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    【00】AHLCC 鼻歌交じりにフラスコからコーヒーをカップへ注ぐ後ろ姿を半眼で見やりつつ、サーシェスは、はぁ……、と嘆息する。朝陽ではなく人工的な光の下でもくすみのない蜂蜜色の髪は、キラキラ、と輝き、その口から漏れる歌声も申し分ない。
    「サーシェス、今日は豆を変えてみた」
     くるり、と振り返った端正な顔は弾けんばかりの笑みを浮かべ、芳しい香りと共に、ゆらり、と柔らかな湯気を上げるカップを、ずい、と差し出してきた。
     だがしかし。しかしである。
    「……おぅ」
     一応、反応して見せるも差し出されたソレを受け取る手の動きは鈍く、受け取りたくない、との心中がだだ漏れであるにも関わらず、カップを差し出してくる男は「どうした?」と言わんばかりに小首を傾げ、新緑の瞳を、きょとん、とさせている。
     顔だけはいいんだクソ、と声には出さず胸中で悪態を吐き、サーシェスは覚悟を決めたか百均で買った飾り気のない黒のマグカップを受け取った。
     暫し、じっ、と揺れる琥珀色の液体を睨み付けていたが、目の前で期待に目を輝かせている男に急かされるように、そっ、と少量を口に含む。
     サーシェスは決して猫舌な訳ではない。では何故このように恐る恐る口に運んだかと言えば――
    「……まっず」
     予想通りの展開にサーシェスはカップをテーブルへ戻すと、額を押さえつつ、はぁ……、と再度嘆息した。
    「なんと! 豆のせいではなかったのか」
    「まぁ、ある意味、豆のせいだわな。てめぇが『グラハム・スペシャルッ!』とか言いながら勢い任せに、ゴリッゴリ、挽くからだろうが。絶対、近いうちに壊れるぞアレ」
     気怠げに頬杖をつきサーシェスが軽く顎をしゃくって見せれば、その動きにつられるように蜂蜜色の頭もサイドボード上のコーヒーミルへと向けられる。
     仕舞い込まれていた手挽きのコーヒーミルを数日前に見つけたグラハムは、なにが気に入ったのかそれ以来、ことあるごとにコーヒーを淹れたがり今に至る。
     押しやられたマグカップを、むむ、となにやら難しい顔で見下ろすグラハムを上目に見やり、サーシェスは心底疲れ切った声を出した。
    「いろんなことに興味持つのは結構だがなぁ、まずはまともに歌えや」

    ■   ■   ■

     アリー・アル・サーシェスの元に『ボーカロイド』がやってきたのは約一ヶ月前。発売されて間もない『ハムっぽいど』ことグラハム・エーカーだ。
     いつぞやに酒の席の軽いノリで「ボーカロイドをいじってみたい」というようなことを口にしたのは朧気に覚えていたが、忘れた頃にまさか現物が送られてくるとは思ってもいなかったのだ。
     それも予想外のオマケつきで。
     玄関先に積まれたばかデカい荷物を前に唖然としつつも同梱の説明書に目を通せば、なんでも新たな戦略として企画の上がっている『ボーカロイドソフト+アンドロイドパック』の試作機だそうで、添えられていた手紙によればテストモニターを探していたのだという。
     本来、ボーカロイドはパソコンの中にしか存在しないシンガーソフトである。だが、それを専用アンドロイドを使ってより身近な存在に、という試みらしい。
     精力的な活動はしていないが楽曲提供をしているサーシェスは、モニターにうってつけであったのだろう。
     どこで誰が繋がっているかわからない、と実感した瞬間でもあったがその辺りは割愛する。
     こんなモン誰が買うんだ、と口中で、ぶつぶつ、漏らしながらも蓋を開けてみれば、人と見紛うばかりの精巧な人形は正統派の美形であるパッケージイラストを忠実に再現しており、販売価格によっては結構売れるだろうなぁ、と少々、下世話な考えが過ぎった。
     そして、このグラハム・エーカーには裏バージョンがあり、ひとつのソフトで二度楽しめるというのも売りのひとつだ。
     従って、この家にはもう一体『ボーカロイド』が居るのだが、先のグラハム以上にこちらは厄介なシロモノであった。
    『ブシっぽいど』ことミスター・ブシドーは、饒舌なグラハムとは対照的に口数が少なく、表情も乏しい。
     もっとも、厳つい仮面を常に装着しており、表情などわからないに等しいのだが。
     誰の趣味が反映されたものか仮面に陣羽織のブシドーはグラハムより年上に設定されているが、先述通り顔が仮面で覆われているため、年齢設定もクソもないだろう、というのがサーシェスの感想である。
     ただ、問題はそこではなく根本的な部分にあった。
     とりあえず起動させ、なにか歌わせてみるか、と指示を出すも、
    「興が乗らん」
     返ってきたのはにべもないこの一言であった。
     その後も一事が万事この調子で、未だに鼻歌のひとつも披露してはくれないのだった。
     問題と言えばもうひとつあった。
     彼らの初期装備が夏に相応しくなかったのだ。
     どういったコンセプトであるのか、二人は軍服をイメージした服装をしており、青の上着に白のスラックス姿のグラハムはまだマシで、ブシドーに至っては仮面と陣羽織だけでも暑苦しいというのに、モスグリーンの襟元をカッチリと留めた厚手の上着と同素材のズボンだけでは飽き足らず、踝まで届く巻きスカートが付属し、その上、手甲の付いた指ぬきグローブまで装着しているのだ。
     身体の線など全くわからず、一言で表すのならば、もっさり、である。
     彼らは理論上は外気温を数値として認識するだけで、人間のように気温によって行動に影響が出ることはない。現にブシドーはサーシェスの「見てる方が暑い」という抗議を涼しい顔で受け流している。
     だがしかし、起動させて数日が経つ頃には、明らかにグラハムの動きが鈍くなっていた。
    「こう暑いとさすがにダレてしまうなぁ」
     さっさと上着を脱ぎ、Yシャツ姿になっていたグラハムの漏らした一言に、サーシェスは軽く噴出した。
    「なんでボーカロイドが暑がるんだよ」
    「何を言うか。古来より『病は気から』と言うではないか」
     至極大真面目に、だがズレたことを口にするグラハムに、これ以上突っ込んでも要領の得ないことを一方的に聞かされるだけで、不毛な会話にしかならないと判断しその場は軽く流したが、数日後、サーシェスは紙袋を複数抱えて帰宅したのだった。
    「無駄な出費だ」と、ブツブツ、漏らしつつ、いくつかをグラハムに押しつけ、サーシェスはその足でブシドーの部屋へと向かう。途中、背後のリビングルームから響いたグラハムの「なんと!」という歓喜の声に、柄にもなくサーシェスの口元が弛んだのはここだけの話だ。
    「さて、と」
     これから向かう先が大本命であると、サーシェスは気持ちを引き締める。本人は暑くなかろうが、やはり見た目は重要だ。
     先日など荷物を届けに来た宅配業者が、無言でドアを開けたブシドーを前に固まっていた。胡散臭い勧誘を追い払うには有効だが、回覧板を持ってきた隣の学生など、初対面時は半泣きで逃げ帰ってしまったのだ。翌日に「昨日はすみませんでした」との詫びの言葉と共に、彼の姉が作ったという煮物を持ってきたのだが。
    「おーい、入るぞ」
     なおざりなノックの後に扉を開ければ、PCデスクに向かっていたブシドーは弾かれたように肩越しに振り返り、「なっ」と小さく声を上げた。
     横顔が、ちら、としか見えなかったが、その顔には確かに仮面はなく、サーシェスは不意のことに一瞬、動きを止めるも、これは絶好のチャンスであるとすぐさま気を取り直す。
    「丁度いい、服も着替えろや」
     な? と言いつつ、大股に歩み寄り強引にブシドーの肩を掴んで、くるり、と椅子を回転させたが、今一歩及ばず。両手で押さえるように仮面を装着し終えたブシドーと目が合っただけであった。
    「断固辞退する」
     取り付く島もない態度に、がくり、と肩を落とし、サーシェスは、じとり、とブシドーを半眼で睨め付ける。
    「ちったぁ言うこと聞けよなぁ……。こんクソ暑い中、わざわざ買いに行った俺の苦労を少しは労えってんだこの野郎!」
     一転して声の荒くなったサーシェスに驚いたか、ブシドーの肩が強張った。だが、サーシェスは気にも留めず陣羽織の襟に手を掛ける。
    「阿呆みたいに着込みやがって! 見てるだけで暑いっつーの!!」
    「なっなにをするかッ!?」
     ぐいぐい、と強引に肩を抜こうとするサーシェスに抗議の声を上げ、ブシドーは袷を必死に掻き合わせ全力で抵抗する。
    「うるせぇ! 夏なんだから半袖着ろッ!! いやむしろマッパでいろッ!」
     勢いで無茶苦茶なことをサーシェスが口走った瞬間、必死に彼の手を阻止していたブシドーの目が見開かれ、
    「き……」
    「あん?」
    「斬り捨てごめぇぇぇぇんッ!」
     無駄に張りのある腹の底からの叫びと共に、サーシェスの顔面に手刀が叩き込まれたのだった。

    ■   ■   ■

     扱いづらいとは聞いていたがまさかこれほどとは、とサーシェスはひくつくこめかみを気合いで押さえ込み、目の前でふんぞり返っているけったいな『ボーカロイド』を改めて見やる。
     彼らは歌うことに特化したアンドロイドとはいえ、それ以外のことも一通りこなせるように出来ている。コミュニケーション能力も備えているはずだが、ブシドーを見ていると本当かどうか疑わしく思えてくるのも仕方のない話だ。
    「どういうのなら歌うんだ、てめぇは」
     とにかく歌わせないことにはモニターにならない、とサーシェスが向かいのソファに座るブシドーに問えば、思案するかのように僅かに首を傾けるも、彼が口を開く前に横手からグラハムが嘴を突っ込んできた。
    「私はどんな物でも構わないぞ。だが、公序良俗に反する物はノーサンキューだと言わせてもらおう」
    「てめぇには聞いてねぇっつの。そもそも、まともに歌ったことなんかねぇじゃねぇか」
    「何を言うか。任務はキチンとこなしている」
    「莫迦か。好き勝手やりたい放題で、俺の言うこと聞かないんじゃ意味ねぇだろ」
     ぽんぽん、と投げられる主人と片割れの会話を無言で聞いていたブシドーだが、おもむろに立ち上がると「失礼する」と感情の乗らぬ声と共に一礼し、サーシェスが止める間もなくリビングルームを後にしたのだった。
     その背中は全てを拒絶するかのような無言の圧力を放っており、仮に止められたとしてもかける言葉が見つかるかは別の話であった。
    「気難しいを通り越してんだろアレ」
     引き留め損ね、行き場をなくして宙に浮いた手を揺らし、サーシェスはブシドーの背中を見送ったまま、ぼそり、と漏らす。
    『そういやコイツら、俺のこと「マスター」って呼ばねぇな』
     ふと、気づいてしまった事実に僅かながらへこむ。
     グラハムは初起動時に「初めましてだなぁ、マスター!敢えて言わせて貰おう、グラハム・エーカーであると!!」と声高に口にするも、サーシェスが名前を教えた後はもっぱら「サーシェス」呼びである。
     ブシドーに至っては歌わせるどころか、まともに顔を合わせることからして困難で、会話すら成り立っていないのが現状だ。
     より個性を出すために付加された疑似人格だが、用もないのに周りを、ひょこひょこ、動き回るグラハムと、呼んでもなかなかやって来ないブシドー。
     二人の性格を足して二で割れば丁度イイのによぉ……なんだってこう極端なんだ、と低く呻きつつ頭を抱えれば、ソファに残っていたグラハムが心配そうに秀麗な眉を寄せ、「頭痛かね?」と問いながらローテーブルを回り込んでくる。
    「いい、いい。なんでもねぇ」
     悩みの種のひとつである当人に心配されても、やるせなさが増すばかりである。サーシェスは頭を上げることなく、ゆるゆる、と顔の横で力なく手を振り、相手の行動を制してからあれやこれやと考える。
     グラハムは空気を読めず我慢弱く人の話を聞こうともしないが、かろうじて会話になるだけまだマシである。一体どうすればブシドーが話をする気になるのか、全く持って見当が付かないのだ。
     ただ、つい先日の一件で、彼の警戒心を強めてしまったのは自業自得と言えなくもなかった。
     そのことについては「それはサーシェスが悪い」と真顔でグラハムに正論を吐かれ、コイツにだけは言われたくなかった、と落ち込んだのは思い出したくないことのひとつでもあった。
    「なんでリアルにギャルゲーみたいなことになってんだ、俺」
     自分で口にした例えに更にダメージを受け、サーシェスは力なく己の膝に突っ伏す。だが、こうしていても事態が好転することはない。気持ちを切り替えるかのように勢いよく顔を上げ、ぱん、と両の手で己の膝を強く叩いた。
    「っしゃ! やることやっちまうか」
     律儀にサーシェスの傍らで黙って待っていたグラハムの顔が、ぱっ、と明るくなる。
    「レッスンか!?」
    「それはまた後でな。先に仕事片付けちまわねーと」
     着いて来い、と身振りで示し、リビングルームに隣接する小さいながらも自前のスタジオの扉を開けると、床や機材の上に散らばった譜面を拾い集め、バラバラ、と乱暴に確認してから、ほらよ、とグラハムの胸に押しつけた。
    「先方にデモテープ渡さなきゃなんねぇんだよ」
    「私の歌、ではないのだな」
     受け取った譜面に目を落とし、ふっ、と一瞬ではあったが哀しげに瞼が伏せられ、長い睫毛が滑らかな頬に影を落とす。
    「あ? なんか言ったか?」
     機材の確認をしていたサーシェスは相手の言葉を拾い損ね肩越しに首を捻るも、グラハムはなんでもないと言わんばかりに、ゆるゆる、と首を振り、一転して自信に溢れた力強い眼差しと不敵な笑みを返してきた。
    「早く始めようではないか。私は我慢弱く落ち着きのない男なのだよ」
    「そこは威張るトコじゃねぇぞ」
     がぽん、と蜂蜜色の頭にヘッドフォンを無理矢理装着し、オマケとばかりに鼻を、きゅっ、と摘んでやれば、ふがっ、と間の抜けた声を上げたグラハムであったが、抗議の声を上げることもなく、ゆうるり、と眦を下げる。
     時たまこのように不意に見せる、普段のかしましさからは想像も付かない姿に、サーシェスは不覚にも目を奪われ言葉を無くす。
    「そんなに見つめられては、さすがの私も照れてしまうのだが」
     ややあってヘッドフォンの位置を直しながらグラハムが戯けたように口にするも、ほんのり微かに色づいた目元は誤魔化しようがない。
     え? ナニ? コイツ本気で照れてんのか? とサーシェスが言葉もないまま、じっ、と凝視すれば、グラハムは、つっ、と上目に相手を見やり僅かに唇を尖らせた。
    「私が照れてはおかしいかね?」
    「いや、なんつーか。そもそもなんで照れんだよ」
     どうにも尻の据わりが悪くサーシェスがぶっきらぼうに問い返せば、グラハムは真っ直ぐにサーシェスを見つめたまま、眩いばかりの笑みを浮かべて見せる。
    「キミの事が好きだからだ」
    「……はい?」
     直球で投げられた言葉が巧く理解できず、サーシェスは半開きになった唇にも気づいていないのか、ぽかん、と間の抜けた顔で、造作だけは整っているボーカロイドを見下ろした。
    「マスターのことを嫌いなボーカロイドはいない、ということだ。よく覚えておきたまえ」
     そう言うが早いか踵を上げ、グラハムは伸び上がるようにサーシェスの口端に唇を押し当てると、ちゅっ、と可愛らしい音を響かせた。
     弧を描いたまま離れていく形の良い唇から目が離せず、それが再び近づいてくるのをサーシェスは視認しながらも、拒む素振りは見せない。
     やめろ、の一言がマスターの口から出ないことに気をよくしたか、グラハムは何度も何度も啄むようなキスをし、ふふっ、と満足そうに笑った。
     確かに顔はいいがどうせなら、ボンッキュッボンッ、なお姉ちゃんが良かった、と溜め息をついたサーシェスの心中を知ってか知らずか、グラハムは再度、
    「マスターのことが好きだと言わせてもらおう」
     と真っ直ぐな言葉を投げてくる。
     好きにもいろいろな種類があるのだが、その細やかな違いを果たしてボーカロイドは理解できるのだろうか、とサーシェスは目の前の屈託のない笑みを見返し、僅かに眉を寄せたのだった。

    ■   ■   ■

     ローテーブルに楽譜やメモを広げたまま、サーシェスは、ごろり、と腰掛けているソファへ長躯を投げ出した。
     曲の大体の構成は出来上がっているのだが、どうしても繋がりに納得のいかぬ箇所がひとつだけあり、その修正が思うように進まないのだ。
     仕事ではないため〆切がないのは幸いであるが、行き詰まった時は休憩に限る、と目を閉じ、瞼の裏で、ちらちら、と踊る音符を無理矢理に消し去る。
     気分転換にコーヒーでもと思ったが、「邪魔すんなよ」ときつく言い含めリビングルームから追い出したグラハムに、うっかり、見られようものなら、あのクソ不味いコーヒーと呼ぶのも憚られるモノを嬉々として淹れようとするだろう。
     それはある意味、気分転換にはなるが、明らかに逆効果となるのは目に見えている。
     止まりかけた思考の片隅で、危ない橋は渡らないに限る、との答えを出し、サーシェスはそのまま吸い込まれるように眠りに落ちた。
     とろとろ、と気持ちの良い微睡みの中、カサ、と紙の揺れる音に続いてハミングが耳に届く。
     低く緩やかに旋律を辿る声は滑らかに紡がれていくも、不意に途切れてしまった。
     そうそうソコなんだよ、と半分夢の中に居ながらも、サーシェスは不快そうに眉を寄せる。やはり転調が巧くいっていないせいで流れが止まってしまうのか、歌い手の戸惑いが嫌と言うほど伝わってきた。
     ふ、と薄く開けた瞼の隙間から見えたのは蜂蜜色の髪で、サーシェスはそれをグラハムだと信じて疑わなかった。
    『ホント我慢弱ぇなぁ……』
     ケツのひとつでも蹴り飛ばしてやろうかと思ったが睡魔には勝てず、再び瞼を閉ざしたその向こうでは、深みのある穏やかな声が例の箇所を繰り返し繰り返し奏で、それを聞きながらサーシェスはなにかが掴めた気がしたのだった。


     ゆさゆさ、と肩を揺すられ、サーシェスの意識は眠りの淵から浮上する。いつの間にか深く眠り込んでしまっていたらしいと気づき、未練がましく離れようとしない瞼を無理矢理に持ち上げれば、真っ先に視界に飛び込んできたのは大きな新緑の瞳であった。
    「っおわッ!?」
     近い近い! と容赦なく顔面に掌を押し当てて力任せに遠ざければ、グラハムは不満の声を上げつつもおとなしく身を退いた。
    「なんだよ」
    「眠り姫にはキスが定番なのだろう?」
    「誰が姫だっつーの」
     またネットでヘンな知識つけやがったな、とPCを各々に与えたことを少々後悔する。
     ただ、そのPCにバックアップデータが保存してあり、定期的にこちらから開発元へ現在のデータを送り、たまに送られてくる修正パッチもあることから、取り上げるわけにはいかないのだが。
    「レッスンの時間だ。よもや忘れたとは言うまいな」
     僅かに頬を膨らませ咎めるように壁の時計を指さすグラハムに「忘れてねぇよ」と返し、サーシェスは身を起こすと同時に大きく伸びをする。
    「レッスンの時間までは絶対に邪魔をしない」と、我慢弱いグラハムにしてはよく頑張ったと褒めるべきかも知れない。
    「あー、でもちょっと待て」
    「聞く耳持たん」
    「おまえなぁ……コレ直す間くらい待てよ」
     そう言ってテーブルに置かれた楽譜を手早く書き直し、「歌ってみろ」とグラハムに手渡した。
     急なことに目を丸くしたグラハムだが素早く譜面に目を通し、うん、と小さく頷いてからメロディラインを辿る。正確に刻まれる音は申し分ないものであるが、サーシェスは怪訝に片眉を上げた。
    「おい、さっきみたいにもう少し低く歌えよ」
    「これが私のベストなキーであることは、キミが一番わかっているだろう? それに、さっきとはなんだ? 私は今初めてこの楽譜を見たのだが?」
     訳がわからない、と隠すことなく問いを全て口にするも、グラハムはサーシェスの答えを待つことなく譜面を指先で軽く弾いた。
    「良い曲だが、私はもう少しアップテンポなものが好みだな」
     常ならばここで「てめぇの好みなんざ聞いてねぇよ」とサーシェスの面倒臭そうなツッコミが入るのだが、何事か考え込んでいる彼の耳にその言葉は届いていないようであった。
    「アリー・アル・サーシェス?」
     ぱっぱっ、と顔の前で手を振られ、サーシェスは、はっ、と意識を目の前のボーカロイドへと向ける。
    「まだ眠っているのかね?」
    「あ、あー、いや、うん」
     らしくなく口ごもるサーシェスに不思議そうな顔を向け、グラハムは、こてん、と首を傾げたかと思いきや、何事か考えついたか、ぱぁっ、と大輪の花を思わせる笑みを浮かべた。
    「よし、眠気覚ましにコーヒーを淹れてこよう!」
     待っていたまえ、と軽やかな身のこなしでキッチンへと向かうグラハムの背を追ったサーシェスの視界に、扉の影から中を窺うもう一人の金糸が引っ掛かる。
     だが、気づかれたと知るや、ブシドーは、ふい、と顔を背け足早に立ち去ってしまい、サーシェスは声を掛けることも出来ず、ますます怪訝な顔になるのだった。
     余所事に気を取られグラハムがコーヒーを淹れるのを阻止できなかったことにサーシェスが気づいたのは、キッチンから「グラハム・スペシャルゥッ!」と普段の二割り増し気合いの入った声が響いてからであった。

    ■   ■   ■

     ソファで眠るサーシェスに、ちら、と目をやり、起きる気配のないことを確認してから、ブシドーはローテーブルに伏せられていた譜面を手に取った。
     先日のものに更にアレンジが加わったそれに素早く目を走らせ、小声で流れを辿る。何度もグラハムに歌わせ、手直しをしていたことは知っている。
     自分ならそこはこう歌う、と思いながら、スタジオの外で微かに漏れ出る音を密かに聞いていたのだから。
    「気に入ったのかよ」
     サビの部分をもう一度口にした瞬間、緩い声が背中に投げられブシドーは喉を詰まらせた。
    「なっ……」
     狼狽も露わに振り返れば、両腕を枕代わりに頭の下で組んだ恰好のサーシェスと、ばっちり、目が合い、ブシドーは知らず一歩後ずさる。
    「い……いつから起きて……」
    「あー? 元から寝ちゃいねぇよ」
     くつり、と喉を鳴らしつつ身を起こしたサーシェスは人の悪い笑みを口元に貼り付けたまま、ちろり、とブシドーを上目に見やる。
    「くっ、なんと卑怯な……」
    「騙される方が悪ぃんだよ。それに、勝手に書きかけのモン見る方がよっぽどタチ悪ぃっての」
     調整の前に躾からか? とサーシェスが剣呑な眼差しを向ければ、ブシドーは返す言葉が見つからないのか、譜面を握る手は微かに震え、仮面の下の瞳は困惑の色を滲ませている。
    「……すまなかった」
     ややあって固い声音で詫びの言葉を紡ぎ、ブシドーは手にしていた譜面をテーブルに戻すべく、僅かに身を屈めた。
     だが、その手は素早く伸ばされたサーシェスの腕に捉えられ、ブシドーが何事かと驚愕の眼で相手を見やれば、その慌て様が愉快であったか、サーシェスは堪えきれないと言わんばかりに大声を上げて笑い出した。
    「おいおい、なんてツラしてやがんだ。つか、やっとまともに会話したな」
     一ヶ月はさすがに長いだろ、と大仰に、だが心底疲れたと顔に書いてあるサーシェスの言葉に反応したか、ブシドーはなにか言いたげに唇を開くも、そこから音が漏れることはなく気まずそうに俯く。
     それに気づいたサーシェスは暫し無言で相手を見やり、こちらにまだなにかを伝える意志があると判断したか、「なんだ?」と軽く促した。
     苛立ちの乗ったものではないそれに、僅かではあったがブシドーの肩から力が抜ける。
    「……一ヶ月」
    「あん?」
    「一ヶ月もの間、私をアンインストールしないでいてくれたこと……その、感謝している」
     顔は僅かに逸らされている上、仮面に隠れはっきりとはわからないが、どうやら照れているらしいと気づき、サーシェスは途端に尻の据わりが悪くなる。
    「てっきり嫌われてるモンだとばかり思ってたぜ」
    「そんな訳なかろう! マスターが嫌いなボーカロイドなどおらん!!」
     力一杯否定してから、はっ、と我に返ったか、ブシドーは決まり悪そうに再び俯いてしまった。
     これはもしかしてアレか? ツンデレってヤツか? と相手の様子を窺いつつ、サーシェスは誰にともなく問いかける。
    「ホント、どこのギャルゲーだっつーの」
     以前、何気なく口にしたことはあながち間違いではなかったのだと苦笑しつつ、サーシェスは、ちらちら、と目を泳がせているボーカロイドの腕を強く引きながら更に苦く笑った。
     その行動に深い意味はなく、ちょっと座らせて話でも、程度の考えだったのだが、不意のことにブシドーは、よろり、とバランスを崩し慌てた声を上げた。
    「マ、スター……!?」
    「……ッ!?」
     不意打ちとも言うべきその言葉に意識が一瞬、持って行かれたか、自分で引いておきながらサーシェスはブシドーの身体を受け止め損ね、二人揃ってソファへと倒れ込んでしまった。
    「う……」
    「もっ申し訳ないッ! 今すぐどくか、ら……?」
     不可抗力とはいえマスターに馬乗りという状況に、あたふた、と身を捩り腹の上からどこうとしたブシドーだが、サーシェスの手が何故か己の尻を撫でていることに気づき、怪訝そうに肩越しに妖しく蠢くその手を見やる。
    「……この手はなんだ」
    「いや、やらしい尻してんなぁ、と思ってよ」
     奇抜な陣羽織に加え、軍服をイメージした丈の長い服に隠れてわからなかったが、これは相当そそる尻である、とサーシェスは愉快そうに口角を上げた。
    「ざっ戯れ言は大概にしたまえ!」
     語調は荒いがよくよく見れば垣間見える目元が、うっすら、と色づいており、サーシェスの悪戯心と言うには可愛げのないそれが、むくり、と頭を擡げる。
    「身体もグラハムとは正反対な造りなんだな」
     向こうは真夏の太陽が似合う健全そのものな体躯で、肉欲を刺激されるかと言われたら、健康的過ぎて正直考えてしまう。
    「プロジェクトの、一環なのだから仕方ないであろう」
    「プロジェクト?」
     オウム返しに問うてくるサーシェスにブシドーは困ったように口をへの字に引き結ぶも、諦めたかのように、はー、と息を吐き、ゆうるり、と落ち着いた声音で説明を始めた。
    「ソレスタルビーイング社の『ロックオン・ストラトス』は知っているな?」
    「あ、あぁ。あのやたらとイイ尻したアレな」
     ユニオン社と並んでボーカロイドソフトの開発に力を入れているソレスタルビーイング社の『ロックオン・ストラトス』は、プロモーション用にCGで3D化されており、PVで披露されたパイロットスーツ姿の尻が性的過ぎると一部で大きな反響があり、熱狂的なファンも多いと聞く。
    「それに対抗しようといくつか案が出された内のひとつが、グラハムの裏バージョンである私だ」
    「あー、おまえさんはお色気担当ってワケか」
     身も蓋もない言い方だが決して間違ってはおらず、ブシドーは一瞬、喉を詰まらせるも素直に、こくり、と首を縦に振った。
    「だが、『私自身』は失敗作なのだよ」
     そう言って、じっ、とサーシェスを見つめた後、何事かを決意した光がその瞳に宿った。
    「後生だ。どうか、嫌わないで欲しい……」
     ふっ、と瞼を伏せ、流れるような所作で仮面に両手が添えられ、サーシェスが見守る中、ゆっくり、と隠されていた素顔が露わになる。
     グラハムよりも大人びた面差しはやはり端麗で、目にした者を魅了するには充分と言えた。だが、彼の造りの良さよりも先にサーシェスの目を奪ったのは、顔の右半分を占める酷い傷であった。
    「制作過程のミスでな、顔だけではなく身体にもいくつかの傷がある。だが、私は試作機であって商品では無い。機能に影響がないため、そのままだ」
     仮面を握る手が静かに持ち上がり元の位置に収めようとするも、下から伸ばされた手がそれを止める。驚愕に僅かに大きくなった瞳を捉え、サーシェスは、にたり、と笑う。
    「もう着けちまうのかよ」
    「醜いものを晒しておくほど、私は無神経ではない」
    「そうかい? これも結構そそるぜ?」
     少々乱暴に襟元を掴み、ぐい、と引き寄せてから反対の手で傷を指先でなぞり、そのまま首筋まで下ろしていく。
    「俺にこの傷を見られたくなくて、つっけんどんな態度取ってたんだろ?」
     問いでありながら全てお見通しだと言わんばかりのサーシェスに、ブシドーは伏し目がちに手中の仮面を、ぎゅっ、と握り締めた。
    「可愛いトコあんじゃねぇか」
     なぁ、と絡みつくような声音で促され、そろり、と窺うように新緑の瞳が、楽しげに細められている鶸色の瞳に合わせられる。
    「どうせなら全部見せてくれよ」
     指先で喉を擽りながら懐柔するかのように甘ったるい声音でサーシェスが囁いたその時、ドタドタ、とけたたましい足音が響いたかと思いきや、ぐいっ、と頬に伸ばされた手に強引に引かれ、サーシェスは強制的に喉を反らせる恰好となった。
    「んなっ!?」
     逆しまな視界に飛び込んできたのは、むすり、と唇を引き結んだグラハムで、サーシェスは訳がわからず相手の顔を凝視する。
    「二人だけでイチャイチャとは感心しないなぁ」
    「……イチャイチャって、おま……」
     なんつー表現だ、とサーシェスが脱力気味に目を細めるも、グラハムは全く意に介した様子はなく、
    「私だってイチャイチャしたいぞ」
     と真顔で言い放った。
    「いや、だから、なにをどうすればイチャイチャとかいう発想になるんだ!」
     ちゅっちゅっ、と額や瞼、鼻先にキスを降らせてくるグラハムの手を外そうと懸命に藻掻くサーシェスの上では、ブシドーが何事か考えているのか非常に難しい顔をしており、図らずともサーシェスの動きを封じるのに一役買っていた。
    「決まっているだろう? マスターのことが大好きだからだ」
     唇に柔く歯を立てた後、じっ、とサーシェスを見下ろし、グラハムは不満そうに唇を尖らせる。
    「キミに好かれようと私なりに努力しているのだが、それなのにキミはブシドーのことばかり気に掛ける。私には曲のひとつも作ってくれないのに、彼の曲は作る。あの曲が私のものではないことくらい、歌えばすぐわかる。そんなの悔しいではないか」
     まさかそのような告白をされるとは思ってもおらず、しかも『彼なりの努力』に心当たりが無く、サーシェスはこれまでのグラハムの行動を振り返ってみた。
     だが、どれだけ記憶を掘り返そうともそれらしい事柄には行き着かず、サーシェスは、むむ、と眉を寄せる。
    「……コーヒー、だな」
     答えの出ないマスターの代わりに、ぽそり、と腹の上から声が降り、サーシェスは「は?」と間の抜けた声を上げた。
    「嫌がらせじゃなかったのか」
     あまりにもクソ不味い液体を思い出し、眉を寄せたサーシェスの言葉にグラハムは、カッ、と目を見開く。
    「なっ! 激しく心外だ! 心外だと言った!!」
     頬を両の掌で挟んだまま大声を上げるグラハムに、ビシリッ、とデコピンをお見舞いし、サーシェスが「目の前でギャーギャー喚くな!」と一喝すれば、グラハムは一転して耳を伏せた犬のように、しゅん、としてしまった。
     その姿に少々罪悪感を抱いたか、サーシェスは、ぽん、と軽く蜂蜜色の頭に手をやり、仕方ねぇなぁ、と小さく漏らした。
    「今の仕事が片付いたら一曲作ってやる。だからちゃんと俺の言うこと聞けよ」
    「なんと! その言葉に嘘偽りはないな!? ならば不肖グラハム・エーカー、全力でお応えしようではないか」
     あっさり、と機嫌を直したグラハムにサーシェスは内心で安堵の息を吐き、これでやりやすくなるなら安いモノだ、と薄く笑いながら、ぽんぽん、とあやすようにグラハムの頭を叩いた。
     これで万事解決、と頬を解放されたサーシェスが未だ腹の上に居るブシドーに目をやった瞬間、気が緩んでいたこともあり不覚にも、ぶふっ、と噴出してしまった。
    「ちょっまっ! なんで脱いでんだおまえッ!?」
     じっ、とサーシェスを見下ろしながらブシドーは淀みなく、するり、と上着を肩から落とし、露わになった胸をサーシェスの胸に寄せるように前屈みになる。
    「キミ自身が先程、全部見せろと言ったのではないか。それに私はセクサドールではないので大したことは出来ないが、善処する」
     それこそ触れ合わんばかりの距離で、ふっ、と吐息混じりの笑みを零し、ブシドーはサーシェスの頬に軽く唇を押し当て、ちゅっ、と小さく音を鳴らした。
    「いやいやいや待て待て待てどうしてそうなるッ!?」
     カッ飛んだブシドーの思考回路が本気で理解出来ない、とサーシェスが全力でツッコミを入れれば、当の本人はサーシェスの髭を弄びつつ、きょとん、とした顔で首を傾げる。
    「イチャイチャとは肉体関係を結ぶと言うことではないのか?」
     冗談を言うような性格ではないとわかっているだけに、コイツもネットでヘンな知識拾いやがったな、と思いつつサーシェスは否定するのも疲れたのか、
    「もうそれでいい……」
     と漏らした後、ブシドーの後頭部に掌を宛がい、ぐっ、と引き寄せると、薄く開いた唇を塞いだのだった。

    ■   ■   ■

    「……なんというか、その、仲いいんですね」
     ノートPCから僅かに目を離し、ちら、と正面を窺い見た沙慈の声は、微妙に上擦っている。
    「それ以上なんか言ったらぶっ飛ばす」
    「すみませんでした!」
     わかりやすいサーシェスの返答に沙慈は慌ててPCへ目を戻すも、やはり気になるのか、ちら、と上目に正面のソファに座する三人を見やる。
     サーシェスの両膝にそれぞれが腰を下ろし、所謂『両手に花』状態なのだが、それが見目麗しいとはいえ男性型ボーカロイドというのは、非常に微妙な絵面である。
     ブシドーを見て逃げ帰った過去のある沙慈だが、彼自身もソレスタルビーイング社のボーカロイド『刹那・F・セイエイ』を使っており、グラハムとブシドーがボーカロイドだと知ってからは時間が合えばこうしてサーシェスを訪ね、曲やボーカロイドの調整についてアドバイスをもらっているのだ。
    「でもいいですね。ディスプレイ越しにじゃなくて直接会話できるのって」
     専用マイクを通してPCの中の刹那に指示を出す沙慈からすれば、三次元を動き回るグラハムとブシドーは羨望の対象だ。
    「いいことばかりじゃねぇぞ。四六時中、ぎゃーぎゃー、うるせぇのなんのって。PCオトせば居なくなるってワケじゃねぇからな」
    「なんと! それは聞き捨てならんな」
     サーシェスの悪態に間髪入れずグラハムが噛みつき、沙慈は、はは、と困った笑いを漏らす。
     実は刹那にも裏バージョンがあり、試しに起動させてみたのだがグラハムとはまた違ったやかましさで、速攻でアンインストールしたのだ。
     確かにアレが目の前にいたらウザイな……と、挨拶が「ちょりーす」の表とは性格が正反対な『タイプR35』を思い返し、沙慈は再度、はは、と渇いた笑いを漏らしたのだった。
    「で? そっちのガキの調子はどうよ?」
    「あ、はい」
     くるり、とPCを身動きの取れないサーシェスに向け、沙慈は前回のアドバイスを元に調整した箇所を再生する。
    「少年は相変わらず伸びのあるイイ声だなぁ」
     マスターの膝から僅かに身を乗り出した蜂蜜色の頭が、リズムを刻むように曲に合わせて小さく揺れる。
     初めて刹那の歌を聞いた時グラハムは、時に甘く、時に切なく紡がれるその歌声に「心奪われた」と憚ることなく口にしたのだ。
     余程気に入ったのか、それから事あるごとにマスターである沙慈そっちのけで刹那に話しかけ、その一方的とも言える激しいアプローチに嫌気が差したか、刹那が「グラハムが居る時は起動させるな」と沙慈に告げた為、サーシェスの前で流す曲は事前に録音した物ばかりとなってしまったのだが。
     それにも関わらず上機嫌で一緒に鼻歌を歌っているグラハムの逞しさに、沙慈は正直、頭が下がる思いだ。
     一通り曲を聴き終えたサーシェスは、ふと、なにか思い出したか緩く首を傾げつつ沙慈を見た。
    「前から聞こうと思ってたんだが、なんでソレ選んだんだ? ソレスタルビーイング社製ならユニオン社と違って可愛いの居るだろ。ホレ、あのピンク色の髪したのとか、銀髪のとか」
     女性型ボーカロイドは開発スタッフがモデルになっているともっぱらの噂だが、ソレスタルビーイング社の秘密主義は徹底しており、おっぱいマニア垂涎の『スメラギ・李・ノリエガ』は開発主任がモデルと言われているが、噂はあくまでも噂でしかない。
     ちなみにユニオン社は女性型は一体もリリースしておらず、その代わりと言ってはなんだが、ドレッドヘアの黒人や五十代の東洋系カナダ人と言った設定の、大変個性の強いモノを送り出している。
     当然、シェア的にはソレスタルビーイング社に軍配が上がっているが、グラハムを投入したことにより、じわじわ、とユニオン社が追い上げているとも聞いている。
    「えっと、刹那は姉さんが取材先で貰ってきたんです」
    「あー、記者さんだっけか」
     いつも忙しそうだよなぁ、と欠伸混じりに言われるも、さすがに「貴方はいつも暇そうですね」とは返せず、胸中で呟くに留める。
    「姉さんは興味ないって言うんで、折角だから僕が貰ったんです。最初は曲作りは結構どうでもよくて、興味があったのは人工知能と疑似人格だったんですよね」
     すごいですよね、と今では日常会話程度なら出来るまでに学習した刹那の性能に、沙慈は素直に驚く。
    「だが、今のキミはとてもいい歌を彼の為に、たくさん作っている」
     にこにこ、とまるで自分のことのように嬉しそうに讃辞の言葉を贈ってくるグラハムの真っ直ぐな視線が少々、照れ臭く、沙慈は軽く頭を掻いた。
     そう言えば、と沙慈は顔を合わせてから一度も口を開いていないブシドーに目をやる。
     元から口数は多くないが彼も刹那を気に入っており、これまでも曲を聴けば何かしら反応を見せたのだが、今日はいつにも増しておとなしい。
    「あの……どこか悪いんですか?」
     伏し目がちにサーシェスに凭れているブシドーは覇気が無く、どこか気怠げに見える。
    「あー、さっき修正パッチあてたんだけどよ、いらんモンまでくっついてきちまってな」
    「えっ、それってウィルスですか!?」
     ガタッ、と思わず立ち上がってしまった沙慈に、「慌てんなって」とサーシェスは呑気に言い放ち、ゆるり、とブシドーの髪を撫でる。
    「……大事ない。私たちには、アンチウィルスプログラムも組み込まれている。もう暫くすれば……機能も正常に戻る」
     今や仮面に隠されることのない傷と仄かに上気した桜色の頬、とろり、と熱を帯びた艶やかな瞳に、沙慈はそこに倒錯した美しさを感じ、うっ、と喉を詰まらせる。
    「よ、横になってた方がいいんじゃないですか」
     僅かに目を反らしつつ、へどもど、と言葉を押し出す沙慈に、サーシェスは、にぃ、と意地の悪い笑みを向け、ブシドーの首筋にわざと指先を滑らせた。
    「ん……」
     ふるり、と身を震わせ鼻から抜けるような色めいた声を漏らすブシドーを前に、沙慈は、カッ、と頬を染めた。
    「いやー、若いねぇ。青いねぇ」
     くつくつ、と愉快でたまらないと喉を鳴らすサーシェスを赤い顔のまま、ギッ、と睨み付け、沙慈は「からかわないでください!」と精一杯の虚勢を張るも、それすらも愉快であるのかサーシェスは、カラカラ、と声を上げて笑う。
    「まぁまぁ、そう怒るなって。ホラ、お隣さんが目のやり場に困っちまうから、おまえは部屋戻れ」
     肩に凭れている蜂蜜色の頭を、ぽんぽん、と促すように叩けば、ぐずるように左右に振られる。
    「マスターの、傍がいいのだ」
     吐息ごと吹き込むようにサーシェスの耳元で言葉を紡ぎ、ブシドーは、するり、と相手の首に腕を回した。
    「あっ! ズルイではないか!!」
     それに気づいたグラハムも負けじとサーシェスの首に腕を絡め、ぎゅう、と抱きつく。
    「お、まえら……苦し……」
    「あっあのッ! 僕、今日はこれで失礼しますッ!!」
     ブシドーの無駄な色香に当てられたか、はたまたサーシェスの好かれっぷりに当てられたか、沙慈は卓上のノートPCを引っ掴むと電源を落とす時間すら惜しいと言わんばかりに、更に閉じることもせずそのまま両手で捧げ持ったまま逃げるようにリビングルームを後にしたのだった。
     靴の踵を踏んだまま家まで走り、玄関に飛び込んだところで、はー、とようやく安堵の息をつく。
    『沙慈・クロスロード』
    「なっなに刹那!?」
     不意に開いたままであったPCから名を呼ばれ、沙慈は上擦った声で応じる。
    「って、アレ? なんで起動してるの?」
    『ヴェーダの指示でおまえのPCに対して介入行動を開始した。厳正なる審査の結果、おまえがモニターに選ばれた』
    「え、あの、それって普通にハッキングだよね!?」
     さらり、ととんでもないことを宣言され、最早どこから突っ込むべきかわからなくなったその時、ピンポーン、と軽やかに玄関チャイムが鳴り響いた。
    『「俺達」のボディの到着だ』
    「宅配便でーす」と無駄に爽やかな声が届いたが、沙慈にはそれは死刑宣告にしか聞こえなかったという。

    ::::::::::

    2010.07.13
    茶田智吉 Link Message Mute
    2018/06/29 23:27:04

    【00】AHLCC

    #グラハム・エーカー #アリー・アル・サーシェス #アリハム #アリブシ #腐向け ##OO ##同人誌再録
    ・サーシェスがマスターでグラハムとブシドーがボーカロイドのボカロパロ。
    ・同人誌再録。
    (約1万5千字)

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