微かな光探して 橋を渡って亀島の永浦家に百音と菅波で揃って訪問した帰り道、ふと百音がある標識を指さした。菅波がその標識に目を凝らすと『大山展望台』の文字である。
「先生、そういえば展望台まで行ったことないですよね?」
「話には聞いてたけど、そういえば行ったことないような。その手前の大嶋神社まではお詣りに行ったけど」
「今日は星もよく見える天気だし、ちょっと寄りません?」
百音の提案に、もちろん、と菅波は二つ返事である。運転していた百音はさくっとウィンカーをだして、車を大山の方に向けた。島と本土を繋ぐ橋へのメイン道路を外れるとぐっと周囲が暗くなる。しかし、慣れた地元の事、百音はすいすいと運転して、菅波はさすが百音さん、という表情で、膝の上の紙袋の中のサメ太朗と顔を合わせるのだった。
適当なところまで行って、交通の邪魔にならないところに車を停めた百音がトランクから常備しているマグライトを取り出す。菅波もサメ太朗の入った紙袋を提げて車を降りれば、二人で手を繋いで展望台を目指した。百音が少し先の足元を照らし、とっぷりと暗い夜道を歩くと、周りの世界から隔絶されたような感覚もあり。
しばしテクテクと夜の道を歩いていると、ふと菅波がくすっと笑った。どしたの?と百音とサメ太朗が菅波を見上げると、道路から反射するライトのわずかな光で目が合った菅波が口を開く。
「初めて登米に行った頃のことを思い出してました」
「登米に?」
「中村先生に引っ張られて行って。仮宿舎だったみよ子さんちの離れに寝泊まりして。夜道の暗さには最初慣れなかったなぁ、と」
「あぁ、なるほど」
夜は道も周囲も暗いもの、という島の環境で育ち、登米でも森に囲まれたサヤカ邸に下宿していた百音は、東京に出てから、道や街のどこかが24時間必ず明るいことにしばらく慣れなかったことを思い出し、つまり先生はその逆だったんだよな、と頷く。
「まぁ、徒歩圏にコンビニなんてものもなかったわけで、夜道を直接歩いたことなんて数えるほどだけど、訪問診療で夜に車を出すようになってからも、暗いなぁ、と都度つど思ってましたよ」
「そんなの意識したことなかったなぁ」
あなたはそうでしょうね、と菅波が笑い、百音もそうですねぇ、と笑う。いや、しかし分かってるけど上り坂だな、と菅波が早々にヘロっとした声をだして見せるので、まだまだありますよ、と百音が背中をどやす。とは言いながら、じきに小さな建物がある小さな広場に出た。扇形の建物にはレストハウスの文字が見えた。
観光シーズンは此処までシャトルバスが出るんですよ、と百音が説明し、菅波がなるほど、と頷く。昼間だとここからでも島の見晴らしはいいでしょうね、という菅波の言葉に、そうですね、と百音がぽつぽつとだけ灯が見える島の南部を見遣る。
「中学生の時、ここで演奏をしたんです」
なんでもない風に、百音がぽつりと言うのを、菅波は「そうでしたか」と受け止める。
「もー、父もトランペットではしゃいじゃって」
「お義父さんらしい」
百音の苦笑いに菅波がかぶせて笑えば、単純に楽しい思い出というには難しいそれも、経た年月がよいクッションとなって。
「さて、ここからが展望台までのほんとののぼりですよ」
傍らのコンクリート製の階段を百音がライトで指し示し、じゃあ、行きますか、とまた歩きはじめる。先ほどまでの舗装道路のなだらかな登りから、コンクリート製の階段のち砂利の上り路になり、山頂を目指している感が強まる。
登っていくと少し見晴らしが広がり、対岸の本土の灯が目に入る。先ほどのレストハウス前で見た島側とはまた違った雰囲気を視界に入れつつ、展望台への道は曲がりくねっていて、他の方角のエリアの闇に沈んだ様子も見ながら、一つのライトで足元を照らしながら気を付けて山道を登っていくと、ついに左手に展望デッキへの階段が見えた。
手すりを持って用心して登れば、山頂にいることを実感させる360度の見晴らしのデッキからは、本土側の内湾エリアの商業施設のライティングや街の灯も反対方向の唐桑半島のとっぷりとした夜闇の表情もよく見渡せ、頭上には満天の星が輝いていた。
「おぉ」
と菅波が感心した声をあげ、百音も久しぶり!と気持ちよさげに頬を撫でる夜風を愛でた。サメ太朗も紙袋が夜風にゆれて楽しそうに夜空を眺めている。
「やっぱり本土の方は灯が多いですね」
「そうですねぇ。でも、これでも昔は倍ぐらいは明るかったかな」
「そうですか」
「とはいえ、昔はそもそもこの展望台の見晴らしもこんなに良くなかったですけどね」
百音の言葉に菅波が首をかしげる。
百音が展望デッキの端の手すりから少し身を乗り出し、それに菅波も倣うと、地面の闇の中にひこばえの影がほのかに見える。
「ほら、あの日、湾に火がついたでしょう。あれが海を越えてこっちまで飛んできて。この辺も燃えちゃって」
「そうでしたか。え、島の町の方への延焼は?」
「大嶋神社は裏手まで火が来て、消防団の人たちが夜通し消火活動したそうですが、山から下へは道を挟んでなんとか」
菅波は、島にいなかったあの日々のことも、百音ができる限り知ろうとしていたことを知っていて、その話を静かに受け止める。
「ここは国立公園に指定されてるから、展望台の見晴らしが悪いからって木を伐採することはできなくて。これからまた、段々見晴らしがかわっていきますよ」
今こうして見張らせる景色を忘れまいというようにぐるりを見渡す百音に倣って、菅波も周囲を見渡せば、夜の闇にやさしく抱かれる土地の息吹を感じるようだった。亀島大橋と気仙沼横断橋がライトアップされ、そこを行きかう車のライトが一定のリズムを奏でている。
半島の方角の闇に眼をこらしたり、頭上の星を見上げたり、夜の展望デッキを堪能しつくした二人は、とはいえそろそろ戻りますか、とまた足元に気をつけながら山道を下る。レストハウス前まで戻って、舗装道路にたどり着いたところで、菅波がやれやれとのびをすると、その手に提げられていたサメ太朗の紙袋が頭上高くで揺れ、その様子に百音がくすりと笑いを漏らすのだった。
車に戻り、また百音の運転で山を下りる。僕もこっちの夜道の運転には慣れたと思ってたけど、やっぱりこう山の中だと百音さんよりもたつきそうだ、と菅波が笑い、なんだかんだ慣れですよ、慣れ、と百音も笑う。
と、前方に目を凝らしていた百音がブレーキを踏んだ。
大したスピードは出していなかったので、菅波とサメ太朗がつんのめることもなく。
「ほら、せんせい、カモシカ!」
百音が指さす方を見れば、車のライトにずんぐりとした動物のシルエットとこちらに光る目が見えた。
「おぉ」
まさかここでカモシカを見ると思っていなかった菅波が思わず感嘆して身を乗り出す。カモシカは、しばらく身動きせずにこっちを見た後、ついっと駆けて森に走りこみ、あっという間に姿が見えなくなった。
「びっくりした。亀島ってカモシカいるんですね」
再び走り出した車内で菅波が言うと、百音が昔からいるんですよ、とこともなげに言う。
「そうなんだ。島内に生息している?」
「島内に生息してるし、本土とは海を泳いで渡るんですよ、カモシカって」
「泳げるんだ」
へぇえ、と感心した表情の菅波に、百音がいたずらっぽい表情で付け加える。
「最近は、カモシカも橋を渡って島に来るみたいですよ。泳ぐより楽みたい」
「なるほど、そりゃそうだ」
菅波が、百音さんもカモシカも、橋を渡ってきたどうしだ、と笑ってみせると、百音も、そうだね、と笑う。サメ太朗は泳いで渡れるかな、と菅波が吻をもしゃもしゃすれば、サメ太朗は箱入りサメですから橋を渡るんですー、と百音がサメ太朗を代弁するように口をとがらせてみせる。
どちらかと言うと紙袋入りサメですが、と菅波が膝の上のだいぶ草臥れてきた思い出の紙袋をしげしげとみれば、百音も確かに、と笑う。
前方には白亜のアーチが縁取る橋が見えてくる。普段通りの島で普段とちょっと違うことをした二人と一匹を乗せた車は、静寂と暗闇の帰り道を駆け抜けていくのだった。