、少々甘さ控えめに仕上げたムースリーヌを挟む。新雪のようにふわふわで白いホイップをのせて、真っ赤に熟れた苺とミントを添え、ナイフで切り分けながらなんとはなしに外を見た。

    「増えてる」

     まさかの膝丸さんご来店である。なにやら和やかにお話ししているご様子で、こちらには全く気がついていない。新しい注文の指示もないし、何か頼んだか、単に髭切さんを回収しにきたかのどちらかで、うん、たぶん後者だ。
     白磁のお皿にフレジエ──もといショートケーキを乗せたところで、髭切さんのもう一つの注文を思い出した私は浅く息を吐いてもう一つショートケーキのお皿をお盆に乗せた。

    「あ、来た来た」
    「お待たせしました」

     いや本当にお待たせしました。それもこれも髭切さんが私の作ったお菓子じゃなきゃやだって言った所為なんだけどね。紅茶はすっかり冷めているだろうから、サービスで温かい紅茶をポットでもう一つつけさせていただく。
     私にできる最大限の淑やかさでもってそっとケーキを差し出せば、髭切さんがおお、と感嘆とも何ともつかない声を上げた。

    「これは?」
    「見たことがあるぞ。玻璃の棚の一番上にいつも置いてある菓子だろう。ふれじえと言ったか?」
    「はい。フレジエです」

     カップをもう一つおいて、膝丸さんに紅茶を注ぐ。少々居心地悪そうにそれを受けた膝丸さんは、お盆の上にもう一つ載ったそれをとっくり眺めた。

    「ふれじえ、だっけ。このお菓子、現世でも見たことがあるよ。でも、そんな名前じゃなかったような気がするなぁ」
    「品書きにはショートケーキという名前で載ってるんですよ」
    「名前が二つあるのかい?」
    「厳密に言えば別物なんですが、うちの店では同じものとして扱ってます」

     処女雪をたっぷりかき集めたようなホイップに、ちょこんと鎮座する赤い宝石。カット面から見える薄い桃色のムースリーヌは苺を練り込んだ特製のものだ。フォークを取り上げ、意外と豪快に差し込んだ髭切さんが、上品にお口を開けてまずは一口。
     ぽぽ、と桜が花開いた。

    「おいしい……!」

     ほわあ、と効果音がつきそうなほどの笑顔に、私はほっと胸をなで下ろした。

    「お口にあったようで、何よりです」
    「うん。とってもおいしいよ。このふらふら」
    「ふれじえだ、兄者……」
    「ありゃ、そうだっけ? うーん、僕にとっては名前は割とどうでもいいかな。おいしければいいよ」

     眉間にしわを寄せて頭を抱える膝丸さん。私としては髭切さんの意見に全面賛成だった。

    「そうですね。おいしければ良いですよ」
    「ね」
    「君もか……」

     だいたい、同じお菓子でも違う名前がついているものが多すぎるのだ。フランス風に言うかドイツ風に言うかで発音も違うし、そんなのいちいち覚えていられない。ぼやくように言うと、髭切さんはおもしろそうに、膝丸さんもちょっと興味深そうにこちらを見つめる。

    「お揃いだね。僕らも名前がたくさんあるんだよ」
    「え、そうなんですか?」
    「ありゃ、知らなかった? あ、そうか。審神者じゃないもんね。知らなくても当たり前か。ええと、僕は髭切なんだけど、他にも名前があって、ええと」

     まさか自分の名前まで忘れたのかと膝丸さんを見ると、生真面目に背筋を伸ばした彼は指折り数えてその名前を呼んだ。

    「髭切、鬼切、獅子ノ子、友切……まだあったか?」
    「弟が覚えてないくらいだから僕が覚えているわけがないよね」
    「すごく説得力あるなぁ……」

     思わず漏らした素直な感想に、膝丸さんはがっくりうなだれる。自分の名前で四つあるなら、そりゃ名前なんてどうでもよくなるかもしれない。膝丸さんもいっぱいあるみたいだし、また調べておこうと心の中にメモする。それにしても、だ。

    「愛されてるんですね、髭切さんも膝丸さんも」
    「……うん?」
    「どういうことだ?」

     だってだ。フレジエもショートケーキも、フランス人と日本人がそれだけこのお菓子が好きだったから、たまたま似たようなお菓子ができたのだろう。苺とクリームの組み合わせがどうでもいいなんて思っていたら絶対にそんな名前がついたお菓子は生まれなかったわけだ。
     いろんな国で愛されたからこそ、いろんな名前が付けられる。刀だって一緒じゃなかろうか。
     そんなことをつらつらと語ってから、はっと我に返って口を押さえる。しまった、偉そうにしゃべりすぎた。

    「す、すみません。刀のこと何も知らない若造が偉そうに……」
    「……あはは、確かに、僕達と比べれば若造かもね。でも、嬉しいな。ありがとう」

     髭切さんが笑って、膝丸さんが目線を背ける。ふたりともほんのり頬が赤くて、目尻が少し下がっている。あ、やっぱり兄弟だな。照れたときの仕草が同じだ。ぼんやりそんなことを思っていると、膝丸さんが一度小さく咳払う。

    「兄者、これでもう満足しただろう。帰るぞ」
    「えぇ。まだ食べ終わってないよ」
    「ならば食べ終わったら帰るぞ」
    「別にゆっくりしてもらっても構いませんよ?」
    「ほら、この子もこう言ってることだし」

     膝丸さんがすっかり弱り切って眉を下げている。最初の怖そうな印象はどこへやらで、浅く息を吐いて額を押さえる姿に、せめて甘いものでもとショーケースを振り返る。膝丸さんが食べられるようなさっぱりしたお菓子はあっただろうか。

    「意地丸、疲れたときには甘いものがいいらしいよ」
    「だからな兄者、俺は──」
    「ほらほら、遠慮しない」

     膝丸さんと髭切さんに背中を向けているときに、んぐっという蛙がつぶれたような声が聞こえてとっさに振り返った。
     髭切さんの手にはフォーク。しかし先端は膝丸さんの口の中に消えている。口元にべっちゃりついているのはクリームで、私のお皿の上にある欠けたケーキからいったい何が起きたのかなんて想像するのはそう難くない。

    「ひっ……髭切さん!?」
    「うん? どうかしたかな?」

     いや、膝丸さんクリーム駄目なんじゃなかったんですか。お兄さんが率先して苦手なものを食べさせていいんですか。むしろ食育か何かですか。クリームって食育してまで食べなきゃいけないものでもないんですが。
     いろいろ言いたいことはあった。それより何より私が一番怖かったのは、今まで美味だ旨いと言いながら私のお菓子を食べてくれた膝丸さんから「不味い」の一言を聞くことで。
     育ちがいいだろう膝丸さんは決してケーキを吐き出すようなことはすまい。はらはらと落ち着きなく、その喉が上下に動くのを待った。

    「どう?」
    「美味、だな」

     瞬間、全身から力が抜けるかと思った。

    「でしょう?」
    「だが、流石にこれを一個丸々となると……」
    「あ、これはね、この子の分。一緒に食べようって言っておいたんだ」
    「……兄者、この者にも仕事があるだろう。無理をさせてはいけない」

     うんそうですね。そろそろ他の職人さんに申し訳ないから私は帰らないといけませんね。早口で壊れたロボットのようにそれだけ言って、ぎくしゃくした動きで厨房に戻る。いつものように手を洗って、埃をとって調理台に卵を軽く叩きつける。叩きつけすぎて一つ駄目にした。
     クリームが苦手な膝丸さんが、私のケーキを、美味しいって言ってくれた。

    「……あー……」

     もっとがんばって、おいしいお菓子を作ろう。その場にへたりこんでそう決意した私を見て、職人さんたちは不思議そうに首を傾げていた。







     足早に厨房に戻ってしまった背中を見送って、膝丸は手の中のケーキを見やる。繊細な模様を描くクリームに、宝石のように輝く赤い一粒。少し欠けた断面から見える薄桃色のクリーム。芸術品のごとき菓子を、彼女が作ったと思うと、そして自分が食べることができたのだと思うと、なんだか不思議な心地だった。

    「ああ、行っちゃったねぇ」
    「当たり前だ。彼女にも職務があろう。俺達が敵を斬らねばならぬように」
    「そうだね。すごく大事なお仕事だ。こんなに美味しいものを作るんだもの」

     髭切の皿の上にはもうほんのかけらを残すのみで、物欲しそうに膝丸の皿の上を見つめている。

    「……なんだ兄者」
    「ねぇ、弟。どうせ全部は食べられないのなら、僕に半分……いや、四分の一でいいからおくれよ」
    「やらん」

     いつもなら快く分けていただろう膝丸が、珍しくはっきりと断った。これはしょくにんのものだと主張する膝丸に、もう戻ってくることはないのだからふたりで分けたって一緒だという髭切。眉間にしわを寄せた膝丸が、それでも嫌だと譲らない。

    「ほんとに全部食べる気かい? 一個丸々は厳しいとか言ってたくせに?」
    「ああ」
    「……わかったよ。そのかわり、残したら貰うからね」

     苦手なはずのクリームがたっぷり絞られたケーキにフォークを突き立てる弟に、そういえばとふと気が付いて髭切は意地悪く目を細めた。

    「ねぇ、意地悪」
    「膝丸だ兄者。これはわざとだろう」
    「ありゃ、バレてた? まぁそんなことよりね、もし彼女がここに残ってたら、おまえの食べているそのケーキは彼女のものだったんだけどさ」

     それがどうかしたか? と首を傾げる膝丸に、髭切はすっかりぬるんだ紅茶を一啜りしてから口を開いた。

    「その場合、現世でいう間接キスとやらをすることになったのかな?」
    「なっ……」

     フォークを落として取り乱す弟に、うんうん、春だねぇと髭切は笑った。
     若葉の佩緒飾りが、柔らかな日差しにきらめく午後のことである。
    ジンジャーブレッドマン

     徐々に気温が上がってきた。そろそろゼリーやアイスクリームの準備を始める時期だ。挨拶回りの焼き菓子ラッシュも落ち着いて、一時期の目の回るような忙しさはすっかり終息した。ぶっちゃけ暇だった。
     新作開発や、技術向上などやることは沢山あるんだけど、どうもやる気がでない。五月病というやつかもしれない。お客様の数も少ない。カレンダーを見れば丁度ゴールデンウィークの直中で、そりゃあお客様が少ないわけだと納得する。審神者様方の帰省の時期だ。ちなみに城下は年中無休で、洋菓子店も例外ではない。つまり私にゴールデンウィークはない。

    「……こういうときに来てくれればいいのになぁ」

     思わずぼやいた。一時期糖尿病になるペースで通っていらっしゃった膝丸さんのことだ。
     あのショートケーキの一件があって以来、膝丸さんはうちにいらっしゃらない。かれこれ一ヶ月は経とうか。やっぱりお口に合わなかったのかな。お皿は綺麗に空だったけれど、ひょっとしたら髭切さんが全部いただいたのかもしれない。
     アンニュイなため息をついていたら、先輩に珍しいななんてからかわれた。余計なお世話だ。

    「まぁ、常連のお客様が突然いらっしゃらなくなるのなんて、ここではよくあることだと思った方がいいよ」
    「どうしてですか? 転属とか?」
    「違う違う。ここは平和だから実感ないけど、やっぱり戦争してるわけだからね。ある日ぽっきり折れることがないってわけじゃないし」

     折れる。
     刀剣男士様方にとってはそれはすなわち死を意味するのだという。
     さっと顔から血の気が引いていくのを感じた。先輩が慌てて両手を振って、あくまで可能性の話だと主張する。
     いや、けれど、私は膝丸さんの強さも髭切さんの強さも知らない。もしかしたら、と嫌な想像ばかりがぐるぐると膨らんでいく。
     私が見分けることができない刀様の中で、ひょっとしたら知らないうちに折れた方がいるのかもしれないと思うと、胸の奥がツンと痛んだ。

    「職人さんたち、今日はもうお客様がいらっしゃらないでしょうから、早めにあがってくださって結構ですよ」

     店長の優しい声もどこか上の空で聞いていた。仕事に集中できないまま、いつのまにか閉店一時間前。体にしみこんでいる所為で、お菓子は次々仕上がっていく。それでも、今日はやっぱりミスが目立って、先輩が申し訳なさそうにしていた。
     今日も膝丸さんはいらっしゃらなかった。こういうときに限って、あの鶴丸さんもいらっしゃらない。はぁ、と一つため息をついて、戸棚に手を伸ばしたとき、不意にガラス戸に陰が映った。

    「ひっ……」

     そこに立っているのは膝丸さんで、とっさに声を掛けようとして踏みとどまる。膝丸さんは一瞬こちらに目を向けただけですたすた歩いていってしまったからだ。刀に視線を滑らせるが、そこに私が渡した佩緒飾りはない。どうやら別刃だったようだ。
     どうして今まで気にもしなかったのに、こんなにひとりのお客様に気を揉んでいるんだろう。きっと膝丸さんが何度もご来店くださってご愛顧くださったからだ。だからこんなに寂しいんだろう。
     布巾で調理台を丁寧に拭く。オレンジの旬が近いから、オランジェットの再販も始まった。膝丸さんに今度こそ私の作った商品を食べていただきたいのになぁ、と暗い気分で店を出る。裏路地からちょっと歩いて、店の前で立ち止まる黒と薄緑を見た。
     あ、膝丸さん。ちらりと佩緒を見やる。飾りは何も付いていない。この方も別刃だ。しょぼんと肩を落とした。でも、店員の仕事は全うしなきゃ。

    「あの、すみません。今日はもう閉店なんです。また明日ご来店ください」
    「……久しいな」

     ぱち、と一つ瞬く。
     すまなさそうに膝丸さんが握りしめた拳をこちらに差し出した。

    「覚えているだろうか。おらんじぇっとと、あまれってぃと、他にも、沢山君から菓子を貰った膝丸だ」

     ぱ、とこちらに向けて開いた掌の上には、無惨にも壊れてしまった金色の飾り。

    「ひ、ざまる、さん」

     忘れるわけがない。
     この一ヶ月なにを、とか、どうして飾りがそんなことになってるんですか、とか、聞きたいことはいろいろあったけれど、それよりも何より。

    「ご無事で何よりです……」

     心底の安堵を漏らせば、膝丸さんはますますすまなそうに縮こまった。







     立ち話も何だと閉店後で申し訳ないが、カフェスペースにお通しする。簡単にお茶だけ入れてお渡しすると、ようやくこわばった顔をほどいてくれた。
     曰く、膝丸さんはこの一ヶ月間、大坂城の地下にいたらしい。
     大坂城には地下に謎の空間が広がっており、膝丸さんはそこに眠っている新たな刀と小判を求めて、最下層まで降りる部隊の隊長を任じられていたそうなのだ。
     土木工事でもしていたんだろうかと黄色いヘルメット姿の膝丸さんを想像していたら、なんとその大坂城は地下百階まであるらしく、私の目は見事に点になった。そりゃこの一ヶ月来れなくもなる。

    「心配をかけてしまったようだな。すまない」
    「いえいえ、私が勝手に心配しただけですし……で、あの、これは」

     かろうじて原型をとどめてはいるが、留め具の部分が抉られたようにちぎれた金の飾りは、よく見ると細かい傷が付いている。これは流石に私にだってどうして付いたのかわかる。戦で付いた傷だろう。

    「俺や刀、拵えの傷は手入れで直るのだが……これだけは主の霊力が込められていないからか、壊れたままになってしまった」
    「れいりょく……?」

     トンデモワードがまた現れた。
     膝丸さんたち刀剣男士様は、審神者さんの手入れによって、負った傷も破れた服も一発で直るそうだ。だが、他の人が作ったもの、例えばお守りなんかは一度壊れると手入れで直すことは不可能。要するに審神者さんが念を込めたものや審神者さんが作ったものしか、審神者さんには直せないということらしい。ううん、なんだか難儀な話だ。

    「それなら、私があげたものなら、私が手入れとかいうものをすれば直るんですかね?」
    「やめておいたほうがいい。君がやると霊力がすぐに枯渇する」
    「枯渇するとどうなるんです?」
    「俺も詳しいわけではないが、生命力も根こそぎ持っていかれるそうだ。主がいうには、ぞんびという怪物に似た見目になるとか」

     私もちょっとそれは遠慮したい。

    「形あるものはいつか壊れるわけですし、また新しいものをお渡ししますよ」
    「いや、それでは君に申し訳が……」
    「いえ、私が勝手に渡したものですし」

     というか、もしかしなくても、膝丸さんこのことを謝るためだけにここにきたのか。
     全く、律儀な方だと感心を通り越して呆れてしまった。テーブルの上に散らばった破片を一つ一つ拾い上げる。確かに派手に壊れてはいるが、接着剤でどうにかなるかもしれない。少し不格好にはなるけれど。
     瞬間接着剤は確か店の奥にあったはず、と席を立とうとしたとき、くうう、と間抜けな音がした。

    「……すまん」
    「ついでに、何か食べ物もお持ちしますね。お店の余り物になってしまいますが」

     恥ずかしそうに顔を染めて下を向く膝丸さんに、またちょっと笑ってしまった。
     店長に事情を説明すると、閉店時間を過ぎているが特別にお店を開けておいてくれることになった。瞬間接着剤も貸してもらえた。あとは何か食べるもの。手軽に食べられるものがいいだろう。
     ふと視線に止まったのは、型抜きに失敗して頭の形がいびつになってしまった茶色い人形のクッキー。そういえば、人形は昔から降りかかる災厄の身代わりになるのだという。
     あの壊れた飾りが、もし膝丸さんの身代わりになったのなら、それはそれでよかったのかもしれない。

    「あまれってぃではないのだな」
    「はい。ジンジャーブレッドマンです」
    「じん……?」

     現世ではクリスマスでおなじみのクッキーは、生姜を混ぜ込んでいるおかげで甘さがしつこくない。スパイスの香りが強い分、好き嫌いが分かれてしまうお菓子だけれど、膝丸さんの口には合うような気がしたのだ。なんとなく、だけど。
     人形のそれをどこから齧ろうか思案しているようで、摘まんだまま色んな角度から眺めている膝丸さんを前に、私は破片に一つ一つ接着剤をつけていく。

    「器用だな」
    「お菓子作りで慣れました」

     気の遠くなるくらい繊細な飴細工づくりだったり、組み立てだったりを繰り返した下積み時代を思い出して遠い目をする私を、膝丸さんは不思議そうに見る。

    「それにしても、膝丸さん、良い方ですね」
    「そうか?」
    「私が無理矢理渡したようなものなのに、刀に付けてくれたし、壊れたからってお詫びに来てくれたんでしょう?」
    「当たり前のことではないのか?」

     澄んだ目でそう言われて、私はゆるゆる苦笑した。それを当たり前だと思うから、膝丸さんは良い方なんだ。
     瞬間接着剤で修理した飾りは、前よりかは幾分か不格好だけれど、それでもなんとか元の形に戻っている。ちょっと強度は不安だけれど、現世の技術を信じよう。

    「それを言うのならば、君の方が良い人間ではないのか?」
    「私がですか?」

     きょとんとする私に、膝丸さんは解けるように笑う。

    「色々と世話をしてくれた上、単なる客のひとりである俺をここまで心配してくれたではないか。自覚がないのか」

     それは、だって膝丸さんはお客様で、膝丸さんが良い刀だからで。喉元までせり上がった言葉は、声になることはなかった。
     いつも不器用な笑顔ばかりなのに、なんで今こんなに自然に柔らかく笑うんだ、この刀は。流石髭切さんの弟だ、とか、頭はどうでもいいことばかり考える。

    「……あ、りがとう、ございます」

     必死で絞り出した声は震えていなかっただろうか。
     なんとなく、察していたけど、気付かないように見ないようにしてきた。膝丸さんがイケメンなのが悪いとか、優しいから悪いとか、可愛く見えるから仕方ない、とか。
     ただイケメンで優しくて可愛いお客様なんて、この職場に来てから一杯見てきたはずだ。個体の識別をつけようと思ったのも、一か月来なかっただけでこんなに心配したのも、この膝丸さんしかいない。
     幸せそうにクッキーを齧る膝丸さんからそっと視線を外して、私は膝の上で掌をぐっと握りこんだ。

    「馳走になった。旨かったぞ、とても。代金はけえきせっとと同じくらいでいいのか?」
    「あ、はい」
    「……どうした? 顔色が優れぬようだが」

     机の上に小銭を丁寧に並べて置く膝丸さんに、私は何とか笑って見せる。

    「安心したので、ちょっと気が抜けただけです」
    「……そうか?」
    「はい。ちょうどいただきますね」

     やっぱり気になるのか、何度も振り返る膝丸さんに手を振って、私はふぅ、と溜息を一つついた。
     膝丸さんは刀で、神様だ。
     私は人間。それも、審神者でもなんでもない、ただお菓子が作れるだけのただの人間。
     王子様と庶民の娘なんか比でもないくらいの身分違いの恋情を、私はこれからどうすればいいんだろう。







     その生真面目さを表すような、定テンポのきびきびした足音を聞いて、今剣と乱はぴゃっと近くの物陰に身を潜めた。物思いでもしているのか、それとも単にふたりの隠蔽が高かった故か、相手は全く気が付くことなく、そのまま本丸の方へと戻っていく。
     詰めていた息を吐くと、今剣と乱は顔を見合わせる。

    「あれ、うちの膝丸さんで間違いないよね?」
    「はい。さいきんようがしやにあししげくかよっているとはきいていましたが」

     先ほど膝丸が出てきた店の前では、店員らしい白い服を着た娘が物憂げに溜息をついている。ほおう、と乱が楽しそうにその青い目を細める。

    「あの膝丸さんがねぇ……」
    「たのしそうですね、乱」
    「そりゃね。見たところ、あの女の人が膝丸さんに惚の字なのかなぁ? いや、にしてはちょっと様子が変かな」

     洋菓子店の扉が閉じてから、そろそろとふたりは道に出る。可愛らしい看板にディスプレイされたサンプルのお菓子はますます膝丸からほど遠いイメージだ。
     とりあえず長居も何だし、と乱は、城下にきた本来の目的である買い出しの品が入った袋を握り直す。一方、今剣は何やら複雑そうな目で洋菓子屋を見上げていた。
     人の子は脆い。そして己たち刀剣もまた、いつ折れるとも知れぬ儚い命だ。必ずしも結末はめでたしめでたしとは限らない。
     あのむすめもくろうをしますね。今剣はぽそりと呟いた。
    和三盆

     きらきらした野いちごみたいな瞳が、こちらの手元をじいっと見つめている。ガラス窓にぺたりと頬を寄せて、吐息で時々白い陰ができる。
     非常にやりづらい。いやほんとにやりづらい。厨房が見えるようにしてあるのだから、今更なんだけど。問題は私の手元を食い入るように見つめている今剣様じゃなくて、その後ろで所在なさげに視線をさまよわせている膝丸さんなんじゃなかろうか。
     落ち着け、心頭滅却だ私。泡が立たないように丁寧にかき混ぜた卵液を前に、数度大きく深呼吸した。

    「い、今剣。これでもう満足か?」
    「いえ、まだです薄緑。まだなにをつくっているのかわからないではないですか」

     一方、てこでも動こうとしない今剣様を前に、膝丸さんがそんな風に困惑していることなど、私は全く知らないのだった。
     先日見つかった新しい刀剣男士様のおかげで、洋菓子店は菓子の特注にてんてこ舞いだった。特に、今回見つかったのは兄弟沢山で有名な一期一振様の弟さんだったから余計に。
     何故かって、そりゃあ会社でも部活動でもサークルでも、新入りがやってきたら歓迎会を行うでしょう? 歓迎会にはデザートがつきものでしょう? 和菓子はともかく、大がかりな洋菓子を作ることのできる刀剣男士様って数が限られるでしょう? さらに今回は幼い見目をした短刀の刀剣男士様で、しかも一期一振様の弟でしょう? 当然「珍しくて美味な菓子を是非弟に食べさせてやりたいものですな」って一期様張り切るでしょう?
     その結果がクリスマス商戦もバレンタインデイも真っ青な忙しさである。圧倒的兄力は経済を救う。製造者の体力? 知らんな。
     ということで朝から晩まで特注菓子の製造に通常メニューの洋菓子製造を平行して行わなければいけない厨房はまさしく戦場なのだ。普段は二三人しか常駐しない職人さんも臨時雇用して二桁で厨房を飛び回っている。いつもなら店長の柔らかなイントネーションの違いで呼び分けられる「職人さん」も、とうとうナンバリングされた。ちなみに私は「職人三さん」だ。なんだかお日様さんさんみたいで非常に間抜けだ。

    「三十分後にいらっしゃる審神者番号7945様のケーキは!?」
    「既に包装して冷蔵庫の中です!」
    「卵が後八個で切れます! 補充お願いします!」
    「手の空いてる人皿洗いお願いします!」
    「職人四さん小麦粉振るって! 薄力粉!」

     地獄か。
     やりづらいなんて思ってる場合じゃなかった。地獄か。
     何でどの審神者様も新しい刀剣男士様をお迎えになったその日か次の日に歓迎会をなさるんだろう。せめて一週間くらいの間に散らしてくれれば現場は楽なんだけど、まぁせっかくいらしてくれた愛刀様の、初めてのお食事だしおいしいもの食べさせてあげたいよねぇ……分からなくもない。

    「職人三さん、プリンの調子はどう?」
    「後は蒸すだけです。……あの、これ本当に食べきれるんですかね」
    「五十人くらいいらっしゃるんでしょう? むしろ足りないくらいじゃないかしら」

     まじか。
     寸胴鍋一個まるまる占領して作られた高級プリンの原液に、私は遠い目をした。
     審神者番号8871様が発注なさったのは、粟田口短刀様たっての希望、女子最大の夢。
     バケツプリンである。
     よっこいしょと女人があげるには少々悲しくなるかけ声を出しながら、バケツに漉すための布をかけたものに慎重に注いでいく。どれだけ腰が痛くても泡立てないようにするのがプロ根性。
     パティシエールなんてすごーい! 女子力あるー! なんて同窓会で言われたこともあったが、悲しいかなこれが現実だ。女子力だけでお菓子は作れません。

    「うわあすごいですね薄緑! あのおなご、まるで岩融みたいです! おもそうななべをかるがると!」
    「あああ大丈夫なのかあのような細い腕であれほど重いものを持てば腰を痛めるぞ……」

     プリンと一騎打ちしている私は、ガラスの向こうで今剣様が非常に不本意な感心をしていることも、膝丸さんが心配で青くなったり呻いたりしていることも当然知らないのだった。
     プリンを巨大な蒸し器に送り出したあと、私は半ばやけくそで叫んだ。

    「職人三、バケツプリン終わりました! 次審神者番号7894様のデコレーションにかかります!」

     目の前に立ちはだかる巨大なスポンジを前に、せめてでも威勢良くいないと疲れて発狂する。
     女は愛嬌だけど、愛嬌だけで生きていける女など少ない。もうちょっと忙しくないときに来てほしかったなぁと、ちょっぴり泣きそうになりながら外の膝丸さんを眇めた。







     結局閉店近くまで休憩なしの激務だった。最後のお客様が商品を受け取りに来たときは泣きながらガッツポーズしたものだった。終わった。解放された。急な発注によくぞ耐え抜いた。ショーケースも、ものの見事に空である。
     ふうっと一息つきながら外を見ると、既に太陽は大きく西に傾いている。お先に失礼しまーすと臨時雇用の職人さんや年長の職人さんが帰っていく中、一番若くて下っ端の私は厨房の掃除だ。痛む腰をとんとんと叩きながら、そういえば、とガラスの向こうを見た。
     当然のごとく膝丸さんも今剣様もいらっしゃらない。そりゃあお帰りになるよなぁとステンレスの流しを布巾で拭いた。
     最後に店の電気を消して、コックコートから私服に着替えて鞄を持つ。店長に一礼してお店を出ると、ぐうっとお腹が切なく鳴いた。そういえば、今日ろくにご飯食べてないや。
     家に帰る前に、城下で何か摘んでいこうかな。お腹をさすりながら、下を向いて歩き出した。と、数歩歩いたところで不意にぽんと肩を叩かれる。

    「はい、何か……膝丸さん!?」
    「す、すまない。やはり突然女人の肩に触れるなど無礼であったか」
    「いやそこじゃないです」

     何でここにいるんですか、どうして帰ってないんですかと尋ねると、膝丸さんは片手に下げている買い物鞄をひょいと掲げた。あ、お買い物でしたか。そりゃそうですよね。流石に一旦帰りますよね。恥ずかしい。
     ネギの飛び出た庶民的なエコバッグを持って、膝丸さんはすごく微妙な声で返事をした。すみません疲れていたせいでとんでもない勘違いを。

    「体は大事ないか?」
    「え? どうしてですか?」
    「重いものを持ちあげたり、熱い飴を掴んだりしていただろう」
    「ああ、大丈夫ですよ。日常茶飯事ですし」

     心配してくださってるのか。なんていい人だ。神様か。神様だったわ。
     この仕事を始めてから重たいものを持ったり、飴細工なんかで火傷をすることなんて日常の一部になっていたから、こうして心配されると少し居心地が悪い。力仕事なんて平気ですよ、と強がると、膝丸さんは何か言いたげにした。
     頭に、ぽん、と軽い衝撃。

    「日常茶飯事としても、俺から見れば激務だ」

     これは、もしかして私労われてるんだろうか。

    「さ……すがに、あれだけ忙しいのは今日くらいですよ」
    「そうか」

     ぽんぽんと叩いてるこの手は、頭撫でてるつもりなんだろうか、この人。人じゃないけど。不器用か。不器用なのか。
     フリーズする私に構わず、膝丸さんは頭を叩いていた手をそのままお買い物鞄にやって、なにやらごそごそと探している。
     摘んで出してきたのは、金箔が散らされたちいさな箱だ。

    「疲れたときには甘いものだと、兄者が言っていてな」

     そのまま私に押しつけるのだから、流れでつい受け取ってしまった。蓋をあけて絶句する。

    「お干菓子……」
    「やはり洋菓子の方が良かっただろうか?」
    「め、めっそうもないです! そんな! 空きっ腹に糖分……!」

     ありがたい。ありがたい。蓋の裏に見えた超高級和菓子店の名前は見ない振りだ、見ない振り。
     こんなときじゃなかったらじっくりねっとり味わって味を分析してやるのに、くっ、押し寄せる食欲が憎い。でも指は止められない。きれいな紅葉の形をしたお干菓子を口の中にそうっと入れる。
     ほどけた。分かるか。単に溶けるんじゃない。ほどけた。
     しかもこれ、和三盆の、本物の和三盆のお干菓子だ。

    「うまいか?」

     私は泣きながらこくこくとうなずくことしかできない。
     和三盆のお干菓子というのは、基本的にお砂糖と水飴でしかできていない。だが、砂糖の固まりを食べているのだから、味は単調だろうと思いこんでしまうのは間違いだ。
     材料はとにかくシンプル。それ故に腕と素材の良さがものを言う。
     舌触り。溶け方。後味。ねっとりしてはいけない。けれどさらりと逃げてしまうと、その後に控えるお茶が引き立つことはない。控えめに舌で残る甘さ。上品で、奥ゆかしいTHE・大和撫子な味。それが実現できるんです。そう、和三盆ならね。
     だが如何に上等な和三盆があっても、職人の腕が立っていないとこの感動は半減する。逆に職人の腕が見事だと、和三盆は和四盆にも和五盆にもなるのだ。いや最近の和三盆皆実は和五盆くらいだけど。
     つまり何を言いたいかというとだ。

    「美味……」
    「それほど喜んでくれるとは、贈った甲斐があったな」
    「膝丸さんありがとうございます今日一日の苦労が全て報われました神様仏様膝丸様」

     これはバリボリ貪っていいものじゃない。一つ一つ丁寧に楽しむものだ。そう思った私は、一段目だけと己を戒めて泣きながら食べる。化粧が落ちる? 製菓に携わる人間が化粧できると思って?

    「膝丸さんもお一つどうぞ」
    「いや、これは君のものであって」
    「そんな固いこと言わないでください。美味しいものは誰かと食べると美味しいに楽しいが重なって無敵になるんですから」

     と、よくわからない持論を展開しながら、興奮していた私は何も考えずに膝丸さんの口にお干菓子をねじ込んだ。
     これが俗に言うあーんだということに気づいたのは、私がお干菓子片手にルンルンしながら家にたどり着いてベッドにダイブしてからである。
     だから、顔を真っ赤にしてフリーズした膝丸さんに、何も気づくことはなく、あまつさえ自分の指についた和三盆をもったいないと舐めたりしてしまったのである。
     しにたい。







     見事に機能停止して帰ってきた膝丸を見て、獅子王は首をこてんと倒した。
     機械ならプシュウウウと音を立てているテンパりっぷりである。顔も赤い。熱でもあるのか?

    「はるですねぇ」

     今剣がにやにや笑ってそう言った。

    「もうすぐ夏だぞ?」
    「薄緑にははるなんですよ」
    「お? つうことは?」

     獅子王もにまにまと笑う。今剣の肩をつんつんとせっつくと、桜を薄く積もらせながら幸せそうな膝丸を眺めた。
     じっちゃんこと源頼政をかつての主に持つ獅子王にとって、玄祖父である頼光に縁あった膝丸と髭切は、何となく親しみを覚える相手である。そんな彼に、春。

    「ちなみに、相手は? どっかの審神者か? それとも刀剣?」
    「ようがしやのむすめです」
    「……それって、いいのか?」
    「さあ。さにわとちがって、なんののうりょくもないひとのこで、ぼくがちょくせつはなしたことはありませんが、きだてのよさそうなむすめごでしたよ」

     そういう問題ではないのだと獅子王は眉を寄せた。

    「ぼくは薄緑がしあわせならそれでいいです。おもうだけならじゆうでしょうし」
    「まあなぁ、幸せならそれに越したことはないけどさぁ……人間と恋なぁ……主になんか言われなきゃいいけど」
    「む、ならないしょにしておかなければいけませんね!」
    「いやあの様子で内緒は無理じゃね」

     髭切がほほえましそうに膝丸の肩を叩き、岩融も訳知り顔で頭を撫で、鶴丸までにやにやと顎をさすっている。本丸中にばれるのも時間の問題だろうなぁ、と獅子王は遠い目で、生真面目な青年刀の行く末を案じたのだった。
    リンツァートルテ

     最近、やたらと城下に使いを頼まれる気がする。今日も鶯丸から紅茶缶と何か洋菓子を買ってきてくれと頼まれた。財布は向こうが出すからいいのだが、何故俺に頼むのだと膝丸は首を捻った。
     いや、別に嫌なわけではない。ついでに菓子屋に寄ることができる。水曜日にお願いされると少しだけ気分が下がる。水曜日は見知った彼女の非番だ。いや、別にこれは下心があるわけではない。源氏の宝刀たるものそんな不埒な思いは抱いていないただ彼女がいると注文がし易く時々味見をさせてくれ何より笑顔を見るとほっとし──いや不埒ではない不埒ではないぞ。
     悶々と考えながら膝丸は今日も店の前にたどり着く。ガラスの向こうで忙しく立ち働くのは彼女ではない。と、いうことは今日は接客か。何となく浮き足立った歩調を鎮めて、ふうっと短く息を吐き扉を開けた。

    「いらっしゃいませ」

     おや?
     いつもの彼女の姿はない。休憩中だろうか。まあ、そういう日もあるかもしれない。紅茶缶と、慣れない店員に茶菓子を紹介してもらって本丸に戻った。
     鶯丸は、他の店より高級な茶葉と菓子に満足そうだった。
     翌日、やはり使いを頼まれた。今度は一期から弟の所望する菓子を買ってきてくれとの依頼だ。
     ガラスの向こうに今日も彼女はいない。カウンターにもいない。きょろきょろと落ちつきなく視線をさまよわせていると、何かを察したのか店長がそろそろと近づいてきた。

    「ごめんなさいね、膝丸さん。あの子、今里帰り中なんですよ」

     何だと。







     例えば、学校の先生が帰省中にばったり自分の生徒に出くわしたら、気まずいものだろうな、と思う。小学校のとき、お盆休みに旅行に行った先の旅館が、担任の実家だったことがあった。わーせんせーひさしぶりーなんて暢気に言った記憶があるが、あの時の先生超ごめん。今度現世で働くことがあったら、贈答用菓子を差し入れるから許してほしい。

    「よっ、奇遇だな!」

     笑顔で片手をシュタッと上げる、ぱっと見スーパーモデルにしか見えない常連客様に、帰省ムード満点の私は乾いた笑いをこぼすほかなかったのだった。何でいるんですか鶴丸さん。

    「いやあ、主の現世出張の近侍に任命されてな! 現世といったら驚き満載のワンダーランドみたいなところだというのに、主ときたら一日中御上と喋ってばかりで退屈だったんだ! 退屈だ死ぬ外に連れて行けと五分おきに言っていたら、なんと有り難いことに単独外出許可が出て、外に行ってみればきみがいる。これは運命だろう!」
    「はあ」

     マシンガントークで今自分が私に出会えたことがどんなに幸運で驚きだったかを熱く伝えてくれる鶴丸さんには悪いが、今私の脳内には審神者さん可哀想の感情しかない。仕事中に五分おきにそんなこと言われたらそりゃ、ねぇ……というか、それは外出許可じゃなくて放逐されたが正しいんじゃないだろうか。
     うん、今度審神者さんにケーキをホールでプレゼントしよう。そう心に決めて私は鶴丸さんに頭を下げた。

    「そうですか。それは何よりです。では私はここで」
    「待て待て待て待て!」
    「何ですか煩いですね。静かにしてくださいただでさえ目を引く見た目なんですから」
    「お、褒めてくれてるのかい? うれしいねぇ。だが残念ながらほとんどの一般人には俺の姿は見えないぜ。きみは微弱ながら霊力があるから見えるのさ。つまり今きみは何もない虚空に向かって話し続けるイタい人だ。驚きだろ!」

     このクソ駄鳥が。寸でのところで暴言を飲み込んだ私を誰か讃えて欲しい。ぶん殴ろうとした右腕を押さえつけた左手を誰か褒めて欲しい。日々のメレンゲ製造で鍛えられた黄金の右フックを食らわせてやろうか。

    「……何ですか、今私は休日を満喫するので忙しいんです」
    「その満喫の休日にとっておきのサプライズを追加したらさらに充実すると思わないかい?」
    「思いません。というか護衛はいいんですか。そのために来たんでしょう」
    「主には平野がついているから大丈夫さ」

     何でも、極というものがついて短刀という名の化け物に変貌したらしい平野様がいるから、お前は外で遊んでこいと言われたらしい。それやっぱり放逐なんじゃないのか、と白い目を向けると、鶴丸さんは肩を竦める。

    「まあ、極になってから少々肩に力が入っているようだったからな。いい機会だろう」

     へえ、鶴丸さんってただ騒がしいだけの人じゃなかったんだ……と私が思っていると、鶴丸さんはじろりとこちらをねめつける。

    「今、なにかすごく失礼なことを考えなかったか?」
    「気のせいですよ。それよりも、その気遣いと私がいてラッキーというのと何の関係があるんですか?」
    「おお、そうだそうだ。いや実は現世での一般人の休日というものに興味があってな」

     さらば私の楽しい連休。次に言われるだろうことが容易に想像させられて、私は輝かしい休日に手を振った。

    「どうだい、俺と一日デートでもしないか、お嬢さん」
    「はあ。私一応これから予定があるんですが」
    「俺がいちゃまずい予定か?」
    「いえ、そういう訳じゃありませんけど……気分が悪くなっても知りませんよ? 後、鶴丸さんが求めてる一般的な休日とはほど遠いと思います」

     うん? と首を傾げた鶴丸さんが、深く考えることをやめたのか、まあいいだろうと首を縦に振った。それ、忘れないでくださいよ。貴方がいいって言ったんですからね。
     まず向かったのは、この辺りで最近有名になっているカフェ。なんでも、バウムクーヘンが大変美味らしい。うちの店でも置こうかと何度かメニュー案に上がっていいところまでいったのだが、肝心の焼く道具がなく断念してきたのだ。
     今回、皆様のご愛顧のおかげで道具導入の資金のめどがついた。次は味の偵察だと、密かに意気込んできたのである。
     目の前に置かれた美しいケーキに、私はほう、と熱い息を吐く。綺麗な円形。ゆがみのない年輪。そして外側にあるカリカリの糖衣。
     チョコレートでコーティングされているものもあったが、私はあえてプレーンを選んだ。チョコレートを邪道といっているわけではない。個性は尊重されるべきだ。バリエーションが用意されているとお客様も喜ぶ。お客様の幸せは職人の幸せ。

    「……きみ、もしかして、とは思うが」
    「御明察です鶴丸さん。今日一日お菓子巡りツアーです。もちろん、鶴丸さんが苦手なクリームをふんだんに使ったケーキも食べますよ。ついてくると言ったのは鶴丸さんですからね」
    「いや、今更撤回する気はないぞ。ないが……それ、今日一日中ずっと続けるのか?」

     フォークで切り分けたバウムクーヘンを一口含んで、舌鼓を打ち、真剣に味について考察してメモを取る私に、鶴丸さんは呆れたような、感心したような声で言う。

    「これじゃ、休みが休みじゃないみたいだな」
    「休んでますよ?」
    「いや、成程なぁ……こういうところにあいつが……ぶつぶつ」

     なにやらぶつぶつと言ってらっしゃるが、食べないのなら鶴丸さんのお皿にあるチョコレートのバウムクーヘンいただいてもいいだろうか。

    「ちなみに、今日はあと何軒回るつもりなんだ」
    「ここ含めて五軒ですね。次は一風変わったチーズケーキを出すところで」

     鶴丸さんが苦い顔をして、サービスの紅茶を一口啜った。他の人には鶴丸さんが見えていないんだから、紅茶のカップが独りでに浮いているように見えるんじゃないだろうか。その辺りいいんですかと質問すれば、ぐったりしたように「その辺りは上手く調整されるようになってるんだ」と返事があった。疲れているならお休みになった方がいいですよ。私はケーキを食べるけどね。







     何故か非常に疲れた表情で鶴丸が帰ってきた。現世に放流したから一足先に帰ってきたととんでもないことを平然と抜かした審神者が帰ってきて、二十分くらいしてからのことである。胃の辺りを押さえながら「今日は晩飯を抜かせてくれ、すまん」と燭台切に言い残し、早々に部屋に戻った鶴丸を見て、本丸の面々は怪訝そうに顔を見合わせる。
     こりゃ現世で何かあったな、と詮索好きの刀剣達がひそひそと囁きあいながら数時間。ちょうど夕食も終わり、明日非番の連中で酒盛りと洒落込むかという話題になった頃に、鶴丸はのっそりと顔を出した。それも、紙箱を持ってである。

    「なんだ、鶴丸じゃないかい。飲んでく?」
    「勘弁してくれ、次郎。胃がもたれて死にそうなんだぞ」
    「何だぁ? 現世でなんか変なものでも食ったのかよぉ」

     酒宴開始前からすでにべろんべろんの不動がそう言うと、鶴丸は頭の後ろを掻き、紙箱を輪の真ん中においた。

    「城下で洋菓子を作っている娘がいるだろう?」

     鶴丸の発言に、皆がぴくりと反応を示した。それとなく視線が行く先は、背筋をぴんと伸ばして盃に口を付ける膝丸である。

    「あの娘と偶々現世でばったり遭遇してなぁ。無理を言っていろんなところに連れ回してもらったんだが、いや、行った先が悉く菓子屋だったんだ。おかげでしばらく甘い物は……うぷ」
    「へぇ、そりゃ、なんていうか、運が良かったね……?」

     あの次郎ですら微妙に気まずそうに膝丸の方をちらちらと見ている。開けていいかい、と空気を変えるようにわざと威勢良く尋ね、返事を待たずして箱を開けた。
     中に入っていたのは、格子模様のついた素朴な見た目のケーキだった。おお、と次郎が感嘆の声を上げ、不動でさえも興味深そうな目で中身を見つめる。

    「リンツァートルテ、だそうだ。散々連れ回した詫びに、本丸の面々で食ってくれともらってきた」
    「連れ回された、の間違いじゃないのかぁ?」
    「確かにね」
    「ははは、それに関してはちゃんと合意を得ていたから問題ないさ。ああ、他の連中には内緒にしていてくれよ。これ一つしかない」

     じゃあお言葉に甘えて、と集まっていた刀剣達が次々とケーキに手を伸ばす。見たことも食べたこともない味のジャムが挟まったそれを、不作法にも手づかみで食べながら、その双眸を次々と輝かせていく。
     旨い、と送られる讃辞に、そうだろうと自分が食えぬまま何故か胸を張る鶴丸に、お前の手柄じゃないだろうとヤジが飛んだ。

    「ね、主に持って行かなくていいのかい?」
    「ん? ああ、主にはすでに渡してあるぜ、ホールで」

     むしろそっちがメインで、こっちはサブなのだということは、鶴丸の胸の内に秘めておくことだ。
     ふうん、と髭切は、甘酸っぱいジャムとカリカリした胡桃、そしてシナモンの芳香のアンサンブルを楽しみつつ、隣で微妙な顔をしてトルテを食す弟を見て、それから鶴丸ににこりと笑顔を向けた。

    「じゃあ、鶴丸はその洋菓子屋の娘と一日でえとしてきたわけだね?」
    「ぶッ!」
    「ちょ……ッ、きみなぁッ!」

     勢いよく噎せたのは膝丸。慌てたように噛みついたのは鶴丸。名前がややこしくてごっちゃになりそうだね、と鷹揚に笑いながら、髭切は膝丸に水を差し出す。

    「ほらほら、あんまり急いで食べると体に悪いよ」
    「誰のッ、ごほっ、せいだとッ」
    「うん? どうしたの?」

     白々しい、と膝丸は拳を作って胸を叩く。この兄は、全てを了解してやっているに違いないのだ。生温かい目で見てくる周りも周りだと膝丸は青筋を立てる。特にそこで親のような表情で見守っている岩融。奴だけは次手合わせでボコボコにしてやる。膝丸の決意は固い。

    「ち、違うぞ? 違うからな膝丸。俺は別にそういうつもりで誘ったのではなくてな、いや確かに誘うときにそういったたぐいのことは言ったが」
    「言った時点でアンタ有罪だよ」

     次郎のもっともな一言がクリーンヒットする。思わずよろけて柱に頭をぶつけた鶴丸に、一期が「自業自得ですな」と冷たく切り捨てた。

    「鶴丸はん、ええ奴やったのにな……」
    「うわ、鶴丸さん、膝丸さんの純情弄ぶとかサイテー」
    「全くだよ。後で今剣に言いつけておくから」
    「ちょ、地味にえげつないことをしないでくれるかい安定!」

     本当に違うんだ、と両手を振って必死に謝る鶴丸に、周りの反応は冷たいもの。そんな全てを遠くに感じながら、ようやく水を飲んで落ち着いた膝丸は、うん? と首を傾げる。
     純情を弄んでサイテー、と言ったのは加州清光。自業自得と判じたのは一期一振。そういえばあの娘の話題が出たときに、周りは一斉に自分を見なかったか。じゃあ、最近やたらと洋菓子屋に使いを頼まれていたのはもしかして。

    「膝丸?」

     さっと顔を赤くしたり青くしたりする膝丸に、鶴丸がいよいよもって申し訳なさそうにこちらをのぞき込み、それから最後の最後でとどめをさした。

    「すまない、きみの想い人に手を出すつもりは毛頭なく──」

     想い人、その一言が耳に届いた瞬間、膝丸のキャパシティは完全にオーバーした。
     ぷすん、と音を立てて仰向けに倒れた源氏の宝刀は、周囲が大きな悲鳴を上げ、その結果短刀達を起こすことになり、内緒で菓子を食したことに立腹した夜戦の鬼達に袋叩きにあうことも、結果審神者の胃痛が更に増したことも、当然知らないのだった。
    ミルクレープ

     最近鶴丸さんが来ない。何でですかと久しぶりに来た審神者さんに尋ねると、妙に良い笑顔で「自業自得です」とのお返事があった。いったい何をしたんだろう。
     「そのかわりこれからは膝丸が菓子を買いに来るので」という、私からしたら喜んだらいいのかどうかわからない複雑な言葉とともに、久しぶりのご来店は終了した。それよりも、その大量のケーキはいったい誰の懐に入るんだろう。まさか、あんな小さい体で審神者さんが全部お召し上がりになるのだろうか。いやまさかね。
     そんな感じで膝丸さんの来店頻度が二週間に一度あるかないかくらいから、週に一度か二度くらいに跳ね上がった。私としては、まあ、憎からず思っている相手ではあるし、嬉しくないかと言えば嬉しいんだけど。

    「いらっしゃいませ、膝丸さん」
    「あ、ああ」

     なんか、ここ最近膝丸さんがおかしい。
     というか、わかりやすくぎこちない。視線は合わないし、声も半オクターブ高い。どうかしたんですか、と聞いても、何でもないの一点張りだ。そんな態度をとられれば流石の私も傷つくぞ。
     おかげで何となく顔をあわせづらくて、三日前から接客を無理言って他の職人さんやバイトさんに代わってもらっている。勿体ない、と口々に言われたが、いったい何が勿体ないというのか。私はお菓子が作れたらそれでいい。じくじくとする心の奥には蓋をする。そもそもが身分違いすぎるんだから。
     会釈をして厨房に戻った私を後目に、ミルクレープをホールで頼む膝丸さん。バイトさんが笑顔で応じて、ショーケースの中にある、幾重の層になったそれを引っ張り出す。これで間違いなかったでしょうか。ああ、違う。膝丸さんに勧めるのなら、クリームだけが挟まれたプレーンじゃなくて、薄くスライスしたフルーツが挟まっている左のやつなのに。でも後ろから口を出すのはなぁ。お買い上げした膝丸さんが、また来る、と言っているのが聞こえた。また来てほしいけど、来てほしくないなんて我が儘かなぁ。

    「あの、何か粗相しましたか?」

     休憩時間中、バイトさんが不安そうに私を見上げた。私ははっとして、ふるふると首を横に振る。そんなにわかりやすく私は機嫌を損ねてたんだ。

    「ううん、別にバイトさんが悪いんじゃなくて、ああでもね、たぶん膝丸さんのところの本丸なら、普通のクリームだけのミルクレープより、その隣の、スライスフルーツが仕込まれている方をお好みになるだろうから、次からはそちらをお勧めしてあげて」
    「へぇ、そうなんですか。すみません、まだ慣れていなくて」

     バイトさんはしゅん、と肩をすぼめてしまった。ああ、違うの、別に咎めたいわけじゃなくて。

    「私、まだ御刀様の区別が出来ないんです。先ほどご来店した膝丸様と、先日ご来店なさった膝丸様の違いがわからなくて」

     職人さんは流石ですね、と笑うバイトさんに、私はぽかんと、思わずパイ生地をつかんでいた手を止めてしまった。
     そんなの、私だって見分けがつかなくて、それぞれの本丸事情なんて詳しくなくて、でも、あれ……
     もしかして私、相当膝丸さんに毒されてないか……?

    「職人さん?」
    「はい!?」
    「あの、大丈夫ですか? そういえば休憩まだとってらっしゃいませんでしたよね? お疲れならお休みになります?」
    「や、いや、まだ大丈夫です! というか、作らせてください!」

     なにかに没頭してなかったら、むず痒くて死んでしまいそうだ。とりあえず、ぺっとりしてしまったパイ生地をどうにかしないと……







     主の見立てで膝丸が買ってきたミルクレープは、他の刀剣達には大変好評だった。他の刀剣達には、のところが重要だ。肝心の膝丸は、他よりも随分小さい角度でそれを切り取っていたから。断面を見た岩融は納得する。確かに、クリームだけが挟まれた、柔らかいミルクレープは、膝丸がすすんで食べるものではないだろう。
     だが、今まで膝丸が洋菓子店に行った日に、彼が食べづらそうなお菓子を買ってきたことがあっただろうか。民間人を振り回した罰として、しこたまケーキを食べさせられ、余裕がない鶴丸でさえ不審そうに膝丸を見ている。一方彼はというと、自分の分のケーキを食べ終えると、何事かを考え込んでいる様子で自室に帰ってしまった。
     きょとん、と今剣と岩融は顔を見合わせる。

    「何ぞあの娘とあったのか?」
    「やっぱり鶴丸がでえととかするからじゃないですか?」
    「俺のせいか!?」
    「むしろどうしてじぶんのせいじゃないなんておもえるんですか?」

     一刀両断。幼い目元から全力で繰り出される絶対零度の視線に、鶴丸は流石に罪悪感が並じゃなかったのかうずくまる。あーあ、とか、サイテー、とか、そろそろ鋼鉄製の彼の精神も限界だ。叶うのならあの日の自分を歴史修正したいレベルである。なんて馬鹿なことを。

    「で、結局どうなんだい、そのお嬢さんは。膝丸さんのことを憎からず思ってはいるのかい? それとも、全く興味を示していない感じ?」
    「意外とズバズバ切り込むんだな、光忠……」
    「まあ、僕もこのケーキを作っている女の子には興味があるんだ。あ、勿論技術的な意味で、だよ。あの子さえ良いなら、うちに招いて料理教室をやってほしいくらいだ」

     均一の厚さに焼かれたクレープ生地と、純白に仕上げられたクリームが織りなす地層にうっとりと見惚れながら、燭台切は真剣な口調で言う。興味がある、の一言に一瞬肝を冷やした刀剣達だったが、改めてケーキをしげしげと見つめ直した。何の変哲もないケーキじゃないか、という顔をする面々を、燭台切はその片方の目をキッと鋭くつり上げて睨む。

    「このクレープ生地を、破らず、同じ大きさで、同じ厚みで、これだけの量を焼くのってホンットに大変なんだよ!? しかもお店に出すってことはかなりの量を焼かなきゃいけないんだよ!? 分かってる!?」

     かなりの剣幕に、びくっとその場にいた男どもは肩を跳ねさせた。驚きも何もせずにうんうんと頷いているのは、厨によく入る歌仙兼定などと、あまり見目に拘泥せず暢気に茶を啜っている平安生まれくらいだ。

    「それに、単に甘いだけのクリームじゃ、食べすすんでいる間にうんざりしちゃうだろう? 砂糖を控えすぎると乳臭いし……君達がパクパク消費しているこのケーキにどれだけの技術が詰まっていることか……!」

     もうちょっと味わって食べよう、と、自然正座になった刀剣達は思った。それから、もうちょっと厨を手伝おう、とも。

    「料理教室には、僕も賛成かな。以前店で見かけた、飴細工の洋菓子……あれは見事だったからねぇ」

     思い出しているのか、目を閉じている歌仙に、だよね、と食いつくのは燭台切。いよいよ大事になってきた、と、長年この本丸で近侍を務めている鶴丸は口端をひくひくとひきつらせた。

    「いや、待て待て。確かにあの娘の技術は素晴らしい。だがなきみたち、ここは本丸で、主の膝元だぞ? いくら城下の気だての良い娘とはいえ、あまり部外者を城内に招き入れるというのはいくらなんでも」
    「別にいいぞ?」

     唐突に聞こえた主の声に、鶴丸は思わず隣を三度見する。そこには、少々行儀悪く胡座を掻いて、残ったミルクレープにかじり付く自分たちの主の姿があるではないか。いつからそこにいた。いや待て、この主は今なんと言った?

    「任務に支障が出るレベルで騒がれると困るが、非番連中が集まって何かやる分には別にいいんじゃねぇの? 俺も甘いもん食えて嬉しいし」
    「ほら鶴丸さん、主もこう言ってるし」
    「だが、何かあってからじゃ遅いんだぞ、主……」
    「何かあったときの為にお前らがいるんだろうが」

     ぺろりと指先についたクリームを舐めて、あっという間に食べ終わった審神者が平然と言い放った。頭が痛い、と額を押さえる鶴丸を横に、きゃっきゃと盛り上がる燭台切と歌仙を呼ぶ。

    「向こうさんに迷惑かけるなよ。繁忙期だってあるだろうしな」
    「当たり前だろう? 本職を怠らせるのは雅ではないからね」
    「そうそう。無理強いは格好悪いよね」

     そうと決まれば日程を決めなければ。額をつきあわせて非番の日を調整にかかる歌仙と燭台切に、膝丸の想い人の姿を一目見んと他の刀剣達もわらわらと集まってくる。にわかに活気を取り戻した広間に、審神者は鶴丸の方をちらりと見て、たくさんの背中にこう指示を飛ばす。

    「あと、これお膝には内緒な」

     にいっといたずらっ子のような顔で笑う自分たちの主に、意図するところを完璧に察した優秀な臣下達は、それはもう良い笑顔で親指を立てたのだった。







     久しぶりに鶴丸さんがいらっしゃったかと思えば、本物の鶴もびっくりなくらいやつれていらっしゃった。それだけ戦況が厳しいのかと問えば、ひきつった声でいろんな意味で厳しいのだと返される。いろんな意味ってどんな意味だろう。物資不足とか?
     ようやく導入したバウムクーヘンの器具も、戦時の鉄不足とやらで供出せねばならないのかと身構えたが、そういう意味ではないのだと疲れた様子で首を振られた。じゃあどういう意味だろう。食糧難? お菓子を買いに来てるのに? まさか、パンが無ければブリオッシュを食べたらいいじゃない的なあれですか。嘘、いつからこの国は十八世紀のフランスになったの。

    「駄目ですよ鶴丸さん! ブリオッシュもケーキも主食じゃないです!」
    「ああ、俺もそう思うぜ……」

     死んだ目で頷く鶴丸さんに、これはまずいのではないかと一人焦る。このままだと鶴丸さんが糖尿になってしまうのではないか。いや、刀が糖尿病になるのかは知らないけど。
     甘さ控えめのお菓子、いや、もういっそ無糖のキッシュか何かを早急に開発してメニューに載せるべきじゃないのか。ほうれん草……いや人参か。どんどんしおれていく鶴丸さんの肩を、私は力強く叩く。

    「鶴丸さん、何か私に手伝えることがあるなら言ってください」
    「……本当か?」
    「はい。常連のお客様ですし、小麦の横流しとかは出来ませんが、食糧の融通とか一括仕入れとかなら──」

     どん、と胸を叩く私に、鶴丸さんは救いを得たかのような、それでいて絶望したかのような複雑な表情で、私にすっと右手を出す。

    「うちの本丸に来てくれるかい」
    「……は?」

     その後、鶴丸さんの口から語られた本丸お料理教室計画に、勝手に妄想を膨らませてマリー・アントワネットだった私は軽く頭を抱えるのだった。死にたい。
     その場で日程調整をして、じゃあまた来週の水曜に、と鶴丸さんがほっとしたように胸をなで下ろす。どうやら現世の件で審神者さんに相当絞られたらしく、一週間ケーキのみ生活だったらしい。だからケーキは主食じゃないと頷いていたのか。紛らわしいことを。

    「何か用意する物はあるかい?」
    「用意ですか。ええと、歌仙様と燭台切様は何を作りたいんです?」
    「洋菓子とは言っていたな」
    「洋菓子じゃなかったら私死ぬんですけど」

     歌仙様って雅を追求していらっしゃる料理上手の刀剣様で、燭台切様は料理上手の元伊達の刀剣様でしょう。洋菓子以外で私が太刀打ちできるわけがない。女子力と洋菓子職人力は違います。

    「じゃあ洋菓子なら何でもいいんじゃないか?」
    「そんな、また曖昧な……」
    「そう言われても、俺たちは菓子のことなどさっぱりだからなぁ。これが旨いとか、あれが旨かったと言っても、食べると作るはまた違うのだろう?」

     せめて焼き菓子系統か、アイスクリームみたいな氷菓子か、ケーキかだけでも、鶴丸さんの趣味でもいいですから、とすがる私に、鶴丸さんはふむうと眉を寄せる。

    「ならば、ケーキだ。それも、きみが俺たちの本丸で作りたいと思うケーキがいい」
    「それ、リクエストになってないような……」
    「まあともかく、きみが作りたいケーキなら誰も文句は言わんだろう。きみの作るものは皆旨いからな」
    「お褒めいただき大変恐縮です」

     要る物があったら本丸に直接連絡をくれよ、と言いおき、鶴丸さんは適当にお菓子を見繕ってからお帰りになった。それを呆然と見送ってから、ショーケースに綺麗に並ぶケーキや焼き菓子、ゼリーを見つめる。
     私が、作りたいもの。そんなこと、あんまり考えたことがなかった。
     私が食べたいものなら後から後からわいてくる。この時期ならブラン・マンジェを冷やしていただきたいし、キラキラしたフルーツゼリーも魅惑的。アイスクリームも、手作りの物はまた格別に滑らか。でも、そういうものじゃないんだろう。
     作りたいもの、と小さくつぶやいた。お店からの要望でも、お客様からのリクエストでもない。衝動的に作ったものなんて、あの時のガレット・デ・ロワくらいのものだ。

    「どうかしたのか、職人さん」
    「あ、先輩、お疲れさまです」

     厨房に戻ったとき、あんまりにも変な顔をしていたのだろう。先輩の職人さんが心配そうに声をかけてくれる。不格好な笑顔で応じる。

    「先輩は、今作りたいケーキってありますか?」
    「作りたいケーキ? 食べたいケーキじゃなくてか」
    「はい。作りたいケーキです」

     やっぱり、作りたいケーキって、なかなか思い浮かばない。コンテストとかがあるのなら、こんな風にデコレーションして、あんな風な味にして、と考えられるけど、今回はお料理教室なわけだし。
     はあ、とアンニュイなため息をついたときに、先輩職人さんがボウルに向き合いながら、独り言のようにアドバイスをこぼしてくれた。

    「作りたいケーキって、つまり、誰かに食べさせたいケーキってことじゃないのかな」

     誰かに、食べさせたいケーキ。

    「不特定多数の誰かが思い浮かばないのなら、誰か一人、好きな人に食べてもらいたいケーキがいいんじゃないのか?」
    「あらまぁ、素敵」

     突然割り込んできたのは店長で、目を白黒させながらひとまず挨拶をすると、温和な顔を更に柔らかくして店長が笑う。

    「素敵な職人さん方に朗報があるの。実はね」

     店長が小脇に挟んでいるのは、現在大和国にしかないこの洋菓子店の二号店が、相模国にもオープンするというチラシ。
     ほくほく顔の店長が告げたのは、そのスタッフを、大和国のこの店から数人出すということだった。
    シースケーキ

     本丸本丸と言っていたけど、本当にお城なんだなぁ……私はぽげえっと大手門が開くのを見ていた。そびえ立つ天守閣、ちょっと南蛮趣味の入った柱に、屋根の上には鯱まで鎮座している。教科書や観光スポットでしか見たことがないようなお城がどどんと目の前にあると、やっぱり壮観だ。
     審神者さんが本日はお世話になります、とすごく礼儀正しくご挨拶してくれるので、私も心ばかりですが、と持参したお土産をお渡しする。とりあえず厨は好きに使って良いらしい。私が言うのも何だけど、警備ザルすぎないかなこの本丸。

    「君がしょくにんさんだね、ようこそ!」
    「ああ、君が噂の……今日は世話になるよ」

     厨にはすでに生徒の皆さんが集まっていらっしゃる。恐縮しながら荷物を下ろして、キロ単位で積まれた小麦粉を二度見して、満面の笑顔を浮かべる刀剣様方を三度見した。うわあ、イケメンが二桁単位で揃うと目の保養どころか逆に悪そうだなぁ……というか、今回の生徒さんは歌仙様と燭台切様だけだと聞いていたんだけど何でこんなに御刀様が集まってらっしゃるんだろう。この本丸に洋菓子ブームでも来てるんだろうか。

    「ああ、彼等のことは気にしなくていいよ。単なるギャラリーだから。ね、歌仙くん」
    「ギャラリー……」

     あの、今からやるのはただのお料理教室で、別に何かすごいショーをするわけでもないんだけど、その辺りちゃんとご理解いただけてるんだろうか。それとも、お菓子作りを魔法か何かと勘違いしているとか……?

    「とりあえず、頼まれていた材料は全部用意したよ。これでよかったかい? 洋菓子は専門ではないのでね、眼鏡にあう小麦粉が用意できたか不安なのだけれど」
    「いえ、十分です……」

     う、うわあ……特宝笠がキロ単位で積まれてる……審神者の財力こわ……その辺のスーパーで入手してくるかと思ってたけど、まさかの業務用ですか……
     歌仙様がこわごわ聞いてくるけれど、百点満点なんてレベルじゃない。お料理に慣れている刀剣様方怖い。

    「ええと、とりあえず五十振分でいいんでしょうか?」
    「うちは大飯食らいが多いからね。僕たちとしょくにん殿で、人間の百人分くらい作れたら有り難いのだが」
    「お二方とも今日は非番ですよね? 何とかしましょう」

     まずは小麦粉をふるって、と、大きな篩をお借りして少しずつ小麦を篩っているだけで周りのギャラリーから大きなどよめきがあがった。やりづらいことこの上ないけれど我慢だ、我慢……

    「やはり篩は必要なんだね」
    「手間を惜しんでいたら、おいしい物は出来ませんし……流石にお忙しい刀剣様では難しいかもしれませんが」
    「いや、その通りだよ」

     こっちは僕がやっておくから、という歌仙様の有り難いお申し出を受けて、次は燭台切様を連れて卵の作業だ。パカパカとちょっとぞっとする量の卵をボウルに割り入れて、ひたすら混ぜるように指示する。雑になりすぎないように、と付け加えるのは、燭台切様の打撃力を事前に伺ってのことだ。念のためにガラスボウルにしておいてよかった。金属ボウルで底の部分が剥げたら大変だ。

    「……あの、そろそろギャラリーの方も飽きてきたんじゃないでしょうか」
    「そうかな?」
    「料理をよくされない方によくある誤解なんですが、お菓子作りって華々しいと思われがちで」

     小麦を篩いまくる歌仙様に、卵を混ぜまくる燭台切様なんて、かなりの美形がやっているから絵になっているが、実際私がやると相当に地味だ。華やかなのは本当に最後の局面だけ。そんなに大挙して見に来るようなものでもない。

    「まあ、確かに完成図に反して行程は地味って、料理にはありがちなことだよね」

     卵を混ぜ終わった燭台切様が、こてんと首を傾げるので、グラニュー糖を少しずつ加えて湯煎にかけつつ混ぜてくださいとお願いする。分かったよ、と笑顔でお返事。良い生徒さんだ。

    「よく、華やかだねって言われるんですけど、そんなことは全然ないんですよ。お菓子に混ざっちゃいけないから、化粧も極力しませんし、力仕事が多いので、女の子にあるまじき筋力ですし」
    「ああ……分かるよ。厨に立つなら戦化粧でも落として欲しいとは思うね」
    「そうなんですよね。見た目なんて気にしてられませんし……私も何度坊主にしようかと思ったことか」

     人肌程度に温まったら湯煎からあげて、素早く泡立ててください、とお願いする。すぐに燭台切様が、共立てだね、とおっしゃってくださった。察しの良い方で助かる。

    「でも、そういう目に見えない努力って、格好いいと思うよ」
    「……そうですか?」
    「ああ。いくら外見が美しくても、中身が伴っていないなど言語道断だ。見えぬところで心がけてこそ、心を打つ。僕たちは長く、長く見てきたわけだからね」

     そうだ、と私は歌仙様と燭台切様を見つめる。この方達は、フレンドリーだし、お優しいし、距離が近いから忘れそうになるけれど、ずっとずっと昔から在る名剣名刀。
     そんな方々に褒められたのか、私。

    「あ、ありがとうございます、燭台切様、歌仙様」
    「様なんてつけなくていいよ。今日は君が先生だしね」
    「鶴丸辺りに脅されでもしたのかな? おやつ抜きにするか」

     楽しそうに笑う燭台切様と歌仙様、もとい燭台切さんと歌仙さんに、私は顔を赤くしてうつむいた。いわれのない風評被害を買った鶴丸さんのことは知らない。

    「さて、先生。次は何をすればいいんだい?」
    「ええと、さっきの湯煎でバターを溶かしていただいて、一緒に牛乳も人肌程度に温めてもらえますか。それまで、共立てした生地は冷ましておくので。歌仙さんは私とカスタードクリームを作ってもらいます」
    「かすたあど?」

     簡単に作り方を説明して、プリンなどに使われているあれです、と教えると、納得したように数回頷いてくださった。

    「……そういえば、できあがったケーキは本丸の全員が召し上がるんですよね?」
    「ああ、その予定だよ」

     お願いした材料をお願いした通りに用意してくださっている歌仙さんの背中にそう問えば、くすりという笑い声とともにそう返ってきた。ううん、と私は唸りながら、何回も作ったそのレシピを再考する。もうスポンジのやり直しは利かないから、となるとサンドするクリームを考えよう。

    「すみません、お砂糖はもういいので、バニラビーンズの数を増やしていただけますか」
    「おや、かなり砂糖が減ったけど、構わないのかい?」
    「はい」
    「それはまた何故?」
    「デコレーションにホイップを使うのと、缶詰のフルーツも使いますので、あまり甘すぎるとくどいと感じる方もいらっしゃるかな、と考えた私の独断です」

     勿論、甘党だという審神者さんの趣味に合わせるのならもう少しくらい砂糖を足したって構わないだろう。風味付けに缶詰のシロップを生地に追加したっていいかもしれない。
     でも、どうしても頭の端にひっかかるのが膝丸さんだ。特に、今回作ろうと考えているケーキは彼の趣味から斜め上に吹っ飛ぶものだろうから。

    「いや、先生の指示に従うよ。いつもこうやって味付けを変えるのかい?」
    「え、いいえ、今日は特別です。いつもは、如何に同じ味を作り続けられるかを求められているので、こんな風にアレンジしたら怒られちゃいます」

     カシャカシャと卵黄をかき混ぜながらそう苦笑うと、歌仙さんと燭台切さんが顔を見合わせる。

    「だから、こういう風に、食べてもらう相手がはっきりしているお菓子を、相手の好みに沿うように作るのって、実は久しぶりで。なんだか照れますね。学生のバレンタインみたい」
    「ばれんたいん?」
    「好きな人にお菓子を作る行事みたいなものです」

     リズミカルにカスタードの素をかき混ぜていた歌仙さんの手が不自然に止まった。あれ、何か不味いこと言ったかな。一介の職人が、調子に乗っちゃった?
     歌仙さんの綺麗な色の目をのぞき込むと、ふうむ、ふむふむと何事かをかみしめていらっしゃる。人間の考え方が珍しい、とかかな。

    「いや、風流な喩えだと思っただけさ」
    「そうですか? 凡庸だと思うんですが……」
    「それよりしょくにんさん、そろそろギャラリーがそわそわしているから教えて欲しいんだけれど、いったい僕達は何を作っているのかな?」

     すっかり冷めた共立ての生地に、小麦粉とバター、牛乳を加えて混ぜる燭台切さんが、私ににっこりと微笑んだ。あれ、そういえば伝えていなかったっけ。

    「シースケーキです」

     しいすけえき? 見事なひらがな発音で復唱してくださったギャラリーの皆様と生徒のお二人ありがとうございます。とてもかわいらしいです。

    「クリームとスポンジのケーキなのは材料から分かるけれど、どんな菓子になるんだい?」
    「それは出来てからのお楽しみで」

     わざとらしく唇に人差し指を当てると、燭台切さんと歌仙さんは顔を見合わせて、まあいいか、とそれぞれの作業にお戻りになった。

    「鶴丸、知ってるか?」
    「いや、聞いたことがないな。主から頼まれたこともない」
    「え、じゃあしょくにんさんの完全新作とか?」
    「誰か端末で調べてこいよ」
    「いや、それじゃせっかくのしょくにんさんのサプライズが台無しじゃん」

     それぞれ思い思いに未知のシースケーキを想像なされている。しばらく静かになるだろうか。四角い型にバターを塗って生地を丁寧にそそぎ込んで、完成は冷ます時間も考えておおよそ一時間後くらいかな。

    「歌仙さん、飴細工やってみますか?」
    「いいのかい!?」
    「ええ。あまり高度な物は難しいですけれど」

     シュクル・フィレ──ヴェールみたいなやつなら、出来るだろうとさっき減らした分の砂糖を、水と一緒に火にかけた。目を、それこそ飴玉みたいにキラキラさせた歌仙さん。本当にこの本丸の御刀様は可愛らしい方ばかりだ。
     可愛らしい方と言えば、と後ろをこっそり窺う。たくさんのギャラリーの中に、膝丸さんの姿は見えない。今日はお仕事なんだろうか。まあ、そりゃ忙しいよね。久しぶりにお会いできるかな、とちょっと期待してたから、ちょっと残念。







     今日は何かおかしい。まず隊が違う。いつも所属する第二部隊ではなく、なぜだか特別部隊と称された隊が組まれていた。自分の兄である髭切と、鶯丸、三日月宗近、今剣、岩融という奇妙な取り合わせ。右を見ても左を見てもマイペースな連中に囲まれて、戦場で誉をとったというのに膝丸は疲労状態だった。新手のいじめか何かか。

    「いやぁ、たっぷり働いた。帰ったら茶でも飲むか」
    「そうですね。ちょうどおちゃどきです」
    「膝丸もどうだ?」

     何故そんなに元気なのか。疲れた頭で考えながら、膝丸はゆるりと首を振った。茶も飲みたい気分ではあるが、それよりも先に戦果をまとめておかねばならない。ならば後で茶を持ってこさせよう、と鶯丸は笑んだ。持ってくる、ではなくて、持ってこさせる、という辺りが彼らしい。
     さて、自室に戻った膝丸は、ひとまず血生臭い戦装束を脱いで内番着に着替えた。文机に几帳面に揃えられた白紙の報告用紙を一枚破り、墨を擦る必要がない不思議な筆で日付を書く。出陣場所、隊、所属者、と書き進めていると、失礼します、という声が聞こえた。

    「入れ」
    「あ、お邪魔します」

     文机に向かったままの膝丸の後ろで、敵意のない何者かが茶を淹れている。だが、いつも嗅ぐような日本茶の匂いでも、鶯丸が気まぐれに淹れる紅茶の匂いでもない。もっと香ばしい、苦い匂い。それとともに聞こえるのは、茶を淹れるにしては騒々しい音。
     いったい何の匂いだ? そして何の音だ? 膝丸は手を止めて考えた。というか、今俺の後ろで茶らしきものを淹れているのはいったい誰だ?
     覚悟を決めてゆっくりと振り返ると、もうその人間は襖に手をかけて、こちらにペコリと頭を下げていた。

    「お忙しいようですので、私はこれで。頑張ってくださいね」

     心臓が一瞬止まるかと思うほど跳ね上がったのに、制止の言葉が出せたのは、我ながらよくやったと膝丸は思う。

    「え、忙しいんじゃないんですか?」
    「い、いや、これは今終わらせておけば後々楽になるからであってだな」
    「じゃあ忙しいですね。すみません、お邪魔して」
    「ああちが……ッ!」

     怪訝そうに膝丸を見る娘に、膝丸はとうとう観念して口を開いた。

    「きみ、と、茶が、したく、て、だな……」

     一瞬、きょとんとした娘は、じわ、と顔を赤くして、それから後ろ手で襖を閉めると、すとんと膝丸の前に腰を下ろした。
     茶だと思っていた液体は、黒い汁のようなものだった。角砂糖が数個と、ミルクの入った小瓶を携えて、盆の上に鎮座している。
     苦いので、たっぷり砂糖を入れて普通は飲むんですけど、と彼女は一言断って、自分の分のカップに数個砂糖を落としてミルクを注いだ。
     一度そのままお飲みになってください。勧められるまま噛みしめた一口は確かにとんでもなく苦かった。抹茶とはまた違う、強い苦みだ。

    「これを入れればいいのか?」
    「あ、少し待ってくださいね。茶請け、というかコーヒー請けなんですけど、まあ、今日のお菓子が甘いものなので」

     彼女は傍らに置いてある、蓋のついた箱から皿を一枚取り出した。その上に鎮座しているのは、今まで膝丸が見たこともないケーキ。
     艶やかな黄桃とパインが行儀良く座り、その周りを白いクリームが飾る。しっとりとしたスポンジの間には、黄色いカスタードと黒いバニラビーンズの粒が薄く挟まって、甘い匂いが漂ってきていた。

    「シースケーキです」
    「しいすけえき?」
    「はい。エスプレッソと一緒にお楽しみください」







     シースケーキを作ったのは、かなりの賭だった。ふんだんに使われたクリームに、ただでさえ甘い缶詰の果物をのせているのだから、甘い物が苦手な膝丸さんにとっては天敵と言ってもいいだろう。実際、ケーキを見つめる膝丸さんも、戸惑いを隠し切れていない。
     それでも、これは是非膝丸さんに食べていただきたいのだ。まずは一口、と膝丸さんがゆっくりとケーキにフォークを入れる。舌にクリームが触れる。ホイップのぺっとりとした甘みと、カスタードのねっとりとした甘みに、スポンジはカステラのようなしっとり系。眉が寄った。

    「……これは」
    「はい、そこでこちらを」

     さっとデミタスカップを差し出した。中に溜まっている、深くて苦くて濃いエスプレッソ。ゆっくりと咀嚼して飲み込んだタイミングで膝丸さんがそれを受け取った。小さなカップにほんの少し入れられたエスプレッソは一口で全部吸い込まれていく。

    「どうですか?」

     目がぱちり、と見開かれた。

    「旨い」

     どうして、と自分に問うような、間の抜けた声にほっと私は息を吐いた。
     エスプレッソ。イタリア生まれのコーヒーは、誤解されがちだが本来はとても甘くして飲むものだと、修行先で教わった。あるいは、ミルクをたっぷり入れて飲む。
     だから当然、甘くて乳製品がたっぷり使われているシースケーキに合わないわけがない。

    「エスプレッソマシンも持ち込んでるので、お代わりも作れますよ」
    「頼む」
    「本職じゃないので、あんまり味には期待しないでくださいね」

     豆には一応こだわった、つもり。結構な騒音を立てて注がれるエスプレッソは、濃いからよく勘違いされるんだけど、実は普通のコーヒーよりカフェインは少ないから、結構飲んでいただいても大丈夫なはず。

    「しいすけえきと言ったか? 聞いたことも、見たこともないが、これは君が?」
    「いえ、歌仙さんと燭台切さんと私の合作です。今日、ちょっとお料理教室を本丸でやってまして」
    「……聞いておらんぞ」
    「膝丸さんは出陣してて、本丸にいらっしゃいませんでしたし。そもそも最近あまりお会いできていませんでしたしね」

     嫌みのつもりはなかったんだけど、膝丸さんはバツが悪そうな顔でエスプレッソを受け取った。

    「す、すまない。避けるつもりはなく……」
    「いや、明らかに避けてましたよ? 別に怒ってはいませんが」

     怒ってはいません。ちょっと寂しかったけどね。避けたのは私もだしお互い様だ。しゅん、と犬なら耳もしっぽも垂れているだろう膝丸さんに苦笑して、私はそっとシースケーキを押し出す。

    「やっぱり多かったですか?」
    「いや、食べる」
    「無理しないでくださいね」
    「ああ、そうだ。しいすけえき、俺はあの玻璃の棚にも、品書きでも見たことがないのだが、これはいったい何処の菓子だ? けえき、というからにはえげれすか?」

     あれ、いつのまにそんなこと覚えたんだろう。誰か店の人に教えてもらったのかな。なんだかちょっと、生徒をとられたみたいで悔しいな。そんな風に考えていたら、膝丸さんはどこか得意そうに、それでいて気恥ずかしそうにシースケーキを注視する。

    「少々、興味がわいて、調べた」
    「お菓子を、ですか?」
    「ああ」
    「そうだったんですか。なんか嬉しいですね。今度料理教室が出来たら、次は膝丸さんもお呼びしますね」

     きっと歌仙さんも燭台切さんも喜ぶんじゃないかな。厨関連でかなり苦労なさっているようだったし、お菓子作り専門とはいえ、膝丸さんも戦力に加わったならずっと楽になるはずだ。

    「ああ、シースケーキでしたね。知らなくても仕方ないと思います。イギリスのお菓子じゃなくて、これ、日本のお菓子なんですよ」
    「日本の……!?」
    「ショートケーキも、日本発祥のお菓子だという話はしましたっけ? 昔、今よりずっと日本に食糧が無かったときに、ショートケーキの代わりに、と、長崎で考案されたのがこのケーキです」

     手に入りにくい苺じゃなくて、缶詰の桃とパイン。サンドするクリームも、生クリームじゃなくてカスタードクリーム。
     本丸の方々に食べてもらいたいケーキを考えていて、一番最初にぱっと浮かんだのはこのケーキだった。鶴丸さんに物資不足の懸念をしたのも、ちょっとは頭の中にあったのかもしれない。
     でも、エスプレッソマシンを持ち込んで、エスプレッソを淹れるという手間もかけてでも、特に膝丸さんには、シースケーキを召し上がってもらいたかった。

    「シースケーキ、っていうのは、英語圏では通じません。日本で作られた英語ですから。ケーキは、膝丸さんもよくご存じのケーキですね」
    「では、しいすは?」
    「刀の鞘、という意味です」

     鞘、と膝丸さんは呟いた。
     実際は、豆の莢と刀の鞘を取り違えてつけられたものだから、このケーキ自体と刀の鞘とには、なんの関係もない。
     だけど、少し似てるな、と思ったのだ。

    「エスプレッソと一緒にこのケーキを召し上がっていただきましたが、その場合、このケーキはエスプレッソを引き立たせる脇役になってしまいます。デザートや、洋菓子の役割は、本来はそういう物なんです。お食事の最後に、お茶のお供に。ケーキやクッキーは、どうしてもそれだけじゃ甘すぎちゃうので」

     ぱっと華やかで、お食事のフィナーレを飾る美しいお菓子に憧れた。それを真剣な目をして作るパティシエにも、幼心に強く惹かれた。
     けれど実際はというと、縁の下の力持ちと言えば聞こえは良いけれど、結局お菓子は主役にはなれない。どれだけ見た目に花があっても、だ。
     それって、刀の鞘に似てるんじゃないかな。お越しになる刀剣様方の拵えを見て、思ったのだ。刀は付喪神になれても、鞘に自我は宿らない。愛されるのは刀であって、鞘って結局は引き立て役だ。

    「でも、膝丸さんとお話しして、いろんな御刀様とお話も出来て、違うなって思えたんです」

     鞘がなければ、刀は剥き出しのまま。デザートが無ければ、フルコースは終わらないみたいに。勿論鞘は鞘だけのままでも美しい。お菓子も一緒。でも、それだけじゃ成り立たない。

    「どうせ脇役だから、じゃなくて、脇役って偉大でしょうって言えるようになったんです」

     たとえば小麦篩いやメレンゲの製造だって、デコレーションに比べれば地味な脇役だけど、これが無ければ成り立たない。
     そう思えたのは、そんな地味な仕事をガラス越しにいつもまなざしてくれて、労ってくれた膝丸さんのお陰だと思う。
     私にあるのはお菓子だけ。だから、お菓子でお返ししたいと思った。

    「いつもありがとうございます、膝丸さん」

     ぺこり。膝をついてお辞儀をすると、膝丸さんはぽかんとこっちを見つめて、見つめ続けて、私が頭を上げる頃に、ようやく唇を震わせた。

    「こちらこそ、いつも世話になっている。感謝している」
    「……なんか、改めてこうして言うと照れますね」
    「そう、だな」

     膝丸さんのお皿にあるシースケーキはあとわずか。最後の一口が口の中に消えていく。数度の咀嚼。ごくんと動く喉仏に、ああ、これを作って良かったな、と、心の中にじんわりと何かが広がっていく。

    「旨かった。馳走になった」
    「はい、お粗末様でした」

     お皿を受け取って、私は笑顔でそう言った。いや、もう本当に満たされた。膝丸さんがまさか、シースケーキを全部食べてくれるなんて思ってもみなかったし。これでもう大和に思い残すことはないなぁ、と気が抜けた私は安堵の息とともにしみじみとそんなことを吐き出した。

    「……大和に思い残すことがない?」
    「あ、はい」
    「大和、とはこの本丸があるところだろう?」
    「ああ、そうか、最近お話ししてなかったからまだ伝えてませんでしたね」

     もうこの本丸の審神者さんや鶴丸さんに話はいってるはずなんだけどなぁ、この本丸微妙に情報の伝達が上手くいってないよね。帰りに審神者さんに言っておこう。暢気にそう思いながら、私は片づけの手を止めて膝丸さんに向き直る。

    「実は、相模国にうちの店の二号店が出ることになりまして」
    「……のれんわけか?」
    「みたいなものです。それでですね、実は相模国に転属することになりまして」

     膝丸さんが、ぽかんと口を開けたまま固まった。あ、クリームついてる。

    「急な話なんですが、来週には私相模国に行くんです。……膝丸さん? 聞いてますか、膝丸さん?」

     全く反応がない。近寄って下からのぞき込んで、手を振っても、目の前で手を叩いても、膝丸さんはぴくりともしない。駄目だ、完全に機能停止してらっしゃる。そんなにショックだったのか……いや、でもこの話にはまだ続きがあるんですよ。ちゃんと聞いてくださいね。
     すっと息を吸って、それでも言葉に出来なかったのにはわけがある。







     魔が差した、という他ない。
     鶴丸の指摘で自覚して、らしくもなく取り乱して、しばらく顔もあわせづらくて、ようやく話が出来たと思ったら、自分の目の届くところから出て行くのだという。
     戦帰りもあって逸っていた。そもそもそんなに近くにいるのが悪い。言い訳はいくらでも出来るのだが、やったことが覆るわけでもない。取り返しのつかないことをするぞ、と理性がどこかで叫んだが、それでも伸びた腕は止まらない。
     ちか、と化粧っけのない黒い瞳が、至近距離で瞬いた。鼻と鼻が触れ合う。腕を回した背中は薄く柔らかく、かっと色づく顔は燃えるように熱くて。
     行くな、と子供じみた癇癪のままに奪った唇は、とろけるように甘かった。
    アイスクリーム

     しっとりと濡れた射干玉が目の前にある。ふっくらとした唇がほんの少し開く。ほんのりと薄紅に染まった頬に触れると、吐息混じりのか細い声が何事かを囁いた。
     上手く聞こえない。何を言っているんだと、膝丸はそっと耳をそばだてた。彼女がいつも纏っている、馴染みのない白い衣越しに腕を掴めば、かつて銀の楊枝で触れた洋菓子のように柔らかい。そっと口元に耳を近づける。

    「……すみどり」

     うん? 膝丸は愛撫の手を止める。彼女はそんな風に自分を呼んでいたか? あの自分たちより高くてまろい、軽やかな声は、こんなにはつらつとしたものだったか?
     今一度眼前の彼女をしげしげと眺めれば、艶めいていた黒の瞳は野いちごのように赤く、しなやかな髪は白い色。そしてすらりとした柔らかい体躯はどんどん縮み、白の制服は天狗の衣に。何だと、と目を見開けば、頬にベチンと衝撃がきた。

    「おっはようございます! 薄緑!」
    「……今剣!?」
    「もうあさですよー。ねぼけてないでかおをあらってきてください!」

     馬乗りになった今剣が、いやににっこりとしてそう言った。しばし呆然とそのままでいた膝丸が、見る見るうちに顔を真っ赤に染め上げる。言葉にならない叫びとともに頭を抱える、主を同じくした源氏の宝刀に、今剣は首を傾げた。

    「おお、その名に違わぬ絶叫っぷりだな、吼丸」
    「……岩融」

     いっそ殺せと語る赤い顔に、何かを察した岩融は、膝丸の上に乗っていた今剣の脇に手を差し込み、ひょいと持ち上げる。不服そうに見上げる幼い天狗をあやすように数度宙に放り投げると、膝丸に向かって一言。

    「人払いはしておこう」
    「……忝い」

     膝丸が己の煩悩を振り払うのに十分程度要した。それもこれも、先日の自分の浅はかな行動が招いた結果だ。源氏の重宝たるものが情けない、と再度深く頭を抱える。
     気安く女人に触れ、あまつさえその唇に接吻までするなど、あるまじきことだ。叶うことなら腹を切りたい。
     彼女も彼女だと思う。如何に気を許した相手とはいえ、男に接吻されて抵抗の一つもないとはどういうことか。この件に関しては全面的に自分に非があるが、それでももう少し危機感というものを持ってはどうか。ちら、と膝丸は己の分身である太刀、その佩緒に下がる小さな飾りを見やる。
     あんなものを、気安く菓子のおまけにするなど、破廉恥にも程がある。

    「やあ恥丸、おはよう」
    「あ、兄者」
    「うんうん、昨日の今日だし仕方ないよね」

     何故か全部了解している自分の兄が、朗らかに笑って膝丸がくるまっている布団をはぎ取る。無体な、と思うが、時計を見ればとっくに起床の時間だ。まさか自分の兄にこうして世話を焼かれるとは思っていなかった膝丸は、さらに落ち込んだ。色事で取り乱すなど、と唇を噛む。

    「ほらほら、あんまり噛むと血が出ちゃうよ?」

     実の兄が己をいたわって触れる指先にすら、あの娘を思い出すなど、全くどうかしている。
     まだまだ未熟だ。頭を数度強く振る。ここで彼女と離れる、というのも、一つの機会なのかもしれない。己を律する為の、神とやらが与えた試練なのやもしれない。
     ならば、と膝丸は拳を握った。ここで、この思いを葬るのも、一つのやり方なのであろうか。

    「……どうしたの?」
    「いや、なんでもない」

     人の心とはかくも御しがたい。すうっと大きく息を吸う。残された期間は一週間。それまでに、すっぱりとこの思いに別れを告げよう。
     何かの決意を固めた様子の膝丸を、髭切はただ静かに見つめるだけだった。







     変だ、と鶴丸は、正面に対峙する膝丸に違和感を抱いていた。まっすぐ構えられた木刀はいつも通り揺らぎがない。構えもいつも通りだ。だが、どことなく覇気がないのだ。
     ふっと息を吐く。突然今日の内番を手合わせに変えてほしいと願い出てきたからには、何か考えのことあってだと思ったが、なんだ、まだ踏ん切りがついていないのか。
     鶴丸はこの本丸の中でも最古参に数えられる太刀。そのような生半可な気持ちで適うほど甘くはない。はじめ、の合図とともに膝丸が踏み込んでくるのを易々といなして、首筋に己の得物を突きつけた。
     それをなんとかかわして再度噛みつこうとする膝丸に対し、鶴丸はぽいと木刀を捨てる。

    「やめだ。やめ。ちっとも身が入ってないぜ。どうした」
    「……すまない」

     思うところがあるのか、膝丸は素直に木刀を床に置いた。それを見て、鶴丸は道場の真ん中に片膝を立てて座る。膝丸はいぶかしみながらも倣った。

    「あの娘のことかい?」
    「……」
    「沈黙は肯定と見なすぜ」

     大方、手合わせに打ち込んでいれば忘れられるとでも思ったか。そう指摘すれば、図星をつかれたというように膝丸は肩をはねさせる。

    「すまない」
    「……俺はきみの決めたことにどうこう口を出す気はないがな」

     ぽん、と鶴丸は己の柄を叩く。しゃり、と蓮の形を模した佩緒飾りが音を立てる。

    「もうただの物じゃないんだ。後悔だけはしないようにな」
    「こうかい」
    「後からああすればよかった、と思い悩むことだ」

     その言葉と概念を、膝丸はゆっくりと飲み下す。相も変わらず飄々として読めない風来坊は、膝丸の表情を見てふっと笑みを濃くした。

    「あ、鶴丸さんに膝丸さん、手合わせ終わりました?」
    「お、堀川。ちょうど一段落ついたところさ。どうかしたのかい?」
    「そろそろおやつにしようか、と、歌仙さんが作ってくださったので持ってきました。今日は冷たい洋菓子なので、運動の後には気持ちいいと思いますよ」

     兼さーん、と相棒を呼びながらパタパタと走っていった堀川を見送って、ふう、と鶴丸は息を吐く。よりによって今日洋菓子ねぇ、とちらりと渡された盆を見て、おお、と感嘆の声を漏らした。

    「どうした」
    「いやいや、これを作ったのか。歌仙もやるなぁ」
    「何をだ」

     しびれを切らして立ち上がった膝丸が、鶴丸の手の中の盆をのぞき込む。玻璃で出来た小さな器に盛られた、小振りの半球は薄い黄色をしていた。

    「あいすくりんさ」
    「あいすくりん?」
    「今風に言うと、アイスクリーム、というやつだな」

     まあこれでも食べて頭を冷やせ、と鶴丸はからりと笑って、盆の上の一つを膝丸に押しつけると軽い歩調で行ってしまう。ぽつんと残された膝丸は、ずっと持っているのも何だと縁側にしゃがんだ。
     ひやりとした塊は、手の中でどんどんとろけていく。あわてて匙で掬って一口含んだ。
     甘い。クリームに似た味がする。ふんわりと香る匂いには覚えがある。確かバニラというものだ。
     ──あんまり入れすぎると、苦くなっちゃうんですよね。
     ふいに、耳の奥に柔らかい声が蘇った。いつの話だっただろう。
     もう一口、と運ぶと、爽やかな匂いが舌を撫でる。断面から見えるのはレモンピール。
     ──いつもストレートで飲んでますよね。たまにはレモン入れてみません?
     ──そろそろ冷たいお菓子も出しますので、焼き菓子やケーキだけじゃなくてゼリーとかも是非召し上がってくださいね。
     一口ごとに、優しい記憶が浮かび上がっては消える。溶けて底に溜まった液まで飲み下して、空になった玻璃の器をぼんやりと見つめる。

    「しのぶれど、だね」
    「歌仙」
    「お気に召したようで何よりだよ」

     いつの間にか後ろに立っていた歌仙が、膝丸の手から器を取り上げた。

    「これをどこで」
    「僕が作ったんだ。自信作だが、彼女の味にはまだまだ劣るね」

     気位が高い之定の打刀は目尻を下げて肩を竦める。そして朗らかに笑顔を向けた。

    「頭は冷えたかい?」

     そう尋ねる歌仙に、膝丸は小さく頷いた。
     羞恥や、源氏の重宝としての矜持が、ゆっくりと溶けていく。取り乱して荒れていた感情が、一口ごとに冷えていく。
     しいんと静かな水面のような心に、浮かび上がってくる答えは、やはり慕情以外の何者でもない。焦がれているのだ。偽りなく、心から欲している。自分の手の届かぬところに行ってほしくない。手に入れたいと、己の本心は叫んでいる。
     だが、冷静に戻った自分が静かに問う。
     そうして力任せに手に入れ、己の手元に留め置いて、彼女はいったいどうなるのか。ただの人の子と、末席といえど神が結ばれれば、その魂の変質は免れぬというのに。
     審神者でも、巫女でもなければ武者でもない。彼女が握るのは調理器具であって刀ではない。彼女に似合うのは芳しい香りに包まれた厨房か、もしくは客の喝采だ。決して血腥い戦場や、静謐な神域ではない。
     優しい方です、と彼女は笑った。だが実際はどうだ、と顔を覆う。

    「礼を言う。歌仙」
    「……膝丸?」
    「おかげで、一つ踏ん切りがついた」

     膝丸は立ち上がって、歌仙を振り返ることもせず歩き出した。
     城下に向かう門とは正反対の方向へと。
     その背を、彼の兄は黙って見ていた。難儀な子だねぇ、と、誰に言うでもなく呟いて。
    ガトー・オペラ

     あのなんというか、衝撃的な事件から一週間。とりあえず私の頭の中にあったのは、ファーストキスはレモン味、あれが嘘だったという事実だけだった。
     というか、それしか考えられなかった。何かの間違いでしょ? と思っていたし、そう思いこまなきゃやってられない。お陰で大切なことを一つ言い忘れてしまったし、全く、どれもこれも膝丸さんのせいだ。
     相模国の新しい職場に移る前に、採用試験じゃないけれど、向こうの店長さんと大和国の店長さん、二人に私が作ったケーキを試食してもらうことになっていた。何か一つ、今貴女が食べたいケーキを、この店のメニューから一つ選んで作ってちょうだい。その指示の通りに私が焼いたのは、フランスで生まれたチョコレートケーキ。ビスキュイとガナッシュが層を成して、上にちょこんと金箔がのせられた、シンプルだけど艶っぽいお菓子。
     一口舌にのせた相模国の店長さんは、すぐに笑ってくれたけれど、大和国の方の店長はちょっと首を傾げている。

    「あの、何か」
    「ああ、ごめんなさい。別に美味しくないわけじゃないのよ。ただ、いつもより何というか、深みのある、というか……」

     いつもと違う、というところに、私はドキリとする。洋菓子店で求められるのは、オリジナリティではなくて不変の味だ。すぐに材料を振り返る。グラン・マルニエも、ガナッシュの材料も、ビスキュイの作り方だって全部普段と同じようにやった。いつも通りにやったはず。

    「別に悪いわけじゃないわ。むしろ逆。美味しくなったのよ。根本の味はこの店のもの。でもね、色気が出たわ」
    「色気、ですか」
    「そう。色気」

     大丈夫そうね、と店長は笑う。それから、テーブルに肘をついて、顎をのせて、首を傾げた。

    「恋でもした?」
    「こッ……」
    「あら、図星?」

     その日の気分によって、お菓子に味が出るようになる、とか、それを舌で感じ取る人がいる、とか、そんなの都市伝説だと思っていた。
     穏やかにいつも笑っている店長に、底知れない何かを感じて口元をひきつらせていると、相模の方の店長が咳払いを一つ。

    「とりあえず、採用は決まりです。明日にでもうちに来てもらって、新人の研修と明日のオープンに向けての準備をお願いします」
    「分かりました」
    「それから、しばらくは大和国に戻ることも難しいでしょう。くれぐれも、心残りはないように」

     ばくばくと忙しい心臓を努めてなだめながら、私はこくんと頷いた。
     二人の店長が去ってから、あえて触れないようにしてきた唇に指を当てる。化粧もしていないから、色が悪くて、かさかさした手触り。
     どうして、だろう。なんで、あの時、キスなんかしたんだろう。
     来週相模に行きます、と言ってから、膝丸さんはお店にいらっしゃらない。
     ──くれぐれも、心残りはないように。
     明日から店長と呼ぶことになるであろう人の、淡々とした声が耳に蘇った。
     ──やっぱり戦争してるわけだからね。
     随分前のように思われる、先輩の言葉が脳裏をかすめた。
     城下は平和で、ぬくぬくとしていて、だから忘れてしまいがちだけど、膝丸さんは、明日には折れてしまうかもしれないようなところに立っている。
     ひょっとしたら、二度と会えないのかもしれない。この世界には沢山の膝丸様がいらっしゃるけれど。

    「……ガナッシュ、まだ残ってたよね」

     今から作ったところで、膝丸さんには会えないかもしれない。ひょっとしたら、遠征や出陣でこの国にすらいないかもしれない。
     けれど、私はお菓子を作る職人で、これしか知らない。女としても魅力に欠けているだろうし、甘ったるい青春とも無縁で、可愛い洋服の選び方も、眉の書き方も、上手な思いの伝え方も知らない。
     私にあるのは、お菓子だけ。
     だけど、お菓子なら、私の代わりに喋ってくれるかもしれない。
     表面の艶やかな面はコーヒークリーム。金箔は慎重に、皺にならないように。リキュールは利かせすぎないように。酩酊してしまったら台無しだ。酩酊じゃなくて、陶酔がいい。一口で、耽溺してほしい。

    「膝丸さん」

     今私が持っている全てを、どうぞ召し上がってください。







     いいのか、と朝も早くから何度も尋ねられた。何となく何かがあったのか察して、いつもは騒がしい面々も息を潜めている。
     すぐに会える距離ではなくなる。国と国の移動には面倒な手続きがいるのだと審神者は言っていた。だから、菓子を買いに、などという理由で会えるわけがない。
     今日の膝丸は不気味なほどに静かだった。何事かを考えているようだった。戦に出すと普段以上の活躍を出して帰ってくるが、兄が何を言おうと、今剣がいくら構おうと、ずっと黙している。
     まるで喪に服してるみたいだと言ったのは誰だったか。実際にそうなのかもしれない、と、一番親しいところにいる髭切は思う。
     膝丸は葬ろうとしているのだろう。生まれるべきでなかった感情を全て。

    「ねぇ、堅丸」
    「なんだ、兄者」
    「おまえは難儀な子だねぇ」

     いい子いい子、と、幼子にするようにそうあやしてやると、膝丸はぼうっと自分の兄を見上げた。

    「どうしておまえはあの子が好きだって言わないんだい?」
    「それは、」
    「本当にいいのかい? あれだけ通っておいて?」
    「俺は、あの娘でなく、あの娘が作る菓子に惚れていた。それだけだ」

     ううん、確かにあの娘の作るお菓子は美味しかったな。噛む度に幸せが甘さになって押し寄せてくるような、そんな味。
     でもね、と髭切は笑う。

    「じゃあ、どうしてそんなに悲しそうな顔をしているの? あの娘のお菓子なら、変わらずあの店で手にはいるだろうに」

     だって、味は一緒だ。極力同じ味にするようにと、あの娘も努めてきたと言っている。味に惚れていたのなら、別に構わないじゃないか、行ってしまったって。

    「……ねえ、膝丸。本当はおまえ、ずっとあの子の側にいたかったんだね」
    「そんな、ことは」
    「でもおまえは優しいから、そう言い出せなかったんだろう? あの娘は人間で、おまえは刀。おまえがあの娘をつなぎ止めてしまえば、あの娘は人並みの幸せを得られなくなってしまうものね」

     文字通り、住む世界が違うのだから。
     あれだけの菓子が作れるのならば、将来有望なのだろう。歴史に名を残す未来だってあり得るはずだ、と、髭切は思っている。何より、まだ若い。女としての幸せも、菓子職人としての幸せも、まだ途上。だから膝丸は手を離したのだと、髭切は知っている。
     それは、あの審神者が人間との交際を是としないのと同じ。

    「兄者」
    「でもね、それはおまえの勝手な考えだよ。おまえも僕も【モノ】だったから、誰かの都合を押しつけられる苦しみは知ってるだろう?」
    「それは」
    「ちゃんと話しておいで。あの時、僕達は何も出来なかったけど、今のおまえには口があるんだから」

     キスが出来るんだから、お話ができないわけがないよね。そういたずらっぽく笑った髭切に、膝丸はかあっと顔を赤くして、はじかれたように走り出した。

    「晩御飯までには帰るんだよー」

     うんうん、青春青春。満足そうに笑う髭切は、ふう、と一息ついて、足下に光る何かを見つける。
     つまみ上げれば、それは自分の弟が、本体である太刀に下げていた飾りで、接着剤か何かでくっつけたところが剥がれて取れてしまったようだった。
     ありゃ、今から追いかけて間に合うかな、と、とうに消えてしまった膝丸の方に視線をやる。まあ、いいか。暢気に笑ってポケットにしまい、ふと顔を上げて視線に気づく。

    「やあ、主」
    「やあ、じゃねっつの。全く……」
    「君は、弟があの娘と結ばれるのは反対だったね」

     がしがしと頭を掻きながら現れた審神者に、髭切はつっと目を細めた。たとえ主であっても、弟の邪魔はさせまい、と無言で語る。

    「別に、今更追っかけてってやめろ、とか言ったりしねえよ……反対もしてない。好きにすればいい。双方の合意ならな」
    「へえ、君は嫌がるかと思ってたよ。立場ってものもあるんだろう?」
    「そりゃあるさ。お偉いさんから袋叩きだろうな。でもな髭切、俺達にも責任があるんだ」
    「国への?」
    「違う。お前達への責任だ」

     はあっと面倒くさそうにため息を吐いて、髭切の心臓の部分をとんと指で押す。

    「お前らに、心を与えて、口を与えて、体を与えたのは俺達なんだから、その後に起こり得るありとあらゆる行動を、束縛しないって言ってるんだ。道義に反しない限りはな」

     じゃ、仕事があるから。手をひらりと振って廊下を歩いていく、自分たちの主の背中をぽかんと見送って、くすりと笑った。立場がある人間というのは、素直に応援の一言も吐けないのだから、全く大変だ。







     通い慣れた道を走る。何度も何度も通った道だ。今更間違えはしない。頭に刷り込まれた閉店時間まであとどれくらいだろうか。ぎょっとしたように、道行く人々が振り返った。気にとめている暇などない。
     いつもなら何てことのない距離なのに、千里のように感じてもどかしい。ようやくたどり着いた店のガラス戸、彼女の姿はない。カウンター。いない。間に合わなかったか、と歯噛みする。いや、諦めるにはまだ早い。ドアを乱暴に開けると、来店を示すベルが騒々しく鳴る。中にいた客が振り向いた。

    「いらっしゃいませ。ご注文は──」
    「ここに、若い娘の職人はいるか!?」

     笑顔を向ける店員にそう噛みついた時だった。
     奥に、焦がれていた娘がいる。銀色の調理台の前、神妙な顔で黒い菓子を見つめている。ふと顔を上げた。あの時、あれだけ近くに瞬いた瞳がゆっくりとこちらを向く。
     この距離では刀の飾りも見えるまい。自分の太刀を掲げようとして、膝丸はいつもぶら下がっていた佩緒飾りが見あたらないことに気づいた。しまった、落としたか。今から取りに帰っても遅い。気付け、と念じた。無理無茶無謀は承知の上。だが、今を逃せばもう後はない。
     先日触れた、柔い唇が、ひざまるさん、と音を紡いだ。







     何かを察したように、バイトさんが普段は絶対に入れないバックヤードに膝丸さんを入れてくれた。店長も、仕方ないわねって顔をして見て見ぬ振りをしてくれた。膝丸さんは黙ったまま、痛いくらいの空気。いたたまれない。
     あの、と開いた口は空気しか吐き出さない。持ち上がった視線が私を射抜いた。

    「君、その、先日は、だな」

     謝らないで欲しい、と、心の奥が叫んでも、声にならない。体が従わない。カタカタとみっともなく震えるだけだ。
     伝えないといけないことはたくさんある。たくさんありすぎて、伝えられなくて、だから私は拳を握って、これで最後のつもりで勇気を振り絞る。

    「ひざまるさん」
    「何だ」

     ああ、この刀は、本当に優しい方だ。困ったように下がった眉も、泣き出す一歩手前みたいな瞳も、全部が全部、優しくて綺麗で愛しくて──

    「食べていただきたい、お菓子があります」

     そんなものを、全部このケーキに籠めたから、どうか一欠片も残さず、余さず食べてください。
     膝丸さんに背を向ける。最後に残った一ピース。ふんわりと香る、グラン・マルニエはオレンジのリキュール。そういえば、最初もオレンジとチョコレートだった。
     今日はお茶はお出ししない。口当たりのいい常温の軟水だけ。氷だって用意しない。走っていらっしゃった膝丸さんに渡すなら、冷たい氷水だと分かってはいるけれど、氷の触感も冷たさも、私のオペラには要らない。
     コーヒーも、紅茶も要らない。今日だけは、私以外要らない。

    「ガトー・オペラです」

     膝丸さん視線が、私の手の中の黒い小さな直方体に注ぐ。華やかなフランス菓子の中でも、色も地味で、デコレーションも地味で、それでも一等光り輝くケーキを。

    「ちょこれいと、だな」
    「はい」

     ほかに言葉はない。フォークを差し出すと、膝丸さんはバックヤードの安っぽいパイプ椅子にかけて、ゆっくりとケーキにフォークを入れた。
     見た目には堅そうなクリームが滑らかに切れる。ビスキュイが押されて、じわりとリキュールがあふれ出す。柑橘の匂いに、膝丸さんの目が細くなる。思い出しているんだろうか。
     フォークがオペラを突き刺して、ゆっくりと持ち上がる様を見ていた。口の中に吸い込まれて、ゆっくり噛みしめられるのも。こくりと上下する喉仏も、一刻も逃すまいと瞬きもせず見つめた。
     いつものように、膝丸さんは美味い、とは言わなかった。その代わりにフォークが動いた。少しずつ、オペラが削られていく。少しずつ、私のオペラを食べていく。
     一欠片もなくオペラが消えて、ようやく膝丸さんは息をついた。

    「……何と言えばいいのか」

     膝丸さんの手から離れたフォークが、からんとお皿の上で音を立てる。ふう、と甘い息を吐いて、それを吸い込むように深く呼吸をする。うっとりと瞼はおろされて、緊張にこわばっていた口元は柔らかで、私はもう、それだけで十分だった。
     へにゃりとへたり込んでしまいそうな足を何とか叱咤して、膝丸さんの正面の椅子に座る。

    「馳走になった」
    「はい、お粗末様でした」
    「粗末なものではないだろう。本当に、言葉に出来ん。なんだ、これは」
    「ガトー・オペラです」
    「食べたことがない」
    「お出ししたことがありませんから」
    「こんなものを、君は他の客にも出すのか?」

     膝丸さんが、うらめしそうに私を見た。

    「いいえ。こんな風に作ったオペラなんて、お客様にお出しできません」
    「……材料を変えたのか?」
    「いえ。材料は全く同じです。分量も、焼き加減も、混ぜる時間も一緒。ただ一つだけ、違うものを入れました」

     隠し味は愛情って、あながち嘘でもないんだろう。
     味見の時にも驚いた。こんな味が出せるんだって。いつも通りに作ったつもりなのに、混ぜ加減や空気の入り方、その全てに私の感情が出る。

    「お味はどうでしたか?」
    「旨かった……本当に」
    「なら、よかったです」

     もうその一言以外、何も要らない。作ったものでも何でもない、心からの笑顔で私は答えた。

    「それで、膝丸さんのご用は何ですか?」
    「分かっていて聞いているだろう。君も存外意地が悪いな」

     ぴんと背筋を伸ばして、膝丸さんは立ち上がる。たった数歩の距離ももどかしそうに、私の方に歩いてきて、その足下に膝をついて、同じ目線で彼は言う。

    「好きだ」

     心臓が一つ、大きく音を立てた。

    「こうして、言葉にすることで、君に迷惑をかけることもあるかもしれん。君には、君の世界があって、そこで菓子を作って、他の者に認められて、誰かと出会って、……恋を、して、そういう、幸せが似合うのだと、思う」

     それでも、と膝丸さんは大きく息を吸う。

    「俺は、君と共にいたい」

     耳にふわりと吹き込まれた、膝丸さんの言葉は、神経から私の脳をとかしていくみたいだ。
     耽溺、いや陶酔。オレンジみたいな目。ずるいなぁ、私がせっかく我慢して、全部蓋をして隠そうとしたのに、この方は。

    「私も」

     オペラの残していった、さわやかな甘い匂いが胸を満たした。

    「私も、好きです」

     いつか私が言われるであろう、何千のごちそうさまや、何万のおいしかったよ、よりも、私は、この方のごちそうさまと旨いが聞きたい。
     とても優しくて、不器用で、作り笑いが下手な、この膝丸さんの隣にいたい。
     一音一音、確かめるように言葉にすると、膝丸さんは、嬉しそうに笑った。
     招くように開かれた腕に、こつんと額がぶつかって、距離がゼロになる。やっぱりレモンの味とはほど遠いけれど、オレンジリキュールの香りと、チョコレートのほろ苦い味に、なんだか涙が出そうだった。







     どれくらいそうしていただろうか。そろそろバックヤードを開放しないと、店長にもバイトさんにもほかの職人さんにもご迷惑がかかる。そろそろ離してくださいと、首に回った腕をぺしぺし叩けば、名残惜しそうにぎゅうっと締まったから苦しい。というか、膝丸さんもそろそろ帰らなきゃまずいんじゃ……

    「いやだ」
    「膝丸さん」
    「離れたら、君は相模に行くのだろう」

     子供か。いや、かわいいけど子供か。
     うーん、私も離れたくないけど、流石に気まずいというか、いや大方は察せられてるんだろうけどね。店長からのリアクションが怖いです。

    「気持ちは分かりますけど、一ヶ月の辛抱ですから」
    「……一ヶ月?」
    「はい。あれ、審神者さんから言われてなかったんですか? 相模勤務は一ヶ月のオープニング期間限定で、それが終わったら大和に戻ってきますよ」

     膝丸さんは顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせている。金魚みたいだ。次の名前は金魚丸さんかな、と暢気に考えていると、ガッと肩を掴まれる。

    「どうしてそれを早く言わんのだ!」
    「どこかの誰かさんが全部言う前にキスとかするせいで言えなかったんですよ」
    「うっ……」

     言葉に窮した膝丸さんの腕が、ゆっくり離れていく。気まずそうに視線を逸らして、本当に小さい声で「すまない」なんて謝られたら許さないわけにはいかないじゃないか。
     もういいですよ、と言って立ち上がり、バックヤードの扉を開ける。なぜか店長とバイトさんと先輩が立って号泣していた。いつからそこで聞いてたんですか。プライバシーも何もないな。
     口々におめでとう、とか、お幸せに、とか、嫁にでも行くのかというくらいの喜ばれっぷりに、当事者の私も若干大袈裟じゃないかな、とひきつり笑いになった。恥ずかしいからやめてほしい。

    「ごめんなさいね。仲を引き裂くような……でも、相模にはどうしても貴女に行ってほしくって……」
    「いや、やむを得ないことだ。彼女の腕なら当然のこと」
    「なんで膝丸さんが答えてるんだろう……」

     そしてどうして誇らしげなんだろう。まあいい。店長がご祝儀よ、といくら何でもそれは急ぎすぎな言葉とともに、膝丸さんに贈答用菓子の詰め合わせを押しつけた。流石に膝丸さんも困り顔だ。

    「すまない。あまりに急いできたもので、財布を忘れてしまった。気持ちはありがたいのだが」
    「ご祝儀なんだからいいのよ。貰ってちょうだいな」

     堂々巡りになりそうな予感がする。いいから貰ってください、宣伝料です、と、いつかしたような言いくるめ方で膝丸さんの手に何とか持たせた。

    「賞味期限は、長いもので一ヶ月くらいです。私の作ったお菓子もたぶん入ってます。たぶん」
    「曖昧だな」
    「生地段階では間違いなく関わってるものばかりだと思うので……それ食べて待っててください」
    「ああ、待っておく」
    「膝丸さんこそ、その、一ヶ月の間に折れたりとかしないでくださいね」

     ここ最近ずっと頭の端にこびりついていた不安をようやく表せば、膝丸さんはちょっとだけ驚いたように目を丸めて、それからふっとやわらげた。

    「無論だ」

     ぽん、と頭に乗せられた掌と、わしゃりと乱された髪の毛に、私も不格好な笑顔を膝丸さんに向けた。

    「それでは、また」
    「ああ、また一ヶ月後に」

     そして。
    プチフール

     拝啓、膝丸くん。今日で無事に相模でのオープニング勤務も終わりです。向こうの職人さんも審神者さんも良い方達ばかりで、大和に戻らず相模で働き続けてくれとお願いされましたが断ってきました。向こうにも膝丸さんはいましたが、皆兄者兄者って言ってて、皆名前覚えてもらってなかったけど、そんなもんなの? 時々見えない兄者を呼んでいる膝丸さんもいらっしゃったので、全国膝丸会議みたいなのがあったらお話聞いてあげてほしいです。不憫すぎる。
     勤務はたぶん、帰国から一日のお休みをもらってからだと思います。この手紙が着いてる頃じゃないかなぁ。ああ、向こうで先輩に今時手紙かとだいぶからかわれました。端末音痴な膝丸くんのせいなので、責任とってください。帰ったらメールの打ち方教えるから、代わりに膝丸くんと髭切さんのことも教えてください。
     それでは、そろそろ勤務なのでお手紙はここまで。後は会って直接話しましょう。久しぶりに会えるので楽しみです。
     かしこ。







     今日はなんだか朝から膝丸が騒々しい。昨日の夜遅くにこんのすけが運んできた、時代錯誤な手紙に目を通してからこれだ。朝も早くからそわそわと立ち上がったり座ったり。訳知り顔の岩融や今剣にによによと肩を叩かれては、顔を赤くして払いのける。
     いよいよ奇妙だぞ、と、感情の機微に疎い刀達が、最も彼をよく知るであろう片割れに尋ねたところ、その刀はほっこりと笑って、湯呑を片手にこう言った。

    「春なんだよ」
    「もう秋だぞ兄者」
    「そうだねぇ。秋だね。ああ、秋丸、秋と言えば甘藷が美味しいらしいよ。甘藷を使ったタルトとか、もん……モントリオール? もいいらしいね」
    「……もんぶらんか?」
    「そうそうそれそれ」

     むしろモントリオールなんて単語をどこから引っ張ってきたんだ、と膝丸は自分の兄に奇異の目を向けるが、髭切はにこにこしているまま。うっとりと目を伏せて、その甘藷を使ったタルトやモンブランが如何に美味しそうだったかをこれ見よがしに、周りの刀剣達に聞こえるように語る。
     それに追加攻撃を加えたのは、近くで遊んでいた天狗姿の短刀と弁慶の薙刀。髭切に負けじと、最近知った旨そうな洋菓子の名前を並べ上げる。生地がこうだ、匂いがああだ、名前は確かこうだった、と。それに、何かを察した他の刀達も、そう言えば現世で見かけたあの菓子が旨そうだった、とか、テレビで見たあれがなんだ、だの、ちょっとした騒ぎになっている。余りの騒々しさに顔を出した審神者ですら、膝丸にぽんと金子と紙切れを渡して去っていった。「スイートポテト」とだけ書いてある。
     そうか、と膝丸は生真面目に返したが、じっと見つめる先は刀剣達ではなく時計。十時五十分。そろそろか、と立ち上がる。
     不器用に直された痕が残る佩緒飾りが揺れる。すれ違う膝丸達や髭切達が、珍しいものを見るように膝丸の刀に目を向ける。走ったりしない。あまり急いできたと思われると、何となく格好が付かないだろう。
     角を曲がると見えてくる。看板はもう出ていた。いつも以上に、店の輪郭が輝いて見える。
     ガラス戸の向こうで、せわしなく立ち働く彼女の姿が見えた。重たい小麦の袋を持ち上げて、大きな篩をかけながら、愛おしそうに菓子を見つめる横顔。
     その顔が、こちらを向いて、黒い瞳とかちりと合う。驚いた表情が、じわりと喜びに綻んで、菓子を作る手が止まる。

    「いらっしゃいませ」

     一ヶ月間、焦がれていた声が鼓膜を震わせた。







     早速ご来店になった膝丸くんは、ショーケースの前で真剣に腕を組んでいる。今日並んでいるものは、定番のケーキや焼き菓子から季節のタルトまで様々。流石に肌寒くなってきたからゼリーはおしまい。接客担当のバイトさんが、ちらちらこっちを見てくる。先輩が背中を押してくる。公私混同って知ってます?

    「ご注文はお決まりですか?」
    「……兄者が、甘藷のたるとともんぶらんが旨いのだとうるさくてな」
    「ああ、今の時期ですからねぇ」
    「だが、今剣はかぼちゃのむうすとやらがいいと言うし、岩融は林檎のしゅつるーでるなるものがいいと言う。主の注文はこれだ」

     しゅつるーでる。シュトゥルーデルだろうか。秋は美味しいものがいっぱい取れる季節だしなぁ。まあ悩むのも仕方ないよね。私も先日体重計に乗ったら信じられない数値が叩き出されました。馬だって肥えるんだから人間が肥えても仕方ない。
     審神者さんのご注文は、膝丸くんが発音できないのを見越してか紙に書かれてあった。スイートポテト……これもこの時期おいしいお菓子だよね。お求めになるお客様も多いから、作り置きは沢山してある。

    「だが、この間君が教えてくれた紅茶のしふぉんけえきも気になっていてな」
    「あはは、食べたいものばかりじゃないですか」
    「当たり前だろう。一ヶ月分だ」

     ふむ、ご注文はさつまいものタルトとモンブラン、かぼちゃプリンにアプフェルシュトゥルーデル、スイートポテト、それから紅茶のシフォンケーキ。それぞれ大きいのを一つずつお持ちいただいても、争奪戦になるのは目に見えている。

    「そんな欲張りな膝丸さんには、とっておきの秘策をお教えしましょう。大きいのを取り合うよりは、小さいのをいくつか……膝丸さん?」
    「……なんだ」
    「いや、なんだじゃないでしょう。いきなりそんな顔をしかめて……あ、」

     とてもわかりやすく機嫌を損ねている表情に、思い当たる節があって手を叩いた。全く、本当にこの方は。

    「プチフールにしよう、膝丸くん」
    「ぷちふうる?」
    「一度にたくさん食べるために、一口サイズで作られたケーキのこと」

     実は詰め合わせ用に、作り置きしてあったりするものもある。プリンやタルトは、時々城下のレストランから注文があったりするし、シュトゥルーデルは……うん、ちょっと無理があるから諦めてもらおう。
     そう言うと、膝丸くんはちょっと機嫌を直したようで、ふんふんと眉間の皺を消して頷いた。

    「ならばそれで頼もう。ついでにそのしゅつるーでるはここで食べていく」
    「いいんですか? ……じゃなかった、いいの? 岩融さんに持って帰らなくても」
    「ここで買って帰っては不公平だからな。次の機会にする」

     自分は食べて帰るのに、ですか。全く。そわそわと落ち着きなく、未知のシュトゥルーデルを想像する膝丸くんにくすりと笑って、笑って、ああやっぱりだめだ恥ずかしい。顔を覆うと、膝丸くんは不思議そうに首を傾げた。

    「どうした?」
    「あのこれほんとにやめませんか」
    「手紙ではできていただろう」
    「手紙と現実は違います! 眼前にしたらこう、違うんです! 無理! 恥ずかしい勘弁してください膝丸さん!」
    「嫌だ」

     薄情な……私が心筋梗塞で死んでも良いというのかこの刀。火照った頬を冷ますように両手で挟んで、私はキッと膝丸くんを睨んだ。

    「せめて敬語だけは許してください」
    「慣れろ。これでいちいち照れていたら、この後保たんぞ」
    「膝丸くんも大概マイペースだな……」

     平安刀は自由な方が多いって聞いてたけど、膝丸くんはそうでもないなぁって思ってた。訂正する。膝丸くんも十分にマイペースです。強引と言った方が近いかもしれない。
     膝丸くんは悪そうに笑って、私の帽子に包まれた頭を数度叩いた。撫でてるつもりなんだろう。

    「……それで、本丸分のプチフールどうやって持って帰るつもりなの。ひとりで?」
    「それに関しては心配ない。しゅつるーでるの前にぷちふうるを持ってきてくれればどうにかしよう」

     何を考えているんだろう。本当に量が多いから覚悟してほしい。今もバックヤードから店長とバイトさんの悲鳴が聞こえている。たぶん大きい箱で二桁は行くんじゃないかな。
     じゃあシュトゥルーデルを用意するから、と厨房に引っ込んだ後、膝丸くんが野次馬に来ていた御刀様方を呼び寄せてケーキを運ばせていたのを私は知らない。
     すでに作りおいていたシュトゥルーデルを焼くだけだから、特に派手なこともしない。それなのに、ガラスの向こうから注がれる膝丸くんの視線はそれはそれは楽しそう。時々私の手元から持ち上がる視線は、照れ臭いから本当に勘弁してほしい。

    「はい、どうぞ」

     後ろの光景が透けて見えるほど薄い生地で、火を通して甘くなった林檎フィリングを包んだシュトゥルーデル。既に膝丸くんがごくりと唾を飲んでいる。私がいない間甘味断ちでもしていたのかな。ふわっと香るシナモンに、さっそくナイフで切ろうとする膝丸くんを手で制した。

    「一か月、お待たせしました」

     ぽん、とスクープ一杯分のバニラアイスクリームをその上に乗せると、焼き立てのシュトゥルーデルの上でとろりととけていく。さらに上から蜂蜜のサービス。

    「どうぞ、召し上がってください」

     たっぷり注いだ紅茶は秋のブレンド。ナイフが通ると、パリッといい音がする。一口分、バニラアイスと絡めたそれを零さないように運んで、膝丸くんは目元をほころばせた。
     それから、私も一か月ぶりに聞く、愛しい愛しい三つの音を、笑顔と共に口にするのだ。
    カーテンコール:ポルボロン

     拝啓膝丸さん。先日いただいたお干菓子は大変おいしくいただきました。世の中にはこんなにおいしい甘味があったのですね。甘味の世界の底の深さに改めて私は心を打たれて毎夜泣いております。和菓子尊い。
     ところで膝丸さん、次会ったら是非お聞きしたいのですが。私はようやく現実と向き合うことにした。私の前には同じ顔が三つある。全員薄緑色の髪に鮮やかな炎のような瞳が綺麗なイケメンさんである。つまり膝丸さんが三人。いや、人という数え方はよろしくないのかな。膝丸さんが三振。皆すごく真剣な顔でショーケースをご覧になっている。
     膝丸界で空前の洋菓子ブームが起きていた。

    「ご、ご注文がお決まりでしたら、お声かけください」

     店長から聞いていた話だ。なんでも、いつぞやの演錬で髭切さんがおやつにと持ち込んだ洋菓子で火がついたらしい。髭切さんからお菓子をもらった髭切さんが膝丸さんにこのお菓子がおいしいよとこぼしたことでならば買いに行こうとこの国の膝丸さんが一同にうちの店に押し寄せる珍事が起きているそうだ。髭切と膝丸がゲシュタルト崩壊しそうだ。
     この味が いいねと兄者が 言ったから 某月某日は お菓子記念日。
     バカなことをやっている場合ではない。私は何とかひきつらないように力を込めたあげく大変なことになっている営業スマイルをキープする。現在店長はこの大騒動で急遽必要になった材料の仕入れにでている。バイトさんは釣り銭をまた多めに置いていった鶴丸さんを驚くべき俊足で追いかけていって不在。つまりまた私が接客だ。
     膝丸さんの見分けがつかない私が、接客だ。

    「ふむ、確か兄者は、クッキーのような菓子が旨かったと言っていたな」

     珍しく流暢なカタカナ発音で、一番左の膝丸さんがおっしゃった。

    「ああ、何でもほろりと崩れる食感だったようだ」

     真ん中の膝丸さんが腕を組んでおっしゃる。

    「だが、名前を聞いても兄者のことだからな……」

     一番右の膝丸さんが額を押さえた。どの膝丸さんも苦労してらっしゃるんだなぁ……そしてどの髭切さんもマイペースなようだ。いや、髭切さんがマイペースだからどの膝丸さんも苦労するのかな。
     とりあえず目星はついている。口の中に入れるとほろっと崩れるクッキーで、最近うちに並んで妙に売れているお菓子といったらあれしかない。というか、この謎解き久しぶりだなぁ。最近膝丸さんはちゃんとほしいものをおっしゃってくれるから、楽なんだけどちょっと寂しいよね。
     私の中で固まった答えを口に出そうとしたとき、目の前の扉がからんからんと音を立てた。

    「すまん、先日のぽるぼろんをまた買いにきたのだが……なんだ、俺がいるな」
    「君もここに洋菓子を買いにきたのか?」
    「ぽるぼ……なんと?」
    「ポルボロンだろう」

     まさかの膝丸さんご来店で膝丸さんが四振になった。
     右を見ても左を見ても膝丸さんしかいない。なんだこれ。なんだこの店。私の視界に膝丸さんしかいない。

    「娘、そのぽるぼろんで兄者が求めているものはあっているのか?」
    「あ、はい。たぶんポルボロンです。南蛮発祥の焼き菓子ですね」

     膝丸さんがご来店になって一気に膝丸シャッフルが行われたせいでもう私にはどの膝丸さんがどの膝丸さんなのか一振を除いてわかりません。とりあえずポルボロンを何袋用意すればいいんだろうか。個数を尋ねると、ううむと膝丸さんがうなる。あ、嫌な予感がする。

    「俺はとりあえず兄者の分のみで良いから一袋頼もう」
    「俺は兄者と今剣が欲しがっていたから二袋だな」
    「獅子王も是非食したいと言っていたからな。多めに見積もって五袋か」
    「……平気か?」
    「がんばります……」

     同じ顔四つ並んでいる世界で一つでもこれだとわかる顔があると安心感が違うなぁ。私は半泣きでうなずいた。どの膝丸さんがどの膝丸さんかわからないけど、とりあえず注文の品を用意しよう。小麦粉とアーモンドプードルを煎って作ったポルボロンは、単に甘いだけじゃなくて本当にほろりと崩れるのだ。砂漠の砂を固めたみたい。だからお茶が欲しくなる。
     粉砂糖を丁寧にまぶしたそれを袋に包んでリボンを結んで……カウンターに戻るのがかなりおっくうだ。某ハンバーガーチェーン店とかだと、何とかをお待ちのお客さま、って呼んでたよね。あれいいな。今回もポルボロンをお待ちの膝丸様……全員だわ。終わった。
     くっそどうしよう。不安のままに振り向いたら、心配そうな顔をしている膝丸さんと目があった。そんな顔をされるとがんばるしかない。両手でぺしんと頬を叩く。女は度胸。

    「お待たせしました。ええと」
    「ああ、すまんな。俺が一つ頼んだ膝丸だ」

     おや?

    「あ、ありがとうございます。お会計は五百円です」
    「ああ」
    「それで、俺が二つ頼んだ膝丸だな」

     なんで? 不思議に思っているまま会計は進む。皆さんきっちりちょうど払ってくださった。最後に五つ頼んだ膝丸さんが、膝丸さんの方を見てちょっとだけ笑う。対して膝丸さんは苦虫を噛み潰したような顔。

    「すまんな娘。沢山の俺が来てややこしかったのだろう。戸惑わせた」
    「い、いえ。これが仕事ですし」

     あれ、膝丸さんの顔がなんかいっそう強ばったぞ。
     ひょっとして、膝丸さんがこの膝丸さん方に私のどうしようもない欠点をお伝えしてくれたのだろうか。いや、そうに違いない。なんていい人なんだ膝丸さん。いや神様だけど。ありがとう、ありがとうと心の中で拝みながら、笑顔で三振の膝丸さんに頭を下げる。またお越しください。できれば次はおひとりずつ。三つの黒い背中が扉の向こうに消えた後、私はがばっと頭を起こした。

    「膝丸さんがいろいろ教えてくださったんですよね!?」
    「うん!? あ、ああ」
    「ありがとうございます大好きです本当感謝しかありませんありがとうございます膝丸さん」

     手をがしっと掴んで早口でそうまくし立て、私はぴゅうっと厨房の方へと走った。膝丸トリオでいっぱいいっぱいで、肝心の膝丸さんの分のポルボロンを用意するのを完全に忘れていたのだ。

    「き、君」
    「あ、すみません膝丸さん。ポルボロンでしたよね。膝丸さんと髭切さんと今剣くんと岩融さんの四袋でよろしかったですか?」
    「……ああ」

     ちょっとお礼で一つずつ増量して包ませていただきました。いつもご愛顧ありがとうございます。

    「ああそうそう、ポルボロンを食べる前に、是非ポルボロンって三回唱えてみてくださいね。幸せになるおまじないだそうです」
    「そうなのか?」
    「はい。おもしろいですよね。あ、お会計二千円です」

     膝丸さんの手が几帳面にお金を並べておいた。今日もきっちり払っていただいてありがたい限りだ。どこぞの鶴丸さんも是非見習って欲しい。ちょうどいただきます。
     なぜかほんのり顔を朱色に染めた膝丸さんが、視線を逸らして、また来る、とおっしゃった。はい、いつでもお越しくださいね。膝丸さんならいつでも大歓迎ですから。
     私が勢いのままに口走ったいろんなことを思い出して撃沈するのは、やっぱりルンルン気分で家に帰ってベッドにダイブしてからである。
     何回同じことを繰り返せば気が済むんだろう私。いい加減本当に、なんていうか、その、学習したい。
     作りすぎて余ったポルボロンを睨んで、ポルボロンを三回唱えて、口の中に放り込んだ。ほろりと崩れて舌の水分を奪っていくこの感覚、どこかで感じたことがあるなぁ、どこだっけ、と思い出して、和三盆に思い当たり、また布団の中で丸くなる。次こそ上手くやろう、と、どこかで同じ言葉を唱えているであろう膝丸さんを思った。
    カーテンコール:カスタードプリン

     そういえば、何で鶴丸さんは佩緒飾りを膝丸くんに渡すって言ったとき、あんなにびっくりしていたんだろう。「どうなっても知らないからな」なんて物騒なことを言ってたけれど、壊れても直らないくらいで特に変なことは起きなかった気がするけれど。
     あれから、膝丸くんとはそれなりに楽しくやらせてもらっている。向こうは色々忙しい身の上だし、関係性がちょっと変わっても、あんまり二人で特別にどうこう、ということはない。呼び方と、話し方が変わったくらい。後はちょっと頭を撫でられる回数が増えた気がする。

    「いや、一時はどうなることかと思ったぞ」
    「はぁ、それはご心配をおかけしました……?」

     鶴丸さんがしみじみとそんなことを言った。今日のご注文はチェリーパイ。鶴丸さんの接客担当がバイトさんになってから、代金はほぼきっちり定価でいただけるようになって私は大満足である。何でも、笑顔の圧力がハンパないらしい。薄いけどバッチリかわいいメイクをした、いかにも女の子らしいバイトさんだけど、そんなに怖いのかな。首を傾げる私に、鶴丸さんは「世の中には知らない方がいいこともあるんだ」と乾いた声で笑った。

    「はい。きっちりいただきますね」
    「ああ」
    「……あの、お帰りになる前にすごく聞いておきたいことがあるんですけど」

     何だ、と鶴丸さんが首を傾げる。しゃら、と、佩緒につけた蓮の飾りが音を立てる。

    「その、佩緒につける飾りを渡す意味なんですけど、未だによく分からなくて、ですね」
    「なんだそんなことか」

     そんなこととは失礼な。ずっと気にかかってたことなんですよ、とかみつけば、鶴丸さんは面倒くさそうに後頭部を掻く。

    「きみの背の君に聞いたらどうだい」
    「いや、なんか、今更聞くのもどうかなって……あれ結構私の中で黒歴史なんですよね」

     今考えたら超イタいサプライズだ。思い出す度に死にたくなる。膝丸くんが律儀にもずっと佩緒につけてくれてるからあんまりそういうことは言えないんだけどね。
     だからいったい私が何をしたのかを早急に教えてほしいのだ。もう鍍金も剥げて若葉どころか落ち葉になってもなおつけ続けてるあの膝丸くんのどの琴線に私が触れたのか、早く。じゃないとチェリーパイお渡ししませんよ。

    「いや、俺の口から語るのも如何……お、いいところに膝丸」
    「何だ」

     膝丸くんご来店である。いらっしゃいませ、と声をかけると、眉間によった皺がちょっとだけ薄くなった。相変わらず佩緒には私が贈った飾りが崩壊寸前の状態で下がっている。
     つかつかとカウンターまで歩いてきた膝丸くんは、ガラスのショーケースの上にそうっとあるものをおいた。
     プラスチックの空の容器である。ちゃんと洗ったのだろう。ほのかに洗剤のにおいがする。たぶん使い捨てを想定して作られているであろうその容器の裏には、小さい頃からおなじみプッチンの突起が折られていないまま呆然と存在している。ええ、これプッチンが醍醐味なのであって、プッチンしないとただの甘ったるいお菓子じゃないか……いや好きだけどね。時々無性に食べたくなるよね。
     さて、いったい何を無言で出してるんだこの刀、という目で私と鶴丸さんが膝丸くんを見る中、本人は至極大まじめな顔でこう言った。

    「甘い茶碗蒸しを作ってほしい」
    「ぶっ」
    「……ええと、甘い茶碗蒸し、ね」

     流石にこの状況で、銀杏の代わりに角砂糖を入れた茶碗蒸しかなー? というほど空気読めない女じゃない。吹き出した鶴丸さんに、こほんと咳払いを一つして私は膝丸くんの顔をのぞき込む。ええいひきつるな私の唇。

    「ちなみに膝丸くん、これはどこから?」
    「今剣が、俺が初めて本丸にきたときにおやつのお裾分けだと食わせてくれたものの殻だ」

     プラスチックのプリンカップをエビか何かみたいに言わないでほしい。殻って。

    「こうすれば旨いのだと上にたっぷりくりいむを絞って食わせてくれた……まあ、なんというか、それが俺のくりいむ嫌いの発端でな」
    「ああ……」

     そりゃただでさえ甘いプッチンプリンにクリーム絞って食べたら確かにクリームもういいなって気分になるよね。気持ちはすごくよく分かります。ちなみに、髭切さんは普通に美味しいと言いながら食べたそうだ。今度髭切さんがうちにくる機会があったらクリームメガ盛りパンケーキをおすすめしよう。
     ところでそこで痙攣起こすくらい笑ってる鶴丸さんはちゃんと呼吸できてるんだろうか。

    「底の方に、みたらしの餡を濃くして苦くしたようなたれが溜まっていたことは覚えているのだが、何せ記憶が曖昧でな……手掛かりが少なくて申し訳ないが、作ってくれるか」
    「いや、十分だよ」

     むしろそのカップだけで分かる。みたらしの餡という的確すぎる例えに笑いすぎて引き笑い状態の鶴丸さんがとうとう崩れ落ちた。膝丸くんが奇妙なものを見たように顔をゆがめているけれど、間違いなく貴方が原因だからもう少し優しくしてあげてほしいな。

    「で、ええと、いくつ用意すればいい? 本丸全員分?」
    「いや、俺の分ともう一つだけでいい」
    「あれ、髭切さんに?」
    「いや、今剣にだ」

     そりゃまた珍しい。プラスチックカップは一つしかないから、別の容器に入れて作ることになるだろうなぁ、とぼんやり思っていると、膝丸さんは少々ばつが悪そうに頬を掻く。

    「今剣が、その、厚樫山で少々ヘマをしてな。重傷になり」
    「大丈夫なの!?」
    「ああ、手入れも受けた。怪我自体は完全に治っているが」

     心のほうが、ということか。なるほどなぁ。厚樫山といえば審神者の皆さんがブートキャンプをしているらしいところだ。何でも爺がでるらしい。芝刈りにでも行ってるんだろうか。
     でもなんで今剣くんがブートキャンプ場で大怪我をおって心も重傷なんだろう、と首を傾げれば、膝丸くんは困った顔をした。

    「……まあ、九郎の死地だ。思うところもあったのだろう」
    「九郎?」
    「源義経公のことさ」

     鶴丸さんが答える。ああそうか……そりゃつらいよねぇ。前の主の死んだ場所かぁ。
     そこで膝丸くんは一番最初に今剣くんから貰ったプッチンプリン生クリーム掛けを再現したものを食べて元気になってもらいたいらしい。ただ、名前を覚えていなかったうえ、調べても甘い茶碗蒸しとクリームというインパクトが強すぎてそれらしい菓子にたどり着かず、弱り果ててとりあえず覚えているヒントをかき集めて私の元にきた、と。
     このことは内密に頼むぞ、と鶴丸さんに言い含めている膝丸くんに、やっぱりこの方は優しいなぁ、と思いながら、プッチンプリンの容器を持ち上げた。

    「分かった。ただ、どうしても生物になるし、持って帰るのが難しいお菓子になるかな」

     プリン自体は持って帰ることもできるだろうけれど、あいにくとうちのプリンカップはガラスで出来ていてプッチンできない。上からプラスチックのふたをつけるから、クリームも乗せて持ち帰ることは難しいだろう。それじゃ、膝丸くんがおそらくがんばって食べきったプリンにはならない。
     出来ればここに今剣くんをつれてきてほしい、と言う前に、鶴丸さんがわかった、と言うように腕を組んだ。

    「ふむ。なら俺が今剣をつれてこよう。きみと膝丸はここで待っていればいい。確か今日は午前に畑当番だけだったからな」
    「え、でもそれはそれでなんだかパシリみたいで申し訳ないような……」
    「構わんさ。その代わりそのパイをよこしてくれ」

     いや、これはそもそも鶴丸さんがお買い求めいただいたものなのでそんな風に言われなくても渡しますよ。はい、と白いケーキボックスを渡せば、鶴丸さんはにっと笑って身を翻す。

    「じゃあな! 佩緒の件はちゃんと膝丸に聞くんだぞ!」
    「……あッ!? 謀りましたね!?」
    「違うな。正当な対価だ。今剣が来る前に聞いておけよ!」

     何のことだか分からない、という顔をしている膝丸くんに、崩れ落ちた私は渋々説明の為に口を開くのだった。膝丸くんは唖然と口を開けたまま見事に顔を真っ赤にして硬直する。今がピークじゃなくてよかった。がらんとした店内に、お客様は膝丸くんのみなのだ。これで誰かほかのお客様がいたら、膝丸くんきっと切腹するだろうなぁ、と現実逃避に遠い目をする。

    「き、君は、なんと、なんという……」
    「い、いや、だって分からないじゃない! 私膝丸くんの自己申告がないと膝丸くんが膝丸くんだって分からなかったんだから」

     膝丸のゲシュタルト崩壊が起きかけている。
     見分けがつかないから、見分けがつくように佩緒飾りを贈ったのだと正直に白状すれば、膝丸くんは心底呆れたように頭を抱えた。

    「……いいか」
    「はい」
    「俺たち刀は、自分から拵えを変えることはない。拵えを決めるのは所有者、つまりは主だ」

     それって当たり前のことなんじゃないの? よく分かりませんを楷書体にして顔に貼り付けた私に、膝丸くんは深い溜息をついた。

    「つまり、だ。拵えをつけさせるということは、自分のものだと主張するに等しいことだぞ。特に、俺達はどんなに微弱でも、霊力の違いで所有者を識別するのだから」
    「……うん? ということは、膝丸くんは私が贈った佩緒飾りをつけることによって?」
    「俺は君のものだと宣伝して歩いていたに等しいな」

     パァン、と頭の中で何かが弾ける音がした。火が出たみたいに顔が熱くて、よく分からない声が口から漏れ出す。いや、あの、別にそんな意図は全くなくて、なんで、っていうか、それマーキングみたいなものじゃない。今は、その、確かに憎からず思ってるけど、その時は全然そんなつもりはなくて。

    「ちょっと待って、整理させて」
    「う、うむ」
    「……っていうか、贈られたまま素直に自分の刀につける膝丸くんも大概私のこと好きだったんだね」

     パーで頭をはたかれた。膝丸くんの錬度を鑑みると、かなり手加減してくれたんだろうけれど、解せない。







     今剣くんがご来店になった。私の方をみて元気にご挨拶はしてくれたけれど、やっぱりどこかしょんもりしている。膝丸くんの足にしがみついて、なんでよんだんですか、なにかたのしいことですか、と矢継ぎ早に尋ねた。

    「とりあえずお席の方へお願いします」
    「ああ」

     そろそろピークタイムにさしかかる。看板を見て足を止めるお客様も増えてきたし。私は私で、プッチンの容器を回収してプリンの仕込みに入らないといけない。
     プッチンの容器を使い回して二つのプリンを作ることは不可能だ。だから、形に関しては目をつぶってもらおう。プリン・ア・ラ・モード用の容器をいくつか取り出して並べるとなめらかにプッチンされるようにバターを薄く塗っておく。次は卵液。クリームと牛乳を使ってなめらかに仕上げる。数回漉す作業も忘れずに。
     砂糖をじっくり焦がして作ったカラメルソース。うちのはプリンの甘みが引き立つようにほろ苦い。プリンカップにまずそれを入れてからプリン液を注いで準備していた蒸し器の方へ。蒸しの行程が一番怖くて、下手をすると空気が入ってしまって舌触りが台無しになってしまう。
     冷蔵庫で予め冷やしておいたガラスの器にプリンを落として、カットフルーツを飾る。今剣くんは、野苺みたいな目をしているなぁと思ったことがあるから、フランボワーズソースをかけさせていただいた。後はご要望のクリーム。たっぷり絞った器と、そうでもない器を二つ用意。膝丸くんの分にはその分少しキウイを多めに、花形に切って飾る。
     ガラス戸にぺっとりと張り付いた今剣くんの大きな瞳と、膝丸くんの綺麗な瞳が、揃ってらんらんと輝いているから、ちょっと笑った。

    「お待たせしました」

     短刀様の反応は、いつもかわいくてほっこりするなぁ。スプーンを握りしめて私の持つガラスの器に釘付けになっている今剣様の前に、静かにそうっとプリンをおいた。

    「プリン・ア・ラ・モードです」

     ぷりん、と膝丸くんが小さく復唱した。そうです、プリンです。甘い茶碗蒸しじゃないから、これを機にちゃんと覚えてくださいね。

    「ごうかですよ、薄緑!」
    「そうだな」
    「こんなにごうかなぷりんはじめてみました! きいてますか薄緑! くりいむがこんなにたくさんです!」

     両手をぶんぶん振って大喜びだ。お喜びいただいて本当に何よりです。ちょっと減らしておいたクリームに気づいたのか、膝丸くんが今剣くんに見えないように小さく手を立てた。別に気にしなくていいよ。その代わり佩緒飾りの一件はチャラにしてください。
     膝丸くんが律儀に保存していたプッチンカップには、苺のコンポートを入れてある。クリームに飽きたらこれをかけて食べてくださいね、と説明すれば、今剣くんからは元気なお返事。うんうん、元気なことは良いことだ。
     美味しいものは笑顔を運ぶし、甘いものを食べると幸せな気分になる。これでちょっとは気が紛れると良いな、と私は厨房に戻りながらそう思った。何となく、店長が、どうしてこんな辺鄙なところに洋菓子のお店を出そうとしたのか、分かるような気がする。

    「あ、職人さん」
    「はい?」
    「向こうのテーブルのお客様からも、プリン・ア・ラ・モードの注文です」
    「はいはーい」

     それから、幸せはこうして時々連鎖する。向かい合ってプリンをつつく、ガラスの向こう幸せそうなふたりを見やって、私はもう二つ、ガラスの器を取り上げた。
     
    ちびうお Link Message Mute
    2022/07/01 10:23:46

    膝丸さんと私。

    人気作品アーカイブ入り (2022/07/01)

    膝丸くんかわいいなぁ、そうだ膝さに書こうと思い立ち、実際書いてみたらさにの部分が跡形もなく消えていました。どうしてこうなったんや。
    甘いものが苦手な膝丸くんと、甘いもの専門家・お菓子屋さんの女の子の話です。
    書いてる私だけが楽しい超絶私得小説ですが、少しでもほっこりしていただけたらなと思います。


    【注意事項】
    ・夢小説です。審神者ですらないモブの女の子が主役です。
    ・オリジナル男審神者がうっすらちょこちょこ登場します。
    ・城下など、世界観の捏造設定を多分に含みます。
    ・この世のありとあらゆるものと無関係です。
    ・割と他の刀剣男士が出張ります(特に鶴丸)。
    ・製菓に関しては素人が書いています。そんなのねーよと思っても、穏やかな心で妄想と処理していただければ幸いです。
    ・今剣ちゃんが膝丸のことを「薄緑」と呼びます。
    ・何でも許せる方向けです。

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    • F-l-o-sにゃんちょぎ(予定)
      続くかも
      ちびうお
    • ほしのサーカス(鶴さに♂)とあるサーカス団のブランコ乗り鶴丸とマネージャーの男審神者。よくわからんパロディ。1日1SSで書いていたお話の倉庫です。思い付いたまま書いてるので結構いろいろ矛盾する。あと一話一話とても短い。ちびうお
    • 膝丸くんとそれから。苦手だったお菓子がいつのまにか好きになっていた膝丸くんと城下街で働いているお菓子職人の女の子のその後のお話。
      このシリーズではお久しぶりです。完結したふたりのその後の番外編となっております。投稿から四か月ほど経っている今でも、コメント・評価をいただけてとても嬉しく、幸せです。シリーズ本編と比べるとボリュームは少なめですが、感謝を込めて書かせていただきました。

      【注意事項】
      ・ただの夢小説です。審神者でもない女の子が主人公で、しかも一人称視点を含みます。
      ・オリジナル男審神者やモブたちが結構登場します。
      ・城下など、世界観の捏造設定を多分に含みます。
      ・この世のありとあらゆるものと無関係です。
      ・オリジナル男審神者とモブたちが登場します。
      ・鶴さに♂が登場します。
      ・鶴さに♂が登場します(大事なので二度)。
      ・割と他の刀剣男士も出張りますが、恋愛感情ではありません。
      ・製菓に関しては素人が書いています。本職の方にとっては、そんなのねーよな表現もあるかもしれませんが、穏やかな心でスルーいただけると嬉しいです。
      ・今剣ちゃんが膝丸のことを「薄緑」と呼びます。
      ・何でも許せる方向けです。
      ちびうお
    • 【復活】モブ・パレード沢田綱吉と彼を取り巻くイタリアンなモブたち。ほぼ沢田しか出ません。名前付きのモブがたくさん出ます。派手に萌え散らかしてます。助けてください。ちびうお
    • はなのあるまち城下町にあるとあるお花屋さんと、そのお花屋さんに引き取られた政府所属の不動くんと、お花屋さんを訪れた刀剣男士・審神者たちの間に起こるいろんなお話たち。
      優しいお話が読みたくて書いている私得シリーズです。ただし地雷セットなので、必ず【注意事項】に目を通してから、ご了承の上お読みください。

      【注意事項】
      ・主人公は審神者ではないただの女モブです。
      ・たくさんの刀さにが交錯するお話ですが、今回は乱藤四郎と男審神者のかけ算未満が関わります。
      ・名前付の審神者がたくさん出てきます。名前なしのモブも出てきます。そして全員キャラが立っています。
      ・死ネタも含みます。
      ・城下町など、捏造設定が過多です。
      ・なんでも許せる方向け。
      ちびうお
    • 【にゃんちょぎ♀】3割かわいい結婚してるにゃんちょぎ♀の日常詰め。お休みしている間のお話が思いのほか溜まっていたのでまとめました。注意事項を必ずご確認ください。

      【注意事項】
      ・にゃん×ちょぎ♀(先天性女体化)です。
      ・モブがたくさん出てきます。
      ・直接描写はないですが性的接触を匂わせる表現があります。
      ・長義ちゃんがバツイチです。
      ・なんでも許せる人向け
      ちびうお
    • 【イデnot監♀】モイラに僕らは背を向けるパソスト・イベスト全部読んでないです。プレイは6章の途中まで。ストーリー自体は動画などで部分的にですが最後まで履修済みです。
      ※捏造しかない。
      ちびうお
    • pkmnSw/Shkbn夢(予定)(掛け算はかなり薄い)、女主、捏造・キャラ設定強め、設定ゆるゆる、予定は未定、なんでも許せる人向けちびうお
    • いたいのいたいの、とんでいかなくていい痛みもある。
      小さくなった真壁一騎と静かに戸惑う皆城総士。1期中盤、乙姫ちゃん合流後の謎時空。腐要素はないですが制作者は腐ってます。
      最近ハマったクソニワカオタクなので諸々確認漏れや設定抜けなどあると思いますがお許しください。
      ちびうお
    • 6挿絵用-①ちびうお
    • レスト・イン・ピースどうか安らかにひとときの休息を。
      一騎くんと総士くんが楽園でお話ししてるだけの短いお話。左右? ないです。
      解釈違いが怖くて創作ができるか!!!!!!(※EXO13話までしか見てないのでたくさん矛盾点や解釈違いが含まれると思いますごめんなさい) 謎時空・謎設定・捏造過多です。ふわっと読んでね。
      ちびうお
    • おでかけ軍師クロルフ♂ちびうお
    • イッツ・ア・スモールワールド俺とお前とで回る世界。
      ファフナーの現パロです。戦いもなく穏やかで平和な 戦いもなく穏やかで平和な(二回目)世界でふたり暮らししてる一騎くんと総士くんの話です。一騎くん視点です。解釈違いご勘弁ください。なんでもいい人向けです。
      ちびうお
    • 鮒PSO2パロ②性懲りもなく続き。注意書は前回準拠。何でもいい人向け。ちびうお
    • 小言を言う軍師と聖王クロル腐本編終了n年後ちびうお
    • あなたは海になりなさいEXO行軍中くらい。生産ラインは腐ってますけど中身はたぶん腐ってないです。一騎くんと総士くんがおしゃべりしてるだけ。短い。ちびうお
    • ポイントカード現パロの一総一のようなもの。書けたとこまで。ちびうお
    • ヴィー・ハイセン・ジー?「あなたのお名前は?」EXO後です。操くんと一騎くんのとりとめもない会話。短い。ちびうお
    • 鮒PSO2パロ①悲しみも痛みもあってもいいけどもう少し胃に優しいファフナー世界がほしかったので軽率にパロディしました。PSO2パロだと抜かしてますが、PSO2の世界観をベースにかなり魔改造を施してます。
      世界観の説明全くないですが仕様です。粗に目をつぶれてなんでも許せる方向け。総士くんと一騎くんの左右はシュレディンガーですしくっついてすらないです。
      ちびうお
    • 鮒PSO2パロ③あのね、めっちゃ楽しい。鮒PSO2パロ続きです。独自設定・魔改造・解釈違い甚だしい世界観設定注意。いつになったら一総一要素は生えてくるんでしょう。ちびうお
    • カニクリームコロッケ某大学院医学系の博士課程な皆城とその近くの洋食屋で店主やってる真壁のあれそれちびうお
    • ぼくは『せいおう』のぐんしクロルフ♂ちびうお
    • あげくのはてクロルフ♂ちびうお
    • 鮒PSO2パロ⑥続いてます。ちびうお
    • 鮒PSO2パロ④注意書きは前と同じです。ちびうお
    • サニーサイドアップ二話ちびうお
    • 贈り物現パロちびうお
    • 鮒PSO2パロ⑤続きちびうお
    • 夜を数えるEXO前 眠れない総一ちびうお
    • ドキドキお泊まり会の話14歳総一ちびうお
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