僕はマスタード 大勢が行き交う駅、改札の前。
通行人の邪魔にならない場所に立つスコットはスマートフォンの画面を触って既読メールを呼び出す。
差し出し人はピーター。今日の待ち合わせの相手だ。
「もうすぐ駅に着くよ」というメッセージに添えられた笑顔の絵文字が少年の浮き立つ心を表しているようだ。それを嬉しく思う反面、戸惑ってしまうのを否定できない。
大きく歳の離れた少年から「恋人になってほしい」と申し込まれたのはいつだったろうか?
スコットは画面に表示された文字を眺めながら、頬を染めたピーターから告白された日のことを振り返る。
家に遊びに来たピーターと向かい合って食後のコーヒーを楽しんでいた時、こちらの様子を窺うように向けられる視線に気づいた。
『ピーター、さっきからどうした?普段から落ちつきがないのは知ってるけど、今日は特にだぞ。』
スコットがからかいながら指摘するとピーターは「別に!」と慌てたように否定した。
しかし、ピーターは相変わらず落ちつきなく体を揺すってこちらの様子をチラチラと観察している。これには流石のスコットも痺れを切らし、もう一度「どうした?」と尋ねてみる。
ピーターは観念したように一つ溜め息を吐くと、体を揺するのを止めて真っ直ぐにスコットを見つめた。
『冗談だと思うかもしれないけど、あなたのことが恋愛対象として好きなんだ。だから、その、あれだよ……僕の恋人になってください。』
スコットは頬を赤らめて告白してきた少年を見つめながら口をあんぐりと開けた。
予想外。想定外。有り得ない。
そんな言葉が次から次へと頭を過ぎっては消えていくだけで、返す言葉は一つも浮かばない。
何か言わなければ、と焦るスコットにピーターは「何も言わないで」と困ったような笑みを見せる。
『今すぐに答えを出せることじゃないと思うから、スコットさんの気持ちが固まったら教えて。僕は気にしないけど歳の差のことは気になるだろうし。ゆっくり、真剣に考えてほしいんだ。』
そう告げるピーターの真剣な眼差しに胸が高鳴ったことにスコットは狼狽えた。
親子と間違われてもおかしくないほどに年齢差のある相手にときめくだなんて自分は何を考えているのだろう?
スコットは無言で頷いてから落ちつくためにコーヒーを一口飲む。マグカップを掴む手が震えていることがひどく情けなかった。
「スコット!こっちこっち!」
自分と同じ名前を呼ぶ見知らぬ誰かの声に驚き、スコットの回想が途切れた。そちらに顔を向ければどこの誰かも知らない二人が再会を喜び合う光景を目にする。
スコットはその光景から視線を外し、再び己の世界へと戻っていく。
あの告白の後もピーターとは何度も会っているが、積極的に迫ってくるわけでもなく返事を強請ることもなく、彼は今までと変わらない態度で接してくる。そのことに安堵する自分がいた。
ただ、少年の言動の端々から恋心が伝わってくるのは確かだ。
スコットが再び物思いに耽ろうとしたその時、遠くから「スコットさん」と呼ぶ声が聞こえた。
声の方を見るとピーターが笑顔全開で駆け寄ってくるのが見え、スコットも笑みと共に彼を迎える。
少年の眩しい笑顔は会う度に輝きを増しているように思えた。
「久しぶりだな。……あれ?ピーター、背が伸びた?」
「スコットさん、それ前も言ってたよ。もうちょっと伸びてほしいところだけど、残念ながら変わってません。」
「そりゃ悪かった。お詫びにランチを奢るけど、どう?」
スコットの誘いにピーターは大喜びで何度も首を縦に振った。
「俺の家に行く前に食べていこう。それでいいか?」
「うん、大丈夫。朝ご飯が早かったからお腹空いちゃってさ。お腹ペコペコで死んじゃいそう。」
「ワオッ、そりゃ大変だ。じゃあ早く移動しよう。」
スコットはピーターと視線を交わらせて笑い合い、さっきまで考えていたことを頭の片隅に追いやってしまう。
今は深く考え込まずに目の前の少年と楽しい時間を過ごしたい。
今この瞬間の一番の願いはそれだった。
*****
ランチタイム真っ只中のレストランは混んでいた。
それでもタイミング良く空いた席に滑り込むことができた二人は一つだけのメニュー表を仲よく覗き込んでいる。
「俺はランチセットにしようかな。ピーターは?」
「んー、そうだなぁ……ホットドッグセット!今日はホットドッグの気分!」
「よし、決まりだな。すみませーん!」
スコットが店員を呼んで注文を済ませると料理が来るまではトークタイムとなる。
話す内容は近況報告が中心だ。後は身近な人の面白い話で盛り上がったり、今興味のあることについての話をする。
何気ない日常の話であってもスコットはピーターの話を聞くのが好きだった。学生生活の話は懐かしさと新鮮さの両方があり、彼のユニークな保護者の話はスコットをいつも笑わせてくれる。ピーターの親友のエピソードはなぜだがルイスを思い出させ、今ハマっていることについて説明する時のイキイキした顔は聞く側を楽しい気分にしてくれるものだ。
料理が運ばれてきて食べ始めても二人は会話を楽しみ、ランチタイムは和やかに過ぎていった。
スコットの皿の上が寂しくなってきた頃、不意に会話が途切れた。
その時スコットは皿の端にある粒マスタードに何気なく視線を向けた。ランチセットの鶏肉のグリルに付けて食べるために添えてあったのだが、味付けが十分だったので付けなかったのだ。
少しも手を付けられずに残った粒マスタード。粒マスタードに限らずマスタードというのはあれば美味しさを増してくれるが、なくても特に問題はないものだ。あっても良いけれど、なくても構わないもの。
スコットは皿の上を見つめながらポツリと呟く。
「俺はマスタードで良かったんだ。」
スコットの呟きを拾ったピーターは食べかけのホットドッグを持ったまま顔にクエスチョンマークを浮かべている。
そんな少年に視線を向けてスコットは苦笑する。
「俺さ、お前にとってマスタードみたいな存在でいたいんだ。お前の中のメインにいるんじゃなくて端っこにいる存在。時々思い出してくれたらそれでいい。……この皿の上のマスタードみたいに端っこでいいんだよ。」
「……意味がわからないんだけど。」
ピーターの顔にも声にも少し不機嫌さが滲んでいる。その反応は予想通りだ。
それでもスコットは自分の気持ちを伝えたかった。
「マスタードってあったら美味しいけど、なくても特に問題ないだろ?俺はそんなマスタードになりたいってこと。ピーターにとってのな。ほら、俺ってメインになれるような人間じゃないからさ。他に相応しい奴がいっぱいいるだろ?」
真っ直ぐに目を見つめて告げれば力強い眼差しが返ってくる。
ピーターはしばらく黙り込んでいたが、唐突にホットドッグを口いっぱいに頬張った。リスのように頬を膨らませながら咀嚼する少年は込み上げる感情を飲み込もうとしているように見える。
やがて口の中のものを全て飲み込んだピーターはジュースを飲んでから一つ息を吐いた。
そして「スコットさん」と名前を呼んでから視線をぶつけてくる。
「やっぱりスコットさんの言ってること、意味がわからない。でも僕はホットドッグにはマスタードが欠かせない人間だよ。今日もマスタードをかけるの見てたよね?」
その問いにスコットは首を縦に振った。
ピーターはホットドッグが運ばれてくるとケチャップとマスタードの容器を手に取って思いきりホットドッグにかけたのだ。「かけ過ぎ」と慌てたのを覚えている。
「それにさ、マスタードっていろんな料理に使えるんだよ。知ってる?」
「ん?そうだっけ?」
「サンドイッチにも使うし、焼いた肉や魚にかけるソースもあるし、サラダやマリネだってあるよ。他にもマスタードを使った料理はあるんだから。」
どこか得意げに答えるピーターにスコットは「知らなかった」と目を丸くする。単なる添え物だと思っていたが意外にもそうではなかったらしい。
こうなるとスコットがピーターに言ったことは成り立たなくなってしまう。
予想外のことに困惑したスコットが指で頬を掻くとピーターに反対側の頬を引っ張られる。
「いひゃい!」
痛みを訴えてもピーターは指を離してくれない。
「そもそも僕は何かのメインを張ってる人を好きになったわけじゃなくて、スコット・ラングっていう人を好きになったんだけど!意味のわからないことを言って諦めさせようとしたって無駄なんだからね!」
ピーターは全てを言い終わってから指を離してくれた。
ピーターの言葉がスコットの心に染み込むと同時に罪悪感で胸が痛む。スコットの発言はピーターのスコットへの気持ちを軽んじるものだと言える。そんなつもりは全くなかったが、結果としてそうなったのは事実だ。
スコットはジンジンと痛む頬を擦りながら申し訳なさそうに眉を下げる。
「さっき言ったことはお前に対して失礼だった。俺はピーターの気持ちを軽く見てるわけじゃない。本当だ。でも俺のさっきの発言はそういうことになってしまうよな。本当にごめん、ピーター。」
スコットが謝るとピーターは苦笑いを浮かべながら頷いた。
「諦めさせようとするってことはそれだけ僕のことを意識してるってことだよねー……なんて、冗談──」
「そう思ってくれていい。」
冗談混じりに願望を口にするピーターの言葉をスコットは肯定した。思いがけない肯定にピーターの目が軽く見開かれる。
スコットはもう一度「お前を意識してると思っていいよ」と言って微笑んだ。
遠くから成長を見守ろうと考える程度だったはずが、会える日を心待ちにするほどにピーターの存在はスコットの中で大きくなっている。歳の差を考えると躊躇いが先に立つが、いつの日かその躊躇いを捨ててしまいそうな気がした。
それもあって「マスタードみたいな存在でいたい」と思ったわけだが、それをピーターが簡単に蹴り飛ばしてしまった。
この少年にはずっと勝てないかもしれない、と考えながらスコットは笑みを深くする。
「今すぐ気持ちに応えるってわけにはいかないけど、いつかホットドッグのマスタードになりたい……かな。」
しばしの沈黙の後、ピーターが俯いて大きな溜め息を吐いた。
「スコットさんって狡い。ほんっとーに狡い。」
「何でだよ?」
狡いと言われ、スコットは不満を表すように口を尖らせる。
するとピーターが顔を上げて軽く睨んできた。その顔は微かに赤い。
「スコットさんの無自覚に人の心を掴んじゃうところって狡いんだけど好き。好きだから早く僕のことも好きになって。僕のマスタードになって!」
「何だそりゃ。」
ピーターの言葉にスコットは心からの笑い声を上げる。
もしかしたら、ピーターの気持ちに応える日が来るのは遠くないかもしれない。
そんな風に思ったことはスコットだけの秘密だ。
End