郷愁 京の都を夕日が赤く染めていく。それは明智家の屋敷も例外ではなく、美しく手入れされた庭も赤で塗り替えられている。
その明智家の屋敷はひっそりとしていた。決して無人ではない。明智家の者や屋敷の主に仕える者たちがいるので、少し耳を澄ませば敷地内のどこかから話し声も物音も聞こえてくる。
しかし、十兵衛には「ひっそりしている」と感じられた。まるで屋敷に誰もいないような気がしてしまうのだ。常に穏やかに笑い、心地の良い雰囲気を生み出してくれていた熙子が亡くなった影響が大きいのだろう。妻を亡くしてそれなりの月日が流れても喪失感は埋めようがない。十兵衛は縁側に腰を下ろして庭を眺めながら、そのようなことを思っていた。
(美濃はもっと賑やかだったような気がする。絶えず何かの音が聞こえていたような──)
そう思った途端に懐かしい音が聞こえる。それは十兵衛の頭の中だけで響く音。数多の思い出の音だ。
懐かしさに浸りながら庭を眺める十兵衛は後方に気配を感じて振り返る。そこには次女のたまが控えていた。
「たまか。どうした?」
十兵衛が声をかけると、たまは小さく笑んで隣に座した。
「父上こそ、どうされたのですか?先ほどから身動きせずにぼうっと庭を眺めていらっしゃるので、私だけでなく屋敷中の者が心配しております。お体の調子が悪いのですか?」
十兵衛は心配そうな顔をする娘に「大丈夫だ」と笑みを返す。
母の死後、たまは以前よりも父の体調を気にするようになった。母を亡くしたことにより「父には元気で長生きしてほしい」という思いが芽生えたのかもしれない。その優しさが嬉しく、気遣わせてしまうことを少しだけ申し訳なく思う。
十兵衛は座ったまま体の向きを変えて、たまと向かい合った。
「心配させてすまないな。体の方は問題ない。」
「それならば良いのですが。……もしや、お疲れでございますか?そうであれば薬湯をお持ちします。」
十兵衛は立ち上がりかけたたまを「待て、大丈夫だ!」と慌てて止める。たまが駒から教わった疲労回復の薬湯は苦味が強い。あれを飲むには勇気が必要だ。
薬湯の味を思い出した十兵衛は苦笑を滲ませながら、娘に座ったままでいるように促す。
「駒殿伝授の薬湯が必要な時は頼むから、今は父の話し相手を務めてくれ。」
「ふふっ、かしこまりました。」
たまは楽しげに微笑みながら頷いた。苦い薬湯が苦手なことはお見通しのようだ。
たまはその場に座り直すと真っ直ぐに視線を寄越す。
「では、父上が先ほどまで何を考えていらっしゃったのか教えていただきとうございます。」
「大したことは考えておらぬのだがな。……この屋敷はひっそりしていると思っていたのだ。」
その答えにたまは首を傾げた。その反応は予想通りだったので気にすることなく話を続ける。
「熙子が亡くなった影響なのか、屋敷の中が妙に静かで寂しく感じられる。岸は滅多に帰ってこられぬし、そなたも嫁ぐことが決まった。屋敷に残るのはわしと十五郎だけになるだろう?そのせいなのやもしれぬ。」
「父上……」
十兵衛の言葉を聞いたたまは少し俯いた。その姿からは悲しみと罪悪感が滲む。嫁入りの話をした時、この心優しい娘は父と幼い弟のことを真っ先に案じたのだ。
十兵衛は手を伸ばして愛娘の頭を丁寧な手つきで撫でた。突然のことにたまは目を丸くしたが、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべて父の手を受け入れている。
十兵衛は幼い頃の娘の姿を懐かしく思い出しながら語りかける。
「そなたが嫁ぐことに寂しさを感じるが、嬉しく思う気持ちは嘘ではない。信長様が良い相手を選んでくださったおかげで嫁いだ後のことは心配しておらぬ。良いか、たま。そなたが幸せになることが父の望みだ。」
十兵衛は素直な気持ちを告げてから手を離し、「ただ……」と呟くように言葉を落とした。
そして、たまから視線を外して空を見上げる。夕日の眩しさに思わず目を細めた。
「この屋敷が余りにも静かなように感じられて落ち着かぬのだ。それだけのことなのだが、そのような折に美濃を思い出した。」
「美濃、でございますか?」
「ああ。そなたには馴染みが薄いだろうが、わしにとっては唯一無二の故郷だ。なぜだか無性に懐かしく、恋しく思えてな。」
最後に美濃に帰ったのは何年前のことなのだろうか?それさえも思い出せないほど長い間、美濃の土を踏んでいない。それでも美濃で聞いた音の全てをはっきりと思い出すことができる。
山の木々が揺れて枝葉が擦れ合う音。
魚が泳ぎ回る川の水流の音。
故郷の空を渡る鳥の群れの鳴き声。
田畑での作業に汗を流す民たちの声。
嘗ては当たり前のように囲まれていた音は遠い過去のものとなってしまった。「懐かしい」と思うこと自体が故郷から遠く離れた証のようで寂しい。
そして、思い出した懐かしい音が現在の静けさを際立たせてしまう。それにより寂寥感が胸の内に溢れて心の蔵を締め付けた。
「美濃を離れて途方もなく時が経ったというのに、美濃で耳にした様々な音をはっきりと思い出すことができるのだ。音を思い出せば記憶も蘇る。そうなると、あの頃の全てが懐かしく……『戻ることができたなら』と望んでしまう。」
燻っていた願望を声に出してみると、それは急速に膨れ上がっていった。
父や母と笑い合った屋敷が、帰蝶と共に遊んだ庭が、伝吾たちと駆け回った野山が、高政と夢を語り合いながら歩いた道が──美濃の全てが恋しい。
恋しさを認めてしまえば帰りたくて仕方がなかった。緊張に満ちた世界に別れを告げて愛しき故郷に帰ること。それは十兵衛にとって何よりも魅力的なことのように思える。
美濃に帰ったら昔のように民に混じって田畑を耕し、時間が空けば野山を散策する。或いは昔を懐かしみながら茶を飲むのも楽しいだろう。ただ穏やかに、緩やかに時が流れていく日々に戻ることができたなら──。
十兵衛が己の願望に溺れかけた時、たまの凛とした声が響く。
「父上はお役目を降りて美濃に帰ることをお望みなのですか?」
その言葉を聞き、十兵衛は冷水を浴びせられたような心地がした。
ぎこちなく視線をたまの方に戻せば、真剣な眼差しに射抜かれる。
「戦続きで父上が大変疲れておられることは承知しております。それほどにお疲れなのであれば私は反対いたしません。父上は懸命に働いてこられましたもの。きっと姉上も私と同じことを仰るはずです。」
心から父を案じる娘の言葉に対して即座に返事をすることはできなかった。
疲れの原因は終わりの見えない戦だけではない。更なる高みを目指して暴走し始めた主──織田信長を命懸けで諌めること、その主に見切りをつけて離れていく者たちを繋ぎ止めること。それらも十兵衛をひどく疲弊させる。
嘗ては信長を高く評価していた松永久秀の離反を止められず、その男から託された平蜘蛛の釜を諫言と共に決死の思いで主君に差し出した結果は無残なものだった。その際に押し寄せた虚しさが十兵衛を蝕んでいる。
そして遂に、今のやり取りによって十兵衛は気づいてしまった。己も帰蝶と同じ疲れを感じているのだと。
信長は余りにも変わってしまった。その変化により物事が悪い方向に行ってしまわぬよう心を尽くしても、都合の悪い話や耳の痛い話には背を向けられてしまう。それでも諫言し続けなければならない状況に疲れを感じずにいられなかった。
何もかもを投げ捨てて美濃に帰り、平穏な暮らしを手に入れることができればどれほど良かったことか。それには全てが遅すぎた。信長を追いかけて頂の見えない山を登り続け、振り返れば己の後ろに道はない。降りることは許されなかった。
十兵衛は一瞬にして駆け抜けた感情を噛み砕き、無理やり飲み込んだ。苦さが残っていることを自覚しながらも笑みを作ってみせる。
「案ずるな。役目を放り出して美濃に帰ったりはせぬ。どうやら自分で思う以上に疲れが溜まっておるようだ。やはり薬湯を頼んでも構わぬか?」
たまは十兵衛の笑みが心からのものではないと見抜いているようで、その曇った表情が晴れることはなかった。それでも「すぐに用意いたします」とだけ返して立ち上がる。
たまは数歩歩いたところで足を止めた。振り返るような素振りを見せたものの、やはり何も言わずに去っていく。
十兵衛はその後ろ姿を見遣りながら「すまぬ」と小さく詫びて、娘に弱さを見せた自身を恥じた。きっと父への心配は嫁いでいく娘の心残りとなるだろう。
「……誠に、情けない父親だ。」
己の不甲斐なさに溜め息が漏れた。
*****
たまが薬湯を用意しに行った後、少し経ってから伝吾が姿を見せた。伝吾は十兵衛の傍らに片膝をついて一通の文を差し出してきた。
「信長様の遣いの方がお見えになり、こちらの文をお預かりしました。殿の返事を伺いたいとのことにございます。」
「うむ。」
十兵衛は文を受け取り、それを開く。文を読めば書かれてある内容に溜め息を吐きたくなった。それを堪え、文を丁寧に折りたたんで懐に入れてから伝吾に顔を向ける。
「明日の登城を求める信長様からのご命令だ。坂本に戻るのは明日の予定だったが、一日遅らせよう。そのように他の者にも伝えてくれ。」
「かしこまりました。遣いの方にはどのようにお伝えすれば?」
「明日の昼前には伺うとお伝えせよ。」
「はっ。」
伝吾は短く答えて足早に去っていった。その背中を見送りながら小さく溜め息を吐く。
美濃に帰っている場合などではない。危うさの漂う主を支えなければ、平らかな世を実現することはできない。とにかく今は全力で主を支えるだけだ。
十兵衛は再び空に視線を戻して呟く。
「……わしが美濃に帰る日は来るのだろうか?」
麒麟が訪れるような平らかな世を作りたい。武士たちを一つにまとめて争いのない世を作ることは長年の夢であり願いでもある。それを実現するための努力を怠るつもりはなく、投げ出すこともしない。いや、投げ出すことなどできない。
平らかな世になれば美濃に帰ることができるだろう。だが、「今の信長に平らかな世を作ることは可能なのだろうか?」と不安に思い始めている己がいる。
麒麟の来ない世が続くならば美濃に帰ることは叶わない。もしかしたら、再び故郷の景色を見ることはないような気がする。
そのような苦い思いが十兵衛の心を覆い尽くした。
終