【K】獣耳尻尾には浪漫が詰まっている 石で出来た建物はどうにも馴染めない、とさほど重要でもないことを考えつつ、國常路は研究の中心人物である年若い男の姿を探し、研究所内をひとり歩いている。
まず彼個人の研究室を訪ねるも不在で、通りすがりの研究員に彼の所在を尋ね、教えられた部屋へ赴くも一足遅く入れ違いになってしまい、そこからは行く先々で同じことを五回は繰り返していた。
「なんだってこうも落ち着きがないんだ……」
頭脳は明晰だが言動に子供じみた感のあるヴァイスマンの顔を思い描き、國常路は眉間に深い皺を刻む。研究の成果だけを見れば非常に優秀なのだが、その人物像はとてもではないが上には報告できないと常々思っている。
決して悪い人間だからと言う意味ではない。むしろ逆だ。
彼はこの戦時下において、驚くほどに純粋で善良すぎるのだ。
他国の研究機関に資金援助をしてまで戦局を有利に運ぼうとしている上層部を非難できる立場ではないことを、上からの命令は絶対と叩き込まれた軍人の國常路は痛いほどわかっている。
「ヴァイスマン?」
回り回って結局は出発点へと戻ってきたわけだが、コツコツコツ、とそれでも控え目に扉を叩けば「はーい?」と呑気な応えが返ってきたことに、苛立ちよりも、ようやく捕まえた、と安堵が先に立った。
「失礼する」
「堅苦しいなー中尉は」
そこはこんにちはでいいんだよ、と焼き菓子片手に緩い笑みを浮かべるヴァイスマンに、國常路は漏れ出そうになった呆れの溜め息を飲み下す。
彼の研究室は至る所に物が雑多に置かれ、机の上も大量の書物や國常路には理解できない数式の書き殴られた紙束が積まれており、下手に動いては参事になりかねず扉の前から動きたくないというのが正直な思いだ。
だが、國常路の心情など知らぬヴァイスマンは事も無げに「座れば?」とかろうじて物が載っていないソファを目で示した後、自分もそちらへと移動する。
菓子皿と紅茶の入ったポットの載ったトレイと一緒に移動してきたヴァイスマンは國常路の隣へ腰を下ろし、
「カップひとつしかないんだ、ごめんねー」
と言いつつ、当たり前の顔で今の今まで自分が使っていたカップを國常路の前へ置き、ポットから新たに紅茶を注いだ。
もてなしてくれているのを無碍にも出来ず、國常路は複雑な表情で白く華奢なカップを手に取る。手中のカップを、じっ、と見つめ、ごつごつと豆だらけの手を持つ無骨な自分には不似合いな代物だ、と自嘲ではなく素直にそう思った。
「報告書取りに来たんでしょ。マメだよねぇ」
「取り立てて報告することがないのはわかっていますが、形式上仕方のないことですので」
「まぁね。無駄金使ってると思われるのも心外だから、心配しなくてもちゃんと出すよ」
ポリポリ、と菓子を囓るヴァイスマンを横目に、ちら、と見やってから、國常路は遊ばせていたカップを口へと運ぶ。ここに通うようになって甘いお茶にも大分慣れたか、すぅ、と眦を下げた國常路を、今度は逆にヴァイスマンが横目に見やる。
「ねぇ中尉。お願いがあるんだけど」
下から顔を覗き込むように首を傾げてくるヴァイスマンを見ながら國常路がカップを卓に戻せば、それを、つい、と取り上げてヴァイスマンは半分ほど残っていた紅茶を飲み干してから口を開いた。
「ちょっと研究に協力して欲しいなー、なんて」
「上からは協力は惜しむなと言われているので、私に断る理由はありませんが……」
「ほんと!? じゃあ早速!」
まるで新しい玩具を手に入れたような目の輝きに、一瞬、國常路の腰が退けたがヴァイスマンは全く意に介さず、こっちこっち、と座ったままの國常路の腕を取り、ぐいぐい、と引っ張る。
「まずは中尉のデータを取らせてね」
身長、体重、血圧、脈拍と手際よく測定し、簡易ベッドに転がされてからも触診、採血、唾液や毛髪の採取と無駄なく事が進んでいき、國常路は口を挟む隙がない。
「できれば暫く泊まり込んで欲しいんだけど」
ぺろん、と瞼を捲りペンライトを当てたと思えば、大きく開かせた口の中を検分し、うん、とひとり頷く。
「あ、あぁ、こちらへの滞在申請書兼報告書を提出すれば問題ない、です」
「了解了解。じゃあ、ちゃちゃーっと『中尉をお借りします』って僕からの申請書も作っちゃうね」
ちょっと待ってね、と言い置くやヴァイスマンは床に積まれた書物を器用に避け、跳ねるような足取りで机へ向かうと鼻歌交じりに羽根ペンを動かし、物の十分もかからずに申請書と報告書をキッチリ揃えたのだった。
ヴァイスマンの研究所に寝泊まりをするようになって一週間、ただひたすらに初日と同じ事を繰り返していることに、國常路は溜め息をつきそうになる。一体なんの研究かと尋ねても「内緒」と笑顔ではぐらかされ、その都度、気をそらすかのようにお茶やお菓子を振る舞われ現在に至る。
「いい加減、教えてくれてもいいと思うんだが……」
上品なティーカップは壊しそうで恐い、との本人の希望もあり、頑丈なマグカップに注がれた紅茶を口にしつつ國常路がぼやきを漏らせば、ヴァイスマンは隣でマフィンを囓りながら、うーん、と思案するように天井を軽く見上げた。
一週間共に生活をしてきた甲斐あって、口調がやや砕けた物になりつつある國常路に気をよくしたかヴァイスマンが、うん、とひとつ頷く。
「そうだな、わかりやすく言うと『変身薬』の開発研究、かな」
それを耳にするや國常路は、ぶふーッ! と紅茶を噴出し、げふごふ、と噎せた。
「うわっ、中尉大丈夫!?」
差し出されたハンカチで口許を拭いながら「なんだそれはっ!?」と引っ繰り返った声を上げる國常路の背をさすりながら、ヴァイスマンは、落ち着いて落ち着いて、と宥めるように柔らかな声を出す。
「目指すは回復促進薬なんだけど、まさかわざと怪我させるわけにもいかないからね。細胞に働きかけるといった点では共通点も多いから、まずはそっちを作ってみようかなー、なんて」
テヘ、とでも言いそうな邪気のない笑顔に國常路は毒気を抜かれたか、喉元まで迫り上がっていた非難の声は音になることなく飲み下された。
「具体的にはどのような……」
「それはお楽しみってことで。結果を先に知っちゃったらつまらないでしょ」
先がわからないワクワクは大事だよ、と笑うヴァイスマンを問い詰めたところで、のらりくらり、とかわされるのは目に見えている。
「それで、私はいつその被験者になるんだ」
「まぁ、追々ね。はい、お茶どうぞ」
だいぶ噴いちゃったからね、と笑いながらポットを掲げて見せるヴァイスマンに促され、國常路は素直にマグカップを差し出した。
なんてことない午後の一時だが、ここ数日ヴァイスマンの前にティーカップがないことを國常路は気にも留めていなかった。
丸めていた身体を伸ばすことなく、もぞり、とベッドの中で僅かに身動ぎし、國常路は未だ眠気の去らぬ頭を、ゆるり、と力無く振る。体内時計は既に起床時刻であると告げているが、どういうわけか瞼は頑なに持ち上がることを拒否している有様だ。
むー……、と喉奥で低く呻き、ごしごし、と緩く握った拳で目を擦るも一向に効果はない。体調不良かとも思ったが節々が痛むこともなく、ただ単に起き上がるのが面倒だ、もっと眠っていたいと身体が訴えているのだ。
なんと怠惰な、と己を内心で叱責するも、緩やかに身を包む睡魔に抗うのは困難を極め、くあぁぁ、とだらしなく大欠伸まで漏らす始末だ。
「中尉、起きてる?」
問いと共にベッドに近づいてくる足音に答えるべく、國常路は頭まで被っていた布団をどうにか剥ぐもやはり瞼は持ち上がらず、「あぁ」と返した声も、とろり、と気怠く蕩けた聞くに耐えぬものであった。
「う……すまないヴァイスマン、すぐ起きる……」
「いいよいいよ、そのまま寝てて」
幼子をあやすかのように髪に触れ、ゆるゆる、と撫でてくる手指の感触に、意識が更に、とろり、と蕩けていく。ふにり、と頭部のなにかを指で摘まれるも、國常路は深く考えることなく、ピッ、とそれを振りヴァイスマンの指を払った。
へぇ、とどこか感心したような声が聞こえたかと思えば、布団の中に差し入れられた手に尾てい骨のあたりを、ぞろり、と撫でられ、さすがに寝ている場合ではないと瞬時に目を開く。
「な、にを……」
僅かに上擦った声などお構いなしに、ヴァイスマンは浴衣の上から執拗に腰の辺りを撫で回し、不意に、トントン、とリズミカルに背骨からまっすぐ降りた場所を指先で叩いてきた。
「ひゃぁんッ!」
刹那、びりり、と背筋から脳天まで走り抜けた衝撃に國常路の口から信じ難い声が上がる。
「な、ななん……!?」
目を白黒させている國常路を、にこにこ、と見下ろし、ヴァイスマンは再度同じ箇所を、トントン、と刺激してくる。
「ひっ、ぁ……や、やめ……」
「期待以上の効果だよ、中尉」
よく見せてね、と言うが早いかベッドに乗り上げ、丸まっていた國常路の腰を抱えるや、ぐい、と引き上げるだけに止まらず、浴衣を捲り上げ下肢を露わにする。
既に言葉も出ないのか大きく見開いた目で振り返った國常路の視界に飛び込んできたのは、頭髪と同じ色をした細長い尻尾であった。
「猫はここが弱いんだよね」
尾の付け根を人差し指の腹で押され、咄嗟に枕に突っ伏した國常路の背が微かに震える。
「うーん、耳は形だけで機能はなし、か」
内部の構造を確かめるように猫耳のような突起物をいじりつつも、尻尾の付け根を刺激する指の動きは止まらず、國常路は襲いくる感覚から逃れようと枕に突っ伏したまま頭を左右に振る。
「中尉、あーん、して」
顔を押し付け両手できつく握り締めていた枕を、あっさり、と奪われたと同時に、トンッ、と一際強く付け根を叩かれ、たまらず國常路は声を上げた。
「はい、そのままね」
開いた唇が閉じる前に遠慮無くねじ込まれた指が無遠慮に、ゆるゆる、と舌の表面を撫でる。次いで歯にも触れているのか口の中で蠢く指に、ふーふー、と息を荒げる國常路はいろいろな意味で涙目だ。
「舌に変化はなし。犬歯も、うーん、変化なしかぁ」
口内を覗き込んで再確認し、じゃあ次は、とヴァイスマンは國常路を、ころん、と横に転がし、つい、と視線を下腹部へと向ける。
「……いっ、いい加減にしろーッ!」
ヴァイスマンの手が伸ばされるよりも早く、気力を振り絞った國常路の蹴りがヴァイスマンの腹にクリーンヒットし、ヒョロヒョロの研究者が現役軍人の蹴りに耐えられるわけもなく、ヴァイスマンは為す術もなくベッドから転がり落ちた。
はーはー、と肩で息をし、少々やりすぎたかと思うも、先程までの醜態が脳裏を超特急で駆け巡り、國常路は「いっそ殺してくれ……」と虚ろに笑うしかなかった。
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2013.02.09