その瞳に映るもの ねえ、深町くん。
あのとき「好きです」と言ってくれた君の目が僕を見ていないこと、僕は知っていたんだよ。
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自分の中で特別だった深町尚哉くんが、特別以上の存在だと気づいてから、僕はずっと絶望の底にいる。
彼は、僕の授業を受けてくれる教え子。怪異の調査を手伝ってくれる助手。そして、怪異を経験した数少ない特別な子。だからということだけではない、彼の孤独とは裏腹な優しさに、「今更ですよ」と苦笑するその呆れ顔に、ずっと隣に居て欲しいと願うようになった。
その頃の僕はその気持ちを友情と位置づけていたけれど、ある日瑠依子くんから「わんこくんって、結構モテるみたいですよ」と言われてガンと頭を殴られたようになった。
即座に、嫌だと、深町くんはずっと自分の隣にいて欲しいと、誰かのものにはなって欲しくない――と一気にどす黒い感情が胸の中をとぐろを巻いたように湧き出して、止まらなくて。恥ずかしながら彼女に返した言葉は、魂の抜けたものだと記憶している。大人の顔を取り繕え無かったことが、今でも後悔していること。
そこからが、とても早かったように思う。
深町くんへの気持ちを自覚すれば、愛しさが溢れて止まらなくて。彼の一挙一動に振り回される僕は、「恋」の真っ只中にいてとても楽しかった。でもそれが、いけなかったんだ。彼との歓談中に漏れ出てしまった「深町くんが好き」という言葉。慌てて誤魔化そうとした僕に、彼は僕を真正面に見て「俺もです」と言い放った。
「俺も先生のこと好きです」
だけどその言葉とは裏腹な、何も映さない瞳がずっと僕を苦しめていることに、深町くん、君は知っている?
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「ここにお皿置いておきますね」
「うん、ありがとう」
あれから僕らはお付き合いをすることになった。だからといっても教師と生徒という関係だから、主に会うのは僕の家でだけ。デートらしいデートもしていない。先生と助手という関係の時の方が、一緒に外出をしていたかもしれない。
金曜日になれば深町くんは僕の家に泊まって、二人だけの時間を過ごす。一緒に晩御飯を作って、今週あったことをご飯を食べながら話をする、それから飲み物片手に映画を観て、眠くなれば同じベッドで眠る。
付き合っているのだから、その間に恋人らしいことがあってもおかしくはないが、僕らは手を繋いだり、肩を寄せ合うだけだ。キスはしない。セックスも、勿論しない。僕がそう決めているのは、深町くんの孤独と引き換えに恋人という座を契約したと認識しているから。
彼から心の無い「俺も好き」を絞り出させた理由は、検討が付いている。
孤独だった彼に、少しだけ、孤独から解放するお手伝いをしたことだ。外の世界への掛橋を作って、彼へその世界への興味を持たせた。あとは、深町くんの努力とその性格のおかげで、良い友人や先輩を持つことが出来たし、彼自身、自信が付いてきたように思える。元来の優しい性格も相まって、深町くんを取り巻く環境は少しずつ、良い方向へ変わってきている。とても……嬉しいことだ。喜ぶべきことだ。僕は、少し、その背を押しただけ。
けれど深町くんは、そんな環境や気持ちの変化を僕のおかげだと思ってくれている。きちんと言われたことは無いけれど、僕が居たから今深町くんは孤独から少し解放されたのだと。行動が、その目が、物語っている。それが、あの日の「俺も好きです」だ。
僕はずるい大人だから、どこまでも君のその言葉を利用してしまうんだ。だけど安心して欲しい。付き合うという関係以上に、君が嫌がることはしない。だから、キスも、セックスも、しなくても大丈夫だよ。
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「今日は、話をしませんか」
皿の片付けが一段落して、ちょっとひと息つこうとなったときだった。コーヒーとココアを用意して、さて、今日はどんな映画を観ようかと君を振り返ったとき、晩御飯の時の柔らかな雰囲気の君のまま、そう言われる。
「うん」としか返せない僕は、君のことになると弱気になるただの恋する男だった。深町くんと付き合って数ヶ月、そろそろ、僕のお守り役から解放してあげなければいけないのかもしれない。
いつものように、隣同士でソファに並ぶ。いつもなら隙間無く埋める彼との距離を少し開けて座れば、深町くんがこっちを見て不思議そうな顔をした。どうしたの?と思う間も無く詰められる距離。彼の体温がじわりと僕の身体に移る、何だかそれが今とてつもなく嬉しかった。
「ねぇ先生」
こてんと顔を僕の肩に寄せながら、深町くんが可愛く話し始める。触れる手が暖かい。思わずいつものように指を絡めようとして、止める。もし深町くんから僕らの関係に終止符を打ちたいと言われるなら、その手を離さなければいけなくなる。
「先生って、あまり欲がないんですか」
何の話だろう。そう思って深町くんの方を見ようとすると、不意にその手が僕のココアを奪っていった。
「……先生」
「深町くん?」
甘いものが苦手だと言う彼が、僕のココアに口を付ける。マシュマロが溶けたその泡が、彼の形の良い唇に纏わりついている。……ああ、可愛い。その唇ごと食べてしまいたい。別れ話だと緊張する傍らでこんなことを思うなんて、つくづく僕は恋するバカな男だ。
心の中では何を言われるのかと震えているのに、動揺を悟られなくて何でも無いフリをする。彼の前ではいつでもカッコいい高槻先生でいたいと思っているから。別れるときであったとしても、別れたく無いと、愚かな真似はしたくない。
「先生?」
「なぁに?」
僕を呼んでから、じっと見つめるその瞳から目が離せない。動くことも出来ない。彼から何を言われるのだろう、彼は僕に何を求めている?
「……キス、してくれないんですか?」
その瞳のまま、彼は問うた。目を見開き固まる僕にそろりと近寄り、ソファにのし上がる。顔が近づき、長い前髪の奥から、彼が僕を見ている。返事を、しなければいけない。
「キ、スは――しない」
「どうして?」
「どうしても」
「俺がお願いしても?」
「ふ……かまちくんが、お願い、しても」
そう言うと、深町くんがふふっと笑った。
「頑固だなぁ先生は」そう言って、僕の目の前で思い出したようにぺろりとココアの泡を舐める。今まで目を逸らしてきた欲が頭をもたげそうになるほどの、光景。
動けない僕をよそに「わかりました」と深町くんは笑った。なんて、綺麗な笑み。思わず見惚れていると、爆弾が降ってきた。
「じゃあ、俺からします」
「なに……んっ……」
深町くんの顔が近づいてきたと思えば、いとも簡単に唇同士が触れ合う。初めての彼の唇は、思った以上に柔らかくて、甘くて。ほんの一瞬のことだったけれど、まるで媚薬を飲まされたみたいにそれしか、考えられなくなる。もっと、欲しくなってしまう。
「キス、しちゃいましたね」
そう言って恥ずかしそうに微笑む深町くんが、愛らしくて、愛しくて、ぎゅうと心臓が捕まれたように痛い。彼にはいつでも笑っていて欲しい、無理に、僕の傍にいる必要は無いんだ。彼の体温がまだ残っているかのような唇に触れて、覚悟を決める。最後に、一生の思い出を貰っちゃったね。
「ありがとう、深町くん」
「……せんせ」
「もう十分だよ、もう僕に義理を通す必要なんて無い」
「何言っ……」
『別れよう』
彼を解放する気持ちで舌に乗せたその言葉は、結局最後まで言わせて貰えなかった。
「言わせません」
深町くんの両手が、僕の口元を押さえる。
「言ったじゃないですか、俺も、先生が好きだって」
――でも、その時君は、僕を見ていなかった。
「あの時は……、確かに同じ気持ちを返さないと先生が離れてしまう気がして、そう言ってしまいました。でも今は先生のことが本当に好きなんです」
――本当に?
「本当です。キス……だって、したじゃないですか、好きじゃない人にそんな事出来るような奴だと思ってるんですか?」
――そんな事は思わない。けど僕は君に執着をさせようとした。僕無しじゃ居られないように仕向けた。
言えない僕は必死で瞳に言葉を乗せる。その意味を受け取ったのか、深町くんは面倒だとでも言うように頭を振った。
「先生が今何考えてるか知らないですけど……」
深町くんの手のひらが、今度は僕の頬を包み込む。彼からの気持ちだけは自信が無い僕の心を包むように、僕だけを見つめて、そしてニヤリと笑う。
「そんなに別れたいなら、別れます?」
「っ嫌だ!!」
逃がさないように深町くんの優しい手のひらを握りしめて、自分でも信じられないくらいの大声が出た。気持ちは、正直だ。結局、僕は、彼を手放すことなんて出来ない。
「それが答えでしょ?面倒くさい人だなぁ先生は」
僕の気持ちが最初から分かっていたように、カラカラと深町くんは笑った。……何だか、とても恥ずかしい。深町くんには全てお見通しだった。僕の強がりも、本当の気持ちも、全部、全部。
顔の熱が一気に上がって、穴があったら入りたくなる。僕は大人ぶって深町くんを分かった気でいたけれど、実際大人だったのは彼の方だった。
「さて、と」何も言わずに俯く僕を、優しい瞳で見つめる深町くんがいる。「とりあえず」体勢を整えたあと、その大きな瞳が僕だけを映しているところが見えて、胸がいっぱいになって瞳を潤ませる。
――もう一回、キスしましょうか。
Fin