神の一存早朝、モアナは浜辺でロトやモニと会話しているマウイに気がついた。マウイはふたりと話し終えてどこかへ向かう。モアナはマウイにこっそりついていくことにした。マウイはケレのいる畑へと向かい、作物の詰まったカゴを片手に乗せて運んで再び浜辺へ戻った。彼は舟を見て不備がないか点検し始める。先日モニが他の海の民と集会へ向かうために使った舟だ。しかし、少なくとも今日は海に出る予定はなかったはずだ。疑問に思ったモアナはマウイに近づいて声をかけた。
「マウイ、どうしたの?」
「ん?ああ。急だけど神の領域へ行く。……夢で『来い』って言われてさ」
「えっ……?」
モアナの顔がみるみる曇る。マウイは片方の眉を上げて不敵な笑みを見せた。
「大丈夫。ナロとは別の神で人間は好きなんだ。ただ、その領域の行き方が舟じゃないと辿り着けない。俺が変身して冷やかしたのを根に持ってる。今日に至っては悪夢まで……」
「……よかった。あっ、でも冷やかすのは良くないんじゃない?」
モアナは胸を撫で下ろしかけるも眉間にシワを寄せてマウイの行動をとがめた。その様子を見てマウイの不敵な笑みが柔和な笑みに変わる。
「あと悪夢って──んむ」
マウイがモアナの口元を一瞬つまんで離した。
「帰るのは二、三日後ぐらい。何かあったらオールで合図してくれ」
「……うん、わかった」
モアナが答えると、マウイは舟を動かしてサンゴ礁を越えた。船が水平線へと消えていきモアナは村の方へ戻ることにした。マウイにとっての悪夢とは、どんな内容だったんだろう。モアナの頭の中で疑問が沸いた。その神は人間好きと言っていたがマウイに何かされたらしく根に持っていると言っていた。そんな因縁があり、悪夢まで見せてくるような神と会っても無事に帰れるものなのだろうか。ひとりにして大丈夫だったろうか。マウイは時折ひとりで抱え込んだり解決しようとするところがある。自分も半神になった。もちろん神が全員自分のことを歓迎してくれるとは思わない。しかし神に会うこと自体は可能なはずだ。モアナは自分の左腕のタトゥーを見つめた。
「少しぐらい頼ってほしいよね。ね?プア」
モアナは足元にやってきて心配そうに覗き込むプアに微笑んだ。
「風と海の半神マウイ、ここに参りました」
マウイは神の領域に足を踏み入れ、仰々しくお辞儀した。件の神がマウイの元に近づいてくる。するとマウイは神を見上げてウィンクをしてみせた。
「なーんてな!久しぶりだな!」
神が大げさに目を転がし背中をそらした。そっちは相変わらずだと言わんばかりだ。
「涙の再会をぶち壊すようで悪いが……ナロの件、本当に協力してくれるのか?」
マウイの口から『ナロ』という名前を聞くや否や、呆れ返っていた神が一転して前のめりになり軽く頷いた。
「そうか!やっぱり話のわかる奴だと思ってた!供物を大量に持ってきた甲斐あったな!」
マウイの軽口に対して神は険しい表情を見せた。ひとくくりに神々と言っても常に連帯をとっているものではない。神ごとに半神や人間に対しての態度は千差万別だ。この神は人間に親身でナロと敵対している貴重な存在だった。ただ、この半神マウイは過去にこの神をひどい目に遭わせたことがある。人間に好意的でもマウイに協力してくれるかは未知数であった。ただ今の彼としてはナロと話し合って呪いを解くよりはこの神に協力を乞うことのほうが手堅い手段だと感じた。
「ああそうだ!忘れてた!もう少し時間をくれ」
マウイが神に大声で呼びかける。神が再び彼の方を振り向く。
「いまからでも遅くない」
神は真剣な声色になった半神を見下ろす。
「この前の巻き毛ちゃんについてだ。お前も見てただろうが……」
マウイが一度言葉を切る。神は屈んでマウイと視線を合わせた。崇められたり憎まれたりすることはあれど対等な友人を持たなかった彼に親友と呼べるような人間ができたことは神々の間でも話題になっていた。海の名を冠した娘が人間に敵対的なナロを出し抜きモトゥフェトゥの呪いを解いたこと。彼女はナロの雷撃を受け生死の境目をさまよい、マウイと同じ半神になったこと。あのマウイが人間になっても真っ先に気にかけたのは自分に起きたことではなく、その人間の安否だったこと。マウイ本人からモアナのことについて聞きたいと考えている神々は少なくなかった。マウイの口が再び開く。
「あのタトゥーも悪かないが、あのお姫様に一番似合うのは俺の体に刻ま……ぐっ!?」
マウイの胸のあたりに巨大な人差し指が近づきモアナの姿のタトゥーを突いた。神にとっては大した力ではないだろうがマウイにとっては足が揺らぐような威力だった。しかも一回では終わらない。睨みつけるような双眸で無言のまま、執拗につついてくる。マウイの心臓の鼓動が早くなり余裕綽々だった顔がひきつる。いったい何が気に食わなかったのか。その指は徐々にねじこむような動作になっていく。バランスを崩しそうだ。ミニマウイが震えながらモアナの姿のタトゥーの前に立つ。神がマウイの胸から指をそっと離す。マウイはどうにか体勢を立て直した。まだ心臓のあたりに指の感触が残っていて気分がすぐれない。ミニマウイに至っては腰が抜けて呆然としていた。
「なんだよ?」
神はマウイの使っていた舟に手を伸ばす。そして片手で倉庫の蓋を開けて樹皮布を取り出した。ナロの描かれた絵だ。モニが前回、他の海の民と話し合いするときに使っていた複数の樹皮布がそのままになっていたようだ。そして、もう一枚の樹皮布を取り出す。モアナが雷に打たれたときの絵だ。それを見た瞬間、マウイの心臓が疼く。神は絵のナロの両目に人差し指と中指をあわせマウイのほうへ近づけた。そしてその人差し指と中指は樹皮布の雷に打たれたモアナにも向けられた。
一柱の神の一存で半神や人間の立場なんて簡単に変わるものだ。彼らの行いに気に食わない点があれば彼らの運命をどうとでもできてしまう。たとえ人間に親身な神でさえも。ならナロはどうか。実際にマウイから神の力を奪い、モアナに雷を喰らわせた。なおさら警戒しなくてはいけない。
「念入りにご忠告どうも」
マウイの頭の中で、先日この神に見せられた悪夢がよぎった。静かで薄暗い海の中、青白く透き通って光るモアナの姿。彼女が何も言わずに自分から去っていく夢だ。夢の中のモアナは顔をしかめて思い詰めたような表情だった。泣きそうにも見えたし怒っているようにも見えた。
いかないでくれ。マウイが口を開けようとした瞬間、海水で息が詰まり目の前がただただ暗くなる。その直後に目の前の光景が岩のように崩れ、神が現れた。
マウイはモトゥヌイに戻ろうと神の領域から出ようとした。しかし神はマウイの両肩をつまみ自分の方に向けた。
「えっ?まだ何かあるのかよ?」
神は島々が描かれた絵と先ほどの雷に打たれたモアナの絵を並べる。マウイの左腕をつつき、今度は絵の中のモアナの左腕をつついたかと思えば次は島々の絵の中からモトゥヌイとモトゥフェトゥを交互に数回つついた。
「はーん、次回は巻き毛ちゃんも俺みたいなタトゥーに──」
神はすっとぼけたマウイの口元を親指と人差し指で押さえた。それでもマウイは言葉を続ける。
「ふぁふぁっふぇる」
神がマウイの口元から手を離した。
「モアナのタトゥーはモトゥヌイ式ってことだろ?」
マウイはモトゥフェトゥを引き上げたあとモアナの家族と会った。モアナの母シーナの両腕にもモアナの左腕に刻まれたものと似た繊細なタトゥーがあった。自分の祈りにモアナの先祖霊が応じなければモアナも復活できなかっただろう。モアナが先祖霊を含め、故郷の人たちに長く愛されていることはよくわかっている。マウイがモトゥヌイに行くようになってもなおモアナが生まれてから関わってきた人間たちには敵わないだろう。わかっているつもりだ。それでも。
「大切な奴とお揃いだと嬉しいよな」
ぼそりとマウイがつぶやく。寂しげな微笑みを浮かべて。ミニマウイも腕組みして数回頷いた。神はマウイの頭を乱雑に撫でた。
「な、なんだよ!?髪せっかく手入れしたのに!!」
神は舟の倉庫にある樹皮布を一瞥する。それはマウイが釣り針、モアナがオールを掲げた姿を描いた絵だった。
数日後。
「おかえり!マウイ!」
モアナがオールを砂浜に刺して両手いっぱいに広げてマウイを抱きしめる。マウイは親友の花咲くような笑顔と左腕のタトゥーを見つめて目を細めた。
「ただいま。巻き毛ちゃん」
マウイは彼女のオールへと視線を移す。モアナとの初対面にヘイヘイのくちばしで刻んだサイン付きのオール。まさかモアナが三年間使い続けているとも思わなかったし、あのときのオールに神の力が宿るなんて夢にも思わなかった。丁寧に描いたつもりだったが、もう少し細かく描いてもよかったかもしれない。
「あ、そういえばね……!」
モアナがマウイから手を離して近況を話そうとする。マウイは体を屈めてモアナの弾む声に耳を傾けようとした。
「昨日ね!夢で、あ、待って」
モアナが言葉を止めた。
「どうした?」
「言っちゃダメって言われたから忘れて!」
「え?誰に?」
「あ、誰からなのかもダメって言われちゃって……」
「夢解きでもしてもらったのか?」
「そ、そう!そんな感じ!」
モアナは神の一柱と邂逅した昨夜の夢をマウイに話せないことをもどかしく思った。