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    忘却滅却できないメモリー「おかえりロナルド君。遅かったな」

     事務所の扉を開けて、真っ先に視界に飛び込んで来たのは一人の吸血鬼。青白い肌。やせ細ってひょろりと長い体躯。そして男。紛うことなき男。俺の好みと真逆のこの「男」が、恋人だと言う。誰の? 俺の。
    そう、この俺の恋人が、おそらく人生初(厳密に言えば二人目)の恋人が、目の前にいるこの吸血鬼だと言う。

    「ウッソだろォ⁉」

     俺は膝から崩れ落ちると、うずくまっておいおい泣いた。どういう事だよ俺。昨日までの俺! 何がどうしてこんなガリガリおじさんを恋人にしたんだよ!
     選択肢が他になかった? そんなにモテなかったのか俺? 早まるなよ俺! 昨日までの俺、俺、俺!

    「……ロナルド君?」

     するとそんな俺を見て、吸血鬼が怪訝そうな声を出す。いつの間にかすぐ傍に来ていて、何事かと俺をじっと見下ろしていた。
     見上げる。目が合う。瞬間、心臓が跳ねた。

    「おっ……俺、お前の事、好きだわ……」
    「いや知ってるが……」

     口からぽろりと漏れ出た本音に、吸血鬼は困惑気味にそう宣った。
     いや知ってるって何だよ! さも当然みたいに言うなよ! この俺が、年上で胸の大きな柔らかいお姉さんが大好きなはずのこの俺が、お前みたいなガリガリおじさんに好きって言ってるんだぞ? ありがたがれとは言わんがもうちょっと驚くなり何なりしろよ……!
     と反射的にそう思ったが、それが無理なのは分かっている。おかしいのが俺の方だと言う事も理解している。けど頭でわかっても心がゴネることってあるだろ? 平成のバンドマンもそう言っていた。

    「ロナルド君? どうした、体調でも……」

     言いながら、吸血鬼が俺の頬にそっと触れた。瞬間、全身の血液がぐらぐらと沸き始める。殴られたみたいに脳が揺れる。全神経が目の前の吸血鬼に集中する。何だこの感覚は? 何なんだこの感情は?
     好みと真逆のはずの吸血鬼は、小さな赤い瞳で俺をじっと見つめる。吸い込まれそうだ、なんて、そんな安い恋愛小説みたいな台詞。心臓を鷲掴みにされたみたいだ。世界が止まったみたいだ。この世界には、俺とお前しか居なくて、俺たちのためだけに世界が在るみたいだ、なんて。

    「顔が熱いな。熱でもあるのか……?」

     そう言って、吸血鬼はひやりと冷たい額を俺の額にこつんと付けた。刹那、俺の中の何かがどかんと音を立てて爆発し、気づけば拳が空を切っていた。そして塵となって弾け飛ぶ吸血鬼。

    「ブエー! いきなり何するんだ!」
    「うううううるせぇー! 近ぇんだよこのクソ吸血鬼が!」

     心臓がどくんどくんとうるさい。はあはあと息が上がる上がる。吹っ飛んだ吸血鬼はさらさらと再生すると、困惑の色を瞳に浮かべ、遠巻きに俺を見つめた。

    「なんなんだ、一体……」

    ***

    「記憶喪失?」
    「ああ、一過性ではあるみたいなんだが……」

     そう言って眉間を押さえるのはショットさん。退治中に催眠にかかったロナルド君が心配で、様子を見に来てくれたらしい。聞けばロナルド君は、おポンチ吸血鬼の催眠のせいで一時的に記憶喪失になっていると言う。それも何故か――

    「私の事だけ?」
    「そう、他の事は全部覚えてる。でもお前の事だけ記憶から抜け落ちてるみたいで……」
    「……なんで?」
    「一番好きな相手の事だけ忘れるっていう、そういう催眠らしい……」
    「…………なんで?」
    「その方がドラマチックだかららしい」

     なーにがドラマチックだおポンチ吸血鬼が! でもまあわからないでもない。まるっと全部忘れられちゃうと、なんというかこう、物語に締まりが無くなるもんね知らないけど。好きな相手の事だけって方が、焦点が絞られる感じがあるもんね知らないけど。

    「困惑するといけないから、二人がそういう関係であることは一応言っておいたんだが……無意味だったみたいだな」

     右隣りにいるロナルド君をちらりと見て、ショットさんが言った。いつもなら当然のように私の隣に来るロナルド君。それが今日はショットさんの隣に座って、両目に警戒の色を宿してちらちらとこちらを見てくる。正直あまり、良い気はしない。

    「……で、いつ治るの?」
    「三日もすれば……って話だったが」
    「三日、三日かぁ……」

     この状態のロナルド君と、三日間。触れると怒る、私の恋人ではないロナルド君。付き合い始めて早四年。想いを形にすることに、ようやっと慣れて来た矢先にこれである。今の彼は、キスはおろか抱き締めることすら敵わない。それはちょっと、寂しいのだけれど――

    「……大丈夫か?」
    「いや、うん。大丈夫。逆に」
    「逆に?」
    「いやこっちの話。私たちなら大丈夫。心配かけて悪かったね」
    「ああ……じゃあ俺はギルドに戻るから、何かあったら言えよ」
    「ショ、ショット……? 帰るのか……?」

     縋るような目つきで、ロナルド君がショットさんを見る。なんだ私と二人きりがそんなに不満か?
    「まだ仕事があるから」とため息交じりに言うショットさん。「じゃあ俺も行く」と食い下がるロナルド君。いやだから私と二人きりがそんなに不満か? ええ?

    「マスターが今日はもう休めってさ」
    「いやでも……」
    「でもじゃねえよ。それに、あんまり恋人を不安にさせるもんじゃないぜ?」
     そう決め台詞を放つと、ショットさんは颯爽と出て行った。
    「……」
    「……」

     あとに残された私たちは、なんとなく沈黙する。

    「……恋人?」
    「そう」
    「俺とお前が?」
    「だからそう言っている」
    「……なんで?」

     泣きそうな顔で私を見つめる五歳児。今の彼は、キスはおろか抱き締めることすら敵わない。それはとても寂しい……と思っていたのだが、逆に、逆にだ。逆にちょっとこれは、面白いかもしれない。

    「おい、なんとか言えよ……!」

     せっかくなのでこの三日間、恋人じゃないロナルド君で遊び倒してやる! と私は心に決めた。

    ***

    「聞きたい事が山のようにあるんだが……」
    「どうぞ」
    「……お名前は?」
    「真祖にして無敵の吸血鬼、ドラルクだ」
    「……お歳は?」
    「二百と十だね」
    「……マジで付き合ってんの?」
    「もう四年になるね」
    「うっ……その、どちらからとかって」
    「君から」
    「マ?」
    「ま」
    「……その、なんで……?」
    「それはその時の君にしか分からないんじゃないのかね」
    「ぐっ……その、どういうシチュエーションで」
    「なんだったかなぁ……そう、私に見合い話が来てね」
    「見合い話」
    「その場ですぐ断ったんだが、君はそうと知らずに暴走してね。私を押し倒して、『お前が好きだ。だから出て行かないでくれ』なんて」
    「そそそそそそんな事俺が言ったのか?」
    「言った」
    「ばばばばばばばかじゃねーからな俺は! 騙されねーぞ!」
    「言ったよねぇ、ジョン」
    「ヌー」

     俺の恋人だと言うこの男は、瞳に愉悦の色を映してにやにやと喋る喋る。記憶にない。何一つとして記憶にない。けれど吸血鬼はまるで見てきたかのように俺の痴態を語る語る。いや実際に見ているらしいのだが信用ができない。けれどジョンは、吸血鬼の言うこと全てを肯定し、責める様に俺を見る。

    「ていうか君、ジョンの事は覚えてるんだ」
    「当たり前だろ! なージョン。俺がジョンのこと忘れる訳ないもんな」
    「ヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌ、ヌヌヌヌヌヌ?」
    「なんて?」
    「ドラルクさまのことは忘れたのに? って」
    「ぐっ……」

     侮蔑と憐れみを込めた視線でジョンが俺をぐさりと突き刺す。致命傷。息が出来ない。俺をそんな目で見ないで欲しい。

    「ヌイヌ―!」
    「なんて?」
    「サイテー」
    「ぐっ……」

     言うな言うなわかってる! 客観的事実に基づいて言えば確かに俺は最低だ。四年も付き合った恋人の事を忘れ、その恋人の事を疑い、あまつさえ心無い言葉をかけている。けれど俺の気持ちも汲んで欲しい。だって家に帰ったら知らない男がいて、好みにかすりもしない容姿のそいつが俺の恋人だって言うんだぞ? 
     抱き締めたら折れてしまいそうな、華奢な身体。庇護欲を掻き立てられる青白い肌。よく見るときめ細やかで、触り心地がよさそうだ。ピンと尖った耳は吸血鬼然としているのにどこか可愛らしく、髪は艶やかで美しい漆黒。小さな瞳は赤く、地に咲くリコリスのようで――

    「いや俺お前のことめっちゃ好きなんじゃん……!」
    「なんだ今更だな」
    「うるせー! ……おかしい、どう考えたっておかしい。だって男だぞ? こんなガリガリで、俺の好みにかすりもしないお前を、俺が、好き……?」
    「恋は目で見るものではなく、心でするものだってシェイクスピアも言っている」
    「うるせーっつってんだろ! そうだチャーム! チャームだろ? クソ雑魚のお前だって一応吸血鬼だもんな。催眠の一つや二つ……」
    「できないよ。ねえジョン」
    「ヌー」
    「マ?」
    「ま」
    「真祖にして無敵の癖にチャーム一つできねえの?」
    「うるさいな! 私は他の分野で無敵なんだ!」
    「他の分野って?」
    「ゲームとか」
    「……」
    「……」
    「……」
    「おい黙るな」
    「何で俺、お前の事好きなの?」
    「知らんわ! 自分の心に聞け!」

     心ってどこにあるの? 脳みそに聞いてみるも記憶がないので答えなど出ようはずもない。心臓に聞いてみるもとくんとくん好きだ好きだと鳴らすばかりで理由など知る由もない。熟考、熟考、困惑、困惑。するとそんな俺を見かねた吸血鬼が、ため息交じりにこう言った。

    「……別れる?」
    「えっ」
    「だって嫌なんだろ?」

     そうだ、別れればいいんだ。天啓天啓妙案妙案! どうせこの催眠は三日もすれば解けるんだから、後のことは三日後の俺が何とかすればいい。ちゃんとこの吸血鬼の「恋人」である俺が、後はなんとかしてくれる筈だ。
     すぐにでも飛びつきたいはずのその提案。しかし何故だか、言葉が出なかった。

    「……ロナルド君?」

     何をためらう事があるのか。確かに俺とこいつは恋人同士だったのかもしれない。しかし記憶がないのだから仕方がない。こいつのどういう所が好きなのか、何故好きになったのか、この四年間どうやって過ごしてきたのか、その一切の記憶がない。
     けれど身体が、心が覚えている。こいつが視界に入るだけで気分が明るくなるし、こいつに触れられた箇所はじんわりと熱を持つ。どうやら俺は、本気でこいつに惚れていたらしい。けれど記憶がない。記憶がないから、混乱する一方だ。
     好きだ。何故? わからない。不快だ。気持ち悪い。男同士だぞ。俺は退治人でこいつは吸血鬼で、でも好き。好きだ。ずっと傍にいて欲しい。俺以外と話さないで欲しい。何故? わからない。でも好きだ。不快だ。俺に近づくな。いや離れないで欲しい。俺はどうしたい? わからない、わからない、わからない――!

    「ロナルド君ってば!」
    「あ……?」

     気が付くと、吸血鬼が心配そうに俺を見つめていた。

    「……いじわるを言ったね。すまなかった」

     そう言って目を伏せる吸血鬼は、やけに悲しそうで、

    「暫く実家に帰ることにするよ。君もその方がいいだろう」
    「ヌヌヌヌヌヌ!」
    「いいんだ」
    「ヌヌ!」
    「わかるだろ! 私だって辛いんだ……!」
    「ヌヌヌヌヌヌ……」

     吸血鬼とジョンが、何やら喋っている。その内容はいまいちわからない。けれど吸血鬼が、酷く傷ついていると言うことだけはわかる。

    「すまなかったね、じゃあ私は出て行くから……」
    「待てよ」

     吸血鬼の細い腕を、思わず掴んだ。同じ成人男性のそれとは思えないほどの、細い腕。ひやりと冷たい体温は、何故か俺の手によく馴染んだ。

    「……その、悪かったよ」
    「……」
    「俺、お前の事忘れちまったけど、お前の事好きだって事は忘れてないみたいで……」
    「……」
    「……だから、その、お前の事、教えてくれよ……!」

     情けないことに言葉尻はしおしおと小さくなる。吸血鬼はこちらを見もしない。ジョンも何も言わない。部屋に沈黙が満ち満ちる。と、吸血鬼が小さく笑った。

    「んふ、」
    「……おい?」
    「ふは、あはは! ひひ、いや、もう、ほんとに、きみってば!」

     瞬間、声を上げて笑い始めた吸血鬼。さっきまでのしおらしさは何処へやら。腹を抱えてけらけらけらけらと笑い続ける。

    「おい、何だよ! 何が面白いんだよ!」
    「いや、だって、かわいい、ロナルド君はかわいいねぇ!」
    「うるせー! 黙っとけ!」
    「ヒ―!」

     思わず手が出た。クソ雑魚吸血鬼はあっという間に塵と化したが、それでもまだまだ笑い続ける。

    「かわいい、かわいいね!」
    「黙れっつってんだろ!」

     けらけらと笑い続ける吸血鬼に顔が熱くなる。何で俺、こんな奴のこと好きになったんだ? 思い出そうにも思い出せない。だって記憶がないのだから!

    ***

     好きなら好きって素直に言えよと教育し続け早四年。ほんとに好きなら言動で示せ。殺すな。照れ隠しで殺すな愛を囁けと教育し続け苦節四年。手を繋いだりキスをしたり、所謂恋人らしいことにもようやっと慣れて来た、矢先にこれである。

    「じゃあちょっと出かけてくるけど……いってらっしゃいのキスは?」
    「ウワー! 寝言は寝て言え!」

     この惨状である。いつもは自分からキスを強請ってくる癖に、今のロナルド君はこちらが近づこうものなら爆速で拳を飛ばしてくる。正直滅茶苦茶面白い。出会ったばかりの頃を思い出して変にワクワクしてしまう。

    「まったくもう……君が言い出したことだろ?」
    「は? 俺が? 何?」

     顔を真っ赤にしたロナルド君が、私から一定の距離を取りつつ言う。

    「いや、いってらっしゃいのキスとか、おかえりのキスとか」
    「は?」
    「君がしたいって言い出したんだが……」
    「は?」
    「日本語って知ってる?」
    「殺すわ」
    「ブエ―! ふざけんなよ自分が言い出した事だろ!」
    「おおおおおお俺が⁉ いってらっしゃいのキスしようって⁉」

     そう、ロナルド君から言い出したのだ。付き合い立ての頃は、照れ隠しに私を殺しまくっていたロナルド君。そんな彼だがここ最近じゃすっかり私にべたべたになって、暇さえあれば触れて来る。暇さえあればキスをねだって来る。

    「私が恋人だってこと実感したいからとかなんとかって……」
    「いや、言う? 俺そんなこと、言う? そんなキャラじゃなくね?」
    「それは私もそう思う……」
    「なんだよ! この四年に何があったんだよ!」
    「何ってそりゃ……ねえ?」
    「ヌー」
    「なんだよ! 俺にだけわかんない会話するなよ! 泣くぞ!」
    「で、キスするの? しないの?」
    「うぐっ……」

     悔し気に目に涙を溜めて黙り込んでしまったロナルド君。あーこの感じ、付き合ったばかりの頃のこの感じ、本当に懐かしくて面白い。うん、面白い。面白い筈なんだけれど――

    「ど、どうしてもしなきゃダメ?」
    「発言には責任を持ちたまえ」
    「うぐぐっ……」

     揶揄えばその分リアクションが返ってくる。だから面白い。面白い筈なんだが――

    「ヌー!」
    「ほらジョンもこう言ってるぞ!」
    「ヌヌヌヌヌン、ヌイヌ―!」
    「なんて?」
    「ロナルド君、サイテー!」
    「ウワーごめんなさい!」
    「ジョンじゃなく私に謝れや!」
    「うるせー! すみませんでしたー!」

     そう言いつつもロナルド君は私から一定の距離を取り続ける。別にとって食う訳じゃなし、何をそんなに警戒することがあるんだか。

    「……で、するの、しないの?」
    「……うぐ」
    「あのさ、昨日も言ったけど一旦別れても」
    「それは嫌だ!」
    「嫌なんだ……」

     何を考えているのかさっぱりわからない。指先でちょいちょいとおいでおいでをすると、ロナルド君は野良猫みたいに恐る恐る近づいてきた。ちょっと面白い。

    「ほら、キスして」
    「うッ……」
    「別れたくないんでしょ?」
    「わ、別れたくない……!」
    「じゃあキスして。頬でいいから」
    「う、お、あッ……」

     顔を真っ赤にしてゴリラ語で喋るゴリルド君。付き合い立ての頃を思い出してちょっと懐かしい。そういえば手を握るのにも一ヶ月かかったっけ。
     いまだ日本語が喋れないロナルド君の手をとって、こちらに引き寄せる。

    「ほら、するの? しないの?」

     するとロナルド君は魚みたいに口をぱくぱくさせて、消え入りそうな声で「目をつぶってください……」なんて言った。たかが頬へのキスで? あーやっぱり骨の髄まで童貞だなぁ。
     なんて思いながら目を閉じる。すると暫くの間の後に、頬に温かい感触がした。乾いた、温かいロナルド君の唇。ほんの数時間ぶりなのに、凄く久しぶりに覚えるのは何故だろう。

    「……」
    「……」

     部屋に沈黙が落ちる落ちる。恐る恐る目を開けると、ロナルド君は今にも泣き出しそうな目で私を見つめていた。

    「……まあ、童貞にしては上出来じゃない?」
    「う、うるせー馬鹿!」

     反射的に飛んできた拳で塵と化す。あーやっぱり、揶揄いがいがあって面白い!

    「恋人は無暗矢鱈と殺すものじゃないと思うんだがね……?」

     耳元でそう囁いてやると、ロナルド君はまた顔を真っ赤にさせて私をぶん殴った。あーうん、面白い、君はちゃんと面白い!

    ***

    「えっちなお姉さんじゃん……」

     俺にいってらっしゃいのキスを強いてから、吸血鬼は買い物に出かけて行った。晩飯を作ってくれるらしい。何が食べたい? と聞かれたので唐揚げと答えたら、じゃあ材料買ってくるけど、いってらっしゃいのキスは? となって先程の展開である。

    「……何?」

     なになになになになになに? どういうこと? 俺とあの吸血鬼が、恋人同士。それはもういい。諦めた理解した。しかしいってらっしゃいのキスって何? 新婚か? 新婚なのか? 付き合って四年だろそんな事する? しかも俺からねだったって?

    「そんなことあるぅ……⁉」

     なんなんだどういう事なんだこの四年の間に何があったんだ。しかし聞いても「どうせ信じないだろ」と答えてくれない。ジョンもあきれ顔でため息を吐くばかり。

    「どうしろって言うんだよ……」

     唇にまだ、あの感触が残っている。ひやりと冷たくて、滑らかな肌。嫌じゃなかった。吸血鬼なのに。同性なのに。好みじゃないのに。嫌じゃなかった。全く嫌じゃなかった。それどころか、

    「なんで俺、こんな……」

     心臓が存在を主張する。胸が苦しい。身体の奥から温かい何かが湧き出て来る。満たされている、と感じてしまった。何で? 誰に? ――答えなんか、わかりきっていた。


    「ただいま~! おかえりのキスは? ってうわ、タバコ吸ってる」
    「……悪いかよ」
    「いや別に? ジョーン、ご飯の支度手伝ってくれる?」
    「ヌー!」

     買い物から帰って来るや否や、吸血鬼はジョンと共にキッチンに入っていった。勝手知ったる様子で、晩飯の準備を始める。ああ、こいつは本当にここに住んでいるんだなと今更ながら実感した。
     煙を吐き出しながら、ぼんやりと考える。この四年間の、記憶がない。ショット曰く、俺が忘れているのはドラルクと言うあの吸血鬼の事だけらしいのだが、四年分の記憶全てが曖昧だ。なんとなく思い出すことはできる。けれど全てに穴が開いているというか、何かが足りないというか、きっとその足りない部分があの吸血鬼との記憶なのだろう。しかしその数があまりにも多い。思い出せないことが、朧気な記憶が多すぎる。それは、それだけ俺とあの吸血鬼が一緒にいたと言うことで、それは、それだけ俺にとってあの吸血鬼が、重要な存在と言うことで。

    「……ロナルド君? ご飯出来たよ」

     声をかけられてハッとする。いつの間にか短くなっていた煙草を灰皿に押し付け、呼ばれるままにダイニングの椅子に腰かけた。

    「……なんだ、これ」
    「何って、唐揚げ。君が食べたいって言ったんだろ?」

     目の前には、家庭が広がっていた。家庭、家庭だ。家族で食べる晩飯だ。俺の記憶にある、レトルトのカレーやコンビニ弁当とは違う、温かい血の通った飯。それが今、目の前に夢のように展開されていた。

    「……お前が作ったの?」
    「他に誰がいるんだ? 私とジョンでだよ」
    「……食べていいの?」

     思わずそう聞くと、吸血鬼は一瞬目を丸くして、そして声を上げて笑い始めた。

    「もちろん! 君の為に作ったんだ!」

     この吸血鬼は、よく笑う。何がそんなに面白いんだか、今の俺にはよくわからない。けれど笑っているこいつを見るのは、嫌じゃない、気がする。
     黙って箸に手を伸ばす。すると吸血鬼が咎めるように言った。

    「こら、先に言う事があるだろ?」
    「……なに?」
    「いただきますは?」
    「あ……い、いただきます……」

     小さな声でそう言うと、吸血鬼は満足そうに「どうぞ」と笑った。


     吸血鬼の作った飯は、それはもう美味かった。「あーんしてあげようか?」なんてえっちなお姉さんムーブをかましてくるから五回くらい殺したが、それを差し引いても美味かった。胃袋を掴まれた、という奴なのだろうか。俺があいつに惚れた理由。今の所それしか思い当たらない。いやだとしたらチョロ過ぎないか俺? 同居しているガリガリ砂おじさんがたまたま料理上手だったから惚れた? そんな事ある? けれど考えても考えてもわからない。わからない事ばかりだ。
     吸血鬼は、俺に何度もキスをねだった。いってらっしゃいのキス。おかえりのキス。ありがとうのキス。おやすみのキス。最初の一回は流されてやってしまったが、以降は全て拒否している。
     あいつに触れた箇所が、どうしようもなく熱を持つ。もっと、もっとと貪欲になる。おかしい。あいつは男だぞ。俺も男であいつも、でも、もっと欲しい。もっとしたい。何を? もっと何をしたいんだ? わからない。これまで感じたことのない欲を覚えた。あいつに、もっと、俺は――何がしたい?
    どうにかなってしまいそうだった。記憶喪失なんて、全部冗談なんじゃ? 俺はあの吸血鬼に騙されているだけなのでは? あいつはよく笑う。人を揶揄ってけらけらとよく笑う。だからどれが本当でどれが嘘かなんて、今の俺にわかる筈がなかった。全部冗談だと思う方が、遥かに楽だった。

    ***

     翌日。ロナルド君が記憶喪失になって二日目の夜。彼は真っ白な原稿を前に頭を抱えていた。

    「調子はどうだね、作家先生」
    「うるせーな」

     締め切り前日のロナ戦の原稿。この四年間で、ロナ戦は私とロナルド君がコンビを組んで戦う、所謂バディ物に路線変更した。私との記憶がない彼に続きなど書ける筈もなく、ロナルド君はずっと原稿の前でうーうー唸っている。

    「フクマさんに相談したら?」
    「……迷惑かけらんねーだろ」

     それ君が言う? と思ったが本気で追い詰められているみたいなので触れない事にする。事情が事情なのだから、いくらあのフクマさんだからと言って無理に書けとはいわない筈だ。それなのに君は、律儀にずっと悩んでいる。不器用だなぁと思う。まあそんな所も、好きなんだけれど。

    「よしよし、頑張っててえら――」

     いつもの癖だった。君は頭を撫でてやると、子ども扱いするななんて言いながらも照れたように笑う。その顔が好きだった。だから深い意味なんてなくて、いつもの癖、だったんだけれど――

    「やめッ――」

     ロナルド君は、私の手を叩いた。反射的に。きっと深い意味なんてないんだろう。それに彼は今記憶喪失で、私の事を覚えていなくて、彼にとって私は、恋人でも何でもないただの同居人で――

    「あ、ご、ごめ……」

     慌てたように、ロナルド君が言う。自分が今どんな顔をしているのか、私にはわからなかった。

    「……そんなに嫌?」

     思わずぽつりとそう漏らすと、ロナルド君はハッとしたようにこちらを見て、首をぶんぶん横に振った。

    「ちが、ちがくて、これはその」
    「はあ……もういいよ……」

     揶揄い倒してやるぞ、と意気込んでいたのも束の間。記憶喪失のロナルド君は、思っていた以上に面白くない。いや、揶揄えば揶揄っただけ反応はしてくれるから、それ自体は面白い。けれどなんというか、私の事を覚えていないロナルド君は、つまらなかった。

    「待てよ、待てって!」

     黙って玄関に向かおうとすると、ロナルド君の大きな手が私の手首をぎゅっと掴んだ。

    「……別れたらいいだろ」

    思わず漏れ出た低い声に、ロナルド君がびくりと震えた。あと一日。たったのあと一日だ。明日になれば、催眠は解けて元通り。君はまた、私の恋人に戻る。私の大好きだった君に戻る。それにロナルド君だって、こんなガリガリ吸血鬼の恋人だなんて、嫌な筈だ。そうだ、最初から嫌だったのかもしれない。だからこんな、ご都合吸血鬼の、ご都合催眠にかかって――

    「……い、いやだ」

     けれどロナルド君は、私を離そうとしなかった。

    「なんで。私の事覚えてないんだろ?」
    「それはそう、なんだけど、でも俺……!」

     縋るような目つきで君が言う。でも、何? けれどいくら待っても、その先の言葉は出てこなかった。私はそっとロナルド君の手を振り払うと、事務所を出た。

    ***
     吸血鬼のいない事務所は、酷く静かだ。
     元々、この事務所には俺しか住んでいなかった。静かなのが当たり前だった。だからあいつが出て行った今の事務所は、元通りで、あるべき姿で――あるべき姿の筈なのに。
     酷く寂しいと思ってしまう。喪失感。俺はあいつの事を何も覚えていない筈なのに、何故こんなにも「失った」という感覚が強いのだろう。

    「はあ……」

     のろのろと事務机に戻る。追いかけようかとも思った。けれど今の俺に、かける言葉も出なかった俺に、出来ることなど何もない。振り払ってしまった。あいつの手を。怖かった。あいつに触れられて、また心がどうしようもなく締め付けられるのが。怖かった。あいつの体温が。あいつの目が。あいつの声が。
     食事中、あいつは俺の向かいに座って、黙々と食べる俺をじっと見る。何が面白いんだか、目を細めて、楽しそうに、満足そうに、慈しむみたいに俺を見る。「何見てんだよ」と言うと、あいつは誤魔化すみたいに笑って「いっぱい食べて大きくなれよ」なんて言う。それがなんだか、ムカついて、イライラして、でもなんだか、心臓がぎゅっとなって。
     冗談なんかじゃないって、わかっていた。あいつは本当に、俺の恋人だったんだ。けれど記憶がない。記憶がないのだから、仕方ない。そう自分に言い聞かせた。

    「どうしろって言うんだよ……」

     記憶は消えても、あいつを好きな気持ちは消えていない。そうだ。認める。俺はあいつが好きだ。どうしようもなく好きだ。けれど記憶がないのに、何故好きなのかもわからないままあいつに触れるなんて、あいつを追いかけるなんて、そんな不義理なこと――
     明日になったら、あいつと恋人の「ロナルド」が戻ってくる。だから後の事は明日の俺に任せて、今の俺は――そうだ原稿。原稿をしないと。

     事務用の椅子に腰かけ、再び原稿と向き合う。ほとんどが白い書きかけの原稿。俺と吸血鬼ドラルクが、吸血鬼死の舞踏と対峙した所まで書いてあった。

    「続き、続き……」

     思いつく訳がない。だって記憶がないのだから。しかし締め切りは翌日に迫っている。
     ふと立ち上がって、本棚にあるロナ戦の二巻を手に取った。覚えがあるのは一巻まで。そう言えば、俺はあいつと出会ってからどういう話を書いたのだろう。
     二巻の途中から、あいつは登場する。吸血鬼ドラルク。真祖にして無敵と言う肩書の割に弱くすぐ死ぬ吸血鬼。なんやかんやあって、俺はあいつの城を爆破して、あいつは俺の元に転がり込む。それが全ての始まりらしい。そこから俺たちはコンビを組んで、共に悪しき吸血鬼を倒す……と言うのが二巻の大まかな内容だ。わかりやすい冒険小説で、まあ一巻と概ね方向性は一緒だった。
     しかし三巻からはがらりと変わった。それまでとは打って変わって、吸血鬼ドラルクとの日々の生活が話の中心となってくる。中でも料理の描写には気合が入っていて、今日の晩飯は何だったとか、おやつは何だったとか、そういった事ばかりが嬉々として書かれている。
    ロナルドウォー「戦記」じゃなかったのかこの本は? 偶に思い出したように戦闘描写も入るが、日常のシーンの方が明らかに筆が乗っている。なにがしたいんだ俺は。何が書きたかったんだ俺は。わからない事ばかりだ。
     一巻二巻は冒険小説。三巻はエッセイ。そして四巻は、恋愛小説だった。
    そこにいたのは、今と全く同じ俺。吸血鬼ドラルクの一挙一動が気になって、病気でもないのに心臓が痛くて痛くて、あいつが欲しくてたまらない俺。欲しい、けれど具体的に何をどうしたいかは分からなくて、感情に名前も付けられなくて、理由もわからないままただ苦しんでいる俺がいた。

     ――チャームが使えないだなんて、絶対に嘘だ。ここ最近、あいつと目が合うと心臓がどきりと跳ねる。気づけばあいつを目で追っている。何処にいるのか何をしているのかが気になって気になって。心臓が、痛い。胸が苦しい。これがチャームじゃないなら何だと言うのだ。(ロナルドウォー戦記四巻三章)

     恋じゃないか。こんなの、恋じゃないか。ただ胃袋を掴まれたとか、そんな簡単な話じゃない。大きな理由なんてなかった。あいつと過ごした日々が少しずつ、俺を染め上げて行ったのだ。
    作中の俺は、それが恋だと気づいていない。けれど今の俺にはわかる。それは紛れもなく、恋だ。

    「やっぱ俺、あいつのこと、滅茶苦茶好きなんじゃん……」

     あいつの手を、振り払ってしまった。ただ俺を撫でようとしただけの、細い手を。あいつは一瞬、酷く傷ついた顔をした。そんな顔をさせたい訳じゃなかったのに。ただ俺は、不安で、怖くて――

    「……自分の事ばっかじゃねえか」

     心が覚えている。あいつのこと。裏付けするものが何もないから不安だった。けれど心は、しっかりとお前に恋をしている。
     後の事は明日の俺に任せる? じゃあそれまでの間、あいつはずっと――
     考えるより先に身体が動いた。真っ白な原稿をぱたりと閉じると、俺は事務所を飛び出した。

    ***

     人気のない公園のベンチに腰掛け、ぼんやりと空を見上げる。薄く雲がかかっていて星が見えない。嫌な天気だな、と思う。

    「ヌヌヌヌヌヌ?」

     膝に乗せたジョンが心配そうに私を見上げる。そっと頬を撫でて「今日はホテルにでも泊まろうか」と言うと、ジョンはもの言いたげな瞳で私をじっと見つめた。
     言いたい事は、わかる。私らしくないなと思う。再び曇り空を仰いで、長く息を吐く。ため息は夜風に溶けなかった。
     たった三日だ。たった三日なのに、何故こんな気持ちになるのだろう。ロナルド君に非はない。彼はただ吸血鬼の催眠にかかってしまっただけ。だから急によそよそしくなったって、触れてくれなくなったって、私との全部を忘れてしまったって、仕方がない。仕方がない、のだけれど――

    「め、めちゃくちゃ寂しい……」

     言葉にすると、感情が一気に実体を持った。寂しい、寂しい、寂しい――! 長らく覚えなかった感情だ。それはもう百年以上前、ジョンと離れた時のような。あるいはもっと昔、お母様が仕事に行ってしまう時のような。胸を刺す寂しさ。けれど少しだけ、種類が違う。だってロナルド君は「居る」のに。なんでこんなにも寂しいのだろう。

    「ヌヌヌヌヌヌ!」
    「ああ、いや、ごめん何でもないよ。さあ行こうか――」
    「ヌヌヌヌヌン!」
    「ドラルク!」

     ジョンを抱きかかえ立ち上がったその時、大好きな声が、鼓膜を揺らした。 
     ――あ、あ、あ、何で――振り向けなかった。振り向けば、泣いてしまいそうだった。

    ***

    「……ドラルク、でいいんだよな? 俺、そう呼んでるんだよな?」

     音のしない公園の一角に、ドラルクはいた。切れかけの街灯がちかちかと点滅する。薄暗い場所で小さくなっているその背中は、やけに寂しそうに見えた。

    「……何の用」

     ドラルクは振り返らない。けれど震えるその声から、表情は容易に想像できた。

    「なあ、ごめん、俺お前のこと、」
    「分かってるよ。覚えてないんだろ」
    「好きなんだよ!」

     ドラルクの背中が、びくりと震えた。

    「……覚えてないのに、何言ってんだ」
    「そうだよ。覚えてねえよ。でもお前の事、好きなのは忘れてなくて。でもなんで好きなのかわかんなくて、お前に触られたらわーってなって、だからその、ごめん、傷つけた……!」
    「……」
    「明日になったら、ちゃんとお前と恋人の俺が帰ってくるから、だから全部明日の俺に任せればいいって思ってた。でもなんか、違うなって。……出て行った時のお前の顔、俺、お前にあんな顔させたくなくて」
    「……」
    「だからドラルク、」

     帰って来てくれ、という言葉は飲み込むしかなかった。ドラルクが振り向いた。その瞳には、涙で膜が出来ていた。

    「名前……」

     そう言うと、ドラルクははらはらと涙を溢し始めた。

    「あっ、えっと、」
    「ヌヌヌヌヌン!」
    「あー違うんだジョン! 違うんだ、だから俺、そんな顔をさせたいんじゃなくて……!」

     ヌーヌーと抗議の声を上げるジョン。はらはらと涙を溢し続けるドラルク。どうすればいい? こんな時、俺はどうすればいい? 無い知識と記憶を総動員して考える。答えは、一つしかなかった。

    「ど、ドラルク!」
    「……なに」
    「……だ、抱き締めても、いいですか」

     意を決してそう言うと、ドラルクはきょとんとした顔で俺を見つめ、やがて笑って、静かに頷いた。
     ドラルクの細い身体に手を伸ばす。優しく触れないと、壊してしまいそうだった。そっと抱き締め、身体の距離をゼロにする。心臓が嫌にうるさい。薄い身体越しに全て伝わっていると思うと、恥ずかしくてたまらなかった。でも駄目だ。ちゃんと向き合わないと。

    「なあ、俺じゃ駄目か?」
    「……なにが」
    「記憶がないから、俺は今までお前といた、お前の恋人のロナルドじゃない。でも俺も、お前のこと好きだから」
    「……」
    「俺の事、丸ごと愛せよ!」

     思わず両腕に力が入った。細い身体をギュッと抱き締める。一瞬殺したかと思った。けれど意外なことに、ドラルクは死ななかった。死なずに、俺の腕の中で、くすくすと笑っていた。

    「どら……?」
    「っふ、はは! もう、本当に、君はどこまでも君だなぁ……!」
    「なに、なんだよ、何笑ってんだよ!」
    「いや、すまない、でも君は本当に、記憶がなくても君なんだなぁって」
    「なんだよ! わかんねーよ!」

     声を上げてけらけら笑うと、ドラルクはやがて満足したように俺の胸にぽすんと顔を埋め、小さな声で言った。

    「……私も、その、悪かった」
    「……何が」
    「寂しかったんだ。いつもの君は、たくさん好きって言ってくれるし、隙あらば触ってくるしキスしてくるしどらこーどらこーって」
    「いやいつもの俺どんなだよ!」
    「これも私の教育の賜物……」
    「いやどんな教育だよ! 怖えわ!」
    「それに、名前」
    「……あ」
    「呼んで。名前。いっぱい」
    「あ、う……ドラルク」
    「うん」
    「ドラルク。ドラルク。……ドラ公?」
    「ふふ。うん」
    「ドラ公、ドラルク、ドラルク……」

     何度も何度も、名前を呼ぶ。記憶にない筈の名前。けれど口にすればするほど、互いの身体に浸透して行くようだった。

    「ドラ、」
    「ヌヌヌヌヌヌ!」

     そっと頬に口付けようとした時だった。何かが俺の背中に激突した。

    「うごッ!」
    「あーごめんよジョン! ジョンにもぎゅーってしてあげようね」
    「ヌー!」
    「いっぱい我慢したねぇ。偉かったねぇ」
    「ヌン!」
    「あ、あんまりでは……?」

     膝から崩れ落ちた俺を横目にイチャつくドラルクとジョン。涙目で見上げると、ドラルクはやれやれと笑って俺に手を差し出した。

    「ほら帰るぞ、私の城に!」
    「……俺の事務所だわ!」

    ***

     翌日、ロナルド君は記憶を取り戻した。棺桶から出て来た私を見るなり、滝のように涙を流して、どらこーどらこーと縋りついてきた。

    「どらこー、ごめん俺、いっぱい傷つけたな? ごめんな?」
    「あーいや、あ、君この三日間の記憶が」
    「ある!」
    「そっかー。なんだ、もうちょっとあのままでも良かったのに」
    「なんでそんな酷いこと言うの⁉」
    「童貞丸出しの君も中々可愛かったぞ」
    「はあー⁉ 今の俺も可愛いだろ!」
    「あーはいはい可愛い可愛い」
    「なんだよ! 昨日までの俺も今の俺も全部俺だろ? 丸ごと愛せよ!」
    「……ん、ふふ! そうだね! 丸ごと愛すよ!」

     ああ、やっぱり君は、全部全部君だ!


    END
     
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    2022/08/29 21:19:44

    忘却滅却できないメモリー

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    #ロナドラ
    記憶喪失でドの事を全て忘れるも、ドの事を好きだという気持ちだけは残っていて困惑するロの話。

    表紙はらこぺ様からお借りしました。
    https://www.pixiv.net/artworks/99507929

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