在る日常の 尚哉の本日の講義の予定は終了した。
だからそのまま帰ろうか、それとも新しい本を見繕いに高槻の研究室に寄ろうかと、授業中で少し喧騒が途切れた広場のベンチで、物思いに耽っていた時だった。
よく知る声から、高らかに名前を呼ばれた。
「あ!深町だ!深町深町!」
「ちょっ、近い近いうるさい」
どこから現れた友人……と言いたいが声に出してそう呼ぶのは少し気恥しい難波要一が、遠くから大きな声で自分の名前を呼びながら近づいてきた。難波の授業のスケジュールは知らないが、恐らく尚哉と同じく今の時間に予定は無いのだろう。
「ふかまちぃ、最近俺に塩対応じゃねえ?」
よっこいせと隣に座った難波が、悲しそうな顔を作って尚哉に問いかける。
うるさいと言ったことを根に持っているのだろうか、さっきまで笑っていたのに、喜怒哀楽が激しい奴だなと尚哉は内心苦笑するが、そんなところも難波らしくて良いと思っている。
「そうか?普通だろ?」
にやりと笑ってそう答えると、そんな尚哉にぽかんとしたあと、難波が人好きのする顔でにこりと笑った。
「そうか、普通か、そうかそうか!」
何だか、含みのある笑い方だがそんなこと気にしてられない。しかしどこか嬉しそうに見えるのは、気のせいだろうか。
「で?何か用だったんだろ?」
「あ、そうそう。深町さぁ、ほら、あの美人の院生……瑠衣子先輩だっけ?と仲良いだろ?」
「仲が良いというか……」
「先輩ってさ、彼氏いるか知ってる?」
「聞けよ」
「ちょっと教えて欲しくてさ〜」
口を挟む隙のない難波の会話に突っ込みたくなるものの、全て話を聞き終えた要約としてはこうだった。
「――瑠衣子先輩って彼氏いますか?」
「え?」
「え?深町くん……もしかして、瑠衣子くんのこと……?」
「は?」
「え?」
さぁこれで予定が決まったと、尚哉は難波と別れたその足で高槻の研究室に向かうことにした。
瑠衣子がいなければ、また別の日に確認すれば良いだろう。そんな軽い気持ちで難波が気にしていた質問を、丁度研究室にいた瑠衣子にすると、同じくその場に居た高槻がきゃあと黄色い声を上げた。
「えーと……いないけど、どうしたのわんこくん?」
「良かったね!深町くん!」
「ちょっと、先生は黙っててください。……実は、難波の友達が瑠衣子先輩のことを気になっているらしくて」
難波から聞かされた話はこうだ。
ある日、難波の友人は図書館で瑠衣子を見かけた。
うずたかく積まれた本の山に埋もれて書き物をしている瑠衣子に、最初は勉強熱心な人だな、という感想しか無かったようだ。
それが、次に図書館に行ったときも、その次も同じ席で必死に、けれど楽しそうに資料を読んでいる瑠衣子から目が離せなくなり、もしかしたら瑠衣子と会えるかと毎日図書館に通う程、彼女に恋をしてしまったらしい。
「俺、瑠衣子先輩は資料を見て研究というよりフィールドワーク優先のイメージなんですけど、そんな頻繁に図書館に行かれてたんですか?」
「あー……多分その時はフィールドワーク終わって、論文にどうまとめようかって時期だったのかな?」
「それで、難波くんのお友達はもしかして、深町くんに瑠衣子くんを紹介して欲しいとか?」
いつもの如く、マシュマロたっぷりのココアを含みながら、高槻は尚哉に問いかける。上唇に付いたココアを指でかすめ取るのは、ゼミ生と尚哉以外が見たら卒倒してしまうので止めて欲しい。
「そうみたいです。瑠衣子先輩を図書館以外で見かけた時に、隣に自分が居るのを見て誰だあいつは、となったと難波が……」
その時の難波の小芝居っぷりったらなかった。
まるでその場を見たかのように尚哉に詰め寄り、『難波!彼女の隣に地味メガネが!あいつは彼氏だろうか!いや、違うと言ってくれ!』と身体をガクガク揺らされたのは記憶に新しい。
地味メガネで悪かったな。しかし、難波はそのワードで尚哉に行き着いたらしいから、結果的に良かったのか悪かったのか。
「でも、紹介するかは置いといて、瑠衣子先輩に彼氏が居たらいけないと思って、それで訊いてみました」
マグカップをことりと置いて、尚哉は瑠衣子に視線を移す。友達に言われたから、安易に「紹介する」と言わないところが、尚哉らしくて、高槻は頬を緩ませる。
「深町くんは、優しいねぇ」
「うんうん、わんこくんは優しい子だねぇ」
2人同時に同じことを言われて、揶揄われていると思ったのだろう、むっとした顔をした尚哉が、2人の視線から逃れるように身体をぐりんと明後日の方に向けてコーヒーを啜る。
「瑠衣子先輩に彼氏がいないことは分かったので、これ飲んで帰ります」
「あ!あと私今研究に忙しいから、彼氏は作る予定無いっていうことも伝えて貰える?」
「……わかりました」
「難波くんにも、うまく言っておいてくれると嬉しいな」
「はい、あの……」
「なに?」
身体だけは壁へ向きながら、そろりと顔だけを瑠衣子に向けて会話をしていた尚哉が、のろのろと足と椅子を動かして瑠衣子に向き合い、ことりとマグカップを置いた。
「ちゃんと教えてくれて、……ありがうございます」
慣れない、けれどはにかむような笑顔付きで。
「……!」
そんな尚哉に、瑠衣子はがたりと音を立てて椅子から立ち上がる。どうしたのかと瑠衣子を見守る尚哉をよそに、瑠衣子はふらふらと尚哉の方へ歩いていき、大きく振りかぶったかと思うと、そのまま尚哉に抱きついた。
「わんこくん可愛い!こっちこそありがとう〜癒しをありがとう〜!」
「ちょ!瑠衣子先輩!何ですか!」
「ずるいよ瑠衣子くん!僕も深町くんにぎゅってしたいのに!」
「何言ってんだあんたも!」
3人でわぁわぁ言い合いながら、お互い押したり押し返したりしながら瑠衣子の話はそうして終わって。
結局尚哉が難波に、瑠衣子は「彼氏は居ないが今は研究に集中したいからごめんなさい」という内容を伝えてもらうということになったのだった。
*****
午前中の講義も終わり、昼飯を食べようと学食へ足を進めた尚哉はどこからか女性の悲鳴を聞いた。
「困ります!」
確かに聞いたその声は、よく知る瑠衣子の声で。
慌てて辺りを見回し瑠衣子の姿を探し、中庭に続く渡り廊下で彼女を見つけ走り出す。
「瑠衣子先輩!」
「わんこくん……」
瑠衣子は、男に手を掴まれているようだった。
駆け寄った勢いで男の手を払い、守るように瑠衣子を背中に隠す。
「嫌がってるじゃないですか」
「お前には関係ないだろ」
改めて男を見ると、恐らく青和大学の学生だろう。尚哉と同じくらいの年齢で、カジュアルな服装にリュックを背負っている。
背中にいる瑠衣子は見えないが、尚哉の登場に安心してくれたようだ。雰囲気はどこか落ち着いている。
ほっとしながらも男を変わらず睨みつけていると、男がどこか思い出したかのように尚哉を指指した。
「お前、そのメガネ……難波の?」
「……もしかして、難波に紹介して欲しいって言ってた……?」
記憶に新しい、図書館で瑠衣子に恋をして難波から尚哉に瑠衣子を紹介してくれないかと頼んだ張本人だ。
「難波から、聞いてないか?返事のこと」
「聞いた。今は研究に集中したいって。でもやっぱり俺諦めきれなくて、久しぶりに姿見て話がしたくて、止まらなくて……恐い思いさせて、すみません」
尚哉の影からひょっこり出てきた瑠衣子に、男は頭を下げる。
「大丈夫、ちょっとびっくりしただけだし。でもありがとう」
――私のことを想ってくれて。
少し照れたように微笑む瑠衣子は、いつもは尚哉のことをからかって楽しむ彼女より、可愛らしく見えた。
******
「それで、瑠衣子くんは今日はデートだっけ?」
「デートじゃなくて、フィールドワークですよ」
あれから、研究が忙しいので助手としてなら会える時があると瑠衣子から切り出して、その話に乗った彼は時々瑠衣子のフィールドワークに付いていくことになったらしい。
研究のことになると没頭する瑠衣子の、ある意味ストッパーになって、研究室の床で寝ることを防止してくれないかな、と尚哉は期待を描くのだが。
「フィールドワークの助手なんて、まるで僕と深町くんみたいだね!」
と、何故か嬉しそうに述べる高槻にただ「はぁ」と返事を返すばかりであった。
Fin