ポイントカード 頼まなくても食後のコーヒーが出てくることにはもう慣れたが、それに添えられていた小さなカードは見慣れなかった。名刺サイズの厚紙には『喫茶楽園ポイントカード』と洒落たフォントで書かれていて、その下には幼馴染の筆跡で僕の名前と四桁の番号、今日の日付が記されている。
「五百円以上のご注文でスタンプ一つ。二十八個溜まったらお好きなドリンクかケーキと交換、ってことにしてるんだ」
色んな説明をすっ飛ばして、シルバーのトレイを抱えた一騎はニコニコとカードを指差す。僕が「ポイント制を導入したのか」と言えば、ようやく「うん。今日な」と答えた。発行ナンバーは3746。今日導入したにしては早すぎる数字の進みは、この店の繁盛の指標ではなく、単に「俺が覚えやすかったから」らしい。その証拠に、かつてこの喫茶でアルバイトをしていた甘い声の彼女はナンバー0103なのだそうだ。なるほど、十と三で「とおみ」というわけか。
僕はふむ、と顎を擦りつつ、カードをぺらんとひっくり返す。六かける四、たす四のマスの最初に、今日の日付と肉球の小さなスタンプがひとつだけ、ぽんと捺されていた。
「ランチセットは千円だろう。スタンプは二つになるんじゃないのか?」
「いや、スタンプは一日一個までなんだ」
「……還元率という概念を知っているか?」
「何円払ってくれたかよりも、何回来てくれたかで計りたいんだよ」
聞かれると思った、と言わんばかりの困った笑顔でそう返されては僕としても言うことはない。そしてその穏やかな言葉に、店内にいた女性客たちが僅かに反応したのを視界におさめて、僕はひっそりとため息をついた。人を惹き付けている自覚が無いこの幼馴染は、自分の発言のインパクトも把握していない。これで常連がまた増えることだろう。そして客が増えれば増えるほど、この喫茶の味を背負って立つ調理師はキッチンに引っ込み、ホールに出る機会は少なくなる。少なからぬ人間をジレンマで苦しめている自覚も当然一騎にあるわけがない。耳の奥では、小悪魔だよねえという苦笑混じりの遠見の声が蘇って、僕はその幻に対して、コーヒーカップの中でまったくだと返した。
そんな多忙の調理師が、僕が店に来たときだけキッチンから出てくることに、若干の優越感は感じなくもない。
「それに」
「何だ」
「一日一回捺すカードなら、総士が何回飯抜いたかも把握しやすいしな」
名案だろう? と言わんばかりの顔だが、その理論は穴だらけだ。僕がここに来ないことがイコール食事抜きに繋がるとは限らない。たまには学食で食べたくなることもあるかもしれないだろう。「そんなことがあったのか」僕の主張は一騎の呆けたような、だが少しだけ寂しさも含んだ声に一刀両断される。
「前、一週間うちに顔を出さなかったとき、三食のうち二食はウィダーで一食はコーヒーと空気だったって剣司に聞いたから」
「あ、あれは……投稿論文の〆切前で」
「朦朧としてたからお前は知らないだろうけど、実はお前が来る少し前に剣司から電話があって、固形物は出すなって言われてたんだ」
カレーが名物な喫茶店のランチメニューがどうして玉子粥なのだろうと首を傾げていたかつての僕に伝えてやりたいが過去に遡る術はない。僕はコーヒーを飲むことで、返す言葉がないのを誤魔化した。
「そっか、そりゃそうだよな。総士だって学食行きたくなることくらいあるよな」
「……いや、なかった。なかったが今までにないということはこれから起こり得ることを否定しないだろう」
「なかったのか?」
しょげた声音から一転、きょとんとした一騎に再度言葉が詰まる。僕が過去の経験に基づいた未来予測にも確実は存在しないことを努めて論理的に説こうとしているのに、一騎は肝心な部分を飛ばして喜んだ。そういえば昔から説明文の要約が苦手だったなとありし日の夏休みを思い出す。一騎が苦手な国語のドリルを教えるのは僕だったが、僕が苦手な朝のラジオ体操で、家まで起こしに来たのは一騎だった。こうして不得意を補いあって得意を伸ばしあって生きてきたのだ。今も、一騎は僕が苦手な健康的な食生活というものを補おうとしている。若干職権を濫用しつつ。
「でも、悪いものじゃないだろ、それ」
「まあ、そうだな」
定休日以外のほぼ毎日ここに足を運ぶ僕としては、このポイントカードは間違いなく良いものだろう。特に受け取らない理由はなかった。頷いて財布のカードケースに挿せば、一騎は満足げにひとつ頷いた。ついで、「一騎せんぱあい、そろそろ戻ってきてくださあい!」と呼ぶ声に、キッチンの方を振り返る。
「呼ばれているぞ」
「……ランチのストック切れかな?」
最近お客さん増えたからなあ、と他人事のように呟いた一騎は、最後に「ちゃんと持ってこいよ」と、若干失礼な心配を残して、軽い足取りでキッチンに戻っていく。僕も空になったカップをソーサーに戻して、伝票を持って立ち上がった。