モネちゃん 先生になる(前編)「え、私が東成大学で講義ですか?」
気仙沼営業所で朝岡とオンライン会議をしていた百音は、朝岡の言葉に思わず鸚鵡返しに質問して、ああまたやっちゃった。でもいつもの朝岡さんだしな、とおもいながら、改めて朝岡の言葉を待った。
「ええ、永浦さんにもひとコマ、担当いただきたく。現地出席で、もちろん業務の一環ですから出張費も出張手当も出ます。教授からもぜひにと言われているので、お願いしますね」
業務の一環と言われれば、基本的に百音は受けざるを得ないわけで、戸惑いつつも、わかりました、と頷けば、また詳細は送ります、と朝岡が言って会議は終わった。ヘッドセットを外しながら、百音は手帳に目をやる。確かに、他の仕事は調整が効くものないしは前後の時間で東京でもできる仕事ばかりでコンフリクトもなく、業務上の問題はない。東京への出張はいつだって嬉しいことも朝岡は先般承知だ。
返す刀で届いた朝岡からのメールには当該案件の詳細が記載されていた。東成大学 経営学部 経営学科の春セメスター特別講義のひと枠を、懇意の教授からの依頼で朝岡が引き受けているもので、気象データとビジネスについてがテーマ。基本的には朝岡の講義が主だが、半分ほどは他のWE社社員の登壇も予定されていて、内田は花粉症アプリを事例として情報処理技術の活用とB2Cマネタイゼーションについて、野坂は防災の産学官連携における企業の役割と社内調整について等、それぞれの領域を活かしたテーマでコマを受け持つようだ。
百音に割り当てられたコマのテーマは、気象データコンサルティングサービスのローカリゼーションと課題、となればWE社で気仙沼営業所を立ち上げた百音に振られるのは確かに妥当というもの。一つ増えた仕事を手帳に書き込みつつ、まずは今日のアポから…と、百音は漁協訪問のために立ち上がった。
その夜、百音は菅波に事の次第を電話で早速話す。
「講義をひとコマ受け持つなんてすごいじゃないですか。さすが百音さん」
菅波の、少し楽し気というか誇らしげというかな響きに、百音はむぅっと口をとがらせる。
「せんせ、ひとごとだとおもって」
「いやいや。それに、学部違いとはいえ僕の母校ってのもなんかうれしいですよ」
「そうですよ、そこですよ。まさか東成大学なんて、私にとっては雲の上すぎます。大体、私はそもそも大学行ってないし」
高校を卒業して、森林組合に就職して、そこから気象予報士資格を取ってウェザーエキスパーツ社に入って、という自分の道は、その時において(菅波との出会いと学びと別れと再会を含めて)最善であったと思う。ものの、たったひとコマとはいえ大学の教壇に立たなければならないとなると、逡巡が生じるのもむべなるかなと思う。
「朝岡さんが、百音さんの今までの実務実績を踏まえて、それを話してほしい、って言ってるんだから、きっと大丈夫」
菅波の言葉に、まぁ、そう思うしかないんですけど、と百音も頷かざるを得ず。
「講義内容の作成は朝岡さんからも助言もらえますし、いいんですけど、なんか、うん、大学で講義って言われると身構えちゃって」
「百音さんが今までやってきたことを信じて自信を持って準備して」
「うん。そうする」
「がんばれ」
という会話を電話越しに交わした二か月後、百音はその登壇の日を明日に控えて東京の家で最後の確認をしていた。90分のコマで、朝岡による導入部やQAの時間を想定して、百音が話す時間は正味で70分程度の想定である。講義資料はすでに朝岡と、WE社の広報部のレビューが通っており、逆に言うとレビュー後の無断変更はできないため、これ以上の更新はなく、あとは自身の話す内容やポイントの整理が主である。
菅波からは、原稿をずっと読み上げるのでは聞いている側も集中しないし、講義で話す意味がなくなるとアドバイスを受けていて、それは確かに、参加して眠気を覚えたシンポジウムの講演を百音も思い返している。講義資料のページごとに話すポイントと、資料には記載していないが様子を見て追加で口頭で話す内容を読み返し、話の流れに過不足はないか、ぶつぶつと口にしながら確認をしていると、百音の後に風呂から上がってきた菅波が、百音の傍らにノンカフェインのホットティーラテを置いた。
「あ、先生、ありがと」
百音が礼を言ってマグを手に取り、あったかい、と一口飲むのを、向かいに座って自分も同じものを手にしたスウェット姿の菅波がほほ笑んで見守る。
「もうあとはあまり準備に根詰めないで寝ることが大事じゃないですか」
さっきも一度リハーサル聞かせてもらったけど、分かりやすかったよ、と菅波が言うと、そうなんですけどねぇ~と百音は思案顔である。
「大学での講義は初めてかもしれないけど、シンポジウムとかカンファレンスでの発表は百音さんもやったことあるでしょう?」
「まぁ、そうなんですけど」
「プロの同業や企業経営者の人たちが聴衆にいるそれに比べれば、気象サービスのことを知り始めのハタチや21そこらの学生相手だと思えばプレッシャーも和らぎませんか?」
「確かに」
百音は頷きつつ、ふと気づいたことを口にする。
「というか、私と先生がこうなったのって、そういえば私がその21だった時のような…」
その言葉を聞いて、ティーラテを口に含んでいた菅波が、盛大にムセこむ。
「え、やだ、せんせ、だいじょぶ?」
百音が思わず身をのりだすのに、菅波はマグを置いて、もう片手で大丈夫、だいじょぶと制する。もちろん百音は成人していたし就労4年目の社会人だったことも事実だが、場合によっては大学生の年頃だったといわれると、自分は当時にして30になってすぐだったということがジワリとダメージである。
「いや、あの、うん、当時、百音さんが大学生じゃなくて就職しててよかったな、って思っただけです」
あまりに百音が怪訝な顔をするので、菅波が思わず白状すると、百音の頬が染まる。えっと…と百音もマグをいじりつつ、まぁ、あの、あのまま仙台の女子大行ってたら光太朗さんには出会えてなかったから…と俯き、菅波も無言でうなずいた。
「で、明日は何時に白山台なんでしたっけ」
「え、白山台?行くのは槇塚キャンパスってとこですけど」
「経営学部ですよね?」
「はい」
菅波の怪訝な顔に、百音も怪訝な顔になる。
「経営学部って白山台じゃなかったっけ」
「槇塚キャンパスの啓明館301教室って言われてます。え、先生、ホントに東成大卒なんですよね?」
おもむろに卒業大学を疑われたテイになった菅波が、えぇえ、と言いながらスマホを取り出して調べれば、キャンパス再編で経営学部が白山台キャンパスから槇塚キャンパスに昨年移転していたことを知る。
「ほら、ここ。僕が在学してた頃は白山台だったんですよ」
「先生、今でも東成大の人ではあるんですよね?」
「附属病院所属ですから、一応」
「だけど知らなかったんですか?」
妙な疑惑の目で見られた菅波が口をとがらせて抗弁する。
「医学部はキャンパスが独立してますから、他のキャンパス事情には疎いんです。あなたも知ってるでしょ、大学病院の場所。医学部はあの横にあるんですよ」
そもそも大学のキャンパスなるもののイメージがピンとこないし、ひとつの学校で複数の場所に散らばっていることもピンとこない百音は、菅波の言葉に、そんなもんなんだ?と首をかしげていて、言い募った菅波も、その手ごたえのなさに笑うしかない。
「まぁ、槇塚キャンパスは医学部の明石町キャンパスに比べて広々として緑も多いいいところです。楽しんできてください」
菅波がそう話をしめくくれば、百音もそうします、と頷いて明日の準備を終えるのだった。