Whenever you want「愛美の元カレが」と苦虫を潰したかのように話し始める難波に、尚哉も殴られたような衝撃に陥った。
――元カレ。それは、愛しい人が以前付き合っていた、自分の知らない誰か。難波が目の前で珍しく項垂れているのを目にして、同じだと思ってしまった。自分が今付き合っている、生徒たちに人気の彼に昔の恋人が居ないなんてきっとあるはずもなくて。
(でも、――そんなの、嫌だ)
降って湧いた感情は、素直に嫉妬心だった。
元々そこまで何かに執着はしないタイプの人間だった自分が、彼の過去まで欲しがっていることに驚く。今、高槻は尚哉と付き合っている。だから、今の彼は尚哉のもの。そんな乱暴な理論も、きっと高槻なら許してくれるだろう。そして、ゆくゆくは未来も……そう考えているなんて彼が知ったらどう思うだろうか。
だから、過去だって欲しいと思ってしまうことを止められない。未だ見ぬ誰かに向けて微笑んでいた高槻を想像して、尚哉は唇を噛んだ。
*****
『元カノ?』
一人で悩んでいても何の解決もしない。こうなったら、当たって砕けろだと電話をしたのは、彼をよく知る幼なじみ。彼の過去を知りたいという気概は強く持っていたが、直接本人に聞けるわけがない。残念ながら、恋する男子は臆病だった。
『知らねぇなぁ。そういう話が彰良から出てきたのは、お前が初めてだ』
「そう……です、か」
気合いを入れて電話をしたのに、呆気ない結果にどこか拍子が抜ける。そんな尚哉に気づいたのだろう、電話の向こうで佐々倉が笑う気配がした。
『あいつはモテたが、特定の女の話は聞かなかったな。心配すんなよ、あいつは今お前にゾッコンだ』
「佐々倉さん、言い回しがちょっとおじさんみたいです」
『……んだと?』
「お忙しいところ、ありがとうございました!失礼します!」
『おい深町!おま……っ』
ツーツーツー……
非情にも鳴り続ける電子音を聞きながら、口の中でもう一度お礼を言って尚哉は携帯をズボンのポケットにしまう。佐々倉は『特定の女』はいないと言っていた。それならば、一度きりだとか、行きずりの関係ならば、あったのかもしれない。例えば、大学の同級生であったり、講師時代、新しい人間関係を築いていく中で誘われる可能性だってある。
「ふーかまちくん、何か悩み事?」
どのようなシチュエーションならば、高槻と一夜の関係を築けるのだろうか。余りにも想像力が乏しくて道端で立ち尽くしていた尚哉は、本人に声をかけられるまて近くに高槻がいることに気づかなかった。
「先生……」
「どうしたの?僕で良ければ話聞くよ」
いつもと変わらない、優しい笑顔。でもその顔が乱れる様を、誰かに見せたのだろうか。二人だけの密室で、暗闇の中、荒い息を交わらせながら。
嫌な想像だけは鮮明に出来てしまって、尚哉は目を瞑った。高槻は今尚哉と付き合っていて、昼の顔も、夜の顔だって尚哉だけに見せていると知っている。だからこそ、過去にその顔を見た誰かに激しく嫉妬を覚えてしまう。尚哉だって、当時の高槻を見てみたい、あわよくば、高槻の過去の誰かにだってなってみたかった。
「深町くん」
尚哉の様子を見て何かを感じ取った高槻が、「相談に乗る優しい先生」の顔をして尚哉に近づく。耳に寄せられた吐息に震えると、気を良くした高槻の声が聞こえた。
「……今日、うちに来る?」
はい、と口に出して言うことで何だか悪い事をしている様な気分になって、尚哉は静かにこくりと頷いた。
*****
高槻の家に行き、晩ご飯を一緒に作り食卓を同じにしている間も、高槻は何も訊いてこなかった。そのことが余計に尚哉を苦しめる。恐らく、尚哉から切り出すのを待っているのだろう。でも今はその気遣いが苦しい。もし自分が高槻と関係のある女性の話を聞こうとすれば、正直に教えてくれるだろう。「今は深町くんだけだよ」「今だけじゃなく、未来も僕は君のものだ」と恥ずかしげも無く言う様が想像出来る。それ程愛されていることを、尚哉は知っている。
でも尚哉にしてみれば、一度その存在を知ってしまえば、常に彼女たちの存在を意識しなければいけなくなる。彼女たちならどうしたか、彼女たちはどう高槻に触れたのか。
実に贅沢な悩みだと理解している。今、これ程高槻に愛されているのに、とんだ強欲だ。食後のコーヒーを飲みながら、尚哉は自嘲する。折角高槻に誘ってもらった今夜の食事は、ほぼ味がしなかった。
「深町くん」
中々話出さない深町に痺れを切らせたのか、高槻が深町を呼んだ。その声には、何の焦りも、不安も無い。尚哉の好きな透き通った声に安心して顔を上げると、けれど、少しほっとした表情の高槻が見えた。
「深町くんは、僕の恋人だよね?」
唐突に、何を言い出すのだろうか。怖くなってただ静かに頷くと、高槻が微笑む。
「今の僕は深町くんのものだよ。勿論未来も」
分かっている。そう言われることを、想像すらしていた。嬉しい言葉であるはずなのに、それを喜べない自分がいた。もっと欲しいんです、先生。じっと高槻を見つめて、心の底で叫ぶ。あなたの、今も、未来も、過去だって欲しい。
「……ねぇ、深町くん。僕のね、……初めては深町くんなんだよ」
突然高槻が、恥ずかしそうな声でそう告げたことに、一瞬尚哉は反応出来なかった。だって、あの高槻彰良だ。外見が良くて、中身も紳士的で。誰にも優しくて、常に女子生徒に囲まれている彼が?まさか。
「本当だよ。カッコイイところを見せたくて深町くんには黙っていたけれど、お付き合いをするのも、……その、初めて身体の関係を持ったのも、深町くんだけだ」
俯きがちだった顔を上げて高槻を見ると、その瞳は真っ直ぐ尚哉を見ている。その中に自分しか映っていないことに気を良くして、気になっていたことを告げる。
「でも、佐々倉さんは、先生に『特定の女性』がいないと言ってました。だから、一夜限りの関係はあったのかと」
「そんな不誠実なことしないよ。それとも、深町くんは僕と誰かがそんな関係だったらいいと思った?」
ブンブンと大きく横に顔を振って、否定する。そんな人、いなければいいと思っていた。むしろその一人になりたいとも思っていたほど。
「だから、安心して。ふふ、嬉しいなぁ!深町くんが僕の過去まで欲しいと思ってくれてたなんて!」
「え?!そんなこと言ってません!」
心の中だけで抱いていた感情が、高槻の口から出てきて流石に焦る。改めて口に出されると、何ということを考えていたのかと思うが、行き詰まっていた感情はあらぬところまで行ってしまうらしい。
「好きだよ、深町くん。君の過去も、今も、未来もずっと僕のものだ」
尚哉だけを映すそのキラキラと輝く瞳が、その言葉の真実を覆えさない。余りにも大きくて、深くて、欲深い身に覚えのあるその感情に、尚哉は喜びに小さくふるりと震えて、伸ばされた手に身体を預けた。
Fin