今日は、よく降る。
これは「天と地の戦い」と呼ばれた日から、ちょうど十年が経つ日のことだった。今日はあいにくの雨で、それはそれはよく降っていた。ザアザアと耳に心地よい雑音がそれぞれの思い出の丘を覆っていた。
「天と地の戦い」から十年の月日が経ったということは、エレン・イェーガーの命日からちょうど十年という区切りであることもまた、忘れられない事実だった。
当時の彼の仲間たちは一堂に会し、雨にも関わらずに皆その墓標を目指してやってきた。アルミンもジャンもコニーも、アニもライナーも、ピークでさえも。ヒストリアだけは女王として公式に訪れることができず、日をずらして先に会いに来ていたくらいか。
エレンの墓標から歩いて五分ほどの場所に居を構えるミカサももちろんそうだ。……いや、ミカサはずっとだった。ずっとその墓標の隣に座り続けていた。この雨の中、この日であっても、傘を差しながらずっと墓標の隣に座っている。
皆がエレンに会いに来るときはいつもミカサの住まう小屋に集まるのが恒例となっていた。そこが一番集まりやすいからという理由だが、皆はこの日、特に傷心しているであろうミカサを気遣い、彼女をその墓標の隣から引き離すことはしなかった。
やがて皆が帰っていく。
この雨の中、いつまでもそこから離れようとしないミカサを心配していたジャンだけは、ミカサの小屋で彼女の帰りを待っていた。……だが、いつまで経っても彼女は帰らなかった。
ジャンは小屋を出る。傘を差して、雨の下に歩を進めた。降りしきる雨は一向に止む気配はなく、空はどんよりと重たい雲に覆われていた。
先を見据えて、一歩一歩と踏みしめる。その度に水が溢れてくる芝生を丁寧に進みながら、丘を登っていく。
「おい、ミカサ」
「……ジャン」
傘を差しているとは言え、濡れた地べたに座っていたミカサはびしょ濡れになっていた。それでも構わなかったのだろう、彼女はずっとそこで……じっとそこで、座って想いに耽っていたらしかった。
「もうみんな帰っちまったぜ。お前も風邪引くから、そろそろ帰ったほうがいい」
「……」
ミカサは視線を足元に落とした。そうしたくない理由が彼女の中で大きすぎて、素直にそれに応えることができなかったからだ。
ジャンは小さく嘆息を零してから、また数歩、彼女に歩み寄る。毎年訪れるこの日に、ミカサがどれだけ無気力になるのかは、もう十分すぎるほどにわかっていた。
「ほら、立った。エレンは逃げねえから。これで風邪でも引いたら、エレンも悲しむだろ?」
そう言って、無理に彼女の腕を掴み、立ち上がるように促す。ミカサは重い腰を上げて立ち上がったが、その髪からも、服からも、冷たく水を滴らせていた。
ミカサが立ち上がったことを確認したジャンは、それから手を放して踵を返す。ここまですれば大丈夫だろうと思い、一応気にかけながらまた小屋のほうへ足を進めた。びちゃ、びちゃ、と水分を含んだ足音がついてくるのを確認して、ゆっくりと小屋のほうへ誘導した。自分がいなければ迷ってしまいそうな、そのびしょ濡れの彼女を心もとなく思いながら。
小屋に着くと、まずは着替えだ。こんなに濡れていては話にならない。
「着替えて来いよ。俺はココアでも入れてるからよ」
「……うん」
消沈したままの声色でミカサは返し、寝室に吸い込まれていくようにふらふらと姿を消した。
それを確認してから、ミカサに伝えた通り、ココアを作って待つことにした。もうすっかり慣れてしまったキッチンで、牛乳を鍋に沸かして、頃合いを見計らってココアパウダーと砂糖を入れる。雨で冷え切ってしまった身体にはきっとちょうどいいだろう。
「……ありがとう」
ミカサが着替えを終えて寝室から戻ってきた。けれど、無気力なままのその姿を見て、一つも安心などはできなかった。いかんせんその髪の毛に至っては水がまだ滴っているほどに濡れたままで、
「お前なあ。髪くらい拭けよ。えーと、タオルどこだっけ」
一旦ココアを入れたマグをその場に残して、ミカサの小屋の中を闊歩する。
「ほらよ。乾かすの面倒なら、それ巻いとけ」
そうして彼女を小屋の端の椅子に座らせる。入れたばかりの、まだ温かいココアのマグを持ってきてそれを手渡して、自分はそれを眺めるようにしてそこに立っていた。――そのマグに、ミカサが口をつける気配は、今のところまだない。
自分の分だけ一度口に含んで、甘さや温かさの確認はしておいた。
しばらく見ていると、ミカサは与えられたココアを少しの間眺めたあと、ようやく一度だけそれに口をつけた。そうしてまたそれが無気力に膝の上に戻っていき、またミカサはそのココアの表面を静かに眺めた。
「――とうとうあれから十年経っちまったな」
ジャンは静かに語りかける。心ここにあらずのミカサを呼び戻すように。
「……うん」
かろうじて聞こえるくらいに小さな返事が戻ってきた。……よかった、ミカサはまだこの世界に存在している。なぜだかそんな不思議な安堵感を抱いた。
「最近……思う」
今度はミカサがそれを口にした。
ジャンはそれを聞き、「おう」といつも通りの相槌を打って応えた。
ぐっ、とミカサの喉が詰まったのがわかる。何かを言おうとして、一生懸命に口を開いていることも、見ていてわかることだった。
「私がいつまでも、エレンのことを想うから……エレンもきっと、安らげないんじゃないかって」
ミカサ特有の淡々とした声遣いでも、それが少し震えていることにジャンは気づいていた。
「エレンは言った。……俺が死んだら、俺のことを忘れて、自由になってくれって」
それを何とか言い終えたあと、ミカサはうずくまるようにして身体を縮めた。
「……けど、そんなこと、できない……っ」
ミカサの持つココアの表面が揺れている。ゆらゆらと不安定に揺れて、なんとか零れずにそのマグの中に収まっている。
「私は、エレンを忘れられない。忘れたくない……!」
まるで懺悔でもしているようだなとジャンは思った。必死に言葉を絞り出す姿を見て、それでも自分には「……おう」と相槌を打つことしかできないのかと深く思考した。
「――けど、それは、エレンの望みじゃない」
その言葉を聞いて、ようやくどうしてこんなにミカサが苦しんでいるのかを理解したジャンだ。生前にエレンがミカサに言ったことらしかった。自分のことを忘れてくれ、と。想像するしかできないが、エレンがそう遺した気持ちもわかる。……だが、それが今、ミカサを苦しめているものなのだとしたら……、
「……ミカサ」
ジャンはまだ温かいココアを一口飲んでから、静かに呼びかけた。
その注意が自分に向いたことを確認してから、今度はそのマグをもたれかかっていた机の上に置く。
「エレンが大好きなお前だから、エレンの気持ちを尊重したいのかもしれねえけどな。別に、お前が忘れたくねえなら、それでいいんじゃねえの。……俺は、ミカサ自身の気持ちを大事にしたら、いいと思うけどな」
もうこの世にいない人間のことを想い続けることは、どんなに辛いことだろう。それについてもジャンは想像することしかできないので、はっきりとはわからない。ただ、忘れてしまうよりも、想い続けていたいと思うのなら――そのほうが気持ちが救われるのなら、それがきっと一番なのだと思った。――決めるのは、いつでも生きている人間のほうだ。
しばらくミカサは言葉を禁じていた。ジャンが言った言葉を噛みしめていたのかもしれない。
「……ありがとう、ジャン」
最後にそう、はっきりと呟いた。
ミカサも持っていたココアの二口めを口に入れ、その温もりを身体の中に流し込む。喉を通って、身体の芯にその温もりがたどり着いたことを実感して、またマグを膝の上に置いた。
「……なんでジャンが、いつも私に構ってくれるのか、最近……わかった」
なんとも不意に流れ出た言葉だったが、ジャンは冷静にそれを受け止めた。
「……最近、か」
自分はミカサに片想いを始めてもう随分な年月が経つのになあと、ジャンは少し面白く思ってしまった。……ただ、一生気づかれないであろうと思っていた気持ちを気づかれたことには、少しだけ動揺する。少なくともエレンのことで頭がいっぱいだったミカサからは、上手く隠せていたつもりでいたのだが、どうやらそれは思い上がりだったらしい。
ミカサがまた一口、ジャンの入れたココアを飲み込む。甘くて温かくて、芯から染み込むような。
そうして、意を決したように顔を上げた。
「……エレンのためにも、私は、前に進まないといけないと、思う」
今にも涙が溢れそうな瞳で、ジャンに訴えかけた。
つまりそれはどういう意味だと、思慮深いジャンは勘ぐってしまう。……自分の気持ちに気づいたとミカサが言った、そのあとに、ミカサは前に進まないといけないと思うと、そう続けた。
「……おう」
自分に嫌気が差すような妄想をしてしまった、とジャンは視線を逸らした。何を今さらそんなこと考えているんだ、そう思って、そう思ったことをかき消そうとした。
「思うのに、わかってるのに、どうしたらいいのか、わからない……っ。私は、エレンを想うこと以外、できない……こんなんじゃ、エレンが、心配してしまう、わかってるのに……ッ」
そうか、とジャンの中で一筋の線が繋がった。
ミカサは自分の中だけでずっとぐるぐる巡っているその気持ちを、どうしていいかわからなくなってしまったのだ。だから、外部からの肯定なり否定なり、何かのヒントを求めているのだ。
……だが、そんなこと、自分ではおこがましくてできるはずがない。ミカサの持つ感情はミカサが決めるべきで――だけど、それを確かめさせてやれる方法なら、一つだけ思いついてしまった。
「……ミカサ」
「……なに?」
必死に答えを求めるようにミカサはジャンの次の言葉を待っていた。……思った通りだったのかもしれない。ミカサは、何らかの答えを欲してもがいている。
ジャンはまっすぐにミカサの瞳を見返して、そうしてゆっくりと口を開いた。
「……キス、してみるか?」
「えっ」
当然ミカサの口からは動揺の声が漏れる。
ジャンは自分でわかっている、自分ができることはこんなことくらいだ。わざとミカサの心を揺さぶるようなことを言って、本人の本心を炙り出させる。……それくらいしか、してやれない。
「……俺の気持ちももうバレてんだろ」
だがあくまで、その意図は知れないように努めた。
ミカサは口を開いたまま空振りさせて、「で、でも……っ」と激しい動揺を見せた。――それはジャンの思った通りの反応で、今さら悲しくもならない。……いや、それは少しだけ嘘かもしれないが……もう随分前からわかっていたことだ。
「……いやならしなくていい。それがミカサの心の答えだってことだ」
それだけを告げて、何事もなかったようにココアを飲む。自分はミカサのその反応で不満はないよう、ただただ平静を装って見せた。
けれど、ミカサはいつまでも口を噤んだままだった。何かを深く考え込むように黙り込んで、あちこちに視線を泳がせて、最後には手元に視線を落とした。ジャンが入れたココアはまだそこに残っていて、それをじっと見つめて、ミカサは何も言わない。
しまった、とジャンは心の中で焦った。
「おい、安心しろ。初めから本当にキスする気なんかねえから。これでもお前の気持ちはわかってるつもりだから、」
怖がらせてしまったかと急いで訂正していたのに――、
「――……キス、してみる」
「……は?」
思いがけない返答をミカサが寄こしたのだ。すっかり驚いてしまったのはジャンのほうで、言葉を失ってしまった。
いや、まさか、本当にそんなことを言い出すなんて爪の先ほども思っていなかったのだから、反対にめちゃくちゃに狼狽えた。
「ジャン」
ミカサが顔を上げて、先ほどジャンがして見せたように、まっすぐにジャンの瞳を捉えた。そこにあった揺れからまだミカサの迷いが消えていないことがわかったジャンだったが……それでもミカサは、その瞳のままジャンを見続けた。
「……まじかよ」
心の底から、溜息を吐くような言葉が漏れていた。
「……ん。なにか、変わるかもしれない」
本当に予想していなかったんだ、ジャンはなぜか自分にそう言い訳をしていた。自分は本当に、エレンのことを想って一生を終えるであろうミカサを、自分も一生想いを伝えられないまま生きていくのだと思っていた。
けれど、ミカサの真剣な眼差しを見ていたら、ああ、好きだなあと、また心の底からため息が漏れた。
これでミカサが自分の中にある本心に気づいてくれるなら、その手助けをしてやりたい。こんな形になるとは微塵も思っていなかったが、その手助けがこうすることなら、それをしてやれると思った。
ジャンはゆっくりとミカサの元へ歩み寄る。その目の前で腰を落として、目線を合わせる。
「……わかった。だが、一つだけ約束してくれ」
「うん」
「俺に気を使うな。嫌だと思ったら、嫌だとちゃんと言え」
これで万が一にでもミカサに負の感情を与える結果にだけはしたくない。その一心で、今言える精いっぱいの約束事を告げた。
「……わかった」
腹を括ったようにミカサも返して、それ以上は何も言わなくなる。
いざ目の前にすると、ジャンの心臓ははち切れんばかりに脈を打っていた。どんな形であれ、この唇に触れる日がくるなんて思ってもいなかった。……だが、勘違いしてはいけない。これは決して自分のためではない。あくまで、ミカサの気持ちを確かめさせてやるためのものだ。そう肝に銘じた途端、ぐっと胃が押し上げるような感覚に見舞われた。なぜかわからないが、一瞬だけ泣きそうになってしまった。
ミカサはすでに目を閉じている。ジャンが触れるのを、待っている。
本当に触れていいのだろうか。いつ『やっぱり嫌』と言われてもいいように、ジャンはできるだけゆっくりと、そして静かに顔を寄せた。
――ふわり、と柔らかいところが触れる。『やっぱり嫌』だとは言われないまま、唇が触れるに至ってしまった。
「……んっ、」
たださわりと触れただけなのに、ミカサの喉が音を立てて震えた。
「……ッあ゛っ」
もうすでに離れている唇から、嗚咽が漏れ出たことに気がついた。
驚いて目を見開くと、目の前でミカサの瞳からぼろぼろと涙が溢れ出ていた。次から次へと、まるで今日降っている雨のように、どんどんどんどん、とめどなく涙が流れ出てくるのだ。
「っあ、あぁああ……っ!」
絞り出すように、苦しそうに声を上げてミカサは泣いていた。
「……ミカサ」
それをただただ見守るしかできないジャンは、それでも自分にできることを必死に続けた。
「エレンがっ、ひっ、こいしい……っ会いたい、エレンに……会いたい……っ」
もう何にも耐えられなくなったように、勢いよくうずくまって声を上げた。カタン、とまだココアが入っていたマグが床に落ちて、すっかり冷めきった床に広がっていく。
「あぁ、ああぁあ、えれんのっそばに……いたかった……あっあぁッ」
どうしていいかわからなかった。ジャンはその様子を見て、とっさにミカサの頭を抱いた。背中を摩った。それくらいしかできなかった。
「ずっとっ、いられると……おもってた、のにっ」
その泣き声はジャン自身の心の奥底にまで届いて、ジャンからも涙を絞り出そうとする。俺が泣いてどうする、そう自分に言い聞かせながらジャンは、必死にミカサの背中を摩った。
こんなの、当然だ。最愛の人が死んで、この世からいなくなって……次になんて、進みたくないだろう。どうして『次の幸せ』のことなんて考えられるだろう。
「エレンをっわすれたくない……っひぐっ、こわいっエレンがいなくなる……っエレンにぃ……ッあ゛いたいぃ……っ!」
まるで赤子が母親を求めているように、惜しげもなく声を上げてミカサは泣いた。きっとずっと吐き出せずに、押し込んでいたのだろう。エレンが――みんなが心配するから、そう思って、きっと、自分でも押さえ込んでいたのだろう。
「大丈夫、そう思うのが自然だ」
ジャンは未だに必死になってミカサの背中を摩っていた。今自分にできることなんて、これくらいしかない。その思いだけで、必死に、でも確かに、ミカサの思いのはけ口を作ってやれるようにと、その身を抱えた。
「誰もお前を責めねえよ」
「あっあぁああ……ぅ、あぁッ」
次第に言葉にならない嗚咽だけを漏らし続けるようになり、気づけばミカサもジャンの腕に縋っていた。唯一の標のように、必死にしがみついて、そうして止まらない涙を流し続けていた。止まない雨と一緒に、その思いを降らせ続けた。
――その内に、ミカサは泣き疲れて眠ってしまった。
大人でもこんなことがあるのかとジャンは驚いた半面、この感情の突沸を一人で経験させずに済んだことに、少しだけ安堵と誇らしい気持ちを抱いた。……よかった、きっとそばにいてやれたことは、ミカサにとっても少しは助けになったはずだ。そう思って、少しだけ自身も救われた気持ちになった。
ジャンの腕の中で泣き疲れて寝てしまったミカサを抱え上げ、寝室まで連れて行った。途中起きないだろうかとはらはらしたが、嗚咽の余韻で突発的な呼吸をすることはあれど、何とか起こさずにベッドに横たえることができた。ベッドの脇にかけてあった毛布をなるべく優しくかけてやり、寝室を後にする。
ミカサが零してしまったココアを拭き取り、先ほどまで一緒に泣きじゃくっていたその場所を眺めた。
ミカサの本心はわかっていたことだし、それでも何かあったときにそばにいられるようにしようと、そう自分に誓ってここまで見守ってきた。だから、今日してやれたことは、自分の人生の中でも五本指に入るほど大きな出来事になるだろう。動機は別にあったにせよ、一生触れることがないと思っていたミカサの唇に触れてしまったことも……いい思い出にしていくしかない。――そう考えて、再び視線を放した。
家主が安眠しているのだから、長居は無用だ。ココアのマグカップを二人分洗い終わってから、ジャンはもう今日は退散することにした。帰る前に一声かけたほうがいいだろうかと少しの間だけ悩んだが、せっかく落ち着いて寝ているのにわざわざ起こすのも野暮かとそのままにしておくことにした。また明日様子を見に来ればいいだけのことだ。
鍵は外からかけたあとに、ドアポストにでも入れておけばそれでいいだろう。そう簡単に考えて、この家の鍵を持ち出したところだった。
「――……ジャン?」
寝室のほうから、ミカサの声が聞こえた。いるのに返事をしないのもおかしな話で、
「あ、わり。寝てていいぜ。鍵はポストに入れとくから」
玄関からそう声をかけた。
寝室のほうからベッドが揺れる音がして、ミカサが起き上がったのがわかった。……寝てていいって言ったのに。ジャンも振り返って寝室のほうを見れば、開いていたドアから、ベッドに起き上がって座っているミカサと目が合った。
「違うの。ごめんなさい」
たくさん泣いて腫れぼったくなっていた目元を擦りながら、ミカサは謝罪の言葉を寄こした。
玄関から会話を続けるわけにもいかず、ジャンは一旦鍵を机の上に置いたあと、寝室の入り口まで歩み寄った。
「……気にするな。それに、俺に気を使うなって約束だっただろ」
なるべくミカサが悪気を感じないよう努めて応えた。それにはミカサも「う、うん」と肯定して、
「……でも、たくさん泣いたら、なにかすっきりした」
本当に少しだけ軽くなったような声色でそう言った。
「そうか。それならよかった」
それが聞けただけで、今日俺がここにいたことに意味はあった、ジャンはそう思えただけですでに満足していた。だから思わず微笑んでいて、
「――今度こそ、ちゃんとできると、思う」
「……ん?」
ミカサが何を言ったのか、すぐには理解できなかった。
「ジャンとキス、できると思う」
何を言い出すかと思えば、また突拍子も脈略もないことを言われて、頭がすっからかんになったジャンだ。というか、それを言ったミカサの心情がまったくと言っていいほど理解できない。あまりの衝撃に思わず飛び上がってしまい、
「いっ、いやいや、別にしなくていいっ。俺だって別に何も期待してねえよっ!?」
つい少し強めの口調でそう言ってしまった。
だって、先ほどのあのミカサを見れば一目瞭然だったろう。ミカサの心が今どういう状態にあるのか。
「ただ、ミカサが自分の気持ちに気づけばそれでいいかなと……さっきはそう思っただけだ」
だからそれを付け加えて、本当に他意はなかったことを強調した。
「でもそれじゃあ、私はジャンにひどいことをした」
「……されてねえよ、安心しろって」
何やら出口のない押し問答みたいになってきたなと、少なからず思ってしまったジャンだ。どうしたら本当に気にしていないことが伝わるだろうと思って、考えを捏ねている間に、ミカサはその顔を下げてしまった。
ジャンがその頭の中で考えを捏ねている間に、ミカサもまた、その頭の中で思考をあれやこれやと巡らせていたのだ。それに気づいて様子を見ていたジャンに、ミカサが顔を上げて瞳を繋げた。――それは先ほどの光景と重なり、ジャンはどきりとその心臓を揺さぶられた。
そしてミカサは言ったのだ。
「――ジャン、またキスをしてほしい」
ミカサが考えていることがまるでわからない。ジャンはただただ動揺した。……だって、これでは先ほどの二の舞ではないか。ミカサの気持ちがどこにあるのかわかった、もう今日はそれだけで十分なはずで、これ以上の余計な刺激は必要ないはずだ。
きっとミカサは『前に進まないといけない』として、焦っているのだ。ジャンはそう結論づけた。実際本人もそう悩んでいるような話をしていて、それがそもそもの発端だったではないか。
「……あのなあ、ミカサ、一旦落ち着けよ。冷静になれ」
呆れるような声遣いになっていたかもしれない、そこまでジャンは配慮しなかった。実際にミカサは結論を急ぎすぎていると思ったし、それは必要のないことだとも思った。
だが、それを言われたミカサの反応は、ジャンの予想したものと違っていた。……まただ、また目測を誤ってしまったのだ。
ミカサの灰色の瞳が揺れ、ぐっと目元が歪んだ。そのわずかにできた歪みからじわり、とまた涙が形を作ってその光を揺らした。
「違う、今がいい」
声が震えている。ミカサはジャンが思っていたよりも遥かに、このことに執着していた。
「い、今なら、エレンも、許してくれる、気がする……から……っ」
ついにはその光を揺らしていた涙は粒となって頬を伝った。今度は雨ではなく涙のせいで濡れていたミカサの瞳が、ジャンを呼んでいる。まるで何かを訴えるように、ぐつぐつと揺れながらジャンの行動を待っていた。
「……ミカサ」
観念したのはジャンのほうだ。
愛しい人がこんなに助けを求めて待っている。動機は純粋な愛ではない。本人はそれに気づく余裕もないのだろう。だが、自分だって元々そんなもの、期待なんてしていなかった。一生することはないと思っていた初めてのキスは、先ほど済ませたばかりではないか……なら、もう、気が済むまで付き合ってやってもいいだろうか。
ミカサが座っているベッドの隣に腰を下ろして、
「俺は気が進まねえよ?」
それだけは再確認する。
きっとまた触れた途端にミカサが泣き出して、先ほどと同じ顛末に終わるだろう。それを何回でも試したいというのなら、付き合ってやるしかない。そもそも自分が撒いてしまった種だった。
「お願い、このままだと、エレンがっ心配するから……っ」
ミカサは涙を流しながら懇願を続けるばかりだ。
こんな状態で、どうして放っておけるというのだ。……そんなの、端から無理な話だったのだ。
「……さっきの約束、覚えてるな?」
「うん。嫌と思ったら、言うから」
たどたどしくそう付け加えると、ミカサはジャンの腕を掴む。――それは反則だろ、くそう。もはや何に対する悪態かもわからないが、ジャンもそっとミカサの肩に触れた。
一度目と同じように、ジャンの心臓はばくばくと異常なまでの脈を打っていた。いや、一度目よりも遥かに緊張している自分に気づき、俺かっこ悪いと頭を過ってしまった。
それでも目の前のミカサは涙を流しながら自分のことを待っていて、もうジャンの中の感情はぐちゃぐちゃだった。ミカサのためだと言い聞かせている自分と、ミカサとキスをすることに対して興奮を隠しきれない自分と、いろんなものが同居して居心地が悪い。
だがほかでもないミカサがそうしてほしいと言っているのだ。意を決したジャンは、先ほどしたようにゆっくりと、そしてできる限りの優しさを持って、互いの柔らかい部分を触れ合わせた。
――今回はミカサからの嗚咽は聞こえない。まして、離れていかない。先ほどはお互いすぐに引いてしまったのに、心地よさに気づいてしまったように、離れられなかったのだ。……だが、だめだ、無理をさせては。ジャンの中では理性が働いて、唇を放そうとした。それをミカサが追い、再び深くで触れ合うこととなる。驚いたが、それ以上に交わされている行為に意識を奪われ、
「……んっ、ん、」
何度か続けて重ねるようなキスをしてしまっていた。
どちらから合図をしたわけでもなく、触れ合わせたときのようにゆっくりと離れたあと、ミカサの涙の筋は跡になっていて、それでももう溢れることはなかった。
「ごめん、こういうことするの、初めてで」
身体を離しながら体勢まで整えて、ミカサが恥ずかしい過去でも告白するように告げた。
それを聞いて自嘲したくなったジャンだ。同じように体勢を整えながら、「安心しろ。俺も実践は初めてだよ」と告げると、ミカサは心底驚いたように「えっ、」と声を漏らした。
当たり前だろう、そんな気持ちになっていたジャンだ。
「俺の片想い歴舐めんなよ」
少し意地悪を言ってやるつもりで口を尖らせてやったら、ミカサはぱちくりと眼を瞬かせて驚くばかりだ。
「……ジャン、そんなに?」
「ああ、そんなにだよ。お前のこと、好きで好きでたまんねかったんだよ」
もう隠すこともないと思ったら、言うのも気が楽になっていた。どうせすべてばれていて、キスまでしたのだ、今さら隠してもしかたのないこと。ジャンはこの際、思っていることを言ってしまうことにしたのだ。
それを聞いてミカサはさっとうつむく。
「……それは……その、気づかなくて悪かった」
そんなこと、今さら謝られたところで何の足しにもならない。……それに、とジャンは付け加える。
「だからこそ、お前がエレンを想う気持ちも、よくわかってるつもりだから」
うつむいてしまったミカサを見ているのは気が引けて、目の前の壁を見ながらそう言った。
ぐ、う、と隣からまた喉を詰まらせたような声が聞こえる。
「……っぐ、う、うん……っ」
肩を震わせて、涙を必死に拭う姿を見て、また溢れてしまったのかと――いつものように、愛おしく思った。
大丈夫だよ、そう言いながら、頭をくしゃくしゃと撫でてやる。
――そんなに焦ることはない。エレンはミカサを急かしていないだろうし、きっとただただ、平穏であることを願っているだろうから。
「ありがとう、ジャン」
「気にすんな」
ジャンはそのあとも、ミカサが泣き止むまで、隣に座ってその涙が降り止むのを、いつまでも待っていた。
おしまい
あとがき
34巻のあのコマに脳みそのすべてを持っていかれました。
うそだろ。
自分が一番ジャンミカ書いたことにびっくりしてます。
そこに至るまでのすべてを知り尽くしたい。
それはそうと、
私には大好きなロシア語のことわざがあるんで聞いてください。
「悲しみは海ではないから、すっかり飲み干してしまえる」
あとこれも好き。
「愛はじゃがいもではないから、窓から投げ捨てることはできない」
ミカサとジャンを見守りたい。