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    森の里のお茶の話登米夢想の裏手にある公園から戻ってきたサヤカが右手首をかばっているのを、いち早く気づいたのは森林組合の事務室で請求書作成業務を進めていた百音だった。どうしたかと聞くと、公園の向こう端にある休憩所にしてる古民家から戻る際、坂を駆けおりてきた子供をよけようとして、足元が滑って思わぬ方向に手をついたという。古民家の周りは、芝生と土がまだらの斜面で足元が不安定な場所がままあり、タイミングが悪かったようだ。一度サヤカの骨折にも直面している百音のこと、有無を言わさずにサヤカを診療所に引っ張っていった。

    「手首の捻挫です。テーピングをするので、向こう10日ほどは安静に。家事はモネちゃんが主にやってくれてると思いますが、植木の世話などもしばらくは全部モネちゃんにお願いしてください」
    中村の診断結果を聞いたサヤカは、うーむ、と診察室で考え込んだ。付き添いの百音も、すべての用事を引き受けることはすぐに頷きつつ、サヤカと同じく思案顔である。
    「なにか懸念点が?」
    中村が聞くと、サヤカが口をひらいた。
    「森林組合で大口の取引がまとまりそうなんですけどね、それで先様を能舞台横のお茶室で接待予定で。新田家に伝来の拝領の茶碗でお茶席を設けるんですよ。私がお点前する予定だったんだけど…」
    「いつですか?」
    「明後日の日曜です」

    中村が今度はうーんと首をひねる。激しい動作ではないだろうが、完治が遠のくリスクはあるし、そもそも捻挫した手で点前ができるかどうか。少し時間がたって痛み始めた右手首をさすりながら、日曜は石巻で大きな茶会があるから大体の心当たりはそっちのお手伝いに行ってるんだけど、相談してみるかねぇ…、とサヤカが考え込む。めいめいがしばしの思考する中、中村がポンと手を叩いた。
    「菅波先生」
    「えっ?」
    「菅波先生、彼お茶できますよ、確か」

    「そうなんですか?!」
    と思わず口をはさんだのは百音である。全くイメージが結びつかない…と驚き顔に、中村が頷く。
    「叔母さんがお茶を習っていて巻き込まれていたとかで心得があります。お点前ができるから、と医学生の時に茶道部行事に助っ人で引っ張られていたそうです。永浦さん、菅波先生は明日土曜の午前中にはこちらに来ますよね?」
    「そうですね。大体10時には登米夢想に着いてます」

    百音の返事に、中村とサヤカが『それだ』と顔を見合わせる。
    「サヤカさん、菅波先生が着れる着物ありますか」
    「4人目のダンナが菅波先生と大して寸法変わらなかったので、ありますね」
    「では、それで。支度しておいてください」
    阿吽の呼吸である。

    翌日、くりこま高原駅に着いた足で登米夢想に来た菅波を待ち受けていたのは、かくして中村とサヤカ、そして百音だった。中庭に足を踏み入れて、椎の実に3人がいるのを見て、菅波の眉根が寄る。中村とサヤカの後ろで、百音はスミマセン、という表情だ。

    「どうしたんですか?」
    菅波の問いに、サヤカがテーピングの施された自分の右手首を指さした。捻挫しちゃって、の言葉に、お大事に、と極めて無難な返事を返して、それが僕になにか、という表情の菅波の肩を、中村がポンと叩いた。
    「明日、森林組合で絶対失敗できない取引先とのお茶席があるそうなんですが、サヤカさんがこの状態なので、お点前できる人を探してるんですよ。菅波先生、できますよね?大学時代に茶道部だった田渕先生から聞いてますよ」
    そういうことか…と苦虫を噛んだ顔の菅波である。

    「部活のヘルプならいざ知らず、そんな大切な席で点前なんて無理ですよ。ずいぶんやっていないですし」
    「しかし、他にいなくて」
    「お水屋でどなたかいないんですか」
    「水屋には文子さんがはいってくれるけど、彼女もお点前の立ち座りはちょっと厳しくて」
    「一口に点前と言っても流派も色々ですよ。僕が習ったものでよいのかどうか」
    「主客の流派が違うことなんて普通にあることですよ」
    「いつもの服しか持ってきてませんし」
    「私の元ダンナの着物を貸します」

    食い下がる菅波に、サヤカも負けじと食い下がる。
    「大事な契約なんですよ。これが反故になったら、登米夢想の維持にだって関わるかもしれないし、そうしたら診療所にも影響がありますよ。センセ、今日一日で準備して、明日午前中、お力添えいただけませんかねぇ」
    痛いところを突かれて、菅波がうっと考え込む。
    「先生、勉強会のことを気にしてくださってるんだったら大丈夫です!私もサヤカさんのお手伝いをするので」
    最後に残ったやらない理由を百音が率先して封じると、菅波はうなずかざるを得ない。

    「分かりました。ですが、今日これからすぐに準備として茶席を見せてもらって、実際の道具で稽古させてください。サヤカさんにそれを見ていただいて、判断をお願いしたいです。僕の不手際で森林組合に迷惑はかけられない」
    菅波の言葉に、サヤカがありがとうございます、と頭を下げる。菅波の気が変わらぬうちに、と早速に茶室がある場所に向かうことにする。百音の運転で向かう車中、サヤカが菅波にあれこれ質問し、サヤカと菅波が同じ流派であることや、菅波が少なくとも平点前は薄茶だけでなく濃茶もできることなどを把握した。後は一度点前をしてみてもらって判断だが、菅波の受け答えを通して、なんとかなるかもと踏んだサヤカの安堵した様子を百音もバックミラー越しに見てうれし気である。

    茶室がある数寄屋造りの木造建築に到着すると、佐々木課長や木村、山崎といった森林組合の面々が屋内のあちこちを拭き掃除しているところだった。サヤカたちの到着を見た佐々木が駆け寄ってくる。
    「菅波先生、いらっしゃいましたか!よかった」
    これ、届きました、と佐々木がサヤカに紙の箱を渡し、掃除は予定通りです、と戻っていく。森林組合総出の様子に、菅波も事の重大さを改めて理解し、サヤカに自分の代役が務まるか?と先ほどとは異なる渋面であるが、まずはとにかく茶室へ、とサヤカに促した。百音はその場を離れて佐々木たちの掃除に合流しようとするが、サヤカの命で茶室に同行する。茶室の水屋に行くと、文子が茶道具の用意をしているところだった。所狭しと大小の木箱が並んでいる。

    「じゃあ、先生、ひととおり、お濃茶とお薄と、平点前していただいていいですか?」
    「分かりました。…あ。あの、失念していましたが帛紗などは?」
    「さっき道具屋に届けてもらいました。これ使ってください。新品で使いづらいかもだけど」
    サヤカが先ほど受け取った紙の箱から男物の帛紗ばさみと道具一式を取り出し、菅波が頭を下げて受け取る。二人のやりとりが、百音にはさっぱり分からず、文子はうんうん、と眺めている。

    1時間半ほど後。サヤカと文子と百音の前で、一通りの濃茶・薄茶の点前を菅波が終え、サヤカと文子がこれなら大丈夫、と太鼓判を押した。久しぶりですが点前座に座ると体が動くものですね、と菅波もその太鼓判に安堵をにじませる。百音は見るものすべてが初めてで、いつも通りの服装の菅波が、全く見たことない点前をする姿に興味津々である。
    「先生、なんかすごいですね」
    と百音が正座の上半身を乗り出し、菅波は何年ぶりだか、とこめかみをかいた。

    使う茶道具の由緒をサヤカから聞き、道具を本当に僕がいいんですか?と腰が引けた菅波に、そうなんですか?と百音はまたわけが分からない。その疑問顔の百音に、永浦さん、新田家のご由緒をもう少しご理解した方がいいかもしれません、と菅波が真顔で言うので、百音は分からないなりに深刻に頷いてみせる。もう一度ずつおさらいしてよいですか?という菅波の申し出に、サヤカはもちろん、と頷く。じゃあ、私は準備に戻りますね、と文子は水屋に戻る。サヤカが要所要所で口をはさみながら進む菅波の空稽古の所作を見て、百音は茶道はさっぱり分からないけどきれいだな、と見入った。

    菅波の気が済むだけ稽古をして当日の段取りの確認を終えたところで、今度はサヤカ邸に移動。千代子も立ち会って、用意した着物の寸法が菅波にも何とか問題ないことを確認して、16時には菅波の明日に向けた準備はなんとか一段落できた。では、また明日、と辞そうとする菅波を、サヤカが止める。

    「先生、今日はウヂ泊まってってください。明日朝早いし、着付けもあるし。荷物もここまで持ってきてるし、大丈夫でしょ。私はこれから一回むこう戻りますけど、千代子さんは着物の準備、モネは食事の支度でこっち残るから、なんかあったら言ってください。モネ、先生を客間に案内して、お願いね」

    有無を言わさぬが、段取り上、否とも言えない話に、また菅波は頷くしかない。案内された客間に東京から持ってきた荷物を運びこみ、百音が食事の支度をしている間、客間に籠って持ってきた論文に落ち着かなげに目を通す。しばらくして百音に呼ばれ、広いリビングに行けばテーブルに夕食が3人分。サヤカが帰りを待たなくていいというので、と千代子と3人で夕食をとる。言われるまま風呂にも入り、あがった頃合いにサヤカも帰ってきた。

    万事支度できました、明日はどうぞよろしく、とサヤカが頭を下げるのに、スウェット姿の菅波が微力ながらと同じく頭を下げて答える。それを興味深げに見ている百音に、ふと菅波が振り向く。先週の宿題にしていた温度風の演習問題、出してください。今から時間あるので見ます、と急な勉強会モードに、百音があたふたと、しかし少しうれし気に持ってきます!とパタパタと自室に駆け込んでいく。結局その晩は、サヤカ邸のダイニングテーブルにやはり斜めに座った百音と菅波が勉強会をする様子を、明日の着物の支度をするサヤカと千代子が見守りながら更けていったのだった。

    翌日は、全員が5時起きである。幸い、予報通りの快晴で、まずは胸をなでおろす。前夜に百音が準備しておいた、おにぎりと味噌汁で簡単な朝食を済ませて、支度にとりかかった。千代子が、サヤカの髪を登米能の日のように黒く整え、京藤色に七宝柄の色留袖を着付ける。次に、千代子は自身で山鳩色の色無地を纏い、菅波には藍色の白鷹御召と仙台平の袴を手早く着付けた。百音はサヤカの指示で、黒のスーツ上下にサヤカから借りた白のシルクシャツに着替える。今日は百音は裏方に徹するという話を聞き、昨日の点前の予行演習に百音を帯同したサヤカの意図を汲んだ菅波は、本当に永浦さんは恵まれているな、と思うのだった。

    百音の運転で茶室がある数寄屋造りの建物に到着したのは7時半を過ぎた頃である。裏手の駐車場に車を停めれば、すでに佐々木と川久保の車がそこにはあった。到着の音を聞きつけて、佐々木が裏門から出てきた。佐々木は能舞台を案内するため、紋付き袴姿である。車から降りた菅波を見て、おぉ、と声をあげた。
    「菅波先生、見違えますね!」
    千代子によって軽く髪も整えられ、どこぞの若旦那というような風情の菅波は、佐々木のその言葉に落ち着かなげである。今日はよろしくお願いします、と佐々木からも頭をさげられ、微力ながら、と菅波も頭を下げる。さて、じゃあ取り掛かりましょう、とサヤカの号令でめいめいが動き始めた。

    百音はサヤカについて、あちこち伝令のように動き回ったり、菓子屋から届いた菓子を水屋に届けたりと動き回り、菅波は文子と一緒に点前の最終準備である。今日は正式な茶事ではなく、森林組合が携わったこの数寄屋建築を来客に視察してもらうことを主眼としたもてなしだといい、濃茶席と薄茶席を別の場所で設ける。濃茶席となる四畳半の茶室と、薄茶席の八畳間、それぞれの床に文子が花を入れるのに菅波も同席し、花の情報を確認する。文子が自宅の庭で育てているという茶花はどれも見事で、茶室の白玉椿も広間の石蕗と姫沙羅照葉もそれぞれの花入にきれいに収まった。

    あちこちと最終準備が進みつつ、することがなくなった菅波は茶室から少し外れた廊下に出た。着物に不要な皺がつかないように気をつけながら、廊下の隅で手控えをみていると用事が終わって待機となった百音がやってきた。菅波に緑茶のペットボトルを差し出す。菅波が礼を言って受け取って一口飲むのを見ながら、百音がその手にある手控えの紙を指さした。

    「それ、なんですか?」
    「あぁ。今日使う道具の名称や由緒などです。基本的にはサヤカさんが受け答えをしますが、僕が答えなければいけないこともありますし、急に聞かれるかもしれないし、一通りのことは覚えておかないと」

    菅波の言葉に、ふぅん、と百音が紙を覗き込むと、見慣れた菅波の字でなにやら漢字がずらずらと並んでいる。うわぁ、という百音の表情に、菅波は苦笑いである。

    「先生、これ全部覚えるんですか?」
    「一応全部覚えましたよ。ギリギリまで再確認はしたいですが」
    「すごい。私には絶対無理です」
    「まぁ、用語に慣れればできると思いますけどね、永浦さんなら。今回のお客さんは、教育関係の方々なんですよね?」
    「そうです。永明学園って学校法人の理事長さんと副理事長さん、評議会長さん、だそうです。幼稚園の園舎を建替えに当たって木造にしたいということでウチに声がかかって」

    その言葉に、うん、と頷いて菅波が手控えを百音に見せて、ある箇所を指さした。
    「これ。茶室の床の間の掛け軸は、登米伊達の殿様から頂いた書状で、新田家のご先祖が学問をよく修めて子弟を育てていることを褒められた内容だ、と。で、あちらの広間には、山添喜三郎という、明治時代に登米の木造小学校を建築した人のスケッチを軸にしている」

    指さされた文字列を読みとくと、確かにそのような内容であることは読み取れなくもない。
    「つまり、この茶席を通して、サヤカさん率いる米麻森林組合は、昔から教育に関心があり、重要文化財に指定される木造校舎を造った土地にある、というメッセージを発信しているわけです」
    「あぁ!なるほど!」
    「というように、客のことを慮って、場の目的を達成するように選んで組み合わせられているので、ある程度はストーリーで覚えました。最終的な用語は丸覚えするしかないですけどね」

    やらなきゃ仕方ないから、とでもいうように淡々としている菅波に、百音はやっぱりすごいなぁ、と感心気である。これ、何て読むんですか?と漢字の羅列を指さし、『こせとかたつきちゃいれ とうしろうかたつきうつし きくじうめばちもんきんらん』という菅波の説明に、聞いても分からなかったです、と笑う。ちゃんと熟語の並びですから、区切れば分かりますよ、ほら、と菅波が語句を一つずつ説明し、百音がふんふんと聞いている。その様子を水屋から文子はほほえましく眺めるのだった。

    あらかたの道具の読み方を菅波が説明したところで、表門の方がにぎやかになり、来客の到着が知られる。まず能舞台を案内して、それから濃茶席に移る。じゃあ、先生、がんばってください!と言い残して所定の持ち場に向かう百音を見送って、菅波はのそりと水屋に戻った。そのタイミングで文子が炉に炭をいれ釜をかけ、先生、よろしくお願いします、と水屋で頭の当たりが窮屈そうな菅波に声をかけるのだった。

    釜の湯が良い加減になった頃合いに、茶室の向こう側から人の気配がする。文子の釜をかけるタイミングの絶妙さに舌を巻きながら、菅波は、さて、と心を整えた。ふすまの向こうの茶室の気配に耳を澄まし、全員の着座を見計らう。文子が主菓子の入った縁高を運び入れて戻ったところで、菅波が仕組んだ楽茶碗を膝前に置いて茶道口に座る。文子と顔を見合わせて、一つ頷いた菅波はふすまを開けた。

    茶碗を運び入れて所定の位置に置き、建水を持ちだして、という二往復の間に、視界の端で菅波は客の様子を捉えた。スーツ姿の男性が3名。サヤカが点前をできないことは詫びを含めて聞き及んでいるだろうが、誰が点前をするとは聞かされていなかったのか、菅波のような若い男性が出てきたことに興味津々のようである。建水から蓋置を取り、柄杓を引いたところで主客総礼。客の3名ともよどみのない動きに、茶の心得があると見た菅波は、とにかく平常心と自分に言い聞かせながら点前を進める。こなれているとは言い難いが、丁寧に心のこもった菅波の所作が、連子窓越しに落ちる柔らかな光に包まれた。

    茶碗に茶と湯が入り、茶筅が茶を練る段になると、静寂の中に茶碗と茶筅が擦れる音だけが心地よく響き、茶の香りが立ってくる。真剣そのものの表情で濃茶を練り上げた菅波が茶碗を定座に出すと、正客が茶碗を取り込む。連客総礼の後、正客が一口喫んだのを見計らって菅波が服加減をたずねる。
    「お服加減はいかがですか」
    「大変結構でございます」

    その後、茶の銘柄などのを聞く正客の問答に答え、戻った茶碗を取り込む。茶碗についての問答もかえしながら、仕舞いに進む。茶碗をすすぎ、他の道具も清めてすべての配置を元の位置へ。水指の蓋を閉めたところでかかる拝見の声に手をついて応えながら、菅波は最後まで油断なく、と自分に言い聞かせるのだった。茶入・茶杓・仕覆を拝見に出して、水屋に下がる。菅波から道具を受け取った文子がどうでした?と目顔で聞くと、菅波も声を出さず、どうだったでしょう、と首をひねって見せた。

    客の道具の拝見が終わった気配を察して、また茶室に戻る。拝見後の問答に、先ほど百音とも復習した、『古瀬戸肩衝茶入 藤四郎写し』『菊地梅鉢紋金襴』などと答え、左手に仕覆と茶杓、右手に茶入を持って茶道口に下がる。勝手附に道具を並べて一礼し、襖を閉めたところで、菅波は音を立てずに大きく息を吐いて肩を下ろした。文子がぽんぽんと無言で肩を叩いてねぎらい、菅波はまぁ、はい、とでもいうように二度三度頷くのだった。

    客が茶席から退出した気配で、やっと文子が口を開く。
    「お疲れさまでした。お濃茶終わったら、まずは一安心ですね」
    「いやもう、無我夢中でした。なにかやらかしていないといいのですが」
    「きっと大丈夫ですよ。次の薄茶席はサヤカさんが半東に入りますし、そうしたら後はサヤカさんがあれこれ話してくれるでしょうから、お点前じっと見られることもないでしょうし、お楽になさって」
    「そうだといいのですが」

    話をしながら、薄茶席が設けられる八畳間の方に行く。広間の水屋に入ると、千代子が菓子盆に干菓子を載せているところだった。サヤカの傍らには百音がいる。菅波は手早く茶巾を絞り、茶碗を組み、百音はその様子をまた興味深そうに見ている。そうしている間に、佐々木が案内する声が聞こえ、早々に、八畳間に客の着座の気配があった。サヤカが干菓子器を運び入れ、水屋に戻ったら菅波に目くばせをする。仕組んだ茶碗を勝手附に置いて茶道口に座った菅波は、ふぅっと一つ息を吐いて襖をあけ、「一服差し上げます」と一礼するのだった。

    薄茶席は、寿扇棚に祥瑞の水指、茶碗は現代の宮城の作家物、と濃茶席に比べて軽やかである。先ほどの濃茶席の重々しさから解き放たれた気分で菅波も少しは心持も軽い。点前座で居ずまいを正し、茶碗と棗を膝前に置いて帛紗捌きを始めたところで、茶道口が改めて開き、サヤカが手をついて「失礼いたします」と正客に声をかけた。正客の「どうぞお入りを」の声でサヤカが右手をかばいながらも躙り入る。菅波の建水の脇に替茶碗を置いて、通い畳に座ったサヤカは、改めて正客に向き直った。

    「この度は、お越しいただきましてありがとうございます。ささやかではございますが、どうぞあと一席、お付き合いくださいませ」
    「こちらこそ、お招きありがとうございます。どの建物もご立派で。先ほどのお茶室も見事でした」
    「ありがとうございます。伊達家が仁和寺にも縁があるということで、仁和寺の茶室を登米の木材で写しましてございます。米麻の職人と木材揃っての空間をお楽しみいただけていれば幸いです」
    「左様でしたか」

    サヤカと正客のやり取りで、先ほど文子が言っていた通り、次客・三客もサヤカの話に目と耳が向いていて、菅波の点前にはさほどの集中が払われていない。先ほどのような視線の重さがないことに安堵しつつ、菅波は棗を清め、茶杓を清め、茶筅を通し…と点前を粛々と進める。茶碗を清め、茶杓を取って「お菓子をどうぞ」と菅波が左手をついて正客に声をかけたところで、正客がサヤカに気になっていたその話題を向けた。

    「そういえば、今日お点前いただいているこちらの方は森林組合の方ですか?お若いのに落ち着いていらっしゃる」
    「こちら、森林組合と同じ施設にある診療所のお医者さまなんです。私がこの通りの手の怪我で困っていたところ、引き受けてくれまして。急なことで何かありましたら、どうぞ私の不手際とご寛恕くださいませ」
    「いやいや、先ほどの濃茶席でも立派なお点前で大変美味しくいただきました。そうですか。登米夢想のような、地域のための場所を造られて、そうしてそこにお勤めの方々が組合だけでなく協力するコミュニティになっているんですね」

    思いの他、診療所の医師である菅波が点前をしていることに好意的な答えが返ってきて、サヤカも菅波も心中で安堵する。菅波が、よどみなく茶を点て、サヤカが正客の元へ運ぶ。続けて次客、三客にも茶が出て、サヤカがそれぞれの茶碗が宮城の若手作家の物であることを紹介した。濃茶席での楽茶碗は登米伊達家より拝領の伝来物、薄茶席は未来に伝統を繋ぐ物という趣向に、客がそのもてなしを喜ぶ。

    棗と茶杓の拝見と問答も終え、サヤカが先に下がり、菅波が道具類を引いて茶道口で「おたいくつさまでした」と一礼して襖を閉め、薄茶席も滞りなく終わった。サヤカはすぐに客を案内して昼食の席に向かうというので、菅波に、先生ありがとう、お礼はまたゆっくり言います、と小声で言って去っていく。菅波はそれを見送り、その後盛大にため息をついた。文子と千代子と百音が菅波を取り囲む。

    「先生、ほんっとにおつかれさまでした!」
    「ありがとうございました」

    口々に言われて、菅波は照れくさそうに頭をかく。もう、本当になんとか終わってよかったです、はい、と言う声は、かしましい女性陣の声にかき消されがちであった。その後、緊張が解けたのか、点前をする前は全くぶつけなかった鴨居に3度ほど頭をぶつけたのは、後々までからかわれることになる。

    翌日、登米夢想に出勤した菅波は、商談が上手く進もうとしていることを知らされる。米麻森林組合の仕事の確かさに加え、併設の診療所の医師が急遽点前に登板するというコミュニティの確かさや懐の深さが、高ポイントだった、と言われ、昔かじっただけのことがこうして役に立つのだから、万事塞翁が馬とはこのことだ、と菅波は呟くのだった。
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    2023/01/17 21:17:17

    森の里のお茶の話

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