ファーストキスの定義づけ「ファーストキスはレモン味って、どういう理屈なんだろうなぁ……」
原稿途中の若造が、虚空を見つめながら呟いた。計画性のかけらもない作家先生のロナルド君は、今日も今日とて締め切りに追われている。目の下にくっきりとできたクマと、散らばったエナドリの缶が痛々しい。果たしていつから寝ていないのか、見当もつかない。
「……なんて?」
「いや、唇がレモン味ってさ、普通に考えて意味わかんねーじゃん。なんでレモン味なの? 直前までレモン食ってたとかじゃないとそうならなくね?」
「……」
「初恋のせいで特殊な脳内物質が分泌されて、それによってレモン味って錯覚する、みたいな事?」
「……本気で言ってる?」
「は?」
「え、いや……え?」
「は?」
「え?」
部屋に沈黙がすとんと落ちる。眉間にしわを寄せたロナルド君は、瞬きもせずこちらをじっと凝視する。え? 何? まさかと思うがこの童貞ハムカツゴリラ君は、ファーストキスはレモン味って、字面通りに信じてる? キスしたら自動的にレモンの味がするって、その通りに信じてる? え、いや、いくら童貞だからってそんな事ある?
「お、面白……」
「は? 何が?」
いやいやいやいや面白い。面白いにも程があるだろ。童貞童貞とさんざん揶揄っては来たものの、まさかここまでとは。私の想像をはるかに超える童貞オブ童貞。童貞オブザイヤー受賞。あまりの事態に思わず言葉を失った私を、ロナルド君は怪訝そうな顔でじっと見た。かと思ったら、急にニヤリと馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「……お前、知らねえの?」
「な、何が?」
「ファーストキスはな、レモンの味がするんだよ」
「お、おう……?」
「まあ200年引きこもってた陰キャ非モテのガリガリ砂おじさんはそんなこと知らねえよな……?」
そう言って何故か勝ち誇った顔をするロナルド君。いやいやいや、何? 何その顔? 何具体的にどういう根拠があって勝った気になってるの? 馬鹿なのかな? まあ馬鹿なんだろうな。
「……もしかして君、キスしたことないの?」
「……は? あるが?」
すると露骨に視線をさ迷わせる童貞ルド君。いや嘘つくの下手下手下手!
「いやでも、彼女いたことないって、」
「あるし! 一時間!」
「それはあるって言わないんだよなぁ……」
だんだん不憫に思えてきた。20代前半、顔も性格も悪くない。(頭は悪い)それなのに浮いた話の一つもなく、ファーストキスはレモン味だと頑なに信じている。何? 前世でどれだけの罪を犯したらそんなになるの?
「……あのね、レモン味、しないから」
「……は?」
「あれイメージの話だから。実際にレモンの味がするわけじゃないから」
「は?」
「いや、だからね、」
「お前、キスしたことあんの?」
「そりゃ、あるよ。いくつだと思ってるんだ……」
再び部屋に沈黙が落ちた。え、何何何で急に黙り込むの? と思ってロナルド君を見ると、何故か滅茶苦茶怖い顔をしている。ど、瞳孔が開いている……? 何何何それどういう感情……?
「誰と」
「誰って、」
「誰と何処でいつ何時何分何秒地球が何回まわった時?」
「小学生か?」
「答えろよ! 誰としたんだよ!」
そう言ってにじり寄ってくるロナルド君。気迫がすごい圧がすごい。まってまってまってだからそれどういう感情? それ聞いて何をどうしたいの?
「いや、君の知らない人だよ」
「何? どこ住み? 何者?」
「出会い厨なの? 何者って……人間だよ。もう何十年も前に亡くなったけど」
そう言うと、ロナルド君はぐっと押し黙った。かと思うと。「じゃあ二重には殺せねえじゃん……」などと不穏な事を言い出した。何何何何怖い怖い怖い。
「……お前、そいつのこと、好きだったのか?」
急に思いつめたような顔でそう言いだしたロナルド君。いやだからどんな感情なの? 感情の起伏激しすぎない? 情緒不安定なの大丈夫?
「好きだったって言うか、なんかノリで……?」
「ノリ……?」
「うん。ゲームで負けた人がキスするみたいな奴で、だからノリで……」
「ずるい……」
「ずるい……?」
「それがお前のファーストキスなの……?」
「いや、まあ、うん、そうだね。そうなるけど」
「レモンの味しなかった……?」
「しなかったね……」
そう言うと、ぐっと黙り込んだロナルド君。じっと床を見つめながら何か考え込んでいるようで、怖い。何を考えているのかがわからなくて怖い。どうせろくなことじゃない。
「……ロナルド君?」
「ちょっと待ってろ」
言うが早いか、ロナルド君は居住スペースに消えた。かと思ったら、口をもごもごさせながらすぐ戻ってきた。
「……何?」
するとロナルド君は、無言でこちらを手招きした。何をされるのか全く分からなくて怖い怖い。が、それより好奇心が勝ってしまっておそるおそる近づく。と、急に大きな手が私の頬に触れた。かと思ったら、凄い勢いで唇が降ってきた。
「ちょっ……んッ、え?」
分厚い舌が開けろ開けろと唇をなぞる。圧に負けて唇を開くと、厚くて熱い舌と、硬くて甘い何かが口内に滑り込んできた。え、何、これ、飴……?
ロナルド君の舌が、私の舌を絡め取る。舌と舌の間には、レモン味の飴。口と口をぴったり合わせて、ぬらぬらと一つの飴を舐めしゃぶっているこの状態に、脳の処理が追い付かない。何何何何何これどういう状況? 何? レモン味レモン味レモン味!
飴が唾液で溶けて小さくなった頃、やっとロナルド君が口を離した。ぷはあと肺に酸素を送り込む。死ぬかと思った。……あれ? 死ななかったな、そういえば……。
ロナルド君は小さくなった飴をがりりと噛むと、息も絶え絶えの私に向かって、勝ち誇ったような顔で言った。
「レモン味だったろ? ファーストキス」
「は? いやだからファーストキスじゃ……」
「お前のそれは、ノーカンだから」
「は……?」
「さっき言ってたのは、ゲームのノリだろ? これは、そういうのじゃないから」
「え、」
「ファーストキスってのはなぁ! 甘酸っぱい物なんだよ!」
「何何何何何?」
「恋愛の甘酸っぱさなんだよ!!」
「えっ、何? 何何何?」
突然クソでかボイスで高らかに宣言するロナルド君。何何何何だから何? さっきから何なんなのどういう感情なの? 処理し切れない情報量に、脳がキャパオーバーを起こす。するとロナルド君は、酷く真剣な目で私の目を見て言った。
「お前のファーストキス、これだから」
「え」
「これは、ちゃんと、ファーストキスだから!」
そう言うロナルド君の顔はトマトみたいに真っ赤で、目はちょっと涙で潤んでいた。そこで私はようやく理解した。さっきから向けられていた謎の激重感情。何なのかわからなかった激重感情。そうか、そうか、君は私のことが――
「……ロナルド君、わたしのこと、好きなの?」
するとロナルド君は今にも泣きだしそうな、酷く悔しそうな顔で、だまって首を縦に振った。ああ、なるほど、そうだったのか。悪いことをしたな……なんて私は思わない。よーしこれから、この若造で遊び倒してやるぞ! と私は心の中で決意した。