雨脚よりはやく走って!「お前の永遠を分けてくれ!」
なんだその台詞、と自分でも思わない訳でもない。けれど他に出てこなかった。ドラ公は目を丸くして、うわずった声で「どういう意味」なんて後ずさる。
「意味なんて、一つしかないだろ!」
一世一代のプロポーズ。書類も揃えた。互いの家族にも相談した。あとは本人に頷いて貰うだけ。随分長く待たせてしまった。けれどドラ公ならわかってくれる。そう思っていた。しかしドラ公はみるみる顔を赤くして、目に涙を溜めてわなわなと震え出す。
「……ドラ公?」
「……馬鹿、馬鹿、ロナルド君の、バーカ!」
そう言うと、ドラ公は泣きながら事務所から出て行った。思っていたのと百八十度違うリアクションに思考が止まる。もしかして、俺今振られた?
「おい待てよドラ公!」
ワンテンポ遅れてドラ公を追いかける。やけに足の速いあいつの姿は、もうだいぶ遠くなっていて、
「待てったら!」
そう呼びかけると、ドラ公は一瞬こちらを振り返った。酷く苦しそうな顔だった。かと思ったらまたすぐ駆け出す。そんなあいつを走って走って追いかける。走って走って走って走ってドラ公を追いかける。
「ドラ公!」
ドラ公は振り返らない。廊下を走って階段を駆け下りる。建物から一歩出ると、六月のむわりとした湿気が全身を包んだ。何処へ向かっているのか、ドラ公はまっすぐまっすぐ走る。その足は止まらない。俺も止まらない。湿気た空気の中を突っ切って、あの手を掴まえるまで走って走って走って走って追いかける!
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ドラルクと出会って三十年。付き合い始めて二十八年。あいつを好きだと認めてからの二十八年は、本当にあっという間だった。あいつが特別になってしまったと気づいた時は、自分で自分を疑った。何故よりによってクソ雑魚砂おじさんなんかの事をと自分で自分が信じられなかった。けれどどうしたって好きだった。あいつの一挙一動が気になって、あいつの言葉一つで一喜一憂した。あいつが視界に入るだけで嬉しくて、あいつの笑顔は世界で一番眩しくて、俺の人生の全てがあいつを中心に回り始めた。しかし中々思いを告げられなかった。あいつに惚れてしまったことが悔しかった。思いを告げて、あいつに拒否されることが怖かった。だからうだうだうだうだと二年も悩んで、悩んで悩んで悩みぬいた末に泣きながら「お前が好きだ」と告白した。そんな情けない俺をドラ公は笑って、涙が出るくらい笑って笑って、一通り笑ったら見たことがないぐらい優しく微笑んで「いいよ」なんて言うからすっかり骨抜きにされてしまった。
それから二十八年。ドラ公との毎日は流れ星みたいな速さで過ぎて行った。毎日毎日が楽しかった。お前の笑顔を見るために俺は生まれてきたんだと本気で思った。そのくらい好きだった。世界で一番好きだった。こんなことならもっと早く告白しておけば、と過去の自分を呪った。そこで気づいた。時間は巻き戻せない。けれど伸ばすことなら出来る。
気づくや否や、俺は市役所に駆け込んで、吸血鬼化した時の戸籍についての書類やら何やらを取り寄せた。専用の相談窓口にも行った。兄貴やヒマリにも相談したし、ドラルクの両親にも頭を下げた。(親父さんには殴られた)あとはドラルク本人に噛んでもらうだけ、だったのに。
「ドラ公! 待てよ! 待てったら!」
「うるさい! なんだよ今更!」
ドラ公は逃げる逃げる。走って走って追いかける。しかし距離はなかなか縮まらない。今更、と言われれば返す言葉もない。二十八年も付き合った。吸血鬼化も一度は断った。確かに今更だ返す言葉もない。けれど、
「うるせーな! 俺が馬鹿ってことはお前が一番知ってんだろ!」
「開き直るな! バーカバーカ!」
ドラ公は止まらない。俺も止まらない。湿度の高い空気の中を走っていると、まるで陸で泳いでいるかのような気持ちになる。走って走って、泳いで泳いでドラ公を追いかける。
「ついてくるな! ついてくるなよ!」
「うるせー! 止まったら死ぬんだよ!」
「どこの魚だよさっさと死ね!」
「お前を掴まえるまで死なねえ!」
「じゃあ掴まったら死ぬってこと⁉ エーン一生こっちに来るな!」
「うる、え? 何? 死んでほしくないってこと?」
「ウワー墓穴を掘った! こっち来んな! こっち来んなったら!」
「やっぱり俺のこと好きなんじゃん!」
「ウルセー! 黙れ黙れあっちへ行け!」
「行かねえ!」
「バーカバーカ死んじゃえ! どうせ死んじゃうんだからさっさと死ね今死ね! ロナルド君なんか、ロナルド君なんか!」
「だから死なねえって!」
「バーカ!」
「話を聞けよ!」
まだまだドラ公は逃げる逃げる。どこにそんな体力があるんだと不思議で仕方がないが俺も負けない。息が上がる。膝が痛む。けれど今お前を逃せば俺は一生後悔する。お前のいない生活になんか今さら戻れない。空はどんどん曇って行く。お前のいない人生と同じ色だ。天気予報ではこれから大雨が来ると言っていた。それまでにドラルクを掴まえないと!
「なあドラ公、ドラ公ってば!」
「言ったじゃないか! 吸血鬼にはならないって!」
「言った!」
「俺は退治人だから、吸血鬼にはなれないって!」
「言った!」
ゴロゴロと雲が嫌な音を立てる。雨粒がぽろりぽろりと落ちて来る。
「私悲しかったんだぞ!」
「それはごめん!」
「ほんとにほんとに悲しかったんだぞ!」
「ほんとにほんとにごめん!」
「でも君が、君は人間だから! 退治人だから! それは理解してたから! 私のこれはエゴだってわかってたから! だから私は、私は、」
瞬間、空が光って、涙雨が激しく地面を叩いた。驚いて崩れ落ちたドラ公に駆け寄って、赤い外套で傘を作る。
「ドラ公」
ドラ公は再生しない。塵になったまま、抗議するように黙り続ける。
「ごめんな。傷つけたよな」
付き合い始めて一年が過ぎた頃、一度だけ吸血鬼化を持ち掛けられた事がある。確かドラ公は晩飯を作っている最中で、世間話みたいに「ロナルド君は、吸血鬼にはならないの?」と聞かれた。当時の俺は、特に深く考えずに「なる訳ねーだろ。俺は退治人だぞ」と答えた。
あまりにも、あまりにも無神経だった。
「なあ、俺の思ってること、聞いてくれるか?」
ドラ公は答えない。けれど今思っているこれは、今ここにある感情は、全て言葉にしないと。でないときっとこの先一生後悔する。お前を傷つけたままにしてしまう。
「……最初はな、吸血鬼になるなんて考えてもなかったんだ。でもいま五十で、お前は二百歳を超えてて、俺はあと何十年かで死ぬけど、お前は何百年も生き続けるだろ」
「……」
「最初はそれでいいって思ってた。人間のまま生きて、お前に看取って貰ってって本気で思ってた。勝手だよな。……でもお前と過ごしてるうちに、足りねえ、足りねえなって思って」
「……」
「俺、まだお前と三十年しか過ごしてない。お前と人生の半分も一緒に居られてない。まだまだ俺の知らないお前がいて、俺の見たことがないお前がいて、その全部が欲しいって思って、お前の笑った顔を、もっともっと見たくて」
「……」
「人間の一生じゃ足りねえんだよ!」
あらんかぎりの想いを振り絞ってそう言うと、ドラ公はゆっくりと再生し始めた。濡れないようにしっかりと外套で覆う。砂粒一つすら、失いたくなかった。
「気付くのが遅いんだよ……」
そう消え入りそうな声で言われ、また濁流のように想いが溢れ出した。ドラ公は泣いていた。ドラ公、ドラ公、ドラルク――!
「ごめん、ごめんな」
「うん」
「好きだよ」
「知ってる」
「お前だけだ」
「私も」
「ずっと一緒にいてくれる?」
「……うん」
ドラ公をぎゅっと抱き締める。それ以上、俺もドラ公も何も言わなかった。もう言葉はいらなかった。どれだけの間そうしていただろう。いつの間にか、雨はやんでいた。冷雨が夜を冷やした。けれど俺の腕の中のドラ公は酷く温かで、それが世界の全てだという気がした。
「じゃ、噛むけどいい?」
「今⁉」
「また心変わりされるとたまったものじゃないからな!」
「しねーよ! 俺そんなに信用ない⁉」
「ない」
「エーンごめんなさい! じゃあ噛め今すぐ噛んでくれ!」
「冗談だよ! それにほら、ここじゃちょっと」
「何?」
「人の目が」
そう言われ、ハッとして顔を上げる。俺たちの周りにはぐるりとギャラリーが出来ていた。
「あっあっあっあつ」
全く気付かなかった。本気で気付かなかった。街の人々は温かい目で俺たちを見ている。走っていた時のとは違う汗が、全身から噴き出した。
「帰るぞドラ公!」
「え、ちょっと」
「お騒がせしました!」
ドラ公を担ぎ上げ事務所に向かって走り出す。後ろから声援と拍手が聞こえた。ああもう、恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!
「なんだよ! 気付いてたんなら言えよ!」
「いやごめん、私も途中で気付いたんだけど、ちょっと面白くて」
「エーンバーカバーカ! 後で百回殺してやる!」
「それはいいけど下ろしてくれる? 流石にこの格好恥ずかしいんだけど!」
「うるせー! もう離さねえって決めたんだよ!」
ドラ公を抱えたまま走る走る。俺たちの事務所に向かって走る走る。これから俺たちは、また一歩先に進む。これから先、何十年も何百年も、俺たちは一緒だ。ああもう、お前といると、どれだけあっても人生が足りない!