ある夏のロマンについて「浴衣って、男のロマンだよな……」
騒がしい昼間の、しかし少し喧噪から離れた場所に位置どった難波と尚哉がたわいもない話をしながら学食を食べている時だった。夢うつつのような声色でそう話し始める難波に、尚哉はカレーから顔を上げた。
そこには、どこか遠い目をした難波がいた。その箸にはまだ唐揚げが掴まれていて、左手はご飯茶碗に添えられたままだ。
「急だな」思ったことをそのまま口に出して、興味無いとばかりにカレーに目を戻すと、ガタリと何かが地面と擦れる音がする。難波が立ち上がったのだ。
「えっ深町もそう思わねえの?浴衣だぞ?昔の話じゃ下着なんか着けずに裸の上に一枚だけ着てたんだってよ、やばくね?エロくね?!」
「ちょっ落ち着け、声がでかい」
「あっ悪い」
唐揚げは皿に戻して、箸だけはなぜかしっかりと離さずに急に演説をし始める難波に焦る。ここは居酒屋でも、誰かの家でも無い。変なことを言い出す難波に周りが気になったが、思ったよりも各々の会話に集中しているらしい。特にこちらに目線を向けるものは数名のみで、興味を失ったのかすぐにその目線も逸れていった。
「急にどうしたんだよ」
呆れを滲ませながら訊ねると「急じゃねぇよ」と尚哉の後ろを指指される。振り返るとでかでかと『浴衣で参加すると特典アリ!』と花火大会を開催する旨のポスターが貼られていた。ご丁寧に、そこには浴衣を着て楽しそうな表情をする女性が写っている。難波はこれにやられたのかと一人納得して、尚哉はカレーに再び取りかかった。
「いいよなぁ……ロマンだよな……」
しかし、その熱に浮かされた声色はどうしたんだろうか。さっきまで普通にA定食食べてたじゃないか。
「浴衣ってどうしてこうなんだろな……やっぱり、一番の魅力はうなじだよなぁ、あと襟元?なんだ?合わせ?のところにすっと手が入るのがもう……きゃーだよな!」
「はぁ……」
あまりにも低い尚哉の興味に、やっと難波がこちらを見る。その目は信じられないと表しているが、口元は笑っている。同意して貰えないのが、よほど面白いのだろうか?
「深町ぃ……お前何でそんな達観してんだよ。考えても見ろ、お前に好きな子がいるとする」
急にそんなことを言われて、盲点を突かれどきりと鳴った胸は、有り難いことに難波には気づかれていない。
「その子は普段の服装もパンツスタイルで、夏でも露出少なめだとする」
一度思い出すともうダメだった。難波の言葉をなぞるように、夏でもスーツを着こなす彼が脳裏に浮かんでしまう。心臓はドキドキと脈打ってはいるが、何も言わない尚哉に気をよくしたのか、難波がそのまま続ける。
「その子がお前とデートすることになって、浴衣を着てきた。いいか?浴衣だってそこまで露出が激しいわけじゃない。けど色気しか感じない、大きく開いたうなじから背中までのライン、胸の谷間が見えるわけじゃないのについ引き寄せられてしまう襟元……」
おい、段々顔が緩んできたぞ、難波。しかも言い方がすごく変態臭い。
「加えて歩く度にチラチラと見え隠れする足首、もといくるぶしがっ、堪んねぇだろ?!くぅ〜エロい、エロすぎる、浴衣最高、浴衣フォーエバー!……あ、やっぱりA定食の唐揚げうんまいわぁ〜」
何かを堪えるように浴衣へのロマンやらを一息で叫んだあと、ふっと笑って何も無かったのようにA定食を食べ始める難波。その切り替えの早さに尚哉は着いていけずポカンとする。難波に気を取られて、こっちはまだカレーが半分以上残っているというのに。
「と、いうわけで深町。浴衣デート頑張れよ」
「……お、おう」
何が「というわけ」かも分からないが、なぜか難波の中で尚哉は浴衣デートをすることになっているらしい。そもそも尚哉は好きな人がいると難波に話したことは無いし、そんな素振りもきっと見せていないはずだ。しかし、一人納得し美味しそうに唐揚げを頬張る難波を見て、まだ脳裏に浮かんだままのあの人のことを少し思ったのだった。
*****
「浴衣ってロマンだよねぇ」
どこかで聞いたことのあるフレーズに、尚哉は嫌な予感がするとばかりにあからさまに眉を寄せる。
「普段洋装する僕ら日本人が、夏になると思い出したかのように浴衣で夏を楽しむその姿が僕は大好きなんだ」
場所は変わってここは高槻の研究室。どこかで聞いたことのある内容、どこかで見た覚えのある表情に尚哉はゲンナリする。その話はもう今日の昼にしたばかりだし、恍惚と話す難波に辟易したのもつい先程のことだった。
「浴衣の何がいいってね、深町くん。普段は」
続けてあまりにも似た話をされようとしていたので、慌てその先を制止する。尚哉にとって、そこまで興味の無い話を何度もされるのは少し億劫だ。
「知ってます。普段と違う姿が色っぽいって話でしょ?」
難波の話を要約すると、高槻が驚いたかのように目を丸くする。
「深町くんも、浴衣は色っぽいと思う?」
「はぁ、まぁ」
適当に話を合わせればこの話題は終わるだろうか。コーヒーに口をつけながらそんなことを考えているから、バチが当たったのかもしれない。「それなら」と大きく手を打つ高槻に嫌な予感しかしない。
「今度、浴衣パーティしない?きっと楽しいよ!」
ね?と楽しそうに言われてしまったら、尚哉にはその提案を拒否することなんて出来なくなってしまった。
*****
何で、こんなことになったのだろう。
自分のものではない体温と鼓動を背中に感じながら、尚哉こそ全身が心臓になったかのように全身に熱い血が巡るのを感じていた。
高槻がああ言ったとおり、高槻は、高槻ゼミの生徒、尚哉と難波と愛美、佐々倉とで浴衣パーティを催した。浴衣なんて持っていない尚哉は、有難いことに高槻のお古を借りることになった。高そうな布の感触に顔を引き攣らせていたが、着付けをしてくれた高槻は満足そうに笑って「似合うよ、深町くん」と言ってくれたのだった。
それから解散して、各々が帰路につく中、尚哉は高槻の家で着替えをするため高槻と共に彼の家へと向かった。高槻の部屋の前まで行き、鍵を開けてもらい玄関まで二人で入ったところまでは普通だった――と、思う。電気を点けようとする尚哉を制するかのように伸びてきた高槻の腕は、少し汗ばみ夏の香りがした。
「せん、せ……?」
あれから何も言わない高槻に困惑し、彼を呼ぶ。少し、声が上擦ってしまった。
「……ごめん」
後頭部の辺りで聞こえた高槻の声は少し弱々しく、しかしあまりの近さに尚哉は動けなくなる。加えて、彼の吐く息が耳にも当たり、更に緊張が増した。
「ごめんね、もう少しだけ」こうさせていて。最後まで言わずとも見える位置にある交差された高槻の両手が、きつくぎゅっと握られたのを尚哉は見逃せなかった。高槻が何かに怯えているように見えたことで、余計に彼を拒絶することなんて出来ない。
永遠に見えた一瞬が終わり、高槻が身じろぐ気配がする。尚哉の心拍数も少し落ち着いてきたことが、尚哉に少しの余裕をもたらした。この空気を変えたくて、話題を探す。
「そういえば、女性と男性の着方が違うの、初めてちゃんと知りました。難波が浴衣はうなじが色っぽいって言ってたんですけど、男性は首の後ろってあんまり見せないんですね」
普段からそこまで人の服装を意識していない尚哉だが、難波があれだけ熱く語っていたことで珍しく観察をしてしまった。難波が特に良いと演説していたうなじは、男性側は女性より隠れている。
そのことを気づいたのだという話題を、高槻に提供したつもりだった。高槻ならば恐らく、その成り立ちを知っているだろうから。
しかし、尚哉から離れる素振りを見せていた高槻は、ピクリと指先を動かしただけだった。あれ、と思ったより早く声が発せられる。
「そんなに、難波くんにうなじを見せたかったの?」
「……え?いや、俺は……っひゃっ」
首筋に、いや、うなじに何かが触れた。柔らかくて、温かくて、それは、それは……?
「――ダメだよ、誰にも、難波くんにも、見せてあげない」
今度は空気に晒されたそこに、的確な意図を持って先程よりも熱いものが触れる。何度も啄まれ、それが高槻の唇であると分かっても、尚哉は触れられた部分から広がる熱を受け入れることに必死だった。何も言わない尚哉に、今度は右肩から高槻の手が差し込まれる。明らかに何かを目指すその指先に、尚哉の身体が震えた。
その刹那。
「……っごめん」
今日二度目の謝罪の後、今度こそ高槻の身体が尚哉から離れようとする。勢い良く去っていく高槻の体温に、尚哉は違和感を感じ、察してしまった。ああ、この人は自分から離れていく。己のしたことに絶望し、尚哉を傷つけてしまったと誤解を重ね、自分が側にいることで尚哉を不快にさせてしまうと勝手に思い込んで。
――そんなこと、させやしない。
「ダメです」
ハッとしたように尚哉の胸元から逃げるような高槻の右手を、尚哉は両手でしっかりと掴む。
「俺にここまでしておいて、俺から離れるなんてダメです」
これから言うことに、することに、口から心臓が出そうになる。でもそうしないと、この人はきっと罪悪感だけを抱えて離れていくだろう。そんなのダメだ。そんなこと、許さない。
「……浴衣の醍醐味はなんだと思います、先生?」
まずは尚哉の側から逃げられないように、既成事実を作らなければいけない。彼の右手に自分の左手を繋いで握りしめる。ビクリと反応したあと、その右手を引っ張ろうとする高槻の腕を、離してなんかやらない。まだ自分の左手と繋がっていることに笑みを深くして、そのまま後ろを振り向く。視線が絡まったら尚哉の勝ちだ。愉しそうに、嬉しそうに。
「こんなに脱がせやすいのに……」
離れ難いと思っていた高槻の右手を指先まで心残りを見せるようにそっと離して、きつく結ばれていた帯をしゅるりと解く。流れるように床に落ちていった帯を見つめたあと、尚哉は高槻に向かって微笑んだ。
「ねぇ先生、――してくれないんですか?」
Fin