【刀剣】領主光世×子鬼丸+ソハヤの話【典鬼】 雪も溶け、柔らかな陽射しが降り注ぐようになったある春の日。チチ、と囀る小鳥の声に気を引かれたか、ふと、中庭に目をやった大典太の視界に、そこには似つかわしくない色が引っ掛かった。
光の加減で七色に変じる白銀の髪をもった年の頃は十と思しき少年が、木の根元に腰を降ろし、膝に広げた書物をやる気なさげに眺めている。
「……見ない顔が居るな」
その声が耳に留まったか、山と積まれた報告書の仕分けを別の机でしていたソハヤが顔を上げた。
「あぁ、あいつなぁ」
どこか苦い物を含んだ声音に大典太が怪訝な顔を向ければ、ソハヤは紙の山から抜き出した一枚を手に兄の傍へと寄る。
差し出されたそれに目を通し、大典太は更に怪訝な顔になった。
「北の渓谷辺りに集落などあったか?」
「まぁ、一応。ただ何年か前の雪崩が原因で、あの一帯は殆どの者が移住したんだけどな……」
そう言えばそんな報告書を見た憶えがあるな、と大典太は奥底にしまい込まれていた記憶を引っ張り出し、そこは他者とあまり交流の無かった古い集落ばかりであったと思い至る。
「それで?」
「別件で近くまで行った奴らがたまたま見つけて保護してきたんだが、相当暴れたらしくてな。正直手がつけられなかったから落ち着くまで隔離してた」
ソハヤの話を聞きつつ大典太は報告書のある一点から目を離さずに、僅かに眉根を寄せた。
「鬼の子……?」
「見た目はな。そのせいでこれまでも色々あったんじゃねぇかな」
怪我をさせないためとはいえ、猿ぐつわを噛まされほぼ簀巻き状態で連れられてきた子供の姿を思い出し、ソハヤは深々と息を吐く。
慌ててその身を抱きかかえるも、拒絶からか喉奥で低い唸りを上げ、ギラギラ、とまるで獣のような荒々しく鋭い眼光は、警戒と威嚇と恐怖の入り交じった物であった。
「左目にまじないの形跡あり?」
「あぁ、開かないんだと。詳しく調べられてないからなんとも言えないが、今は眼帯をつけさせてる」
「そうか。なら俺が診てみるか?」
報告書から顔を上げ再び庭へと大典太が顔を向けたのと、執務室からの視線に気が付いたのか、木の根元に腰を降ろしていた少年が顔を上げたのは同時だった。
「……おい、こっちに来い」
おそらく声自体は少年には届いていないであろうが、おいでおいで、と手招く動作で言われたことは通じたようだ。だが『ここの主』に直々に呼ばれたというのに、少年の反応は非常に鈍く、ややあってから膝上の本を、ぱたり、と閉じ、不審顔ではあったがそれでも意外と素直に腰を上げた。
相手が歩を進めたのを見て大典太も窓辺に寄る。言われた通り近くまでやって来た少年は黙って大典太を見上げるだけだ。
近くでじっくりと見ればなるほど、髪から僅かに顔を覗かせているのは確かに角であろう。
ただし、それは左側に一本だけだ。
むすり、と唇を引き結び半眼で睨め付けてくる少年の肝の据わりに内心で感心しつつ、大典太はおもむろに身を乗り出すと相手の両方の二の腕を掴んだ。
「なっ!?」
突然のことに固まった子供など無視して、大典太は軽々と相手を持ち上げると、執務室の床に静かに降ろした。
「外はまだ寒いだろう。本ならここで読め」
思いもかけない言葉にどう反応するべきかと、少年は居心地悪そうに視線を左右に走らせる。
「……茶でも飲むか? 確かいい茶菓子もあったはずだ」
だが、棒立ちのままの少年など全く気にした様子もなく、大典太自ら茶の用意をしようとするも、それはさすがにソハヤに止められた。
「俺がやるから兄弟は座っててくれ」
う……、とも、む……、とも付かぬ声を漏らす大典太と動こうとしない少年の背を押して強引にソファに追いやれば、見知った顔が居る事にようやっと気づいたか、若干ではあるが少年の顔から険しさが薄れる。
ソハヤに促されるままに並んで座ってしまったふたりは暫し無言で居たが、大典太が不意に身を屈めた。
「名前は?」
顔を覗き込みながら問うてきた相手に少年は反射的に身を引くも、悪意は無いと感じ取ったか引き結ばれていた唇が、ゆうるり、と解かれていく。
「……鬼丸、国綱」
「俺は大典太光世だ」
「一応、この辺りを治めてるエライ人な」
かちゃかちゃ、と茶器を並べながらソハヤが補足すれば、一応ってなんだ、と小さなぼやきが大典太の口から漏れ出た。
陽気なソハヤとは正反対で陰気だな、と甚だ失礼なことを思いながら、鬼丸は柔らかな湯気を上げる湯飲みと共に置かれたお茶菓子に目をやる。
薄茶色で少し厚みのある丸い物体と、白くて少々いびつな球体に近い物体が並んでいたが、どちらも見たことのない物で、味の予想など全く付かない。触ってみると薄茶色の方はカサカサと乾いた感触で、白い方は指の跡が残るくらい柔らかく、しっとりとしている。
興味津々といった体で粉が飛ぶのも頓着せず白い方を口に運べば、中にみっちり詰まっていたものに軽く目を見開いた。
「……甘い」
北の地に実る数少ない果実など、比べ物にならないくらいに甘い。ここまで純粋に甘さのみで出来ている物など、鬼丸は知らなかった。
「じゃあ俺はちょっと用があるんで席を外すな」
なにかあったらすぐに呼んでくれ、と言い置いて退室するソハヤの背を見送り、会話も無いままふたりは黙々と菓子を口に運び続ける。
もふっ、ともなかを囓りながら大典太が横目に鬼丸の様子を窺えば、菓子のおかげですっかり警戒心は薄れたか、子供はふたつ目の大福に手を伸ばしその甘さを噛み締めている。
「気に入ったか?」
不意に掛けられた言葉に、鬼丸は、はっ、と顔を上げた。手も口の周りも粉だらけのその姿に、大典太は僅かに眦を下げる。
「こんな甘いの喰ったことない」
「そうか」
ずすー、とお茶を啜りながら、報告書に記されていたことを大典太は脳内で、ざっ、と反芻した。
滅多に人の踏み入らない北の渓谷。
酷く閉鎖的なそこは物資の流通など当然なく、辛うじて近隣の集落と交流を持つ程度であり、痩せた土地で充分な収穫も望めなかったことは、目の前の痩せぎすな少年の成長具合を見れば一目瞭然であった。
「此処に居ればとりあえず、食い物に困ることはない」
身寄りはなし。両親は雪崩に呑まれたものと推測された。
「ただ、居心地は悪いかもしれない」
人語を解するが人ではない。
非人道的な行いを許す大典太では無いが、得体の知れないものに対する好奇や恐怖、侮蔑といったものはどうしてもついて回る。
じっ、と真剣な面持ちで目を反らさない大典太の瞳を、鬼丸は思案顔で真っ直ぐに見つめ返し、ややあって答えを出したのかゆっくりと口を開いた。
「飯も喰えて、凍えるようなこともないなら、今は……それでいい」
一言、一言を確かめるように唇から押し出し、最後に小さく笑った。
「そう、か」
齢十歳で大典太の言わんとすることを、どれだけ汲み取れたか端からは知る由もないが、鬼丸は僅かに瞼を伏せ、膝の上で小さな拳を、ぎゅっ、と握りしめている。
笑みが引いたその一瞬、泣くのではないかと思わせる表情を浮かべた鬼丸であったが、何事もなかったかのように顔を上げ、「眠くなったから戻る」と告げると本を手に取ろうとした。
「……待て」
だが、何故か大典太から制止の声が上がり、鬼丸は何事かと動きを止める。
「粉だらけだろ」
ぽん、とお手拭きを放られ、改めて自分の手を見ればなるほど。大福の粉で白く染まっていた。
「ありが……」
礼の言葉は途中で不明瞭な音へと変じた。
広げたお手拭きで指を丁寧に拭いながら礼を言おうと、鬼丸が顔を上げたところを狙い澄ましたかのように、大典太が手にしたお手拭きで口許を覆ったのだ。
「こっちも粉だらけだな」
ぐいぐい、ごしごし、と容赦なく力を込められ、がくんがくん、と鬼丸の頭が揺れる。物はついでと言わんばかりに顔全体を覆われ、息苦しさに抗議の声を上げるもそれは言葉にはなっていなかった。
「……よし、こんなもんだろう」
「こ……この馬鹿力……」
ようやっと解放された瞬間、鬼丸は、へなへな、とソファに撃沈したのであった。
ドサドサ、と新たに机に積まれた書類に大典太はげんなりとした眼差しを向け、次いでそれを持ってきたソハヤを見上げ、躊躇いがちに口を開いた。
「……随分と、多くないか?」
「これでも俺がどうにか出来る分は片付けたんだぜ? それに、心当たりがないとは言わせねぇぞ兄弟」
弟の指摘にばつの悪い顔を見せ、大典太は大人しく一番上の紙を、ぺらり、と摘まみ取る。
大典太が治めている領地はさほど広くなく、近隣領主との関係も良好だ。不作の報せも無く戦が起こる気配も無い。領主という肩書きは持っているが、兼任している施療院責任者としての仕事の方が、正直多いのだ。
「俺じゃなくお前の方が領主になるべきだったんだ……」
なにかにつけそう愚痴る大典太にソハヤは決まって「俺は身体を動かす方が性に合ってるんだって」と返す。
その言葉の通り、問題が起きればソハヤは直ぐさま行動し、迅速に対処している。他者との連携も必要となれば、引き籠もり体質の大典太では対応は無理であろうと、百人居れば百人がそう答えるに違いない。
「それで、丸々一週間通った手応えはどうよ?」
「……聞くな」
この一週間、大典太は鬼丸の部屋へと赴き、親睦を深めようと努力したのだ。努力はしたのだが、元から人と話すことが得意では無い大典太と、他者に心を許す気のない鬼丸とでは、結果は火を見るよりも明らかであった。
「左目を診るなら、無理矢理は避けたいしな」
ただ診るだけならば力尽くで押さえつけ身体の自由を奪い、鬼丸の意思など無視する事も可能なのだ。
だが、それは駄目だと大典太もソハヤもわかっている。
「あんま構い過ぎると嫌がられるぜ? 猫だと思え、猫だと」
「……向こうから寄ってくるのを待て、と?」
それでは一生掛かっても無理だな、と勝手に落ち込んでいる大典太の肩を、ばん、と一発叩き、ソハヤは明るく言い放つ。
「大丈夫だって! おやつ持って顔見せに行って、食い終わったら帰ってくりゃいいんだよ。そうすりゃそのうち馴れるって」
焦るこたぁねぇよ、となおも明るく笑うソハヤに、そうだな、と返し、大典太は羽根ペンを取り上げた。
ぱらり、ぱらり、と頁を繰る乾いた音が鬼丸の手元から鳴るたびに、大典太は何か言いたげに口を開き掛けるも、ひとつ息を吸うだけでそれはすぐに閉ざされてしまった。
無理に会話をする必要は無いとソハヤから助言は受けたが、本当に顔を見に来て菓子を食べて執務室に戻るしかしない自分が情けなく思え、大典太は項垂れる頭を持ち直すことも出来ず、細い細い陰鬱な息を吐いた。
「……なんだ?」
不意に投げ掛けられた鬼丸からの問いに、大典太は弾かれたように顔を上げる。全くの無関心であると思っていた事もあり、咄嗟に言葉が出なかったのだ。
「言いたいことがあるなら言え。それに……疲れてるなら、わざわざ来なくてもいいだろう。戻って寝たらどうだ」
「いや、疲れてる訳じゃ……」
ない、と言い切れない辺り、大典太は嘘が下手なのだと窺い知れた。
「鬼丸はいつも本を読んでるが、好きなのか?」
経緯はともかく漸く掴んだ会話の糸口を逃してなるものかと、大典太はこれまで何度も何度も脳内で繰り返していた問いを音にして押し出した。
だが、一瞬の間の後、感情の載らぬ、いや、との否定の言葉が鬼丸から返され、それに対する返しが出来なかった大典太は、会話はここで終了かと表情を曇らせる。
それに気づいていない鬼丸は文字列を追う事はせず、じっ、と一点を見つめている。
「好きでも嫌いでもないが、知識はあるに越したことは無いだろうと」
他にする事もないしな、とつまらなそうに続けた鬼丸に、なら出掛けないか、と大典太の口から、するり、と思わぬ言葉が滑り出した。
何を言われたのか瞬時に理解出来なかったか、本に落ちていた目が、ゆうるり、と大典太に向けられる。
それまで淡々と言葉を紡いでいた鬼丸の表情が初めて動いた。
柘榴の瞳に浮かぶのは、驚愕、期待、歓喜。
しかしそれらは瞬き一つの間に諦観へと塗り潰された。
「……見世物になる気はない」
大典太が『鬼の子』を保護している事は、それとなく人伝に広まっている。希少である亜人種は残念ながらこの辺りには皆無である。それ故、悪意とまでは行かぬとも、偏見や好奇の目を向けられる事は容易に想像が付く。
「無神経な発言だった。すまない」
「気にしてない。それに普段引き籠もってるお前と出掛けたところで、楽しめるか疑わしいしな」
ぐさり、と特大の嫌味を突き刺してきた鬼丸だが、声音は存外穏やかで、よくよく見れば唇も僅かに弧を描いている。
これまで毛を逆立てていた猫が警戒心を解いたように思え、大典太は思わず、うっ、と口元を掌で覆い漏れ出そうになった声を必死に押し留めた。
「……なんだ」
「いや、なんでも……そうだな、外が駄目なら他になにか……」
口元を覆ったまま指先で、とんとん、と自分の頬を叩きながら何事か考えていた大典太は、うーん、とひとつ唸った後、俺の仕事の手伝いでもするか? と真顔で言い放ち、間髪入れずに「莫迦か」と返されたのだった。
小卓に積まれた分類済みの書類に、ちら、と目をやってから、ソハヤは胸中で、大した物だ、と呟いた。
大典太が「俺の仕事の手伝いでもするか?」と本気とも冗談とも付かぬ提案をし、鬼丸に一蹴されたのは一週間前の話だ。
だが、その翌日に鬼丸は自ら大典太の元を訪れ、暫くは何をするでも無くソファで本を読んでいたのだが、不意に立ち上がるやお茶をいれ、執務机の端へ茶菓子と共に置くと、そのまま黙って大典太の横で、じっ、と手元を見ていたという。
それが三日続き、四日目に鬼丸が申し出てきたのは、サイン済みの書類の分類であった。
当然のことながら二つ返事で許可を出す訳には行かず、かと言って無碍にも出来ず、試しに少量の書類を渡し分類方法を教えてみれば、最初こそ手間取ってはいたが一時間が経つ頃にはかなり手際が良くなっていた。
そして今に至る。
室内に鬼丸の姿が無い事を確認してから、ソハヤは大典太の傍へ寄った。
「……どうだ?」
「正直、噂レベルの話しかないな。そっちは鬼丸からなにか聞けたか?」
「読み書きを誰に教わったのか聞いてみた」
閉鎖的な環境で学ぶ機会があったとは到底思えぬが、鬼丸は実際に書物を難なく読んでいるのだ。
「親か?」
「いや……『見ればわかる』と」
「なんだそりゃ!?」
予想外の返答にソハヤが驚きの声を上げれば、本人から直接聞かされた大典太は「俺もそう言いそうになった」と苦い顔になる。
「亜人種は秀でた者が多いとは聞くが、それを差し引いても信じがたいな」
「いや、兄弟。俺たちが知ってる奴らは規格外だからな?」
鶴に鶯、竜と狐と……、と顔を思い浮かべているのか、指折り数えながら眉根を寄せるソハヤに、それはわかってる、と大典太も眉間に深いしわを刻む。
「そもそも本当に『鬼』なのか、現時点では確証が無いんだぜ? 角と言ったって本当にちょっと出っ張ってる程度だ。こう言うのは良くねぇが、奇形という可能性だってある」
角があるから鬼であると決めつけるのは早計であると、そう考えているからこそ以前にソハヤは「見た目はな」と妙な言い回しをしたのだ。
その裏付けのために鬼丸のことを知る者や彼の親のことを調べているが、「そんな話を聞いた」「知り合いの知り合いが言っていた」という信憑性に欠けるものばかりであるのが現状であった。
「人でも鬼でも『保護した子供』に変わりはねぇが、わからない事が多すぎんだよ」
日常生活に支障が無ければ謎は謎のままでも良いが、鬼丸には『開かない左目』という最大級の懸念がある。それを紐解くには、やはり過去を探るしかないのだ。
「まぁ、なんだ。地道に調べていくしかねぇか!」
気持ちを切り替え自分に発破を掛けるように腹から声を出し、ソハヤは、ぱんっ、と挟むように両の頬を軽く叩いた。
「兄弟は鬼丸に触っても嫌がられないくらい仲良くなってくれよ?」
「……その言い方はやめろ」
じとり、とした目でソハヤを見上げ、あくまで左目を診るためだ、と訂正してくる大典太に、弟は「わかってるわかってる」と陽気に笑った。
「誰がそのような事をしろと言った!」
分厚い扉を隔てて尚響き渡った怒声に、ドアノブに伸ばしかけていたソハヤの手が反射的に、びくり、と動きを止めた。
普段、滅多に声を張らぬ大典太が発したそれは、びりびり、と空気を震わせるほどに苛烈な物であった。だがそれも仕方なしと、ソハヤは扉の前に立ったまま疲れたように瞼を閉じる。
鬼丸が大典太の元に保護されてから一ヶ月が経った。それまでこれといった不調を訴えること無く過ごしていたが、環境の変化はやはり負担になっていたようで、手つかずになっていた食事に気づいたソハヤが医者を呼んだのだ。
診察には当然ソハヤも立ち会っていたが、火急の用件であると呼ばれ席を外した僅かな時間で、大典太の逆鱗に触れる事態となったのだった。
戻るのがあと少し遅かったら……と扉を開けた瞬間の光景を思い出し、ソハヤはきつく拳を握り締める。
ベッドに組み敷かれた鬼丸の姿を認識したのと、医者を殴り飛ばしたのは、体感ではほぼ同時であった。
血を抜くだけでは飽き足らず肉まで削ごうとした男は、ソハヤが激昂している理由が本気でわからないようで、何故邪魔をするのかと逆に責め立ててきたのだ。
鬼丸の事を『患者』ではなく『珍しい被検体』としか見ていないのだと、言葉にはしていないが良くない方向に熱の入った口調と、なにより若干の狂気を孕んだ目にソハヤは隠す事無く顔を顰めた。
自分の一存で処理する事が出来ない事態でもあるが、なによりこの男を一刻も早く鬼丸から引き剥がすのが最優先であると、強引に腕を掴み廊下へ引き摺り出すや、大声で他の者を呼んで大典太の元へと連れて行かせたのだった。
酷い目に遭わせてしまったと、怖い思いをさせてしまったと、極力柔い声音でソハヤが鬼丸に詫びの言葉を口にしながら近づこうとするも、寄越されたのは布団を頭から被りベッドの影に隠れてしまった子供からの無言の拒絶であった。
今の鬼丸はおそらくここに来た直後と同じ、警戒と威嚇と恐怖の入り交じった目をしている事だろう。そっとして置いた方がいいと判断し「また後で来る」と告げてから、ソハヤは退室したのだった。
これまで何事も無く日々過ごしていた為、鬼丸はただの子供であるのだと、皆もそう思っているのだと、自分でも気づかぬうちに気が緩んでいたのだと、後悔がどっと押し寄せる。
だが、いつまでもこうしている訳にはいかないと、ソハヤは己の頬を両の手で一度、ぱんっ、と叩いてからドアノブに再び手を伸ばした。
ノックもなしに開いた先の光景に、唇に乗せかけていた言葉が、ひゅっ、と喉奥へと引っ込む。
手こそ上げていなかったが医者の胸座を掴む大典太の形相は、まさに鬼のそれであった。
状況を確認しようにも室内にはふたりしかおらず、ソハヤが医者を連れて行くよう頼んだ者は大典太が退室させたのだろう。
「……その様子じゃ、俺が説明するまでもなさそうだな兄弟」
静かに歩み寄り医者の背後に立ったソハヤに気づいたか、大典太は険しい表情のままではあったが、今にも縊り殺しそうであった手から僅かに力を抜いた。
カタカタ、と身を震わせている医者の様子からして、ここでも彼はソハヤに食ってかかったように大典太にも自身の潔白と行為の正当性を声高に、それこそ意気揚々と語ったのだろう。
その結果がこれだ。
行いを全否定され、更には領主であり直属の上司でもある施療院責任者の怒りを買ったのだ。
「俺の権限でこの場で処分を下す」
低く押し殺した声が大典太の喉奥から吐かれる。
「解雇はしない。だが、行動の制限は設ける。領内から出る事は許さん。こちらが決めた範囲内でのみ自由を許す」
淡々と告げられるその内容は、実質軟禁であった。
咄嗟に反論をしそうになったソハヤを目だけで黙らせ、大典太は一度緩めた手に再び力を込める。
「もし破れば、片足を落とす。足は無くとも手があれば仕事は出来るからな」
横暴だ、と弱々しい声が零れ落ちたが、睥睨する紅の瞳は一切揺らぐ事は無かった。
拘束され連れられて行く医者の背を目だけで追い、その姿が扉で遮られると同時にソハヤは「なんでだ……」と低く呻いた。
「あんな奴を雇い続けるなんてどうかしてる! 国外追放でも生温いだろ!?」
「……らしくないぞ」
落ち着け、と静かに諭され、ソハヤはそれでも湧き上がる怒りが抑えきれないのか、わなわなと拳を震わせている。
「あの手合いは野放しにすると危険だからな。目の届く所に置いておいた方がいい」
普段のソハヤならば説明するまでも無く、大典太の考えを理解出来るはずなのだ。
「少し頭を冷やせ。それから、お前が責任を感じる必要は無い」
「……油断してた。鬼丸を取り巻く状況を甘く見てた。それは事実だ」
悔しげに顔を歪める兄弟を前に大典太は、ゆうるり、と首を横に振る。
「早い段階であれの本性を知る事が出来たんだ。そうでなければこの先も何食わぬ顔で鬼丸の元を訪れ、俺たちが気づく事もなく、虎視眈々と機会を狙っていたかもしれないんだぞ」
今以上に最悪の結果を招いていたかもしれないのだと、大典太の声音が僅かに揺れた。
「ここは……安全な場所でなければならなかったんだ……なのに俺は、誰よりも守ってやらなければならなかった俺が、肝心な時に裏切っちまった……」
不甲斐ねぇ……、と堪らず零れ落ちた言葉とうつむき震える肩に、高潔で責任感の強い男はどのような慰めの言葉も受け入れられないのだと大典太は悟る。
彼は自分自身が許せないのだ。
他者がどれだけソハヤを擁護しようとも、彼は決して納得はしないだろう。
ただひとりを除いて。
「鬼丸は部屋に居るんだな?」
「あぁ」
うつむいたまま、こくり、と上下した旋毛に目を落としたまま、大典太は弟の肩を柔く、ぽん、とひとつ叩いた。
「今日はもう休め」
「……すまねぇ」
ここで意地を張ったところでどうにもならない事は、ソハヤ自身も理解しているのだろう。冷静さを欠いているとも自覚したか、再度、こくり、と頷いた後、静かに退室したのだった。
肩を落とした兄弟の背中を痛ましげに見送った大典太は表情を改める。
ソハヤはなにも言わなかったが恐らく、鬼丸は彼を拒絶したのだ。
そうでなければあのソハヤが被害に遭った子供をひとり置いて、ここに来る訳が無いのだ。
鬼丸が今一番心を許しているのがソハヤである事は、この屋敷に居る者ならば皆知っている。大典太もそれなりに打ち解けてきてはいるが、弟ほどの信頼を得ているかと問われると即答は出来ないのが現状だ。
それでも、いや、だからこそここは自分が行かねばならぬのだと、大典太は唇を引き結ぶ。
何があろうともソハヤは鬼丸の味方であるのだと、例え自分が泥を被ろうとも、それだけは伝えねばと、そう思ったのだった。
こつこつこつ、と三度きちんとノックをしてから大典太は扉を開けた。応えが無いのは想定内であったが、ぐるり、室内を見回し鬼丸の姿がない事に怪訝に眉を寄せる。
慎重に二歩三歩と足を進め、ベッドの影に隠れるように蹲る小さな塊を見つけると同時に、内心で安堵の息を吐いた。
「鬼丸」
そっ、と吐息を零すように名を呼べば、微かに布の擦れる音が返事となる。
互いに顔が見えないこの状況は非常にやりにくく、さてどう切り出したものかと大典太が思案する間も鬼丸は顔を出す事は無く、じっ、と息を潜めている。
時折、僅かに肩が跳ねるのは廊下を行く者の話し声や物音に反応しているのだと気づき、大典太は自分がしてやれる事がひとつだけあると思い至った。
「……移動するぞ」
そう言うが早いか大典太は布団ごと鬼丸を抱き上げ、確と腕に収めた。
突然の事に声も出せず固まってしまった鬼丸を、これ幸いと言わんばかりに抱えたまま足早に廊下に出るや、大股にどんどん進んでいく。
視界を遮られている鬼丸は身を固くし息を詰めている。
「すぐ着く」
驚かさないように出来うる限り声音を和らげ静かに告げた通り、大典太の足は程なくして止まった。
小さな身体を器用に片腕に抱え直しドアノブを握った手を、鬼丸は被った布団の隙間から覗き見る。
鍵は掛かっていないのか難なく開かれたそれは、見慣れた執務室のドアノブではなく質素な形状をしていた。
一体どこに連れて来られたのかと怪訝に思っている鬼丸の頭上から「俺しか入れない部屋だ」と、見透かしたかのような大典太の声が降ってくる。
ゆっくりと室内を回る大典太の足取りからして、鬼丸が隙間から様子を窺っている事には気づいているのだろう。
「ひとりになりたい時にはここに来る。扉には俺の霊力に反応して開くよう、仕掛けを施しているからな」
暗に「他の者は入れない」と明かす大典太の真意が掴めず、鬼丸は黙って次の言葉を待つ。
「ここを自由に使っていい。誰とも顔を合わせたくない、ひとりになりたい時もあるだろう? 嫌な事があればここに逃げて来ていい」
「……お前しか入れないんだろう?」
もっともな言葉に大典太は、そうだな、と頷いてから鬼丸を抱えたままソファに腰を下ろした。
「俺の霊力を付与した物を身につけていれば大丈夫だ」
他にはソハヤしか持っていないぞ、と柔く笑んだ大典太だが、弟の名を出した事で鬼丸が僅かに身を固くした事を感じ取り、本来の目的を遂げるべく、ゆうるり、と口を開く。
「あいつはお前を守れなかったと、自分を責めている。だが、悪いのは俺だ。あの医者の本性を見抜けなかった。だから、どうかソハヤがお前を大事に思ってるのだという事は信じてやってほしい」
頼む、と懇願の響きを隠しもせず大典太が口にすれば、布の下から「なにを言っている」と淡々と返ってきた。
「ソハヤが居なかったらおれは血の海でのたうっていたことだろう。あいつはなにも悪くない。それどころか礼を言わなければならなかったのに……」
恐怖が勝ってしまった、と、ぽつり、漏らされたそれは悔恨の念に満ちている。
理性はソハヤは自分に酷い事はしないと理解できていたが、他者は容易く自分を傷つけるのだと刻み込まれている心と身体はそうではなかった。
互いに罪悪感を抱き、己を責めているのだと、大典太は今の状況に顔を曇らせる。
「おれが子供だから、非力なこの身のせいでソハヤに迷惑をかけたんだな……」
独り言とも問い掛けともとれる呟きに大典太が返答に窮しているのを知ってか知らずか、鬼丸は大典太の膝から降りるや「少しひとりになりたい」と告げたのだった。
背を向け布団を被ったままである鬼丸が今どのような表情をしているかは確認のしようも無いが、声音に思い詰めた響きは感じられない。
何事かを考えている気配はあるものの、それを問い正した所で素直に口を開くとも思えず、大典太は一拍おいてから「外で待たせてもらうが、いいか?」と問うた。
「……長くなるかもしれないぞ」
「構わない」
静かではあるが頑として譲らぬという意志が見て取れたか、鬼丸はそれ以上なにも言わず首を縦に振って見せる。
「なにかあったらすぐ呼んでくれ」
そう言い置いて大典太が退室したのを見届けてから、鬼丸はソファへと腰を下ろし、するり、と眼帯を外した。
揃えた人差し指と中指で閉じた瞼を、すぅ、と撫でる。
物音ひとつしない中、暫し黙り込んでいた鬼丸の口角が僅かに上がった。
忙しない気配と共に駆けてくる足音に気づいたソハヤが手中の書物から顔を上げたのと同時に、ドンドンドン、と激しく扉が叩かれた。
突然の事に咄嗟に声が出ないソハヤの返事を待たずして飛び込んできたのは、血相を変えた大典太であった。
「来てくれッ!」
どうしたと問う間もなく腕を掴まれ、ソハヤは兄弟に引っ張られるままに椅子から立ち上がり、そのまままろぶように廊下を駆けていく。
「一体なにがあったんだ」
説明してくれ、と未だに手を離さない大典太の背中に言葉を投げるも、相手も相当動揺しているのか、とにかく来てくれ、としか返ってこない。
滅多に取り乱さぬ兄の常に無い様子にソハヤは表情を引き締め、自らの意思で廊下を蹴った。
そして辿り着いたのは大典太の『お籠もり部屋』で、てっきり鬼丸の部屋に向かっているのだと思っていたソハヤは怪訝に片眉を上げる。
「兄弟?」
これはどういうことだとの響きを滲ませれば、大典太は困惑の表情を見せながら扉を開けた。
促されるままソハヤは室内へと歩みを進め、ソファに横たわっている人物に気づき、ぎくり、と足を止める。
この部屋に大典太以外の者が居るなど想定外で、しかも相手は見た事も無い男だ。
警戒しつつゆっくりと正面に立てば、気怠げに顔を上げた男は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「すまない。大典太に説明しようとしたんだが、その前に飛び出してしまって……」
申し訳程度に掛けられた布団から覗く剥き出しの肩や素足からして、今この状況だけを見るならば、大典太が男娼を連れ込んだのだと言われてもおかしくないのだが、そのような事はあり得ないと、ソハヤが一番わかっている。
それに、この男の口調からして大典太とソハヤの事を良く知っているようだ。
白いかんばせに深紅の瞳。
光に透け七色に変じる髪。
そして、一本の角。
まさか、とソハヤが大典太を振り返れば、力なく宵闇色の髪が上下する。
「……鬼丸だ」
「……は?」
可能性として脳裏を過ったとはいえ、実際に肯定されても瞬時に理解できず、ソハヤは間の抜けた声を漏らし、改めて目の前の男をまじまじと見た。
年の頃は大典太やソハヤと大差なく、立派な成人男性だ。
だが特徴は確かに鬼丸のそれと合致しており、なにより大典太がすぐにバレる嘘をつく理由が無いのだ。
「待ってくれ、ちょっと理解が追いつかねぇ」
額に手をやり天を仰ぐソハヤに「大丈夫だ、俺も訳がわからない」と大典太が大真面目に返す。
「……だから、説明すると言っているだろう」
ソファに伏せたまま鬼丸が力なく口にすれば、大典太とソハヤは顔が良く見えるようソファのすぐ傍で膝をつき、聞く体勢を取った。
やぁ、と軽い調子で窓から顔を出した男にソハヤは、相変わらずだなぁ、と隠す事無く苦笑する。
「顔パスなんだからちゃんと表から来いよ」
「こっちの方が早いだろう?」
そう言いながら空を指さす男の言わんとする事など百も承知か、ソハヤはそれ以上言及せず、はいはい、と笑って流した。
「今日はどうした」
ペンを動かす手は止めずに大典太が短く問えば、室内を見回していた男は、うーん、と曖昧な声を上げる。
「小竜景光」
咎めるように、急かすように名を呼ばれれば、仕方が無いとでも言いたげに小竜は肩を竦め、ひらり、と窓枠を越えてきた。
「噂の彼はどうしたんだい」
「用事を頼んだから暫くは帰ってこないが……」
途端に空気の変わった室内に小竜は再度肩を竦め、勝手にソファへと腰を下ろす。
「ソハヤがいろいろ調べてるって聞いたからね。もしかしたら俺が知ってる子かなって思ってさ」
一所へは留まらず、風の向くまま気の向くまま旅をしている小竜は、見識が深く知識量も多い。更には『知り合いのよしみ』で各地で得た情報を、たまにこうやって届けに来るのだ。
「彼から聞いた話と俺の知っている話で、答え合わせといこうじゃないか」
小竜に悪気は無いのだろうがどこか楽しげな響きに、大典太とソハヤの眉間に若干のしわが刻まれる。
「それで、彼はなんて言っていたんだい?」
向かいのソファにふたりが腰掛けると、小竜は前置きもなしに斬り込んできた。どちらが話すべきかと兄弟は顔を見合わせた後、ゆうるり、と大典太が口を開く。
まず経緯として例の医者の事を話し、急に成長した鬼丸に泡を食った事まで正直に話せば、小竜は「そりゃ驚くよね」と笑いはしたが、それは決して揶揄や嘲笑ではなかった。
そして――
「――左目に『神』が居るのだと、そう言った」
核心部に触れた刹那、小竜の目が眇められるも、それは瞬きひとつで常と変わらぬ柔和なものへと戻った。
「そうか。他には? どうやって大人になったとか、その辺りは?」
「もうこの姿でいる必要は無いから『交渉した』と。それ以上は教えてくれなかったがな」
「それで叶えてくれるって、随分チョロい神様だよな」
深刻な話だと理解しているからか、空気が沈みきる前にソハヤがわざとふざけた物言いをすれば、小竜も「長い事一緒に居て、神様も情が湧いたんじゃないかな」と喉奥で笑う。
「それじゃ今度は俺の知っている話だ。あれはそうだな、四十年くらい前かな。雪深い土地でちょっと迷ってしまった時に――」
――運良く辿り着いた小さな村では、ひとりの子供が『神』と崇められていた。
左目を神に捧げ、その身に神を宿すも、強大な力は子供の身体を変異させた。
人の形が保てなくなる前に、ふらり、と現れた旅の術者が封印を施し、神の力を抑制したという。
頭髪の色や一本の角はその変異の名残で元に戻す事は出来ないとその術者は言い、村人が気づかぬうちに来た時同様、ふらり、と姿を消したのだった。
「そんな昔話を聞かされながら食事を勧められたんだけど、ただでさえ食料が乏しい村の貴重な食料を貰う訳にはいかないって辞退したんだよね」
迷い込んだ旅人をもてなそうとするよくある話だと聞いていたふたりは、小竜の表情が険しくなった事に気づき、知らず背筋を伸ばす。
「さすがに子供から削いだ肉は遠慮したいかなって」
「な……」
続けられた信じがたい言葉にソハヤは声を詰まらせ、大典太は無言で目を見開いた。
「ロクに作物も育たないような土地だって言うのに、そこの住人は随分と色艶が良かったよ。不老不死とまではいかなくとも、人の理から外れかけてはいただろうね」
「……それでお前は、どうしたんだ」
「うん? どうもしないよ。吹雪がやんだからそのまま村を出たけど、直後に雪崩が起こって危うく生き埋めにされる所だった」
いやー危ない危ない、と胸を撫で下ろしていた小竜だが、ふとなにかに気づいた顔で、あぁ、と小さく漏らした。
「さっきの話に出た医者の嗅覚は大した物だね」
ただ珍しいだけでは無く、鬼丸の血肉が利になると本能で察知したのだろう。そう考えれば悪びれた様子は一切無く、自分の正当性を主張してきた事にも納得がいく。
「それから二十年くらい前かな、他の村で同じ容姿の子を見かけたよ。ひとり、ふらり、とやって来て、こんな小さいのに天涯孤独だなんて不憫だと、村長が受け入れたそうだよ」
大の大人が流れてきても、村の者は警戒して易々と受け入れる事は無い。だが、子供ならば同情や憐憫から警戒が緩みやすい。
村が無くなる、或いは居続ける事が出来なくなる度、鬼丸は各地を放浪したのだろう。
優しくされた事もあっただろう。
だが、大半は始まりの村のように利用される事が大半であったのだろう。
それでも生きる為に時が止まってしまった、否、止められた姿を甘んじて受け入れていたのだろう。
「……鬼丸は一体、何年あの姿でいたんだ」
「さぁね。五年前にはこの領内で見かけたよ。そこも雪崩で誰も居なくなっちゃったけど」
「仮にだが、左目の封印を解いたらどうなると思う?」
唐突な大典太の問いに小竜は目を瞬かせるも、二度三度とこめかみの辺りを指先で軽く叩き、うーん、と低く唸った。
「『神様』に乗っ取られて鬼丸は居なくなるんじゃないかな。ヘタな事はしない方がいいと思うよ」
「それじゃなんらかの拍子に解けちまったら打つ手なしなのかよ」
「何人かに協力して貰えれば再封印出来ない事もないと思うけど、相当強いのを集めないと無理だと思った方がいいね」
白山は必須かな、と神霊の加護持ちの名を真っ先に上げられ、大典太とソハヤはふたり揃って組んだ手に額を押し当て俯いてしまった。
「万が一に備えて話は通しておくのが得策だと思うな。手を貸してくれそうなのは何人か居るんだろう?」
今現在、特に問題も無く近隣領主との関係は良好ではある。
しかし『神』の存在がこれからどう影響するのか。
隠し通そうとしても、どこかしらから話は漏れるものだ。
大典太の考え方がこれまでと一切変わらずとも、周りが脅威に感じる可能性は否めない。
それも含めて小竜はあらかじめ方々に話を通しておけと忠告しているのだ。
「いきなり白山は無理でも、小狐丸なら話は聞いてくれると思うぜ」
「鶴丸と鶯丸も、まぁ話を聞くくらいならしてくれそうだな」
交流のある亜人種の名を上げるもどこか自信のなさを感じさせる大典太の声音に、小竜は内心で嘆息する。
小竜からすればただの人であるふたりが、生まれつき能力に秀でている亜人種の中でも更に格の違う者たちと肩を並べるほどの霊力を持っている事の方が驚異的なのだ。
「山鳥毛と獅子王にも声を掛けておくにこした事はないかな。なにかあれば俺も勿論協力するよ」
それじゃそろそろお暇しようかな、と小竜が腰を上げたのと扉が三度鳴ったのは同時であった。
一拍おいてから扉は開かれ、現れた白銀の髪に向かってソハヤが「早かったな」と声を掛けるも、室内を一瞥した鬼丸は一歩も踏み込む事無く僅かに片眉を上げた。
「……来客中だったか。邪魔したな」
「もう帰るから気にしないでいいよ」
即座に踵を返した鬼丸の背に向かって小竜が声を掛ければ、閉じかけていた扉が、ぴたり、と止まる。
細く開いた隙間から石榴の瞳が小竜を捉え、すぅ、と眇められた。
「……お前」
小竜を無言で、じぃ、と見据えていた鬼丸だが小さく一声漏らし、ゆうるり、と扉を開く。
「あの村に来た竜人だな」
低く、淡々と問う声に小竜は、そうだよ、と頷いてから僅かに首を傾げた。
「君を助けなかった事を怒っているのかい?」
「いいや。賢明な判断だ。善意、悪意関係なくおれを連れ出そうとした者は皆殺されたからな」
感情の籠もらぬ事実のみを告げる言葉に、やっぱりね、と小竜は驚いた様子も無い。
「あの辺りで行方不明になる人の話、割と多かったんだよ」
「そうか」
それ以上互いになにを言うでも無くどちらからともなく視線を外し、鬼丸は再び踵を返した。
「門まで送ろう」
「そうかい? じゃあお願いしようかな」
鬼丸からの思わぬ申し出に小竜はにこやかに応じ、大典太とソハヤに向かって、ひらり、とひとつ手を振ってから退室したのだった。
無言で廊下を抜け、玄関を潜り、門までの道を左右に設えられた花壇の花を愛でながら進む。
「どんな交渉をしたんだい?」
不意の問い掛けに鬼丸は歩みを止め、ちら、と肩越しに小竜を見た。
「生半可な代償じゃ『神』と交渉なんて成り立たないと俺は思うんだよね」
「……お前に言う必要は無い」
「確かにね。でも君が『神の力』を自由に使えるとなれば話は別だ。争いの火種になりかねないという事は自覚するべきじゃないかな」
柔和な笑みを浮かべてはいるが、小竜の瞳の奥は微塵も笑っていない。
「いらぬ危惧だな。おれにはなにも出来ない。『神』はただここに居るだけだ」
そう言って鬼丸は、とん、と指先で眼帯を軽く叩いて見せた。
「周りはそうは見てくれないだろうね。それに君の血肉は不死とまではいかずとも、不老に近い効果を及ぼすのはわかっているだろう?」
小竜からの指摘に鬼丸は唇を引き結ぶ。自身の肉体の欠損も一晩経てばほぼ元に戻る。肉を削がれ、血を啜られたあの感触が蘇り、僅かに身体が強張った。
「あぁ、ごめんよ。嫌なことを思い出させてしまったね」
顔色を失った鬼丸に気づいたか、小竜は直ぐさま詫びの言葉を口にし頭を下げる。
「……いや」
ゆうるり、と頭を振った鬼丸に小竜はもう一度詫びてから話を切り替えた。
「君はこれからもここに居続けるのかい?」
「そのつもりだ。あいつらに追い出されない限りは、だが」
見目はすっかり変わったとは言え、保護した者を放り出すような人物ではないと、彼らを知る者なら全員が口を揃えてそう言うだろう。
更に言うならば鬼丸は既にソハヤの補佐としていろいろと任されており、更に更に付け加えるならば大典太の酒の相手としても重用されている。
「あのふたりに限って、それはないだろうね」
「だといいんだがな」
意識の外で浮かんだ寂しげな笑みは望む事を諦めてしまった者のそれで、小竜は困ったように眉尻を下げた。
「むしろ出て行くと言ったら全力で止めてくると思うよ」
特に大典太が、と続ければ鬼丸は怪訝な顔で見返してくる。
本人に自覚があるかは定かでは無いが、大典太は鬼丸を伴って屋敷から出る頻度が増したと、町の者が話していたのを小竜は耳にしているのだ。しかもそれは一回や二回では無く複数の者の話題に上っていた。
「とにかく、なにも心配はいらないって事だから。それじゃまた来るよ」
とん、と軽やかに地面を蹴るや小竜の身体は軽々と門を越え、そのまま一度も地に足を着ける事無く遠ざかって行ったのだった。
あらかた片付いた書類を前にソハヤが、休憩するか、と声を掛ければ、鬼丸は無言で立ち上がり、扉脇に控えていた軽食が載っているワゴンを移動させる。
大典太は本日施療院へと赴いており、執務室には留守居を任されたふたりしか居ない。
「その身体には慣れたか?」
「……あぁ」
急激に成長したせいで目測を誤る事が多いのか、ソハヤは鬼丸があちらこちらに身体をぶつけている現場を何度も目にしていたのだ。
「町へ行く機会も増えたけど、そっちはどうだ?」
「どうと言われても、おれは大典太の付き添いでしかないからな」
ハムが挟まったパンを囓り、紅茶で流し込む。
「あいつがおれを連れて行くのは、政治的な意味合いが強いんだろうよ」
真顔で言い放たれた言葉にソハヤは口に運びかけていたパンを、ぴたり、と止める。
「……うん?」
今なんて? と首を傾げれば、鬼丸は皿に伸ばしていた手を止める事無く、ちら、とソハヤを見た。
「町の者、というよりはそれよりも外の者に向けての示威行為だろう」
「いやいや、いやいやいや!?」
否定の言葉を勢いよく連続で口にするソハヤを不思議そうに見遣りつつ、鬼丸は掴んだデニッシュを囓る。
「そんな意図は全くない! これは断言出来るぞ!?」
大典太が鬼丸を連れ出す理由は「共に飲む酒を買いに行くぞ」やら「どこそこの視察に行くぞ」やら様々ではあるが、それらは八割方建前で、身も蓋もなく言ってしまえばデート気分なのだ。
いや、デートに見えているのはソハヤだけかもしれないが、ふわふわ、そわそわ、とわかりやすく浮かれている兄弟を見るのは初めてなのだ。
「自身が治めている土地を知って貰いたい、好きになってほしいと思っての行動なんじゃねーかな」
「それに何の意味がある」
「鬼丸にずっとここに居てほしいんだよ。それは俺も同じだ」
じっ、と真摯に見据えてくるソハヤを、鬼丸も、じぃ、と見据える。
「……神の加護を期待してか?」
ここに至るまでの扱いを思えば、鬼丸の言わんとする事は容易に想像がついた。
皆が必要としていたのは『神』であって『鬼丸』では無かったのだ。
「いいや、それは関係ない。むしろどうでもいい」
即座にソハヤが否定すれば、微かにではあったが鬼丸の口端が、ぴくり、と動いた。
「俺たちは鬼丸がここに居たいと思ってくれたら嬉しいんだよ」
あてども無く方々を彷徨わなくて良いのだと、もうどこにも行かなくて良いのだと、ここを安住の地として良いのだと、明言されたのだ。
「……そうか」
安堵の息と共に、ゆうるり、と下がった眦にソハヤは軽く目を見張る。
鬼丸がここまで柔い表情を見せたことはなかったのだ。
常にどこか張り詰めた感のあった鬼丸が、ようやっと肩の力を抜く事が出来たのだと、初めて素の表情を見せてくれたのだと、ソハヤは胸の奥が仄かに暖かくなるのを感じた。
「なんか兄弟に申し訳ねぇな」
「なにがだ」
どこか照れくさそうに頭を掻くソハヤを鬼丸は不思議そうに見やる。
「なかなか鬼丸との距離が縮まらないって、相変わらず悩んでるみたいだからよ」
その発言に鬼丸は片眉を上げ、むっ、と唇を引き結んだ。
「毎晩酒に付き合ってるじゃないか」
どこか不満げに漏らされた声にソハヤは、きょとん、と目を丸くする。
「共に居て嫌な相手と酒を飲んだりするものか」
続けられた言葉に、あー……、と口元を覆ったソハヤを前に、鬼丸は再度唇をへの字に引き結ぶ。
「それ、直接兄弟に言ってやってくれよ」
「……必要ないだろ」
ふい、と顔を背けてしまった鬼丸だが、髪から見え隠れしている耳がほんのり赤らんでおり、もしかしなくても照れてるのか? とソハヤは意外な反応に先とは違う意味で目を丸くしたのだった。
トサッ、と卓上に追加された封書を、ちら、と見遣り、大典太はあからさまに溜息をついた。
「大人気だな兄弟」
軽口を叩くソハヤも心なしか憔悴しているようで、声には張りが無い。それには答えず大典太は封書をひとつひとつ捲り封蝋に押された図形を一瞥した後、開封する事無く全てソハヤへ押し戻した。
「処理は任せる」
「了解。当たり障り無く断っておく」
「なにか重要な案件じゃないのか?」
領内のみならず他国から領主である大典太個人へと直接宛てられた手紙なのだ。鬼丸の疑問はもっともであるが、珍しい事では無いのかソハヤが肩越しに振り返り、いいんだよ、と手をひらひらと振る。
「ご機嫌伺いだったりパーティのお誘いだったり、こっちを拘束するだけの面白くも無い内容だ」
年若くして領地を持ち施療院の責任者も務めている大典太は、未だ独身で浮いた噂のひとつも無く、客観的に見れば優良物件であるのだ。
人脈を広げたい者や体よく利用したい者から標的にされるのは、今に始まった事では無いのだろう。
「なんやかんやと理由を付けて断り続けてたから、最近はなかったんだけどな……」
掴んだ手紙の束に目を落とし、ぽろり、と思わず自分が漏らしてしまった言葉にソハヤは一瞬、しまった、といった顔をするも、それは幸いにも大典太にしか見られていない。
「それで良く周りと良好な関係でいられるな」
またしてももっともな言葉に大典太は軽く肩を竦めてみせる。
「別の所で手を貸したり、いろいろとやりようはあるからな」
「基本的にウチは武力は大したことねぇんだけど、まぁ根回しはそれなりにやってるって事だ」
請われれば医師を派遣したり、場合によっては大典太自らが赴く事もある。人命に直結する事柄で優位性を持っているのは強みであると言えた。
「……最近、お前がよく留守にしてるのはその『根回し』というやつか」
作業の手を止め、すっ、と立ち上がった鬼丸は大股に執務机の横を抜け、大典太へと寄ると身を屈め、じぃ、と至近距離で顔を覗き込んだ。
「酷い顔だ」
頬に手を添えたかと思えば、するり、と親指の腹で目の下を柔く撫でる。
「お前が倒れたら元も子もないだろう」
ちゃんと休め、と真顔で言いつつ手を離そうとしない鬼丸を真っ向から凝視していた大典太の顔が、みるみるうちに赤味を帯び、はく、と薄く開かれた唇は音を発する事無く、二度三度と同じ動きをする。
「どうした。具合が悪いのか」
熱くなった頬に驚いたか、僅かに目を見張った鬼丸が頬から額に手を移動させ、困ったようにソハヤを見れば、呆けたように兄を見ていた弟は途端に表情を引き締めた。
「あ、あぁ、疲れが出たのかもしれないな。兄弟、少し休もうぜ」
「いや……」
赤い顔を隠すように口元を掌で覆い俯いた大典太の言葉を遮り、鬼丸は「冷たい物を貰ってくる」と言うや足早に執務室を出て行った。
「……兄弟」
どこか気まずそうにソハヤが口を開けば、大典太は両の掌で顔を覆ってしまった。
「いや、これは……」
困惑混じりの声を漏らす兄を見下ろし、ソハヤは深々と息を吐いた。
「わかってるって兄弟。俺からすればやっと自覚したのかって感じだぜ」
兄弟が鬼丸を町に連れて行くのデートだなってずっと思ってた、とソハヤが包み隠さず告げれば、大典太は喉奥で低く呻いてから観念したように、のろのろ、と顔を上げた。
「……最初は義務感でしかなかったんだ」
「うん、そうだな」
当初は目の治療をする為に信頼を得ようとしていた。
だが、徐々に言葉を交わす頻度が高くなり、朧気ではあったが義務感では無い感情が芽生え始めていた。
それは庇護欲であったかも知れない。
例えそうであったとしても、鬼丸に好かれたいと、好いて欲しいと思っていたのも本当だ。
そして鬼丸が傷つけられたと知ったあの時、自分でも信じられないほどの怒りが腹の底から湧き上がったのだ。
「目の治療が不可能だとわかった時、あいつになにをしてやれるかを真っ先に考えた」
ぽつぽつ、と己の胸の内を探り探り言葉にする大典太を、ソハヤは急かす事無く柔い相槌と共に聞く。
「これまで酷い目に遭ってきたんだ。ここで身の危険を感じる事無く平穏に暮らせればと、あいつの為を思う気持ちに嘘偽りは無い。だが、ここに居て欲しいと、俺と一緒に居て欲しいとも、思った」
離れがたいと思ったのだ、とようやっと自身の感情を理解し形を得た大典太は、自虐的な笑みで唇を歪めた。
「とんだ偽善者だな」
「卑屈になるには早いぜ兄弟」
ニカッ、とどこか悪戯っぽい笑みを見せ、ソハヤは腕を伸ばし兄弟の肩を、ばん、と一発強めに叩く。
「鬼丸が言ってたんだ『共に居て嫌な相手と酒を飲んだりするものか』ってな」
「……それは」
信じられないとでも言いたげな大典太の肩をもう一発景気よく叩き、ソハヤは「良かったな兄弟」と、カラリ、と笑った。
「だから、なにがあっても守ってやらねぇとな」
途端に真顔になった弟に大典太の表情も引き締まる。
再度増えた『お誘い』の手紙は、鬼丸の事が外部に漏れたと言う事だ。
「見せ物にするつもりも、ましてや利用させるつもりも無い」
当然だ、と頷き合ったふたりは、ふと、何かに気づいたか揃って片眉を上げた。
「そういや鬼丸、遅いな」
ちょっと見てくるか、とソハヤが扉を開けようとノブに手を伸ばしたのと同時に、目の前で扉が開いた。
「おっと」
反射的に一歩下がったソハヤの横を黙って通り過ぎた鬼丸が持つ盆には、氷が浮かんだグラスがひとつ載っている。
だが、ソハヤは気づいてしまったのだ。
通り過ぎ様に鬼丸が咎めるように僅かに目を眇めた事を。
汗を掻きすぎたグラスの下に水の輪が出来ていた事を。
何食わぬ顔で執務机に近づく鬼丸の耳が僅かに赤い事を。
脈ありって事でいいのかねぇ、と滴る水を乱暴に拭ってから執務机へグラスを置く鬼丸の後ろ姿を見ながら、ソハヤは内心で柔く笑んだ。
ポケットから取り出した買い出しメモを確認し、鬼丸は、さて、と首を巡らせた。町は今日も賑やかで活気に満ちている。
前を行く大典太から一歩下がった距離が鬼丸の定位置だ。すれ違う者や店先の者たちから声を掛けられ軽く言葉を返す大典太の背を眺めていれば、町の者たちは鬼丸にも声を掛けてくる。
それに対しては軽く頭を下げる事しかしないが、初めて鬼丸が大典太に連れられて町を歩くようになってから既に三ヶ月が経っている。町の者たちもそれなりに鬼丸の人となりを理解しており、愛想のなさにもすっかり慣れてしまったようだ。
そして、いつもならば大典太が鬼丸を連れ出すのだが、今回は逆であった。
私用で出るついでになにか入り用な物があれば買ってくると鬼丸がソハヤに声を掛ければ、棚や引き出しを確認した後に手早く書き留められたメモを渡され、一緒に大典太も託されたのだった。
決して暇な訳ではないが、急ぎの案件や解決困難な案件を抱えている訳でもない。『根回し』も一段落したか「日々真面目に職務に励んでいる兄弟にご褒美をくれてやってくれ」と耳打ちされたが、鬼丸はいまいちピンときていない。
それでも「なんでおれが」とは言わなかった。
大通りを進み足を踏み入れた中央広場では、人々が思い思いに過ごしている。
噴水の縁に腰掛け談笑している者。
植え込みの前に設置されたベンチで居眠りをしている者。
芸を披露している者。
それを見て喝采を送る者。
木剣で戦いの真似事をしている子供など、実に平和な光景が広がっている。
先を歩いていた大典太が振り返り、なにか言いかけたその時。
鬼丸が大きく踏み込み大典太の腕を掴むと同時に、引き倒さんばかりの勢いで強く引いた。
突然の事に大典太は目を見開き、バランスを崩しながらも無理矢理に首をねじ曲げ、自分との位置を入れ替えた鬼丸を見た。
刹那、鈍い音が響き、次いで乾いた音が地を打った。
顔をかばうように上げられていた鬼丸の腕がゆっくりと下ろされ、大典太の腕を掴んでいた指からも力が抜けていく。
一体なにが巻き起こったのかと、大典太は呆然としつつも鬼丸の足下に目を落とせば、そこには一本の木剣があった。
ばたばた、と慌てた足音に顔を上げれば、真っ青な顔をした子供がふたり駆け寄ってきた。
何度も何度も、ごめんなさい、と半泣きで詫びる様子からして、訓練も何も受けていない子供が力任せに剣をぶつけ合った結果、手から弾かれた剣がたまたま大典太に向かってしまったのだろう。
「……おれだから良かったが、他の者では大怪我をしていたかもしれないな」
鬼丸の言葉で竦み上がってしまった子供の様子に、大典太は内心で「言い方……」と嘆く。
「次からは気をつけろ」
膝を折り拾い上げた剣を鬼丸が差し出せば、子供はおずおずと手を伸ばし、もう一度「ごめんなさい」と頭を下げた。
ひとり背を向け歩き出してしまった鬼丸を追う前に、大典太は身を屈めて子供の目線に近づける。
「あれは怒っている訳じゃない。お前たちや周りの事を心配しているだけだ」
一方的ではあったがそう早口に告げ、大典太は身を起こすと鬼丸の後を追ったのだった。
広場から離れたところでようやっと鬼丸は歩調を緩め、追いついてきた大典太を、ちら、と見やってから、すまなかった、と小さく詫びた。
「それは何に対する謝罪だ」
「……いろいろだ」
一拍おいての返答は、それなりに考えるも言語化するのを放棄した結果なのだろう。ここで問い詰めた所でだんまりを決め込まれるのは容易に想像がついた。
「あんたが口下手なのは今に始まった事じゃないか」
はー……、と呆れたように大典太が嘆息すれば、鬼丸は、むっ、と唇を引き結ぶも反論する事なく気まずそうに目を伏せた。
「まぁ大方、俺を雑に扱った事や子供達を怯えさせた事、勝手にひとりで先に行った事、これらに対する謝罪なんだろう?」
指折り数えながらの指摘に鬼丸は更に唇を引き結んでしまう。
図星か、と大典太は内心でぼやきつつ、少々表情を引き締めた。
「それらについてとやかく言う気はない。だがひとつだけ、教えてくれ」
「……なんだ」
声音の変化からも大典太が真剣に話していると察したか、鬼丸は真っ直ぐに相手を見つめる。
「俺の手を引くことが出来たのなら、そのまま引き寄せるだけで良かったはずだ。なのに何故わざわざ俺との立ち位置を変えた?」
大典太に剣が当たることを防ぐだけならば、それで済んだはずなのだ。
「あの程度、おれにとってはどうという事はない」
「そういう話じゃない。あんたが痛い思いをする必要などなかっただろう?」
ぴしゃり、と撥ね除ければ鬼丸は困ったように一瞬眉尻を下げるも、直ぐさま常と変わらぬ凪いだ眼差しになる。
「……誰も怪我をしなかったのだから、それでいいだろう」
強引に話を終わらせようとする鬼丸と、自分の言いたい事が巧く伝わらない事に大典太が若干の苛立ちを滲ませたその時、上空から音も無く降り立った男が向かい合う二人の肩に、ぽん、と手を置いた。
「まぁまぁ。一旦落ち着こうか」
にこやかに顔を覗き込んできた優男に鬼丸は僅かに目を眇める。
「領主様とその従者が不仲だなんて噂が立ったら良くないだろう?」
大典太に顔を向けながら視線だけで周りを見るように促してきた小竜は、穏やかな口調に反して目は全く笑っていない。
「立ち話もなんだし場所を変えていいかな?」
小竜が此所に現れた理由を聞く前に場所の移動を提案され、瞬時に大典太は往来では話せない重要な案件なのだと理解した。
「折角のデートだったのに邪魔して悪かったね」
不意に話を振られた鬼丸はどう応えたものかと一瞬言葉に詰まるも、別に、としか言い様がなかった。
そもそも買い出しついでに大典太の息抜きに付き合っていただけなのだ。
「おれは買い物をしてから戻る」
そう言って踵を返した鬼丸の背に向かってなにか言いかけた小竜だが、薄く開いた唇から言葉が発せられる事は無かった。
「それじゃ俺たちは先に屋敷に戻ろうか」
大典太の背を促すように、ぽん、と叩き歩き出した小竜だが、数歩足を進めたところで、そうそう、と肩越しに振り返る。
「君のさっきの疑問に対する答えは『鬼丸が受けていなかったら怪我人が出てた』だよ」
上から見てた俺が言うんだから間違いない、と目を細める小竜とは対照的に大典太は目を見開いた。
その言葉で大典太は周りの様子や位置関係を思い出す。
噴水の縁に腰掛け談笑していた者。
植え込みの前に設置されたベンチで居眠りをしていた者。
芸を披露していた者。
それを見て喝采を送っていた者。
剣は右手側から飛んできた。
そして唯一彼らの左手側に位置していたのは、ベンチで居眠りをしていた無防備な者だ。
あそこで鬼丸が大典太を引き寄せていたら、危険を知る事も避ける事も出来ないまま直撃し、間違いなく大怪我をしていただろう。
「そう、だったのか……」
周りが全く見えていなかった、と項垂れる大典太を責める事が出来るのは鬼丸だけだが、その当人が敢えて口にしなかった以上、小竜に言える事は何も無い。下手な慰めは逆効果ですらあるだろう。
「落ち込むくらいなら戻ってから鬼丸にちゃんとお礼言いなよ。詫びるよりもよっぽどいいと俺は思うけど?」
それでも見かねてそう提案すれば、そうだな、と力なく頷いてから大典太は顔を上げた。
「先にあんたが来た要件くらいは聞いてもいいか?」
「なぁに、しがない使いっ走りって奴だよ。先日ばったり三日月と出くわしてね。確認したい事があるそうだよ」
何でも無い事のように、さらり、と言ってのけた小竜だが、大典太はその名を聞くや驚愕からか目を丸くし、は……? と小さく漏らす。
「三日月、だと……? 逸話は数多あれど実在しているかも怪しいあの、三日月か?」
「あぁ、そうか。最後に人前に姿を見せたのは何十年前だったかな。今はそんな扱いなのか」
おもしろいねぇ、と喉奥で、くつくつ、笑う小竜の様子から冗談を言っている訳ではなさそうだ。
「俺も彼の正体についてはさっぱりだけど、実在はしているよ」
ふらり、と現れてはその地での困り事を解決し、対価を要求する事も無く、いつの間にやら姿を消すという神出鬼没な男だ。
修行を積み人の領域を越えた術者であるとも、神そのものであるとも言われている。
「その三日月が、俺に用があるというのか?」
「いいや。用があるのは鬼丸だ。まぁ、君も無関係ではなさそうだけどね」
含みのある小竜の言葉に大典太は怪訝に眉を寄せるも、この場でいくら話したところで埒が明かない事だけは理解したのだった。
既に痛みも引いた右腕を摩りながら鬼丸は、先程から、ざわざわ、と胸を騒がせる不快な感覚に眉を寄せる。
小竜が現れた瞬間、爆発的に膨らんだそれはすぐに形を潜めたが、熾火のように今も燻り続けているこれは、焦燥か、はたまた憤怒か。
自身の感情からは切り離されたところから湧き上がっているからか、存外冷静でいられる物だな、と鬼丸は今の状態を客観視している。
以前に一度、彼とは顔を合わせているが、その時はなんら変化はなかった。
ならば、彼個人に対して何か思うところがある訳ではないのだろう。
とんとん、と軽く指先で眼帯を叩きながら緩く息を吐く。
一体なにが『神』の機嫌を損ねたというのか。
普段から漠然とただそこに『ある』と存在自体は認識しているが、それ以上でもそれ以下でもなく、あちらから干渉してくる事もなかった。
否。
正確には出来なかったというのが正しい。
あの日、鬼丸が『交渉』を持ちかけた事により、封印に綻びが生じたのだ。
直ぐさまこの身がどうこうなる訳ではないが、それでも確実に影響は出るだろう事は承知の上であった。
表立った変化がないのならば、当面の問題は無いというのが鬼丸の考えだ。
内心はともかく淡々と買い物を済ませ屋敷へと戻れば、やはりと言うべきか、残念ながらと言うべきか、執務室には小竜の姿があった。
「……まだ居たのか」
「わかっていてそう言うのは、ちょっと意地が悪いんじゃないかな」
暗に「君に用がある」と告げてきた小竜に軽く鼻を鳴らし、鬼丸は卓を挟んだ相手の正面のソファへと腰を下ろした。
鬼丸の位置が決まったからか、執務机についていた大典太と作業机についていたソハヤが立ち上がり、鬼丸を挟んで左右に陣取る。
まるで敵対しているかのような構図に、おやおや、と小竜は困ったように肩を竦めた。
「そんな警戒しなくてもいいだろう?」
「そんなつもりはないぜ」
さらり、と澄まし顔で応じたソハヤだが、小竜の一挙手一投足に目を光らせている。彼は『知り合い』ではあるが『味方』ではないのだ。
「用件はなんだ」
「せっかちだね。でもまぁ、話が早くて助かるよ」
前置きは不要とばかりに切り出してきた鬼丸に苦笑するも、小竜は浮かべていた柔和な笑みを引っ込め、すぅ、と目を細めた。
「君は一体、なにを『交渉材料』にしたんだい?『神』が願いを聞き届けるには相当な対価を必要とするはずだと、三日月がとても気にしていてね」
その名を耳にした瞬間、鬼丸の内部で、ぶわり、となにかが膨れ上がった。
隣に座っていた大典太とソハヤが反射的に鬼丸の肩と手首を同時に掴み、押し止めるかのように、ぐっ、と力が籠められる。
そこでようやく鬼丸は自分が腰を上げかけていた事に気づき、すまん、と小さく漏らした。
自分はその名を知らないが『神』は知っている。
無意識の行動ではあったが鬼丸は、そういう事か、と腑に落ちた。
ここまで『神』が荒ぶるのも仕方が無いと理解出来てしまった。
『神』からすればその名は忌々しい物であろう。
この者によって封印されたのだから。
「別に、その三日月とやらに迷惑は掛けていないだろう?」
「またそうやって論点をずらすのか」
差し挟まれた固い声音に鬼丸は弾かれたように隣を見た。
握られたままの肩と手首が更に強く掴まれ痛みを感じるも、それ以上に鬼丸の胸が、つきり、と痛む。
眉根を寄せた険しい表情であるにも関わらず、大典太の瞳はただただひたすらに悲しみに濡れていたのだ。
そのような顔をさせたい訳ではないのだと、そのような顔をさせる為にここに居る訳ではないのだと、鬼丸は、きゅっ、と唇を引き結ぶ。
「……おれは、お前たちに迷惑を……掛けたくなかった」
自分の身ひとつ守れない子供では駄目なのだと。
「お前たちの負担に、なりたくなかった」
素性もわからぬ怪しげな子供を下心も打算もなく、助けてくれたふたりに報いたかったのだ。
「だから、ふたりが居なくなったら好きにしていいと、おれの身体で『交渉』した」
ぽつり、ぽつり、と心情を吐露する鬼丸の姿は、寄る辺無く不安に震える幼子を彷彿とさせた。
彼は非力で無力な、だが皮肉な事に身に宿した『神』の影響で死ねない子供であった。
以前、同じ質問をした事のある小竜は大方の予想がついていたか、ゆるゆる、と息を吐き、そう……、と小さく漏らす。
ここは長い長い苦難の果てに辿り着いた、誰も彼を傷つけぬ場所なのだ。
それを与えてくれたふたりの為になにが出来るかを、鬼丸は必死に考えたのだろう。
そして、なにも持っていなかった子供が唯一差し出せたのが、己の身体であったのだ。
一所に留まらず方々を渡り歩いている小竜だからこそ、鬼丸が安住の地を求める気持ちは多少なりとも理解出来る。
それを得る事が出来た鬼丸を、羨ましく思う気持ちも正直ある。
だが、自分がそのような生き方しか出来ない事も、小竜はわかっているのだ。
感傷的になっている自分に内心で失笑し、小竜は気持ちを切り替えるように大典太とソハヤの様子を窺う。
鬼丸の告白にかなりの衝撃を受けたか、ふたりは目を見開いたまま絶句している。
選択が間違っている、間違っていないという話ではない。
それが正しい、正しくないという話でもない。
彼の行動を否定する事は即ち、彼の思いそのものを否定する事に他ならない。
だがそれを素直に受け入れるには事が大きすぎるのだ。
人ひとりの命の責任を負うのは、ただの『人』にはあまりにも重すぎるのだ。
「本来ならば『神の器』として既に死んでいる身だ。ならばどう使ってもいいだろう?」
先とは打って変わった強い口調に、小竜は、おや? と片眉を上げた。
「被害を最小限に食い止めた傲慢な男に伝えてくれ。後の事など、おれの知った事じゃあないとな」
望まぬままここまで強制的に生かされてきたのだ。つまりは『神』の復活後は三日月が責任持って始末をつけろと、鬼丸はそう言っているのだろう。
「わかった。三日月に伝えておくよ」
用は済んだと言わんばかりに小竜がわざとらしく、ぱん、とひとつ手を叩けば、はっ、と我に返ったかソハヤは俯き唇を噛み締め、肩を震わせた。
言葉にはせずともあの時の事が原因であると、自分を責めているのだろう。だが、今更それを口にしたところで事態が好転する訳ではない事も理解している為、黙り込むしかないのだ。
「お前のせいじゃない。おれが……そうしたかったんだ」
ソハヤの手を柔く握り鬼丸はゆっくりと穏やかに告げる。
「……それなら、長生きしないとな」
ふたりの様子を黙って見ていた大典太が発した言葉の意味が瞬時に理解出来なかったか、鬼丸もソハヤも弾かれたように顔を上げた。
「そ、んな単純な話じゃ……」
戸惑った声を上げる弟を、じぃ、と見据える大典太の目は冗談を言っている訳でも、状況を把握していない訳でもなかった。
波ひとつ無い湖面を思わせるも、ただただ静かなだけではなく、その奥深くに強い決意を秘めている。
「言うまでも無いと思うが」
視線を小竜へと向けた大典太がゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ここでの事は他言無用だ。少しでも漏れたと判断した時は……」
すぅ、と小さく息を吸い一拍おいた大典太からの射るような眼差しを、小竜は真っ向から受け止める。
「お前が相手でも容赦はしない」
言葉と共に解き放たれた強大な霊力に怯む事無く、小竜は薄い笑みを貼り付けた。
「俺だってこんな事で友好関係を崩したくはないかな」
君たちの事は気に入っているからね、と大仰な身振りで両腕を広げて見せてから立ち上がった竜人は、無防備に、くるり、と背を向けたかと思えば軽々とソファを飛び越え窓枠へと着地する。
「あぁそうだ。最後にひとつだけ」
振り返りもせず小竜は、ぴっ、と人差し指を立てて見せた。
「大典太光世。君がその決断を後悔する時が来たら、遠慮せずに俺を呼ぶといい。引導を渡してあげるよ」
それじゃ、と軽やかに窓枠を一蹴りし空へと消えた小竜の言葉が理解出来ず、鬼丸とソハヤは怪訝に顔を見合わせ、次いで大典太を見やる。
「兄弟……?」
どこか触れてはいけない空気を感じ取りながらもソハヤが問うように呼べば、大典太は「なんだ」と平素となにひとつ変わらぬ様子で応じ、あまりにも普通に返された為、改めて問う事が出来ずこの件は有耶無耶になってしまったのだった。
小竜の来訪から三日が経った。
あの日以降、何かが変わったかと言えば特に何もなく、これまで通り大典太は執務机に着きペンを走らせている。
思い詰めた顔をしていたソハヤも翌日には吹っ切ったようで、既に起こってしまった事を嘆くのではなく、それを踏まえた上でこの先どうするかを考える事にしたのだろう。
そして「神様に敵う訳ないから兄弟の言う通り、俺らが長生きするしかねぇよなぁ」と軽快な笑い声と共にそう結論づけたのだった。
更なる追求がある物と身構えていた鬼丸からすれば、とんだ肩透かしである。
「……確認したいんだが」
署名し終えた書類を脇へとどけながら大典太は顔を上げ、ひた、と鬼丸を見た。
「あんたの中に居る『神』は人に害をなすモノなのか?」
「さぁな。ただ、三日月の事は許せないようだがな」
「どんな神様だろうが、そうおいそれと触れていいモンじゃないだろ。呼び出したのだってどうせロクでもない理由だろうし」
今となってはその思惑など知るよしもないが、年端もいかぬ子供を依代にした者たちだ。仮に正当性を主張してきたところで、納得出来る物であるとは到底思えなかった。
「今はそれよりも目の前の仕事を片付けちまわないとな」
仕分けられた書類の束をひとつ手に取り、ソハヤは鬼丸に、ずい、と差し出した。
「散歩がてら届けて回ってくれ。戻る頃にはちょうどお茶の時間になるだろう」
ふざけた物言いだが届ける場所が点在していると言う事だ。暗に「時間が掛かるぞ」と言われた鬼丸は不平不満を漏らす事無く、わかった、と頷いたのだった。
書類の束を小脇に抱え退出した鬼丸の足音が遠ざかって行くのを確認してから、ソハヤは大典太の目の前に立った。
「それで? どこから手をつける?」
「……なんの事だ」
曖昧な問い掛けに大典太が片眉を上げれば、ソハヤは真面目な顔で兄を見つめる。
「『長生き』するんだろ?」
そのまま暫し無言で見つめ合い、根負けしたのは大典太であった。
「お前には俺の後を任せるつもりだったんだが……」
「俺だけ仲間外れはナシだぜ兄弟。ここまで来たら死なば諸共ってやつだ」
肩を落としながら力なく零す大典太とは対照的に、既に腹を括っているソハヤの言葉に迷いはない。
「領主はまぁ世襲制じゃない訳だし、根回しして地固めが済んだら後任を指名して隠居すりゃいい」
「……簡単に言ってくれる」
「むしろそっちはラクな部類だと思うぜ? 一番の難関は……」
ここで初めてソハヤが渋面になる。
彼の言わんとする事を痛いほど理解している大典太は、肺の空気を全て吐き出さんばかりの深い深い溜息をついた。
この三日間、本当にそれで良いのかと、一時の感情に流されているのではないかと、考えに考え抜いた末の結論なのだ。
きっと彼は首を縦には振らないだろう。
それでももう決めたのだと、真っ直ぐに気持ちを伝えるしかないのだ。
「今晩……説得に行く」
枕に頭を預け、うとうと、と心地よい微睡みに身を委ねつつ、鬼丸は昼間に大典太から問われた事を思い返す。
人に害をなすか否か。
良い神か、悪い神か。
それらはあくまで人の立場から見たものであり、神とは基本的に善悪の概念はないというのが鬼丸の持論だ。
三日月が『神』の完全顕現を阻止したのも、単純に均衡が崩れる事を危惧しての行動だろう。
強大な力を手にすればそれを機に勢力を拡大し、やがて近隣を支配するに至ったであろう。
いらぬ諍いや争いは一部地域に留まらず、やがて戦火は拡大していく。
一地方の小さな集落が国の基盤を揺るがすやもしれぬ。
『神』のもたらす力がどのような類いの物であるかは、この際重要ではないのだ。
『神』の力を有している。それだけで十分なのだ。
『神』とはそれほどまでに存在そのものが特別なのだ。
子供ひとりの犠牲と数多の犠牲。
どちらを選ぶかなど考えるまでもない事だ。
「……理屈ではそうなのだろうが」
夢現に己が吐き出した言葉で鬼丸は、はっ、と目を開き、緩慢に身を起こす。
今の言葉は本当に自分が発した物であったか?
左目を掌で覆い、ゆうるり、と首を振る。
小竜の来訪により、話の流れで墓まで持って行くつもりであった事をふたりに知られてしまったのは、思った以上に尾を引いており動揺が収まりきっていない自覚はあるのだ。
不安定な気持ちを少しでも落ち着けようと瞼を伏せ、二度、三度と深呼吸をする。
ふたりの前では常と変わらぬ姿で居なければならない。
表面上だけでもこれまで通りの生活をしていれば、自分の選択など取るに足らない物だと、日々職務に忙しいふたりはいつしか忘れてくれるだろう。
――それでいいのか?
「……ッうるさい」
不意に脳裏を過った問いを否定するかのように耳を塞ぎ頭を振ったその時、小さく扉が鳴った。
こんこんこん、と響く控えめなそれがノックであると気づき、鬼丸は乱れた髪の隙間から扉を見やる。
「鬼丸? 起きているか?」
続いて聞こえてきたそれに、ひゅっ、と鬼丸の喉が引き攣った音を出す。
このまま返事をせずに寝たふりをするか、きちんと応じてお引き取り願うか。
迷ったのは一瞬の事であったにも関わらず、無慈悲にも扉はゆっくりと開かれていく。
廊下から差し込む光の帯が徐々に太くなり、完全に開ききったそこに立つ大典太の表情は逆光で判別出来ない。
「……すまない、起こしてしまったか」
ベッドに身を起こしている鬼丸の姿から、今のノックで起こしてしまったと勘違いしたのだろう。詫びを口にした大典太に、いや、と短く返し、鬼丸は仕方なしに相手を招き入れた。
扉を閉めれば室内は闇に沈む。
「なんの用だ」
卓上のランプに火を入れようとする大典太を制し、鬼丸が率直に問うてくる。
長居をさせる気はないのだと直感が働くも、大典太は気づかぬふりをしてベッドに腰を下ろした。
「『長生き』をする為の話をしに来た」
遠回しな言い方でははぐらかされるとわかっているからか、大典太も言葉を選ばず率直に告げる。
「方法は、あんたが一番よくわかっているだろう?」
徐々に目が慣れてきたか、窓から差し込む僅かな月光で互いの表情は朧気ながら見えている。
じっ、と目を見つめて真剣な面持ちで言葉を紡ぐ大典太からは、一歩も引かぬと言う強い意志が感じられる。
「……それがどういう事か、わかっているのか?」
淡々と、表面上は落ち着き払って問い返す鬼丸だが、内心はとてもではないが穏やかではいられない。
絶対に駄目だと、なんて事を言い出すのだと、今にも叫び出したい程に心は激しく乱れている。
「俺も、ソハヤも承知の上だ」
「駄目だ。そもそもどうしてお前たちがそこまでする必要がある?」
俺ひとりの問題だろう、と続けられた言葉に、大典太の柳眉が瞬時に吊り上がった。
「あんたひとりに全てを背負わせたくないからだ! 俺はあんたに幸せになって貰いたい……いや、幸せにしたい」
俺が、と鬼丸の手を取り、両の手で強く握り締めてきた大典太の指先は驚くほどに冷たく、彼が非常に緊張していることを示している。
並々ならぬ覚悟を持ってこの話をしているのだと、大典太の決意は固いのだと、目を背ける訳には行かないのだと、鬼丸は一度唇を引き結んだ。
それでも――
「……駄目だ」
固い声音が鬼丸の唇から零れ落ちた。
「いつの日か絶対、後悔することになる」
「そんな事はない」
即座に否定する大典太の手に力が籠もる。
「いつの日かおれを、恨む日が来る」
「そんな事は絶対にあり得ない!」
自分の手を掴む大典太の手に反対の手を重ね、鬼丸は、ゆうるり、と首を横に振る。
「これはお前の為を思って言っているんじゃない。おれが、お前に恨まれ罵られる日が来るかもしれないという事に……耐えられないんだ」
頼むからどうか……、と声を震わせ俯いてしまった鬼丸の姿に、大典太は胸を締め付けられる思いだ。
奪われるばかりで与えられる事のなかった子供は、求め、縋る手を伸ばす事もとうの昔に諦めてしまったのだろう。
たとえ身体は大きくなろうとも、心は臆病な子供のままなのだ。
「信じてくれ。そんな未来は絶対にない」
「……わかるものか」
先とは逆に今は鬼丸の指先が氷のように冷え切っている。
「絶対にそんな事にはならない」
鬼丸はただただ黙って首を横に振るだけだ。
「俺は信じてくれとしか言えない。好きなあんたを悲しませる事は絶対にしないと」
「……なにを、言って……?」
何を言われたのか理解出来なかったか、恐る恐る顔を上げた鬼丸に大典太は片眉を上げるも、あぁそうか、と思い当たる節があったか小さく漏らした。
「好きだ。愛してる。ずっと一緒に居たい」
告白のひとつもしていなかった男の言葉など、信じられなくて当然であったのだ。
「髪に触れて、頬を撫でて……」
ならば包み隠さず全てを曝け出すしかないと、大典太は言葉を惜しむ事無く次から次へと音にしていく。
「抱き締めたいしキスもしたい。勿論、それ以上の事も……」
「そ、んな、急に……なにを……」
握られていた手を勢いよく振り払い、そのまま大典太の口を塞いで無理矢理に黙らせるも、動揺を隠し切れていない鬼丸の手は小刻みに震えている。
言葉は封じられたが身体が拘束されている訳ではない。
自由になった手を伸ばし、大典太は意味ありげに鬼丸の下唇を指先でなぞった。
「……ッ」
声もなく身を引いた鬼丸を追うように身を乗り出し、大典太は鼻先が触れる距離で再度、
「信じてほしい」
そう吐息交じりに囁いた。
露店で購入した串焼き肉を差し出せば、噴水の縁に腰掛けていた三日月が「これはうまそうだ」と眦を下げた。
遠慮無く口に含み相好を崩す男の隣に小竜も腰を下ろし、湯気を上げるそれを囓り取る。
暫し無言で肉を食んでいたが半分ほどを平らげた頃、それで? と三日月が穏やかに口を開いた。
「大方俺の予想通りだったよ」
「そうか」
「『神様』は相当お冠だったし、鬼丸も君の事を『傲慢』だと言っていたからね。印象はかなり良くないかな」
ははは、と軽快に笑う小竜に気分を害した様子もなく、三日月は、ふむ、と顎を撫でさすりながら、そうかそうか、と二度三度と頷く。
「あれにはかわいそうな事をしたからな。その言葉、甘んじて受け入れよう」
「かわいそうだとは思っても、悪い事をしたとは思っていないんだろう?」
行儀悪くも串の先を三日月に向けながら指摘する小竜は、笑みを浮かべてはいるが眼差しそのものは冷め切っている。
「均衡を保つのも俺の役目だからな。全てを掬い上げる事など出来んよ」
「はいはい、君の正体についてはこれまで通り言及しないよ。知ったら面倒な事になりそうだ」
「どこにも肩入れせず中立を保っているお前らしい物言いだ」
だがそれでいい、と手中の串を、くるり、と回しながら三日月は目を細めた。
「俺も気軽に頼み事が出来なくなるのは、ちと困るからな」
「頼み事の内容は全然軽くないんだけどね」
長い足を組み替え、呆れたように三日月を見ながらぼやく小竜は、それでもどこか楽しげだ。
「あの子が居た村や集落が悉く壊滅したのは、偶然かい?」
「さぁ、どうだろうな」
明言を避け、ふわり、と微笑を浮かべる三日月の人間離れした美しさに、小竜は臓腑が冷える思いをするもおくびにも出さず、軽く肩を竦めてみせる。
恐らくこの男はずっと様子を見ていたのだ。
他者があの子供をどう扱うか。
そして行き過ぎた行いの末に人の理を外れ、異物へと変じた者たちを根こそぎ処分してきたのだろう。
あの子供が大典太たちの元へ流れ着いたのは、果たして偶然であったのか。
「大典太は鬼丸と『共に生きる』と決めたようだよ」
それが何を意味するか理解出来ぬ三日月ではないだろうと、小竜は相手のどんな些細な反応も見逃すまいと目を光らせる。
「先に言っておくけど、大典太やその周りの者に危害が及ぶようなら、その首、かっ切られてしまうだろうね」
本当に出来るかどうかはさておき、全身全霊を賭けて報復してくる事は容易に想像がつく。
だが、意外にも三日月は、はっはっは、と声を上げて笑い、なるほどなるほど、とひとりでなにやら満足げに頷いている。
「これは僥倖。あやつは人には過ぎた力を持っているからな、これでいい塩梅になるという訳だ」
「君の言う『均衡』とやらはいいのかい?」
途端に上機嫌になった三日月を探るように見ながら小竜が問えば、うん? と軽く小首を傾げられた。
「人の中で突出している今の方が、むしろ均衡が崩れていると思わんか?」
改めて問われ小竜自身、常日頃からあの兄弟の異質さを実感していただけに、納得するしかない。
「ゆくゆくは俺の手助けをして貰えると助かるんだがなぁ」
本気か冗談か判断に困る事を笑み交じりに言われ、小竜は「君の今後の行い次第じゃないかな」と、こちらも本気とも冗談とも取れる返しをしたのだった。
やぁ、と窓から顔を覗かせ呑気に手を振っている小竜に対し、ソハヤは隠す事無く呆れを含んだ息を吐いた。
相手の言わんとする事を理解していながら小竜は悪びれた様子もなく室内へと上がり込み、ぐるり、顔を巡らせる。
「君ひとりかい?」
「あぁ、兄弟に何か用だったか?」
封蝋のされた手紙の差出人を確認し、右へ左へと振り分けつつ問いかければ、ただのご機嫌伺いだよ、とソファに腰を下ろした小竜はあっさりと言ってのけてきた。
「ふたりは?」
「いつも通り、兄弟のお籠もり部屋だ」
「なるほど」
誰にも邪魔される事なくふたりの時間を満喫しているという事か、と小竜は大典太の行動力に感心するべきか、未だに戸惑いの色が濃い鬼丸に同情するべきか、非常に複雑な心境だ。
「君は混ざらないのかい?」
何気ない問いであったが、ソハヤは、ぴたり、と動きを止め、上目に小竜を見てからどこかぎこちない動きで顔を上げる。
「冗談でもそういうことは言わないでくれ。いらぬ誤解で兄弟とやり合う羽目になるのはご免だ」
「おっと、そいつは悪かったね」
ソハヤが鬼丸に抱いている感情はあくまで親愛であり、大典太のそれとは違うのだと、小竜は再認識した。
「あれから三ヶ月かぁ。どうだい調子は?」
「すこぶる良好だ」
端から聞けばなんてこと無い会話であるが、そこに含まれる物を知っていれば意味合いが違ってくる。
「正直、半信半疑だったんだが、少量の血液でも如実に変化が現れてるからな。疑う余地はないし、とんでもねー事だってのも理解した」
仕分けた封筒を、とんとん、と揃えながら自身の現状を口にしたソハヤだが、なにか思い出したか、はー、と深い溜息と共に頭を垂れ、がくり、と肩を落とした。
あの日、大典太は鬼丸を説得した後、彼を伴ってソハヤの部屋を訪れたのだ。
説得できたことは喜ばしかったが、ぼさぼさに乱れた髪と、どこか気怠げで気まずげに目を伏せている鬼丸の様子に、そういうところだぞ兄弟、とソハヤは内心で嘆くしかなかった。
敢えて詳しく聞く事は避け、では今後どうするかと話し始めた矢先、どこに隠し持っていたのか鬼丸は取り出したナイフでおもむろに自分の腕の肉を削ごうとし、ふたりがかりで慌てて阻止したのだった。
「まさか肉を食わされそうになるとは思わなかったぜ」
「それはご愁傷様」
当たり前の顔でやらかされ、これは徹底的に話し合う事が必要だと、ソハヤはその場で改めて思ったのだった。
くしゃくしゃ、と髪を掻き回されたかと思えば、柔く頬を包まれ鼻先や瞼へ唇を落としてくる。
毎日飽きもせずこの男は……、と鬼丸は感心と困惑が入り乱れる胸中を押し隠し、間近で揺れる宵闇色の髪を薄目で見やる。
三ヶ月前の熱烈な告白通り、大典太は毎日律儀に鬼丸に触れ、キスをし、抱き締めてくる。
口にしてしまった手前引くに引けなくなり、意地や義務感からの行動なのではないかと思っていた鬼丸だが、最初こそは遠慮がちだった手が、力強く腰を引き寄せ、背を撫で上げるようになり、首筋に吸い跡をつけるに至り、ようやっと彼が本気であると理解したのだ。
だが、それにどう応じればいいのかわからず、未だに鬼丸はただただされるがままでいる。
正直、他者に触れられる事に恐怖を覚えないかと言えば嘘になる。
――猿ぐつわを噛まされ、数人がかりで押さえ込まれた身体に当てられた、ひやり、と冷たい刃物の感触。
――肉の断面を這いずるおぞましい感触と、焼き鏝を当てられたかのような鋭い痛み。
だらり、と下がったままの腕が無意識のうちに拳を強く握る。
「鬼丸」
名を呼びながら促すように眦を親指の腹で撫でられ、鬼丸は、そろり、と瞼を持ち上げた。
正面から視界に捉えた大典太は柔い笑みを浮かべており、頬を撫でる手は壊れ物を扱うかのように優しい。
じんわりと沁みいる体温に、知らぬ間に強張っていた身体から力が抜けていく。
あぁそうだ、と鬼丸は大典太の目を真っ直ぐに見つめる。
今、自分に触れているのは、名も顔も既に覚えていない者たちではないのだ。
唇を軽く啄むようなキスに、思わず、ふっ、と笑みが零れた。
児戯のようなこの触れ方は嫌ではないと、そう思ったのだ。
頬を包む手に自分の手を重ね、目を細める。
大典太の望む「それ以上の事」に応えられるかはわからないが、時間だけはあるのだ。
再度、唇を啄まれ鬼丸はくすぐったそうに、ふふ、と笑った。
2025.02.01