ふたりの歯車
――ミカサは、よく泣くようになった。……いや、それは〝俺の前で〟よく泣くようになっただけなのかもしれない。
この日もそうだ、エレンの十回忌であり、土砂降りであり、……そして俺とミカサが初めて互いの唇に触れた日の……その次の日。この日もミカサは――……
*
「――よお、ミカサ」
「……じ、ジャン」
エレンの墓の隣で膝を抱えていたミカサに呼びかけた。
自身の腕に顔を埋めていたミカサは、俺が丘を登ってきていたことにも気づかなかったらしい。研ぎ澄まされた感性を持っていた昔とは大違いで、顔を上げたミカサはなんとも無防備、かつ情けない顔をしていた。
ぐしゃりとその表情が歪む。じわと目尻から溢れ出した涙を見て、俺はここに何をしに来たのかを瞬時に忘れてしまった。
もうすぐ日が暮れそうな時分、肌寒くなった空気と頬を撫でて通る風。ミカサの黒くて艶やかな髪の毛も、それに揺らされていた。
ミカサの視線が落ちて、それにつられて顔も俯いてしまう。
「あの、ジャン。……昨日は、ごめん、なさい……」
堪えていたであろう涙の分だけ、その声は震えていた。……ミカサが謝っているのは、おそらく昨日、半ば強引に俺とキスをしたからだろう。あまり前向きではなかった俺に、泣きながらキスをしてほしいと言ったミカサが脳裏を過った。そうしてそのときに抱いた、どうしようもない愛しさも思い出して、
「……謝らないでくれよ」
俺に言えたことはそれだけだった。
ミカサは未だに俺と目を合わせる気配はなく、「……ごめん……」とまた風に混ぜるように呟いた。
昨日から今にかけて、またミカサはいろいろと考えていたのだろう。『エレンが心配するから』とキスをせがんだミカサは、間違いなく余計なことまでいろいろと考えてしまっていたのだろうし、それは今日も変わらないらしかった。
「いや、いいって。それより、大丈夫だったか……?」
明らかにエレンがまだ意識の中心にいるミカサが、強引に俺とキスをしたことで変化したであろう胸中の状態を尋ねたつもりだった。……とは言ったものの、この様子を見るに、あまり大丈夫ではなかったのはわかったことだが、ほかにどう声をかけるべきかもわからない。
ぐっと自身の腕を抱え込んで、ミカサは少しだけ身体を丸めた。まるで自身を守って口を閉ざしているようで、何も言わなかった。だが、それでは俺もミカサの思っていることがわからない。
短く「ミカサ?」と言葉を促してやると、ミカサはより一層顔を隠すように肩を竦めた。
「……ジャン、」
その声は先ほどよりもひどく震えていて、涙ぐんでいた。自身の考えていた何かに深く動揺しているようで、守るように身体を固くするのも強くなる一方だった。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
「……おう」
掠れながらも言葉を一生懸命に繋いでいく。俺はそれらをなるべく邪魔しないように、小さく相槌を打つことに留めた。
「どうしたらいいか、よく、わからなくてっ」
「……うん」
「どうしたいかもっ、わからなくて……っ」
「……おう」
その胸の中に息づくエレンへの想いとか、それでもそれを手放さないといけない日が迫っている焦りとか、いろんなものがミカサの中で渦を巻いているのだろう。俺の目の前にいる小さく縮こまった〝少女〟を、俺はただじっと見ているばかりだった。――俺に何がしてやれるだろう。
「――ジャン……だめ、やっぱり私、まだ、だめみたい」
追いつめられたように頭を抱えて零した。その姿は本当に痛々しくて、俺の心まで引きずっていく。今のミカサには俺からの慰めなんて重荷でしかないだろうとわかっていながら、叶うことなら今すぐにでも頭を撫でたり、肩を叩いたり――なんでもいいから、何かをしてやりたかった。
俺はそれらの衝動をぐっと堪えて、ただ静かに隣に腰を下ろした。ミカサの目線がずっと近くなる。鼻のてっぺんまで真っ赤にして泣いている横顔がよく見えて、胸が苦しくなって空を見上げた。
「……昨日も言っただろ? そんなお前を誰も責めやしねえよ」
ずず、と派手に鼻をすすった音が聞こえたかと思うと、ミカサは少しだけ顔を俺のほうに向けた。
「本当に? ……もう、あれから十年も経つのに? ……私は前へ……進まなくては、いけないのに?」
助けを求めるような眼差しからは、その切実さが伝わっていた。
「誰が決めたよ。別に進まなくていいんだよ。お前がここにいたいなら、誰もお前を引きずり回したりしない」
昨日も伝えたことだったが、必要なら何度だって言う。〝エレンのため〟に前を向かなければと自分を追いつめているミカサ――こんなに傷ついて、まだその傷を大事に抱えているミカサに、いったい誰がそんな酷なことを言うというのだろう?
だがミカサはさらに息遣いを荒くして、
「……っ、うぅ、だめ、それじゃあ、だめっだから、」
その両腕の中に自身の頭を沈めて、俺から顔が見えないようにして泣きじゃくった。
ミカサの葛藤もわからないわけではない。……たぶん、なんとなく理解していると思う。きっといつまでも引きずっている自分を奮い立たせたいのだ。……誰かに、尻を叩いてほしいのかもしれない。――けど、そんなこと、俺にできるはずがない。もし俺にそうしてほしいと思っているのなら、それはミカサの人選ミスだ。……何かのきっかけでミカサが変わらないかと、この人生で一度も思わなかったわけではない。けれど、それはこんな形での心変わりを望んだわけではなくて、ミカサが自分に納得して、自分に素直でいられたらと俺は願っているから。
ひぐひぐと隣から声が聞こえている。……エレンなら抱きしめてやるだろうか。いや、あいつにそんな度胸はないかもしれない。――だが俺も人のことは言えなかった、俺にも、まだミカサを抱きしめるだけのそれはなかった。今俺がそれをしたら、なおさらミカサの心を捻じ曲げてしまいそうだった。
ミカサの泣き声を聞きながら、俺は静かに丘からの眺めを見ていた。緩やかな下り坂、そのずっと下のほうにはぽつぽつと明かりを灯し始めた家々がある。まだ暮れ切っていない空の下でその明かりは柔らかくて、標にするには少し弱かった。
ふ、と俺はここに来た理由を思い出した。
昨日の今日なのでミカサの様子を見に来たのが一番の理由だが、それにしっかりと口実を用意していたのだった。
「……ミカサ、」
「……う、んっ」
まだ涙に溺れたような声色のまま、ミカサは少しだけ顔を上げた。
「……大陸に帰る日時が決まったから、それを伝えにきた」
元々だいたいの時期は決まっていたのだが、今日の夕方に詳細の渡航日時が定まったところだ。
俺の言葉を聞くなりミカサはひどく驚いたように身体を上げて、見開いた目で見返したかと思うと、
「……え、あ……わ、私、またこんなに泣いて……、」
今度は乱暴に自身の袖で涙を拭い始めた。
「ごめんなさい…………も、もっと、しっかりしなくては……」
引きつった笑顔までこさえようとするものだから、俺は言葉を失くしてしまった。
ミカサがどうしてほしいのかいまいちわからない。慰めていいものか、それとも喝を入れるべきなのか。見守るべきか、立ち入るべきか。おそらくぐるぐると忙しなく移ろい続けているミカサの心境を捕まえるのは難しかった。
俺が何も言わないのを察したのか、ミカサが気を使うように慌てて口を開く。
「……ジャン、今日は来てくれて、ありがとう」
「あ、おう」
真っ赤に腫らした目尻を見つけて、居たたまれなくなる。……結局、俺がいることでミカサに余計な選択肢を与えてしまっているのかもしれない。……俺だってこんなミカサが見たいわけではないのだが……、
「……その、俺はまたしばらくいなくなるからさ、余計なこと気にせずに過ごせよ。近くにいてやれねえのは残念だが、また、その内様子見にくるから」
この気持ちをどう伝えたらいいのか、未だにその答えは出ない。ミカサが大切で、これ以上苦しんでほしくないからこそ、どこまで踏み入るべきなのか測りかねている。
ミカサは俺が言ったことには返事をしなかった。その代わりに何かを考えるように俯いて、それから頭をまた腕の上に落として呟いた。
「大陸に戻るのは……いつ?」
「おう、それは、明後日だけど」
「……じゃあ、明日は、時間ある?」
唐突な投げかけに面を食らってしまった。その確認はどういう意図なのか見当もつかなかった俺は、頭が真っ白のまま、
「おう。夕方以降なら時間取れると思うが」
とそれだけをミカサに教えた。
「なら、明日、待ってる」
ミカサがその体勢のまま、自信もなげに零した。
「一緒に夕飯を食べるのはどう」
食事に誘われているのだとわかったのは、ようやくまた身体を上げたミカサと目が合ってからだった。少し気恥ずかしそうに言うミカサに、思わず胸が高鳴ってしまう。昨日のように、どくどくと、脈が激しく血液を巡らせていく。
「どうって……そりゃ、俺は構わねえけどよ。お前は、その、いいのか?」
「うん。大丈夫」
不自然なまでに迷いなくそう応えるものだから、俺は内心で『いやいや本当か?』などと問い返していた。今日だって俺の顔を見ただけで泣き出してしまったくせに、本当に同じ食卓につけるのだろうか。
だが、強がりにも見える灰色の揺れる瞳を前にしていたら、そこまで気を使うのは反対に野暮だろうかと思い至った。俺だってミカサをどうしたいのかわからない。……せめて、ミカサが納得がいくように、と、それだけ。
「……わかった。お前が言うなら、その言葉に甘えるかな」
だから、最終的にそうやって了承した。無意識に強張っていた身体から力を抜いて、その拍子で少し頬が緩んだ。
「うん。ご飯作って待ってる」
そう紡ぐミカサの声も、もう震えは感じられなくなっていて、ひどく優し気に聞こえた。
……そうか、明日、ミカサと一緒に夕飯を。――改めて考えると、少しくすぐったいような気持ちにもなった。
――空を見上げ直して、夕方と夜の狭間の色が、なんとも繊細で危うげな移ろいを見せていることに気づいた。
……くすぐったさを抱いたものの、ミカサが未だ持て余している大きすぎる気持ちのことも、それをどうにかしたいと思っているだけであることも、ちゃんとこの頭の中には置いていた。はしゃぎすぎてミカサに負担をかけるのもよくない、俺自身あまり期待するのは得策ではない。
身を引き締めて、俺はゆっくりと立ち上がる。
「じゃあ、また明日な」
「うん。気をつけて帰って」
座ったままのミカサは、俺を見上げて見送りの言葉をくれた。上目遣いの薄い笑顔がかわいくて、思わず目を逸らしてしまった。やはり呆れるくらいミカサが好きだな俺は、と自嘲しながら帽子を被り直して、
「おう。お前もあんまここに長居して風邪引くなよ」
最後にミカサの頭にぽんぽんと触れて歩き始めた。
「……わかってる」
背後からそう聞こえて、俺は手を振るために振り返った。
ミカサも手を振り返してくれたけども、そこに縮こまって座る姿は、あまりにも心もとなく映った。しっかりと根を張るようにそこに構えるミカサは、否定しようもなく、まだ深く深くに囚われている。……けれど、それは別に悪いことではない、はずだ。ミカサにとって〝そいつ〟がどれだけ大きかったのかを物語っているだけで、それは、もうわかりきっていることだった。
――だから、期待してはだめだ。
ミカサに夕食に誘われた事実は胸を高鳴らせるが、その真意を見誤ってはいけない。それをしっかりと肝に銘じながら丘を下っていく。
ほとんどその麓まで下ったときに、俺は木の陰から人が出てきたのを見つけた。相手も俺を見つけて、とっさに「お」と声を出してしまった。……それはアルミンだった。
なんとなく俺がここに一人で訪れていたことが知られてしまったことにばつの悪さを感じ、不意に目を泳がせてしまった。
けれどアルミンも特に深追いはせずに、すれ違いざまに「ジャン、また明日」と声をかけてくるだけだった。俺もとっさに「おう、明日」と返事をして、アルミンとすれ違った。
アルミンにミカサと会っていたことを伝えるべきだったろうか、となんとなく脳裏に浮かぶ。けれど直後に、なぜ、という疑問も重なった。別にアルミンはミカサの保護者でも夫でもない、俺とミカサがいつどこで会って話していたかなんて、別に知りたいとも思っていないだろう。
丘を抜けて舗装された歩道に出る。それからも俺は徒歩で宿舎を目指していく。
――明日、ミカサと夕食か。……期待はするなと自分に言い聞かせるものの、それでもやはり、何も気にせず昔みたいに何かを話せたら楽しいだろうなと思わずにはいられなかった。……手土産を準備しよう、何がいいだろうか。
帰路ずっと、明日のことで頭がいっぱいだった。
*
「――もうすぐ駐在所ができるだろ。連合国大使館が」
アルミンがみんなの前でそう切り出した。みんなというのは、連合国の大使を任された面子のことだ。
今日、ミカサの家に夕飯を食べに行くということで、なんとなくずっと浮足立っていた俺は、それでも一応普段通りを意識して仕事に精を出していた。その合間の会合の際、アルミンが議題の終わりにそれを切り出していた。
「そこで、ジャンとコニーの二人に常駐してもらうのはどうかなと思っているところなんだ。二人はこちらに家族がいるしね」
それを言われて、俺はまずコニーと見合わせた。それから今度は俺たち二人に目配せをするアルミンを見返して、何を言ったのかをついに飲み込んだ。
この七年、ずっと大陸とパラディ島との往復で、家族に会えるのもその短い期間だけ。……それも現状を考えると仕方のないことだと思っていたが……これはアルミンなりの配慮なのだろうと勘ぐった。また余計な気を回してくれるものだから……でもそれには少し心が躍った。どう頑張ってもやはり俺の故郷はこの島であり、心を落ち着けるのも、この地なのだから。
それを念頭に置いておいてくれ、とアルミンは付け加えて、それからまた議題を変えようと改めて息を吸った。声使いまでもが一気に明るく変わっていて、
「ところでみんな、今日はみんなで夕食に行かないか」
唐突な提案をそこに置いた。
曰く、明日にはまた大陸に向けて発つので、この島での最後の夜を近くの酒場で過ごさないかということだった。それにはいいんじゃない、特に予定もないしな、と口々に同意が示されていった。
だが俺には大事な先約がある。
一通りみんなが回答を済ませてから、出遅れた俺は静かに「悪い、俺は予定ある」と断りを入れた。当然その場にいたみんなが「なんのだ?」と勘ぐるような眼差しを向けていたが、アルミンは「そっか……わかった」とだけ口にして、その会話を終わりにしてくれた。
一番初めに席を立ち上がったアルミンが、「それじゃあみんな、撤収の準備を始めてくれ」と声をかけると、それぞれがぞろぞろと与えられたデスクに向かって身体を動かし始めた。それぞれの領域に積み上げられている書類や書籍、地図などをまとめ始める。
――これから大使館ができれば、渡航の度に場所を借りて設営、撤収の作業が必要なくなる。そう思うと、毎度の作業をこなしながら、それは待ち遠しい話のように感じた。
「……あ、ジャン、ちょっといい?」
片づけを始めてしばらくしたころ……アルミンが俺のそばに立ち寄って、一緒に来てくれと仕草で伝えた。
何の話をするのだろうと訝しみながら、俺はアルミンが誘導するままに廊下に出ていた。そこでアルミンが気を配るように周りを見回し、誰もいないことを確認すると、
「……予定って、ミカサのところに行くの?」
突拍子もなしにそんなことを尋ねてきた。
あまりの突拍子のなさに思わず俺は考えを巡らせてしまった。ミカサのことも考えて、今日のことをアルミンに言うべきか否か、判断を迷った。じっと俺を見ているアルミンを俺も見返して、でも別に何も疚しい気持ちがあるわけでないし、と思い至ったときに、
「あ、い、いやなら、言わなくていいんだ」
アルミンが少し慌てたように付け加えた。それからぼやくように「……ちょっと、気になって……」と零して、またちらりと俺を見やる。
別にこれっぽっちも〝いや〟などと思っていなかったこともあり、俺はそのあとは特にためらいを抱かず、「……別に、何もねえよ」とアルミンの腕を掴んで教えた。しっかりと俺の目を見るようにして伝えたのは、ミカサの幼馴染であるアルミンに、不安を抱かせないようにするためだった。
「何もしねえし、飯一緒に食おうって、誘われただけだ」
そこまで言うと、アルミンが傾けていた身体をこちらに向けて、きょとんと首を傾げてみせる。
「……ミカサが? 君を? 誘ったの?」
あまりにも不可解だとでも言いたそうな声色で、俺の望み通りにまっすぐと俺を見つめている。
「あぁ、まあ、そうだ」
答えながら、なぜか俺は『間違ってないよな?』と自問してしまった。――昨日、『一緒に夕飯を食べるのはどう』と問いかけてきたミカサの姿を思い出して、再度自分を納得させた。
だがアルミンも疑問を抱いたように、やはり、ミカサが俺を飯に誘うのは、きっと〝らしくない〟行動の範疇だ。……ミカサは何かを変えようと、今必死になっている。
そんなミカサに対してアルミンはどう思っているのだろう。――アルミンが顔を伏せたのを見て、ふと疑問に思う。
「……やっぱり、幼馴染的には微妙か?」
だから、率直に尋ねてみた。アルミンにとっては……ミカサだけではない、エレンも大事な幼馴染で、家族だったのだから……今になってミカサが半ば強引に進めている〝変化〟を、どう思うのだろう。……エレンを〝しまいこんで〟俺を〝招こうと〟していること。
だが俺の懸念はまったくの見当違いだったようで、質問を聞くなりアルミンはすっと驚いたように顔を上げた。
「え、いや。そんなことはないよ」
言葉の通り、本当に曇りがない眼差しで俺を見ていた。
それがあまりにも信頼に満ちているものだから、俺のほうから視線を逸らして「そうか……」と相槌を打つばかりだった。
唐突に一昨日のことを思い出して、実は一昨日キスをしたと言ったら、アルミンはどんな顔をするだろうと後ろめたさを抱く。アルミンが俺に向けた〝信頼〟の意味は、いったい何なのだろう。……俺ならミカサに手を出さないという信頼か。それとも――、
「そりゃあね」
アルミンがまたふと目を伏せて語り始めた。
「昔はエレンを失ったミカサが、それでも靡かずにエレンを想い続けてることに、少し、安堵みたいなものを、抱いていたように思う……。けど、もう十年だ。ミカサが、そろそろ……さ、歩き出せたら、と思うことのほうが、たぶん、ぼくの中で大きくて……。そして、エレンもきっと、そろそろって、思ってるような気がする」
それがアルミンが思っていることの全容らしかった。その声色からも嘘は感じ取れなくて、俺はただ静かに衝撃を受けていた。
……ミカサは歩き出すために、自らが俺に決めたように見える。……そしてアルミンも、ミカサが歩き出すために、俺がそこにいることを願うのか。……俺がずっとミカサを好きだったから? ――本当は少し、今になって俺の気持ちが利用されているような、そんなどうしようもない、微かな不快感があった。ミカサのことは好きだが、ミカサはエレンのことが好きだ……これは、残念なことにまだ揺らいではいないだろうし、これからも揺らがないだろう。
……それでもミカサは、俺を選ぼうとしている。必死に助けを求めるように、俺に縋るのだ。そうすると頭に過る――俺でいいのか。……今はまだ支えが必要なミカサを、こんな形で俺が支えて……それでいいのだろうか……。俺の好きという気持ちを利用しようとしていると思うなら、俺だってミカサの進もうという気持ちに滑り込もうとしていることにならないか。そう意図したわけでなくても。
……まるで、これまで噛み合わなかった歯車が、今になって噛み合ってしまったように。
「ジャン。」
「あ、おう」
自らの思考の中に落ちていたことに気づかされ、俺は目前のアルミンにまた焦点を合わせた。
「こんなこと、ぼくから言われても迷惑かもしれない……けど。ミカサは大事な家族なんだ。そして、君もぼくにとっては大切な友人で……、」
アルミンは重要な会議のときとはまた違った、真剣さを持った眼差しで俺を見ていた。
「もし今後、何か奇跡のようなことが起こって、君とミカサが寄り添い合うことになれば……ぼくは、応援するよ」
その青く澄んだ瞳が、ふわりと柔らかく弧を描いた。とても優しげに微笑んで、
「……ミカサを、よろしく」
でも少し不安の色を残したまま、俺の背中を叩いて言った。……そして俺はそう言われて、悪い気はしなかった。――『何か奇跡のようなことが起こって』……、その奇跡は、きっといろんな可能性を秘めている。
「……気が早えよ。何も、奇跡みてえなことは……起こらねえかも」
「……うん、でも、願うだけならいいだろ」
そうしてまた切実に求めるように笑った。……少なくともアルミンは、希望を持って俺たちのことを見てくれているらしいとわかり、なんとなく心に抱いていた悶々が少し薄くなったような気がした。
例えミカサがまだエレンのことを好きでも、それを見ないようにするために俺に縋っていたとしても。……そうだ、どんな形でもミカサを支えていこうと、俺は決めたはずだった。
「……じゃ、そろそろ戻るわ」
特に続ける様子のないアルミンにそう告げると、アルミンも「そうだね」と相槌を打った。
「今晩は楽しんでね。渡した書類に書いたように、明日は朝の十時には出発するから、それまでに準備を終わらせておいてくれよ」
「おう、わかった」
最後にそうやって言葉を交わして、俺たちは大使団の撤収作業にまたそれぞれで戻っていった。
大使業を無事に終えて、ほかの面々は軽い足取りで近くの酒場に向かっていったころ。俺は一人で、通い慣れた丘の麓に向かっている。
日は暮れかけていて、昨日見た景色と同じ、ところどころに明かりを灯し始めた家々があった。俺が目指している小屋もそうだ。遠くからでも玄関先の淡い光が見えて、それがひどく温かく映った。誘われるようにさくさくと芝生の上を歩いていく。
小屋に到着するとまずはバルコニーに上って、それから玄関の前に立つ。簡単に身だしなみを確認して、手に持っている土産にも一目くれてやって、それからようやくその扉をノックした。
はい、とその向こうからミカサの声が聞こえる。俺もすぐにジャンだ、と返してその場でしばし待った。とっとっと、と急くような足音が近づいてくる。がちゃり、と金属音が聞こえてから、その扉は勢いよく開いた。
できた隙間から覗いたミカサの顔が、また何とも無防備で緊張感のないものだったから、無意識にそれに見入ってしまった。何を言う前にも見惚れてしまって、呆然と立ち尽くす。
すぐに照れたように顔を背けたのはミカサだった。
「……い、いらっしゃい」
その仕草で我に戻る。
「おう、約束通り、お呼ばれしに来たぜ」
なるべく普段通りを装って笑って見せた。そうしたらミカサもふ、と頬を綻ばせて、
「うん、入って。もうできてる」
と扉をさらに開いて、俺を招き入れるように身体をその端に寄せた。
「おう、お邪魔します」
玄関をくぐりながら、俺は手に持っていた土産を差し出すタイミングを見計らっていた。
ミカサが扉を閉めたのを確認してから声をかけようとしたのだが、
「……あっ、」
「ん? どうかしたか?」
ミカサが何かを思い出したように声を零した。それからひどく動揺したように目を泳がせて、自身のマフラーに触れた。
何かまずいことでもあったのか、その慌てぶりに驚いてしまった。
「ごっ、ごめんなさいっ、す、すぐ戻る、から」
「え? あ、おう」
たたた、と駆け足で寝室に向かっていくミカサを見送る。
終始マフラーを押さえていたことが気になり、ちらりとそのあとを目で追ってしまった。死角に入ったミカサをさらに追うために、少し体勢を傾ける。……すると、ミカサは、これまで巻いていたマフラーを外していた。それをゆっくりとした手つきで畳み、寝室の扉の横の引き出しの上にしまっている。
どきり、と俺の中で何かが揺らいだ。……それは決していいものではなくて、俺はミカサがそのとき浮かべていた表情を見て、途端に胃が絞られるような思いをした。――その表情は、嬉しそうとか楽しそうとか、そういうものとは丸っきり違っていて、今にも弱音を零しそうな、そんな表情をしていたのだ。
……ミカサがどんな思いでそのマフラーを外したのか、それがわからないほど鈍感でもないつもりだ。……けれど、そんな顔をさせてしまうくらいなら、俺はそんな気遣い今さらいらないと思った。……そんなこと、初めから望んじゃいなかった。
持っていた土産を勝手にテーブルの上に置き、居間を横切って、
「……おい、」
「あ、ジャン」
ミカサの寝室の入り口に立った。
見られたことに驚いているのか、目玉を零しそうな顔をしているミカサに歩み寄り、
「……その、気にすんなよ」
「……え?」
「マフラー」
そこに置いていかれるはずだったマフラーを拾い上げた。もうすっかり古くなった生地はぼろぼろではあったが、よく手入れされているのか、ほつれは見当たらなかった。それを広げてミカサの首元に当てる。
「……で、でもっ」
「お前には、これが似合いだよ」
くるくると、そしてゆっくりと、そこに巻きつけてやった。人にマフラーを巻いてやるなんて初めてで、少し不格好になってしまったが、俺が手を下ろすころにはミカサは深く俯いていた。
「……ぅ、ジャン……っ」
「これがなくちゃ、お前じゃねえ」
そうしてそれに一生懸命に触れる。今にも泣きだしそうなのを必死に堪えているのがよくわかった。……大事そうにその肌触りを確かめて、
「そんな……でも……、わた、し……」
無理やりにでも自身の気持ちを騙し切ろうとする。
そんな余計な心配しなくていいと伝える代わりに、俺はその場で踵を返した。
「……ほら、夕飯にしようぜ?」
勝手にキッチンに向けて歩み始めた。ミカサもそれで観念したのか、「う、うん……っ」と素直に返事をして、俺のあとを追ってくる。少し駆け足で進み、俺より前に出て、先にキッチンに駆け込んでいく。俺も後を追ってキッチンに入ると、とても香ばしい匂いがしていた。……これはバターの香りだろうか。肉と野菜の煮込み料理に、ほのかなバターの香りが混ざっていて、大いに食欲をそそる。……これはこの島の一般的な家庭料理で、これを母ちゃんが作っていたときの後ろ姿が浮かんだ。
いそいそと取り出した皿にその料理を装っていくミカサ。その隣でそれを見ていた。一つを注ぎ終わり、それを手渡され、もう一つを注いで、それも手渡された。とりあえず食卓に持っていくぞ、と声をかけてから、俺は居間のテーブルに向かった。既にランチョンマットや匙が準備されていたそこに、一つずつを置いていく。
ほかにも持ってくるものがあるかと尋ねるためにキッチンのほうへ身体を傾けると、ミカサがそこから切り分けたパンが乗った大皿を持って現れた。それを二人の皿の間に置き、そのままその席に座るので、俺ももうこれで以上かと察して腰を下ろした。
二人で食事の挨拶をして、ミカサが準備してくれた料理を一口、すっかり腹ぺこなこの身体に取り込んだ。
キッチンで嗅いだように、バターの深みがよく効いた味わいで、野菜のほくほくとした食感がたまらなく安堵を抱かせる。柔らかくなるまで煮込まれた肉も口の中で溶けていくようで、この胸に温かな郷愁を与えていく。……この料理がもたらす懐かしさは、なんとも言葉にし難いものだった。
俺の母ちゃんもよく作っていた、一般的な家庭料理ではあったのだが、少しその末端の味わいが違う。おそらく、ミカサが育った地方の味つけなのだろう。
美味いぞと伝えようと思って顔を上げると、視界の端に先ほど自分で置いていった土産が目に留まった。……特に何かを考えたわけでもなくそれを握り、
「そういえばこれ、さっき渡しそびれた。土産」
「あ、ありがとう」
匙を置いて手を伸ばしたミカサに手渡した。
独特な形をしたその細長い手提げ袋から、おそらくミカサも何が入っているのかは見当はついていただろう。受け取るとすぐにそれの狭い口に手を突っ込み、中に入っていたボトルの首を掴んで取り出した。
――俺が持ってきた差し入れは、外国産のワインだった。
「マーレは今、こういうの希少だから、これはマーレの近隣国のものだが……けっこう美味くて気に入ってんだ」
そう紹介してやる。ミカサはボトルを傾けながらそのラベルをまじまじと読み込み、
「わあ、久しぶりに呑む、かも」
わかりやすいほどに目を輝かせて俺に視線を向けた。……かわいいやつだな。
「はは、そりゃいいぜ。グラスとってくる」
俺は率先して立ち上がり、勝手にキッチンへ向かう。
「あ、場所わかる?」
「おう、ばっちりだ」
勝手知った小屋の中なのだから、ためらいも迷いもなく、ミカサがグラスを収納していた戸棚に歩み寄った。……思った通り、そこには質素なデザインのワイングラスが逆さを向いて並べられていた。
そこから二つを取り出して、足取り軽く食卓に戻ってくる。
ほらよ、とミカサに一つ渡して、自分のもそこに置いた。それからバトルを受け取り、一緒に持ってきていたワインオープナーでボトルのコルクキャップを外す。酸味の効いた鮮やかな匂いがふわりと鼻を掠めて、いい匂いだ、とそれを三口分くらい、ミカサのグラスに注いでやった。……それから自分のグラスにも注ぐ。
軽くグラスをぶつけ合って、ティンと優しく心地のいい音が弾けた。二人で不器用に笑い合い、それぞれで口に含む。
鼻に抜けるようなアルコールの痺れと、ワインの深い酸味を堪能して、俺はよし、と内心満足していた。舌の上に残る刺激的な辛味もお気に入りの特徴だ。……変わらずいつも通り美味しいこのワインを、今はミカサと二人で堪能している。その事実が何やら嬉しくて、柄にもなく頬が緩みそうになる。
ミカサを見やると、ミカサも、に、と控えめに笑って、グラスをテーブルに置く。そうしてちらりと俺をまた盗み見てから、匙を握り直した。おかずに戻っていったが、ワインを美味しく思ってくれたことはその笑顔でわかった。
俺もミカサに倣い、グラスを置いて、また匙を拾い上げてミカサの手作りのおかずに戻る。
「……昨日、アルミンが来た」
何かを思い出したようにミカサが切り出した。
「あ、おう。そういえば帰り際にすれ違ったな」
昨日のことを思い出しながら返すと、
「もうすぐ、この島に大使館ができる、って言ってた」
ミカサはさらにその話題を続ける。
「おう、計画は順調らしい」
俺もつい今日聞かされたことを振り返っていた。
……そう、大使館ができれば俺は、この島に常駐することになるかもしれない……アルミンが今日、言っていた。それについて、ミカサは、どう思うだろう。……喜ぶだろうか、煩わしく思うだろうか。確信が持てないままの俺は、ついにそれは尋ねられないままだった。
自分の皿に視線を落としていた俺の前に、また柔らかなミカサの声が降り始める。
「……アルミン、ジャンも、みんながんばってる……」
「はは、確かにみんな死に物狂いだ」
ミカサが何を言おうとしたのか深く考えず、軽口で返してやった。けれど、ミカサが力なく匙を皿に沈めたのを見て、俺はただならぬ感情の動きに気がついた。
「……その、私ばかり、平穏に暮らして……申し訳ないと、思っている」
はたはた、と俺は瞬きをしてその言葉を飲み込んだ。……ミカサは、そんなことにまで罪悪感を持っていたのか。
「そりゃあ気にすることじゃねえよ。みんな、お前には穏やかでいてほしいって思ってるよ」
だから勝手にではあったが、みんなの気持ちを代弁して伝えた。……いや、本当にみんなそう思っているのか確認を取ったわけではないが、少なくとも『ミカサはずるい』なんて誰の口からも出たことはない。
それでもミカサは伏せた瞳を上げることもなく、下げた匙を持ち直すこともなかった。
「……みんなは、優しすぎる……」
思い詰めたようにぼやくので、俺も一時は言葉を失ってしまった。……けど、みんなはどうかわからないが、俺がどう思っているのかは確信を持って言えたので、俺も匙を置いて、少し身体を前のめりに訴えた。
「いいじゃねえか。それだけお前は大変なことをした。おそらく、一生消えない傷を負って。……だから、みんなお前には平穏でいてほしい」
ふ、とミカサは顔を背ける。そこに見えた表情がくしゃりと歪むものだから、俺の心臓がどきっと跳ね上がった。
「……あ、わり、なんか気に障ること言ったか?」
俺の言葉はちゃんと届いたのだろうか。俺が望む形で、届いたのだろうか。……この長い年月を一人で過ごして、ミカサはおそらく俺の想像にも及ばないようなことまで考えたのだろう。何が傷つけてもおかしくはないと身構えるような気持ちになった。
けれどミカサはふわりと顔を上げて、それでいて、とても下手くそな笑みを浮かべて見せた。
「ううん……ジャンは本当に優しいから……」
その笑みはすぼすぼとしおれていく。
「甘えてしまいそうになる……甘えたく、なってしまう……」
ついに消えいった声につられて、俺はミカサをじりじりと見つめていた。――ミカサの目に自分がどう映っているのか、なんとなくだがわかったような気がした。
「……か、買い被りだ。みんなこんなもんだよ」
今度は俺が顔を背けて続けた。それに対してのミカサは、「そんなことない」としっかりと芯を持った声で反論する。
驚きに顔を向けると、さきほど俺がしていたようなまっすぐなじりじりとした眼差しで、ミカサは俺のことを見ていた。
途端にぶわ、と身体中が熱くなって、窮屈になったような気がして、俺はただ静かに「……お、おう」とだけ返しておいた。――こんな俺でも優しいと思ってくれているなら、それを無理に否定することもない。
二人だけの食卓に、沈黙の間が流れる。俺の中には充満した鼓動がうるささを発揮していた。……どちらの匙も止まっていて、どちらも互いの出方を探るように勘ぐっているような、そんな妙な沈黙だった。
「……あ、ごめん、」
先に沈黙を破ったのはミカサだ。慌てるように匙を持ち直して、
「どうかな……久しぶりに作った」
料理に対する感想を求められた。
それを機に俺も平常心を意識して、匙を拾い上げる。
「あぁ、美味いぜ。これお袋の味だろ? ミカサのお袋さんの味か?」
肉の塊と野菜の切れ端を匙に乗せて、それをはむ、と大きな口で頬張って見せた。
「いいえ、おばさんの……え、エレンの、お母さんの、味。教えてもらった」
にこ、とまた控えめにだけ笑ってくれる。思い出に愛おしさを感じているようで、ミカサがそれに満たされているのが見て取れた。それは、喜ぶべきことだろう。振り返って笑顔になれる記憶がミカサにもあるというのは。
「そうか。美味え」
既に伝えたことだが改めてそれを重ねて、もう一口頬張った。
「ふふ、よかった。気に入ってもらえて」
そのままミカサはその満たされたような表情で、俺がそれを食べていくのを眺めていた。……そんなに見られていると何やら照れくさいなと過り、ちらり、とミカサに目配せをした。ようやく気づいたミカサはハッとしたように匙を拾い上げて、
「……わ、ワインも、美味しい」
繕うように付け加えてから食を進めていく。
匙の次にグラスを持ち、残っていたワインを口に含んだのを見て、俺も見過ぎだったかと視線を外した。
「おう、俺のおすすめだからな。でも、ミカサの料理には負けるぜ」
「……ありがとう」
俺たちはそのまま、派手に盛り上がることはない、だが、静かに穏やかに流れる、そんな時間を二人で過ごした。
ミカサが準備していたデザートまで平らげ終えた俺は、ミカサも匙を置いたのを見て立ち上がった。
「ごちそうさま。ミカサ、皿は俺が洗うわ」
自分の手元にミカサが使った皿も含めて集め始める。
だがミカサはそれを黙ってみていることはせず、
「え、気にしなくていい。なぜなら、招いたのは私」
そんな俺を制止するように合わせて立ち上がった。
「はは、そうだけど。こんな美味えもんただで食わせてもらって何もせずに帰るのは、俺の性に合わねえよ」
準備してくれていたデザートとは果物のゼリーだった。しかも、大陸では滅多に食べられない果物だったため、これも大いに堪能した。……ワインも二人で何杯か飲んだので、いい塩梅で気持ちは浮いていた。
だから、そんな中で何もせずにはいられなくて、俺は使われた皿を丁寧に重ねていっていたのだ。――本当は、まだ帰りたくなかっただけなのかもしれない。
ミカサが皿を持ち上げた俺を見守り、それから思い切ったように口を開いた。
「……じゃあ、二人で洗おう」
「おう、そうするか」
俺はその名案にひょい、と軽々しく飛び乗った。
とりあえず俺が皿を運び、ミカサがワイングラスを持って、二人でキッチンに入る。ふわりと先ほど平らげたおかずの匂いがして、美味しかったそれを思い出した。
シンクに使用済みのお皿をゆっくりと入れ、それからミカサが隣からグラスもそこに入れる。
俺は着ていたシャツの袖をある程度まくり上げて、一通りそこに置かれた食器に水を被せていく。ミカサがいつも備えつけている皿洗い用のスポンジを手に持ち、洗剤をそれにつけて泡立てて、一つ一つの皿を洗い始めた。
ミカサも隣で同じように袖をまくり上げて、それを留め具で固定していた。
洗剤で汚れを落とし終えた皿を一つずつ、ミカサに手渡していく。ミカサがそれを水で流していき、俺たちは二人で肩を並べて皿を洗った。
その光景で蘇る記憶があり、俺はまた懐かしさをこの胸中に充満させていた。
「――兵舎での共同生活を思い出すなあ」
ちらりと盗み見たミカサは、もうあのときのように威圧的ではないし、雰囲気自体がかなり柔らかくなっていたが、それでもミカサ特有の落ち着きのようなものは変わらない。俺が好きだった黒髪もすっかり伸びきって、結ばれたポニーテールはよく似合っている。
「うん、思い出す」
ミカサも懐かしそうに小さく笑った。
俺は言おうかどうか迷うことがあって一時考えたが、気持ちが少し浮いていたこともあって、思い切って言ってしまうことにした。今なら言っても許されると……そう思った。
「……あのとき、俺さ、ミカサの隣で皿洗いできた回数数えてたんだぜ」
「え、そうなの」
わかっていたことだが、まったく見当していなかったという驚きの声が返ってくる。
「おう、訓練兵の三年間で、俺がお前の隣で皿洗いした回数は十三回だ」
自慢げに教えてやると、ミカサは少しだけ戸惑ったように顔を下げた。俺はそれを見逃さなかったが、
「……意外と多い」
ミカサが先にそれの感想を述べたので、見なかったことにした。
「そうか? 当時の俺からしたら、いつも歯噛みしてる感じだった。もっとお前に近づきたくてさ」
本当に懐かしい……あのころのミカサは、誰がどうみてもエレン一直線で、ほかのものは悔しいほど、それ以上に清々しいほど、目に入っていないのがよくわかった。……そして俺の気持ちもほかのやつには駄々洩れだったみたいで、よくからかわれていた。――それが今こうして肩を並べて、二人で夕食の後片づけをしているのだから……人生は本当に、どんな転換を迎えるかわからないものだ。
「……そう」
ミカサが心もとなく一言を零した。……俺と一緒であのころを懐かしんでいるのだろうか。……いや、思い出したくないことを思い出させてしまったかと少し焦った。何せあのころの記憶はミカサにとって、どれもこれもエレンで溢れているだろうし、つかの間の幸せだったのだから。
「……あのあと、調査兵団でも何回か隣になったから……今日で、ちょうど二十回目だな」
記憶の海から引っ張り戻すように、俺は今現在の話に無理やり繋げた。
「まだ数えてたの?」
「はは、もう覚えちまっててだめだ」
本当はもう数えていたわけはないのだが、今に繋げるのに最も自然な流れかと思ってそう言った。……それに、回数としてはそう外れてもいないだろう。
洗っていた最後の食器――ワイングラス――をミカサに手渡した俺は、自分の手についた泡を水で流して、その水分を拭き取った。ミカサもそのワイングラスの泡を流し終えて、濡れた食器を乾燥させる台の上に乗せると、本人の手もタオルで拭いていく。
その間沈黙していたミカサが、
「……ジャン」
俺のほうへ身体を傾けて、しっかりと瞳を覗き込んできた。そのまっすぐすぎる眼差しに、どきりと心臓を串刺しにされたような錯覚を得た俺だ。
「おう? どうした、改まって」
気持ち的には一歩怯んでいたのだが、実際には踏みとどまれたとは思う。
ミカサはそのまっすぐな眼差しのまま、それでも瞳をわずかに揺らして俺を見ていた。
「……ジャンって、本当に優しい」
「な、なんだよ急に」
慌てて返すと、ミカサはその視線を足元に落としてしまった。それから、何かに耐えるようにぎゅっと手のひらを握り込んでいたことに気づく。……ミカサは何に、こんなに耐えているのだろう……――疑問と同時に、俺がここにいることそれ自体に居たたまれなくなり、確証もないのに肝が縮んだようだ。
ミカサが静かに口を開く。
「私は今まで、エレン以外は見えていなかった。それがわかって……世界に対して、少し、申し訳なくなった。ジャンにも」
――ミカサが耐えていたのは……罪悪感……?
俺がここにいることがミカサを苦しめていたわけではないのだろうと思ったら、途端に縮んでいた肝が緩んだように感じる。……俺のせいではない、おそらく。……本当に? 自問は止まらず、それでも目の前のミカサを放っておくこともできず、俺は何とか言葉を探した。
「……ばか、その一途さがお前なんだろ」
けれど、ミカサが落とした眼差しは戻ってくることはなかった。
「……私は、どうしようもない……。……だから、今になって、まさか、……エレンがいなくなって、何に目を向ければいいのか、わからなくなって……もうずいぶん、空虚を見つめていたんだと、思い知った」
ミカサは自分の抱いていた気持ちを悔いている、のだろうか。エレンしか眼中になかったあのころの自分を、叱りたい気持ちを抱いているのだろうか。……そう思ったら、俺の中には『それは嫌だな』という答えが浮かんだ。本当に単純だった、俺は純粋に、エレンしか見えていなかったミカサが好きで、そんな一直線で、一途で、取りつく島もないミカサが、気高く見えて、尊くて、好きだった。……だから、そんな風にあのころのミカサ自身を悔いてほしくなかった。
「ジャン、」
ミカサの視線が俺に戻ってくる。
「お、おう」
返事は少し弱々しいものになってしまったが、ミカサにはそれはどうでもいいことのようだった。
「……もっと、近くで、あなたを見てみたい。今度こそ、ちゃんと」
じっと視線を捉えられる。あのころエレンにしか向けられなかった、この一途な眼差しが、今は俺を貫いているのだと思ったら、頭の中が真っ白になった。
「……ミ、カサ」
何を伝えたいのかもわからなくなって、名前を呼ぶので精一杯だ。
「ジャンは、優しくて、頼りになる。とても温かな視線で、私を見守ってくれる。……たったこの三日で、これだけのことを知った」
向けられる眼差しが俺には強すぎて、どんどん吸い込まれていく。身体の中に甘い期待が入り込んできて、制御が効かない代わりに身動きが取れなくなっていた。
「……触れるときの、優しさも」
それだけを零して少し目を伏せたミカサが、あまりにも透き通っていて、きれいで……びりびりと俺の中には衝動が生まれていた。
まるでミカサに懇願されているように錯覚した、また、その唇に触れること。なぜそう思ったのか、ミカサが待っているような気がして、誘われるがままに俺はミカサの頬に触れていた。柔らかな肌が指先に触れて、どきどきと鼓動がうるさく叩きつけてくる。
その手をミカサは握り返して……、それからゆっくりと瞼を下ろすから……。そうか、やはり俺は待たれていたのかと、虚を突かれるように息を呑んだ。ミカサに触れることが、今の俺には許されているのだと知って、一気に感情がこみ上げてくる。
ゆっくり、触れるだけのキスをした。
……触れたあと、少し離れてから瞼を上げると、目の前のミカサはぐっとその表情を歪める。それを急いで隠していたが、その仕草でまた俺はどきりと焦燥を抱いた。……ミカサに、負担をかけてしまった……のか。
それなのに、どういうわけか、ミカサは俺の手を慌てるように掴んだ。ぎゅっと力強く掴まれたことで、俺の焦燥はどうしたらいいのかわからない動揺へと変わっていく。
「――〝あの日〟、エレンと一緒に暮らす夢を、見た」
声を震わせたミカサが、ぽつりぽつりと言葉を奏で始めた。
「夢だったのか、妄想だったのか……道、だったのか。現実ではないことだけは、確かで」
必死に伝えようとしているその話をしっかり聞き漏らさないように、俺はじっとミカサの伏せられた瞳を見つめ続けた。
「そこで私は、エレンとたぶん、抱き合って、キスもした……」
どきどきと、鼓動がひどく脈打つのをやめない。
「けど、そのどれも、この身体は知らない」
ミカサが顔を上げた。はらはらと水っぽくなった瞳の中の光を揺らして、それでも途切れることなく、一生懸命に俺に言葉を聞かせる。
「エレンと、そうした時間は、私の頭の中だけにしかなくて、確証もなくて、曖昧で……っ」
瞳の中に溢れていた涙が固まって、じわりとその目尻を濡らしていくのを、うるさい鼓動の中、いやに冷静に見ていた。
「――いっ、今はまだ、エレンとは、こんな風だったのかなとか、考えてしまう……、」
ぐっ、と喉の奥から息が漏れる。誰に向かってこの話をしているのかを思い出したように、また視線が落ちていった。
「……おう」
一応の相槌を打ってやった。
ミカサが握っている俺の手に、またぎゅ、と力が入る。そんなに握らなくても俺は逃げないのに、まるで何かに怯えているようだった。
「……けど、エレンの感触はっ、わからないままで。今、ここで、優しくキスをしてくれて、温かな眼差しをくれているのは、ジャンだって、ちゃんとわかるようになった」
言葉が一時滞る。少しの間を置いて、呼吸を整えてから、またミカサはその顔を上げた。
「……もっと、知っていけたら、って、思う」
「……うん」
ミカサの中ではきっと、今、感情がぐちゃぐちゃと入れ混じっているのだろう。……エレンへの思慕、俺への懺悔、変われないことへの焦燥、変わることへの恐怖。言葉を紡いでいくことでそれを一つずつ紐どいて……そして何より、俺にそのすべてを曝け出してくれている。――それはおそらく、悪感情によるものではなくて、きっと希望や期待や、勇気の表れなのだと感じた。
ミカサは本当に、前に進もうとしている。それが胸の中に染み込むように、深く実感めいたものを抱かせた。
静かに見ていたミカサが、また自信もなげに言葉を切り出す。
「さっき、ジャンは……マフラーは巻いたままでもいいって……それがお前だって、言ってくれたから……私、とても安心してしまって、」
そこで言葉を止めた。――『安心してしまって』……そのあとに秘めた言葉はなんだったのだろう。
「……いっぱいしゃべって、ごめんなさい……」
だが、ミカサはそれを伝えることはなかった。
「その、ジャンのことを、もっと、知りたい……って、言いたかった……だけ……」
もじもじと言い終えたあとも、俺の手は掴まれたままで、そのせいでミカサの身体が強張っているのがわかる。不安げに逸らされた視線もまだ揺れている。
……まさか、こんな俺にどう思われているのかを、気にしているのか。
昨日も『期待してはいけない』と自戒したが、目の前のミカサを見て、その訓戒は上手く働かなかった。
もしかして、思っていたほど俺の気持ちは利用されているわけではないのかもしれない。純粋で一途なミカサのこの気持ちは、きっと昔と変わらず純粋で一途なのだ。……今はまだ必死で、不器用なだけで。
そう思ったら、もうミカサのすべてが眩しくて、愛おしくて……、俺はそんなミカサが必死になって伝えてくれた気持ちを、丸ごと受け取ることにした。
ミカサが執拗に握りしめていた手を握り返して、
「……そっか。サンキューな、ミカサ。大事な気持ち、話してくれて」
反対の手で、そのまあるく愛おしい頭を撫でてやった。ぐっ、とまた少し吐息の乱れが聞こえてくる。……そんなに必死にならなくても――もっと肩の力を抜いてくれてもいいのに、とその震える肩を見て思った。
「……何回も言ってるけどよ、焦らなくていいんだ。今さら俺も逃げたりしねえし……そう思ってもらえたことは、正直に嬉しいよ。ありがとう。もっとゆっくり、時間をかけていこう」
下ろしたほうの手で、さらにミカサの手のひらを覆った。できるだけ優しく、慈しむように。
するとミカサは少しだけ伏せていた顔を上げて、
「うん……うん、ジャンは、本当に優しい」
ぽとぽとと涙を落としながら、うすらと笑っていた。
――ミカサは、よく泣くようになった。……いや、俺はわかっていた。それは〝俺の前で〟だけだと言うことを。ミカサは俺の前でだけ、よく泣くようになった。
***
私はいつも座っている木の陰で、今日も座り込んで途方に暮れていた。
昨日がエレンの十回忌で、みんなで集まって、土砂降りの中で私の小屋でわいわい騒いで。……そのあと、ジャンは気持ちがいつまでも整わない私を待っていてくれて……そうして私は、ジャンに無理強いをした。エレンに心配をかけたくないと、その一心で、ジャンに無理強いをした。
そう、私が考えていたのは、エレンのこと。――昨日のこと……ジャンのこと。
「エレン……」
返事はくれないエレンの依り代に、今日も語りかけてはその声を渇望した。――〝あなた〟の声を聞きたいのに、聞こえてしまったらいけないような、そんな不安定な情緒の中に今日も息を切らして溺れている。
組んだ腕の中に顔を埋めた。
「……昨日……ジャンと、キス……した……。エレン……これで、よかったの……? ねえ、エレン……」
やはり今日も〝エレン〟は応えてくれない。そんなこと、わかっている。エレンの気持ちも今は憶測することしかできない。けれどエレンは生前、言っていたから……俺がいなくなったら自由になってくれ、と。それを考えれば考えるほど、きっとエレンは、ずっとエレンに依存している私を、もどかしい気持ちで見ている。
――『嫌いだった』――本心ではなかったにせよ、それでも一度聞いてしまったその声つきが頭の中にこだまする。
……私はエレンから自立しなければならない。……もういい加減十年だ。わかっている、私はエレンに固執しすぎている。……でも、それほどに私は、エレンが大切だった。今さら、私の中のエレンをなかったことになんてできない。
この気持ちの狭間でさ迷って、幾月も過ぎていた。心が晴れることはなくて、エレンと決別しなければと思えば思うほど、そんなの嫌だと心のどこかで泣き喚く幼い自分がいる。
――ジャンにも悪いことをした。……昨日はどうにかしなくてはと頭がいっぱいで気づけなかったけれど、今日冷静に思い返して、自分がやってしまった残酷なことに気がついた。
ジャンは、優しかった。ずっと頼りになる人だと思っていたけど、こんなに優しい人だったんだなんて、初めて知った。……私は今まで、ジャンのことをまったく見ていなかったんだと、殴られるように思い知った。――私は、ずっとそばにいてくれたジャンに今さら気づいて、そしてジャンのその優しさを……言ってしまえば、利用しようとしたのだ。
エレンにまだしがみついていたい気持ちを抱いたまま、それをジャンの優しさでかき消してもらおうとしたのだから。……そんなのあんまりだ。わかっている……今ならわかる。ジャンに対して、不誠実な態度をとってしまった。謝りたい。謝って、なかったことにしたい。
そう思ったときに、昨晩の優し気なジャンの眼差しが思い出される。……なかったことにしたいと思う反面、触れてしまった優しさに、私は否定できない渇望のような感情を抱いていた。ジャンが向けてくれた柔らかな眼差しは、驚くほどだった。……こんな風に伝えられる気持ちがあるのだと、初めて知った。
――エレン、ごめんなさい。
また心の中がぐしゃりと潰れる。
エレンを一番に想っていたい自分と、それはもうやめなさいと叱責する自分と、ひと思いに楽になりたいと嘆く自分と、もっとちゃんと世界を――ジャンを、見てみたいと思う自分と……いろんな想いが潰し合って、いつまで経っても居心地が悪かった。
私は自分の腕の中に顔を隠したまま、ついに抑えられずに感情を沸き上がらせていた。じん、と目の奥が熱くなって、必死にエレンを思い出そうとする。マフラーを巻いてくれたエレン。マフラーを何度でも巻いてくれると、諭してくれたエレン。……マフラーを、巻けなくなってしまった、エレン。
ぼとりと、重たい涙の粒が、足元に落ちていった。
私はどうするべきなのだろう。……どうしたいのだろう。わからない、何も、わからない。考えたくない。エレンを忘れて立ち上がらなければいけないこと、わかっているのに、そんなことしたくない。いつまでもエレンの隣で座っていたい。私はそれだけでいい、それだけでいいのに、〝エレンが〟それを許してくれない。苦しい、どうしたらいいのか……誰かに教えてほしかった。そしてその〝誰か〟が、――ジャンであるなら、信頼できると思った。だから昨日、縋った。無理やりに縋りついた。――最悪だ、ああ、また堂々巡り。
「――よお、ミカサ」
唐突に声が降ってきて、思い切り息を吸い込んだ。この声は誰のものなのかすぐにわかって、
「……じ、ジャン」
顔を上げて、その人の姿を確認した。……間違いなかった、ジャンだった。
その顔を見た途端、昨日の自分が過る。気が進まないと言っていたジャンに、無理にキスをせがんだこと……それを思い出して、また奥底から罪悪感が込み上げた。
もうすぐ日が暮れそうな時分になっていたことに気づいて、その景色の中に柔らかく佇むジャンを目にして……私は耐えられなくなってしまった。そのまま顔を落として、ぎゅっと自分の殻の中に閉じこもった。止めどなく沸き上がってくる罪悪感が、喉を押しつぶして上手く言葉を紡げない。……謝らなくては、昨日のこと。謝って、間違いを正さなければ。
「あの、ジャン」
なんとか言葉を紡ぐことができた。
「……昨日は、ごめん、なさい……」
やはり声の震えは止められなかった。こんなことでは同情されてしまう。違う、私はジャンにひどいことをした。だから謝りたいだけなのに、これではまた、ジャンに〝優しさを使わせて〟しまう。
「……謝らないでくれよ」
私の前に立ったままのジャンは、それだけを私に言った。――ジャンはどういう気持ちだろう。私に幻滅しただろうか。
ジャンがくれたその一言では、その心の内まで読み取れなくて、私は力なく「……ごめん……」とまた風に混ぜるように呟くしかなかった。
「いや、いいって。それより、大丈夫だったか……?」
ぐっと、またしても罪悪感が込み上げる。
優しい声使い……また、ジャンに、その優しさを使わせてしまった。ジャンの気持ちも考えないで私、ひどいことをしたのに……ジャンは、そんな私に「大丈夫だったか」と問う。
何もかも大丈夫ではない。……もう私は、どうしていいのかわからない。けれど……そんなこと、ジャンには言えない。また堰を切ったように感情が逆流してしまう……その優しさに、縋ってしまう。
逃げ場所を探して自分の身体を抱えた。
しかしジャンは、押し黙ってしまった私を放っておいてはくれない。短く「ミカサ?」と名前を呼ばれて、私はまた追いつめるような焦燥から顔を背けようとした。――でも、だめだ。ここで逃げてはだめ……ちゃんと、今と向き合わなくてはいけない。これ以上ジャンに不誠実な態度を取らないためにも。
「……ジャン、」
だから、また思い切って声をかけた。逃げ出したい気持ちを必死に抑え込んで、
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
心から溢れる言葉を懸命に伝えた。
「……おう」
ジャンの相槌が耳に入って、それを聞いたら、途端にまた、情緒が決壊した。私がどうして昨日、あんな行動に及んでしまったか、弁明しなければならないという気持ちもあり、また、この苦悶の胸中を聞いてほしい衝動もあった。
「どうしたらいいか、よく、わからなくてっ」
「……うん」
「どうしたいかもっ、わからなくて……っ」
「……おう」
気づけば助けを求めるように叫喚を上げていた。胸の中が苦しくて、止めどない。止めどなく溢れる想いが、私を飲み込んでいく。――エレンから離れたくない。まだ、ここにいたい。何も考えたくない。顔を上げたくない。――そんなみっともなくもがくような感情が、次々に溢れてくる。
昨日ジャンにキスをせがんだのだって……こんな感情の中でそれを出し抜こうと思ったからだった。……最低だ。
「――ジャン……だめ、やっぱり私、まだ、だめみたい」
これではいけないことがわかっているのに、自分の弱さに負けてしまう。どうしていいのかまたわからなくなり、頭を抱えた。このまま時が止まってくれればいいのに。そんな非現実的なことさえ思ってしまう。
さわり、さわり、と芝生を踏みつける音がいくつか耳に触れる。その音と気配から、ジャンが隣に腰を下ろしたのがわかった。――その刹那にふ、と心に緊張感が走って、溢れていた感情が唐突に動きを止めた。まるで息を潜めるように、五感のすべてがジャンに向く。
「……昨日も言っただろ? そんなお前を誰も責めやしねえよ」
まただ、また、とても優しい声使い。こんなに優しくされたら、簡単に折れてしまいそうだ。……だって私は、わかっているのに。
無意識に鼻をすすってしまい、不格好な音が鳴ってしまった。それでもそれを気にする余裕も持てず、私は少しだけジャンのほうへ顔を向けた。
私はジャンの真意を確かめなければいけなかった。……だって私は、わかっているのだから。
「本当に? ……もう、あれから十年も経つのに? ……私は前へ……進まなくては、いけないのに?」
ようやくジャンの眼差しに辿りついた視線で、その真面目な面立ちを捉える。ジャンは嘘を知らないような真剣さで私を見返していて、
「誰が決めたよ」
すう、と息を吸った。
「別に進まなくていいんだよ。お前がここにいたいなら、誰もお前を引きずり回したりしない」
確かな芯を持って、そう私に諭した。
――いいの、ここにいて?
瞬時に脳裏を過ったのは案の定、私の決意を折ろうとする思考だった。……エレンは前へ進んでほしいと思っているはずなのに。それでもここにいたいと願う私を、無条件に肯定するような言葉――甘く、優しい。安心する。気が緩んでしまう。そのせいで、呼吸が激しく乱れた。身を委ねてしまいたい。そう唆す誰かがいる。
……けれど、それでは、だめなのだ。そう、私は、わかっている。
ジャンがいくら甘い言葉をかけてくれようとも、私に前へ進めと促しているのは、私の中のエレンで……その声を聞かなかったことには、とうていできないのだから。
ぎゅう、とまたぶつかり合う想いが込み上げてくる。苦しい、痛い……心が、痛い。
「……っ、うぅ、だめ、それじゃあ、だめっだから、」
こんな風に決意を折らないでほしい。私に甘い言葉をかけないでほしい。本当は喉から手が出るほど縋りたいその言葉を、そんなに簡単に与えないでほしい。エレンの想いをまっとうするためにも、私はここから立ち上がって、歩いていかなければならない。
涙が溢れども溢れども止まらなかった。ひく、と何度も喉が鳴って、ジャンが隣で静かに聞いていたのに、それでも涙は止まるところを知らなかった。ぼたぼたと溢れる涙で目が燃えるように熱い。
胸の内で騒ぎ立てている互いに相反した感情が、そこで渦を巻くばかりだ。エレンを置いていきたくない。エレンを、手放さなければいけない。
「……ミカサ、」
私の嗚咽の間に、ジャンの落ち着いた声が滑り込んだ。
ふと我に戻って、なんとか「う、んっ」と顔を上げた。ジャンはただ冷静に私のことを見ていて、
「……大陸に帰る日時が決まったから、それを伝えにきた」
これまでの私のみっともない姿をなかったように、自然にそう告げた。
――ジャンが、大陸に……帰る……?
それを脳みそで理解したのは、一拍遅れてからだった。
……私は、ジャンが伝えたいことがあったにも関わらず、何を自分のことばかりで泣いていたのだろう。とんでもなく自分勝手なことをしていたことを悟って、
「……え、あ……わ、私、またこんなに泣いて……、」
慌てて自分の衣服の袖で、涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭った。
「ごめんなさい…………も、もっと、しっかりしなくては……」
こんなことでは、ジャンに呆れられてしまう。
私がみっともなく泣いていたことを一度なかったことにしてくれたジャンに向けて、私も少しだけ強がって笑って見せた。上手く笑えていなかったことは自覚したが、それをやらない理由がなかった。
けれどそのあと、ジャンは私を見て言葉を飲み込んでしまったようだった。……あまりにも不格好だから、かける言葉も見当たらないのかもしれない。……なんて救いようがないのだろうと自らを嘲った。
だからこそ口を閉ざしてしまったジャンを前に、この沈黙をなんとかするのは私だと、思い切って口を開く。
「……ジャン、今日は来てくれて、ありがとう」
「あ、おう」
昨日、あんなひどいことをしたのに、それでも気にかけて様子を見に来てくれたこと。そして、泣いている私の隣で静かに弱音を聞き続けてくれたこと……それらは本当に、ありがたいことだった。
「……その、俺はまたしばらくいなくなるからさ、余計なこと気にせずに過ごせよ。近くにいてやれねえのは残念だが、また、その内様子見にくるから」
こんなにも醜態を晒しているというのに、ジャンはそれでも私のことを、これからも気にかけてくれるらしかった。……こんな私のために、とまた申し訳なさがじりじりと上ってくる。……ただひたすらに優しい気持ちを降らせてくれるジャンを、私は昨日、利用しようとしたのだと思い出して、またぐっと胃の底から罪悪感が込み上げた。
そう、私は、もっとちゃんと、正面からジャンと向き合いたい。後ろめたさを抱かなくて済むくらい、素直な気持ちでジャンを見てみたい。ジャンがこの長い年月、ずっと私にそうしてくれていたように。……これは、ジャンの気持ちを利用しようとしたことへの、罪滅ぼしのような気持ちなのだろうか。
……自分のこんな気持ちをどう受け止めたらいいのかも、ろくにわからなかった。どうすればそれが叶うのかも。途方に暮れるような気持ちになったせいか、また自分の腕の間に顔を沈めて足元を見やった。
もっと、ジャンと過ごす時間を作ればいいのだろうか。……そう思い至った私は、深く考えずに尋ねていた。
「大陸に戻るのは……いつ?」
「おう、それは、明後日だけど」
明後日。……ということは、明日ならまだ、機会があるのではないだろうか。
「……じゃあ、明日は、時間ある?」
続けざまにそう尋ねてやると、
「おう。夕方以降なら時間取れると思うが」
まるで疑問符を浮かべるような顔つきでそう返された。
よかった、明日少し会う時間が作れそうだと言う。
「なら、明日、待ってる」
そう言ってから、私は動機に欠けていることに気づいた。
「一緒に夕飯を食べるのはどう」
そしてしっかりとジャンの反応を見る。こんな腫れぼったい顔で夕食に誘うなんて、と少し気恥ずかしくなったが、それよりも私にそう言われて、ジャンはどう思うだろうと気になった。
すると驚いたように目を見開いて、
「どうって……そりゃ、俺は構わねえけどよ。お前は、その、いいのか?」
心配そうに尋ねた。やはり私のことを気遣ってくれている。……ジャンは、本当にひたすらに優しいのだと重ねて思い知る。
「うん。大丈夫」
……そうだ、大丈夫なようにしておく。明日会うまでに、もう少し気持ちを整えておけばいい。
だから、断らないでほしい、そう懇願するようにこの眼差しに想いを込めた。……いろいろと考えているようだったけども、最終的にはジャンも、ふう、と力を抜くように息を吐いた。
「……わかった。お前が言うなら、その言葉に甘えるかな」
そして、ほんのわずかだけ、その表情を柔らかく綻ばせた。見えた笑みがどうしてか私を少しだけ嬉しく、軽い気持ちにさせた。
「うん。ご飯作って待ってる」
合わせてそう告げると、ジャンはしばらくもごもごとその口元を居心地悪そうに歪めていた。それから一度空を見上げて、しゃっきりと、元の芯のある顔つきに戻った。
「じゃあ、また明日な」
のそのそとその場で立ち上がるジャンをこの目で追う。
「うん。気をつけて帰って」
寄せ集めの笑顔をまたなんとか浮かべて、私は歩き始めたジャンを見送る決意をした。
ジャンが自分の帽子を被り直して、
「おう。お前もあんまここに長居して風邪引くなよ」
私に優しく諭すように頭に触れる。――その手つきも、昨日触れられたときのように優しくて、どきりと胸の内に変な感覚が走る。
「……わかってる」
それを気のせいだと自分で流して、背中を向けたジャンに応えた。
ジャンは数歩先でこちらに振り返り手を振ってくれて、私もそれに手を振り返した。
だんだんとジャンの影が丘を下っていく。……見えなくなっていく。それでも私はここから、ジャンの姿が見えなくなるまでずっと目で追っていた。
すっと、私の脳裏にエレンが過る。
――エレン、これで、よかったんだよね?
慌てるようにそう思い浮かべて、ちらりと、ずっと私の隣で鎮座してた依り代に目を配った。ジャンをもっと知るために、夕食に誘ったこと――エレンへの裏切りにはならない、はずだ。再びじわじわと蝕み始めた罪悪感を覆い隠そうとする。
……そこからずっと聞いていたのなら、私がしたことが正しかったのかどうか、教えてほしい。切実に。……それでもやはり、この十年一度も変わらず応えてくれなかった依り代は、例外なく今日も応えない。
……ぎゅっと膝を抱えて、またその腕の間に顔を埋めた。
それからそう時間は経っていなかったと思う。
今度は誰かが丘を登ってくる足音に気づいていた。ただこんな時間にこんな場所にくる人なんて限られていたから、別に取り繕って顔を上げなくてもいいかと、そのまま項垂れていた。
足音が目の前に来て、そこで立ち止まる。そろそろ顔を上げようかと気力を集めている間に、
「……ミーカサ」
この私のひどく狭い世界で、最も気が許せる相手の声がした。……思った通りだった。
ようやく集まった気力で顔を上げれは、いつもの軽く穏やかな笑顔でアルミンはそこに立っていた。
「……アルミン」
「どうしてるかなって思って」
何を気にするでもなく、アルミンはつい今しがたまでジャンが座っていた場所に腰を下ろした。
「今日も一日ここにいたの?」
問われた事柄に、唐突に身体が強張った。
「……う、うん」
別にアルミンに責める意味はないことはわかっていたのに、私自身がそれを聞かれて居心地が悪かった。――そう、私は、この期に及んでここに一日中入りびたるような、どうしようもなく意思の弱い人間なのだ。
誰も口にしていない罵倒が聞こえるようで、縮こまって身を守った。
隣に座るアルミンは、それでもあっけらかんとした調子のまま、「そっか。エレンも喜ぶよ」と私に言った。
――それは、本当だろうか? アルミンの言葉を聞くとたちまち、私の心の中がざわついた。……ここからいつまでも離れられないでいる私を、エレンが喜んでいる? 私にはそれが到底イメージできなくて、「……エレン、呆れて、ないかな」と思わず零していた。
「……ん?」
はっきりと尋ねる勇気が持てず、聞こえないくらいの小声になってしまっていたけれど。
「……なんでも、ない」
それに対してのはっきりとした答えはほしくなかった。「絶対喜んでるよ」と言われても、どの道「そんなはずない」とかき乱されるだけだろうし、「いや呆れてるね」と言われたところで、「やっぱりそうか」とひどく途方に暮れるだけだろうから。その答えは、自分が一番痛感しているからいいのだ、今さら。
「昨日は大変だったね。みんな来てくれて楽しかったけど。疲れてないかい?」
アルミンが空気を改めるように声を弾ませた。
私も項垂れていた頭を持ち上げて、気を取り直すようにアルミンを見やる。
「私は、そんな柔ではない」
「はは、確かにそうだ」
軽く笑ってくれるから、それはとても居心地がよかった。アルミンの穏やかさは変わらないなと、どうしてか胸の内が窮屈になる。懐かしさが溢れていたのだ。
「……あ、そういえばさ、」
「うん?」
「もうすぐ連合国の大使館ができるんだ」
アルミンが流れる雲から私に視線を戻して教えた。
それがどれほどの意味を持っていたのかわからなかったけど、とりあえずアルミンは嬉しそうだったので少しほっこりとした。
「駐在できる場所なんだけど、そこで、ジャンとコニーには常駐してもらおうと思っているところなんだ」
ふと、アルミンが続けた言葉が私の心に引っかかる。……この島に常駐するように……なる……? ジャンが?
同じくしてアルミンも何かを窺うようにそこで一度言葉を止めた。だがその間の意味を理解していなかった私に、何事もなかったように「二人はこちらに家族がいるしね」と付け加えて聞かせた。
何がこんなに私の意識を奪うのか、自分でも不可解だった。「……そう」と相槌だけを打つに留めたのはそういう理由だった。
――ジャンも、この島に常駐するようになる。それが引っかかったのは理解できたが、このさわさわとした心地は何だろうと顔を伏せた。居心地が悪い……わけでもない。ただ、なんとなく、ざわつくような感じだ。
「……ミカサももし時間を持て余してるなら、何かすること見つかると思うし、いつでも声をかけてよ。ぼくがいない間の取りまとめはジャンにやってもらうつもりだしさ」
それを聞いて、また疑問が降って湧いた。
「……アルミンは、常駐しないの?」
確かにアルミンはジャンとコニーに対して「こちらに家族がいるから」との理由を述べていたけど、アルミンだってここが故郷なのは同じだ。……それは、血の繋がった家族はいないけれど。それなのに、アルミンはこの島に残らないのかと気になった。
けれど答えはどうやら明白だったようで、アルミンは「うーん」と苦笑を漏らしたあと、
「ぼくは大陸側で他の国との橋渡しもやってるからね……ここに常駐してっていうのは、できないかな。残念だけど」
片手で頭を抱えて、それを仕方なく受け入れているような格好を見せた。
けれど、幼いころからずっと壁の外に行きたがっていたアルミンのことを考えると、大陸もきっと嫌ではないのだろうと綻んだ。どこにいたとしても、アルミンが満足ならそれでいいかと思い直した。
「そっか」
「うん」
互いに気を使わない簡単な相槌を交わして、私たちは小さく笑い合った。
――それからそのアルミンの満足そうな顔を見たときに、ちらりと浮かぶ顔があって、そういえばと私は息を吸った。
「アニは、元気?」
何の前触れもない会話の転換に一時驚いたようだったけど、
「……うん? 元気だよ。昨日会わなかったっけ?」
すぐそう答えてくれた。
アルミンの言う通り、昨日のエレンのお墓参りにもアニは顔を見せてくれていた。
「……会った。けど、ゆっくり話せなかったから。顔を見ただけ」
相変わらず小柄な彼女は、相変わらずきっちりとそのスタイルを決めていて、見ている限りでは普段通りの凛々しい彼女だった。けれど、見てくれではわからない何かはあるかもしれなくて、私はそう尋ねていた。
「そっか。……まあ、相変わらず真面目にがんばってるよ、アニは」
教えてくれた声が少し緊張感を持っていたように思えて、どうしてだろうとその目を見返した。
するとそのままアルミンは落ち着きなく視線を泳がせ始めて、もごもごと何かを言い迷って、
「……その、ここだけの話……なんだけど」
「うん」
思い切ったように顔を上げた。――その顔は茹でたロブスターやタコみたいに真っ赤になっていて、さらに興味津々になる。
「み、ミカサだから、話すんだからね?」
「うん。なあに?」
何度も念押しする言葉が煩わしくて、情緒もなく促してしまった。
アルミンはというと、今度はその両手でもじもじと遊び始めて、緊張を紛らわせようとしていた。
「……その、今度、アニにプロポーズ……しようと思ってて……」
面食らって目を見開いてしまった。――最愛の幼馴染……いや、家族が、新しい出発点に立とうとしているのだと聞いて、私まで高揚してしまった。……そんな、そんな……それは……とても、嬉しいことだ。
「結婚するの? おめでとう」
「……はは、気が早いよ。それに、まだわかんないし……アニ次第だから……」
そうやって自制しようとするアルミンを見て、いじらしいなと心が綻ぶ。そんな風に自衛しなくても大丈夫だろうに。
「……きっと、いい方向に向かう。なぜなら、アニはアルミンが大好き」
迷い一つなくそう肯定してやると、
「はは、だといいなあ」
アルミンはまた穏やかに、愛おし気に笑みを零した。……なんて素敵な光景なのだろうと思った。人が人を慈しむこと、それを今アルミンは体現しているようで――心の底に押し込んでいる膿のようなものが、じく、と疼いた。
「……ありがとう、ミカサ」
「ううん」
それを私は気づかなかったことにして、アルミンには笑顔を見せ続けた。……アルミンが幸せを掴もうというのなら、それは嬉しいことであり、応援したいことでもあって、それが変わることはない。
そう、嬉しいことだ。幸せになってほしい、アルミンには。私たちの幼少をすべて覆すような、そんな素敵な家族を築き上げてほしい。私には応援することしかできないけど……それでも、いつでもそれを願っていく。
「……ミカサも、いい方向に、向かうよ、きっと」
「え?」
一つも警戒していなかったところから、アルミンが言葉を取り出した。
――私も、いい方向に?
疑問符が大量に溢れて言葉を失った。
私の向かういい方向とは、いったいどこなのだろう。アルミンは、何のつもりでそう言ったのか。
「じゃあ、ぼく、そろそろ帰るね」
ついにアルミンは私に答えをくれないまま、その場でいそいそと立ち上がり始めた。
どういう意図だったの、と尋ねるのがなんとなく怖くて、勇気は固まらないままだった。
「……あ、うん。私もそろそろ小屋に戻らないと」
何も思わなかったことにして、アルミンに続いて立ち上がる。アルミンが見上げるからつられてそうしたら、既に空は深い藍色に変わっていて、
「そうだね。星が見え始めてるし」
アルミンの言う通り、一番星は今気づいたの、とでも言いたげに瞬いていた。
「そこまで一緒に歩こうか」
「うん」
誘われて隣を歩く。一目だけエレンの墓標に視線を乗せて、また来るね、といつもの挨拶を心の中だけで済ませた。
しゃわ、しゃわ、と芝生を踏みしめるいくつもの音が、先の見えなくなった空に飲み込まれていく。丘の麓の家々は、まるで標のようにそれぞれ光を灯していた。
「……ぼくたち、明後日大陸に帰るんだ」
唐突に思い出したのか、アルミンがまた新しく切り出した。
「うん。ジャンから聞いた」
「……そっか。さっきすれ違ったよ。やっぱり話をしてたんだね」
アルミンにそう言われて初めて、ジャンと二人で会っていたことをなんとなく後ろめたく思ってしまった。
「うん。その、大陸に帰ることを、伝えに、来てくれた……みたいで」
他意はないと言い訳したいのは、誰に対してだったのだろう。……アルミンに対して? それとも、自分? 無意識にマフラーを掴んでいたことに気づいて、たちまち動揺が浮き彫りになり……――言い訳したかったのは、どこかから見ている、エレンにだったのかもしれないと、息が苦しくなった。
ちらりとアルミンが横目で私を見る。
「そうなんだ。ジャンは本当に、ミカサを気にかけてるね」
アルミンがそう笑ったと同時に、この胸にドッと衝撃が走った。それは、ジャンに優しく頭を撫でられたときに感じたような、妙な感覚によく似ていて、私はとっさに顔を隠そうと俯いてしまった。
「……そんなんじゃ、ないと思う……」
ぐらぐらと視界が揺れているような気がする。どうして、どうしてこんなに動揺しているのだろう。
「え、ミカサ?」
強く驚いたような声がアルミンから聞こえたので視線だけを上げてみると、アルミンはまじまじと私の顔を覗き込んでいた。
「もしかして、赤くなってる?」
指摘されると、さらに動揺が増幅した。ドッドッと脈拍が上がって、顔面が熱くなる。わけがわからない……これは、どういう状況なの。なんで私は、こんなことで赤面しているの。
「き、気のせい。暗いから」
慌てて取り繕うと、
「……ふふ、そうだね」
アルミンはこれっぽっちもそう思っていなさそうな声で同意を示してきた。違う、本当に、そんなのではないのに。どうしてだろう、強く反論すらできないまま、私の小屋の前に到着してしまった。
*
私はせっせとキッチンに立っていた。
昨日ジャンを夕食に招いていた私は、満足してもらえるようにと夕飯の支度をしていた。デザートは朝一番に決めていて、午前中の内に作っておいたので抜かりはない。
夕飯については始めはどんな料理にしようかと迷っていたが、ふと古いメモのことを思い出して、なんとなしにそれを作ることにした。
……昔、まだ私がエレンとその家族と暮らしていたとき。分け隔てなく、自分の子どもと平等に接してくれていたおばさんが、あるとき教えてくれた、おばさんの味。……とても温かくて、美味しかった、あの思い出。……それを再現するように張り切ってしまった。
キッチンにバターの深みのある香りが充満していく。懐かしさに胸が躍って、あのころの思い出に感慨深さを抱いた。……私が作る番がきたのだ――相手は、エレンではなかったけれど。
ぎゅ、とまた胸が苦しくなって、私は無意識に触れていたマフラーに気がついた。エレンのことを思い出すとそれに触れるくせがついていて、その度にまた触れていたと自分を叱る。……いや、そもそも、こんなものをいつまでもつけている時点で、私の深層なんてわかりきったことだった。
――ジャンが来たら、マフラーは外そう。意を決するように、私はそれを腹に括った。……私のエレンに対する執着を具現化したようなこのマフラーを、ジャンの前でつけているのは、ジャンに対して不誠実な気がしたからだ。……一昨日みたいな、あんな、自分勝手な不誠実な態度でジャンと向き合いたくなかったから、私はそう決断した。……できる、きっと。エレンも、許してくれる……応援、してくれる。
……けれど、ジャンが来るまでは……もう少しの間だけは、つけたままでいいだろうか。
ぎり、とまたこの胸中が軋む。思わず胸を押さえて……、それから自分を落ち着けるように深呼吸をした。
頭に過ったエレンのぶっきらぼうな姿を払い落として、私は調理していた鍋の火を止める。ジャンが来たらマフラーは外すから、とまたしても自分に言い訳して、キッチンに置いてある置き時計に目をやった。
――もう時期ジャンが到着する時間だろう。
私は居間に出て、食卓を整え始めた。ランチョンマットを引いて、それから使う予定の匙をそれぞれ設置して。飲み物は水でいいだろうか。部屋の中で、ジャンが気になりそうなものはないか。
きょろきょろと忙しなく家の中を見回す。私が招いたのだから、責任を持って楽しんでもらわなければとぐっと気合を入れる。
こと、こと、と玄関前のバルコニーの床板が鳴って、誰かが近づいていることを知らせた。――ジャンだ。確信を持って玄関のほうを見ていると、そのままコンコン、と優しく扉をノックする音に変わった。
どき、と瞬く間に緊張感が走った私は下手な呂律で、はい、と声をかけ、扉の向こうからもジャンだ、と声が返ってくる。
やはりそうだった。私はなぜだか頭がすっからかんになって、ただ慌てて玄関に駆け寄った。焦る必要なんて一つもないのに、慌ただしく心が落ち着かない。
覚束ない手つきで解錠して、それから一思いに玄関を開いてやった。その向こうには、きっちりとスーツを着込んだジャンが立っていて、私を見るなり動きを止めた。
じっと目が合う。
――見つめられている。
ジャンが静かに降らせる視線が熱を含んだものだと、なぜかそう思ってしまった私は、その場でそれを見返せなくなった。
「……い、いらっしゃい」
不自然になってしまったが、目を逸らしながらもなんとかそれを紡いだ。
は、と呼吸が変わったジャンも我に返ったようで、
「おう、約束通り、お呼ばれしに来たぜ」
そうしてにやりと笑ってみせた。それには無邪気なころのジャンを見ているような気にさせられ、私まで思わず顔を緩めてしまった。
「うん、入って。もうできてる」
招き入れるために扉をもう少し大きく開いて、自分は邪魔にならないように道を避けた。
ジャンは「おう、お邪魔します」と声をかけながら、この狭い小屋の玄関を潜る。相変わらず背が高いなと見届けて、そっと玄関の扉を閉じた。振り返るとジャンはそっと帽子を外しているところで……、それを見たせいなのか、何の前触れもなく、どく、とまるで電撃が走るように私は思い出していた。――マフラーをつけたままだったことを。
「……あっ、」
「ん? どうかしたか?」
ここにあるものを隠したい衝動に駆られて、不意にそれに触れていた。
あれだけジャンの前ではマフラーは外していようと心に決めたのに、いきなりそれを失念しているなんてと自分に失望する。そんな必要ないとわかっていながら、うっと目元が歪んで涙が込み上げた。
ひどい、またジャンを傷つけることをしてしまった。
「ごっ、ごめんなさいっ、す、すぐ戻る、から」
私は耐えられなくなって、
「え? あ、おう」
ジャンの疑問に満ちた声は置き去りに、逃げるように寝室に駆け込んだ。
最低だ、またやってしまった。ジャンを傷つけてしまう……幻滅されてしまう。
寝室の扉を閉めている余裕すら今の私にはなかった。急いでそのマフラーに触れて、一思いにそれを外していく。
――ああ、エレン。
それを巻いてくれたときの記憶が視界に蘇って、すると今度はマフラーを外すことへの抵抗を思い出してしまう。エレンが巻いてくれたマフラーを……ジャンと向き合うために外すというのが、エレンへの裏切りのように思えてどうしようもなかった。
そのせいで、そこにマフラーを畳んでおくだけなのに、ひどく手が震えてもたもたしてしまった。
エレンを置き去りにしているような後ろめたさに襲われているけれど、私に前に進むことを望んだのもまたエレンだった……私は決めきれなくなってしまった。このマフラーを本当は、どうしたいのか。
エレンにこれ以上心配をかけないためにも、私は前に進まなくてはならない。……そう、だから、私はこのマフラーをここに置いて、しまって、だいじに……しまって、
「……おい、」
びくっと、肩が跳ね上がった。
「あ、ジャン」
気づくとジャンが寝室の入り口に立っていて、むっとした顔で私を見ていた。
その表情を見て、私はひどく焦ってしまった。……見られた、マフラーを置くところ。いや、置くことを迷っているところを。……こんな、また、ジャンに嫌な思いをさせて、しまった。
息すらろくに吸えないでいた私の元に、むっとしたままのジャンは言葉もなく歩み寄った。何を言われるのだろうと焦燥の限りを抱いていた私に向けて、
「……その、気にすんなよ」
「……え?」
「マフラー」
ジャンは、予想もできなかったほど、静かな声を降らせた。
それから私が畳んで置いたマフラーを拾い上げて、その生地をよく観察するように一撫でした。まるでそれすら愛おしんでくれているように……そしてそのままそれを丁寧な手つきで広げて、迷いを一つも抱かずに私の首元に当てた。
――え、これ……は……?
ハッと息がなだれ込んできた。ジャンは私に、マフラーを手放さなくていいと言っているのだと理解して、私はそれが突沸的に許せなかった。
「……で、でもっ」
そんなの、また、ジャンを傷つけてしまう。こんな、私ばかりわがままを、通して。
「お前には、これが似合いだよ」
上手く言葉を紡げないほど動揺していた私に、ジャンがとどめの一言をくれた。私の首元にそれを巻く手つきは、なんて優しくて……そして、温かな情に満ちているのだろう。
わ、と内側から掻き立てられた感情が込み上げて、私はそれをなんとか隠すように頭を下げていた。瞳に溜まった涙を堪えて、こんなに優しくしてもらっていいのだろうかと、自分では出せない答えを探した。
「……ぅ、ジャン……っ」
「これがなくちゃ、お前じゃねえ」
――エレン、ごめんなさい。
そこにある愛しさを確かめるように、巻いてもらったマフラーに触れていた。触れられずにはいられなかった。
ジャンがくれた言葉に例えようもないほど安堵していた私は、間違いなく、まだ、エレンを手放す覚悟なんてできていなかった。エレンが望んだように、エレンを忘れて自由になれない自分を、苦しいくらいに恨んだ。
それなのに、ジャンがくれた言葉にこんなに安心してしまっている。エレンを手放すだけが道ではないと諭してもらえたようで、抱いていた強張りがすべて解けていくようだった。
こんなに私は、弱くていいのだろうか。こんなに、どうしようもなくて……もっとちゃんと、世界と、――ジャンと、向き合いたいと、思っているのに。
「そんな……でも……、わた、し……」
自分への最後の強がりとしてなんとか絞り出した呟きには、ジャンは何も言わずに踵を返した。
「……ほら、夕飯にしようぜ?」
――これが、ジャンの答えだった。
私にマフラーを……、エレンへの執着の印であるこのマフラーを、ここに置いていくことを望まないでいてくれる。包み込むような、深く大きな情がこの心になだれ込んできて、それで私の胸はいっぱいになっていた。……温かい、温かくて、おおらかで。私をすべて、丸ごと許してくれるような。
「う、うん……っ」
私は急いで顔を上げて、溜まっていた涙を拭った。
既にキッチンのほうへ歩み始めているジャンを追い越して、先陣を切ってキッチンへ駆け込む。不思議なことに、これまでよりも足取りを軽く感じていた。
先ほど火を止めたばかりの鍋からは変わらずバターの香りが上っていて、いつの間にか空っぽになっていたお腹がそれを渇望していることに気がつく。隣に立ったジャンが興味深そうに鍋を覗き込んでくるので、私はさっそくとお皿を取り出してそれらを注いでいった。
二人で静かな夕食をいただいたあと、一緒に肩を並べてお皿を洗うことになった。
隣に立ったジャンがシャツの裾をまくり上げているのを見て、何やらそれを妙に意識してしまう。……これはなんだろうとまた不可解に思いながら、私は自分の袖もまくり、いつも使っている留め具を取りつけた。
ジャンが穏やかな息遣いで使った食器を泡で洗っていく。一つが終わるとそれを手渡され、今度は私がその泡を水で洗い流していく。この二人だけの空間は、不思議と心地いいもののように感じていた。……落ち着くというのだろうか、安定するというのだろうか。心が凪ぐように静かになって、自分自身の鼓動まで聞こえてきそうなほどだった。
「――兵舎での共同生活を思い出すなあ」
懐かしむようにジャンが呟いた。私はその言葉につられて、もう古くなった記憶を掘り起こす。
食堂の奥にある、調理場……広い洗い場で、食後の食器を洗っていた記憶。そのときは五、六人で肩を並べていただろうか……当番制だったそれも、確かに今となっては懐かしい。
サシャはときどきふざけて泡で形を作って遊んでいたし、コニーはいたずらに泡を周りに飛ばして怒られていた。
「うん、思い出す」
伝播してきた淡く輝くような気持ちに、私は笑みを浮かべていた。――本当に、懐かしい。あの、日々……制限はいろいろあったけれども、私たちはみんな無知で、がむしゃらで……今思えば、とても平穏だった、あの日々。互いに笑い合うこともできて……みんながそこにいて……――エレンも……、
「……あのとき、俺さ、」
深く足を取られそうになっていたときに、隣からジャンの思い切ったような声が聞こえて我に戻る。
「ミカサの隣で皿洗いできた回数数えてたんだぜ」
「え、そうなの」
藪から棒に教えられた事実よりも、足を取られそうになっていた自分に驚いて、大袈裟に返事をしてしまった。
しかし幸いなことにこの真意がジャンに伝わることはなく、それまでの調子でジャンはその思い出話を続けた。
「おう、訓練兵の三年間で、俺がお前の隣で皿洗いした回数は十三回だ」
きっぱりと言い切った得意げな声色が面白かった。……それなのに、私は思い浮かべた思い出の欠片に毒されて、気づけば視線は手元以上に深く落ちていた。……私が思い出そうとした記憶の中には、ほとんどジャンは見当たらず、そしてそれはつまり、懐かしいだけでは語り切れない、切実な想いに溢れていた。
胸の内がまた少し軋むように歪んで、けれどそれを悟られないようになんとか会話を繋げようとした。
本当は〝十三回〟という数字がどうであったか見当もつかなかったが、
「……意外と多い」
思ってもいなかったことを見繕った。とりあえず今は、会話がそれらしく成り立てばそれでよかった。
「そうか? 当時の俺からしたら、いつも歯噛みしてる感じだった。もっとお前に近づきたくてさ」
目の前の空に当時の光景を思い描くように、ジャンは丁寧にそれを言い上げていく。
「……そう」
私は、本当にエレン以外が見えていなかった。いいや、むしろ、エレンを見ていることに必死だったのかもしれない。ジャンが愛おしそうに語ってくれる思い出にも、私の記憶のほうにはほとんどジャンは登場しない。おそらくジャンは、そのころから私のことを見てくれていたのに。――それがなんとなく申し訳なくなって、自分の不器用さで歯がゆくなった。
「……あのあと、調査兵団でも何回か隣になったから……今日で、ちょうど二十回目だな」
ジャンのはきはきとした声が私のほうへ向けられる。まるで戻っておいでと呼ばれているような気がして、私はそれに応えるように少し顔を上げた。
「まだ数えてたの?」
「はは、もう覚えちまっててだめだ」
自分のことをばかにするようにジャンは笑うけど、私はそれにどんな顔をすればいいのかわからなかった。
ジャンがシンクに残っていた最後の食器――ワイングラス――を洗い終え、それをそれまでのように私に手渡してくる。私がそれの泡を洗い流している間に、ジャンは自身の手についた泡を洗い流し、そしてそこにかけてあったタオルで手を拭った。私もそのワイングラスを置いたあと、同じように手を拭ってジャンのあとに倣った。
その間ずっと考えていたのは、私の記憶の中にはほとんど現れないジャンのことで、私の記憶の中をほとんど占めている、エレンのことだった。私が過ごしてきた日々……過ごしてく、日々。エレンに上げたかったもの……エレンから、受け取りたかったもの。……そしてジャンが、とめどなく、ずっと、与え続けてくれていた、もの。
手を拭い終わった私は、そこで次の行動を決めかねていたジャンに身体を向けて、まっすぐにその瞳を見上げた。
「……ジャン」
とても今さらかもしれないけれど、その想いに、ちゃんと向き合っていけたらなと、今はそう思えているから。
「おう? どうした、改まって」
――エレンとの決別ではない、エレンからの独立でもない……ただ純粋に、もっとジャンのことを知りたいと思った。……一昨日、ジャンのことを何もわかろうせずに、ただただ勝手に縋ってしまった自分がどれだけ愚かだったかを顧みることができたから。私は、ジャンに対して抱いたこの感情を、しっかりと伝えていきたいと思った。――ジャンがその気持ちを、あますことなく伝えてくれるように。
「……ジャンって、本当に優しい」
「な、なんだよ急に」
私がこんなことを言い出すことは想定外だったのだろう、少し怯むように口の端を歪ませた。
……ふとまた、私の脳裏にはエレンが過る。
――……ごめんなさい、エレン。これはあなたを裏切ることになるだろうか。ジャンを知りたいと思うことは、やはりあなたを手放すことに……繋がってしまうだろうか。……そう思われても仕方がないのかもしれない……けれど、ジャンは……あなたを、手放さなくていいと、言ってくれたから。
ぎゅ、と祈るように手のひらを握り込んでいた。エレンを置いていきたくない自分と、それでも前へ進みたいと思う自分が、まだ上手く折り合いをつけられずに、ぶつかり合う感情が苦しくさせる。
……でも、目の前にジャンがいて、ときは流れていくから。
「私は今まで、エレン以外は見えていなかった。それがわかって……世界に対して、少し、申し訳なくなった。ジャンにも」
伝えたいことをちゃんと伝えられるように、私はこの胸中を明かしていく。
「……ばか、その一途さがお前なんだろ」
ジャンはあのころの何も見えていなかった私でさえも肯定してくれる。……なんて大きな人なのだろうとまた思う。
けれど、私が伝えたかったのはこんなことではなくて……これはあくまで、ただの前置きで。
「……私は、どうしようもない……」
ジャンが繕って『一途さ』と称してくれた、私の愚かで幼気な部分は、今になって私を苦しめるだけのものになってしまっているから。
「……だから、今になって、まさか、」
ぐ、とまた感情が込み上げた。
「……エレンがいなくなって、何に目を向ければいいのか、わからなくなって……」
この十年間、私があの大きな木下で、ひたすらに眺めていたものはなんだったのか。
それは――、
「――もうずいぶん、空虚を見つめていたんだと、思い知った」
喜びも悲しみも抱かない、ただひたすらに空虚な景色を、――エレンがいない、景色を……私はずっと、この虚な瞳で見続けていた。
自分でそれを認めてから、私は思い切って顔を上げた。まっすぐにジャンの眼差しを捉えて、それを強く結びつけた。
その表情がまた少しきゅ、と寄ったのがわかる。機嫌が悪そうというのか、何かに納得のいかないような顔をしていて……それを見て、ジャンは今、何を思っているだろうと、私はしっかりと疑問を抱くことができる。
「ジャン、」
「お、おう」
自分をそこに固定するように、意識してジャンから目を逸らさないように努めた。
深く息を吸い込み、
「……もっと、近くで、あなたを見てみたい。今度こそ、ちゃんと」
伝えたかった本当の部分を、ようやく言葉に乗せるに至っていた。この、自分を奮い立たせるような、そんな淀みのない言葉を、なんとか伝えられたと思う。
ジャンは瞬きを何度かしてから、「……ミ、カサ」と途切れるように私の名前を呼んだ。
この想いが漏らさず伝わるように、沈黙したままのジャンに私もこの真剣さを眼差しで伝える。
「ジャンは、優しくて、頼りになる。とても温かな視線で、私を見守ってくれる。……たったこの三日で、これだけのことを知った」
それまではジャンの気持ちなんてこれっぽっちも考えたことはなかったけど。――雨の中、どうしようもできずに座り込んでいた私を静かに待ってくれていたこと、帰るべき場所へ導いてくれたこと……私の自分勝手を否定せずに受け止めてくれたこと。出してくれたココアの温かさも、向けてくれる笑顔の眩さも……、
「……触れるときの、優しさも」
一昨日、柔らかく触れ合ったときのことを思い出して、むず、と胸の中がおかしく動いた。
こんなにたくさんのことを知った私は、もっとこの先を知りたいと思えるようになったのだ。
じっと見ていたジャンの瞳に吸い込まれていきそう、繋げた眼差しが互いを呼び合っているように錯覚する。訪れた沈黙は、けれど完全なる沈黙ではなくて……まるで衝動を探り合うような時間だった。
……また、触れてほしいという欲求が私の中にあったのだと気づいたのは、ジャンがためらいながら私の頬に触れたときだった。かさついた指先は男性のものらしく骨ばっていたけれど、その触れ方は驚くほど繊細で、……やはり、掻き立てられるほどに、優しかった。
今この瞬間が心地いいと感じるのに、どこかもどかしくも感じていて、私はそっとジャンの手に触れ返した。それからただ本能に従うように瞼を下ろす。――もっと柔らかいところで触れてくれることを期待して。
私の身体の中を廻る鼓動がうるさく騒いでいる。その音の中で、ジャンの気配が動いたことを感じ取る。
ゆっくり、触れるだけのキスをした。
一昨日と変わらない柔らかさで触れられて、私は満足したはずなのに……、その途端に脳裏に過ったのはエレンだった。瞼を上げるよりも先に、髪の毛を短く切り揃えた〝記憶にはないはずの〟逞しいエレンの首筋が見えて、私は目を開いて、それがエレンでなかったことにひどく落胆していた。――最悪だ、今、思い出すなんて。こんな風に、思ってしまうなんて。
自分でも予期できなかったこの情動に煽られて、滾るような熱が込み上げてくるので急いで顔を隠した。
――エレンとのキスは、もう思い出すこともままならない。そもそも、その記憶が現実のものかもわからないのだから世話がない。
違う、違う……本当は、こんなことを感じたかったのではない。……もっと、ちゃんと、ジャンと向き合って……エレンの代わりとか、エレンの影とかではなくて……。ジャンを、一人の人として……受け止めたくて……。
一番落胆したのは、こんな自分に対してだった。
息が苦しい。とっさに無防備だったジャンの手を掴んでいた。放さないようにしっかりと握りしめて、離れていかないように切願した。
きっとまたジャンを傷つけた、そんなこと意図しなかったのに。必死になってジャンの手を掴んだのは、本当の意図をわかってもらいたかったからだ。……ジャンという人に、解ってほしかったからだ。――それ自体が、自分勝手でわがままだと気づきもせずに。
「――〝あの日〟、エレンと一緒に暮らす夢を、見た」
なぜこの話を言葉にしようと思ったのか、考える余裕すらなかった。ただひたすらに、ぐちゃぐちゃと散らばり放題だった気持ちを、言葉として吐露せずにはいられなかった。
「夢だったのか、妄想だったのか……道、だったのか。現実ではないことだけは、確かで」
それをジャンはまた、文句の一つも言わずに聞いてくれている。……私の話を。怖くてその顔は見られなかったけど、私が掴んだ手を振りほどく様子がないことに安堵して、ずっと自分で握りしめたジャンの手を見ていた。
――ああ、私は今、ジャンに甘えている。
どこからともなく冷静な声がする。ふ、と自分を俯瞰しているような感覚を抱いて、私は自分が今していることがなんなのかを悟った。……そうだ、これは、ジャンに甘えている。ジャンの持つ優しさに、また……縋ろうとしている。
「そこで私は、エレンとたぶん、抱き合って、キスもした……」
けれど、言葉が止まらなかった。マッシュドポテトみたいに原型がないほど潰れていた心が、形を求めて言葉を繋いでいく。
私の頭の中にだけいる、〝現実ではなかった〟エレン。二人で山の奥に逃げて……狩りをして、薪割りをして、笑い合っていた……〝存在していない〟記憶の断片。私がこれまでどんなにその脆く危険な願いに縋ってきたか、振り返るだけで胸が苦しくて言葉に詰まる。
――エレンともっと、触れ合いたかった。エレンの肌の感触とか、抱きしめたときの厚みとか、知りたいことは、こんなにたくさんあったのに。
「けど、そのどれも、この身体は知らない」
高ぶった感情のまま、私は思い切り顔を上げていた。ジャンの顔をしっかりと捉えて、どんな表情をしているのかをこの目に焼きつけた。……そこに立っているのはエレンではないのだと、ちゃんとこのどうしようもない心に刻みつける。
「エレンと、そうした時間は、私の頭の中だけにしかなくて、確証もなくて、曖昧で……っ」
叶わないと知りつつ、忘れなければそれが現実だったことにできそうな気がして。
これまで堪えていた涙がじわりと熱を持って目尻に溜まる。燃えるように熱くなった瞳が、今はなんとなく心地よく感じてしまうくらいだった。
それはここで、それを受け止めてくれる人がいるからだ。きっとそうだろうと思う。ただ黙って私の言葉に耳を傾けてくれている、少し戸惑いを見せている眼差しが、それでも逃げ出さずにここにいてくれるから。――やはり私は、もっとちゃんと、ジャンのことを一人の人間として、しっかりと見てみたい。向き合いたい。
けれどその戸惑うような瞳を見ていたら、また冷静な声が私のわがままを指摘して、愚かさを笑う。
「――いっ、今はまだ、エレンとは、こんな風だったのかなとか、考えてしまう……、」
こんな私を、また無理やり押しつけていいものか疑問に思って、たちまち私の心は揺らいだ。持ち上げていられなかった頭がまた垂れて、気づけば足元を睨んでいた。
……キス一つでこんなにぐちゃぐちゃになっている私を、ジャンはどう思うだろう。……こんな私なんて、もう、幻滅したかもしれない。私が勝手に向き合いたいなんて思っていたって、ジャンにもジャンの気持ちがある。
「……おう」
は、と空気がこの身体になだれ込んできた。
まるで小さな雨粒のようにジャンの相槌が降って、それに驚かされたからだ。とても優しい響きで、まるで音色を奏でているように穏やかで……握っていたジャンの手を確かめるように強く握り直していた。
ここまで晒してしまった私でも……ジャンはまだ、そこにいてくれている。私はこのままこんな贅沢を、享受してもいいのだろうか。
ジャンの手は温かかった。唐突にそんなことに気づいて、ふわりと身体が軽くなった。……そうだ、今ここにいてくれているのは、ジャンという人間で、そして今の私には、それがちゃんとわかっている。
「……けど、エレンの感触はっ、わからないままで」
例えもう……エレンの感触を知ることができなくても。――ここにいて、待ってくれる人がいるのだと、染み込むように理解した。
「今、ここで、優しくキスをしてくれて、温かな眼差しをくれているのは、ジャンだって、ちゃんとわかるようになった」
こんな激情を晒しても見捨てないでいてくれる、変わらず優しさを降らせ続けてくれる。その人を、私は……これからもっと、知っていくことができる。
私は深呼吸をして、今度はなるべく落ち着きを忘れないように顔を上げた。
「……もっと、知っていけたら、って、思う」
ここに立ってくれているのは、エレンではないけれど。――そんな風に思ってしまう自分との折り合いも、これからつけ方を模索していけるかもしれない。今はまだ上手く拭えない罪悪感も、前へ進んでいくことへの恐れも……こんな風に待っていてくれるジャンなら……拙くもがく私と、一緒にもがいてくれるのかもしれない。
「……うん」
ジャンは先ほどと同じように、静かな返事をそこに置いた。
――マフラーを巻いてくれたエレンが過って……マフラーを巻き直してくれたジャンが重なる。
「さっき、ジャンは……マフラーは巻いたままでもいいって……それがお前だって、言ってくれたから……」
情けないほどエレンに絡めとられている私にとって、この思い出を捨てなくてもいいと提示されたことはどんなに救いだったか。
「私、とても安心してしまって」
きっともう、そのときから、私は――もがくなら……前へ進むなら、ジャンとともにそうしたいと、心の片隅に思い描いていたのかもしれない。
今はまだ、自信が持てないのでそれは言わないけれど。
「……いっぱいしゃべって、ごめんなさい……」
思えば随分長い間、一人でべらべらと喋っていたように思う。私の心の中にあった苦しみを、今吐き出せる分だけ受け止めてくれたジャンは、本当に疑いようもなく、優しさと思いやりの人だなと思った。
「その、ジャンのことを、もっと、知りたい……って、言いたかった……だけ……」
こんなに甘えてばかりの私に、幻滅していないといいなと願った。あわよくば、ジャンがこれからも、私といたいと思ってくれたら……私はもう少し、前を向いていけるような気がした。
しばらく言葉を発さなかったジャンの心情は、私には計り知れない。……けれど、私のことをどう思ったなどと聞く勇気があるわけもなく、握った手を手放せずにそこでじっとジャンの反応を待った。
ぎゅ、と私が握っていた手が握り返されて、びく、と身体が震える。突然のことに驚いて、この身の全神経がジャンに向けられた。何を言われるのだろうと、はらはらと気持ちが落ち着かなかった。
すると今度は、ジャンの反対側の手が動いた。
「……そっか。サンキューな、ミカサ。大事な気持ち、話してくれて」
それは一直線に私の頭に乗って、まるで安堵を促すように柔らかく撫でられた。
……こんなにみっともないところを晒したのに、やはり優しいジャンは、私を否定せずに包み込んでくれる。
ジャンの思惑通りか、その声色にも仕草にも緊張の糸を解かれ、私はまたぐっと喉を嗚咽で詰まらせてしまった。マフラーを巻いたままでもいいよと言ってくれたときのような、何かを許されたような安心感に包まれて、また情けなくも目頭が熱くなる。
「……何回も言ってるけどよ、焦らなくていいんだ。今さら俺も逃げたりしねえし……そう思ってもらえたことは、正直に嬉しいよ。ありがとう。もっとゆっくり、時間をかけていこう」
その深く落ち着いた声を聞いていたら、身体が痛むほど、安心感と愛おしさで溢れた。
私の頭を撫でたあとの手も、握りしめていた手に覆いかぶさって、固く握っていた拳が柔らかく解される。そこから伝わる温もりはじわじわと上ってきて、さらに私のすべてを解すように温かさを広げていくようだった。
ジャンが止めどなく与えてくれるもの。
私はそれをもっともっと知りたくなっていて、けれどまだ微かに残る不安はそれと混ざって、何やら不思議な気持ちを抱いていた。
「うん……うん、」
もっとちゃんと、ジャンと向き合いたい。ジャンの気持ちにも……もっとちゃんと、応えていけたらと、今はまだ途方もない展望を抱いた。
涙が溢れるから隠していた顔を覚悟を決めて持ち上げて、ジャンに今の私の表情を見せた。
「ジャンは、本当に優しい」
ぽとぽとと涙は落ちていくけれど、それでも後ろめたさだけではないことは、しっかり伝わると嬉しい。
――エレン。
もう返事はもらえない、その名前を心の中で呼ぶ。
――私はまだこんなに下手くそだけど、なんとか練習しているから。これまで心配ばかりかけていてごめんなさい。あなたを忘れるなんてできそうにないけど、それでもあなたを抱いたまま、ちゃんと前へ進んでいくから。不器用な私をどうか、見守っていてください。
おしまい
あとがき
皆さまご読了ありがとうございました!
長くなってしまいすみません……!
10年ってやっぱり、時間をかけすぎなのかな……と思ったりしたのですが、
私もエレンと一緒で、
やだやだ~~!! 10年はエレンのこと引きずってほしい~~!!
って気持ちが拭えなかったので、ミカサちゃんには10年引きずってもらいました。
いや、たぶんこれからも引きずり続けていくけども。
もう少し先の話になると思うんですけど、
この二人が軌道に乗った暁にはミカサちゃんにジャンくんに甘えまくってほしい欲がありますね……。
ジャンくんはそれをぜんぶ包み込んでくれるので……。
ところで。
ショートストーリーズ3巻の「ミカサのレシピ」を覚えている方いらっしゃいますか……。
私は完結後に読んだのですが、あのお話を読んだとき、いさーま先生のいけずさに涙が流れる思いでした……。
だって、先生の中で初めからこの結末が決まっていたのなら、
あのお話を書いた時点で、ミカサがそれをふるまう相手は〝エレンではない〟ことは決まっていたのでしょう……!?
ひどい……そういうことする…………このしんどさが好き……。
あ、なので、ミカサがふるまっている料理は、そのお話に出てきた料理のつもりでした。
美味しそうですよね……。
それ(ふるまう相手)がジャンくんだったらエモいなあと思っていたのでした。まる。
それでは改めましてありがとうございました。
また機会がありましたらよろしくお願いします〜!