夢と現の果てに廃れた町、廃れた映画館、その近くにある浜辺。そこの流れてきた大木に、腰をかけている老人と年若い女が座っていた。潮の含む風を受けながら、二人は海を眺めていた。
「昔、若い頃に見た映画を思い出すよ」
「映画?」
「ああ。・・・・・・・・・・それは、一組の男女の話でな。一年共に穏やかに過ごす映画だった。ただただ日常を、穏やかに優しく日々を過ごすのを春夏秋冬に流れる映画だった。だが、冬の最後の時・・・・・・・・・・女性の方は、男性の元を去るんだ。心を預けてはいけないからと」
「心を預けてはいけない」
「そして、女性も心を預けたくなる、それは出来ない。してはいけない、許されないと言ってな。ここと似たような浜辺で別れる・・・・・・・・・・と言うような話だ。恋愛的な物ではなく、ただただ二人のちょっとした日常を映し出したやつだった。そして、そのラストシーンが未だに印象的で覚えてるんだ。何十年と経ってるのにな」
「・・・・・・・・・・それは、どんな最後だったんですか・・・・・・・・・・?」
「女性の姿が完全に消えた後。男性は夢を見ていたかのように辺りを見回して、最後は太陽が海に沈む所で終わる。伴奏も台詞もなく、ただただ海が静かに太陽に隠れる様をエンドロールが流れる。そんな映画だった」
「・・・・・・・・・・」
「その映画は初見だった。初めて観た映画だったのに・・・・・・・・・・僕は、ただただ胸が締め付けられた」
老人はそう言うと、自分の心臓の上に右手を当てて目を伏せた。
「まるで、僕が本当にそれを経験したように思えたんだ。映画の男女は、僕ともう一人なんだと思ったんだ・・・・・・・・・・だか、そんな筈はないのにな」
老人は乾いた笑いを浮かべながら、少ししてから立ち上がる。
「すまないね、お嬢さん。年寄りの世迷い言に付き合わせてしまって」
「いいえ、楽しかったですよ」
「なら良かった。もう、ここには娯楽と呼べるものは、全て廃れてしまったからね。・・・・・・・・・・僕も、いつまで居られるか」
「離れる予定でも?」
「いいや。ただ、僕は老い先短いからね。最後まで、ここに居たいと思うんだ」
「どうして?」
「ん?」
「どうして、ここに、そこまでこだわるのですか? 廃れてしまった寂しい場所なのに、ここに止まるのは」
「・・・・・・・・・・。お嬢さんからしたら、ここに居たところで不便しかないし、不思議に思うだろうが」
老人は座り直すと、再び海を見つめた。その瞳は凪のように穏やかに見えた。
「この海を見れなくなるのは辛いと思ったんだ。それに、この場所を離れてしまうと、もう永遠に会えないと思ったんだ。・・・・・・・・・・何に対して永遠に会えなくなるのかは分からない。だが、きっと後悔すると分かっていたから」
「・・・・・・・・・・」
「僕自身も分からない。何故、ここに止まりたいと思うのか。止まりたいと願うのかも。分からない。分からないが、後悔するのだけは分かっていた。だから、僕は決めたんだ。この命尽きるまで、ここに残ると」
「・・・・・・・・・・の?」
「?」
「アナタは、それで良いの?」
「良いとは?」
「何も思い出せないかも知れないのに? アナタは何も思い出せないまま、逝くかも知れないのに?」
老人は海から女を見た。女は何かを堪えるような表情をしていた。それと同時に、取り残される悲しみも讃えていた。
「後悔したくないと、アナタは言った。後悔しない結果になった時、アナタには何も残らないのに・・・・・・・・・・それで良いの?」
「・・・・・・・・・・」
「そんなのは、辛過ぎる」
「・・・・・・・・・・お嬢さんは優しいね・・・・・・・・・・」
俯いてしまった女の頭をしわくちゃになった手で、優しく頭に乗せ撫でた。優しく優しく小さい子をあやすように。
「僕にとって、辛いと言うことは無いんだ。自分勝手な事だけど、その忘れてしまったことを思い出せなくても」
「・・・・・・・・・・」
「ただ、覚えてなくても。思い出せなくても。・・・・・・・・・・僕はそれと、共にいたと思えるんだ。同じ時を過ごせなかったかも知れない、でも、心は何処かで繋がってる。そう想いたいんだ」
「・・・・・・・・・・」
「それこそ、若い頃に見た映画と同じだ」
「・・・・・・・・・・心を」
「預けたくなる。まさにそれだ」
女は俯いていた顔を上げると、老人は穏やかに微笑んでいた。
女が落ち着いたのを見届けて、初老の男性は帰っていた。一人残った女は、潮風を受けながら、ただ静かに海を見ていた。
「心は繋がっている・・・・・か、全く君らしいよ。あの頃から変わってない」
海を見つめながら、悲しみを浮かべて微笑んでいた。
「私は心を預けてしまった。こうなることが分かっていたのに・・・・・・・・・・私は・・・・・・・・・・」
記憶のない君は、それでも穏やかな顔をしていた。
「それでも、私は」
“心を預けたくなる”
「君に、心を預けたことを・・・・・・・・・・後悔はしない」
※ ※ ※ ※
ピッ・・・・・・・・・・ピッ・・・・・・・・・・ピッ・・・・・・・・・・
機械音が無機質な部屋に響く。一人の老人が酸素マスクを付けて、体中に管を付けられて眠っていた。
その命の灯火は、残りわずかなのが伺える。
ピッ・・・・・・・・・・ピッ・・・・・・・・・・ピッ・・・・・・・・・・
老人の傍らに、一人の女が立っていた。
「遂に、君も居なくなってしまうね」
老人のしわくちゃになった手を優しく握る。握り返される筈もなく、ただただ握るだけだった。
「ありがとう、そして・・・・・・・・・・ごめんなさい」
そう呟いた瞬間、老人はうっすらと目を開き、女を見た。女を見て、老人は嬉しそうに微笑んだ。か細い小さな声で「あぁ、また会えた」と。
「君は、あの頃から変わらないな。僕だけが年取ってしまったなぁ・・・・・・・・・・今度は僕が君を置いていってしまうね」
嬉しそうに、でも悲しそうに微笑んだ。
「ありがとう、心を預けてくれて。そして、置いてってしまってすまない」
弱々しい力で、女の手を握り替えす。女はゆっくり頭を振り、微笑んだ。
「お礼とお詫びを言うのなら、私の方。私を待っていてくれてありがとう。そして、ごめんなさい・・・・・・・・・・君を、長く永く苦しめてしまったから」
老人は忍び笑いをして、「苦しんだと思ってないさ」
「ただ、残される側と言うのは、とても悲しく寂しいものなんだなと思ったよ」
老人は真っ直ぐに女を見つめた。女も真っ直ぐに老人の目を見つめ返した。
「僕は幸せだよ。最期に君と再び会えた。それだけで・・・・・幸せさ」
老人は穏やかに笑い、そのまま目を閉じた。それから少しして、握って握られていた手から力が抜け、少しずつ暖かいぬくもりは冷えていき、繋がれていた機械から無機質な警告音が鳴り響いた。
「ありがとう、私に心を預け赦してくれた人。そして、おやすみなさい。・・・・・・・・・・良い旅路を」
頬に口付けを落とし、女は一人病室を去った。
廃れた町。廃れた映画館。それを流し見ながら、車を走らせる。ここを離れた時と同じ光景。デコボコしているアスファルトに揺られるメーター、太陽に当たってキラキラと光る海。穏やかな海。
「もう、この海を見ることも無いな」
ハンドルを握りながら、思ったよりも寂しいと思っていた事に驚き、そして苦笑。
そのまま流れるラジオの音楽に乗せて、車は走る。
一人の男と女の長い長い物語は、ひっそりと終わりを告げた。