くちづけ たまたま点けたテレビで。
たまたまドラマをやっていて。
たまたま初々しいキスシーンがあって。
俳優さんの演技がぐっときて、こちらもきゅんとしそうになったところで尚哉は気づいた。
「俺、先生とキスしたことない……?」
*****
深町尚哉と高槻彰良は付き合っている。
教師と生徒という立場で、おおっぴらに言える関係ではないけれど、節度を持ってそれなりに二人楽しくお付き合いをしているところだ。初めての恋人に、どうしたらいいのかわからなくて高槻に甘えてしまうところもあったけれど、段々と恋人の距離にも慣れてきて、隣に高槻がいる生活に少し心の余裕も持ててきていた。
そんな中での、あのドラマだ。
そもそも、付き合うって何するのだ?と付き合って数ヶ月目にして疑問を抱く尚哉である。
高槻の研究室に行く頻度は、変わらない。一緒に帰る頻度も、変わらない。前に比べて距離は……いや、距離感バグの高槻だから、あまり、変わらない。
変わったことといえば、週末に高槻の家に行ってそのまま泊まることが増えたくらいだ。平日、学校内では良く会うが公共の場ということで、高槻もそこまで尚哉に接触する機会は減った。けれど、家の中では隣同士でソファに座って映画を見たり、ちょっと、手を繋いでみたり。高槻の肩に寄り掛かってみたりして――。
「……あっつ……」
思い出すだけで体温が高くなって、思わずパタパタと顔を扇いでしまった。けれど、それだけだ。なんだか、恋人らしいことはしてない気がする。そりゃあ同じベッドでちょっとくっついて寝て、「おやすみ」と「おはよう」は一日の最後と最初にやっているけれど。
「……うん、十分だな」
ベッドの中から優しい瞳で自分を見つめる高槻を思い出して、体育座りをした足をバタつかせたあと、その間に顔を埋める。今されていることだけでいっぱいいっぱいで、胸が締め付けられるのに、キスなんて。
そんな、唇と唇を合わせるなんてそんな高度なこと、出来る気がしない。高槻と付き合っていない時でも、時々顔同士が近づいた時はあったけれど。
「〜〜〜無理!」
あのキレイな顔が、もっと近づいて?あの柔らかそうな唇が、自分の唇と――。
「ダメだ!ちょっと落ち着こう!先生!どっか行ってください!」
自分から想像したことなのに、頭の中の高槻は「そりゃないよ深町くん」と悲しそうにしている。そんな顔しても無理ならものは無理なのだ。とにかく明日も早いし早く寝るに限る。想像した高槻を振り払うようにブルブルと頭を振って、尚哉は部屋の電気を消した。
*****
「……最悪だ……」
起きてすぐのこの独り言が、今日の一日を表すことになるなんて尚哉は思いもしないだろう。
のっそりとベッドから起き上がり、顔を洗いに洗面台へ。朝ご飯を適当に食べながら今朝見た夢を反芻してダメだダメだと頭を振る。
寝る前にキスのことを考えてしまったからだろうか、夢に高槻が出てきた。出てきた分にはいいが、観ていたドラマの主人公が高槻に、ヒロインが尚哉にすり替わっていたのだ。これは堪える。実に堪えている。
それを認識した尚哉の心臓は朝からバクバクとうるさいし、なぜかしたこともないキスの感触まで勝手に再現されているものだから、男の人でも柔らかいんだな、とか、謎の感想まで出てきて大変だ。しかも本日は高槻の講義がある。このままだと高槻の唇ばかり目に入って、授業に集中出来ない予感がする。
「流石に、そんな思春期男子じゃあるまいし!」
とりあえず、一人大きな声を出して大学に行く準備をする尚哉だった。
*****
「以上のことにより、この都市伝説には……」
目の前には、楽しそうに朗々と講義を進める高槻がいる。本日も大教室は満員御礼。興味本意で聞く学生もいるが、その講義内容からか、継続して積極的に講義を受ける学生も多い。隣にはへぇ〜と相槌を打ちながら、プリントにメモ書きする難波。チャラそうに見えて、こいつも結構真面目だということは最近の付き合いで分かったことだ。
隣をそれとなく眺めながら、難波のことが真面目だなんだ考えている自分が、一番不真面目なのは良く分かっている。
そうだ。悪い予感は当たる。今尚哉は高槻の話を全く聞けていない。途中までは大丈夫だった。スクリーンを使うから教室を暗くして、高槻自体見えにくい状況での講義には集中出来た。それからがダメだった、今度はホワイトボートを使いながら、全員を見回し語りかけるような高槻が一度、唇の前に人差し指を当て「静かに」と促すポーズを取ったのだ。なぜか黄色い悲鳴が漏れた。尚哉の心臓も強く鷲掴みされた。
あれから、高槻の唇に目がいってしまってもうダメだった。そういえば、今まできちんと見たことが無かったかもしれない。先生は下唇の方が厚めで、ふっくらとしていて、薄桃色で、何だか、美味しそう――。
「?!」
何だ、美味しそうって、まるで考えてることが変態じゃないか。
「……お、おい深町?大丈夫か?」
ぴしゃりと頬を叩くと、隣の難波がびっくりしたように尚哉を見やる。
「難波……俺、頑張るから」
「お……おう?」
それからは必死で先生を見ずに、目の前のプリントを目が充血するほどに見つめた尚哉なのだった。
*****
「……疲れた……」
何とか高槻の授業を終え、次の講義も必死でノートを取ることに集中して、本日の講義は終了した。
何だか高槻のせいで不要な体力を持っていかれた気がする。今日は早く帰って精神統一をしよう。
ノートやプリントをリュックに詰め込んでいると、携帯からバイブレータの音がする。嫌な予感を感じ通知を見つめること数秒。
『今から研究室に来れる?』
大好きな高槻からのメールは、まるで余命宣告をされたようだと尚哉は後に語ることになる。
「……失礼します」
「深町くん!来てくれてありがとう。予定、大丈夫だった?」
「はい、家帰って修行……あ、いえ、レポートやろうと思ってただけなんで」
満面の笑みで出迎えてくれた高槻を真正面で受けて、わざとらしくないように目を逸らしながら会話をこなす。絶対に、高槻にはキ……キス……のことなんか、知られてはいけない。ただでさえ観察眼の鋭いこの人の用事をスマートにこなし、スマートに退出するのだ。
「それで、今日はええと……バイトですか?」
コーヒーを用意すると、尚哉に背を向けた高槻にほっとするも、いつもの声色を意識しながら会話を続ける。
「バイト……と言いたいところなんだけど、用が無くちゃ、深町くんを呼んじゃダメだったかな?」
途端にくるりと尚哉を振り返ると、こてんと首を傾げてこちらを見る高槻に尚哉はぴしりと固まる。
え……先生、今日なんか……可愛くないか?尚哉よりも背が高いのに、上目遣いされた気分になり心臓がドキドキと脈打つ。
「ダメ……じゃないです」
「そう?良かった」
にっこりと笑う高槻に、尚哉も釣られて笑顔を返す。普段よく見る笑みのはずなのに、一度可愛いと思ってしまえばその気持ちが止まらなくなり戸惑いを隠せない。
あれ?先生ってこんな可愛い人だったっけ?何故だろう、守ってあげたくなる。
「それにね……」
そう言いながらも、どこか言い淀む高槻に尚哉は首を傾げる。いつもはズバズバと物事を素直に言う高槻にしては珍しいほど言うか言うまいか、迷っているようだ。
「……今日の深町くん、どこか変だったから。体調でも悪いのかなと思って」
ああ、バレてました……。
ですよね、やっぱりそうですよね。自分でも挙動不審なのは分かっておりました。けれども、これは先生が悪い。先生の唇が可愛いから悪いということにする。
「大丈夫ですよ!ほら、元気!じゃ、用が無いなら帰りますね!」
「えっ」
「えっ」
早くこの場を収めたくて、普段と違う高槻にドキドキする自分に混乱して。その場を立ち去ろうとするも、高槻はそんな自分を許してくれなかった。
ああ、そんなしゅーんとした顔をしないでください。帰れなくなっちゃいそうだから。あと唇突き出すのやめて欲しい。可愛いが上がっちゃうから。
「深町くん。違ってたら申し訳ないんだけど、今日途中からずっと僕の唇のこと、見てたよね?」
――バレてた。
挙動不審以上にバレてた。これはバレてても、言わないで欲しかったです。唇見て鼻の下伸びてる俺なんか、気づかないで欲しかった。
「そ、そうですか?顎じゃないですかね〜」
この気まづい空気から解放されたくて、唐突に出た下手な言い訳に自分でツッコミを入れたくなる。顎をじっと見てたって何だよ?それはそれで変態の臭いがする。
「顎?顎に何か付いてた?」
「付いてないです」
早くこの会話を終わらせて、この場から逃げ出して、次に会うときは元の自分に戻るんだ。だから、早く先生……!
「でもそうなんだ、残念。僕たち今までキスしたことなかったでしょ?だから、深町くんしたいのかな……って。でもそっかぁ、違うんだ」
そう言って高槻は、形の良い指先を自身のぷっくりとした唇に持っていってなぞるように触れている。唇を強く押したことで唇に隠された白い歯も少しだけ見えて、尚哉は食い入るように見つめてしまった。
「……ね、深町くん。僕とキス、したい?」
試すように尚哉を見つめる高槻がまるで、小悪魔のようでクラクラする。
「――したい、です」
だからこれ以上彼にリードされないように、その唇を自分の唇で塞ぐことにした。
Fin