はるのあらし 意識が浮上して、ベッドサイドの目覚ましを慌てて叩きつけるように止めると、転がるようにベッドから飛び起きた。
自然な動きでセーラー服に腕を通して、手慣れた動きで胸元のリボンの結び目を作った。学校指定の白い靴下をはいて、鞄を引っ掴んでドタドタと階段を駆け下りるとダイニングに飛び込む。
母が怒っているのを、こっちこそ起こしてもらえなかった怒りで無言を貫いて食パンを咥え、ミルクたっぷりのコーヒー、四つパックのヨーグルトといういつも通りの決まりきった朝食をろくに噛まずに飲み下す。母のお小言を聞き流し、私に苦笑する父にまで飛び火しそうになった。ここらが潮時だ。椅子をがたん! と音を立てて立ち上がる。
「いってきます!」
「こら! はみがきは!?」
「学校でする!」
昨夜のうちに用意していた学生カバンを引っ掴んで、家を出た。
口の中にまだ残っている朝食を走りながら咀嚼しつつ、見飽きた道を駆けていく。
春になればここは桜並木となり、ほんの短い期間ではあるが、満開の桜道が花開く。今からその様子が楽しみだ。ワンワン! と横からいつも吠えてくるワンコに挨拶をして、アルバイトの求人募集の切り取りがついている電柱にまだビラビラが残っているかどうか確認する。自分がバイトをするわけでもないのに。
そこで、ふと、急に立ち止まった。
まるで、一陣の風が、自分の過去を全て拭ったように。
「あれ? 私、どこに向かってるんだっけ?」
立ち止まってみると、異変に気付く。いや、逆だ。なぜ、異変に気付かなかったのだ。
人が、誰もいない。気配がない。この朝の時間、こんな風に走っていくのは初めてではない。サラリーマンとぶつかったり、OLを慌てて避けたり、悪いのは自分のほうだが、お互い忙しない朝なので大きな声で「すみません!」ということでやり過ごす。走るには向かないが、歩くには全く問題のない程度の人の流れが出来ているはずだ。なぜ、無人なのだ。
そうだ、いつも私の後ろから追いかけてくるヨウちゃんがいない。
ああ、そうだ。あの向かいのバス停はいつも人が沢山並んでいるはずだ。この時間だと、中学の同級生だったカナちゃんがいるはずだ。時間によっては目が合うのに、照れくさそうにするから絶対に手を振るけれど、手を振り返してくれたことは一度もない。いや、待って。待て。顔は? どんな顔をしている? 覚えていない。あの子は違う。そうだ、あんなところに立っているはずがないのだ。だって、彼女はあの夏の日、私は、私たちは一緒にいて、大雨に振られて、頭を持ち上げて顔を見合わせようとしたしゅんかん
「あるじ」
腕を思いっきり引っ張れて、後ろに倒れ込んだ。転がった先のコンクリートの硬さはボンヤリし始めた記憶通りだ。痛い。
一体なにが起きたのか分からずついさっきまで自分が立ち止まっていたところに立っている人を睨もうとそちらに視線を向けると、私を庇うように立つ青年が、こちらを振り向いた。彼の向こうには、「何もない」。なにかがあった気配だけが、垣間見えた気がして、遠いほうで寒気がした。
青年は、輝くような金髪の、こちらから見ると赤く見える瞳。右手には刀。昔の人みたいな身体に付ける鎧みたいのを付けているのに服装自体は鼠色のジャケットを羽織っている。赤い瞳? まさか人間がそんな目をしているわけがない。
この人は、誰だろう。
だが、根拠はないが、きっと、私を助けてくれた。それだけはなぜか、ハッキリとわかった。
そう思った瞬間、あの掻き消えてしまった者に感じたような恐怖は消え去った。
「クソ、もう次か」
「え、ねえ、あなたは、」
「またな」
そう言って、一瞬でいなくなった。
は? どういうことだ。人が消えるわけなんてない。足元を見ても、上を見ても、横を見ても、どこにも先ほどの青年はいない。いたら、あんなの目立ってしょうがないはずだ。キョロキョロと顔を、体中を動かして、探しているうちに、気持ちがまるでわしづかみにされたように突然天命のように脳裡にやるべきことが降ってわいた。
「いけない! 遅刻しちゃう!」
まるで舞台のように、台詞でも言っている気分だった。気持ちと行動がバラバラである。
気がつけばいつものように人がまばらに歩いている。一体、今はいつの、何時なんだろう。そういえば、弁当を持ってくるのを忘れた。間に合えば父が弁当を走って持ってきてくれるというのに。
どこに行けばいいのか、頭ではわかっていないのに、身体は感覚を覚えているように、まるで自転車の乗り方は忘れないように道を走っていく。
煉瓦の壁を右手に曲って、そう、その先の二つ目の建物を入るのよ。
感覚だけに背中を押されて私はいつの間にか走っていたことに気付く。そして、その隣を走るバスに気付いた。
ああ、カナちゃんが乗っている。手を振ってみた。振り返してくれた。顔は能面のように表情がないのに、行動だけが人間のようだった。
そして、バスの後ろを、そのまま走り続けた。
*
キーボードを、たん! と強く叩いた瞬間、意識が浮上した。
指先にはところどころ剥げかけたネイル。塗ったのはいつだったろうか。もうすっかり思い出せない春コスメの新作を意気揚々と買いに行ったのは年明けすぐのことだった気がするのだが。その乾燥しがちな指先のために奮発して買ったハンドクリーム。ネロリの香りが気に入っているが、それでも乾燥が止まらないのでさらにネイルオイルまで追加購入した。バカ。もっと手肌を労わった生活がしたい。その手が打つ文字は目の前のモニターにガンガンカチカチ打ち込まれていく。そのモニターの周りにはベタベタと貼りつけたレターパックの追跡番号のシール。この返事はきた、これは来ていない。いい加減にしろ、コイツはもう再送の再送だぞ、と気付いてしまったら怒りがこみ上げてきた。
はあ、と短い溜息をついて外に目を向けるとすっかり陽が落ちてネオン街が遠くに見える。今日の飲み会、私も行きたかったなぁ、と忘れていたことをこれまた急に思い出してさらに落ち込む。行ってしまったメンバーに思いを馳せる。営業の第二チームというと、あの子、ほら、いつも会社で歯を磨いている、あのちょっと、いつも襟足辺りの寝癖を直しきれない、髪のセットが下手くそな。
いけない。そんなことを考えている暇はない。私はこの提出物をなんとしても今日中に仕上げねばならないのだ。明日、いや違う来週明けの午後一の会議のための資料なのだ。朝一で上司に確認してもらって、修正を入れなければいけないもので、元々私が作る予定じゃなかったのに、こんな突発で流れ弾みたいな仕事がやってきたのは定時の一時間前で、そもそもその定時上りだって今日は無理なスケジュールだったというのに、なんてことだ。えらい上司たちがいっぱいいて、他部署の人も参加するというから資料を作っているだけで緊張がある。
だが、これが出来れば、いやこれくらいはやらせなければという先輩の進言自体はまあなんとなくわかるというか、まだ信用されていなかったところに助け船を出してくれたのだと思うと、きっちりこなして見返してやりたい。先輩の期待には応えたい。
気持ちが行ったりきたりと忙しない。ぐるぐると考えていたらお腹が空いてきた。無心で打っていたキーボードを打つ手が止まった。
今気付いた。
無音だ。
このフロアにいるのが私一人だからではない。パソコンの音も、全館一緒に稼働しているはずのエアコンも、自動販売機の機械音も、電灯の音も、何もしない。
聞こえるのは私の心臓の音だけだ。どういうことだ。鼓動の音が、私の緊張のためか耳のすぐ隣で鳴り響いているみたいに大きく聞こえる。外の様子を慌てて確認しようと窓に張り付いた。先ほどと同じようにきらめくネオンはあるが、やはり違和感がある。車が、動いていない。人の動きも止まっているようだ。そうか、動いているのは私だけということか? そんなバカな! そんなこと有りえない。もしかして、私が常人に見えない速さで動いているのか? んなわけがあるか!
自席に戻って、パソコンを再度動かそうとしてもスリープしたまま立ち上がる気配がない。
スマホを手に取り、同僚に電話をしようとしたが、やはり通話やメッセージを送ろうと画面をタップしてもなにも動かない。画面が前に進まない。どういうことだ。何度も何度も強くスマホの画面を叩く。動け! 動いてくれ!
その時、会社の固定電話が鳴った。
急な大きな音に全身が飛び跳ねるように驚いて今度は身体が固まる。
誰が? なにを!? この事態の打開策になるのか、それとも、この悪夢みたいな現況の悪化となるのかわからないが、鳴っている島までゆっくりとおそるおそる近づいていく。音がさらに高まる。高笑いのように、不快な音だ。受話器を取ろうと腕を伸ばした瞬間、伸ばした腕を誰かにがっしりと掴まれて、思わず短い悲鳴を上げた。
「取る必要はない」
「っ! は、はいっ」
言われた言葉に反射のように返事を返す。すでに腕は離されて、気付けば音は鳴りやんでいた。
反応した直後に、ハッとする。今更のように自席の近くで使用しているペットボトルを使う加湿器のシューシューと唸るような音が聞こえている。世界が、動き出したのだとわかった。
そこじゃない! いや、それは大事なことだけど、さっきの男は、一体誰だ!?
改めて男性に目を向けると、なぜ気がつかなかったのだろう、社会人とは思えない染めてるようにも見えない地毛のように綺麗な金髪に、自席の辺りにしかつけていなかった薄暗いオフィスの灯りでもわかる赤い瞳と目が合った。こんな目立つ人、会社にいただろうか。たとえフロアが違っても、絶対に忘れない見目をしているように思う。だが、深く考えることが出来ない。まるで頭の中に靄がかかったように何も見えなくなっていく。その男性が口を開こうとする。一度やめて、もう一度ゆっくりと、口が動いたのに言葉が聞き取れなかった。さっきみたいに音が消えたのではない。まるで自分の耳が力を失ったのかと思ったが、それとも違う。先ほどはなかったノイズが部屋中から聞こえてくる。不快な金属音のような、肉を引きちぎるような音、断末魔の悲鳴みたいな人の声の亡骸みたいなの、声とは思えないなにを言っているのかわからないぐちゃぐちゃとなにかをかき混ぜているような、言葉になりかけているはずなのに何一つとして言葉に聞こえない、ノイズとしか言いようのない叫びみたいなものが地響きみたいに耳に、いや、脳に、直接訴えかけてくる。彼がなにかを言っているのに、なにもわからない。なにか、大事なことを言おうとしているようだが、ますますひどい耳鳴りのようになってきて、いよいよ耳を抑えてうずくまった。意識が暗転する直前、彼の、そうだ、彼しかいない、聞いたことはないが彼の芯のある声が、私に向かって「あるじ」と呼び掛けているのがわかった。
薄れゆく視界の中、彼の背後になにか大きな、異物のようなものが見えた。人ではない。なにかこちらに吐き気をこみ上げさせるような、気持ちの悪い匂い、気配。知っている。私はこの気配を知っている。先ほどの電話は、そうだ、こいつらが、私を呼び出すためのものだ。これに呼ばれたのだ。
なんなんだ。こいつらは、危ない。逃げてください。あなたが危ない!
男性は、刀を持っていた。気付かなかった。刀だ。刀? 銃刀法違反では?
彼は、後ろを振り返ることすらなく、刀を一気に引き抜くと、一回転して、気持ち悪い、彼よりも一回り以上大きな人の形をした者の首を、切り落とした。
それが、私の最後の記憶である。
*
私は、人を待っている。
もうずっと。何年も何年も。ここで、待ち人は来ないのかもしれないと何度絶望したことだろうか。自分が誰かもわからないのに、その上ここがどこだかもわからない。それでもただ一つわかっていることは「人を、待っている」ことだけだ。
いや、きっと人ではないのかもしれない。が、人のような何かに違いはない。どんな人なのだろう。怖い人だろうか、優しい人だろうか。臆病だったり、忙しなかったり、面倒くさがりだったり、どうか「人」らしいくだらなさと厳しさと柔らかさがあるといい。
たとえ心の奥底が鋼のような人だとしても。鋼の奥底には必ず熱があるはずだから。
自分の姿はわからず、ただ座り込んでいる。手の平を見る限りではまだ年老いてはいないようで、若すぎるようでもなかった。爪は短くて、禿げたネイルの痕跡がある。それぞれの人差し指には何度もカッターか紙かで斬りつけたような切り傷の跡が残っている。自傷か? とも思ったが、それ以外には大きな外傷はなさそうだ。ただ単に不器用なのだろう。
ここは結局どこなんだろう。見回すと日本家屋の中にいるのだとわかる。這いずって部屋から少しだけ足を出す。黒光りした廊下は艶やかで誰かが長い年月を磨いて鍛え上げたものだろう。家の全体を見れていないが、中庭に転がるように裸足のまま這い落ちると、想像通りの平屋で、中庭はすべて廊下に囲まれていて、どこも和室に直接入れるようになっている。十畳はありそうな中庭の中心にはさるすべりの木があって、鮮烈な花が咲いている。本体の木の滑らかさの白さとの対比で、なんて美しいのだろうと、腕を伸ばしたかったが、腕が伸びない。中庭の玉砂利に躓いて転んで、足首が痛い。立ち上がれない。
そうだ。私は、ずっとここで待っている。もう足など動かなくなってしまったのだろう。這いずるように元いた和室に戻る。
改めて庭を見ると、池があったことに気付いた。その縁にはモコモコとした低木があり、あじさいとつつじが咲いている。この幻想をより深くしている。
死んでいるのだろうか。あじさいとつつじとさるすべりが全部いっぺんに咲く事があるのだろうか。いや、おかしい。あの百日紅が、今は花ではなく、小ぶりな紅葉を付けている。いつ季節が変わったのだろうか。いいや、違う。だって、わたしはずっとずっと、ここにいるのだから。
今更、中庭に昇降できるように廊下の縁にいくつか石段があり、そこには大小様々なサンダルが並んでいることに気付いた。草履だったり、下駄だったり、洋装のようなサンダルに、ミュール、踵を潰したスニーカー。いろんな人が住んでいるのだろうか。私以外誰もいないのに。
こんな静かな屋敷に、住む人というのは、一体どんな人だろうか。
立派な殿様か、お偉い武家か。この時代はいつなのだろう。不思議な感覚に捉われる。そこで、ふと、後ろに気配を感じた。
薄暗い室内の奥に、般若のような面を被った、大男がいる。背の高い、細身の男だ。角の生えた、口元からはシューシューと不規則な呼気が漏れ、その男の手には刀がある。刀? なぜだ? 今はいつだ。なんだ。どういうことだ。般若とは、なぜだ。恨みつらみのこもったような、瞳がギョロリとこちらを見た。光のない瞳は、金色に輝いてこちらを逃がさぬというように睨んでいるのか泣いているのか。大きく見開かれた瞳はただこちらを見てくる。睨んでくる。私の待ち人など待たぬ、というように。一歩、一歩、ゆっくりと、この幻想の気配に負けず劣らず、まるで演技のように、こちらを追い詰めようとしてくる。
私は今度は恐怖によって立てない。アイツから流れてくる怒り、憎しみが私の両手足を縛り付けているように、金縛りのようで、苦しみすら感じて、顎が揃わずに震えてガタガタと鳴りだした。
怖い。あの刀をどうするつもりだ。
あれによって私はこの身体を斬られてしまうというのだろうか。
「あるじ!」
中庭から、大きな、よく通る男の声が聞こえた。振り返るよりも先に、後ろから部屋に乗り込んでくる。男の黒い靴を履いたすらりとしたふくらはぎが勢いよく私と鬼の間に立ちふさがった。
「ようやく、姿を現したな」
「どけけっけっけっけ」
「ったく、人の身を手放せば、それはもはや人ではない。
歴史は変わらない。そうなれば、あんたの救済は死のみだ。それでいいのか!」
「うううるるるうるさあああぎゅいいいいい」
「もはや、話も通じねえか」
「あの、あなたは」
「行くぞ」
男は私を片腕で肩に担ぎあげた。軽々と、まるで米俵のように。
「ぎゃあ!」
「ままててててててて」
「待てと言われて待つバカがいるかって」
人を担いでいるというのに、男はまったく重さを感じさせずに部屋から飛び出して私を安全そうな少し離れた部屋に降ろすと、中庭で鬼と対峙することにしたらしい。
「あんたに恨みはなかったんだがな」
「ぐぎぎぎぎぎぎがかかかが」
「遠慮なくやらせてもらうぜ」
小さなため息をついて、彼が己の腰から刀を抜いた。刀を彼も持っていたのか。
抜かれた刀を見て、思わず息が止まりそうになる。これは、なぜだ。私は。
私はこの刀を知っている。
「貴様の動き、全て見えているぞ!」
彼が最小の動きで、刀を振るう。鬼は、為す術もなく腹を横一文字にバッサリと斬られ腹から瘴気のようなものを溢れさせながらガクン、ガクン! と膝をつき、腕が肩から外れ、首が落ちた。仮面が外れた顔面には人の顔がついていなかった。
「いやに、あっけないな……」
金髪の、私を助けた男は、こちらを見て、近づいてきた。
彼は、もしかして、私の、待ち人なのだろうか。この人は、誰だ。
彼は、きっと、人ではない。わかる。それだけがわかる。
「おい、ある…」
彼が私に声をかけようとした瞬間、部屋の扉が一斉に閉まり、彼を挟み込んだ。
「痛って! なにしやがんだ! この! まさか、こっちが、屋敷自体が、本体…か!?」
「危ない!」
障子に挟まれた青年を助けようと腕を伸ばす。立てなかったのが嘘のように、片足を引きずって入口に近づこうとする。だが、畳がベルトコンベヤーのように私を後ろへと連れていく。畳に爪を立ててなんとか前へ前へと必死にもがく。
「主! 今行く!」
彼が刀をもう一度抜いて、障子を切り刻む。バラバラと落ちた障子はもう動かないらしい。紙の部分が、まるで刃物のように硬くなっていた。彼が駆け寄って、私の腕を掴んだ。
腕を掴まれたのが、初めてではないと気付いた。
いつからだ。いつ、彼と出会った。彼は誰だ。私は誰なんだ。
「おい! 足を動かせ!」
「ちがう、動かないの! 足が、立たない…!」
「そんなわけはない! アンタは、そう思い込まされているだけだ! 立て! アンタは、自分の足で、立って、走って! そうしてここまで生きてきたんだ!」
やはり彼は私のことを知っている。
しかし、足が動くことはない。太ももに力が入らない。まるで骨がないようだ。悪化している。意識が芽生えた時よりも、ずっとずっと悪化している。自分にはなにも出来ないような、このまま流されて、部屋に飲み込まれてこの部屋と心中することが正しい気すらしてきた。
「あなたは逃げて…、無理よ…。腕が、痛い…」
入口から、腕を伸ばして、引きずられてる私を向こうに連れてかれまいと腕を伸ばし続ける彼。その赤い眼が、光った。
「アンタは、そんなことを言うような奴じゃない」
「あなたが私のなにを知っているというの?! 私は、私のことを、なんにも知らない!」
「だったら、思い出させるまでだ! こんな微力な霊力に引きずられるわけがない! アンタの力は、もっともっと上だ!」
彼がこちらに飛び込んできた。一緒に部屋の奥に引き込まれると思った瞬間、口から急激な力を感じた。
男が口付けているのだと気付いたが、それよりも、強い、濁流のような、記憶が流れ込んできた。これはなんなんだ。意識が飛ぶ。
夕暮れ。私の長く伸びた髪が綺麗だと言って笑う男がいた。ゴトン、と私の心が落ちた音が聞こえた。
朝、太陽の光を浴びた彼の髪が綺麗で、それを伝えるとはにかむような笑みを浮かべた。夕暮れの時、きっと私もこんな顔をしていたのだとわかってこちらまではにこんでしまった。
深夜、こちらを心配しつつも、将としてできることは全てやりたいと伝えると、複雑な顔を浮かべたものの、こちらを否定するのではなく、サポートすると約束してくれたこと。一緒に飲んだココアが苦かった。
日中、そうだ、どこにいても、どんな姿も見つけられる。厨番をしている、馬当番をしている、手合わせでは兄弟と盛り上がりすぎて武道館の扉を壊した歴戦の面々に名を連ねたこと。全てが愛おしかった。見れば見るほど、知れば知るほど胸が苦しくなる。
私の待ち人はこの人だ。
何度でも、きっと私は、何度だって、この人を好きになるんだ。私を助けにどこへでも飛び込んでくれるこの人が。他の誰でもない、他の刀もきっと私のために危険に飛び込む。でも違うのだ。
私はこの刀を道連れにしたいのだ。死ぬならこの刀がいいんだ。他の刀たちには思わない。生きていてほしい。私がいなくなっても。
でも、違う。この刀は、私の全てを握っている。
戦いになると眉と同じように持ち上がる口角、紅い瞳は戦いを楽しみつつ、求めているのはきっと戦いではない。
戦いの先にある平穏だ。日本家屋のどこにいても、彼がなにをしていても、彼の周囲は明るい世界に染まっていた。私が愛した、彼が守った世界の延長に我々は生きている。
ここは、私たちが生きていた世界ではない。
ここは作り物の本丸だ。
私は、審神者だ。
ソハヤノツルキ、私の刀。
彼の輝きは、こんなものではない。
その力を発揮できないというのなら、私の霊力が足りないのだ。
私の力が、負けているのだ。
負けるわけにはいかない。
この戦いに負けてなどいられない。負けなど有り得ない。
こんな私情の鬼になど。時間遡行軍ですらない、人の恨みつらみになど、構っている暇はない。
私の、本丸。私の刀たちを、護り、この戦いを終わらせる責務が、私にはあるのだ。
瞳を開ける。
異質な空間に巻き込まれたのがわかった。そして微力な霊力を。
たったこれっぽっちの霊力に、私の刀が、劣るわけがない。
「ソハヤ!」
「ようやく、ちゃんとお目覚めってわけか!」
腰を抱かれて、異空間に落ちている。わからない。落ちているのか、上っているのか、右だか左だか。
「もう大丈夫。ごめんね、私がこんな情けないことに巻き込まれて」
「さあな。俺は役得だったからいいんだよ。あんたの色んな姿も見えたしな」
なぁ〜んてな、なんて似ていない浦島の真似みたいなセリフを言う。きっと、心配したのだろう、きっと深く苦しんだのだろう。決してそれを見せる素振りはしないのがこの刀だ。私の初期刀、初鍛刀たちは本当に偉い。この刀を、送り込むという決断をしてくれたのだから。
「もう、大丈夫。私は平気」
そっとソハヤの両頬を包み込む。冷たくなっていた頰に少しずつ暖かさが戻ってくる。彼本来の熱が。
「帰ろう、ソハヤ。
あなたなら、大丈夫。本丸に、帰らないと」
「ああ、そうだな。あんたを必ず連れて帰るってみんなに約束したからな」
ソハヤの霊力が高まっていく。
身体中からほとばしる強い力。
邪悪なものを弾き返す、最強の護り。内側から世界を照らし作り替えるような、全てを照射して滅殺する。
私の内側に、他人の憎しみや苦しみなどいらない。
「我が主への狼藉、死してなお悔いるがいい!」
そして世界は光に包まれた。
*
「それでさ〜、安定のやつ、一体なんて言ったと思う? あ、それ食べたの僕。だって!
さっきからその話してただろうが! っつーの!」
「あはははは。もう、清光ったら、そんなに食べたかったの? また買って行ってもらうよ」
「違うよ! そういう意味じゃなくて!」
「うわ、」
半分開けていた窓から唐突な風が吹いた。
清光が窓を閉める。
「春一番だね」
「もう五番か六番くらいじゃない?」
「そうかも」
審神者は今全身の検査のため入院している。定期的に毎日誰かが見舞いに来てくれるので助かっている。
真っ白い壁に真っ白い寝具。見慣れない病室では、本丸の慌ただしい生活が懐かしくてたまらない。
「明日の午前中で退院でいいんだよね。明日また来るよ」
「毎日ごめんね。今回は本当に迷惑をかけて……」
「何言ってんの、主は被害者側だろ」
それは、呪いだった。
お互い顔も名前も知っている相手だ。ソハヤの呪い返しによって、呪いはかけた本人の元へと返った。
今回の呪いの件は当然政府に報告したが、すでに相手の本丸は半壊し、全ての地面がひっくり返されていたという。それ以上なにがあったのかは聞いていない。
風の噂では、どうやら、人様の刀に横恋慕をしたのでは? という話だが、真実を知る手段はもうなにも無かった。
呪いを受けた側として検査入院を余儀なくされたが、不具合は特にないそうで、護り刀の力を思い知らされた。まあ、よく考えなくとも愛染明王の加護や、不動明王の加護などがあるはずなので、よくも審神者相手に呪いなどかけようとしたものだ、と今では半分呆れている。
一週間の入院は穏やかに終わるが、ずっと本丸を閉じていたので明日からは忙しくなることだろう。
「じゃ、ひとまず俺は退散かな」
「え、早くない? もうちょっとお喋りしてこうよ〜」
「嬉しいんだけど、俺にも色々都合があるんだよな〜」
なんてヘラヘラ笑いながらも、清光は満更でもない顔をしている。いつもは一二時間話し相手になってくれるのに今日は三十分も経っていない。
「ま、ほんとに主の身体になんにもなくて良かったよ」
「うん、本当にありがとう。みんなのおかげだから」
「いい判断したでしょ」
「あのさ……清光、ちょっと聞いてくれる?」
明日になったら本丸に戻る。そうしたらきっとこの気持ちわ忙しなさで忘れてしまうだろう。初期刀にだけは言えるかもしれないとこの一週間もだもだしていた気持ちを打ち明ける決心をしていた。
「え、なに?」
「あのね、笑わないでね……」
「笑わないよ」
「こんなことになって言うことじゃないのは確かなんだけど……」
「うん……引っ張るな」
「キスされて目覚めるって、ちょっとお姫様みたいだったなぁって、おも、って、いました……」
清光は笑わなかった。
本当に少しだけ主を愛おしそうな目で見つめたあとで「さあてと!」と勢いよく膝を叩いて立ち上がる。
「え、清光!?」
「じゃ! あとは王子様に任せよっかなぁ〜〜!!」
「は?!」
「……いや、すまん……」
清光の声を合図にしたように、顔面を真っ赤にしたソハヤが部屋に入ってくる。
「ちょ、は? え? きききよみつ」
「せっかく二人の時間作ってあげようかなぁと思ってたけど、いや、もうほんと主が幸せなら俺はなんにも言うことないよ……」
「色々言ってよ! 先に! 言葉にして!!」
「じゃ、フォローよろしく」
「後で覚えとけよ……」
「苦情は俺じゃなくて空気読めない主に言ってよね」
清光と入れ替わりでソハヤが丸椅子に座る。
「あー、まあ、うん、いや、あれは、致し方なくというか、手っ取り早いかなぁ〜〜と思ってだな……」
「解説しなくていいから! わかってるから!」
ベッドに潜り込んでしまった審神者を、ソハヤが簡単に布団をはいだ。口が抑えきれていない。ムズムズとした笑っているのか怒っているような眉も歪んで半笑いみたいになっているのに、耳は真っ赤だった。
「主」
「なによ……」
「やり直しだ」
「は?」
「あんなんじゃ、こう、決まってねえだろ」
「なにみっちゃんみたいなこと言ってんの」
「いいだろ。こっちは消化不良なんだから」
「は?」
ベッドの上の審神者を真っ直ぐ見つめることも出来ずに、ソハヤは赤い耳のまま、審神者の手を握った。
少しの間、じっとしていた。
ほんの少しの沈黙の後、先に動いたのはどちらだったのか、もうわからない。