茨路7〜受難~
真冬の曇天からしんしんと降りてくる白い結晶達が強風に煽られ辺りを白く染めていた。
この冬一番の冷え込みとなったこの日、妖怪屋敷リビングのファンヒーターと暖炉は朝からフル稼働である。
「無駄に広いのも良し悪しネ…」
寒い寒い…と毛布にくるまっていたスマイルがうんざり気味にそう零している。
「ココ、夏は涼しくて快適だケド…冬はカナリきっついヨネェ。
そろそろ改修工事必要じゃナイ?」
「…そんなに寒いっスかね?」
「…わんこは冬に強いカラ…」
「犬じゃねぇし。」
「似たようなもんデショ。」
何食わぬ顔をして冷めかけた紅茶を啜るユーリも傍らに置いた毛布を手繰り寄せた。
「…確かに改修が必要かも知れぬな。」
「つーか二人は運動不足もあるんじゃねぇっスか?」
「「…それは……」」
ない。とも言いきれず二人は揃ってなんとも歯切れ悪く濁して視線を泳がせた。
やれやれ。とアッシュは呆れるが、あれ?と小さく零して立ち上がった。
「如何した?」
「いえ…そう言えば姫、遅くないっスかね?」
時刻は間もなく午後二時半。
そろそろ仕事が終わっていい頃のはずだが、もえからの連絡はまだ入らない。
今日は目前に控えたバレンタインの特集リポートをポップンシティモールの催事でする予定だったはずだ。
ミミやニャミも一緒で更に神の信頼の厚いスタッフが付いていると聞いている。
「大方あの二人が暴走して押しているのだろう。」
「いつでもテンションMAXだもんネー…。」
底抜けに明るいあの二人の姿が容易に想像出来た。
加えて彼女達ももえを溺愛しているのだから輪をかけて賑やかである。
「楽しそうにニコニコしてるのはいいじゃないっスか。」
「しかし限度というものがあろう?」
「そーそー。いっつも姫が振り回されちゃってサ!」
スマイルの一言にユーリとアッシュはお前がそれを言うのか…と突っ込んだ。
それを受けて反論をしようと息巻いた刹那。
「あ、電話っスねー。」
城の固定電話に呼ばれてアッシュが対応へ向かう。
ちぇっ…と不服そうにスマイルが零して拗ねたようにソファーに寝そべった。ユーリはそれを見て呆れている。
「はい、こちらユーリ城……あ、ミミさん?」
ミミの名に二人は反応する。
仕事が終わり、迎えに来いという連絡だろうか。
「…え…どうなさったんです?
あ、あの、落ち着いて…」
アッシュの困ったような様子に二人は顔を見合わせると立ち上がりわらわらとアッシュを取り囲む。
ユーリは電話のスピーカー通話ボタンを押した。
「…ミミ。私だが。」
『あ…ユーリっっ!!
あの、あのねっ、大変なことになっちゃって…!』
「大変なこと?」
『あたし、今病院なの!』
「…ミミチャンどっか悪いノ?」
『ちっ、ちがうっ!…違うの!
あたしじゃないのっ!
も…もえちゃんがっ
もえちゃんがね…っ』
『もえ』の名に三人は表情を変える。
「何があったのだ?
否、そんな事よりモエは無事なのだろうな?」
『そ、それが…っ、頭を打ってて、意識がなくって…!
それで、それでっ…!』
彼女は余程混乱しているものと見える。
頭を打ったというその一言が一気に不安感を煽った。
しかしこのままこうしていても埒が明かない。
自ら確かめに行った方が早いだろう。
「病院とは総合病院だな?」
『う……うん、そう…!』
「承知した。直ぐに向かう。」
ユーリは電話を切ると静かにお前たちも行くか?と問うた。
答えなど…聞くまでもないと言うのに。
装ったところで冷静になれていない証拠だろう。
口にした後に気付いて二人の返事も聞かずに踵を返し玄関に向かい外套を羽織った。
二人が慌てた様子でドタバタと追いかけて来て支度を始める。
彼らも余裕がないのは同じのようだ。
緊急処置室前の待合室にミミとニャミ、そして神がいた。
つい先程までスタッフも何人かいたようなのだが、Deuilが来るのを聞いて神が帰したらしい。
ミミとニャミは真っ青に青ざめて当時の様子を語った。
それは仕事が終わり撤収を始めた時の事。
ミミとニャミ目当てに多くのファンが詰めかけていた。
しかし余りの熱気に撤収作業とかけ持ちのスタッフには制御が厳しく…やがて二人はファンに囲まれてしまった。
そこは慣れたもので二人は寄り添い上手く対応していた様だ。
だが問題はここで起こる。
階段の方から悲鳴が沸き起こった。
それに辺りは騒然となり…誰かが階段から人が落ちた!と騒ぐ。
二人は咄嗟に周囲を見渡しもえの姿が無いことに気付くと階段の見える位置にまで出て身を乗り出した。
…予感は見事的中である。
辺りは酷く混乱して悲鳴や怒号が飛び交っていた。
ミミとニャミを取り巻いていた混乱は
奇しくも新たに湧いた大きな混乱によって
解消されたのである。
程なく騒ぎを駆けつけたモールの警備員によって事態は沈静化されたが…彼女は頭部を打って意識がなく、身体のあちこちには落下の際に付いたと思われる擦り傷があった。
「……あたし達が…もっと…」
「…ちゃんと気を配ってたら…」
「起きてしまった事は仕方があるまい。」
「「だけどっ!!!」」
「今更、であろう?」
「「……そう、だけど……」」
「それにモエは
…我らが姫君は、お前たちを責めることを
是とはしない。
……決してな。」
静かに放たれた言葉。
下を向く彼の視線。
それらは勿論本音であるのだろうが…
それだけでは無い複雑な心境が見て取れる。
「「………。」」
それ以上言葉を発する事は許されないような気がして…ミミとニャミは口を噤むより他がなかった。
「…けど…何で姫が階段の方に居たんだろ…?」
「そうっスよね。
…常に危険予測しての行動が染み付いてるはずの姫が何で…」
ユーリと同様に俯き項垂れたアッシュとスマイルも生気の抜けたような声で呟く。
「恐らく、年始の件に絡んでるんじゃねぇかと思う。」
「「「「年始の…?」」」」
「…ユーリ。お前もそう読んでるんだろ?」
「……ああ…。
まだひと月しか経っておらぬ故
その位の推測は容易かろう。」
「…俺様としちゃ…スパンが短過ぎると思ってるがな。
もう少し熱が冷めるまで事は起きないと思ってたんだが…」
勿論警戒を怠ってた訳じゃねぇよ?と神は付けつけ加えたが、どこかバツが悪そうにしている。
重い空気の中、処置室の扉が開く音がして面々は一斉に顔を上げるとそちらに視線を送る。
出てきたのはルークだ。
ユーリは真っ先に立ち上がりルークの前へ歩を進めた。
ルークはユーリを一瞥した後面々を見渡すと『一先ず命に別状はない。』と告げる。
それは…張り詰めた面々の緊張を緩めるには効果絶大であった。
あからさまに安堵した面々、特にミミとニャミは泣き出す始末である。
自責の念に囚われていたのだから無理もない。
「…しかし、命に別状はなくとも頭を打っている故、彼女の意識が戻るまではどんな事になるか分からぬ。
…検査では特に問題は出ていないが…
楽観視するのは軽率だ。」
淡々と告げたルークの様子を見てユーリは少し緊張を解いた。
彼には信頼を置いているからこそ、その言葉は説得力がある。
『命に別状はない』
やはりこの一言が何よりも大きかった。
その後処置室から個室へ移し、ミミとニャミは神やDeuilに説得されて渋々別の仕事へ出かけて行った。
それから更に一時間ほどが経った頃、もえの意識が戻り会話することも出来た。
頭を打った影響なのか彼女はどこかぼんやりとしていたが…幸い記憶にも問題は無い様子だった。
『一体何が起こったのか』
誰しもが疑問に思っていた事だったが
余り負担になるような会話は避けよとの主治医の指示により、この日それを聞くことはかなわないままだった。
もえは大事をとって一晩入院し、城へ帰宅したのは翌日の午後の事だった。
ユーリは面会時間開始時刻に合わせて総合病院へ出向く。
二人も行くと頑なに言い張ったが『城で帰りを待ち笑顔で出迎えてやって欲しい。』と…説得した次第だ。
「全く手続き手続き…面倒臭ぇよなァ。」
面会時間開始直後にやってきた神が不服そうに独り言つ。
「貴様がする訳でもあるまいに。」
ユーリがそう切り返せば神はうっ…言葉を詰めてそうだけどよォ…と視線を逸らした。
もえは今最後の検査と診察に出向いているらしい。
昨夜届けておいた私服に着替えたのだろうか、病衣は綺麗に畳んである。
担当の看護師の話に寄ると朝食もきちんと食べられており立ち上がりなどの動作にも特に支障は無かったらしく概ね正常の様だ。
まだ姿を見ていないからなのか妙に落ち着かず、脚を組みかえては溜息を零す。
そんなユーリを見て神は笑いを堪えて肩を震わせた。
「…何を笑っている…」
「いや、悪ぃ…。
お前、ホントによォ…くくくっ」
悪いとは口にしつつまるで思っていないのでは?と疑ってしまうほど、神は遠慮なく笑っている。
「…何だと言うのだ…」
「なァ、心配か?」
「当たり前だろう!」
「あはは!そーかそーか!」
「笑い事では…!!」
「分かってる分かってる。
悪かったって!」
「それが『分かっている』と云う態度か!?」
謝辞を口にしながらもその表情は可笑しそうに歪んでおり、それには堪らなく神経を逆撫でされてユーリは黙り込んだ。
「悪かったって。」
「……………。」
「なァお前さ。
アイツに惚れてからどれだけ自分が変わったか…自覚あるか?」
「……………。」
「仮にアッシュやスマイルがこうなったとして、今と同じように心配していたと思うか?」
その問いかけにはユーリ自身も思う所があったらしい。
当然心配は寄せるだろうが…正直ここまで不安を帯びるような心配はしなかったのでは無いだろうか。
そもそも二人は妖怪で人間よりは頑丈だ。
だからこそちょっとやそっとの事では大事にはならないと云う安心感がある。
…だがそれだけでは無い。
「……いや…。」
「だろ。
だけど今後は恐らくアイツらに対してもそうなるんだろうな、お前。」
「…………。」
そうかもしれない。と心の中で思う。
知ってしまったのだ。
本当に『儚く消えてしまうかもしれない』
そんな恐怖を、身をもって。
「ま、そう仕向けたのは俺様なんだけどよ。
お前らさァ、ほんっと軽く予想を越えてくるからマジでビビるぜ。」
何処か満足そうな表情を見せる神が小憎たらしいと思うユーリだった。
「姫!オカエリッ!」
「おかえりなさい、姫!!」
ようやっと諸々の手続きやら何やらを済ませもえと共に帰宅出来たのは昼を少し回った頃だった。
「た、ただいま帰りました。
あの…ご心配をお掛けしまして…」
「そんなコト全然いーカラ!!」
「そうですよ!
お風呂と昼食準備してあります。
どっちにしますか?」
「先にゆっくり湯浴みをしてはどうだ?
食事は後で良いだろう。」
「……はい、じゃあ…」
「ウンウン、ゆっくりしておいで♪」
自室へと向かうもえの背中を見送ってから三人はリビングへ移動した。
ソファーに腰を据えた所でスマイルが切り出した。
「…それで?何か聞いたノ?」
「否。」
「…そ。」
「姫、少し元気ないですよね…。」
「どうやら本調子、と云う訳では無い様だ。」
「……まぁ…そうですよね。」
「今回の件の詳細についてはルークからも釘を刺されている故、モエ本人から話が出るまで聞き出すような事をせずに待ってやって欲しい。」
「解ってるヨ。」
「元よりそのつもりっスよ。」
「そうか。…ありがとう。」
漸く二人も落ち着けたのだろう。
いつものペースに戻りつつあるのを肌で感じ、ユーリ自身も張り詰めていた気が緩んでいく気がした。
仄かに薔薇の香りに包まれた身体を姿見に写して溜息が溢れた。
上手く受身を取ったつもりでいたのだが、思った以上にあちこちに痣がある。
何より…階段から転げ落ちた後、朦朧としている中でどさくさに紛れて踏みつけられた脇腹はまだ動くとズキズキ痛む。
主治医のルークや看護師達も後日何かおかしな点が出てきたら必ず受診する様にと念を押していた。
しかしこの件に関しては誰にも言うつもりは無い。
もし言ってしまえばどうなるかなど想像に難くないからだ。
しかし何故、お守りに着けていたペンダントの効果が発動しなかったのか…。
そこまで考えてハッとなる。
「……ペンダント…っ!!!」
当然現時点で胸元にそれは無い。
しかし外した覚えはない。
緊急で運び込まれた際に外された…と云うのがセオリーだが、何故かそうでは無いような気がして…もえは慌てて着替えバスルームを飛び出した。
リビングのドアを勢いよく開けば驚いたようにこちらを見る三人の姿。
「お、オカエリ、姫…」
「血相を変えて…どうしたんです??」
「あ、あのっ…!
わたしの荷物は預かっていませんか!?」
「あ、ああ。今お持ちしますね。」
そう言ってアッシュはダイニングへと入っていき、程なく戻ってきた。
こちらです。ともえに荷物を手渡すと、もえはありがとうございます。と預かり絨毯の上でバックを逆さにして勢いよく中身を広げた。
「…姫?」
様子のおかしいもえに思わずスマイルが声をかけたが、もえは荷物をじっと見つめたまま固まっておりスマイルは不思議そうに声をかけた。
「姫??ドシタノ?」
「……ない…」
「え??」
「……ないの…」
みるみる血の気が引き青ざめていくその姿にただならぬ緊迫感を覚えつつ…努めて冷静に問うた。
「エット、何が?」
「…ペンダント…!
ペンダントがどこにもない…っ!
どうしよう、なくしちゃった…
…なくしちゃった…!!!」
がっくりと項垂れてぼたぼたと大粒の涙を零しているもえの姿にたちまち大慌てになる兄二人。
「ぺ…ペンダントってアレデショ!?
この前ユーリが買ってくれたってヤツ!」
「あのムーンストーンのカメオですよね!?」
「え?え?まって、ナイって…
ずっと着けてたんデショ??」
まるで初めての育児に翻弄されるかのようにオロオロとするばかりの二人の兄。
泣きじゃくるばかりのもえは兄達の問いかけにただ頷くか首を振るかでしか答えられない様子だった。
「……モエ。」
その様子を見兼ね、ユーリは努めて冷静にもえの前に膝を付きそっと頭を撫でた。
「無いものは仕方ないだろう?
なに、また新しいのを買えば良いさ。」
「…いや…」
「…モエ?」
「…あれじゃなきゃいや…!!」
まるで駄々を捏ねる子供の様な口振りでそう告げるもえに面食らったユーリだが…実際無くなってしまったものはどうする事も出来ない訳で。
困った様子で…いや、しかし…と、そう言い淀むしかない。
「絶対いやなの!!」
いつもは大人びた彼女が見せる今のその姿に…三人はすっかり固まってしまったのだった。
癇癪を起こした子供の様に激しく泣きじゃくったもえを横抱きに抱えて寄り添い、宥める事約一時間。
落ち着きを見せ始めたもえの顔を覗いてユーリはその涙を指先で拭う。
まさかこの様に取り乱すとは…と、まだどこか現実味がない。
しかしもえは縋るようにしてユーリに身を委ね、まるで何かを恐れるように震えている。
ロティを呼ぶべきか否か…正直判断に迷うところだがそれを問うた所で不要だと突っぱねられてしまうだろう。
また勝手に呼んだとて後で叱られるに決まっている。
どうしたものか…と頭を悩ませていたが、もえからは次第にくたりと身体の力が抜けて行くのが解った。
泣き疲れて体力の限界を迎えたらしい。
「…モエ、何も心配は要らぬ故、そのままおやすみ。」
その額に軽く口付けを落としてやればもえはすっと眠りの中に落ちて行った。
「「「………はぁ……」」」
揃いも揃って同じタイミングで大きな溜息を零す。
「びっっっっっくりしたァァァ………」
あからさまに項垂れたスマイルを横目にアッシュもどこかそわそわと落ち着かない様子を見せる。
自分とてそうなのだから仕方ない。と思いながら…。
確かにあのペンダントは質の良い品ではあるが、彼女を『護る』ためには余りに頼りない代物だったゆえに大して価値のある品とは言えなかった。
…少なくとも自分にとっては。
しかし、この姿を見ればそれは大きな間違いであったと気付く。
【替えのきかない価値のある品】とは、品質がどうのこうのではなくまして高価であることでもない。
その価値は第三者が決めつける物ではなく…持ち主が決めることである…と。
解った気になり、取りこぼしていた真実や本当に大切なものをまたひとつ彼女に教えられ、替えの新しいものを用意すれば良いだろうなどと考え口にした浅慮な自身を恥じるばかりのユーリだった。
「さぁ、姫。沢山食べてくださいね!」
「今夜は退院お祝いだからネ!
姫の好きなメニュー、たっくさん用意したヨ♪」
「勿論、デザートも用意してますんで!」
「…………。」
「「…………。」」
泣き疲れて寝落ちたもえをユーリは自室へ連れて行き、傍らで寄り添いつつ出来る範囲で仕事をこなしていた様だが、夕刻目覚めたもえを連れてリビングへ戻ってきた。
丁度夕飯の支度が整った所でアッシュは二人を見るなり直ぐに盛り付けと配膳に移行した。
ユーリももえを連れダイニングへ入ると彼女を席に着かせる。
並べられた豪華なディナーを前にしても彼女の表情は冴えず、泣き腫らした瞼が痛々しい。
彼女の様子を前にはてさて困った。と兄二人が顔を見合わせているのを横目にユーリは静かに食事を始めた。
「折角の料理が冷めてしまうぞ。
温かいものは温かいうちに食さねば味を損ねてしまう。
それにしっかり食事をせねば体力も落ちる。
折角アッシュが手間暇かけて作ってくれたのだからそれを無碍にすると言うのは姫君も心が痛むのでは?」
「……。」
俯いていた顔を上げた彼女と視線がぶつかるも…彼女は直視していられなかった様子で直ぐに視線を落としてしまったが
「……いただきます…」
と、手を合わせて小さく告げるとユーリに倣った。
それを見てあからさまに安堵の空気を出した二人も食事に手を付けたのだった。
どうしようも無いことくらい
今更どうする事も出来ない事くらい
賢い彼女は理解しているだろう。
それでもまるで拗ねた幼子の様な姿を見せているのは彼女なりの信頼と甘え…なのだろうか。
今はとても聞き分けの良い【良い子】にはなれないのだと
譲れないものがあるのだと
そしてそれを僅かでも理解しろと。
…彼女はそう全身で訴えているのだろう。
と、ユーリ自身はその様に受け止めていた。
翌朝、ユーリはいつもより早く目が覚めてしまいそのまま身支度を整えると部屋を出た。
すると丁度彼女の部屋のドアが開き自分同様に身支度を整えたもえが姿を見せる。
「あ…ユーリさん…」
「おはよう、姫君。」
「おはようございます。」
律儀にこちらを向いて頭を垂れる姿にユーリはつい目を細める。
「あの後はしっかり眠れたか?」
「はい。……あの…」
「如何した?」
「…昨日は、その…すみませんでした…」
居心地が悪そうに下を向き身を縮めるもえの姿には面食らってしまう。
「…大変お見苦しい様を…」
しかしよくよく見てみれば彼女の瞼は腫れていて目も充血しており、一晩であの気持ちを切り替えるのは至難だっただろうと察する事は容易である。
「…否。」
そっと頬に触れて上を向くように導けば、もえは素直にそれに委ねこちらを向く。
「モエにとって如何に大切な物であったのかを痛感させられたよ。
軽く考えていた私が愚かであった。
…すまない。」
「い、いえ…!
ユーリさんの仰った事は正しいです。
無くしてしまったものはもう、どうにもなりません。
でも…それでも…簡単に忘れることも、わたしには出来ないんです。
…ごめんなさい…」
そっとその身体を抱き寄せて腕の中に収める。
「解っているよ。私の配慮不足だ。」
「…ユーリさん…」
縋るように、甘えるように抱き返してくるもえに堪らない愛おしさを覚える。
「…とは言え、紛失してしまった以上やはり何も持たないのは危険であると思っている故、代わりの物を用意しようと思うのだが…構わないか?」
「……。」
正直、今回の件で自分独りで太刀打ち出来るような事ではないと痛感した。
彼らの負担を減らすと言う意味でも…ここは彼の厚意に甘えるのが最善なのだろう。
「…モエ?」
「…すみません。本当に…。」
「何故謝る?」
「…わたしが、不甲斐ないから…でしょうか…。」
もえのその一言にユーリはもえを抱き上げた。
「え…ユーリさん!?」
ユーリはそのまま自室へと戻りベッドにもえを下ろすと彼女を組み敷いて見下ろした。
「あ…あの…っ…」
困ったようなその眼差しに薄らと涙が滲んでいる。
「…不甲斐ないのはこの私であろう…。
何一つ守ってやれない。
気持ちも汲んでやることが出来ない。
…情けないだけのこの私なのだからモエはそんな風に考えずとも良い。」
彼女がどれ程の苦痛を強いられたのか
どれ程の苦悩を今尚強いられているのか
見えていた…否、今も見えているはずなのに。
いつだって自身のことは後回しにして他者を優先させる彼女に…結局自分は甘えているのだ。
ユーリは覆い被さるようにして身を重ね、そっと髪を撫でる。
もえはただそれに身を委ねた。
「此度の件は重大な案件として認知される事となろう。
奴は犯人を探し出すであろうし、その末端が炙り出されるも時間の問題だが…」
「…黒幕はそう簡単に尻尾を掴ませないでしょう…」
「であろうな。実に巧妙の様だ。
…しかしそれが逆に目星を絞る良い手だてであるのもまた事実。」
「…目星…??」
ユーリの言葉に思わず顔を上げる。
彼は一つ頷いてまた髪を撫でていた。
「…だが確定では無い。
あくまで予測に過ぎぬ故まだまだ警戒せねばならぬだろう。
…大変な苦労をかけて済まない…。」
やはり彼には今の自分の心の内が見えている様だ。
否、恐怖も不安も…隠せているつもりでいたのは自分だけなのだろう。
この分だと兄達はおろか…仲間たちにさえも気付かれているに違いない。
「いいえ。
謝らなければならないのはわたしの方です。
わたしが毅然としていなければならないのに、直ぐに揺らいでしまって…。」
「何を言う。
他でもない己の身が危機に晒されておるのだ、揺らぐのは当然であろう。
…モエは充分に毅然としているよ。
我々の方こそ直ぐに狼狽えて、なんと情けないことか…。」
困ったように微笑んで額に唇を落とす。
「よくお聞き、モエ。
どうか決して無茶をしてくれるでないぞ。」
「……。」
ユーリの言葉にもえは押し黙る。
そんなに様子にユーリは思わず苦笑して
『こちらの身が持たぬ故、善処してくれると助かるのだが…』と零すともえは小さく『出来る限り頑張りますので…』と答えたのだった。
ミミから連絡を受けた時
『生きた心地がしない』
そんな気分になった。
本やドラマの表現では良く目にする文句であるが、自分にはそんな対象など現れぬと思っていた事もあり、言葉を理解出来ても実際に身をつまされる思いをする事になろうとは夢にも思わずにいた。
そして理解する。
『そうなってからでは遅い』と。
最早手をこまねいている場合では無い。
立場がどうのこうのと悠長に構えている場合でもない。
既に二人の仲、関係性に関しては公表しているのだ。
今まで放棄し他人任せにてきた事にもしっかり向き合わねばならぬ時なのだろう。
己の手の中にあるこの『大事なもの』を己の手で守る為に。
面倒だなんだとゴネて逃げ回るのは彼女に対する不義理でもあろうと考える。
「…モエ。」
「はい?」
「…もしもの話なのだが…」
「はい。」
「『私の伴侶となってくれ』と言ったなら…
モエは快諾してくれるか…?」
「…え…?…はん…??
それって……え、えぇ!?」
途端に顔を赤くして分かりやすく狼狽えるもえに愛らしいなどと思いながらユーリは
『もしも。仮定の話さ。』と悪戯に微笑む。
その様子にもえはむっとした様子を見せながら
「そう言う嘘はエイプリルフールでもダメですよ!」
…とぷりぷり怒っていた。
「嘘ではなく、仮定の話だ。」
「そういうの、屁理屈って言うんですっ。」
ああ、びっくりした…ともえは溜息を零す。
「…それで、答えは?」
「…………。
答えなんて…きっとそんな直ぐに出せませんよ。」
「そうか。
…そう言えば交際を申し込んだ時も一度は断られているな。」
「そんな事…蒸し返さないでください…」
「しかしモエは押しに弱い。
最後はきっとあの時のように快諾してくれるのであろう?」
そう言って微笑むユーリにもえはつんと顔を背ける。
「…それはどうでしょうか。
流石にハードルが高いですしお受けできないかもしれませんね。」
そう言ってユーリを押し退けるようにして身体を起こした。
どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。
「正式にお付き合いをしてから、まだ三ヶ月も経っていませんもの。」
「確かにそうなってからはそうだが…モエがここへ来て二年目となる。
共に生活し、互いの事もそれなりには理解出来ているではないか。」
「それは…否定しませんが…」
冗談なのか本気なのかよく分からないユーリをちらりと振り返ればベッドにふんぞり返って妖しく微笑みながら自分を見ているその目と視線がぶつかる。
「お戯れも程々に。」
少々呆れを交えてそう告げるともえはベッドを降りようと立ち上がる。
「…そろそろ降りましょう。
すっかり遅くなっちゃって…きっとお兄ちゃん達が待ちくたびれて居ますよ。」
そう言って差し伸べたもえの手をユーリはそっと取った。
そしてユーリともえがダイニングに降りるとアッシュとスマイルはどこかよそよそしく…妙に落ち着かない様子を見せていた。
大方盗み聞きでもしていたのだろう…とユーリは予測したが、それが正解だと判明するのはこの少し後の話である。