あげくのはて クロムはルフレが、なんとなく、ずっと自分の傍にいるのだろうと思っていた。
行き倒れているところを助けた、稀有な才能を持つ不思議な青年。軍師としてクロムの傍らに立ち、時に支え、時に叱咤しあう親友であり半身。通わせた思慕の念は、エメリナの死後聖王となったクロムが結婚したことで有耶無耶になってはいるが、それでも想いに偽りはなかった。だからなんとなく、ルフレはクロムの傍にあり続けるのだと思い込んでいたのだ。
それがただの思い込みだと気づいたのは、古びた遺跡で一人の少女を保護したときだった。
ルフレのものにそっくりのローブを纏った彼女は、戦線を指揮する軍師の姿を見るなり、ルフレによく似た瞳をまんまるに見開いて、喜色を満面にして彼をこう呼んだ。
──父さん! と。
未来からやってきたという自分たちの子どもは、ルキナを含め今まで多く出逢ってきていた。だが、その中でルフレを父と仰ぐ者はいなかった。それがクロムの思い込みに拍車をかけていたのだろう。ルフレが結婚なんてするわけがない、と。
だが、ルフレは。子犬のように駆け寄りすり寄ってくるマークを懐に抱えこんだ。最近は戦術を教えたりもしているらしい。うんうん唸りながら戦術書を読むマークの頭を優しく撫でる様など、堂に入った親子っぷりで、つまりルフレはマークを自分の子どもと認めていたのだ。
そうなると次に疑問になるのはこれだった。
「誰との子どもだ?」
「……また藪から棒だね」
夜。子どもたちも寝静まった時間帯。ルフレの部屋で明日の予定やら今後の作戦やらについて簡単に話し合った後、差し出された茶を一口飲んでからクロムはすっぱりとルフレに尋ねた。そのあまりにも包み隠さない言い方にルフレの目は点になる。せめてもうちょっと遠回しに聞かないかなあそういうことは、と思ったが、そういうまっすぐなところこそがクロムの美徳だと分かっているだけに、ルフレは何も言えないまま頬をぽりぽりと掻いた。
「心当たりはあるんだろう」
「えーっと、どうしてそう思ったのかな」
「マークがお前の子どもだと言ったとき、お前は多少戸惑ったがすぐに受け入れた。心当たりがあるからじゃないのか」
「どうしたのクロム。熱でもあるのかい。珍しく鋭いじゃないか」
わざと茶化してみせるとクロムの眉間に刻まれた皺がぐっと深くなる。わあ、怖い顔。そんなんだから愛想がないと言われるんだ。やっぱりそう思ったが、愛想が良いクロムは気色が悪いとルフレはやっぱり黙っておいた。
すると、クロムは機嫌の悪さを顔に出したままぶつぶつと呟く。
「マークが現れたとき俺がどれだけ驚いたか」
「クロムがどれだけ驚いたかは分からないけど、少なくとも僕よりは驚いてないと思うな」
「好い相手が出来たという話も聞いていないし、そもそもお前は女性経験がなかったんじゃないのか?」
「……やっぱり君、もう少し婉曲表現ってのを学んだ方がいいと思うよ」
僕だからよかったものの。白けた目で指摘するルフレに、クロムは何を当たり前のことを聞くのかときょとんとした。
「お前だからだが」
「ああ、そう……」
もう何も言うまい。椅子代わりの寝台の上で足を崩したルフレに、クロムは立ち上がりその横に腰を掛けてぐっと身を乗り出した。
「やはり心当たりがあるんだな」
「近いよ、クロム。あったらどうだっていうんだい」
「俺は聞いていない」
「あのねえ、言えるわけないだろう!」
とても大の男が口にするとは思えぬ拗ねた言葉に、思わずルフレは声を荒げた。ばんばんと布団を叩くと細かな埃が舞い上がる。
「君が、僕のただの親友ならともかく……! 僕らがどういう関係だったか、まさか忘れたわけじゃないだろう!?」
「忘れるわけないだろう」
「だったら、どうしてそういうことが言えちゃうかなあ……?」
まがいなりにも元恋人だ。同性であってもルフレはクロムと唇を重ねたし体も重ねたし想いを通わせあった。そんな相手に、誰が、どの口で、新しい恋人ができましたとか、子どもがいるのも納得ですだなんて言えるだろうか。
それとも何か。ルフレはキッとクロムを睨みつける。
「祝福でもしてくれるつもりだったの」
未練に塗れた言葉だと口に出してから恥ずかしくなった。数瞬のち、失言だったと気づいて口を押さえたが、クロムはきょとんとして言葉の意味をよく理解していないように見える。鈍感で助かったとほっと息を吐いたルフレに、クロムはじわじわと唇を奇妙に歪ませた。怒った、というよりは、情けなさで。
「……身勝手な話だが、お前が結婚して子をもうけるなんて思っていなかったんだ」
「……へ?」
「先に妻を娶った身の上で本当に身勝手だと思っている。情けない話だ。だが、お前はずっと独り身で、俺の傍にいると思っていたんだ」
視線を組んだ手の上に落とし、クロムは暗い声でとつとつと語った。
身勝手、って。ルフレはクロムの言葉を反芻した。身勝手なことなどあるものか。クロムは王族の務めを全うしただけだ。エメリナという聖王の亡き後、失意に沈む民を鼓舞するには、クロムの即位だけでは足りなかった。平和になった今こそ妻を娶れ、世継ぎを作れと言ったのは他でもない自分だ。クロムは最後まで自分のことを気遣っていた。身勝手だというのなら、自分の方がよほど──
と、言いかけて、ルフレは口を閉ざした。
「お前はずっと俺を想っているものだと、勝手に思い込んでいた。正直、今もそう思っていたいと願っている。だが……、そうではないのだろうな。おかしな話だろう。俺の方から手を離しておいて、マークと話すお前を見ていると心に穴が空いたように感じる」
「クロム……」
「お前も、ルキナやあいつと共にいる俺を見て、そう感じたのかもしれない。……いや、これは俺の希望だな。そう感じていてほしかった、と」
「……流石に怒るよ」
感じたに決まっているだろう。あの時、婚儀の支度を整えたクロムを見た己が、どれだけの喪失感に苛まれたと思っているのだ。娘が生まれたと幸せそうに語る横顔に、どれだけ暗い感情が生まれて消えたと思っている。
それでもルフレはクロムの隣に立つと決めたのだ。
ぽん、と逞しい肩に手を置いて、久方ぶりに抱きしめた頭からはあの頃と同じ、落ちつくクロムの匂いがした。
「その穴はいつか埋まる、とは言えないよ。僕にももうマークがいるわけだし、遅かれ早かれ、母親についてはバレると思う。そうなると、君はやっぱりいつかの僕みたいになるのかもね」
「……ああ」
「だけど痛み分けだ。君は僕の半身なんだろう。同じ痛みを得てくれなきゃ不公平だ」
「ああ」
それでもね、とルフレは呟いた。
「僕はそれでも君の半身だ。やっぱり僕は君を愛している。別に大切なものがいくつ出来たとしても変わらない。変えないって、決めたんだ」
たとえば今ここで身を差し出したってかまわなかった。世間はそれを不貞だというのかもしれないが、大切なものが一つじゃないといけないなんて誰が決めたのだろう。
ぎゅっと背中に回った掌が薄い布地を掴んだ。思えばこうするのも随分と久しぶりだった。王城にはクロムの妻と子がいるから、どうしてもこうするのは憚られて。
「ルフレ」
「なあに、クロム」
「しばらくこうしていたい。ダメか」
「明日の朝までならいいよ。いくらでも言い訳は作ってあげるから」
その代わり、君もがんばって口裏を合わせてくれよ。見た目に反して寂しがりな強がりの彼はこくりと頭を上下させた。
しんしんと静かに夜は更ける。ごろんと二人で寝台に横になって、燭台の火をふっと吹き消した。ルフレはクロムの背中に腕を回す。クロムはルフレの肩を抱いた。あの日々と変わらぬ夜だった。背負うものはずいぶんと変わってしまって、なんとか想いも変えてみようと努力したけれど、結局徒労に終わった二人だった。だからしょうがないと思うことにした。
あの日々のように、こっそりと愛しているよと囁けば、同じようなひそひそ声で愛していると返ってくる。何も変わっちゃいなかった。何も変われちゃいなかった。
それでいいと思った。
それがいいと思った。