いつかの未来
――すべての発端は、事務所に入った一本の電話だった。
「はい。……あぁ、はい。……はあ……? はい、大丈夫ですよ。お願いします」
事務所の中で電話を拾ったのは、朝のミーティングが終わった直後で、まだ本人の書斎に引きこもる前のアルミンだった。……この事務所の電話は、外部からはまず一階の受付に繋がるようになっており、受付でその電話の宛先が振り分けられ、取り継がれる形式になっている。まだミーティング中ということを考慮したのか、アルミンの書斎ではなく、ほかの皆が集うここ大書斎に繋げられたのだろう。
そんな電話に何やら訝しげな応対を見せたあと、アルミンが身構えるように受話器を握り直したのが印象的だった。
「……はい、私ですが? どなたですか?」
アルミンの声色は緊張感による固さを持っていた。
受話器の向こうで声が張り上げられているのが漏れて聞こえる。
「ええ、と、落ち着いてください。どういうことですか?」
あくまで冷静さを保とうとしているのだろうが、やはりアルミンの声は端々に緊張感を持っていた。私以外の面々もそれに気づき始め、話をしていたピークとジャンが言葉を止めた。
「……ッ、」
ひどく動揺したように声を漏らしたアルミンに、メンバー全員が注目する。
「……と、とにかく落ち着いてください」
ぎゃんぎゃんと受話器から声が漏れている。相手は非常に興奮しているようだ。
「ですから、」
アルミンが何かを挟もうとしたにも関わらず、その声は張り続けられ、そうして唐突にガジャンッと途切れた。その瞬間の割れた機械音にアルミンは驚いたのか肩を竦めて、
「……き、切られた……」
しばし受話器を見つめたあと、ずっと見守っていた私たちに目配せをした。
「……なんだったんだ?」
始めに尋ねたのはジャンだった。片手に持ったコーヒーを置くところだった。
それから「大丈夫?」とピークが続け、私は横目でそれを見ながら手元の書類を整理していた。アルミンは未だに腑に落ちていなさそうな顔つきのままで、受話器を電話機に戻した。
「……あ、うん……。なんで急に……どう、したんだろう……」
「どうした?」
アルミンが歯切れ悪くぼやくので、ジャンが改めて疑問を口にする。ようやくそれを私たちにも共有しようと思ったのか、アルミンは瞳を上げて息を吸い込んだ。
「『島へ帰れ』とか、『山ほど人殺ししてきたんだろ』とか、『償え』とか……なんか、そういうことを興奮気味に言われたよ」
既に手放された電話機を見下ろして、不思議そうにアルミンは教えた。
「……え?」
「……それは、どういうことだ?」
「なんで今さら?」
次々にそれぞれが疑問を口にしていたが、
「何があった――、」
ライナーが口を開いたところで、また電話機が鳴った。びくり、とアルミンはあからさまに肩を振わせていたけども、それでもすぐに受話器に手を伸ばしていた。
ピークが「私が出ようか?」と提案したものの、アルミンはそのまま受話器を握りしめ、「いや、僕が出るよ」とまたそれを払った。
今回もアルミン宛かどうかはわからないはずだが、ここにいる皆が同じ嫌な予感を共有していたことだろう。
電話の向こうの受付担当者と話す様子を見るにどうやらやはりアルミン宛であっていたようで、アルミンは繋いでくれ、と無機質に言い放った。
それから私にもわかるくらい、おそらく自らを落ち着けるための深呼吸をした。
ヅヅ、と音が漏れて、通話が繋がったことがこの書斎の誰もに伝わった。そしてアルミンが「はい」と語りかけたと同時に、また割れるような甲高い音声が鳴り響き、わあわあと向こう側で声を上げていることがこの距離でも聞こえた。
「えと、ひとまず落ち着いてください」
アルミンがその相手に声を聞かせた。果たして効果が見込めるかはわからないが、どうやらアルミンも精一杯のようだ。
しかしやはりと言うべきか効果はないようで、受話器の向こうから届く、一方的な激しい口論は続いている。
「ちょっと待ってください。状況がわかりません。どうされたのですか?」
相手が何を言っているのかわかればいいのになと思いながら、私は動揺を隠せないアルミンを見守り続けた。
「とぼけてませんよ。教えてください。どうしてそんなに怒って――、」
「素性が? 載ってる?」
「いえ、僕たちは隠すとか――、」
どうやら先ほどの人物よりも口調は激しいようだと雰囲気でわかる。アルミンは忙しなく身体を左右に揺らしながら、見えるはずもないのに手振りをつけてなんとか応対を続けた。
「ですから、落ち着いてください。何を読まれたのですか」
「そうですか。ありがとうございます。事実確認をしますので」
「ですから、僕たちは――、」
ガジャンッと、また同じような機械音が響き、通話が途切れたことがこちらにも伝わった。
アルミンは唐突に切られたそれが信じられないようにまたしばし受話器を眺めたあと、
「……また、切られた……」
と、一言だけ落として、受話器を電話機に収めた。
しばらくの沈黙がこのデスクの隙間を縫うように部屋の中に溢れる。その間、皆が皆に目配せを回していた。
「……で、どうだったの? 何か聞き出してたみたいだけど」
静かな声色を意識してのことか、ピークがいつになく穏やかな抑揚でそう尋ねた。言い迷ったのだろう、アルミンは眉間に寄った皺を解すことなくしばらく口を閉ざし、それからしっかりとピークを見返した。
「……どうやら、週刊誌に僕たちのことが載ってるらしい」
「週刊誌?」
「実物を見てみないとわからないけど、『隠し通せると思ってたのか』とか『卑怯者』とか、そういうことを言われていたから、かなりいろいろ書かれてるんじゃないかな」
すう、とコニーが深く息を吸った。
「……まじかよ……」
それからまたジャンと見合わせて、アルミンもジャンやコニーと見合わせた。私は相変わらずそれを横目で見て、また次の書類の束に手を伸ばした。
「そんな……今?」
尋ねたのはピークで、
「うん。今朝のことらしい」
「……うわ……」
気持ちのこもった感嘆をこぼしたのはジャンだった。
「『山ほど人を殺したんだろ』とか……『島へ帰れ』とか……」
ぼそぼそと自分の考えをまとめるようにアルミンはごちり、またそれを皆で注目する。
「もしかして、レベリオ強襲作戦のことが取り上げられた……とかかな……」
そうでもなければこんな罵声は出てこないと考えているようだった。……でも、確かにそうではあるのだろう。私たちがこの職務に就いたときには既に巨人の力は失われていたし、それ以降この手で人を殺めるようなことはしていない。……となると、特に〝アルミンが〟批判を受けるとするならば、そのときのことが公に出たことが考えられる最も有力な説だ。
「そんなこと、みんなもう知ってんじゃねえのかよ?」
コニーが焦ったように口を挟む。
「そうでもないよ、前にこの情報が出たときは新聞だったけど、当時新聞を手に入れられた人たちは一握りだった。だから、今回初めて知る人も多いと思う」
「それに、当時のことを知ってても、俺たちとの繋がりに気づいていなかった人も多いだろうしな」
アルミンとジャンが続けて状況を分析してみせた。ジャンの言う通り、連合国側の人間はパラディと敵対していたことは常識として知っているが、それの意味するところは具体的に噛み砕けていなかったと考えるのが妥当だ。……それが今回、その〝週刊誌〟に取り上げられた何かによって、連合国側の住民に気づきを与えてしまったのだ。
私はようやく束ねていた書類をデスクに置き、再び沈黙した面々へ目をくれた。
「この時期にこれはまずいな」
呟いたのはライナーだった。
第一回目のパラディ島交渉から二ヶ月と三週間が経とうとしていた。ライナーが〝この時期に〟と言ったのは、このパラディ島との会談で話し合ったこと、提示し合った条件や課題について、回答をまとめる期限が迫っていたからだ。私たちはそれぞれの担当に分かれて、様々な分野で調和を目指して東奔西走している真っ只中だったのだ。――今回の回答を元に、また第二回目の和平交渉の具体的な内容や時期が詰められていく。何より、相手の信頼を損なわないためにも、提示されたいかなる期限についても守ることは最低限のことだ。
――と、そこで、またしても書斎の中の電話が鳴った。条件反射的にアルミンがそれに手を伸ばしたが、今度はピークがそれを言葉ではなく手で止めて、
「……はい。ピーク・フィンガー」
アルミンの代わりに受付の担当者の応対をした。当然その強引な態度に驚いていたアルミンだが、
「はい。確認中につき直接の応対はできませんと伝えてください」
そう言い放ったピークが受話器を置くところを静かに見届けた。
……なるほど、確かにあんな苦情の電話、いちいちすべて対応している暇も余力もない。だけども、それをアルミンが思い付かなかったのは、彼が内心で動揺していたのだろうと憶測させた。
……何せ、今回の苦情の電話はこれまで二件ともアルミン宛で、『山ほど人殺ししたんだろ』と罵倒されたということは……レベリオ強襲に留まらず、〝あの〟軍港破壊についても表沙汰にされたのかもしれないからだ。少なくともアルミンはそう思ったからこそ、顔には出さずに動揺しているのだろう。
「それで、その詳しい誌名なんかは聞いたの?」
腕を組み、深く思考するようにピークが尋ねる。どこかを心許なげに見つめていたアルミンは引き戻され、思い出したように口を開いた。
「あ、うん。今朝発刊の『週刊連合表裏』ってものらしい」
そう伝えるとピークはすぐさま「わかった」と応え、椅子の背もたれにかけていた上着を引っ掴みながら、大書斎の出口のほうへ歩み始めた。
その『週刊連合表裏』とやらを探しに行くつもりなのか、と私の頭にも過ったが、それはアルミンも同じだったようで、
「待ってピーク」
彼女のその後ろ姿を呼び止めた。
「元軍人とは言え君は今はもう普通の女の子だ。万が一のためにライナーとジャンに行ってもらいたい」
ピークの振り向きざまにそう提案し、そのままジャンとライナーに目配せした。突然の指名に意表を突かれはしたが、すぐに納得ができたらしい二人は「あ、おう、わかった」と、それぞれの上着を握りしめて書斎を後にした。
もちろんピークも異論はなかったようで、本人の上着をまた背もたれにかけ直し、ひとまず業務を始めようとアルミンが音頭を取って、残る私たちの背中を押した。
すぐさま本人の書斎に入って行ったアルミンはどうかわからないが、私もピークもコニーもやはりどこか落ち着きなく、ジャンたちの帰還を待った。――まあ、私たちがここまで落ち着きがないのだから、きっとアルミンは気が気ではないだろう。
私たち大使団の代表ということで、一人だけ個人の書斎を持っているアルミンだが、果たしてその扉の向こうは無事だろうかと、私に関してはそのほうが心配だった。
それから時間は過ぎて行った。ジャンとライナーはなかなか戻っては来ず、私たちの〝便宜上の昼休憩〟が終わったころにようやく姿を見せた。
ジャンの脇には書店の紙袋が抱えられていて、ライナーの手には束になった封書が握られていた。
「……それは?」
ジャンたちの帰還を知らされ書斎から出てきたアルミンが、ジャンが真ん中のデスクに置いた週刊誌そのものよりも、ライナーがその脇にばらまいた多くの封書について尋ねた。
ジャンもライナーも帽子を外したり、上着をかけたりと手を動かしながら、
「すべて俺ら宛の手紙らしい」
「今朝からの分」
連れ立って答えた。
「うわ、電話の内容とそう変わらないだろうね」
ピークがそこに散らばった大小さまざまな封書を見下ろしながらため息を吐いた。
「とにかく雑誌を見せてくれ」
「おう」
歩み寄ってまず初めにアルミンが手を伸ばしたのは、当然のことながら例の週刊誌だった。
ネクタイを少しだけ緩めたジャンが雑誌の入った紙袋を拾い上げ、それをアルミンにそのまま手渡す。ピークやコニーだけでなく、私だってその内容が気になったのだから、座っていた席を立って真ん中のデスクの周りに集まった。
「どこも売り切れで見つけるの大変だったんだぜ。特にここの地元民は、過剰なまでの反応を見せてたな」
「……ありがとう」
紙袋からその雑誌が取り出された。なんとその表紙にすら派手な囲み文字で『特報! パラディ島和平交渉大使団の裏側を暴露!』と記されていた。既に嫌な予感しかしないその表紙を、アルミンは珍しく落ち着きなくめくっていった。
すると今度は白黒の印刷の見開きページが現れる。上部には先ほどよりも色がない分派手さには劣るが、目を引くような加工文字で題字が待ち構えていた。
『迫る! パラディ島和平交渉大使、代表アルミン・アルレルト氏、その素顔!』
そして、アルミンの名前の下に小さく、『大使団 ジャン・キルシュタイン氏』『コニー・スプリンガー氏』『アニ・レオンハート氏』という文言も付記されていた。……私の名前がそこに並んでいたことに大きな衝撃を覚え、ドンッと心臓が脈を打った。
「私とライナーは載っていないね」
最初にコメントをしたのはピークだった。既に書店でこの内容を把握していたライナーやジャン、ここに付記されていたことに驚いて言葉を失くしてしまった私やコニー以外でコメントができたのは、もちろんピークだけだった。
「元々マーレの戦士として戦っていたことが公の記録に残っているからだろうね。アニが載ってるのは不思議だけど……」
アルミンがそれに考察を返して、改めて広げられた誌面に目を落とした。それに呼び戻されるように、私も慌ててそれを覗き込む。四つの影が真ん中に集まって、そこに暗い影を落とした。そこに実際〝暴露〟されている内容を確かめるため、皆が連なる文章に視線を走らせた。
『さて、読者諸君は我々連合国とパラディ島エルディア国との交渉において、連合国側の代表団をご存知だろうか』
そこに私たちの公開済みの略歴が記されていたので、それは簡単に読み飛ばす。
『特に彼らの代表であるアルミン・アルレルト氏は、あの忌まわしき元凶エレン・イェーガーを討ったことで有名な人物。』
ここから文章の雰囲気が変わったことに気づき、私はこの先を読み進めることにした。
『彼はパラディ島出身でありながら、彼らの立場を顧みずエレン・イェーガーに立ち向かったとされる。当時の有力な目撃者としてさまざまな誌面を賑わせたあのミュラー長官も、彼が自らに宿っていた超大型巨人の力を用いてエレン・イェーガーと対峙した場面を克明に綴っている。』
『だが、我々の入手した情報により、天と地の戦いの約一月前、マーレ北部の軍港町があるものによって壊滅させられていたことが突き止められた。その当時の被害は民間人を含め(女子どもも分け隔てないことになる)約一万にものぼるとされている。その〝あるもの〟とは、当時の敵勢力の要であったとされる――パラディ島が所有する超大型巨人――である。……もうお気づきの読者も多いことと考えるが、そう、時の流れを考慮すればこの軍港町破壊の立役者こそが、現在の大使団代表アルミン・アルレルト氏だったのではと憶測されるのである。(写真は当時の惨状を記録したものだ)』
「うわ……」
コニーが思わず声を零したのも無理はない。そこにはいくつもの破壊跡を収めた写真が載っていたのだ。遠くから撮ったと思われる画質の悪い一枚は、間違いなく町を闊歩する超大型巨人を捉えたもので、その下に粉々になった建物や、曖昧になった海との境界などの写真が続いていた。
ただ残念なことに文章はそこで終わっておらず、まだ何かを綴っているようだった。
『だが、これらの蛮行は代表のアルミン・アルレルト氏に限ったものではない。同日開催されていた故ヴィリー・ダイバー氏による催事において、パラディ島軍事勢力はレベリオ収容区に対し奇襲作戦を実行している。被害はレベリオ収容区に留まらず、各国から招待された客人や民間人を含む周辺住民にまで及んでいる。当然これにはパラディ島出身のジャン・キルシュタイン氏、コニー・スプリンガー氏、マーレ国出身でありながらその身を長くパラディ島に置いていたとされるアニ・レオンハート氏も加担していると考えられる。』
思わぬ濡れ衣にまた胸がざわついた。……ただ、似たようなことをしたのだから、今さら何を弁明することがあるのかと、自らに対する嫌悪感がすぐに降って湧いた。本当に一瞬の出来事で、それによってまた心臓の鼓動が焦りの色を帯びた。
『この事件当時(約三年前)は、まだパラディ島と多くの国々が対立していたことは事実で、それを乗り越えたのがあの「天と地の戦い」であるということは確かに踏まえたい。だが、例えそうだとしても、我々の国に対してこれほどの規模の虐殺をやってのけ、軽々しく他国の住民に手をかけることができた彼らに、我々の命運を左右するパラディ島との和平交渉を一任するのははなはだ疑問に思う。彼らを任命した外務省代表者や、果ては彼らの代表であるアルミン・アルレルト氏にその真意を問いかけたい。また読者諸君には、この疑問に満ちた采配に対し、ただ静観していることは正しいのかと、謹んで尋ねたい。筆者がこの度この記事の筆を執るに至ったのは、彼らがパラディ島に傾倒した交渉を進めるのではないかという不安がどうしても拭えなかったからだということは、理解を望むところである。』
「好き放題書かれてるな……」
私が読み終わったと同時に、コニーがため息を吐きながら身体を引いた。
「……はあ。概ね当たってはいるけどね」
私も身体を引き、次に身体を引きながら愚痴をこぼしたアルミンを見上げた。
「これを読んでみんなあんなお怒りだったわけ。まあ、真相はわかったけど……これ、どうするの?」
ピークが最後に諦めたような気だるさで問いかけた。――どうもこうも、ここにここまで詳細が載ってしまったというのは……どうすることが正解なのだろうか。厳密に言えば私が加担していたという部分は間違いではあるものの、大部分においてはアルミンが言った通り事実に近いことなのだろう。
コニーが一歩下がって自らのデスクにもたれかかった。
「でもよお、受け止めてるつもりでも……やっぱこんな風に書かれると堪えるな……」
それには誰も返事をしなかった。その代わりにジャンやアルミンは非常に気まずそうに俯いていた。顔を上げているのは私たちマーレ出身者だけだった。
ふ、と顔を上げたアルミンが、ライナーが持ち込んだ封書のいくつかを拾い上げる。それを握ったまま、後ろにあった整理整頓がなされたジャンのデスクに歩み寄る。……どうやら開封するためのペーパーナイフを探していたようで、すぐにそれを見つけて拾い上げていた。
「……て、ちょっと。どうせ嫌がらせだし、見ないほうがいいんじゃない?」
心配そうに声をかけたのはピークだ。私はアルミンのその行動を見て、なんとなくアルミンらしいなと思っていた。ただそれは、その行動に賛成だったわけではない。余計なことをしなければいいのに、とぼんやりと考えていたまさにその横で、
「……でも、僕宛だしね。何か対応するにしても、一応目を通しといたほうがいいかなって」
と尤もらしいことをそこに明らかにした。
私も気になって、そのデスクに残されていた封書の散らばりを見下ろした。そこに封書にすら入っていない、折りたたまれただけの紙切れを見つけて、なんとなく開いてみる。――『帰れ悪魔』と記されていた。
「……はあ、真面目だねえ」
一度決めてしまうと簡単には折ることができないアルミンの意思の固さを知っているからか、ピークはそれ以上は強く止めずにお手上げだと仕草で教えた。
私はまだまだそこに山ほど散らばっている封書に目を向け、意識してその宛名をなぞった。――そのすべてが見事にアルミン宛と記されていた。これを目の当たりにしたときのアルミンの心境を察してしまった気がして、ざわりと不快感が胃を押し上げるのを感じた。
「……それにしてもこんなタイミングでこなくても、って感じだね。なんで今なのかなあ、忙しいのに」
ピークが自らのデスクに戻りながらぼやいた。ジャンは真ん中のデスクの上にばらまかれた多くの封書を寄せ集め始め、私がぼんやりとそれを眺めている中、それらを整頓しようとしていた。
「まったくだ。それこそ今はパラディ島との交渉の回答期限が迫ってて手一杯だってのによ」
「さあな。パラディ島での交渉が滞りなく終わって、俺らが無事に帰還したからじゃね?」
はあっ、と耳障りな音が聞こえた気がした。コニーの返答の合間にだ。
はあ、はあ、とくり返される深すぎる呼吸音に違和感を覚え、私は反射的にその音が聞こえるほうへ顔を向けた。――アルミンのほうへだ。
「はっ、はぁっ、はあっ、はあっ、ッ、はっ」
そこにいたアルミンは、真っ赤な顔をして口元を押さえていた。肩を激しく上下させながら必死に呼吸をくり返している様は明らかに異常で、ドクンッと私の心臓が跳ね上がった。目前のアルミンはそのままその場でうずくまってしまう。まるで呼吸の制御ができていない。
「――アルミン!?」
一番に飛び出して行ったのはピークだった。デスクの上に置いてあった、雑誌を入れていた紙袋をひっつかみ、考えるよりも早くうずくまるアルミンにそれを差し出していた。
「アルミン!? 大丈夫!? これ使って、口、押さえて!」
それからジャンやコニーが次々にアルミンの元に駆け寄っていき、アルミンの周りのデスクを横に避けてやっていた。おずおずと様子を窺いながらライナーも寄っていく。――肝心の私は、頭のてっぺんから指の先まで、まったくもって硬直していた。指一本も動かせなかったのだ。
アルミンが陥った状態については識っていた。戦士候補生時代に一度だけ、候補生が一人『過呼吸』という状態になって医務室に運ばれたことがあったからだ。そのときのことがわっと思い浮かんだので、おそらくそれだとすぐにわかった。
蹲るアルミン、一番に飛び出していったピーク、アルミンが身体をぶつけないようにと周りの安全を確保したジャンとコニー、心配しながら自分にできることがないかと窺うライナー。……私は、アルミンのために、一歩も動くことができなかった。
硬直しているはずの身体が、異様なまでに震えているような感覚を抱く。私まで呼吸が止まってしまったような、胸の苦しさを覚える。次第に意識が遠のくように聴覚が飽和していき、ジャンたちがアルミンに必死にかけている言葉が輪郭を失くして視界と混ざっていく。
もう私は、何も考えることができなかった。何と名づければいいのかわからない全身を押しつぶすようなざわつきに、ただただ身体が震える。
――リリリリリ
はあっと力強く息を吸い込んだのは私だった。私の真横で電話機の呼び出し音が鳴り響き、私はぐちゃぐちゃになっていた現実に引き戻された。
見ればアルミンは苦しそうに胸を押さえていたものの呼吸は落ち着いていて、コニーに肩を支えられながら立ち上がっていた。よろよろと覚束ない足で歩き、アルミン本人の書斎に向かっているようだと理解できた。
「ああ、もう! こんなときに!」
ピークのいらついた声がキン、と鼓膜に刺さる。私の隣で電話機が鳴っていたことは理解していたが、未だに身体が硬直したままで、それをどうすればいいのか理解が及ばなかった。
アルミンを支える役目をコニーらに任せてピークは私のほうへ駆け寄った。そうして私が応対すればよかった電話機の受話器を文句を垂れながら拾う。私は書斎の前でコニーたちの支えを遠慮して奥に入って行くアルミンを見て、途端に居ても立ってもいられなくなっていた。
――私の身体は未だに震えている。それでも私は思い切り床を蹴り飛ばして駆け出していた。
「ちょ、ちょっと、ごめん……ッ」
そのときジャンやコニーがどう反応したのか、まったく視界に――いや、意識に入らなかった。アルミンが入っていた彼の書斎の扉を乱暴に開き、駆け込んで、接待用のソファに横になろうとしていたアルミンをこの目で捉えた。私が駆け込んだことに驚きを隠せず、きょとんと気の抜けた顔を見せたアルミンのせいなのか、身体中に湧き上がっていた震えが一気に頭部に集中して、じわ、と涙腺に集まった。
「あ、アニ?」
「アルミン……っ」
私は居ても立っても居られないこの焦燥感の中、思い切りアルミンに抱き着いていた。自分でもどうしてこんな気持ちになったのかわからない。いや、これがどんな気持ちなのかもわからない。ただ、すべてのことに不安で、怖くて、わけもわからず涙が溢れた。アルミンの有事に固まって動けなかったことに対する罪悪感のようなものもあったかもしれない。とにかく、アルミンから離れたくないと強く切望して、できる限りの力で抱き縋った。
「ごめんっ、ごめんっ、アルッミン……っ」
苦しかったはずの本人に、わけもわからないまま抱き縋って、泣きじゃくって、間違っているとわかっているのに、涙が止まらなかった。アルミンは私を抱きとめたまま、ソファに沈み込み、
「アニ、心配かけてごめん。もう大丈夫だから。……ね、ほら」
ゆっくりと私の頭を撫でて落ち着けた。これ以上アルミンに負担をかけないためにも、私は納得して、落ち着いた風を装わなければならず、なんとか自分の袖で涙を拭って身体を放した。
「……うん、ごめん」
本当に、どうしたというのだろう。自分のことなのに何もわからなかった。こんな子どもみたいに泣きじゃくったのはいつぶりだろう……こんな風に、あふれ出た激情は、いつぶりだったろう。
「ちょっと休ませてもらうよ。落ち着いたらまたみんなと合流するから。……ほんと、僕こそ情けないな……ごめん」
アルミンはもう限界だったようで、うわ言のようにそれらを呟きながら、自らの顔をその腕で覆った。きっと座っていることすらきつかっただろうに……私ときたら、本当にどうしようもない。
私はもう一度アルミンに謝ってから、彼の書斎を後にすることができた。
みんなが集まっている大書斎へ戻ると、彼らは今度は電話機の周りに集まっていた。
先ほどアルミンが寄りかかっていたデスクの上を覗いてみる。そこに散らばっていたいくつかの写真が目に留まり、グッと不快感に息を飲んだ。――『島へ帰れエルディア人!』と記された苦情の手紙とともに、何枚もの無残な破壊跡の写真が添えられていたようだ。開封されたままそこに置かれている封筒がそれを物語っていた。……それらの写真は雑誌に載っていたものよりもよほど過激で、実際に瓦礫に潰され四肢が欠落した死体や、血まみれで泣き叫ぶ子どもなど、目を逸らしたくなるような悍ましいものだった。――アルミンはこれを見て、過呼吸を引き起こしてしまったのだろう。……〝これら〟惨状が、自らが選択して及ぼしたものだとじわじわと理解していく様は、どんなに苦しかっただろう。
「……だがこんなときに人手が割かれるなんて、」
私はここでようやく、ライナーたちの会話が耳に入った。目眩を催すようなそれらの写真から目を放し、彼らが集まっていたところへ歩み寄る。
「――電話、なんだったの?」
彼らが皆、私のほうへ注目した。数歩でその輪に到達していたこともあり、「連合国の外務省」とため息交じりに教えたピークに目をやった。
「……どうやら熱心な読者から外務省にも嫌がらせの電話が多発しているらしくて、対応せざるを得ないって話だ。明日、会見を開くそうだ」
「会見」
ジャンが教えてくれた内容で、一番気に留まった部分をくり返した。
「その会見に、アルミンとジャンとコニーを出席させろってさ。だからこれから至急その三人を省庁に寄越せと。アニちゃんはパラディ島で拘束されてただけだからと説明するから出なくていいらしいけど」
ピークがさらに情報を付け加えた。状況を見れば仕方のないことなのかもしれないが、こんなに急で、しかも、何よりも――、
「アルミンを? あんな状態なのに?」
私はそれが気になった。
『至急』なんてどれくらい急かはわからないが、たった今この状況が原因で異常をきたしたアルミンに、幾分かの休息は必要なはずだ。……それなのに、そんなことには興味のはしくれもないかのような上の取り決めに、正直なところ腹が立ってしまった。
しかしピークにはほかにも気になることがあったらしく、「状況もだよ」と付け加えられた。ピークも唇を尖らせるように不満を垂れる。
「今、三人も抜けられたら仕事が間に合わない……まったく。本当に、来月ならまだ幾分かましだったのになあ」
仕事なんてどうでもいいのに、と考えてしまった私は、大使団失格だろうか。それでもやはり気になるのはアルミンのことで、決して口にすべきでないとわかっている本心では、外務省の要請を蹴ってアルミンには十分な休息を得てほしいということだ。
ただでさえ、ここしばらく大忙しで夜もろくに眠る時間がないというのに、これでは踏んだり蹴ったりではないか。
――けれども、私の心配も空しく、アルミンは十分も横にならないままに起き上がってきて、状況を聞くや否やさっさと事務所をあとにした。残された私とライナーとピークは、その穴埋めもしなくてはならないため、より一層自分たちに振り分けられた書類に打ち込まなくてはならなかった。
*
翌日、もうすぐ〝昼休憩〟の時間になるころに、ようやくアルミンたちの会見は始まった。私たちはそれらをラジオで流しながら書類と向き合っていた。本当は書類に集中しなければならないところではあったものの、私たちの今後を左右してもおかしくない会見であることも否定できない。だから、まったくもって情報をシャットアウトするわけにはいかないと思ったのだろう。私が出勤したころには、既にラジオ受信機が書斎の真ん中のデスクの上に設置されていた。
聞き知った声が電波に乗っている。特に今回の非難が集中したアルミンは、半分以上を一人で喋っていた。……アルミンは大丈夫だろうかと気が気でなかった私は昨日と同じで、肝心のアルミンの話の内容は頭には入って来なかった。……ただ、いつもより張りのない声――少し震えているような声に聞こえて、ぼんやりとそれを話しているであろう彼の顔を思い浮かべた。
「うげ、まだ続いてるの」
ピークが書類に添付するための資料を印刷しに大書斎を出ていた間も、会見は延々と続いていた。だから彼女は本人のデスクに落ち着きながら、げんなりとした声つきで垂れ流した。
「こりゃあアニちゃん、三日後のプレス取材も準備しといたほうがいいかもね。何か聞かれるかも」
それを言われて、ん? と聞き返しそうになってしまった私だ。確かに期限間近に余計なプレス取材がブッキングされていたことは覚えていたが、それがもう三日後だったのかと、ここで意識の中に繋がった。というか、ずっとアルミンのことでぼんやりとしていたのだから、現実に引き戻されたと同義だろう。
「……そうだね」
深く考えるよりも先に返事をしていた私は、思い出したように自分がサインを入れていた書類に目を落とした。
そうだった、そういえば、今後の和平交渉の展望について聞かせてください、と緊張感の欠片もないプレス取材がブッキングされていたのだ。私とコニーは決まった担当を持っておらず、いわばほかの面子の補助的な業務がほとんどだった。……だからその、こちらの都合を完全に無視しきったプレスの対応は、私に任されたのだ。――そうかそこで、今回のことを聞かれるのか。……もう何度も公に〝アルミンのパートナー〟として顔を出していた私だ、知らぬ存ぜぬでは引き下がってはくれないだろう。ピークの言う通り、しっかりとした返答を用意していたほうがよさそうだ。
ひとまず会見は無事に終わったようだった。最後のほうで外務省の担当者が、それまで述べた理由により和平交渉大使をほかの誰かに任命することはないとはっきりと断っていたので、私たちの立場は一旦は保証されたのだろう。
けれどラジオで流れていた会見が終わったあとも、アルミンたちはいつまで経っても事務所に戻ってこなかった。まだあれやこれやと省庁のほうで片づけさせられている何かがあるのだろう。
私たちが捌ききれない書類を前に残業に入ってしばらくしたころ――夜の九時ごろになって、ようやくくたびれきったパラディ島出身の三人は事務所に帰還した。
この時間なのだから直接自宅に帰宅すればいいものを……と、思ったが、この状況でそれはないかと思い直した。
「待たせてごめんね。まだ少し時間あるから、できることから片づけるよ」
アルミンが上着も脱ぐことを忘れて、急ぐように書類の束を持ち上げた。その顔を見て、私は一気に冷汗のようなものを噴き出したように感じた。ジャンやコニーはともかくとして、アルミンの疲弊しきった顔に驚かされたのだ。……あまりにげっそりとしたそれを見て、このままだと倒れてしまうのではないかと身が縮こまる思いをした。……その恐怖を口にしようと思ったときだ。
「――今日はもうやめといたら? 顔ひどいよ?」
私より先にピークが声をかけた。
「だって回答期限来週だろう? 内部の期限までもう五日もないじゃないか。できるときにやっておかないと」
そのまま持っていた書類に目を落としながら、自身の書斎のほうへ向かって行く。
そうなのだ。アルミンというやつは、そういうやつなのだ。「うん、そうだね」と簡単に受け入れるはずがないのがアルミンだ。この強情っぱりめ。しまいにはピークも「……まあ、無理には止めないけど……」とため息交じりでそれを続けた。
果たしてアルミンの意思を尊重するべきなのか。それとも強引でにも今日は帰って休ませるのがいいのか。私はそれを測りかねていた。……アルミンはかねてより、自分の体力がほかの面子より劣ることを気にしていたし、気を使われることもよく思わないような態度をとってきていた……だから、私は書類に目を落とした、疲れ切った背中をしばらく観察して、どちらがいいのだろうと考えあぐねていた。
「あ、アニ」
びくっと肩が跳ねあがった。突拍子もなしにアルミンが振り返ったからで、思考が読まれていたのかとあり得ないことを考えて身構えてしまった。
「これ何か聞かれたとき用の原稿」
「……え?」
アルミンが上着のポケットから何度か折りたたまれた、数枚の束になった紙切れを取り出した。私の目の前にそれを突き出すものだから、しぶしぶとそれを受け取る。
「ほら、今度プレス取材があるだろう。そのときに何か聞かれないとも限らないし。その原稿に載っていないことは『私では答えることができません』でいいよ」
それを徐に広げると、どうやら彼の言葉通り、様々な質問に対する返答例が載っているらしかった。アルミンの書き文字で言葉がびっしりと詰め込まれている。これに目を通しておけということなのだと理解し、
「……え、あ……うん。わかった……」
またこちらに背中を向けて、書斎に入ろうとしていたアルミンに応えた。
アルミンはそのまま彼の書斎の電気を灯して、振り返りざまに「じゃあみんな、もう少しだけ頑張ろう」と、私たちに対するねぎらいと、無理を重ねた頼りない笑顔を残して、書斎の中に消えて行った。
***
「……ねえアルミン」
「あ、なに?」
そしてその数日後のことだった。
相変わらずアルミンは疲れ切った顔をしたまま、日々書類と向き合っている。今もそうだ。
私とアルミンにはそれぞれ別の自宅が用意されていたけれども、私はアルミンの家で大半の時間を過ごすようになっていた。最近は特にそうだ……先日からのアルミンの様子が気になって、帰るに帰れない日々が続いている。
「身体壊すよ。ほかの人に仕事振りなよ。ジャンとか、私でもいいし」
そう、アルミンは自宅にも書類を持ち帰ってずっとそれを握りしめているのだ。何度も何度も、回答期限ぎりぎりまで再考に推敲を重ねて、その答案書をえさこらとこねくり回そうとしているらしい。
それでなくとも、今日もジャンとライナーとコニーと四人で零時近くまで事務所にこもっていたのにだ。さすがの私も心配くらいする。
けれどアルミンはやはりその助言が気に食わなかったようで、はあ、と息を吸ってから握っていた書類を少しだけ下ろして廊下から覗く私を見上げた。
「……ジャンにはもうこれ以上振れないよ。彼もぎりぎりの量を捌いている。君も同じ、僕なら大丈夫だから」
その自信はいったいどこから湧いてくるのだろう。不思議に思って見返していると、
「それより君は明日の対応に備えてもう寝なよ」
アルミンはそんなことを付け加えた。
「大事なプレス取材なんだから、寝不足で頭が回りませんでした、じゃあ困るよ」
言い方に小さな棘があって、少しアルミンらしくないなと思った。やはり寝不足で疲れているのではないかと心配になる。ここ数日ずっとこの調子だし、目の下の隈も本当にひどい。この回答期限が過ぎればみんなで数日オフにしようと息巻いていたけれど、それにしたってちょっとやりすぎではないだろうか。
……そういえば、夕飯もろくに食べてなかったなとふと思い浮かぶ。
「――夜食は?」
まだ起きているというアルミンに、私だけ何もせずに寝るのは気が引けていたのかもしれない。自分にできることを探したときに出てきた言葉ではあったのだが、アルミンは書類を掲げ直して、またその紙面に視線を置いた。
「うーん、お腹そんなに減ってないから大丈夫だよ」
げっそりした顔つきのくせに、いっちょ前にそんなことを宣う。
「……でも、夕飯もそう言ってあんまり食べなかったと思うけど」
「そうだね。でも、なんだか食べる気があんまりしなくて」
「身体に障るんじゃ、」
「アニ、ありがとう。僕なら大丈夫だから、もう寝ておいで」
そうして視線だけを上げて私に目配せをしたかと思うと、うっすらとだけ笑ってみせられた。先ほどの苛立ちを顧みたような笑みだなと思ったが、それ以上何も言うなという威圧にも感じて、思わず目を逸らしてしまった。
「……うん……」
こんなやり取りでは煮え切らないが、アルミン本人がここまで言うのだから、私にはこれ以上に強い言葉の持ち合わせがなかった。
アルミンがまた集中し始めた姿を後ろに、私は一人でアルミンの寝室に向かって、しばらく居心地が悪いながらも一人でしっかりと眠りについた。
次の朝、目を覚ますと隣にアルミンが寝ていたので、深い安堵感を抱いた。……よかった、少しくらいは睡眠をとってくれたのだなと感心しながら、その顔にかかった前髪を掬い上げた。その寝顔は健康的とは到底言えなかったが、やはり少し赤ちゃんみたいだなと思った。ベイビーフェイス。寝ているとき、アルミンのそれは顕著に表れる。小さく縮こまって眠る姿も、いつもに増して彼を愛おしく思わせた。
いつごろ寝たのかはわからないし、できることならこのまま寝かしておきたかったのだけども、アルミンがここで寝顔を晒しているのも私がちゃんと朝起こしてあげるだろうという信頼の元だということも分かっていたので、仕方なく彼を起こして仕事の準備をさせた。
二人で一緒に事務所に出勤し、私はそのあと一人でプレス取材の対応があったので、作業している皆を残して事務所から出発した。
取材中、やはり少し数日前の週刊誌のことには触れられはしたが、既に会見で話がなされていたことと、事前にアルミンに原稿を渡されていたことから、そこまで深い話にはならなかった。当初依頼があった通り、これから私たち大使団が目指す、パラディ島との和平の在り方について……アルミンほどではないが、しっかりと熱弁してそのスタジオを後にした。
事務所に帰り着いたのは、昼の三時ごろだったと思う。……事務所、というか、事務所が入っている建物だ。一階の受付の担当者に会釈をして、横にある階段を使って事務所がある三階に向かうところだった。
上からカッカッカッとヒールを履いた足音が忙しなく降りてきて、私は階段を見上げた。
「ピーク」
忙しない足音を響かせながら上から降りてきたのは、真っ青な顔をしたピークだった。何かにひどく打ちのめされたような表情に、何かまた問題でも起きたのかと身構えた。
ピークは私を見るや否や一度立ち止まって、しかしすぐにまた思い出して駆け寄ってきた。
「アニちゃん、落ち着いて聞いてね」
私の両腕をしっかりと握り込み、階段の真ん中で私にそう言った。
「実はさっきアルミンが倒れてるのが見つかって……、」
突拍子のなさに目が眩んだ。ドンッと鈍器で殴りつけられたように、頭の中が真っ白になる。
「――……え?」
「今、病院に、いる」
……アルミンが? 今、病院……に?
「……え、……え?」
「私も今から様子を見に行こうと思ってたんだけど、アニちゃんを待ってたの。支度して」
そう言って、おそらくしばらく目が点になっていた私をしっかりと見つめていた。私ももはやどこに焦点を当てればいいのかわからない。……アルミンが、倒れた? それで、病院に?
わけがわからないながらも、要点を何とかつなぎ合わせることができた私は、
「支度? え、アルミンは……? えと、無事、なの……?」
絞り出てきた唯一の疑問を、ピークに投げかけた。
は、とピークが目を逸らす。ドキ、と心臓が強張る。
「……それが……まだ、意識が戻らないみたいで」
「……っ」
ぐっと身体の底から押し上げた恐怖のような感情が、私の喉を締め上げた。
アルミンが倒れて、意識が戻らない。
――『僕なら大丈夫だから』
昨日そう言ったばかりではないか。大噓つき。
ぐら、と視界が歪む。その場で崩れ落ちてしまいそうだった。けれど私の腕はしっかりとピークに支えられていて、なんとかそれを免れる。グッと、改めて掴まれていた腕に力が込められた。『しっかりして』というピークの心の声が聞こえた気がして我に戻る。
「とりあえず今はジャンが付き添ってくれてるから、私たちもいくよ」
「あ、……うん、わかった」
そう言って私は必要のない書類を事務所まで持って行き、半ばそこに投げ置いて、ピークが停めてくれていたタクシーに乗り込んだ。タクシーなんて貧乏人の大使団が乗るような乗り物ではないはずなのに、それに乗り込んでいるのが不思議に感じた。――それだけ、アルミンの状況はよくないのか。ぐっとまた痛みが腹の底から込み上げて、私は必死に景色を睨みつけて、いろんな感情を堪えていた。
病院に到着した私たちは、受付の看護師に言われるがままに病室に向かった。
病室の前の廊下には見覚えのある長身の影と、小太りの男性の影が並んで立っていた。おそらく医師なのだろう、ジャンと何かを話しているようだった。
「ジャンっ!」
声をかけたのはピークだ。その間に私たちは彼らの元にたどり着き、
「あ、こちらは身内の方で?」
医師にそう尋ねられた。
「……あ、はい、その」
身内と言うには婚約も結婚もしていないので、気が引けていた私だったのだが、ピークが勝手に私の背中を押しながら「配偶者です」と断言したので、私は心底驚いてしまった。アルミンが倒れたと聞いたときくらいの驚きだったかもしれない……いや、それはまったく違うか。
とにかく医師はもごもごと言いにくそうに「そうでしたか……」と唇を噛み、それから思い切ったように口を開いた。
「こちらの方にお話を伺っておりましたが、おそらく今回のことは過労によるものだと思われますね」
……過労、と言われて、ここ最近のげっそりしたアルミンの顔が浮かんだ。
「職業柄による精神的負荷に、慢性的な寝不足、そしてここ数日は追い込むように徹夜が続いていたようですので。また、血液検査の結果も芳しくない。おそらく、ここのところ著しく食欲も減退していたのではないですか?」
医師の言葉はまた昨晩のやり取りが思い出させた。
「……え、あ……そう……かも……」
言われてみれば、昨晩だけの話ではなかったかもしれない。朝食以外は事務所で済ませるほど缶詰だった私たちだ。アルミンがどれほどしっかり食事を摂っていたか、そこまで見ていなかったように思う。
「……我々にできることはすべてしました」
医者が重い針を落とすように、私にそれを教えた。
「は、はい……?」
「しかしながら、ここから回復をしたとしても、なんらかの後遺症が残ることは覚悟しておいてください」
その口調から、何かひどく悲惨なことを言われているのだなということは理解ができた。私はその医師の言い回しが気になって、「回復を、したとしても……?」と問い返す。
医師はそれに対して、一歩を踏み出しながら、軽く会釈を加えた。
「……我々も最後まで最善は尽くします」
――さいご……?
――その言い方だと、これからもうアルミンは――?
呼吸の仕方を忘れるほどの重たい落胆が、私の身体を押し潰そうと降り注いだ。
いや、でも、そんなはずは。今朝も私と普通の会話をして、いつも通りに出勤していたではないか。……それが、そんなはずは。
「……意識が戻りましたら、お知らせください。詳しくはまた後ほど」
再び頭が真っ白になってしまった私を待つことはなく、医師は廊下を歩いて行ってしまった。
それでもなお、私は言われたことを飲み込めていない。――どうしてあんな、もうこれでアルミンはおしまいのような言い方をしたのか。そんなにひどい状態なのか。『回復をしたとしても』『さいごまで』――どうして、そんな、わざわざそんな言い方を――、
「あ、アニちゃん……」
「すまん……俺たちがついていながら……」
ピークとジャンの声が耳に入ってきて、私はようやく視界が開けたような気分になった。
そうだ、ここは病院だった。何の変哲もない昼下がりの、初めて来る病院の中だ。その一室に、今はアルミンがいる。……一時的なことのはずで……一時的?
「……どういう、状況、だったの……?」
不可解だったのは、私にジャンが謝罪したことだった。ジャンがどうにかできた問題なのか。そうでないなら謝罪されるのはおかしいし、そうであるならば、私はこの感情をどう扱えばいいのかわからない。
顔を上げるとジャンは、私の目を見て気持ちを汲み取ったのだろう。少し慌てるような口調で話を始めた。
「いや、アルミンは書斎にいたんだ。俺も書類仕事をしていて、ドタンって大きな音がしたから慌ててあいつの書斎に向かったら……倒れてた……」
――やはりだ。結局、ジャンがどうこうできたことではない。
「……そう……」
だから、謝罪は受け取らないし、私はこの身体の中に渦巻いている感情を一旦、奥底に押し込んだ。――いや、むしろ、ジャンがそこでアルミンが倒れる音を聞いていてくれたから、アルミンは今ここで生きたまま病院に運ばれたのではないのか。つまりそれは、あるいはまだ、助かるのでは――……一瞬だけそう淡い希望が浮かんだが、――『さいごまで』――医者の言葉で現実に引き戻される。
……そんな。そんな……そんなことが、あってたまるか……。
「……アルミンの、様子を見てくる……」
私が独り言のようにそう零したところで、
「私たちも行ってもいい……?」
思わぬところから言葉が返ってきた。
ここにピークとジャンがいたことに何か妙に現実感を味わい、私は「あ、うん……」とどうしてそんなことを問われたのかよくわからないまま、それに許可を下していた。
しばらくピークもジャンもアルミンの病室にいるのかと思いきや、一目アルミンの様子を確認したらすぐに事務所に帰って行った。私については特に何も言われなかったので、ずっと病室に居座った。
――点滴に繋がれて、頭に包帯を巻いていた。目を瞑っている姿はやはりとても赤ちゃんみたいで、ただそこで穏やかに寝ているようだった。
しばらくすると、先ほど廊下で話した医師が病室にやってきた。詳しい検査結果などがまとまったので、と私の前にいろんな数値が並んだ紙や、書類を広げ始め、それから私に細かくアルミンの状況を話してくれた。――私の頭にそれらが入っていたかと問われると、残念ながら「ノー」だ。――私は医師がアルミンの心拍数を確認するために装着した心電計の音が耳障りに感じていたし、それがいつまでも頭から離れなかった。私に説明するために走る医師のペンの音もそうだ。そういうことばかりに気がいってしまい、医師の話は半分もわからなかった。
――とりあえずわかったことは、アルミンは非常に危険な状態にあるということだけだ。かなり死亡率の高い状況にあるらしいとのことで、一分の予断も許さない状況だという。だから、定期的に看護師や医師が巡回しにくるとのことだった。先ほど話していたように、もし万が一に意識が回復しても、しっかり喋れるのか、しっかり覚えているのか、しっかり歩けるのか、――しっかり生きていけるのか、一つも期待はできない状況らしかった。
医師が病室を去ったあと、私はまたそこに横たわるアルミンと対面した。
今朝隣に寝ていたときと同じ顔をして寝ているというのに、このまま起きないかもしれないということだ。……医師から話をしてもらったこと、おそらく事務所に連絡をしてジャンたちに伝えたほうがいいのだろうが、到底そんな気分にもなれなかった。
――アルミンは、そうだ。訓練兵時代から体力のなさを気にしていた。体力がないことに甘えず、それをどこから捻り出したのかわからない根性でカバーしていた。きっと、ずっとそうだったと思う。そしてそれは、この多忙な日々の中でも同じだった。……だからもっと、それを知っている誰かが――私が――アルミンを必要なところで止めないといけなかったのだ。
私は昨日の自分を……いや、ここしばらく、アルミンに休息を、と思いながら、そう行動できなかった自分を恨んでいた。これでもしアルミンが帰らぬ人となってしまったら……私はこの先、自分のことを許せるだろうか。……この先、一人で――一人で、生きて、いけるだろうか。
ゾッと寒気が背筋を駆け上がった。点滴が繋がっていないほうの手が目の前にあって、私はその手を思い切り握りしめた。……まだちゃんと温かくて、ちゃんと、どくどく、と脈を打っている。まだちゃんと、生きている。……これが、いずれ、動かなくなってしまうのか。私の目の前で……帰らぬ人と……、
「……アルミン……ッ」
私はアルミンのその手のひらを握り込んで、祈るようにうずくまった。
……お願いだから目を覚まして。お願いだから、私を一人にしないで。
とめどなく沸き上がる孤独感のような恐怖が、じりじりと私の涙腺を刺激する。
プレス対応のままここへ至っていたので、いつもより少し高いヒールを履いていたのを思い出した。うずくまるのに煩わしかったからだ。
アルミンは返事をしなかった。いつものように、やさしく「アニ」と呼びかけて、頬に触れることもしてくれなかった。……こんなにまだ、しっかりと温かいのに。
――もしアルミンがこのまま死んでしまったら……私は、彼の後を追うだろう。
そんな確信めいた思考が浮かんで、ハッと大きな空気の塊が肺に雪崩れ込んできた。堪えていたものが一気に決壊して、滝のようにこの瞳からぽろぽろと落ちていく。
そうだ、きっと私ならそうしてしまうだろう。アルミンのほかにも大事な人は確かにいるが、……アルミンを失ってしまった私は、きっともう自らの足で立っていられなくなる。そんなことが、実感のように指先まで巡っていくのだ。
――怖い。怖い。……一人になるのが、こわい。アルミンを失うのが、こわい。こんなにも。こんなにも恐怖で身体が満ちていく。……この感覚はいつ以来だろう。いや、ともすれば初めてかもしれない。……自分ではない誰かが死ぬ恐怖。怖い。こわい。
私がちゃんと止めていれば、こんなことにはならなかったかもしれないというのに。……そうだ、死ぬべきはアルミンではない。もっと死ぬにふさわしい人がここにいるというのに、神様というものは――現実は――こんなに理不尽で残酷なのか。
私を一人で置いて行かないで。
私の涙はずっと止まらず、巡回に来た看護師にこのひどい泣き顔を見られてしまった。
握りしめて、抱き込んでいたアルミンの手のひらは私の涙でぐしょぐしょになっていた。
結局アルミンはその日の内に目を覚ますことはなかった。こんなに暗くて長い夜は、あの四年間を彷彿とさせた。いや、あれはもう過ぎた思い出だ、〝今〟が最も暗く、そして長く感じた。
夜が明けてカーテンの隙間から差し込む光も、なんと寂しげに見えることか。朝日をこんなにも空しいものとして浴びたのは初めてのことだった。
看護師や医師が巡回にくる度に、どんどん険しい表情になっていく。それを見ているとまた絶望と恐怖が身体に込み上げて、何度でも涙は溢れ直した。……お願いだから、目を覚まして。私のことを覚えてなくてもいいから、私の肩を一生貸さなければ生きていけない身体でも、それでもいいから。お願いだから、ここにいて。
日がまた昇り始めても、未だずっと握りっぱなしだったアルミンの手のひら。それをまたぎゅうと握り込んで、また一から祈るような懇願を始めた。お願い、アルミン。お願い。
「……アニ……?」
――声がした。
ひと時、私の幻聴ではないかと疑った。
おそらく目を覚ますことはないだろうと言われていたので、私は大慌てで立ち上がって、アルミンの顔を覗き込んだ。
「……あ、アルミン!?!?」
アルミンがうっすらと目を開いていて、そしてしっかりと私のことを見ていたのだ。私のことを、認識していたのだ。
……それだけではない。
「ここ、病院……?」
ふらりと視線が天井に走っていく。本人の腕に繋がれている点滴なども目に入って、それで判断したのだろう。
「そう。そう。今先生呼ぶから、待って」
私は医者から『目を覚ますことがあれば、すぐに教えてください』と言われていたので、浮かれて、飛び上がるような気持ちで、アルミンのベッドの脇にあるナースコールを探した。ベッドの周りを確認して、そのボタンを拾い上げる。
「アニ、ずっとそこに、いてくれたの……?」
今にも消え入りそうな声でアルミンが私を呼んだ。唐突にアルミンが戻ってきたことを実感して、安堵感なのだろう、熱く溶け出すような感情がまた突沸した。瞳の隙間から涙が込み上げて、ぼとぼととアルミンのベッドの上に落ちていく。当然そんな状態で返答はできなかった。
「……あれ、今は……いつ……?」
アルミンの不安定な、消え入りそうな声はそれを続けた。
「……パラディへの、回答は……? みんなは……どうしてる……? 書類は……間に合ってる……の……?」
――ここに一命を取り留めて帰ってきたというのに。
「うるっさい!」
私は思わずアルミンに怒鳴りつけていた。
「今はっ、そんなことどうでもいいでしょ!?」
自分が死の淵に立っていたことに気づいていないだけなのかもしれないが、さ迷っていた今際の際から帰ってきて、そんなことを心配していることが許せなかった。
明日が内部締切ではあるし、もちろん間に合ってるはずはない。けれど、だから何だと言うのだ。
大声を上げた私に驚いたのか、アルミンは沈黙してしまった。……私のこの涙を見ても状況が掴めないのだとしたら、確かにアルミンの中で何か異常が残ってしまったのだと思うほかない。
「……アニ、」
けれどそこに紡がれた声を聞いたら、ああ、だめだ、私の中で溢れ出た涙が、さらに強く安堵と喜びを重ねて増幅していく。
「せ、先生呼ぶから。大人しくっ、寝てな」
ようやくそのナースコールのボタンを押すことが叶った私は、それをまた手放してアルミンの横に座った。その温かいままでずっと存在してくれた手のひらを、また、強く、握り込んで、心の底から『ありがとう』『お帰り』と唱え続けた。
ナースコールによって、何人もの医師や看護師がこの部屋に雪崩れ込んできた。皆一様に信じられないという顔をしていて、詳しく診察をするので私は病室の外で待っていてくれと言われた。
居ても立っても居られなかった私は、その足で公衆電話へ向かった。事務所に連絡をしたのだ、アルミンの意識が戻ったこと。まだ医師の診察の結果を聞かなければならないが、とりあえず覚まさない可能性のほうが高いと言われていた目を覚ましたのだから、電話するに値していただろう。
そのあとしばらく病室の外で、今か今かと医師たちがそこから出てくるのを待っていた。
そんなに待たなかったとも思う。彼らが病室から安堵に満ちた顔で出てきて、私はその中で小太りの担当医師を捕まえた。
「先生、どうでしたか。その、助かりますか……」
自分に期待を持たせ過ぎないようにと言葉を選んだつもりだったが、思いのほか医師のほうが舞い上がっているように見えた。
「驚きました。意識が回復したので、かなり経過は良好と思われます」
昨日私に状況の説明をしたときからは考えられないほど、この医師の目は輝いていた。それを見て、当然私も底をつきかけていた希望を拾い上げていく。
「今は目立った脳の障害も認められない。しっかり覚えてるし、しっかり話せている。身体に痺れや無感覚な部位も認められない。これは奇跡に近いですよ!」
――異常は、ないのか。あれだけ覚悟しておけと言われた、障害のようなものは、何も、認められないのか。
「しかし、まだ油断はできません。しばらくは絶対安静で経過を診ていきます。旦那様がしっかりと取り留めた命、絶対守りましょう」
そう言って医師は力強く私の肩を叩いた。やはりその態度からは絶望よりは希望が見て取れて、私はこの身体の底から漲る気力のようなものに身体を押された。
「はい、はい! よろしく、お願いします……っ」
医師は私に目配せをしたあと、また廊下を歩き始めてその場から立ち去って行った。
私にはその背中を見送るような余裕はなかった。
漲った気力に押されるがままにアルミンの病室に飛び込んで、そして昨日と変わらず頭に包帯を巻き、点滴を繋がれ、それでもしっかりと私を認識したアルミンを見下ろした。
「アルミン……!」
その顔をもっとよく見たくて、身体を屈めて覗き込んだ。邪魔な髪の毛を耳にかけならが、アルミンが「はは」と小さく笑んだ声を聞いた。――これがどれだけ、待ち望んでいたものか。アルミン本人には一生伝わらないだろうと思う。
「アニ。なんだかだんだん、意識がはっきりしてきたよ……」
まだまだ弱々しくて、小さな声だったけれど、確かに先ほどよりもはきはきと話している気がする。――そうだ、医師も言っていた、何度でも思い出す。――『しっかり覚えてるし、しっかり話せている』。……アルミンは『奇跡』ののち、無事にここへ帰ってきてくれたのだ。
「でもお医者様に、しばらくは指示以外では……起き上がるのもだめって、言われちゃった……」
力なくも苦笑する姿を見て、ああ、アルミンだとまた実感する。またじわりと、感情が込み上げる。
「……それでいい。アルミンは、無理をしすぎていたんだよ」
アルミンの顔にかかる前髪を、そっと払ってやった。
きっと大事なパラディ島への回答期限のことを気にしているし、気に病んでいるだろう。明日が内部期限であることは伏せておいたほうがいいだろうか。もうむしろ、アルミンにはすべてが終わったと伝えるのがいいのかもしれない。今は、そんなことは気にさせるべきではない。
そう思って『それでいい』と返したのに、アルミンの瞳はたちまち曇りを見せた。私から視線を逸らして、深呼吸をする。
「……だって……」
「……ん?」
絞り出すような声が続ける。
「だってさ……、アニ。……ジャンもライナーも、ピークだって、寝る前にはお酒や薬がないと寝つけないって、言ってたし……、コニーだって言わないだけで、調子が悪そうなときはけっこうある」
もどかしく感じるのは、アルミンがもどかしさの中でそれを言葉にしているからだろう。
「……僕なんか、アニがいないと、眠れない始末だ。……こんなので、いったいどこまでやれるだろって……。無理なんて、してもし足りないくらいなのに。……先が思いやられるよね……。世界を……平和にしないと、いけないのに……っ」
尻すぼみに弱くなって、掠れていく声を聞いて、アルミンがどれほどまでに今の状態を悔しく思っているのかは伝わっていた。それでも、私はそのアルミンの言葉に、またわけのわからない怒りが湧き上がっていた。……だって、そんな。アルミンが、一命を取り留めたのに。アルミンが、ここに帰って来てくれたのに……っ。
ぐっと、私は思い出した恐怖を丸めてぶつけるように、自分でも制御が効かないまま声を張り上げていた。
「そっ、そんなことは今はどうでもいいんじゃないの!? 書類なんて待たせればいいっ! 先なんて知らないっ! 世界もくそくらえだ!」
わからない、言いながら――叫びながら――、涙がまた噴水のように溢れていた。
「……アニ?」
呼ばれたことで私は思い出して、アルミンが目覚めるまでずっとやっていたように、彼の手のひらを強く握り込んだ。思い出したくもない、長くて、暗くて――そして、死の恐怖に溢れた夜。もう二度とこの手を手放したくない。理屈ではなかった、私はもう、アルミンのこの手を、死ぬまで放したくなかった。この絡み合った手を一緒くたにしてしまうように、力の限り握り込んだ。
「アルミン、怖かった……! あんたが私をおいて一人で死んだらって、いっぱい考えた」
またしても私の涙はアルミンの手のひらをぐしょぐしょに濡らしていく。それでも知ったことではなかった。私はもう、この手を放したくなかった。
なのにアルミンときたら、素っ頓狂な声使いで「そんな、大袈裟な」なんて言ってしまうから、
「大袈裟!? 大袈裟なの!? 急に倒れて目を覚さなかったことを心配するのは大袈裟なの!?」
私はこの泣きじゃくってぐちゃぐちゃになった顔をみすみす晒して、どれだけ私が追いつめられていたかを見せてやった。……そもそも、アルミンがあんなに自分を追い込んで、無理を重ねなければこんなことにはなっていなかったはずなのだ。……私だって止めてやれなかったけれど、アルミンだって自分の限界を見誤って……、だから……っ、
「アニ、落ち着いて」
しっとりとした声の抑揚でアルミンが諭した。
それがあまりにも柔らかくて、どうしようもなく愛しくなって……私はまたアルミンの手のひらに縋るようにうずくまった。
「やだ……やだ、アルミン……こわい……未来を生きるのが、こわい……」
いつかまた、こんな思いをしなければならない日が来るのかと思ったら、唐突に身体が竦んだ。人はいつかは死ぬものだ……そんなことわかっている。だから、アルミンが私を一人残して先立ってしまったら、とたくさん考えた。今回はアルミンは目を覚ましてくれたけれど……〝それ〟が、今回ではなかっただけ。……それに気づいた途端、身体が重くなって、どろりとした恐怖にまた絡めとられた。
「……あんたがいつかいなくなるかもしれないって、そう考えたら、もうこわくて……私……」
ぎゅう、ぎゅう、これでもかというほど、アルミンの手のひらを握り込む。この恐怖から逃れる術があるのなら、今すぐにでも教えてほしかった。あまりの悍ましさに困惑するほどだ。ぼたぼたと零れ落ちる涙は、未だ止めどない。
「アニ……、」
「っ、置いていかないで……っぐ、アルミン、一人に、しないで……っ」
肩を揺らしながら懇願した。できうる限りの強い念とともに、私は懇願するしかなかった。いつかそんな未来が来てしまうことを考えたら、今すぐ楽になりたいという気にさえなった。
「アニ。約束するよ」
ふわりと、握り込んでいたアルミンの手のひらが意思を持って動いた。それは私の手の間から抜け出したと思うと、ふうわりと私の後ろ頭に触れ、それから久しく感じなかったほどのやさしい手つきでそこを撫でてくれた。
「……僕は君より先に死なない」
――気休めにしかならない言葉が紡がれた。……その声は、とてもやさしかった。
「そんなの、わからないでしょ……!?」
「それでも僕は、君を一人で遺したりしない」
やさしさはそのままに、今度はいっそう芯を持った声色だった。アルミンが目的意識を持って紡ぐ、凛々しい声を思い出した。それによく似ていた。……今はまだ少し弱々しかったけれど。
そんな不確定な未来の約束をされたって、そんなの誰にもわからないというのに。それでもアルミンはそこにはっきりと断言してしまった。
「……ね? 今回のでわかったじゃない。僕は死なないから、アニ」
言葉にならなかった。――そうなのだ、実際アルミンは、ほとんど生還は絶望的と言われた死の淵から帰ってきたのだ。……私は、この男を信じてしまいたかった。アルミンが言った通り、未来はそうなるのではないかと、縋りたかった。
「目を見て。」
言われて、ハッと閃いたように息を短く吸い込む。
指示通りにその瞳を見てやると、アルミンの瞳は一つのぶれもなく私のことを見ていた。しっかりと、ここにこの約束を釘づけるように。
――安堵だったのだろう、そう言ってもらえたことの。私の中でまた滲み出すような、どうしようもない感情が湧き上がって、これまでとは違う温度の涙が溢れた。
「……約束守らないと、地獄の果てまで追いかけるから……っ。ぜったいぜったい、先に死んだら許さないから……!」
涙のせいで視界が歪んで、もうアルミンの目は見えなかったので、私はまたうずくまって泣いた。その言葉が一つも力なんて持っていないことはわかっていたのに、どうしてだろう、私の中では何よりも強い希望のようだった。
「うん、大丈夫だって。……アニ、ずっとここにいてくれてありがとう」
またゆっくりとアルミンが私の頭を撫でてくれる。
思えば意思を持たないこの温かい手のひらを抱いて、長い夜だった。……それは今は、ちゃんと自らの意思を持って、私の頭に触れて、そして寄り添うように、慰めるようにそこに居続けてくれている。
「うん……っ、ほんと、長い一晩だった……」
その温もりのせいで私は余計に顔を上げられなくなって、願い続けていたこの〝ふたりで生きている〟瞬間を噛みしめた。それを身体の――いや、魂の芯まで浸透させるように、そのままこの温かな瞬間の連続を、しばらく享受し続けた。
アルミンはその後、一定の期間は絶対的な安静をするようにと言い渡されていた。――その期間というのは一週間ほどのことで、そのあとも数週間は入院しながら経過を診るのだと言われた。
当然ながらパラディ島への回答期限までにアルミンがその書類を再び目にすることはなかった。……それらは皆で手分けをしてまとめて、ジャンとピークで正式な文書として仕上げ、なんとかパラディ島へ届ける期限内に提出することが叶った。つまり、内部の締め切りは正直に言うと間に合わなかったのだが、パラディ島への回答には間に合ったということだ。その旨だけは伝えてやった。
その後も一段落したとは言え、書類仕事は続いていく。どうやらアルミンは、ジャンやライナーに病室に書類を持ってきてくれと打診していたようだが、彼らは一丸となってそれを拒否し、とうとうアルミンは退院までに仕事に関連するものを一切目にすることはなかった。――頭を働かせていたい人間に対してそれは少しやりすぎだろうかとも思ったが、まあ無理をするとどうなるか思い知ってもらういい機会とした。
アルミンが不在でしばらく静かだった自宅にも、ようやく家主が帰ってくる日を迎える。その日は皆で勝手にアルミンの家に入り、飾りつけをして、派手に祝ったのだった。
おしまい
あとがき
いかがでしたでしょうか。
今回またいつになく暗くてすみません……!
今回はね、アルミンが先に死んじゃったら生きていけないかもと自覚するアニちゃんが書きたかったんですよ……。(なぜそんなニッチな)
自分の中でアルミンはあまり長生きしないだろうなと心配する部分があって、それを具体的に考えていったら、後追いを考えるアニちゃんまで浮かんでしまって……。
そんな未来にならないといいなと、アニちゃんに覚悟を決めてもらうためのお話、みたいな感じで書きました。
いつかそうなってしまっても、アニちゃんには思い出を胸に天寿を全うしてほしいね……(願望)
(かと言って後追いしようとする彼女も解釈一致と言えば一致なんですけども)(だからこそミンはアニちゃに子どもを遺してあげたいって思うと思うんですよ)(でもそれにはまた一悶着もニ悶着もありそうで)(アニちゃん妊娠したら泣いて嫌がりそう……子ども苦手そうだし身の丈に合わないってなりそうだし)(この話はやめよう。)(というか続きはまたどこかで)
ちなみに、ミンが倒れた病名としては過労による脳出血のイメージだったのですが、さすがに1940年代の治療法とか探してもわからなかったので、ふんわり描写してます……。
CTやMRIが出てきたの1970〜1980年だって。
心電計も長時間付けられるものが出てきたの1960年代らしいので……医学の発達に感謝……。
近年は死亡率は下がってるという表記だったので、このころはもしかしたら高い確率で亡くなってたのかも……。
いやはや、こんなところまでご読了ありがとうございました。
またの機会にはよろしくお願いします!