思いは同じ 七草の粥その日、菅波が夕方に帰宅すると、百音が台所で米を砥いでいるところだった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
と帰宅の手洗い・うがい・着替えのルーティンを済ませて百音の隣に立つと、ちょうど百音が砥いだ米を琺瑯の両手鍋に入れるところだった。炊飯ではなく?と菅波が様子を見ていると、ひたひたの水加減にして火にかけた百音が菅波を振り仰いだ。
「七草粥です!」
百音の言葉に、あぁなるほど、と菅波がつぶやく。日付が1月7日であることは認識していたが、それが何かの行事とは全く結びついていなかった。せっかくですからねぇ、と百音が言いながら、冷蔵庫から七草とおぼしき野菜の束を取り出した。
「菜津さんが、たくさんあるから取りに来ない?って連絡くれたんです。汐見湯に住んでた時はいつも菜津さんが作ってくれてて」
「そうでしたか」
「東北じゃ食べない地域も多いんですが、ウチは母が仙台の出だったこともあって、食べてたんです」
きれいな葉っぱですよね、とにこにこの百音に、菅波の口許も緩む。
「実家にいたころは母が作っていましたねぇ。思春期の男子高校生にはどうにも物足りなかった記憶しかないですが」
菅波が高校生だったころの思い出話がぽろりと出てきて、百音もうれしく話を聞く。
「光太朗さんにもそんな食べ盛りな時期があったんですね」
「僕にも、とは」
「絶対運動部じゃなさそうだし」
百音の言い分に、菅波は安定のチベスナ顔である。
「大きなお世話です。思春期にちゃんと食べてなきゃこんなに図体でかくなりませんよ。伸びすぎたと思ってるぐらいなのに」
「島の実家で鴨居に頭ぶつけっぱなしですもんね」
百音はまだくすくすと笑いながら、ざっと七草を水で洗ってまな板におく。そこで、菅波が、そういえば、と口を開いた。
「この間読んだ時代小説に、七草を刻むときのまじない言葉がある、というのを読みました。百音さん、知ってる?」
「まじない言葉?知らないです。どんなの?」
百音が首をかしげるので、菅波がスマホを取り出してぽちぽちと調べる。
「バリエーションはあるようですが、おおよそはこれのようです」
と見つけたまじない言葉を読み上げた。
『七草なずな 七日の晩に 唐土の鳥が 日本の土地に 渡らぬ先に 七草なずなを 摘み入れて ホーットトット ホーットトット』
ふむふむ、と百音が聞いて読んで、どういう意味でしょね、と言う。サイトを見ながら菅波が、唐土の鳥、というのが遠い場所から疫病をもたらす悪いものの象徴で、それが寄り付かないように、ということのようです、と説明する。七草粥は邪気を払って無病息災を願うものですものね、と百音が頷く。疫病が寄り付かないように、はほんとに先生にもぴったりだし、というと、それに大いに振り回された数年を思い出した菅波がこめかみをかいた。
百音と菅波でかわるがわるに、まじない言葉を言いながら七草を包丁で刻み、刻んだ七草をボウルに入れて軽く塩を振る。さて、これでお粥が炊けたら七草を入れてできあがり、あとは卵焼きと鶏のハーブ焼、ほうれん草のおひたしで今日の晩ご飯です、と百音が宣言して、菅波がおいしそうだ、と目を細めた。
お粥以外は全部できてるから、ちょっと待ち時間ですねぇ、と百音が伸びをしてベンチソファに座る。新しいコンロはお粥の火加減自動なんですから、便利なもんです、と余裕の表情が微笑ましい。菅波もその隣に座り、膝の上で手を組んだところで、ふと自分の指先を見下ろした。指先を軽くすり合わせて、ふむ、という表情で立ち上がると、爪切りと反故紙を持って戻ってきた。パチリパチリと爪を反故紙の上に落としていく。百音と一緒に台所仕事をしたあとだけあり、柔らかくなった爪が滑らかに切られる。
ふむ、とその様子を見ていた百音が、自分の爪先も気になって、次、貸してください、と菅波に言う。うん、と返事をした菅波は、手早く自分の爪切りを終わらせると百音にそれを渡した。百音も反故紙の上にパチリパチリと自分の爪を落とす。
「子供の頃、この爪を土に植えたら、別の自分が生えてきて、自分が乗っ取られるぞ、って脅されてました」
と百音が思い出話をする。何それ、と菅波が笑う。
「だから、何かのはずみで土に落ちないようにちゃんと紙にまとめて捨てなさい、って教えだったんですけど、なんだか怖いなぁって思ってた時もあるし、別の自分が生えてくるなら、それに宿題やってもらいたいなって思ったこともありました」
スイカの種を食べるとへそから芽が出る的な話に、菅波も百音も笑う。
「あぁ、でも、百音さんがもう一人、というのは、昔にそんな話をしたこともあったような」
東京と登米に離れていた頃に交わした他愛もない会話を菅波が思い出すと、そんなこともありましたねぇ、と百音が笑う。あの時は、東京と気仙沼・亀島に体を一つずつ、で登米の自分は想起すらされていない、と菅波がいかにも理屈っぽく不服気であったのだ。
「今は一緒に暮らしてますから」
百音が爪切りを終えたところで反故紙をくしゃりと丸めて捨てに立った菅波を、百音が笑顔で見上げる。
「うん」
菅波が頷いてゴミ箱から戻ったところで、百音が爪切りを菅波に差し出した。
「やすりかけ、してくれますか?」
それは、新婚旅行のときから、折々に二人の間のお約束になっていることで、菅波がうなずくと、百音は嬉しそうにベンチソファから床にするりと降りた。菅波がベンチソファの座面を背にして座れば、その長い脚の間に百音がすっぽりと納まる。菅波が後ろから腕を回し、百音の手をとって爪切りのやすりで爪先を整える。菅波は百音の方に顎をのせて真剣な表情で、丁寧に指先をなでられ、百音はそれがなんだかとてもくつろぐのである。百音の爪をすべてやすりかけをして、その後は自分の爪に取り掛かる菅波は、用事の終わった百音を懐中から離すことはない。
粥が炊きあがるまであと10分ほど。
やすりかけはそれまでに全部終わるだろうが、炊き上がりの音がするまでこのままで、と菅波も百音も思いは同じなのだった。