そのまま心まで 高槻彰良には、親しい者を寄せ付けない夜がある。
それは子どもの頃、自分が皆の前から消えたあの夜と同じ時期の三日間。
その季節が近づくと、高槻は夜を無性に恐がるようになり、誰かが側にいることが分かるように、心の隙間を埋める代わりに身体の奥まで一杯にして欲しいと願うようになってしまった。
そして、その思いが、いつしか高槻の中で知らない誰かに手酷く抱かれることと同義となった。
乱暴に犯されることで、その痛みから高槻は生を感じ、自分は人間なのだと、こちらの世界の住人なのだと安心する。この、ある種犯罪にもなりかねない程の激しい交わりのことは、高槻を一番に心配する佐々倉には勿論伝えていない。
相手は高槻が見繕い、代金を支払う。必要以上に会話をしない、等の数点の約束事を守ることが出来れば相手として選ばれる。
たったそれだけで見目麗しい高槻の相手が出来る上、金が貰えると、一年に数日程の高槻の夜の相手は、裏の世界では話題の種となっていた。
その夜も、ある一人の青年が高槻との夜を過ごしていた。そろそろ朝日が差す頃、事を終えた二人は身支度を簡単に整え、高槻は相手を玄関先まで送り出す。
「今日もありがとう、お金はいつものところに振り込んでおくから」
気だるげな表情のまま、高槻は淡々と言葉を紡ぐ。事後の疲れからか、その身を包むのは肩からずり落ちそうな大きなスウェット一枚だけだ。しかしその姿は、青年に最中の高槻を思い起こさせるには十分だった。漂う雰囲気にごくりと唾を飲み込む。
ここ数日繰り返された高槻との行為は、とても刺激的で、忘れられそうも無かった。契約期間はあと一日だけ。次に会えるのは今日の夜。それ以降高槻と会える日は、いつになるのか。
その事実が、彼に焦燥感を募らせた。
「じゃあまた」
「っ……あの!!」
本来ならば、会話は許されないはずだった。
しかしどうしても、声を出さずにいられなかった。
高槻に会って、体温を分け合って、彼の魅力に取り憑かれてしまった青年は、ついに禁忌を犯してしまった。
「昼間も……会えませんか……?」
夜の高槻は自分に笑顔を見せてくれる。侻いんだと泣いてくれる。きっと高槻との身体の相性は良いはずだ。では昼間はどうだろう?太陽の下で彼を見たい。誰かから隠れるようにではなく、堂々と彼を愛したい。
しかし、そんな青年の眼差しから逃げるように、高槻は悲しそうにぽつりと呟いた。
「……約束は、絶対だ」
青年の目が、ハッと見開かれる。
「……やだな、冗談ですよ。今日は帰ります。またあし……」
「今までありがとう」
「……嫌だ、嘘だと……っ!」
「バイバイ」
そして、扉は無情に閉められた。
*****
いくら高槻が隠そうとしていても、隠しきれないこともある。
あの季節の、佐々倉からの夜の訪問を高槻はやんわりと拒否している。その理由も、悔しいことに佐々倉は知っていた。
『健ちゃんには、あの姿を見られたくないんだ』
『ワガママで……ごめんね』
そう線を引かれてしまえば、佐々倉は一気に身動きが取れなくなる。本当は側に居てやりたい。普段怪異かもしれないと、ところ構わず頼ってくるのは誰だ。幼い頃から弱い姿だって、虚勢を張っているところだって何でも見てきた。それならばなぜ欲にまみれた顔を見てはいけないのか。
高槻があの時期の夜の過ごし方が変わったと気づいたのは、彼がロンドンから帰ってきて初めての年だった。中学生の頃、その夜が近づくと酷い隈を作ってただ寝れないんだと、無理に笑うだけだった高槻の様子が違う。
高槻から、複数人の欲望の気配を感じた。
雰囲気が変わった高槻に問い詰めても、寂しく微笑むだけで、何も伝えてはくれなかった。
高槻は、変わってしまった。自分では、彼のほの暗い欲望の芽を摘むことは出来なかった。
その事実にイラつきながらも、何も出来ない自分が一番腹立たしい。
そして刑事となった今、秘密裏に佐々倉は高槻の相手の情報を集めるようになった。高槻に危害を加えることはないか、今までも、これからも、高槻が傷つくことが無いように――。
*****
コンコン、と静かにノックする音が聞こえて、高槻は微睡みかけていた意識を浮上させた。
自分にしがみつく青年を軽くあしらった後、少し仮眠を取ったが、あまり眠ることが出来なかった。今日が、自分が部屋から消えたその日だからだ。
本日の講義は全て終了したが、レポートの採点や、次回の講義の準備などする事は沢山ある。
集中しなければいけないと頭を振って、扉へ向かって声を掛ける。
「どうぞ」
「……先生」
「深町くんいらっしゃい!飲み物を用意するね」
「あ、いや、今日は……」
最近、バイト等の用事が無くても、尚哉が研究室に来ることが増えたことに高槻は嬉しく感じていた。
幼馴染のように、ただコーヒーを飲みに来てくれるだけでいい。彼の心の拠り所の一つになりたいと、高槻は思っていたからだ。
しかしそんな高槻とは裏腹に、嬉しそうにコーヒーを淹れる準備をする高槻の横顔を見て、尚哉の顔が歪んだ。
「先生……体調大丈夫……ですか?」
「あー……ごめん、顔に出てたよね。最近ちょっと寝れてなくて」
今日は早めに帰るようにするよ、と尚哉のマグカップを机に置き、コーヒーのドリップパックの袋を開ける。
「先生……」
いつも一定の距離を置く尚哉が、今日は一段と遠い気がする。何かあったのだろうか。高槻を心配して、もあるのだろうが、表情が少し硬いように見える。
「どうしたの、深町くん」
声色の変わった尚哉に気づき、深町の方へ向き直ると、ぎゅうと両手を握りしめ真っ直ぐに高槻を見つめる尚哉がいた。
「俺じゃ、駄目ですか」
「え……?」
「佐々倉さんから聞きました。昨日、先生の相手が『失敗』したって」
「ふか……まちくん……?」
「先生の事情を、勝手に訊いてすみません。でも佐々倉さんに頼まれたんです、『俺じゃ彰良を慰められない』って。だから」
「深町くんは、頼まれたら何でもするの?」
自分で思った以上に低い声が出て、高槻はしまったと口を噤む。でも深町には、佐々倉には、知られたくなかった。自分の暗くて、気持ちよくて、でも子どものように泣きそうな夜のことを。
「先生だから……!俺なら金なんていらないし、先生との先も……望みません」
ツキリと、心が痛んだのはどちらだったのだろう。
なぜ佐々倉は尚哉にあの夜のことを話してしまったのだろう。自分よりも、高槻を優先してしまう優しい幼馴染。あの夜のことを、彼が何も出来ないと自分を責めていることは知っていた。でもだからと言って、大事な生徒である尚哉を引き込むことなんか、出来ないことも分かっていたはずだ。
「……先生」
「悪いけど、帰ってくれないかな」
「嫌です」
「深町くん、君には僕を慰めることなんて出来ない」
優しい彼を、醜い自分の闇から遠ざけたくてわざと言葉の刃を投げつける。君には出来ない、君は無力だ、君には僕のように穢れて欲しくない――
「先生」
いつの間にか、じり、と尚哉に距離を詰め寄られて高槻は声を失う。いつも微笑んでいるのは自分のはずなのに、今日はその立場が逆転していた。
最近表情が豊かになったと瑠衣子も洩らしていた深町の、まるで愛おしいものを見るかのような笑顔。
「先生、大丈夫ですよ。僕が」
――酷くしてあげますから。
そう言って抱きしめられた尚哉の腕の中は、ほの暗く暖かくて目眩がした。
FIN