偽りの声「ヤッパリスキダナァ、深町くんのこと」
途端に顔をしかめた尚哉をどこか不思議そうに見ていた高槻は、ハッとしたように何かに気づくと、「ごめんね」とそう言った。
何の弁解の無いそれは、嘘を肯定していると言っているようなものだった――。
「深町くん、いらっしゃい」
変わらない高槻の笑顔、変わらない本とコーヒーとココアの混じった研究室の匂い、けれど高槻と尚哉のあいだにはどこかギクシャクした雰囲気が流れるようになった。
あの日、高槻から夕飯を誘われた尚哉は高槻の家で手料理に舌鼓を打っていた。温かくて美味しい料理、打てば響く高槻との会話。その時間がとても楽しくて、幸せで……。そんな充足した時に急に冷水を浴びせられるなんて、思いもしなかった。
尚哉をすきだ、と言った高槻の声は歪んでいた。
初めは、何のことか分からなかった。高槻の顔は笑顔に溢れていて、そんな彼から出る言葉に嘘は無いように思えた。けれど、実際に、声は歪んだのだ。
改めて、尚哉は思い出す。人は簡単に嘘をつく。
それは、尚哉の前では嘘は言わないと言ってくれた高槻でさえも。
時間が止まったかのような長い時間のあと、尚哉は振り絞る様に呟いた。
「……帰ります」
「……うん……」
「今日は、ご馳走様でした」
高槻から、尚哉を引き止める言葉は無かった。
つまりは、そういうことで。
視線を合わせないように素早く自分の上着と荷物を掴むと、尚哉は逃げるように高槻の家から出た。
いつの間にか涙が頬を伝い、歩く速度は自然と速くなった。行き交う人からは好奇の視線が投げかけられるが今はそんなことどうでも良かった。ただ、ただ、胸が苦しくて尚哉は泣いた。
高槻のことが好きだった。
あの青い提灯の祭りに行ってから避けていた感情は、高槻のことを知るようになって、その温かさに浸るくらい傍にいるようになって、いつしか芽吹くようになった。
この気持ちが憧れだけでは無いと気づいたとき、尚哉は自分を呪った。高槻が、尚哉の新しい日常を作ってくれた。そんな尚哉が求める日常では、高槻と尚哉は恋人同士という関係では無かった。
大学の担当教諭とその生徒。
その、一見繋がりの浅そうな関係が、尚哉には心地好いものだった。今まで家族や友達ですら、その内面に潜り込ませようとしなかった尚哉は、恋人という、心も身体も深い交わりを持つであろう関係を恐れた。
この気持ちは一生高槻には言うつもりは無かったし、自分の中で大切に温めていこうと心に決めたものだった。
けれど、そんな尚哉を嗤うかのような高槻の偽りの気持ちを聞いてしまった。彼からの「すき」が嘘ならば、きっと高槻は尚哉を嫌っているに違いない。
高槻から嫌われていると知った今、もう、ただの教師と生徒に戻れない。それなら――。
「いらっしゃい、深町くん」
高槻の家から飛び出したあの日から、しかし、高槻と尚哉の間に交流が途切れることは無かった。
高槻は変わらず尚哉を彼の元へ迎え入れるし、尚哉は甘んじて受ける。ただその関係性が、教師と生徒から、雇用主と雇用者へと変わっただけだった。
「『隣のハナシ』に、こういうメッセージが届いてね」
にこやかに怪異かもしれないと話す高槻からPC画面を見せられて、尚哉は画面を覗き見る。
そこには不思議なことが起きるので、確認して欲しいという依頼だった。
「深町くんは、いつ予定空いてるかな?」
「また連絡します。採点のアルバイトもあるので、すぐは難しいかもしれませんが」
「いつでも大丈夫だよ」
流れるように会話をして、どこか朗らかにその場は進んでいくのに、どこか小芝居のような、造りもののような空気が漂っているのは、お互いが、お互いとの距離を測ろうとしている所為だ。
「……なんか、二人とも変じゃないですか?」
瑠衣子が的確にそう指摘するけれど、曖昧な笑みで、尚哉は答えるのだ。
「何も変じゃないですよ、ね、先生」
尋ねた先の高槻は、ただ悲しそうに微笑み頷くだけだった。
*****
依頼の調査が終わったあと、高槻の家に来て欲しいと言われたのは、あの日から、一ヶ月ほど経った日のことだった。
その一ヶ月は尚哉にとって、辛く、けれど充実した時間だった。自分を嫌う高槻は、尚哉から離れていくことを望んでいたかもしれない。けれど、もう自分は高槻無しではいられなくなってしまった。
今まで、自分の気持ちがバレないように無理に振舞っていたが、嫌われているならば隠す必要は無い。以前より尚哉から遠ざかろうとする高槻とわざと距離を詰めることで、尚哉は高槻との時間に前以上に喜びを見出していた。
いつか、高槻からやめろと言われるまで、それまでは隣に居させて欲しい。
きっと今が高槻と一緒にいられる最後の時間だから。
*****
「もう、辞めよう」
いつか言われるだろう、その言葉を、尚哉は高槻の家で、あの日と同じ場所で聞くことになった。
「深町くんの顔を見るのが辛いんだ」
前なら隣同士で座ったテーブルで、向かい合いいつかの尚哉のように顔を歪ませながら高槻は言う。
いつもなら視線を合わせて会話をする高槻が、珍しく尚哉と目を合わせようとしない。
それも当然だろう。
嫌っている相手にこれだけ付き纏われて、素直に会話が出来る人なんていない。
「先生が俺を嫌っていることは知ってます」
「嫌ってなんか……!」
「じゃあなんであの日……!」
高槻を責めてしまいそうになりそうな自分を無理矢理抑えつけて、なんでもないです、と尚哉は誰にも聞こえない声で呟いた。
ついに尚哉が恐れていた、高槻から本当の気持ちを告げられるのだ。
今日、恐らく高槻から解雇の話が出される。それを聞いたら自分はまた、きっと、孤独の日々に戻らなければいけないだろう。
いや、もう高槻の温かさを知ってしまったから、彼の温もりの記憶だけで暫くは生きていける。彼のように完全記憶能力は無いけれど、ずっと、そうして――。
「君を嫌いだと思ったことは一度も無い」
今度は、はっきりと尚哉を見つめる高槻からの言葉に、尚哉は自身の思考から浮上した。
尚哉が恋をした焦茶色の瞳には、今尚哉だけが映っている。
「う、そ……言わないでください、先生はあの日……」
「嘘じゃないことは、深町くんが一番分かってるんじゃない?」
そうだ。彼の言葉は歪んでいなかった。それならば、なぜ。
「ごめんね、深町くん。僕は自分の気持ちに蓋をするのが精一杯で、君の気持ちを全く考えていなかった」
「先生の……気持ち……?」
「あの日、僕が君に嘘をついてからも、君は僕の傍にいてくれた。傷ついた顔を見せないで、何も無かったかのように、前みたいに」
それは、高槻の傍にいることが、尚哉の日常だったから。
「でも、僕の近くにいる君は時々辛そうな顔をする。そんな顔を『スキナコ』にさせたく無かった」
歪む嘘にずきりと痛む頭に、あぁまただと尚哉は思う。やっぱり高槻は尚哉を嫌っていたのだと。
そんな深町を見て、高槻は自嘲する。
「ごめんね深町くん。僕は君を好きじゃないんだ、僕は……君を愛してしまったんだよ」
Fin