変わりゆくもの
「――アニ! アニ!? なんで!?」
どくんっ、と心臓が跳ね上がる。
「ほら、早く証明しろ!」
どこもかしこも荒れた街の中で、私は身体を震わせながらその現実と向かい合っていた。
私の目の前には絶望した顔で絶叫するマルコがいて、顔のないライナーがそれを押さえつけて叫ぶ。自分は立体機動装置を外せと命令されていることは理解していた。
「うああああ!? アニ! やめてくれえッ!!」
絶叫するマルコに圧倒されて、身体が震えて動かない。私が立体機動装置を外せばマルコは食われる。だが、外さなければ私たちの正体が知れ渡って故郷に帰るところの話ではなくなる。どうしたらいい。私はどうすれば。
ふと手元を見ると、私の手には短刀が握られていた。マルコは立体機動装置をつけていなかった。立体機動装置を外さなくてはいけないのに、つけていないのだ。私はパニックに陥った。息ができない。
「アニぃ!? なんでぇ!?」
「おいアニ! お前は悪の民族なのか!? 証明しろ!」
ライナーの叱責に追い詰められる。
そんなこと言われたって、立体機動装置がないんじゃ私はどうすればいい? この短刀は何のために握っている? ……私は、これでマルコを刺すの?
「早くッ!!」
ライナーの雄叫びの中で、マルコの泣きじゃくる顔が溶け出していくように見えた。めまいのようにぐるぐると揺れている。
「殺してやるっ!!」
「ぐはあっ!?」
「早く! アニ!」
「体勢を立て直せ! ペトラ!」
「早く!」
「うぉおおお!」
「やめてぇえ!」
次から次へと数多の断末魔が空を覆って赤黒く染めていく……視界を蝕むように漆黒の明かりが世界を飲み込んで、地獄のような光景に変わる。
「なんで!? アニぃ!?」
マルコが私の胸ぐらを掴んで叫ぶ。驚いてまた硬直していた。
――わ、私の……せいじゃ……!
「だったら、アルミンを殺せばいいだろお!」
――え?
ドンッ、と衝撃を伴ってマルコが私に身体をぶつけた。その拍子に持っていた短刀はマルコを貫き、血飛沫が飛び散る。身体を貫いた感触も妙にわざとらしく感じた。鼓動が早鐘のように鳴り響いて、私を追い立てる。
次の瞬間、私はギョッと目を見開いた。顔を上げたマルコはマルコではなくて、アルミンだったのだ。腹からだけでなく口からも血を流し、アルミンは私に微笑みかける。
「大丈夫、アニ、一緒に、死んであげる」
――……え? あ、アルミン……?
声は出なかった。衝撃のせいだ。
ぐっと身体が引かれて、
「ほら、一緒に行こう」
血だらけの腕が私の首を抱き込み、そのまま凄まじい力で私を引きずり始める。私は体勢を崩して真っ逆さまになり、目前に迫っていた地面に恐怖した。
――怖い、死ぬ。地面に叩きつけられて、死ぬ。このまま、一人で。
いつの間にか私を抱いていたアルミンはいなくなっていて、目前の地面には炎と上を向いた無数の刃物が敷き詰められていた。ぎらりと光り、私をその鋭い輝きで捕まえようとしている。
どんどん地面が迫ってくる。刺さる、刺さって死ぬ。殺される。どうすればいい。もう逃げられない。私の死に方はこんなものか。怖い、助けて、いやだ。
だめだ、もう、串刺しだ――
「――ッ!?」
敷き詰められた刃物のその切先に触れた衝撃で、ビクリッ、と身体が大きく震えた。
暗闇の中にいたが、目を開いているのはわかった。
呼吸が荒く、身体も汗だくだった。……私……は? 生きている。串刺しになっていない。生きている。
――悪夢は、まだ見る。
私は深呼吸をした。……今のはぜんぶ、悪夢だった。ようやく状況を理解して、気怠くなった身体を落ち着けるように、顔面を腕で覆った。
……マルコの悪夢はよく見るのに、何度見ても恐怖に縮こまってしまう。
――『だったら、アルミンを殺せばいいだろお!』
しかも、今回は強烈だった。涙を流しながら絶叫するマルコの顔を思い出しながら、ため息を吐く。
……あのとき、私はアルミンを殺さずに見逃した。マルコを殺したくせに、アルミンは殺さなかったのだ。そのことに、深くでは負い目のようなものがあるのだろう。……けど、マルコのときとアルミンのときとでは、状況が違ったんだ。そんな風に言い訳をしたところで、マルコには関係のないことだろうが。
私はゆっくりとベッドに起き上がった。そのまま少し目を慣らして、意識を覚まして、側に置いてあった靴を履いた。
少し、身体を冷やしてこよう。一人用の真っ暗で狭い部屋から出て、薄らと明かりが灯る廊下に入った。慣れない建物の中を歩き、このまま中庭か何かに出られたらいいのだがと辺りを見回した。
――ここは、パラディ島、シガンシナ区の兵舎の中だ。
私たちは港から王都ミットラスに移送されている途中で、中継地点のここシガンシナ区で兵舎の寝室を貸してもらっているのだ。私とピークがそれぞれ個室を使わせてもらっていて、男性陣は二人一組で使っている。
今日はほとんど一日、船から降りたあとはずっと馬車の中にいた。身体のあちこちが痛むのも、移動疲れによるものだ。
本当は一人歩きは危険だから今夜は部屋から出ないようにと言われていたのだけど、こんな時間だから大丈夫だろうと高を括る。……と言っても時計があるわけでもないし、はっきりと何時かはわからない。ただ、誰もが寝静まった時間なのはわかる。
――実際私は、あのとき指示されたのがマルコでなくアルミンだったなら、あれを実行できていただろうか。
ふと、脳裏に脈略もない疑問が浮かぶ。……夢からの問いかけの続きだった。マルコは見殺しにして、アルミンは殺せなかった。そこに状況が違ったのだと言い訳をしたいところだが、ならば状況が同じだったなら私は、アルミンを見殺しにしただろうか。
……いや、おそらく、あのときマルコではなくアルミンだったなら……、だったとしても、私はきっと、立体機動装置を外して、見殺しにしていただろう。……マルコのときは、そういう引き下がれない状況にあった。
ふ、と目前の施設から人の気配がすることに気がついた。廊下は明かりが灯っていたが、それ以外は消灯されているはず。なのに、蝋燭のような小さな光が漏れ出していたのだ。
ゆっくりと近づいていく。……どうやらそこは食堂のようだった。……こんな時間に誰かいるのか。いったい何者だろう。
入り口からそっと中を覗き込むと、真ん中辺りの席にぽつりと人が一人で座っている姿が目に飛び込んできた。しかもそれは……――アルミンだ。
驚いたままに食堂に踏み込んでいた。
「……アルミン? まだ寝てないの?」
「あぁ、アニ」
アルミンは顔を上げて私のほうを向いた。どうやら何かの資料に目を通していたらしい。私はずんずんとアルミンの元へ歩んでいき、その側に立った。
アルミンは明かりも何も持たずに入ってきた私を見て、
「君こそ、こんな時間に」
と首を傾げた。
尋ねられてなぜか焦ってしまう。どきり、と心臓がこわばる。
――『一緒に、死んであげる』
ぞわりと背筋にまた悪寒が走った。先ほど見てしまったおぞましい光景が脳裏をよぎったからだ。
――悪夢を見たことは、知られたくなかった。
「……私は、その、ちょっと起きただけ」
曖昧に答えて「アルミンは」と付け足す。
今度はアルミンが曖昧に笑い、
「……あ、明日には王都に入るし、そうしたらすぐに女王陛下やイェーガー派幹部たちと会談だろ? 明日の会談が今後を左右するからね、万全にしとこうと思って。再確認」
薄っぺらい紙切れ一つを必要以上に見せびらかした。
確かに、明日の会談がここへきて初めての会談になる。第一印象として与える心象は大事ではあるのだろう。
「でも、さすがにもう寝たほうがいいんじゃない? 寝不足は判断を鈍らせるよ。大事な席なんでしょう?」
見上げると、食堂の壁に時計がぶら下がっていた。時刻は深夜二時過ぎだったのだから、間違ったことは言っていない。
「……そう……なんだけど……」
アルミンもそれを肯定はした。だが、苦笑をもって、それを閉じる。寝たほうがいいという言葉だけでは、そうできない何かしらの理由があるらしかった。
「……眠れないの?」
思いつく最も安直な理由を尋ねてみた。アルミンは図星を当てられたことに驚いたように、ゆっくりと紙切れをテーブルの上に置く。
半ば頭を抱えるようにして俯いて、
「…………はは、情けないよね……」
そう言って、自らを嘲笑した。
どうやら眠れないというのは当たりだったらしく、さらにそれは緊張のせいなのだと憶測された。
「……こんなので、本当に大丈夫だろうか……。やることをやるだけだけど、結果は誰にもわからないから……。今は、ヒストリアを信じるしかない。けど、ヒストリアにもヒストリアの立場がある……お互い、譲れないところも出てくるだろう……」
今回の会談に、少なくともこの先数年間の人類の安寧がかかっている。それをしっかりと受け止めているからこそ、アルミンはその責任感に滅入っているらしかった。
だが、なおさらだ。そんなに気持ちが落ち着かないなら、少しでも多く睡眠をとっておいたほうがいい。
それを真正面から言ったところで、この男は易々とベッドに向かわないのだろう。その手に大事そうに握りしめた資料を、この先何百回とくり返し確認するのだ。
私は仕方がなく、わざとらしいため息をこぼして聞かせた。そのままアルミンの向かいの席に座る。
「……アニ?」
「あんたが寝ないなら、私も寝ない」
……これくらいしないと、アルミンは責任感のほうを優先するのは分かっていたので、私はアルミンに観念させるためにそう言った。ちらりとアルミンを見てやる。
虚を突かれたアルミンは、ふふ、と小さく失笑して、
「わかった。わかったよ」
と楽しげに返した。……私がアルミンを観念させるためにわざとやったことだとばれているけど、それでも効果抜群なのでよしとしよう。
「……ねえ、」
「ん? なに?」
まだ立ち上がっていないアルミンが、ほんの少し上目遣いで呼びかけた。立ち上がる準備をしていた私はその動作をやめて、呼ばれたほうに注目してやる。
……だが、すぐに言葉を飲み込んだようだった。一度しっかりと瞼を閉じたあと、静かな声色で「いや、なんでもないよ」と否定しながら立ち上がる。
今の一瞬だけ覗かせた表情は、アルミンがいつも甘えたいときにする表情だということはすぐにわかった。……そこからアルミンが言おうとしたことを予想して、私も立ち上がりながら言及してやる。
「……一緒に寝る?」
アルミンはその幼少期故か、極端に人肌を恋しがるときがある。恋人として触れ合うようになってから、彼の眠りの深さすらそれに左右されているのだと私は知った。
だからきっと落ち着かなくて眠れないのも、一緒に寝れば少しは改善するのだろう。
まるで言い当てられたことが信じられないように目を見開き、
「……いいの?」
短く簡潔にアルミンは尋ねた。
私を舐めてもらっちゃあ困る。これでも人の観察には長けているつもりだ……それが、アルミンならなおさらのこと。
私はきらきらと目を輝かせているアルミンに、特に何も気にしていないようなそっけなさを用いた。
「あぁ。まあ。そのほうが、眠れるでしょう」
「……うん、ありがとう」
アルミンは目を細めて、優しく微笑む。その眼差しで見られるのは好きだった。瞳から情に溢れた言葉が滲み出すような、そんな温かさを感じる眼差しだからだ。
照れてしまってつい目線を逸らしてしまったけど、それがばれないように急いで踵を返した。
「はは、朝起きたらジャンやコニーにからかわれるかもしれないな」
「別にいいよ」
廊下を歩きながらアルミンは軽口を叩く。
大っぴらに私たちのことを公言しているわけではなかったけども、それでも私たちの関係は既に周知の事実だった。だからこそ、ジャンやコニーも隠さず茶化してくるのだ。
とりあえず私の部屋に到着して、そのまま暗がりの空間を手探りで進む。ベッドの前に着くと二人で靴を脱いで布団に潜った。……そのまま、私は抱き枕よろしく、しっかりとアルミンの腕の中に収まってしまう。狭いシングルのベッドなのでちょうどいいのだけど。
私はこうやってアルミンに抱きしめられると、その間だけ、自分が少し許せそうな気がしていた。こんな過ちだらけの……欠落だらけの女でも、必要としてくれる人がいて、それがアルミンで……私はアルミンの役に立てているのだと、それを実感することができるから。……アルミンだけではない、こうすることで、私も心の均衡を保っていた。
少しの間、居心地のいい位置を探すようにもぞもぞと動いていたアルミンが、次第に呼吸を深くしていった。私を囲う温もりに、私自身もうつらううらとし始めたとき、ぼそぼそとアルミンの声が聞こえる。
「……アニのぬくもり、とても安心する……。いつも甘えてばかりで……ごめんね…………ありがとう、アニ」
ゆっくりと、そして小さく優しい声が紡がれた。心地良さそうな弛んだ声色は、少し緊張感が抜けすぎやしていないかと笑えそうだった。
「……さっさと寝な」
重たくなった瞼と緩んだ頬に抗えずに、私も伸び伸び緩みきった声で返していた。
程よい重さ、温もり、匂い……そして、アルミンの寝息に、心臓の鼓動。……取り巻くすべてが私に子守唄を歌っているようで、私もあっという間に意識を曖昧にした。
「――」
遠くから誰かが呼ぶ声がする。心地がいい……これは、アルミンの声だ。そうやってまた一つ、安心していく。
「――アニっ、アニ!?」
突然の大声に驚いて顔を上げると、私の目の前には血を浴びたような、真っ赤に染まるアルミンがいて、苦しそうに私を呼んでいた。
私の手にはどこかで見たことがある短刀が握られていて、それはまっすぐにアルミンの胃の辺りを貫通していた。
どくっ、と心臓が跳ねる。ハッ、と息を吸って……気づけば私は真っ暗闇の中、アルミンの腕に囲まれて横になっていた。ぐぅ、と呑気な寝息が耳元で聞こえる。
一瞬だけ状況を見失ったが……どうやらまた、寝落ちの隙間で悪夢を見たようだった。
心地が悪くて手のひらで拳を握ったり開いたりして感覚を確かめる。……やはり何も持っていない。単なる悪い夢だ。
まだ鼓動がどくどくと驚いていたので、一度深呼吸をした。自分の手の位置も気持ちが悪くて、それをそっとアルミンの背中に回す。
その身動ぎの微かな変化で、ふわ、とまたいつものアルミンの匂いが鼻先に触れた。……これは、安心する匂いだ。アルミン……アルミン。
――そうだ、アルミンは『一緒に死のう』なんて決して言わない。私に殺されるようなことなんて、ない。そう、すべては単なる夢だ。寝ろ。寝ろ。
私はそうやって自分に言い聞かせて、アルミンの胸元に自分の顔を埋めるようにして、固く目を閉じた。大丈夫、もうアルミンがいるから。悪夢なんて、きっともう見ないから。
*
翌朝、目が覚めるとアルミンの姿はもうなかった。ジャンたちにからかわれないために、早めに本来の寝室に戻ったのだろう。……起き抜けに少し拍子抜けしたけども、忙しいアルミンのことで珍しくもなんともないので、そのまま身支度を済ませた。
午前中の内はまたずっと移動だった。午後過ぎて王都ミットラスに到着し、そうして港で出迎えてくれた女王陛下には改めて、そして嫌々私たちと面談しているイェーガー派の幹部には初めて、対面の挨拶をした。イェーガー派のお偉方の反応は非常にわかりやすくて面白かったくらいだ。……まあ、そりゃあ、歓迎はされないだろう。わかっていたことだ。
そのあとすぐ最初の会談が行われたが、それにはまずアルミンとジャンとコニーだけが参列することになっていた。初対面なので少しでも相手の気に障りそうな要素を排除して、警戒心を解いてもらおうという魂胆ではあったのだが……そんなに違いがあったようにも見えない。……反対に〝裏切り者〟ではない私たちのほうがよかったのでは? とも密かに思っていたが、まあリーダーであるアルミンを除外することはできないし、これで様子を見ることに従った。
会談の間、私とライナーとピークは一足先に本日の宿に向かった。今日はきっと丸一日待機だろう。やはり危険だからという理由で、歩き回ることは禁止されていた。暇な一日、ずいぶん変わってしまった首都の様子を窓から眺めて過ごすほかなかった。
その内に、ときどきこの景色は懐かしいストヘス区に見えてくる。美しく整った街並み、それが一瞬にして血と瓦礫で荒れた街に変わる。いやいや、と首を振る……その度に感傷的になりすぎだと自分に言い聞かせた。
――トントン
すっかり日が暮れて、そろそろ夕飯はまだだろうかと思い始めたときだった。部屋の扉がノックされ、私は不意を突かれてそちらを見やる。
「――アニ? いるかい?」
アルミンの声が飛び込んだ。ほ、と一安心して扉に歩み寄り、「なんだい」と声をかけながらそれを開いた。
がちゃり、と重たい金属音を鳴らしている間にそこに現れたアルミンは、なぜか頭に包帯を巻いて立っていた。
「あ、あんた、どうしたんだいその怪我」
腕を引っ張って部屋の中に引き込みながら、その包帯の上からでも血の滲みが見えている米神の部分を凝視した。
アルミンはそれを隠すように軽く触れて見せて、
「あぁ、あはは……移動中にね、石を投げられちゃった。帰れってさ」
戯けるように笑うばかりだった。
いや、それにしたって……
「……石ってあんた……」
打ちどころが悪ければこれだけの怪我では済まなかったかもしれないのに。……拳銃やそのほか武器でなかったのだから、おそらくただの一市民の仕業だったのだろう。
「やっぱり嫌われてるね〜ぼくたち」
私はことの重大さをひしひしと感じていたというのに、肝心のアルミンは締まらない笑顔で相変わらず笑っている。
「……笑いごと? あんた本当に呑気だね」
危機感が足りないのではないかと少し苛立ってそっぽを向けば、
「穏やかと言ってくれよ」
アルミンの声色も少し引き締まった。
本当は色々思うところがあるが、大人ぶって黙っているだけのようだ。
「あーはいはい。とりあえず休みな。そこ、座っていいよ」
「うん、ありがとう」
鏡台の前にあった、この部屋唯一の椅子を示して言ってやったのだが、アルミンはそこに座る気配はない。あんなに素直に返事をしたのに……少しの間、私を眺めるアルミンを観察していると、「ねえ、アニ」と腕に優しく触れて呼びかけられた。
私はその眼差しからいつもの元気がないことを読み取り、「なに?」と静かに応えてやった。
アルミンはしばし言葉を止める。何かを考えて、そうしてまたゆっくりと口を開いた。
「……少し、抱きしめさせてほしい」
真剣な眼差しだ。少し元気がないなと思ったが、その視線のまま、私のことを切実に求めるように瞳の光を揺らしていた。
「……え、まあ、いいけど……ん」
自分から一歩だけアルミンに歩み寄る。そうするとアルミンは零すように「ありがとう」と呟きながら、弱々しい手つきで私を引き寄せた。そのままぎゅう、とその両方の腕の中にしっかりと沈み込む。
何かうまくいかなかったり、落ち込むことがあると、アルミンはよくこうして私のことを抱きしめた。――これで私は今回も理解するのだ、よかった、アルミンは私のことを必要としてくれているのだと。昨晩の入眠のときと同じで、私はアルミンの役に立てているのだと。
「……上手くいかなかったの……?」
あまり部屋の中に響かないように、小声で尋ねてやった。落ち込んでいるということはそういうことなのだろう。
だがアルミンはそのままの体勢で、
「まだわからない……課題は山積みだ」
それだけを言ってまた口を閉ざした。
そうか、私たちが進んでいる道が険しく困難な道であることを思い知ってきたのだろう。志を高く持つ人だから、それにはひどく打ちのめされたはずだ。
私はそっとその背中に手を回し、静かにそこを撫でてやった。
「……イェーガー派の嫌悪を、肌で感じてきたよ」
先ほどと同じ声使いでそう付け足して、私を抱きしめる腕に力を入れた。
――この男は弱音を吐く代わりに、これをする。変わってるなと思うが、その度に何か私が役に立てていることを実感できるから、こういうときだけは少し気持ちが軽くなる。この人が私を欲し続けてくれる限り、私は自分を保っていられる。
「……ぼくの力で、なんとかしなくちゃ」
ぼそり、アルミンが歯を食いしばるように呟いた。
私はこれを聞き逃さず、ぐっとアルミンの腕を解かせて目線を合わせる。
「……そうだよ、気張んな」
喝を入れるように声を絞ると、アルミンの眼差しにもぐっと力が戻った。
「うっす!」
締まりのない優しい声が、精一杯の気合を入れる。私はなんとなくその不釣り合い感が面白くて、不意に口元を緩めてしまった。……それをアルミンも咎めることはなく、釣られてともに笑った。
ちゅ、と額にアルミンの唇がよって、なんとなく照れ臭くなって視線を泳がせてしまった。……きざなやつだ。
「あ、そうだ、アニ知ってた?」
「なんだいいったい」
あまりにも変わった声色についていけず、訝しんで返してしまった。アルミンはちょうど背後にあった鏡台に適当に腰をかけながら、手振りをつけながら言葉を続けた。
「これまでの調査兵団の犠牲を忘れないようにするために、ミットラスに記念碑が建てられたそうなんだ。像は、彼らを代表してエレンなんだって」
その言葉ほど声色は弾んでいなかった。どうして私にわざわざそんなことを教えるのだろうと疑問に思う。……けれど同時に脳裏を過ぎるものがあり、
「へ、へえ……」
私は思わず視線を落としていた。
記念碑ということは……名前が刻まれているのだろうか。――彼らの、名前も?
平原で、あるいは森の中で……踏み躙ってしまった……兵士たち。足の裏や手のひらに……感触はまだ微かだが残っている。記憶の隅に、ずっと、そして、悪夢という形でときどき飛び出してきては、私に忘れるなと警告してくる。
彼らが生きた証は、〝ここ〟以外にも残っている。それが妙に深く、私の心に触れた。
「……見に、行きたいな……」
何も考えずに、ただ思ったままを呟いていた。
私がその記念碑を見に行ったって、何をどうこうできるわけでもない。……だが、ただなんとなく、懺悔したい気持ちがあったように思う。
「……え、あ……うん……。君の気持ちは……わかるけど……」
当然アルミンは戸惑いの声を発した。
「やっぱり、どのツラ下げてって、思われるだろうか……」
彼ら全員が私のせいでなくても、少なくとも一部は私が直接手を下して踏み躙ったのだ。……私なんかが訪れることをよく思わない人々は、必ずいるだろう。それは、理解しているつもりだ。……けれど私は、彼らが生きていたその印を、自分の救えない記憶の中ではない、もっと清々しい場所で、実感して、刻んでおきたかった。
「……どうだろうね……」
アルミンが静かに考えを明かしていく。
「行っても大丈夫とは思うけど……顔は、隠したほうがいいかもしれない」
尤もな意見を寄越された。……私はともかく、アルミンは確実にこの国民に顔が割れている。……いや、私も油断はできない。国民の感情を守るなら、顔を隠していくのは必須条件になるだろう。
その記念碑がどんなものだろうとちらりと想像した。想像したら、その想像を横切るように、先ほど思い出していた街並みも頭に浮かぶ。……印象深く覚えているのは、ぐちゃぐちゃになっていたその街だった。
「――本当は少し、ストヘスも見てみたかった」
それも心のままに呟いていた。私が被害を与えてしまった場所。しっかりと戒めるように、胸に刻んでおきたかった。
はあ、とアルミンが小さなため息を落とした。
「……君は本当に真面目だね」
それはいい意味だったろうか。そもそも、自分がやってしまったことを忘れずに振り返りたいという気持ちは、真面目とか不真面目とか関係ないはずだ。……私は過ちを、痛感しに行きたいだけなのだ。――いや、たぶんそうだとしか言えないけれど。
「……この胸に、しっかり留めておきたいんだ」
私はアルミンの瞳をまっすぐに見据えてそう告げた。
「そこで、あるいはそのときに、私がやると選択したこと。それがもたらした結果。……あのときは必死で、そして、利己的で。……それは今でもそんなに変わってないけど。……エレンと暴れて、多くの人を踏み潰した。その事実を、ちゃんと忘れないようにしておきたい」
アルミンもまた、真剣な眼差しで私の瞳を見返していた。しっかりと気持ちに応えてくれるように。
「……もちろんストヘスに行ったところで、あのときの痕跡なんて、もう跡形もないんだろうけど」
言葉を止めると、そこでアルミンも視線を泳がせた。私に言いにくいことがあるときの、その自信を失ったような言い方で、
「……今回は、ストヘスは諦めたほうがいいと、思う」
そう教えた。
けれど、それは初めからわかっていたことだ。ただ、願望を言ってみただけだった。……だからアルミンにも「……うん、だろうね」と静かに返した。
それから自らを落ち着けるように、ベッドに腰を下ろした。ぎし、とマットレスが沈み、私を見ていたアルミンの目線も沈む。
ひたり、とその瞳は改めて私の目線を捕まえた。
「――でも記念碑のほうは、なんとかしよう。行けるように」
私の気持ちを汲もうとしてくれた。だが、それが嬉しかったというよりは、少しだけもや、と不快感が胃の周りに蟠った。……どうしてこんなふうに情動があったのか自分でもわからない。
しかしとりあえず行けるようになんとかしてくれると言う。私は腹を決めて、
「時間さえくれれば私一人で行くよ」
その決意を固めるようにアルミンに提案した。
提案したあとに、一人で出歩くのは危険だろうかとちらりと浮かんだが、顔を隠して行くなら同じだ。
けれどアルミンは真剣だった眼差しを変えることはなく、溜めるように瞬きをして見せてから、
「いいや、ぼくも一緒に行く」
しっかりと私に釘を刺した。
アルミンも記念碑を見たいのか。あるいは、私のことが心配なのか。どちらでもいいことだった。
「……勝手にしな」
それはアルミンの自由で、私の止めるところではないのだから、静かにそう締めくくっておいた。
*
それから三日ほどの予定だった会談は、無事すべての日程を終えた。明日にはまた港に向けて出発するという折になっていたが、例の記念碑を見に行くことに関して、アルミンからは何の進展も聞かされていなかった。
会談は上手くいったと大きな口は叩けないが、アルミンとしては手応えは感じているようだった。今日はミットラス滞在最後の夜でもあり、数名の幹部たちに誘われて晩餐会が催された。
酒が入ったアルミンは、日程が無事終了したこともあり、緊張の糸が切れてしまったのだろう。晩餐会後、部屋に戻るとすぐにこときれたように眠ってしまった。
私自身もそれを見て、まあ健やかに眠っているならよかったかと自分の部屋に戻り、ゆるゆると眠りについた。
……そうして次の朝を迎えた。
この日の目覚めは、部屋の扉がノックをされたことに始まった。そのノック音で起きた私は、まだ寝ぼけた声のまま扉の側に寄り、その向こうにいるのがアルミンだとわかると、何一つ警戒しないまま扉を開いた。
「アニ、おはよう」
えらくはきはきとしゃべるアルミンは、既に身支度までばっちりと済ませていた。
「……はよ。なに?」
中継地点であるシガンシナに向けて発つのは、昼前の時間だ。こんな早朝から起きる必要もないのだが、アルミンは溌剌とした息を吸って、
「これからなら少し時間が作れそうだよ。記念碑を見に行こう」
そう私に提案をしてきたのだった。
寝ぼけ眼の私はひとときだけ『記念碑?』と考えてしまったが、すぐにその意味を理解した。
そうか、確かに行くなら今だろう。こんな早朝ならば、一般人の徘徊も少ないはずだ。
ちらりと部屋に備えつけの時計を見やると、時刻は早朝の六時きっかりだった。
「……わかった」
アルミンにそう告げて、準備できたら声をかける旨を伝えた。アルミンも待ってるね、と了承をして、一旦自身の部屋に戻る。
そんな経緯のもと、私たちはまだ六時二十分にもなっていないミットラスの閑散とした道を歩いていた。微かな朝靄がかかり、今にも晴れんとしていた。
私たちはお互い帽子を深く被り、マスクと眼鏡をつけた。頭からローブを被るような顔の隠し方は反対に目立ってしまうと至ったからで、これでも十分に怪しいがないよりはましだろう。
アルミンの案内の中で、私たちはミットラスの中心部にある大きな広場に差し掛かっていた。
そうしてその広場に迷いなく踏み込む。さすがにこの時間と言えど、この場所には人はまばらに行き交っていた。おそらくすべて地元民だろう。散歩を楽しんでいる老人がほとんどだった。
しっかりと舗装された石造りの広場。……その中央には、確かに大きな像が立っている。
アルミンがそこを一直線に目指していることからも、あれが私たちの目的のものなのだと理解した。
近づくにつれてその像の全容を上手く捉えることが叶った。その像は何かに立ち向かうような表情のエレンを象った大きな像で、そしてその脇に、少し控えめな大きさでエルヴィン団長も象られていた。
……なるほど、確かにアルミンは先日、像はエレンを象ったものだと話していたか。
それを見上げて、私は思いを馳せた。
きっと、今のパラディでは調査兵団の功績なんて、すべて〝英雄〟エレンに繋がる布石としての扱いなのかもしれない。エレンが離脱してからの調査兵団は、もう調査兵団ではないとの認識すらあり得そうだと思った。
まして、ここで私の隣に立つこの男が第十五代団長だと言うことも、きっと誰も知らないだろうし、この男の肖像画が歴代団長のそれと並ぶこともないのだろう。
……本当はイェーガー派を象徴する何かを作りたくて、ただそれでは歴史が浅すぎると思い、調査兵団を利用したのかもしれない。……これは考えすぎだろうか。
私はアルミンに一瞥をやって、それから像の背面に回った。そこには細かい文字で数多くの名前が刻まれている。……おそらく、これまで命を賭して戦ってきた調査兵団の兵士の名前だろう。
見上げると、一番上の段にはこう書かれていた。
――『初代イェーガー派主導者 フロック・ファルスター』
それから数十の名前が続いていく。おそらくそれらはすべてイェーガー派設立の立役者なのだ。
だが私が探していた名前はそれらではなかった。視線を滑らせて数々の名前を下っていくと、『歴代団長』という文字を見つける。
それには『エルヴィン・スミス』から始まり、『キース・シャーディス』と続いていく。それら団長の刻字が終わると……あった。『調査兵』と見出しがついている箇所を見つけた。
そこに記された名前を目で追っていく。
エルド・ジン
グンタ・シュルツ
オルオ・ボザド
ペトラ・ラル
『――早くしろ! ペトラ!』
名前に呼応したように、一瞬の記憶が蘇った。そのとき、踏み躙った不快な感触も、ともに。
……このペトラ・ラルは、あのときの兵士の一人……だ。そう直感した。……ということは、その前後に記された名前が、〝彼ら〟の名前だ。私はそれらをしっかりと刻むように、目を這わせた。
そのあともずらずらと続く名前を、熱心に読み進めていく。……結局最後までハンジやリヴァイの名前はなかった。……それはおそらく、彼らが最終的にエレンを討ったからだろう。
正面から眺めていたアルミンの隣に戻り、私は改めてその像を見上げた。……やはり調査兵団の名前を借りた、イェーガー派の像だと認識するほうが正しいような気がした。……それでも、〝彼ら〟のことが知れたことは、私にとっていいことだったと思う。……私がしてしまったこと、忘れることはできないが、より深くこの胸に刻みつけた。
「――若い方がこの記念碑を見ているのは珍しいね」
アルミンの向こうから、老人の声が心臓を刺した。
声の張り方からして私たちに話しかけているのがわかって、私はただただ硬直してしまった。アルミンも返事をできずに動揺していたようで、
「……大使団の方ですかな」
老人は無害な笑顔で側に立ち止まった。
私は必死に身を縮こまらせた。隠れられていないことは分かっていたけど、無我夢中で顔を隠して息を殺した。
「あの、我々は」
アルミンがここにいることを弁明しようとして、
「いや、いいんだ」
しかし老人はそれを遮った。
私の心臓は止まるところを知らずにどくどくと叩くような脈を打っていた。……どうしてこんなに緊張するのかわからない。既に顔も上げられないほど、こわばっている。
「大使団の方々も元は調査兵団の兵士だったのだろう。だったら、私の孫にも会っていたかもしれない。ここへ来てくださるのは、覚えてくれているということ。嬉しい限りだ」
老人の声は言葉通り弾んでいた。……それでも私は必死に存在を隠そうとした。
「お、お孫さんも、調査兵だったのですか」
アルミンが尋ねる。
「ああ。八年前、エレン・イェーガーを守って死んだ。そこにも名前が刻まれとる」
――八年……前……?
さらに心臓が暴れた。八年前、計算はぴったりだった。……第五十七回壁外調査、アニ・レオンハートがエレン・イェーガー奪取のため、調査兵団を襲った時期と。
――やばい。殺される。
私は一人絶望していた。ここにいるのが私だと知られたら、きっと私は、殺される。
……殺される?
いや、むしろ、私が殺した人間の家族に殺されるなら、因果応報だ。これ以上の似合いの最期はない。
……けれど、こわい。どうしよう、こわい。
ぎゅ、と固く瞳を閉じた。どうか私には気づかないでくれと、そうわけもわからず願っていた。
「……それは……そうでしたか……」
私の隣にいるアルミンは平気な声で会話を続けている。老人も何を疑うこともなく、他愛ない歓談を楽しんでいるつもりのようだった。
「――この島では、あなた方を裏切り者と嫌う輩もおりますがね」
老人が切り出した。
「私は感謝したいと思っていたのですよ。私の孫は、世界を踏み潰すためにエレン・イェーガーを守ったのではない。だから、エレン・イェーガーの行いを止めてくださったこと、感謝しとるんです。……大声で言うと、なじられるんですがね、はは」
老人が空笑いをこぼした。私はそれどころではなかった。ものすごい速さで巡る鼓動が止まらない。息苦しくなってきて、目眩まで感じているほどだった。
その凄まじい緊張感の中にいた私に、私の指先に、ふわり、と何かが触れた。初めはびっくりして肩を震わせてしまったが、それが私の手をしっかり握ったことで、アルミンの手のひらだと気づく。
「…………お孫さんは、第五十七回壁外調査で?」
アルミンの口から、とんでもない問いが飛び出した。……あ、アルミン、ど、どうしてそんなことを聞くの!? そんなことを、わざわざ……!
私の動揺はさらに強くなる。そしてそこに立っている老人も、
「そうだ。よく知っておるな」
簡単に肯定してしまった。
――『第五十七回壁外調査で』……そこで、帰らぬ人となったのなら……それは……私のせいだ……。逃れようもない、私の……、
晴れていたはずの朝空の下にいたというのに、私の視界は一気に暗転した。
「ぼくも、そこに参加しましたので」
「そうだったか。あるいは本当に、孫と会っていたかもしれんな。よく生き延びた」
頭が真っ白になっていた。鼓動の速さと目眩だけが強烈に意識を支配し、けれどもうそのほかは何も言葉が浮かばない。何を思えばいいのかもわからない。
きっと私のことをぎたぎたに切り刻んで、この世の一番苦しい方法で葬りたいと思っている老人が、ここにいる。……私は何を、すればいい。何を、差し出せる?
かと言って、この老人に殺してくださいと懇願するほどの勇気は持てなかった。ずるい、卑しい……最低だ。私は、なんて……愚かで……救いようがない……。
「いえ……。お孫さんのこと、悔しかったですね……」
アルミンはなぜ先ほどから、わざと彼の傷を掘り返すような質問をくり返しているのだろう。それだけはふと疑問に思った。私がここで聞いていることもわかっているだろうに。
「まあ、そうだな」
けれど、老人も何のためらいもなく答えてしまうから。
ぎゅ、と拳を握った。アルミンに握られていたことを思い出したのは力を入れた後だった。けれど構えなかった。私は静かに耐えていた。
「……初めは恨んだよ。憎しみ尽くしたよ。息子みたいに可愛がっていた孫だったからね。調査兵をしていた以上、順番がきたのかと納得しようともしたが、悲しみに暮れないわけがなかった。今でも、思い出しては寂しさに襲われるときがある」
老人の声色は変わっていない。けれど、表情を見られない私には、どんな悲痛な嘆きなのかはわからなかった。
「……あのとき、孫を殺したというマーレの潜入兵も、今の大使団におるのだろう。それも知ってるよ、有名な話だ」
どく、どく。巡る鼓動がうるさく叩く。
「でも、その潜入兵もマーレの少女兵だったと言うじゃないか」
老人の声が持つ強さが、少し増した気がした。
「それも有名な話だ、年端もいかない少女が任務を課せられてやったことだということは、しばらく後に知ったが、理解はできた。それからは、恨みは形を変えたんだ」
私はすべての神経を聴覚に集中させていた。耳を塞ぎたくなるような緊張感の中にいたのに、いつの間にか、この老人の言葉を待っていた。
「――孫はもう戻ってこない。それに対する怒りや悔しさはまだある。……癒えるはずなんてないよ」
それはそうだ。そうに決まっている。人の命を奪ったこと、そんな簡単に下ろせる罪ではない。
「……だが、それをその少女一人に背負わせようという気持ちはない」
はっ、と息を吸い込んだ。……老人の言った言葉が頭の中で鳴り響く。それに合わせて、はらはらと目から罪悪感の塊が落ちていく。
「私の知らないどこかで、もう人を殺めることなく、平穏に、幸せになってくれたらいいと思う」
「……はい……」
アルミンが小さな相槌を打っていた。
私はというと、衝動に支配されていた。なんの衝動か。それは簡単なことだった。……私一人に背負わせようとは思わないと、そう断言した老人に。私は……、私は、この老人に、私なんです、と叫び出して許しを乞いたくて仕方がなくなっていた。この人にさえ『許す』と言われれば、すべてが少しだけ、軽くなるような気がして。私は逃げたかったのだ、自分の罪から。自覚した途端、反吐が出そうになった。それでも、泣き出しそうなほど、私は自分がやったことを、〝なかったこと〟にしたかったのだ。
「……まあ、私もそこまで心が広いわけではないからな。私の知らないところで、というのは、ちょっとばかし大事だったりする。はは、この老いぼれめ」
その言葉を聞いて、すっと、私の衝動は静かになった。
――だめだ。私は、だめだ。名乗り出てはいけない。この老人は、その少女兵の行く末なんて知りたくはないのだ。今も健やかに生きていること……それを目の当たりにしたくは、ないのだ。ましてや『許す』なんてこと、口が裂けても言いたくないはずだ。……私はそんなわかりきったことを、見失っていた。
私がやったことはなくならない。罪からも逃げられない。そんなこと、もう何百回と思い知っていたというのに。
「そんな……ことはないです……。……ぼくも、家族を亡くしているので……少し、わかりますよ」
アルミンは、老人の自嘲に寄り添う言葉を発した。
「あぁ、長話すまなかった」
老人も、自らを顧みる言葉を使った。……どうやら離れる体制に入ったらしいことを察する。
「いえ、大変貴重なお話でした。ありがとうございます」
「いや、こちらこそだよ。大使諸君には期待しているからな。頼んだよ」
「はい、ありがとうございます」
老人の声が、数歩離れた。私はちらりと瞳を上げていて――、
「じゃあ、話せてよかった」
老人と目が合った。……話せてよかったと、一言も交わしていない私に向けて、老人は言ったのだ。
私はただただ急いで視線を逸らすしかなかった。老人と目を合わせる資格すら、私にはない。
「この記念碑を見にきてくれて……孫たちを忘れないでいてくれて、ありがとうね。また縁があれば会おう」
「お気をつけて」
アルミンは老人を見送り、少しの間手を振っているようだった。私はというと、ずっと歪み続ける足元を睨みつけているままだった。罪悪感の塊に、綻びのような何かが混ざり込みながら、未だはらはらと雨のように地面を濡らしていた。
しばらくその場から動けず、ずっとその情けないかっこうのままだった。……私は今日、ここに来てよかったのか。あの老人の人生に、最悪な形で干渉したくせに、まだ踏み込むなんて……なんて救えない。
いっそここで、私は――、
「……アニ? 大丈夫?」
アルミンの声が耳に届いた。……優しい声だ、握っていた手のひらを少し揺らして、私の注目を誘った。
けれど私はまともに言葉も発せないくらいに動揺していて、「ぐっ、ぅ、」と先ほどまではなんとか噛み殺していた嗚咽を、勢いよく漏らすばかりだった。
「……帰ろうか」
アルミンは私の手を握ったまま歩き出した。
そういえばシガンシナに向けての馬車の出発時間があることを思い出して、私は嫌でも進まないといけないのだと理解した。
「……あのおじいさん、アニのこと、気づいていたかもしれないね」
ぼそり、小声でアルミンは言った。
私も、本当は少しそう思った。『話せてよかった』と目を見られたとき……もしかして、あの老人は私のことを勘づいていたのではと……期待のような、狼狽のような、説明できない気持ちになっていたのだ。
私はぐちゃぐちゃになってしまった顔を隠しながら、なんとかアルミンに連れられて、元の宿泊施設に戻ることができた。
「……まさか、あんな人に会うなんてね」
部屋に入って椅子に座らされ、ようやく涙も落ち着きを見せ始めたころ。私の部屋の荷造りを私の代わりにしながら、アルミンは切り出した。
そうだ、と私は一つ、どうしても解せなかった疑問があったことを思い出した。
しっかりとアルミンのほうを向きながら、
「……なんで、あんな質問したの」
半ば咎めるような声使いで責めてやった。
あれを聞かなければ、あの老人だって嫌なことを思い出さなくて済んだはずだ。アルミンにしてはあまりに配慮がなく、必ず何か意図があると思ったのだった。
「『第五十七回壁外調査で?』なんて、聞かなくてもよかったことをっ、」
またそのときの緊張感を思い出して、うっと涙が込み上げた。
アルミンは荷造りをしていた顔を上げて、ゆっくりと振り返り私の目を捉えた。
「……アニにとって、いい機会だと思ったからだ」
はっきりと、そう言った。
アルミンは、あの老人があんな風に言うことを予想していたのか。……もしあの老人が、切り刻んで豚の餌にしたいくらい憎んでいると言ったら、どうするつもりだった。
「アニ、彼の話は意外だった?」
まるで一本の矢を放たれたように、まっすぐな声色で確認される。
――『だが、それをその少女一人に背負わせようという気持ちはない』
老人の声だけが耳の奥でこだまする。
……はっきり言えば、意外だった。この世の憎しみをすべて集めて煮込んだような、そんな恨まれ方をしている覚悟をしていたから……しているつもりだったから、正直少し、ホッとしてしまう自分がいた。
「……私には想像もできないことだった。……だから、知ることができて、よかったとは、思う」
けれど、老人は確かに私を眼中には入れたくないとも言ったのだ。恨みも憎しみも消えたわけではない。それも、忘れてはいけないことだと、改めて思った。
「……戒めのためにも」
だから、私は自分の言葉にそう付け加えた。
アルミンはそれに納得したのか、また荷造りの作業に戻るべく、頭をかがめた。
「…………はは、ぼくはもっと恨まれてるだろうなあ。いかんせん〝少年兵〟ではなかったしね。あのときにはもう、立派な大人だった。自分の意志で、港を破壊したから」
アルミンはそれを飄々としたトーンで言ってのけるが、私は知っている……アルミンも私と同じくらい、この罪に苦しんでいることを。それを表に出さずいられるようになっただけだ。
それに、アルミンの口ぶりにはなんとなく納得がいかなかった。まるで私が免罪符を手にしたような言い方だったからだ。……私の罪は何一つ許されたわけではない、そんなことは、この先すべての人間がそうしたって、私自身が最後まで手放せないのだろう。
「……私だって、あれは半ば自分の意志のようなものだった。いくら課せられていた任務とは言え、言い逃れはしないよ。……けど、あのじいさんがそう信じることで自分を納得させているなら、それで構わない」
アルミンは手を止めなかった。自分が一番自分を許せないこと、アルミンもきっと心当たりがあるはずだ。
その背中を眺める。泣いていた私を気遣って、代わりに私の荷造りをしてくれている、その背中だ。私がどんな心境でも側にいてくれて……私に意味を与えてくれる。
――『私の知らないどこかで、もう人を殺めることなく、平穏に、幸せになってくれたら』――
先ほどの老人の言葉がまた胸に溢れる。……自分が自分を一番許せないと思っているが……それでも、他人の力とは大きなものだと痛感した。
「……アルミン」
「なあに?」
「……私は本当に、『平穏に、幸せに』なってもいいの……」
ぽつりと疑問を落とした。
老人がそうしもいいと言っていたから……私はもう少し、自分を許してもいいのだろうかと……もっと前向きに幸福を噛み締めていいのかと……知りたくなった。
眺めていたアルミンは手を止めず、
「……別に彼がそう言っていたからと言って、すべての人がそう思っているわけじゃないと、ぼくは思う」
私のほうに背中を向けて、作業を続けながら言った。
「今でも死んでくれと思っている人もいるかもしれないし、……でも、例えばぼくは、君の幸せを願っている。……結局のところ、君が『平穏に、幸せに』なるかどうかは、君が決めるしかない」
これが現実なのだ。私が自らの罪をどのように背負っていくかは、私が決めなければいけない。……罪を償うために世を儚む選択肢もあれば、罪を償うために、生涯孤独で惨めに暮らしていく選択肢もあるだろう。はたまた世界を想い、必死にもがいていく選択肢もある……ということだ。
……その選択肢は、なんとも馴染み深いものだった。何度も何度も、自分の犯した罪に押しつぶされそうになり、その度にこれが正しいはずだと、何度も何度も選び直してきた選択肢だ。……だから、私は今の道を選ぶことの重さを、もうわかっている。
恨まれながらも、こうやって必死にもがいて。
「……そんな決断……やっぱり私には重い……」
逃げ出したくなるときもある……そう、今日みたいに。
私はそのときの自分の思考を思い出して頭を抱えた。……逃げ出したいと一瞬でも思ってしまったこと……それを今さら思い出してひどく恥じた。
「……でも、目を外らせることでもない。君がここにいて、しっかり生きていくと決めるなら、責任を持ってそうすればいいだけのことだよ」
「……そんな、大層なもの、私はまだ……」
アルミンは未だに忙しなく荷造りをしている。どんな表情で言っているのだろうと考えて、けれどアルミンのことだから、きっと柔らかい面持ちで言っているのだと思い描いた。
むず、と何かが私の中で疼く。
――コンコン
そこで、部屋にノックの音が飛び込んできた。アルミンは無反応だったが、私は扉のほうに目をやった。
「アニ、アルミン。馬車の準備ができたとよ。荷物持って玄関に来いって」
「……ジャンだね」
どうやらアルミンがここにいることはお見通しらしい。その〝当たり前さ〟が少しくすぐったくなって、私は返事をせずにアルミンに任せた。
ちょうどそこへ、アルミンの手元からトランクのファスナーを閉じる音が聞こえた。
「はあい、今行く。……ほら、行こうアニ」
アルミンが立ち上がる。いつもの晴れやかで清々しい表情を湛えて、私にまっすぐに手を差し出している。
いつものように、それは少し私には眩しく感じた。そんなに晴れやかにされると、少し気が引けてしまう。
けれどアルミンはいつもしてくれるようににこりと笑み、
「……大丈夫だ、アニはちゃんと、背負っていける」
そう柔らかい声で諭してくれた。
「ほら、おじいさんにも『期待してる』って言われただろ? ぼくたちに求められていることは、罰を受け続けることだけじゃない。償いとして、未来を切り拓いていくんだ」
溌剌とした声、輝く瞳の光、アルミンを構成するすべてが前を向いていて、心にかかる曇りを晴れやかに変えようとする。
私はそれに抗うように嘆息を吐き、
「……あんたのその前向きさが、羨ましいよ」
ようやく差し出されていた手を握って立ち上がった。
アルミンから自分の分の荷物を手渡され、一緒に部屋を出るように扉のほうへ近づいていく。
そのドアノブに触れる直前で、アルミンは何かを思い出したように、身体を捻って私のほうへ顔を向けた。
「……今夜の宿は、同じ部屋にしてもらう?」
何を言い出すかと思えば……いったい唐突にどうしたというのだろう。その真意が気になり「なんで?」と手短に尋ねると、
「君、今日は一人だと余計なことまで考えそうだもん。そばにいたい」
目を細めて、あまりにも愛おしそうに笑うから……私は咄嗟になんと返していいかわからなくなり、
「……ちょっとうっとおしい」
わざと突き放すようなことを言った。
それなのにアルミンはまた前を向いて、
「はは、それでもいいよ。さあ行こう、アニ」
怯むことなく、この部屋から外へ飛び出した。私もそれに続いて、二人で集合場所である施設の玄関へ向かった。
おしまい
あとがき
ご読了ありがとうございました!
甘やかすことが自分が甘えることに繋がる関係が大好きなんですけど、アルアニはそれが成立するんですよね……。お互いを甘やかしてくれ……。
ずっと書きたくて我慢していたものを、時間ができたので書きました。
登場する老人ですが……。
私なりに突き詰めて考えたのですが、私だったらこんな風に思うのかも知れないと思って表現しました。
幸いなことに私は家族を奪われた経験はないので憶測にすぎないんですが……最終的にあんな心境になるのではと思ったのでした。
(一応、こう思うであろう根拠みたいなものは、自分なりにはあります)
まあ、何を言っても私はアルアニに幸せになってほしいだけなんですけどね。(;ω;)
アルアニずっと寄り添い合っていてくれ〜〜!
改めまして、ご読了ありがとうございました!