【FGO】エドシロ親子パロ 昼休みを告げるチャイムが鳴り響くと同時にざわめきだした校内に、エドモン・ダンテスは目を眇め緩い癖毛をなおざりに梳きながら廊下を行く。授業中とは打って変わって生き生きとしている生徒達が悪いとは言わないが、購買部へと走るその積極性の半分でも振り分けてほしいものである。
自分と同じ目的地へと向かう生徒達の流れに乗るように足を進めていたエドモンだが、前方の生徒達の間からチラチラと見え隠れする黒衣に気づき、ひくり、と僅かではあったが頬が引きつった。
ここの制服は茶色を基調としており、黒い服など教員のスーツくらいだ。だが、すでに衣替えも済み教員もワイシャツ姿でいる。上から下まで黒一色の者など校内にいるわけがなかった。
それでもこの状況下において、エドモンはひとりだけ心当たりがあった。いや、正確にはここに居るのはおかしい人物なのだが、今日に限ってはその可能性が跳ね上がる人物だ。
するり、するり、と人波を泳ぐように苦もなく進む少年と視線がかち合った瞬間、エドモンは反射的に踵を返すも時既に遅し。
「エドモーン、お弁当届けにきましたよー」
朗らかに悪気なくエドモンを呼ぶ少年に、周りの生徒が、ざわっ、とどよめいた。
動きの止まった周囲をこれ幸いと、黒衣の少年は一気にエドモンとの距離を詰め、苦り切った表情を隠しもしない相手に、はい、と弁当の包みを渡す。
「本当にそそっかしいんですから」
「うるさい。わざわざ持ってくることはないだろうが」
突き刺さる好奇と興味の視線を煩わしく思うも、今は目の前の厄介ごとを片付けるのが先だと、エドモンは奥歯を、ぎりぎり、と噛み締める。
「なに言ってるんですか。貴方偏食なんですから、お弁当じゃないとこれ幸いと好きな物ばかり食べるでしょう?」
絶対残さないでくださいよ、と釘を刺してくる相手にエドモンは舌打ちで返す。
「わかった、わかったから早く帰れ」
話を長引かせる方が面倒だと早々に会話を打ち切るも、方々から、ひそひそ、と上がる声に、うぐぐ、と再度奥歯を噛み締める。
誰?
弟?
子供?
でもダンテス先生独身だし?
じゃあ隠し子?
残念なことに正面切って堂々と聞いてくる猛者はおらず、一方的な憶測に「違う!」と声を上げることもできないエドモンの心境を知ってか知らずか、黒衣の少年は穏やかな笑みを浮かべ、周りの生徒達に向かって、ゆうるり、と頭を垂れた。
「お騒がせして申し訳ありません。私は天草と申します。エドモンの父です」
その一言で辺りが水を打ったように静まり返った。
「では失礼しますね。皆さんも急がないとお昼休みが終わってしまいますよ」
踵を返した天草の胸で、窓から差し込む光に反射して、きらり、と十字架が眩く輝いた。
「あの人、新都にある教会の神父さんだろ……?」
遠離る背が廊下の角を曲がったところで漏らされたそれが誰の呟きかは定かではないが、その一言で呪縛が解けたかのように皆が騒ぎ出す。
どう見ても自分たちと同年代の少年が、教員であるエドモンの父親だと名乗ったのだ。仮にそれが冗談だとしても、ふたりがどのような関係であるかは不明であるため、騒ぎが沈下する気配はない。
その中心にいるエドモンは質問攻めにあう前に、不本意ではあったが戦術的撤退を余儀なくされたのだった。
最悪だ、最悪だ、最悪だ! と呪文のように胸中で繰り返しつつ手荒く玄関の扉を開け放ち、どすどす、と足音も荒く台所へと向かう。天草は礼拝堂にいるのか姿はなく、エドモンは不機嫌さに磨きをかけながら、律儀にも空にした弁当箱をシンクへと放った。
任期の都合で一所に留まらず、不審の声が上がらなかったことも手伝い、日常と化していて全く意識していなかったが、天草はやはりおかしいのだと思い知った。
エドモンが天草と初めて会ったのは十歳の時だ。どういった経緯かはエドモン本人も聞かされていないが、知人の知人の知人という、平たく言えば赤の他人を介して天草はエドモンを引き取った。
十歳になるまでに教会の人間複数の世話になったが、その中でも天草はずば抜けて年若く、正直、父親だと言われてもピンとこなかった。
しかし、思えば当時から現在に至るまで、彼は外見に一切の変化がないのだ。
若作りなどという生やさしいレベルではない。
どう見ても本当に若いのだ。
なんだあれは化け物か、と甚だ失礼なことを思いながら冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プルタブを起こしたところで横手から缶を奪われた。
「おい」
「お帰りなさい。すぐ食事の用意をしますね」
風呂上がりらしき天草はタオルを首に掛けYシャツ一枚という、普段の聖人然とした清廉さをどこかに置き去りにした格好をしている。しかもサイズの合っていないそれは、どう見てもエドモンのシャツである。
「なぜ俺のシャツを着ている」
「間違えて持ってきてしまったのですが、部屋に戻る前に貴方が帰ってきたので」
裸で出迎えるわけにはいかないでしょう? と缶を傾けながら笑う天草にエドモンは嘆息しながら缶を奪い返す。
「だったら下もちゃんと履いてこい」
シャツの裾から伸びる足に、ちら、と目をやれば、天草はエプロンを締める手を止めた。
「下着ならちゃんと履いてますよ」
見ますか? とズレたことを真顔で言い放つ天草にエドモンは「莫迦か」と間髪入れずに返し、大して量の減っていないビールを喉に流し込んだ。
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2016.05.27
今日は朝から散々だ、とエドモンは目の前で不細工に泣き崩れている生徒を尻目に黙々と箸を動かす。
天草が炊飯器のスイッチを入れ忘れるという初歩的だが致命的なミスをやらかし、朝食は焼き鮭とほうれん草のおひたし、ひじき煮、みそ汁にトーストという珍妙な組み合わせであった。
当然、弁当も作れず学食を利用することになったが「総菜パンで済ませないでくださいね? ちゃんと食べてくださいね?」としつこく念を押され、思わず「うるさい、いつまでも子供扱いするな」と苛立ちを隠すことなく言葉にしてぶつけ、そのまま出勤したがやはり後味は悪い。
定食の載ったトレイを手に空いた席へと向かう途中で不意にシャツを掴まれ、強引に引き留められ今に至る。
ぶえぇぇぇ、と嘆く生徒──周りからぐだ男と呼ばれている彼は、端的に言えば好きな子に告白して振られたらしい。そういうのは放課後にやれ、と喉元まで出かかるもエドモンはみそ汁と共にそれを飲み下す。
「ペンドラゴンさんにOKもらえると思う方がおかしい」と友人が辛辣なことを言えば、ぶええええ、と嘆きが酷くなった。
ペンドラゴン姓はこの学校にふたりいる。剣道部には姉が、妹はフェンシング部に所属しており、そのどちらも見目麗しいが、姉の方は毅然と凛々しく下級生女子に慕われるタイプだ。
話の流れ的に妹の方かと見当を付ければ案の定、「名前の通り高嶺の花だったよリリィちゃーん!」とぐだ男が、おいおい、と泣き声を上げる。
「でも俺だからダメってわけじゃなくて『今はどなたともお付き合いするつもりはないんです』って言ってたから、ワンチャンあるよねぇー!?」
泣きながらもポジティブなことをのたまうぐだ男には悪いが、エドモンからすれば無理の一言に尽きる。ペンドラゴン姉妹が居候している家にいる男が、とにかく出来る男なのだ。
その男と初めて顔を合わせたのは、彼が清掃ボランティアとして教会にやってきた時だ。褐色、白髪の見た目もさることながら、漢字は違えど名前が同じ「シロウ」ということもあり、天草と彼はそれを機に親しくなった。
多少、皮肉屋なところはあるがこちらが礼を失さない限り非常に礼儀正しく、人当たりも良い。料理の腕もかなりの物で、時間が合えば天草に料理指南をしているのか、思い出したように覚えのない味付けの物が食卓に並ぶ。
容姿も申し分なく、鍛えられたそれは鋼のように強靱且つしなやかで、同性から見ても賞賛に値する。
そういえば週三回ほどではあるが弓道部の指導をすることになったと、先日天草と話していた。
そのような男とペンドラゴン姉妹は寝食を共にしているのだ。自覚はなくとも異性に対するハードルがかなり高くなっていることは、容易に想像がつく。正直あれが基準では並大抵の者では太刀打ちできないだろう。
「そんなワンチャンをものにするために、モテモテであったであろうダンテス先生の武勇伝を是非ともお聞かせ願いたくぅ!」
やっと引き留められた理由が明かされたが、そんなくだらんことで、とエドモンは渋面を隠そうともしない。
「そんなものはない」
「またまたぁ~? ラブレターもらったり、告られたりは日常茶飯事だったんでしょ?」
泣いたカラスがもう笑ったを目の当たりにし、エドモンの眉間のしわが更に深くなる。学生時代にそういうことがなかったわけではない。実際に何人かと交際もした。だが、長続きしたかといえば答えは否だ。
相手に落ち度や不満があったわけではない。思い返してみてもこれといった理由はないのだが、数ヶ月ほどで「こいつではないな」と漠然と感じ、別れた。
手酷く振ったりはせずきちんと話した上で割りと円満に別れ、そういえばいつしか誰とも付き合わなくなったな、と記憶の隅に追いやっていた物が不意に顔を出してきた。
意図的に思い出さないよう蓋をしていたそれがなんであったか。
敢えて目を逸らしたのは何故か?
一気に跳ね上がった心拍数と脳内で鳴り響く警鐘に、よくわからんがマズイ、とエドモンは慌てて意識を目の前のぐだ男へと向けると、「俺は俺、おまえはおまえだ。待て、しかして希望せよ、だ」ともっともらしいことを言ってお茶を濁したのだった。
昼の一件以降、もやもやとしたものを抱えたまま職務を終え、校門をくぐったエドモンに声をかけてきたのは、天草と同じ名前を持つ男であった。
弓道部の指導日だったか? と問えば、いや、と首を横に振られた。
「これを渡そうと待っていたのだよ」
そう言って差し出されたのは無地のエコバッグだ。怪訝な顔のまま受け取れば、相手はスマートフォンを操作しながら、ふっ、と笑う。
「天草神父からメールが来たのだが、内容的にキミ宛だと思ってね」
差し出された画面を覗き込めば『帰りに卵と牛乳を買ってきてください』とあった。『エドモン』と『エミヤ』アドレス帳の並びを考えれば確実に送信先間違いだ。
「彼は意外とそそっかしいのだな」
「わざわざすまなかった。帰ったらよく言っておく」
レシートを受け取りサイフを取り出しながら、呆れからかエドモンが脱力した声を出せば、エミヤシロウは、なに自分の買い物もあったからついでだ、と大らかに笑って見せたのだった。
いつもと変わらぬ時間に帰宅したにも関わらず出迎えたのは玄関灯のみで、シンと静まり返った家にエドモンは片眉を上げた。外部と礼拝堂を繋ぐ扉に鍵がかかっていることは確認済みであり、天草は既にこちらへ戻っているはずだが、実際には室内のどこにも明かりはついておらず動く者の気配もない。
卵と牛乳を冷蔵庫にしまい足音を忍ばせ天草の寝室を覗き込めば、カーテンの引かれていない窓から差し込む月光で、ぼんやりとではあるが中の様子は伺えた。こんもりと盛り上がったベッドは、天草が既に就寝していることを告げている。
これまでも天草が早寝をすることはあったが、その場合はあらかじめエドモンに断りを入れ、食事の用意も済ませてからが常であった。
珍しいこともあるものだ、と明かりをつけずそのままベッドへと歩み寄る。枕元のサイドテーブルに聖書が置かれてるのはいつものことだ。就寝前に数頁でも目を通すことは彼の習慣だからだ。だが、それと共に見慣れぬ物が積まれており、エドモンは一瞬動きを止めた。
大判で厚みのあるそれは書籍ではなく、エドモン自身その存在をすっかり忘却の彼方へとやっていた所謂『成長記録』という物であった。
なんで今更こんな物を、と渋面で天草に目をやれば、思い出に浸りながら寝落ちたのか別のアルバムを開いたまま、それに突っ伏すように眠っている。
「なにをやっているんだ」
まったく、と呆れながらも、そっ、と天草の身体を抱え枕にきちんと頭を乗せてやるも、触れた相手の湿った寝間着の感触に、はっ、となった。
よくよく見れば額には熱冷ましの冷却シートが貼られており、吐かれる息もどこか忙しない。
朝から続いた彼らしくないミスに、いつから具合が悪かったのかとエドモンは眉間にしわを寄せた。おとなしく床についたのはほめてやるが、自分はもうここに写っている子供ではないのだ。頼ってくれてもいいのではないかと、腹の底から苛立ちが沸々と湧き上がる。
開かれたままであるアルバムを閉じようと手を伸ばし、そこに写っている天草の姿に動きが止まった。
そうだ彼は一時期とても髪が長かったのだと今思い出した。
そこから芋づる式に掘り起こされる記憶に、んんん? とエドモンは微妙な顔つきになる。
小学校の卒業式も中学、高校の入学式、卒業式もカソックを着ていたから、かろうじて男であると認識できたが、写真に残る彼は少年とも少女ともつかぬ不思議な面差しをしている。
おまけにエドモンは中学生の頃からぐんぐん身長が伸び、高校卒業時に撮った写真ではエドモンと天草、どちらが学生かわからない始末だ。
本当におおきくなりましたね、と眩しそうに見上げてくる天草の柔らかな笑みの方がよほど眩しかったと告げてくる記憶に、エドモンは、んんんんん!? と信じがたい物を見た顔になる。
待て、落ち着けエドモン・ダンテス。これ以上はやめておけ、と己の冷静な部分がフル稼働で警告を発するも、自動再生される記憶を止めるには遅かった。
告白はいつもされる側であった。
彼女たちはそれぞれ好ましいところはあった。
それでも常になにか物足りないと、なにかが違うと感じていた。
気遣いは天草の方が巧い。
料理は天草の方がいい。
笑顔は天草の方が可愛い。
名を呼ぶ声は天草の方が心地よい。
エドモンの基準は常に天草であったが、当時の彼には自覚がなかった。
それに気づいたのは大学に入ってからだ。全く女っ気のないエドモンを不思議に思っていた学友が、忘れ物を届けに来た天草を見て「こりゃ仕方ない」と納得した声を出したからだ。
「毎日見てるのがあれじゃ、並の女では霞んで見えるだろ?」と。
そんなわけあるかアレは男だぞ、と即座に否定するもその指摘は的を射ており、自覚してしまえばこれまでのことが、すとん、と腑に落ちた。
これはおかしなことなのだと、養父に抱く感情が明確な形をなす前に、エドモンはそれを「なかったこと」にしたのだった。
我ながらよくもまぁここまでキレイサッパリ忘れられたものだと、当時の自分の意志の強さを自画自賛しつつも、今すぐにでも頭を抱えて転げ回りたい気分だ。
思い出したからと言って当時の気持ちをそのまま持ち越しているわけではないが、少なからずとも意識してしまうのはどうしようもない。
ベッドの端に腰掛け眠る天草を見下ろせば、僅かな振動と気配を感じてか、ゆうるり、と天草の瞼が持ち上がった。
「……エドモン? あぁ、すみません、すぐご飯の用意しますね」
「いい。それくらい自分で出来るからそのまま寝ていろ」
アルバムを拾い上げサイドテーブルへと乗せながら「朝食も俺が作るから明日は無理して起きてくるな」と告げれば、二度、三度と瞬きをした天草は、ふわり、と花が綻ぶような笑みを浮かべた。
「本当におおきくなりましたね」
頭を撫でたいのか、伸ばされる手に片眉を上げるもエドモンは素直に身を屈め、柔らかく触れてくる手に目を細める。
「何年経ったと思っている」
子供扱いはこれっきりにしろ、と静かに告げるも、天草はただただ微笑を浮かべるだけだ。
ふと、ここで唇を塞いだらどんな顔をするのだろう、との考えが過ぎったが、そのあとの巧い言い訳が思いつかず、「もう寝ろ」と天草の頬にお休みのキスをすれば、された方は驚きで目を丸くした後、ふふ、と嬉しそうに笑った。
「いつ以来でしょうか。貴方からしてくれるなんて、ちょっと驚きました」
「いいから寝ろ」
自分の行動が気恥ずかしくなったかぶっきらぼうに言い捨て、エドモンは足早に退室していった。その背を見送った後、天草は自分の前髪を摘み、また伸ばしますか……、と誰に聞かせるでもなく小さく漏らしたのだった。
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2016.07.03
夕飯後、居間のテレビの前に陣取っている天草の姿に、珍しいこともあるものだ、とエドモンは足を止めた。普段、彼が見ている番組と言えばニュースが主で、娯楽メインのものとは縁遠いと思っていたのだ。
ソファの後ろで足を止めたエドモンに気づいたか、天草は振り返ると「一緒にどうですか?」と隣を、ぽん、と叩いて見せた。
「珍しいものを見ているな」
「以前いたところが取材を受けたと連絡があったので、どのようなものか見てみようと思いまして」
連絡? と怪訝な顔のままエドモンがソファに腰を下ろせば、天草は、こてん、と首を傾げ、「教会が提供する動画に私が映っているので、都合が悪ければ編集するという話でした」と彼自身、番組内容を把握していないようだ。
よくわからないままふたり揃ってテレビに向き直れば、タイミング良くコーナーが切り替わり、画面には見慣れた十字架が映し出された。更に画面の左上にはテロップが出ており、そこにある『YOSAKOI』の文字に、天草は「あぁ」と納得したかのような声を漏らした。
マイクを向けられている人の良さそうな神父様曰く、「もっと教会に親しみを感じていただけるよう、行事には積極的に参加していきたい」とのことで、数年前からよさこいに参加しているということであった。
近隣の区に配属されている者がその年のメンバーになるため、全員が集まるのは週に一度である。個別の練習風景と全体練習の映像が流れ、次いで動画配信サイトの教会公式チャンネルでも配信されている動画を再編集したものが流れた。
「これは教会が初参加の時ですね」
テレビではなくエドモンの隣の天草から、映像に合わせて解説が入る。カソックにストラをつけた神父様達が鳴子を手に踊っており、悪くはないが良くもないという平凡なものだ。
翌年も同じ光景が流れ、統制は取れているものの、正直つまらんな、と思ったエドモンを察してか、天草が「試行錯誤の最中なので大目に見てください」と穏やかに笑う。
「こんなことをやっていたとは知らなかったな」
「私が参加したのは四年目ですから、ちょうどエドモンが一人暮らしをしていた時ですね。あっ、これです」
これです、と言われ画面に目を戻すも、遠目に映っているのはこれまでの神父様ではなくスカートをたなびかせたシスター達で、んん? とエドモンが目を眇めたのと同時にズームアップされ、その正体に不覚にも噎せそうになった。
テレビ画面にも『まさかの女装!』の文字が躍り、エドモンはぎこちない動きで隣の天草を見やる。
「まぁ所謂『出オチ』というやつですね」
会場内のどよめきは今でも覚えています、と朗らかに笑う天草に、聖堂教会大丈夫か!? とエドモンは突っこみたいが、あまりの衝撃に喉で引っ掛かってうまく言葉が出ない。
修道女姿もさることながら、一際目を引くのは拳法の型のような切れのある踊りを披露する、妙に体格の良い死んだ魚の目をした男であった。
「この年から踊りも変えたんですよ。綺礼さん格好いいでしょう?」
その男を指して、ふふ、と笑う天草は冗談を言っている様子はない。確かにひとつひとつの動作は達人級だが、服装がこれでは素直に頷けず、かと言って笑うには妙な迫力があり、全てにおいて反応に困る相手である。
それとは別の意味で目を引いたのは、やはりというか予想通りというか、ひとり見た目だけは未成年の天草だ。しかも、なにも知らなければ少女にしか見えないのがおそろしいと、エドモンは知らず渋面になる。
「さすがに着慣れないので動きにくかったです」
裾がこうまとわりついて、と感想を述べる天草に、着慣れている方がどうかしている、と力なく突っこめば、それもそうですね、と呑気に返された。
「そうそう。万が一に備えて全員、中に競泳用の水着を着ていたんですよ」
男のパンチラなど放送事故でしかないが、その情報も特にいらなかった、とエドモンは当事者のこぼれ話に頭を抱えたくなる。
新しい試みの年であったからか四年目の映像は長めに収録されており、翌年へと切り替わったところで天草が緩く息を吐いた。
「どうした」
「いえ、このあと鳴子を飛ばしてしまったので、そこまで入ってなくてよかったなと」
練習でも何度もやってしまって、と眉尻を下げる天草に、エドモンは意地の悪い笑みを浮かべてみせる。
「ほう……配信サイトに行けば貴様の恥ずかしい姿が拝めるという訳か」
そうかそうか、とわざとらしく頷くエドモンに墓穴を掘ったと気づいたか、天草は口元を手で覆うと、ちら、と上目にエドモンを見やり「意地が悪いですね……」と拗ねたように漏らした。
コーナー自体は神父様の「今年も参加しますので是非足をお運びください」との言葉で平和に締められたが、エドモンの耳には一切届いていない。
「……見てもいいですけど、笑わないでくださいね?」
そう言うが早いか天草は、先にお風呂いただきます、と背を向け、エドモンの返事を待つことなく扉の向こうへと姿を消したのだった。
はっ、と我に返ったエドモンは、いやいやいや! と全力で己の反応を否定する。
目元どころか耳まで赤く染めた養父を可愛いと思ったなど、気の迷いである、と。
ここはひとつからかいのネタにしてやろう、と自室へ戻りノートPCを立ち上げるや手早く検索を掛け、検出された中から単純に再生数の多い物を開いた。
公式チャンネルの物ではなく一般投稿であったが内容に変わりはないだろうと、そのまま再生する。
開始早々『出オチwww』といったコメントが複数流れ、次いで綺礼神父を指してか『キレッキレだな』『ひとりキッレキレなのおるwww』と目立つ彼に対するコメントで画面がやや見辛くなる。
ふと『●:●●に一時停止推奨』という妙なタグが付いてるな、と不思議には思ったがそのまま流していれば「女の子混ざってね?」という投稿者かあるいは同行者とおぼしき音声が入り、それに合わせて画面がズームしていく。
対象は案の定天草で、まぁ気持ちはわかる、とエドモンは複雑な心境だ。
そこまで身長は低くないが目は大きめで童顔の部類に入り、ベールの下で揺れる長い銀糸に加え、ボディラインのはっきりわからない修道女の服を着ていては、男だと断じるのは難しいだろう。
そして、動画視聴の目的であった天草の手から鳴子がすっぽ抜けた直後、判読不可能な勢いで画面がコメントで覆い尽くされた。
所謂『弾幕』というやつだが、なにが巻き起こったか瞬時に理解できず、は!? と思わず声に出してから、エドモンは慌ててコメント表示をOFFにすると、再生状況を示すカーソルを数秒分戻す。
天草の手から鳴子が離れ、僅かに焦った顔を見せるもそれは一瞬で、即座にスカートをたくし上げるや、腿に装着されたガンベルトから予備の鳴子を引き抜き、何食わぬ顔でそれを打ち鳴らした。
弾幕の内容は横のコメント欄を見るにほとんどが『生足』といった物で、妙なタグの示す時間は間違いなくこれのことだと理解した。
どこから突っ込んだものかと思いつつ、とりあえず最後まで見ようとエドモンは半眼で画面を見据える。
その後は何事もなく演技は無事終了し、飛ばしてしまった鳴子を拾ってくれた相手に天草が丁寧に礼を述べているところまでが映っていた。
周りのざわめきに紛れて聞き取りにくいが、「ありがとうございます。お怪我はありませんか?」との天草の声が流れたのと同時に『全員神父様です』との投稿者の手によるテロップが挿入され、『なん、だと……?』『またまたご冗談を』『こんな可愛い子が女の子のはずがない』『ありだな』『嘘だと言ってよバーニィ!』とコメントが阿鼻叫喚の様相を呈している。
それらのコメントを笑い飛ばせれば良かったのだが、エドモンは苦り切った顔で机に肘を突き、組んだ指に額を押し当てた。
天草の生足などこれまで腐るほど見ているにも関わらず、スカートの下から覗いた足に不覚にも目が吸い寄せられてしまったのだ。
素足にガンベルトという予想外の付属品もだが、見えそうで見えない、チラリズム恐るべし……、と妙な敗北感を噛み締めたのだった。
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2016.07.22
学食の出入り口でキョロキョロと辺りを見回す女生徒の姿に、エドモンはこれといった理由はないにも関わらずなぜか、ぎくり、と足を止めた。こういう時の直感は当たると踵を返そうとするも、若草色の澄んだ瞳がエドモンの姿を捉える方が早かった。
「ダンテス先生」
ぱぁっ、と花が綻ぶような笑みを浮かべたと同時に、まっすぐ真上に伸ばされた腕が女生徒の存在を誇示するかのごとく、大きく左右に振られる。名指しされては無視するわけにもいかず、エドモンは苦虫を噛み潰した顔を隠しもせず渋々足を踏み出した。
相手が近づくに任せるのではなく、ポニーテールを揺らし自ら小走りに駆け寄ってきた少女はエドモンの正面に立つと、手中の包みを胸の高さに引き上げた。
「お弁当持ってきました」
リリィ・ペンドラゴンのその一言で、周りの生徒が、ざわっ、とどよめいた。
うん、この空気は知っているぞ、とエドモンは以前にも味わったことのある突き刺さる好奇と興味の視線に全力で気づいていないふりをし、素で全く気づいていないリリィを見下ろす。強引に腕を引いて場所を移すわけにもいかず、さてどうしたものか、と思案するエドモンを知ってか知らずか、リリィは、そうだ、と弁当箱を手にしたまま器用に掌を軽く打ち鳴らした。
「せっかくだからご一緒しませんか? 屋上に姉さんもいるんですよ」
「わかった」
渡りに舟だと一も二もなく頷き、即座に回れ右をしたエドモンに遅れることなくリリィもその場を後にする。そんなふたりの背を「イケメン爆発しろぉ!」と心の中で絶叫しつつ見送るぐだ男には、当然のことながら気づくことはなかった。
昼食はいつも屋上でとっているのか、ペンドラゴン姉妹に促されるままにレジャーシートに腰を下ろし、エドモンは目の前の弁当を難しい顔で睨め付ける。
「どういうことだこれは」
「シロウの厚意です」
一際大きな弁当箱を膝に置き、今日も見事です、と感嘆の言葉を漏らしたアルトリアはそれらを早く味わいたいのか、質問に対する答えは見事なまでに簡略化されていた。
「天草神父が怪我をされたのは自分にも責任があるからと言ってました」
「責任もなにも、あれはヤツが鈍くさかっただけだろうに」
それを補うべくリリィが言葉を継げば、エドモンは呆れたように言葉を返した。
昨日は日曜日で、エミヤシロウと共にペンドラゴン姉妹は教会へ来ていたのだ。プランターに花を植える作業を中庭でやっていたところ、肥料を運んでいた天草がぬかるみに足を取られ転倒したとのことだった。
図書館へ行くついでにクリーニングに出していた物を引き取り、予定よりもやや遅れて戻ってきたエドモンは姉妹からその話を聞いて思わず天を仰ぎ、エミヤに抱えられた風呂上がりの養父の姿に再度天を仰ぐこととなったのだった。
しかも、ただ転んだだけなら笑い話で済んだのだが、プランターに突っ込むのを回避するべく無理矢理に身体を捻ったせいで足首を痛め、それに加えて手首まで痛めたというのだから、エドモンはもう心配を通り越し呆れて言葉もない。
「力仕事は自分がやるべきだったと、シロウさんは帰りの車中でもしょげてました」
「全く持って理解不能だな。あれも子供ではないのだから、そこまで過保護だとさすがに引くぞ」
「えっ?」
「えっ?」
言うだけ言ってようやっと弁当に箸を付けたエドモンだが、同時に上がった声に怪訝な顔でふたりを見やった。先日の天草来訪は数日間は生徒達の話題に上っており、彼の発言はそれなりに広がっていると思っていたのだが、どうやら局地的な物であったようだとエドモンは認識を改めた。
「あれは俺の養父だぞ」
「あの話はその、天草神父の冗談ではなかったのですか」
今にも箸を取り落としそうなアルトリアの呆然とした様子に溜息で応じ、エドモンは里芋の煮付けを器用に摘みながら、ゆるり、と首を横に振る。
「冗談であればよかったのだがな。そもそもよく考えてみろ。未成年に教会ひとつ任せるほど聖堂教会は人員不足なのか?」
「それはそうですけど、でも、あまりにもお若くて俄には信じがたいというか……」
困惑は隠し切れていないが言葉を選び選び思ったことを口にするリリィに対し、気持ちはわかる、とエドモンは口に含んだ里芋を咀嚼しながら小さく頷いた。
「あれで五十近いのだからな。詐欺どころの話ではない」
気を落ち着かせようとしたのか、お茶を口に運んでいたアルトリアは真顔のまま、ぶばっ、と噴出し、姉に倣ってお茶を注いでいたリリィは手元が狂って、びしゃびしゃ、と屋上のコンクリートにご馳走する始末だ。
エドモンから差し出されたハンカチを素直に受け取り、口元を押さえながらアルトリアは、ぶつぶつ、と何事かを呟いている。
「……見た目に反した貫禄ある立ち居振る舞いだとは思っていましたが、まさか五十近いとは……いやしかし、アイリスフィールも若く見えて実年齢はそうではないとキリツグが……ならば天草神父がそうでも別段珍しいことでは、いやだがしかし……」
身近な事例を引っ張り出してどうにか納得しようとしているようだが、その努力は残念ながら空回りしているようだ。
「あっ、では先日お見かけした方は天草神父ご本人だったんですね」
アルトリアより柔軟な思考をしているリリィはいち早く気を取り直し、なにを思いだしたのか胸の前で軽く掌を打ち鳴らした。
「テレビで聖堂教会の方が、えーと、YOSAKOI? に参加してるというお話をしてて、そこで天草神父によく似た方が映ったのですが、何年も前の映像のようでしたので人違いかと黙っていたのですが……」
リリィの発言に今度はエドモンが、ごふっ、と噎せる番だ。まさかここであれを持ち出されるとは思いもよらず、不覚にも動揺してしまった。だが、ここで取り繕おうにも無駄な努力なのは明白だ。
「髪が長いと印象が変わりますね。とてもお似合いでしたし可愛らしかったです」
無邪気に賛辞を口にするリリィに「そうだろう」とも「そんなことはない」とも返せず、エドモンは曖昧に言葉を濁すしかなかった。
「ダンテス先生、貴方を疑うわけではないがやはり信じがたい話だ。なにか証拠のようなものはないだろうか?」
自分を納得させることを潔く諦めたアルトリアの清々しいまでの要求に、断りの言葉を探すのも面倒だ、と半ば投げやりになったエドモンは「アルバムを見に来い」とだけ返すと、弁当を片付けることに集中する。ふたりとも部活がありそれなりに忙しい身だ。エミヤ邸から新都に出るにはバスを利用しなくてはならず、次の休みを迎える頃には興味も失っているだろうと、エドモンは若干軽く考えていたのだ。
だが、その考えは甘かったと五分後に思い知らされることとなる。
黙々と箸を動かしていたエドモンとリリィがほぼ同時に手を止め、ポケットから取り出したスマートフォンに指を滑らせた。
届いたメールに素早く目を通したエドモンの眉は、ぎゅう、と寄り、険しい表情のまま、ちら、とリリィを見やれば、彼女は手中の画面を姉に見せた後、「お夕飯楽しみですね」と楽しそうに顔をほころばせた。
『エミヤさんがお夕飯も作ってくれるそうなので、それならアルトリアさんとリリィさんもこちらで一緒にどうかとお誘いしました。おふたりにはエミヤさんから連絡がいっていますので、了承を得られたら帰りはエドモンの車に乗せてあげてくださいね』
天草からのメールには突っ込みたいことが山盛りだが、その中でも特に突っ込みたいことが一カ所あった。
「夕飯『も』だと……?」
「シロウさんならお昼頃に教会にお伺いすると言ってましたから、今おふたりもお昼ご飯を食べているのかもしれませんね」
朝食はエドモンが作り、昼食は「ピザでも取りますよ」と本気か冗談かわからぬが天草はそう言っていたが、まさかこうなるとは……、とエドモンは喉奥で低く唸る。
「どこまで世話焼きなんだあの男は」
「そういう性分なんです。シロウは」
アルトリアにいともあっさりと返されエドモンは、そうか、としか言いようがなかった。
礼拝堂の明かりが落ちていることを確認してから、エドモンはペンドラゴン姉妹を伴い玄関のドアを開けた。
「お帰りなさい」
車のエンジン音が聞こえていたのかそこには柔和な笑みをたたえた天草がおり、姉妹は揃って「今晩は。おじゃまします」と軽く頭を下げた。
「急なお話でご迷惑ではありませんでしたか?」
どうぞ、とスリッパを並べながら問うてくる天草にふたりは笑顔でそのようなことはないと返し、むしろ良いタイミングでした、と言葉を継げば、当然のことながら天草は不思議そうに首を傾げる。
「その話はあとだ。それにしてもなんだ、そのだらしない格好は」
苦虫を噛み潰したようなエドモンの問いに、更に天草は首を傾げる。朝は寝間着のままふらふらしていた天草も大概だらしないと思っていたが、今はそれに輪を掛けてよろしくない状態だ。
明らかにサイズの合っていないTシャツにカーゴパンツという、普段であれば絶対にお目にかかれないであろう姿に、エドモンは眉間に深いしわを刻み、はー、と嘆息する。
「やっぱりエドモンの服は大きいですね」
着替えはラクでしたが、と軽く裾を摘む天草の言い分はわからないでもない。私服姿など数えるほどしか覚えがなく、その数少ない記憶も全てが前ボタンのシャツ姿ではあったが、まさか天草がTシャツの一枚も持っていなかったとは、エドモンは思いもしなかったのだ。
「まぁいい。ふたりはエミヤを手伝ってやれ」
いつまでも玄関先で立ち話をしているわけにも行かず、姉妹を促すやエドモンは不意に膝を折った。何事かと驚くふたりとは裏腹に天草は落ち着いた様子で傍らのエドモンの鞄を掴むと、そのまま相手の背中におぶさった。
腿をしっかりと抱え、すっ、と立ち上がったエドモンは振り返ることなくまっすぐに廊下を進んでいく。
「無理して出てくることはないだろうが」
「お客様はお出迎えしないと失礼でしょう」
「なら格好にも気を遣え」
遠離っていく会話を聞きながら姉妹は顔を見合わせ、「ダンテス先生、なんだかんだ言いながら天草神父のことお好きですよね」と再認識したのだった。
投げやりに「アルバムを見に来い」などと言ってしまったが、冷静に考えれば『天草が写っている=自分も写っている』ということであり、目の前で自分を肴にされるのはいたたまれないと、エドモンは自ら夕食後の片付けを買って出た。
なにを察したかエミヤも台所に残り、居間から響く楽しげな声に口角を上げている。
「ダンテス先生、やっぱり昔から素敵だったんですね」
可愛らしく声を上げるリリィに「すごくモテましたよ」と天草が応じる声が聞こえ、エドモンは「目的を忘れているな」と苦り切った顔になる。
「当時は私もそこそこ忙しかったので普段の写真はあまりはないのですが、年間行事関係はどうにか残ってますよ」
これはエドモンが来たばかりの頃で、などと当時を振り返りながらアルバムを繰る天草は優しげに目を細めており、写真を辿る指先も慈しむかのように繊細だ。
小学校の卒業式から高校の卒業式までの写真を一通り眺めた後、当初の目的をやっと思い出したか、アルトリアが一言断りを入れてからページを順に繰っていく。
天草が写っているのは入学、卒業時に撮ったエドモンの隣にいる物だけだ。それだけしかないが異様なことはよくわかった。
どれをとっても年齢の変化が見受けられない。唯一変わったと言えば髪の長さくらいなものだ。
「以前は髪を伸ばされていたのですね」
とりあえずエドモンがホラを吹いていたわけではないことが確認できたわけだが、それ以外のことには敢えて触れずアルトリアが話を振れば、天草は静かに襟足を撫で、懐かしいですね、と目を細めた。
「えぇ、今ではすっかり短いのに慣れてしまいましたが」
「なにか理由がおありだったんですか?」
リリィの無邪気な問いに、ふふ、と笑みを零し、天草はどこか照れくさそうに眉尻を下げる。
「エドモンと話をするためですよ」
そう言ってアルバムの最初のページに戻り、幼いエドモンに目を落とす。
「聞き分けのいい手のかからない子でしたが、おとなしいというより警戒されていたんでしょうか、会話も最小限という状態でして」
不甲斐ない話でお恥ずかしい限りです、と力なく項垂れるもすぐに顔を上げ、天草は続きを口にする。
「髪を乾かすのを手伝ってもらうという理由を付けて、多少強引でしたが会話する時間を作ったわけです」
出会った当時すでに肩胛骨の辺りまで伸びていた髪は、小学生の手には余る長さであっただろう。
「嫌な顔はされましたが雑に扱うわけでもなく、本当にいい子で。そのうち習慣になりました」
この辺りはさすがに伸ばしすぎたかなと思いました、と指さした写真は高校卒業時のもので、腿まで届く程の長さは確かにひとりで扱うには難儀しただろう。
「YOSAKOIの時はまだ長かったですよね」
「切ったのはそのすぐ後ですね。大学の都合でエドモンはひとり暮らしをしていて手は借りられないし、イベントも終わったしでちょうど良いかと思いまして」
「それはつまり、ずっとダンテス先生が天草神父の髪を梳いていたということでよろしいか?」
いくら習慣と化していたとはいえ、それだけで十年近くも続けられる物なのだろうか? とアルトリアが疑問を口にする前に「そろそろお暇するぞ」とエミヤが居間に顔を出し、反射的に壁の時計に顔を向けた姉妹は、思っていたよりも遅い時間に慌てたように立ち上がった。
一歩遅れてやってきたエドモンが立ち上がりかけた天草を制し、姉妹がアルバムの礼を述べれば、またいつでもいらしてください、と天草は笑みを返し、それを見送りの言葉としたのだった。
温風を当てられながら、わしゃわしゃ、とかき回される髪に天草は、ふふ、と思わず笑みを漏らした。
「なんだ」
「いえ、こうしてエドモンに髪を乾かしてもらうのも随分と久しぶりだなぁと改めて思いまして」
「貴様がドジを踏まなければ二度となかったかもしれんな」
「耳が痛いですね」
ゆるゆる、と手首の包帯を撫でさすり苦笑する天草を見下ろしつつ、エドモンは指の間をすり抜ける髪の感触に知らず口角が上がる。
思えば天草のお願いは最初の頃は面倒でしかなかった。
だが、日を追うごとに彼の穏やかな口調や声音が心地よくなり、髪を乾かし櫛を通す時間を少しでも長引かせようと、殊更ゆっくりと手を動かしたこともあった。
気づけば彼の髪に触れるという行為を楽しみにしている自分がいたと、今ならわかる。
エドモン自身が「なかったこと」としたそれは、随分と年季の入った恋心であったのだと、今ならわかる。
それにふたをしたことを後悔しているわけではない。
素知らぬふりが出来るくらいには大人になったのだと実感しただけだ。
「また伸ばしたら手伝ってくれますか?」
「気が向いたらな」
手が滑ったふりをして指先が項を掠めれば天草は軽く肩を跳ねさせ、その様にエドモンは小さく笑った。
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2016.10.09