バレンタインの憂鬱・前編
ユーリ城の中庭には城主自らが管理する薔薇の園とアッシュの管理する食用薔薇の区画がある。
城の表庭にも勿論薔薇はあるが、そちらは自生に近く特に目立った管理はされては居ない。
ユーリ自らが手塩にかけている薔薇の園はこれまでDeuil以外の立ち入りが一切禁止されていた。
…と、言うよりそこまで深く関わるような間柄の人物もいなかったゆえに立派な薔薇の園が中庭にある事を知るものは居なかったと言える。
吹き抜けになった二階、三階の廊下から中庭を見下ろせる。
もえを城に迎え、神を始めミミやニャミ、ポエットとの交流が極端に増えた事でその存在を知られる事になった。
初めてそれを知ったレディ達の興奮した表情はとても微笑ましかった。
しかしこの場への立ち入りが許可されているのはこの城に棲む者のみ。
ユーリはそれを徹底している。
この日もえはアッシュと共に薔薇の園を訪れていた。
城内は通年でやや温度が低いが、この場所は結界によって保温されており寒さ厳しい真冬のメルヘン王国北部でもまるで穏やかな春の日のように温かい。
アッシュは食用に育てている薔薇の花を手にした籠に慣れた手つきで摘み取って行く。
薔薇のジャムと花弁を使った菓子を作るのだと張り切っておりその表情はとても楽しそうだ。
世の中はバレンタインにホワイトデーと忙しない。
アッシュもそれに向けて試作試作の毎日の様だ。
もえは入口にほど近い場所に設置されたベンチに腰を下ろしてアッシュの姿やユーリの薔薇の園を眺めていた。
幾らここの住人となったとは言え、大切にしているとわかる場所を無闇矢鱈に歩き回ったりするのは気が引けるからだ。
それにここからでも充分にバラの花を楽しめるのだから。
薔薇はDeuilリーダーの象徴として広く認知されている。
実際デザインにあしらわれる事も多い。
DeuilにとってもDeuilのファンにとっても
正に『特別』な花であるのは間違いない。
周囲を満たす薔薇の香りはここに咲き誇る薔薇たちから漂うものだけでは無い。
この場所は特にユーリの魔力が強い。
故に残滓の香りも当然ながら強くなる。
それは園に咲く薔薇とは明らかに異なる柔らかな甘さを帯びた香り。
咲き誇る薔薇達の香りは以前の城主が纏っていた香りに近く、凛として強い…如何にも『薔薇』と主張した香りであり、確かに初めてここを訪れた頃はこんな風に強い薔薇の香りが満ちていた記憶がある。
…一体いつからこんな風に柔らかく甘さを感じる様になっただろうか。
そんな事を考えながらぼんやりと瑞瑞しい薔薇の花達を眺めていたが、やがて花を摘み終えたアッシュが少年のように笑顔を輝かせてやってきたのを見てもえはベンチから立ち上がり、揃って中庭を後にしたのだった。
夕刻、いつもなら夕食の支度でアッシュと共にキッチンに立つ時間なのだが…
この数日の忙しさを見ていたDeuil面々によって今日はリビングでのんびりしているように!と言い渡された。
大袈裟な程に毛布やブランケットで包まれ、もはや着ぐるみのようである。
温かい紅茶も美味しい茶菓子も目の前に並べられており正に至れり尽くせり…といった様子だ。
スマイルはアッシュの手伝いにキッチンへ入っていき、城主は先程から姿が見えない。
もえはソファーにこてんと横になると小さく溜息を零した。
正直バレンタインが憂鬱だ。
どんなに努力したところでアッシュの作る物に適う訳が無いのだ。
だが、だからと言って何もなし…
という訳にもいかない。
そんなことをすれば城主も兄達も大きく落胆するであろう事は流石にもう想像に難くない。
それに他の懸念もある。
バレンタインが近づく程になんだか不安で落ち着かない。
自分もアッシュの隣で一緒になって試作をしたいが…今年はどうも気分が乗らない。
いっそ手作りはやめて既製品にしてしまおうか。
仮に既製品だったとて…自分に滅法甘い最近の彼らならば大層喜んでくれるに違いない。
二度目の大きな溜息。
鈍い思考と気怠い身体。
本来なら別の意味でそわそわと落ち着かない時期のはずなのに…。
そう思うとなんだか泣けてくる。
この不安が消えてくれればいいのに。
そう思わずには居られないもえだった。