消失の証明
その日の事務所では、いつもと何かが違っていた。
――あの誰も忘れることはできない大事件から、だいたい二年ほどの月日が経とうとしていた。
僕たちはようやく近隣の国と連合国としての条約を締結するに至ったマーレ外務省の元で、日々知識を蓄えるべく奔走していた。どうやらマーレ政府の要人らはいずれ来るであろうパラディ島との戦後交渉の際に、ほかでもない僕たちにその命運を懸けたいと思っているようで、そのための準備だと言える。まだ直接パラディ島と言葉を取り交わす段階にないので、僕たちはそのほか近隣諸国に対する外交の場に連れ出され、その何たるかを学んでいた。
そして今日と言う日は、僕とピークとライナーが事務所で書類仕事をこなし、ジャンとコニーはとある研修に出席させられていた。残るアニは昨日出張から帰ってきたばかりのため、今日は休日となっている。
つまり、いつもと何かが違うこの事務所の中には、僕とピークとライナーしかいなかった。
僕は何が違うのだろうと事務所の中を観察する。爽やかな風が吹き抜けていくことから、今日はいつもと違って窓が開いているのだと気づいたが、おそらく違和感のようなものはそれが原因ではないはずだ。すると事務所の中にある手洗い場から、ピークがゆっくりと窓のほうへ歩いていく。その手には大きな花瓶と、それに華々しく飾られた花の束が抱えられていた。それを開け放っていた窓辺に置いて、楽しそうに手入れをしている。――ああ、これかもしれない。僕はピークの弾むような後ろ姿を見てなんとなく思った。
さらに観察を続けるとピークは間もなくして鼻歌まで歌い始めたのだ。これまで感じていた違和感の正体は、どことなく弾んだような空気感だったようだ。
ライナーのほうを見てみても、弾んでいるのかはわからないが、そういえばいつもより落ち着きがないような気がする。またピークへ視線を戻すと、そこで彼女が口ずさんでいる音楽に聞き覚えがあることに気づいた。それは確か、『第九』と呼ばれている有名な楽曲だったはずだ。
「――ピーク。なんだかいつもと雰囲気が違うね。何かあったの?」
僕はさわさわと楽しそうに花の手入れをしていたピークに投げかけた。
しかし彼女はそのまま作業をやめず、「え、うん。これと言って何もないよ」と返した。とてもそのようには見えないので、僕はさらに「……そう? なんだか、ちょっと嬉しそう」と付け加えて見せた。そうするとピークはようやく手を止めて、僕のほうへふり返った。いつも比較的ににこやかな彼女だが、今日はなんとなく切なそうに頬を緩めていた。
「……嬉しい……のかな。自分でもよくわからないよ」
言い終えると、今度は目の前にあった窓を閉めた。ある程度の換気も終えたところ、書類が飛ばされる前にそろそろ閉じたいと思っていたので、僕は少し気持ちが落ち着く。
まあ、理由もなく機嫌がいい日というものはそんなに珍しくもないし、本人が心当たりがないというのならそうなのだろう。
「そっか。まあ、そう言う日もあるよね」
僕は深追いすることなく、また僕自身のデスクに広げられていた書類に目を落とした。
「――……アルミンには、言っておこうかな」
「ん?」
顔を上げると、未だに窓辺に立っていたピーク。彼女が僕のほうへいつになく柔らかい眼差しを向けていたので、いったい何を教えてくれるのだろうと気になった。
ピークはちらりとライナーと目配せをしたかと思うと、「アニちゃん、自分では覚えてないだろうから……」と付け加える。
その口から予想外に出てきた恋人の名前に驚いて、僕は思わず前のめりになってしまった。
「アニと何か関係があるの?」
「そうだね。私たちみんな、かな。……知りたい?」
「うん。よかったら聞かせてよ」
僕がそうやって話すことを促すと、ピークはもう一度ライナーに目配せをした。ライナーにも関係のあることなのだろう。
ピークはゆるりと垂れ下がる髪の毛を耳にかけながら語った。
「実はさ、十三年前の今日――、」
***
ソファに寄りかかって、暮れていく夕陽をぼんやりと眺めていた。
昨日まで五日間の日程でマーレの東側に残る国での条約締結記念行事に同行させられた私は、つい昨日その国から帰国したばかりだった。そのため今日も皆は奔走しているというのに、私は一人で休日をかっ食らうことになり、自宅で静かに缶詰状態だ。別にでかけてもよかったのだけど、一人だったし、特に当てもなかったので、本を読んで過ごすことにした。
しかし本も一段落して窓の外を覗くと、そこには赤々と照らす夕日が漂っていたのを見つける。もうこんな時間かとぼんやりとそれを眺めている間に、それはあっという間に暮れ切ってしまった。
もう少ししたらアルミンの退勤時間となり、そうなればまた彼はそのままここへやってくるだろう。もうそろそろ一年になる私たちの関係は、それでもまだ落ち着きはなかった。常にどちらかの自宅にいるような状態だったし、私たちはそれぞれの時間を過ごすのが下手くそだったのだと思う。
――だってほら、一人になるとまた、こうやって……――
私は自分の手元を見下ろした。はあ、と自己嫌悪のせいでため息が零れる。
は、と呼吸と同時に自己嫌悪に飲み込まれていることに気づき、急いで思考を逸らそうとした。
そうだ、アルミンが帰るまでに何か夕飯のようなものの支度でもしておこうかと私は立ち上がる。そのまま各部屋に備えつけの小さなキッチンの水洗い場の前に立ち、そこに重なっているいくつかのお皿を見つけた。……そうか、これを洗うところからだったか、そう思い、スポンジと食器洗い用の洗剤を引っ掴んで私はそれらを拾い上げた。
ひり、と指先に痛みが沁みる。今日の昼間につけてしまった傷が、絆創膏越しとは言え冷水と洗剤に晒されて痛む。私はあと数枚のお皿だけだからとその微かな痛みに耐えながらお皿を洗った。この痛みだって自業自得なのだから、しようがない。
私はときどき、まだ巨人化の力が消えていないのではないかと強い不安に襲われることがある。往々にして一人でいるときにその恐怖にも似た不安は最高潮に達し……そして私は、それを確かめるために自分の指先や手先に傷を入れてしまうことが度々あった。アルミンにその傷が見つかる度に「やめなよ」と言われるけど、どうしてもそういうときは正常な意識が働かず、私は自分の身体が自ら修復しないことを確認するまで、強迫観念のようなものに支配されてしまうのだ。その傷口から滲み出る血液を見て、蒸気が昇らないことを確認する。それが果たされたときの安堵感はときどき私を泣きたくさせるほどだった。……そしてそこでようやく我に戻り、――ああ、またやってしまった……と、その傷に途方に暮れる。
だから、今ここで洗剤が沁みている傷口もそれだった。もうこの力がなくなってから二年も経つと言うのに……私は本当にいろんなことが下手な女だなと嫌気が差す。
ちょうど終わった皿洗いのため、水道の蛇口を閉じた。途中で絆創膏が剥がれてしまっていたので、自分でつけてしまった決して可愛くはない傷が空気に晒されて、未だにひりひりと痛んでいた。私はその部分の水分を丁寧に拭き取り、新しい絆創膏を探しに救急箱の近くまで歩み寄った。
それを付け直したちょうどその辺りか、コンコン、と玄関がノックされる音が部屋の中に響いた。続いて「アニ!」と玄関の向こうから聞こえてくる。アルミンが帰るにしては早い時間だと訝しんではみたものの、その声は確かに彼のものだったので、私は急いで玄関まで駆け寄った。
「なにあんた、今日は早いね――、」
「アニっ!」
私が玄関の鍵を開くや否や、まだスーツを着たままのアルミンは勢いよく部屋に飛び込んで来て、そして思い切り私のことを掴まえた。ぎゅう、とその両腕に囲われて、状況が掴めないまま、ただ静かにその心地よい圧迫感を享受した。
「ねえ、キスもしていい?」
その強さのまま、耳元で声が落ちる。すべて突然のことで「え、あ、うん」と返答をしたときには、アルミンは既に私の唇に飛びついていた。
「ん!」
「アニっ、アニ……!」
何度も私の名前を噛みしめるように連呼して、その合間でまるで必死に私の唇を食み続けた。
「ちょ、あるみっン、ふ、」
何がどうしたと言うのか、アルミンは何の説明もないままそれをしばらく続けた。何をこんなに焦っているのか、それとも必死なのか、アルミンはいつにも増して激しく私の吐息を奪う。まだほんの玄関先でコートだって脱いでいないのに、なんて性急な男だと、ぴりぴり甘い痺れを感じながら思っていた。
「あはは、ごめん、アニ……、」
最後に一度かわいく額にキスを落とされ、私はようやくその力強い両腕から解放された。
「あ、うん……何、びっくりした」
「うん、ちょっとね」
そういうとアルミンは悠々とコートを脱ぎ始め、部屋の奥へと進んでいく。私もそのあとを追い、アルミンがいつも使っているハンガーにコートをかけている様子を見守った。
それが終わって落ち着くと、アルミンはなぜか部屋の隅にあった蓄音機を眺め、そして私を一瞥してその蓄音機を使っていいかと口の動きだけで尋ねた。未だに今日の彼の真意がわからない私は、首を傾げながら頷き、アルミンにその許可を下す。
アルミンはにこりと笑みを浮かべ、すぐさまその蓄音機のほうへ歩み寄った。
以前は限られた音源しか持っていなかったが、ここ最近はアルミンが積極的に音楽のレコードも持って帰ってくれるため、その幅はかなり広がっていた。レコードが収納されている袋を見て、その作曲家や曲名を選んでいるらしい。
しばらく黙々と吟味したあと、アルミンは一つに決めてレコードを蓄音機にセットした。それから回り始めた円盤の上に、ゆっくりとその針を落とす。――ゆるり、と流れ始めたのは、管弦楽組曲第3番の第2曲『エール』。
そのゆったりとした演奏が部屋の中へ溢れていく中、ゆっくりと私のほうへふり返ったアルミンは、閑やかな笑みを浮かべながら両手を広げて見せた。
「アニ、よかったら僕と少し、踊らないか?」
いったい全体、唐突にこの男に何があったのか。それは未だにわからないままだったけども、その気持ちが深く大切なところにあったことは感じ取れた私は、
「唐突だね。どうしたの」
その音に乗って、おずおずと広げられたアルミンの両腕の中に身を預けた。彼は優しく、そしてしっかりと私を抱きとめて、そして抱きしめた。
「ううん。君に触れたいなと思っただけだよ。君を抱きしめて、君の息吹を感じて、君と生きていることを、実感したくなったんだ」
「……なんだかよくわからないけど……」
音に合わせてアルミンがゆらゆらと身体を揺らした。私も一緒に揺れて、静かに溢れるヨハン・セバスティヤン・バッハの旋律の中で、私たちは互いの温もりを抱きしめ合う。
ときどき頭上に降ってくる優しいキスも、確かめるようにぎゅ、と力が入る腕も、心地がよくて眠ってしまいそうなほどだった。密着した身体はまるでお互いのために存在しているかのように、ぴったりと合わさり、このときが終わりを迎えることを悲しく思わせるほどだ。
しばらくすると、ずず、とアルミンのほうから鼻をすする音が聞こえた。――まさか、泣いているのか。驚いた私は思わず身体を離してしまい、そしてアルミンの顔を覗き込んだ。
思った通り、アルミンはしとしとと涙を流していたのだ。私が顔を覗き込むや否や拭っていたけども。その団子のような鼻頭も真っ赤に染まっている。
「なに? 何かあったの?」
「……あはは、ごめん」
揺れていた身体は止まり、私の腰を掴んだまま反対の手で乱暴に顔を拭う。ちょうどそのとき、流れていた音楽は終わり、蓄音機のレコードを回す音だけが部屋に響いた。
アルミンが落ち着かない様子だったので、私が蓄音機の回転を止めてやる。
ず、ず、とそれからも鼻を何度か啜っていたアルミンを、私はそのまま見守った。今日会ったときから何かがおかしかったアルミンだ、いったい彼に何があったのかと、ただ心配で彼の言葉を待った。
「君はきっと喜ばないから、言うかどうか迷っちゃうんだけど」
涙を拭ったあと、少し恥ずかしそうに笑ったアルミンは言う。私に気を使われるよりその真相が気になっていた私は、すぐさま「別に私のことはどうでもいいでしょ。あんたの話が聞きたいだけ」とアルミンの瞳をさらに深く覗き込む。
その瞳は私を見つめ返した。きらきらと瞬く輝きを湛えて揺れ、それからまたぎゅっとアルミンにこの身体を抱きしめられる。
「……そういうところが、もうさ、好きだよ」
「それはいいから」
ぐ、ぐ、とアルミンの不細工な声が漏れる。先を促すためにとんとんと背中を叩いてやった。
「……アルミン」
「……ピークから聞いたんだ」
ようやく口を開いたアルミンだ。彼は私を抱きしめたまま、耳元で静かに続けた。
「本当は君は、今日死ぬはずだったんだって」
「? なんの話だい?」
「……君はきっと覚えてないだろうって、彼女も笑ってたよ」
やっと私を放す気になったのか、少しばかり苦い笑みを浮かべたアルミンが私の視界に顔を出した。まるで私の心当たりを尋ねるようだったので、「……さっぱりだね」と返してやる。
アルミンは少しの間私の瞳を眺めたあと、
「……十三年前の今日、君は女型の巨人を継承したんだ」
それだけを簡潔に教えた。
――『今日死ぬはずだったんだ』
先ほどの言葉が浮かぶ……そうか、ユミルの呪いだ。巨人を継承したものは、十三年で死ぬという呪いの話で、巨人の力はその期間を目安として受け継がれてきていた。……つまり、十三年前の今日、私が女型の巨人を継承したということは、もしあのまま巨人の力が続いていたなら、私の寿命を迎える時期だったのだ。
私は自分が継承した年月日なんて覚えていなかった。すべてがむかつく現実だったので、覚えておきたくもなかったからだ。
だから余りにも不意に降りかかったその事実に、やはりそれなりには驚いていた。ぱちぱち、と瞬きをしてアルミンを見返す。
「……もちろん、継承者がきっちり十三年で死ぬのか、死ぬ時期について個人差があるかはわからないけど、君に課せられた期限は、今日になるはずだったんだ」
そして私の肩に大事そうに手を当てた。頬に触れられて、その温もりが指先から伝わってくる。
私はなんとも言えない気持ちが湧き上がって、思わず視線を落としてしまった。目の前にアルミンがいるから足元までは落ちなかったが、彼の脇にある蓄音機の辺りにまで下降した。
「……そっか。考えたこともなかった」
――私が本来、死ぬはずだった日。……確か同じ日に継承を行ったのピークで、ライナーやマルセルはその前日だったはずだ。私たちは皆、この数日の間までには死ぬ運命だったのだ。
しかし今はそれはすべて塗り替えられていて、私は死の恐怖を肌で感じることなく、平凡にここに立っている。
「……うん。なんだかさ、今だってそりゃ危険はあるけど、君は生きている。そんなことが嬉しくて……」
ぐっ、とまたアルミンの声が揺れた。顔を上げると、アルミンはまた目元を歪めて、ふつふつと涙を溜めている。
「えっ、エレンが、守ろうとしてくれたものは、これなんだって、実感して、心が、深くなるようだった……」
そうだ、私がここに生きているのは、他でもない、あのお節介が一人で奮闘した結果なのだ。……私が今ここに生きていることで、アルミンは最愛の親友の生と死を実感しているのだろう。……ぼたりと涙の粒がその頬を伝った。
「世界からしたら、エレンの行いに感謝なんて、してはいけないのはっ、わかってるよ。けどさ、やっぱり、僕の前に君がいて、君も僕も生きている……この未来だけは、エレンが必死で守ってくれた道なんだなと思って……それで……、」
ついには耐えられなくなったのか、その顔を伏せて再び涙を拭った。
私が死なずにここにいるだけで、いったいどれほどまでに感情を掻き立てれられているのだろう。涙を流すほどなのだからよほどだなと思う。……あの事件後、しばらく経ってから何度か見てしまったその涙を思い出した。
「……大袈裟」
私はなんて声をかけたらいいのかわからず、乏しい語彙の中からそれを選んでアルミンの背中を摩った。
アルミンは最後に深呼吸をしながら目元を拭い、それから顔を上げて気を取り戻したようだ。
「そんなことないよ」
アルミンは少しだけ私に身体を寄せて、慈しむように私の髪の毛に指を通していく。
「もしあのまま巨人の歴史が続いていたとして、君も僕も、あと何年生きられると指折り数える毎日だったなら、どれだけつらかっただろうと考えたりしたし……」
それから今度は私の頬を包み、さらに愛おしげにその眼差しを降らせた。
「君が僕のそばからいなくなったらなんて、考えただけで押しつぶされそうになるよ」
切実な息遣いでまたぐっと抱き寄せられた。
ピークから聞かせられたことで、彼の情緒は大変なことになってしまっているなと私は呑気に考えていた。
アルミンがここで嘆いているように、本当に私がいなくなったとして、アルミンはそれでも戦うことをやめないだろうと私は思った。私がアルミンを失えば、きっと立っていることさえ難しく感じるだろうと予想できる反面、アルミンはそうはならない気がしてならない。それがアルミンという人間だからだ。だから、ここまで泣く彼を大袈裟だと思ったのかもしれない。
私は抱きしめられていた腕を解いて、ゆっくりと距離を取った。それでも互いの手はそっと握ったままで、私は思ったことをアルミンに告げる。
「……まあ、私に言わせりゃ、私が先に死んだって、あんたはあんたで変わることがないように思うよ」
私がいなくても、きっとあんたは大丈夫だ。
「あんたはそういう人だ、エレンが死んでも、あんたがまだ戦っているのがいい証拠。私がいなくても、あんたは平気なんだよ」
少し恨めしいという気持ちも覗いていたかもしれない。本当は私がいなくなったら少しくらいは悲しんでくれるといいなと思ってしまう。これは彼のことが好きなのだから、しようのないことだろう。
しかし私の言い分を聞き、アルミンはそれを消化するように沈黙した。何かを考えているのだろう。それから間もなくして、少し寂しそうな色が滲む瞳でまた私を捉えた。
「……でも、この寂しさは、本物なんだ。……僕も変わらず僕でいられる自信はあるよ。でもそれは心の話じゃない。僕が僕として振る舞う間も、きっと心には空洞があるんだ。……今もそうであるように」
私はその言葉で目が明く。そうか、アルミンはちゃんと悼んでくれる。……彼が親友であるあいつをいつまでも心に秘めているように。……それは確かに、勝手に決めつけてしまっていたかもしれないと顧みた。
「……そうだね。心までは、あんたにしかわからないから」
「何百、何千万人の人々と、そしてエレンの命……僕たちはその上で生かされていることを改めて思い知ったよ」
アルミンは気持ちを切り替えるように声色を改めた。そしてそっと握っていた手を今度はしっかりと握り、今は少し無理をしているだろうか、穏やかな笑みを浮かべた。
私たちがここで互いの存在に安堵するために、何百、何千万の命と……そして、あのお節介野郎の生涯を犠牲にしたのだと思うと、途端に足が竦むような思いをした。足元が底なしの暗闇に見えた。
「…………重いね」
「……ああ、重いよ」
私の手を握り、離さないように絡めながら、アルミンは言葉を重ねた。
「……だからこそ、日々を大事に生きていたいね」
「……うん」
言葉はそこで収束した。のしかかる重い事実に打ちのめされながら、それでも私たちがここにいる意味を、その価値を、見出さなければならない責任を感じていた。
――なるほど、だから『君は喜ばないだろうから』なのだろう。アルミンは私がこんな風に感じることを予想していたのだろう。
……でもやはり、何を言っても、この男の隣にいられることは、私にとって幸福なのだと思う。それもよくわからないが、手を握る温かな存在を感じて、ふと私も泣きたい気持ちになっていた。
さわり、とアルミンの指先が私の指先に絡む。
ん、と何かに気づいたような仕草をしたことで、私もそれに気づいてしまった。
「……って、あれ。この絆創膏……」
「あ、えと」
私は慌てて自分の手を引っ込めた。
指を絡め合っているときに、アルミンの指先が絆創膏に触れて気づかれてしまったのだ。ここ最近は一人になってもなんとか抑えていた衝動だっただけに、私はじわじわと滲み出る冷や汗に溺れそうだった。
アルミンはまあるく見開いた瞳で私を見たあと、
「……もしかして、またやっちゃったの?」
溢れるような軽い声色でそれを尋ねた。咎めているわけではないとわかっているのに、その優しげな声色でも責められているような焦燥に駆られる。
「あ、その……、これは……、」
どう言い訳をしよう。料理をしている最中に誤って切ってしまったとか言えばいいだろうに、そんなことも咄嗟に思いつかないほど、私は動揺してしまっていた。
「……アニ、だめじゃないか。痛いでしょう」
私が背後に隠したはずの手のひらを、アルミンは手首を手繰り寄せて再び抱えた。さらさらと優しく絆創膏を撫でられて、痛みとくすぐったさと焦燥で、言葉を失っていた。
そしてアルミンはその絆創膏を眺めたあと、今度は焦りまくって目が泳いでいた私の視線を捉えるように視線を繋げた。
「ほら、今日からはさ、君がここにいることが、巨人の力がなくなった証拠なんだ。もうこういうことはしなくていいんだよ」
そうしてまた優しく頬を撫でられる。
ほら、咎められているわけではない。知っている。アルミンは「やめなよ」とは言うが、私のこの行為を咎めたことはないのだ。
私は自分を必死に落ち着けようと言い聞かせ、そしてアルミンとの会話に戻るべく、ようやく聞こえる程度の「……うん」という言葉を返した。
アルミンはそれを満足そうに聞いて、今度は優しく絆創膏の上からちゅ、と口づけを乗せた。
「ね、これからは、傷を入れるときに思い出して。ここにいることが証明なんだ。もう大丈夫だから」
咎められているわけではないとわかっているのに、優しくされたことで反対に気持ちが不安定になってしまう。なんでアルミンが毎回毎回、わざわざ私にやめるように言うのかもわかっている。私のことを心配しているだけなのだ。
私はそんな風に心配をかけてしまう自分が嫌で、やめようと思っているのに衝動に負けてしまう自分が悲しくて、ぐつぐつと不快な感情が腹の底から押し上げた。
「……ごめんなさい」
「ううん、謝らなくてもいいんだ。君が安心する方法だったのはわかるよ。けど、やっぱり君が痛そうなのは、見ていて辛いなというだけで……。だからね、もう大丈夫だからね」
そしてまた抱きしめられるものだから、私はまたその優しさも温もりも実感して、ぐるぐると思考が回っていく。
ここに生きている。あの日から十三年のときを経て、死ぬはずだった今日、生きている。アルミンにこんなに温もりをもらって、贅沢にも。それはすべて、あの忌々しい力が消失したことを証明しているのだ。
「うん……ごめん、アルミン……ごめん……、」
「ううん、大丈夫だよ」
私はもう、アルミンに心配をかけなくて済むよう、もっと心を強く持ちたいと胸に誓った。あのバケモノの力を持っていた私との訣別、その先へ。
抱きしめてくれる分だけの強さで、私もアルミンを抱き返す。アルミンが注いでくれた愛情を、私も返せるようになりたいと思う。
あの何千万もの犠牲に見合うほどの何かを全うできるかはわからないけれど、せめてすべての命を無碍にしない人でありたい。
私は抱いた動揺をかき消すような決意を持って、アルミンの優しさを噛み締めていた。
おしまい
あとがき
皆さま、ご読了ありがとうございますー!
いかがでしたでしょうか。
久しぶりのこのシリーズでしたが、いやあ、いつにも増して明るくない!
ごめんね!( ;∀;)
アルアニちゃんが尊くて尊くて……
このお話は大好きな方の小説を読んでるときに降ってきたネタなのですが、アニちゃんが十三年目を迎えたことを知るアルミンくんとアニちゃんでした……。
お互いが変わらずそばにいられることを噛み締める二人を書くことが目標だったので、上手く描けているといいのですが。。
あと、二人がお互いを噛み締めながらダンスを踊る様子も描けて満足しました。
二人にダンス踊らせたかったんよ!笑
ちなみに『第九』はみなさんご存知かと思うのですが、『エール』はわかりましたか?^^
エールは本文中にも出てきましたが、バッハの楽曲で『G線上のアリア』として有名な曲です。
『G線上のアリア』というのは現代の通称という表記を多く見かけたので、このころは原曲名で通っていたのかな〜なんて考えてました。
それではこんなところまでご読了ありがとうございました!