『しるし』を持つ日「モネ、これ一緒に持っていっておきなさい」
龍己の縁故で登米の森林組合に仮採用が決まり、百音が諸準備を進める日々。役所から転出届を取得して帰宅した折に、亜哉子が居間のちゃぶ台の上にそっと置いたのは、麻の葉模様の布の小さなポーチだった。百音にも見覚えのあるポーチは、祖母が生前に、未知の分と色違いで作ったもので、確かお年玉などを貯金する銀行口座の通帳などが入っているはずだ。
百音がそれを手に取って中を見れば、記憶通りに耕治が勤める銀行の、若草色の通帳と、ほやボーヤがプリントされたキャッシュカード、そして銀行印が入っている黒い印鑑ケースである。しかし、それに加えて、見慣れない印鑑ケースが二つ入っている。首をかしげながら百音がそれを取り出すと、桃色と黄色それぞれのケースから『永浦百音』『永浦』と刻印された印鑑が出てきた。フルネームの方はもう片方のそれより一回り大きく、印影の書体もより凝ったものだ。
意味を理解しあぐねている百音を見て、亜哉子がほほ笑み、ちゃぶ台から身を乗り出す。
「就職して社会人になるでしょ。だから、認印と実印をちゃんと持ってた方がいいかなって。印鑑登録をするかしないかは別にして、持ってたらいざって時に使えるもの」
フルネームの方が実印用で、苗字のが認印ね、と言われ、百音はまだはっきりと分からないなりに、こくり、と頷いた。
「就職お祝いってほどじゃないけど、娘が家を出る時には作ってあげたいな、なんて思ってたのよ、昔から」
亜哉子の言葉に、百音が、そうなの?と相槌を打つと、うん、と亜哉子がやわらかく頷く。初めて就職した時の同期がそうしてもらったのを聞いて、素敵だな、って思ってたのから、まぁ、自己満足。持ってってちょうだい、と言われ、ありがとう、と百音が呟く。
「内湾の小山印章さん、去年の12月から営業再開されたでしょ。せっかくだから小山さんとこに行ったのよ。モネの事覚えてて、実印をお願いしたら、ご就職ですか、って。そうなんです、って言ったら、おめでとうって伝えてくださいって」
ご就職なのは事実だが、何かおめでとうを言われるような経緯はみじんもないと思う百音が、まぁ、うん、と頷くと、亜哉子もまぁ、そうよね、という顔で、ありがとうって言っといたわ、と会話を締めくくった。
転出届と麻の葉文様のポーチを持って、自室に戻った百音は、それら一式を、特に感慨もなく、まとめて手続き系の諸々をまとめたファイルケースに仕舞うのだった。
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「そうだ、ハンコつくらなきゃ」
百音がふと気が付いたトーンの声を漏らしたのは、東京の家で菅波とならんで朝食の食器を片付けている時だった。あ、そうですね、と菅波が百音の言葉に、自分が思いつかなくてすみません、と謝れば、私も今まで忘れてたので、と百音が首を振る。
前日に婚姻届を提出して、法的な手続きが整った今、百音の戸籍名は『菅波百音』になった。現行の法制度上、『永浦』か『菅波』のいずれかを選択しなければならない中、菅波はかなり渋ったが、百音の方が通称名での仕事に融通が利くことと、菅波がすでに同名で論文等の発表実績がある事などを踏まえて、『菅波百音』でいいのだ、と押し切っている。
「『菅波』の認印なら僕が使ってる予備もあるけど、せっかくだから新しく作りますか?」
拭き上げた揃いの茶碗を仕舞いながら菅波が問うと、百音がそうですねぇ、と考え顔である。
「結局、一回も印鑑登録しなかったんですけど、就職の時に母がもたせてくれた実印用の印鑑が『永浦百音』ってフルネームなんですよね。それは作り直さなきゃだから、ついでに認印も作っちゃおうかと」
あぁ、なるほど、と菅波が頷く。
「そういえば、僕も兄も、家を出る時に印鑑一式を親から渡されました。実印と認印と銀行印。親っていうのはそういうものなんですかね」
「ウチの母は、自分がしてもらえなくて寂しかったから、私とみーちゃんには、なんて思ってたみたいです」
「そうなんだ」
先生は印鑑登録してるんですか?という百音の問いに、賃貸契約の時に必要だったりしますから、転出入の時に合わせて登録しちゃいますね、と菅波が答える。印鑑の盗難・紛失リスクがあるから、必要な時に都度登録と抹消をするのが良い、なんて説もありますが、そんなにマメにはいかなくて、と菅波が頭をかけば、そりゃせんせい、いそがしいもん、と百音が頷く。
先生の実印どんなのなんです?と百音が興味深そうなので、菅波は口許を緩めながら、足を書斎エリアに向ける。デスクの袖机の引き出しから紺色の印鑑ケースを取り出し、中身をほら、と隣に立った百音に渡した。百音がそれを受け取ると、金属製のそれは指にひんやりと心地よい。
「金属製なんですね」
「チタンです。工学系の父がチタンの印があることを面白がって、それで」
「お父様らしい」
昨日、結婚の挨拶に訪問して初めて会った、菅波の父を思い出しながら百音が納得する。手許の印をくるりと返して印面を見て、またフムフムとなる様子を菅波がかわいいなぁと見つめている。
「『菅波光太朗』 5文字だから字の詰め方が4文字とはまた雰囲気違いますね」
「きっとそうでしょうね。チタンは機械彫一択だから、手描き印影で名前作って作成するところ探したとかなんとか、あれこれ言ってましたよ」
「そういうところはさすが光太朗さんのお父様、って感じがします」
「いや、あの父に似てると言われると」
「それは無理なあがきというものでは」
百音の来訪に、すっかり華やいであれこれ世話を焼こうとする菅波の母に、全くそっくりのチベスナ顔をしていた二人を思い出して、百音がくすりと笑うと、菅波は降参です、と両手をあげた。
「私の実印もチタンにします?」
「もしそうしたければ。他の素材と価格差はあるけど、使う年数を考えれば誤差です」
「ねんすう」
菅波が、百音のつぶやきに、猫背で百音の顔をのぞく。
「…これからずっと『菅波百音』でいてくれます…よね?」
その言葉に、菅波の言わんとすることを理解した百音が、片手に印鑑を持ったまま、わたわたと両手を振ってみせた。
「あの、それは、もう、もちろんです!ずっと、うん、ずっと」
うん、うん、と頷く百音に、菅波がくしゃりと笑って安堵をみせ、それに百音も笑う。
「じゃあ、お揃いがいいです!」
百音が言うと、菅波がわかりました、と頷き、同じところでできるか僕が聞いて発注しておいていいですか?という提案に、百音が、お願いします、と諾を返した。
「後は認印か。それは散歩がてら、作りに行きますか。駅前にハンコ屋あった気がする」
「確かに、ありますね。行きましょう」
部屋の掛け時計を見上げれば、ちょうど10時5分前で、散歩に出て店を訪れるにはちょうどいい時間。菅波の実印を片付けて、ゆるりと近所に出る程度の外出の支度をして。手を繋いで同じ部屋から外出することすらうれしい。
ほぼ開店と同時に訪れたハンコ屋ではイラスト入りの認印を扱っていて、各種動物イラストのラインナップの中に、ホホジロザメとジンベエザメがあった。
「せっかくだからジンベエザメにしようかな」
これでお願いします、とカウンター向こうの担当者に依頼し、印字内容などを用紙に記入しながら、百音は、菅波の様子に目敏く気づく。
「光太朗さん」
「はい」
「ホホジロザメで作りたい、ですね」
「…はい」
ただ、その、僕はもう『菅波』の印は持ってるから…、とぼそぼそ言うが、いいなぁ、と思っていることは確かで、それなら作っちゃえばいいじゃないですか、と百音は持ち前のプッシュである。
「これも、お願いします!」
百音がびしっと担当者に言ってしまえば、菅波がそれを止めるべくも止めるわけもなく、認印発注のプロセスは2本分、さくさくと進んでいく。幸い、両方とも在庫があり、開店直後ですぐに作業にとりかかれるということで、小一時間ほどで作れるという。
一度、店を離れて、川べりを散歩し、スーパーで牛乳と卵を買い足せば、あっという間に受け取りの時間。ただいま、と二人で帰宅した時には、菅波の手にはエコバッグ、百音の手には2本の認印の入った小さな紙袋が提げられていた。
さっそく、と、百音が菅波の書斎エリアからメモ用紙と朱肉をダイニングテーブルに持ち出す。メモ用紙に、出来立ての認印を百音と菅波がそれぞれ捺せば、1センチちょっとの円の中にホホジロザメとジンベエザメが泳ぎ、その傍らにはそれぞれが選んだ書体で『菅波』の文字。
サメがあってよかったですね、と百音が笑い、菅波も、一緒に作ってくれてありがとう、と笑う。ハンコ屋で選んで買った、これまた揃いの青海波模様の印鑑ケースに自分の印を仕舞った百音は、そのケースを大切にそっと両手で包むのだった。