道なき未知を拓く者たち⑩ ウッドベリーからの襲撃を受けた翌日、次の襲撃への備えを急ぐリックたちの前に思いがけない人物が現れた。その知らせを持ってきたのは外で見張りを行っていたキャロルだ。
監房棟内で襲撃への対策を話し合っていたリックは駆け込んできたキャロルを見て目を丸くした。そのリックに向かって彼女は叫ぶ。
「ゲートの前に車が一台停まったわ!すぐに来て!」
血相を変えて飛んできたキャロルの報告に誰もが顔を引きつらせる。刑務所を訪ねてくる者がいるとすればウッドベリーの人間しかいない。
リックは銃を手に取り、ニーガン、シェーン、ダリル、メルルを連れてゲートへ急ぐ。ゲートは昨日の襲撃時に破壊されたため仮設のものを設置してあった。人手があれば車や重機を使わずとも撤去できるほど簡易的なゲートであっても取り除かれては困る。
リックたちは周辺に敵が潜んでいないか警戒しながらゲートまで進み、車の運転席に座っている人物を見て目を瞠った。
「アンドレア?なぜ彼女がここに……?」
思わず漏れたリックの疑問に答えられる者は誰もいない。皆も困惑した様子でアンドレアを見つめていた。
そのアンドレア本人は車に群がってくるウォーカーを気にしながらも、こちらに向かって大声で呼びかけてくる。
「リック、来たのは私だけ!あなたたちと話がしたいの!だから中に入れて!」
必死に呼びかけてくるアンドレアを見つめるリックの耳にシェーンの「どうする?」と問う声が届いた。
「ざっと周辺を見てみたが、本当にアンドレアしか来てないみたいだぞ。彼女を中へ入れるか?」
「……彼女の立場は微妙なものだが、俺たちを騙すような人間じゃない。話を聞くだけ聞いてみよう。」
リックはシェーンに対してそのように返してから仮設のゲートに手を掛けて開ける準備をした。皆にはウォーカーへの対処を頼み、それからアンドレアへ顔を向ける。
「アンドレア、準備ができたら教えてくれ。すぐにゲートを開ける。」
リックの指示にアンドレアは頷き、すぐに車のエンジンを掛ける。それから間もなく「準備できた!」という声が聞こえたため、リックは躊躇うことなくゲートを開けた。ゲートが開くと同時にアンドレアの車が前進して中に入り、車が完全に刑務所の敷地内に入った時点でゲートを閉じる。
リックはアンドレアの車をグラウンド内へ誘導してから車を停めさせた。そして、車から降りた彼女に拳銃を向ける。銃口を向けられたアンドレアは目を見開いた。
「リック、どうして⁉」
取り乱しながら両手を上げるアンドレアのボディーチェックを行ったのはシェーンだ。険しい表情でアンドレアから武器を取り上げるシェーンの近くに立つニーガンも彼女に銃口を向けており、ダリルとメルルは銃を向けはしないものの厳しい眼差しをアンドレアに投げかけている。
シェーンの「武器は全部取り上げたぞ」との報告にリックは小さく頷き、改めてアンドレアを見据えた。それに対して返されるアンドレアの眼差しは困惑に満ちている。
リックは自身の中にある困惑を軽くしようと息を吐き、それからアンドレアに話しかける。
「……よく来たな。とりあえず中に案内する。」
「リック、私はみんなの仲間として──」
「話は後だ。」
リックは言い募るアンドレアを無視して建物の方に歩き出す。
アンドレアとの再会を純粋に喜び、嘗てのような仲間として接することはできなかった。アンドレアの人柄は信用しているが、彼女は敵対するコミュニティーの一員。気安くするべきではない。
リックは背後にアンドレアの気配を感じながら、笑顔のない再会に対する複雑な感情に眉を寄せた。
アンドレアを連れて監房棟に足を踏み入れると、オスカー以外の全員が驚愕を顔に浮かべた。その誰もがアンドレアに釘付けになっている。
アンドレアが仲間たちの無事な姿に感極まって目を潤ませれば、キャロルが近づいて彼女を抱きしめた。キャロルからの温かな抱擁を受けたアンドレアも抱きしめ返す。
「キャロル……!無事でよかった!」
「私、あなたが死んでしまったかと……会えて嬉しいわ、アンドレア。」
キャロルとの抱擁を終えたアンドレアは周囲を見渡して、一人ひとりの名前を呼びながら視線を合わせていく。そのアンドレアの視線がベスの腕に抱かれているジュディスに縫い止められた。ローリが産んだ赤ん坊だと察したらしく、彼女の顔に安堵の笑みが広がる。
「よかった、無事に生まれたのね。リック、あの子の名前は?」
穏やかに微笑みながら問いかけてくるアンドレアにリックは「ジュディスだ」と答えた。
「良い名前。ローリは?彼女はどこ?」
リックはローリの居場所を尋ねるアンドレアの真っ直ぐな眼差しを受け止めきれずに俯く。それにより彼女はローリの死を悟ったのだろう。「まさか、ローリは……」と震える声が響いた。
リックは喪失感に痛む胸を無視してアンドレアにローリの死を伝える。
「ローリは出産後に死んだ。長旅で体が弱っていたせいだと思う。君のことを気にしていたから、会わせてやれなくて残念だ。」
「ああ、そんな……ローリが死んだなんて。リック、本当に残念だわ。」
アンドレアはローリの死にショックを受けたらしく、肩を震わせて泣き始めた。その彼女にキャロルとマギーが寄り添う。
リックはアンドレアが泣き止むまで待ち、彼女が落ち着きを取り戻したと判断したところで質問を始める。
「アンドレア、今日は何の用事でここへ来たんだ?総督が刑務所を襲撃したことは知っているんだろう?」
そのように尋ねればアンドレアは驚いたように目を丸くした。
「攻撃されたから反撃したとしか聞いてない。本当に?フィリップが──総督がここを襲ったの?」
「そうだ。君の恋人が俺たちを銃撃してきた。それだけじゃない。車でフェンスをなぎ倒してグラウンドに大量のウォーカーを放った。本来はゲートもきちんとしたものだったんだが、奴に壊されたんだ。」
リックの言葉を聞いたアンドレアの顔が青ざめる。刑務所への襲撃のことは本当に知らなかったようだ。
アンドレアは辛そうな表情と共に自身を抱きしめる。
「ごめんなさい、それは本当に知らなかった。町にグレンとマギーがいたことも。本当にごめんなさい。……今日はあなたたちにフィリップとの話し合いを頼みに来たの。平和的に解決してほしいから。でも、そんなことが起きていたなんて……」
「話し合い?」
「リーダー同士の会談よ。リックとフィリップで話し合ってほしい。このことはフィリップにも提案してあって、彼はこれを受け入れた。だからあなたも応じて、リック。」
アンドレアはそこまで話すと胸ポケットから折りたたまれたメモ用紙を取り出した。そして、それをリックに差し出す。
「これは会談場所の地図を描いたもの。明後日の正午、刑務所から少し離れた場所にある農場に来て。」
リックは差し出されたメモ用紙を受け取って中身を確認する。刑務所から農場までの道のりが簡単に描かれてあり、その他には特に情報はない。
リックはメモ用紙から視線を上げて、緊張した様子でこちらを見るアンドレアを見つめ返した。
「俺たちの意思はダリルが伝えたはずだ。俺たちは放っておいてもらえればそれでいい。ウッドベリーとは二度と関わりたくない。だから会談には応じられない。」
リックは溜め息を吐きたい気持ちを堪えながら回答した。
仕掛けてきたのはウッドベリーであり、「これ以上は関わる気がないので放っておいてほしい」とも伝えた。それなのに会談を持ちかけてくるだなんて、一体どういうつもりなのだろうか?
しかし、リックの回答をアンドレアは受け入れない。焦った様子で「リック、お願い」と言い募る。
「リックたちが町に侵入した時にこちらの人間が何人も死んだわ。だから示しを付けるためにもリーダー同士の話し合いが必要なの。そうしないと事態は収まらない。」
アンドレアの言葉により仲間たちの怒りが膨れ上がった。「これは不味い」と感じたリックが口を開くよりも先にグレンがアンドレアに対して怒りをぶつける。
「冗談じゃない。そっちが俺とマギーを誘拐したからリックたちが救出のために侵入しなきゃならなくなったんだ。問題の原因はウッドベリー側にある。」
グレンに続き、マギーも険しい表情で意見を述べる。
「昨日の襲撃で私たちも仲間を失った。良い人だったわ。付き合いが短くても大切な仲間だった。そっちだけ被害を受けたような言い方はやめて。」
他の者たちも二人に同意するように頷いた。アクセルが死んで日が浅いため、誰もが彼の死から立ち直ることができていない。それだけにアンドレアの言葉は皆を怒らせたのだ。
仲間たちの怒りを感じ取ったアンドレアは「ごめんなさい」と項垂れた。だが、彼女はすぐに顔を上げて必死に訴える。
「私はどちらにもこれ以上の犠牲を出してほしくない。そのためには会談が必要よ。話し合って和解しなければ戦いは避けられない。戦いに突入したら今以上に犠牲者が増えてしまう。だから、お願い。」
アンドレアの必死の訴えに対して誰も何も答えなかった。難しい顔で考え込んでいる。
アンドレアは仲間から反応が返ってこないことに悔しそうに唇を噛み、次はリックに顔を向けた。
「リック、町では『人殺し』のあなたたちを殺すために戦争の準備を始めた。今度は町全体が相手なのよ。勝ち目はない。みんなを守るために会談に応じて。」
リックは即座に返事することができなかった。
ウッドベリーとの関わりは望まないが、あちらが町全体を巻き込んで戦争を起こすつもりでいる以上は無視できない。戦いが避けられない場合に備えて敵のリーダーの人となりを知っておくことも悪くないだろう。可能ならば落としどころを見つけて相互不干渉の約束を取り付けたいところではあるが。
しかし、先日のような襲撃を仕掛けてくる人間が会談をする気になるだろうか?アンドレアには会談に応じると答えておいて、本当はこちらを罠に嵌めるつもりなのではないか?それが気がかりだ。
リックはアンドレアに鋭い眼差しを向けて問う。
「アンドレア、総督は会談に応じると言ったんだな?それは確かなんだな?」
その問いに対してアンドレアは深く頷いた。
「ええ、『刑務所側のリーダーと話をする』と言ってくれた。」
「そうか。……わかった、明後日の正午だな。総督に会って話をしてみよう。」
リックがそのように告げると、皆が驚いたように「リック!」と呼んだ。リックは仲間たちの顔を見回しながら自分の考えを述べる。
「成功する可能性が低いとしても総督と交渉してみようと思う。戦わずに済むならそれが一番だ。戦争になるとしても向こうの情報が欲しいしな。」
リックは皆に向けてそのように話してから、もう一度アンドレアを見る。
「当日は俺以外にも数人を連れて行く。君には悪いが、総督を信用できない。それは承知しておいてくれ。」
「わかった。彼にも伝える。」
「……もう話すことはない。暗くなる前に町へ帰れ。」
リックはアンドレアから視線を外しながら帰宅を促し、監房棟の出入り口へ向かって歩き出す。
嘗ては助け合った仲間であっても今は敵対する者同士。余計な情をかければ戦いになった時に辛い思いをする。長く一緒に過ごすのは互いのためにならない。
リックの素っ気ない態度にアンドレアが悲しげに俯く姿が視界の端に映ったが、リックは敢えてそれを無視して外へ続く扉を開けた。
リックはアンドレアの見送りについてはニーガンとシェーンにだけ同行を許した。彼女を追跡してきたウッドベリー側の人間がいる可能性を捨てきれなかったというのもあるが、見送りをすれば離れ難くなるからだ。だから見送りの人数は少ないほうが良い。
アンドレアがシートベルトを締め終わったタイミングでリックは車に近づいた。
「アンドレア、君が俺たちを心配して動いてくれたことは理解しているし、感謝もしている。だが、俺たちは敵対するコミュニティー同士の人間だ。俺たちへの情は君を苦しめる。町へ戻ったら俺たちのことは忘れろ。いいな?」
その言葉にアンドレアは目を見開き、続けて悲しそうに顔を歪めて頭を振った。
「そんなこと言わないで。みんなは今でも私の大切な仲間なのよ。」
「それでもだ。それが君のためだ。」
リックがアンドレアの目を真っ直ぐに見つめながら言うと、彼女は拒むように目を伏せる。それを見てリックは車から一歩遠ざかった。これ以上言葉を重ねても彼女を苦しめるだけだ。
リックと入れ替わりに今度はニーガンが車に近づき、「アンドレア、聞け」と話しかける。
「今回の行動で、総督は君が俺たちに情があると判断して警戒するはずだ。戻ったら監視されてると思って行動しろ。下手な動きを見せれば殺される。」
「ニーガン……」
「いいか、総督って野郎は君が考えるよりもかなり危険な男だ。それを忘れるな。」
アンドレアは顔を強張らせたまま頷くこともできずにニーガンを凝視している。その目に宿るのは迷いだ。恋人を信じたい気持ちと、仲間からの忠告に心が揺れている。
リックは後ろを振り返り、シェーンに向かって小さく頷いた。それを受けてシェーンがゲートの方へ走っていく。
リックはニーガンと共にゲートから少し離れたフェンスの前に移動して、大声を上げたりフェンスを揺らして音を立ててウォーカーを引き寄せる。それによりゲート周辺のウォーカーの数が減り、その隙にシェーンがゲートを開けてアンドレアの車を外に出した。
リックはゲートが閉まる音を耳にしながら、アンドレアの運転する車が遠ざかっていく様子を見守る。
次にアンドレアと会うのは仲間としてではなく対立する者同士としてだろう。数奇な運命により大切な仲間と対立しなければならなくなったことがひどく悲しかった。
*****
会談の当日。刑務所が襲撃を受けた際の備えを十分に進めたリックたちは必要最低限の武器を車に載せて、会談場所である農場へ行くための準備を整えた。そろそろ出発の時間だ。
リックは愛用の拳銃を取り出して装填されている弾薬の数を確かめる。上限いっぱいに弾は込めた。予備も携帯しているので、もし戦いになったとしても対応可能だ。何も問題はないはず。
リックは軽く息を吐いてから拳銃をホルスターに収めて「そろそろ車に乗ろう」と体の向きを変えた。振り向いた先にはニーガンがいた。こちらを真っ直ぐに見つめる彼は何か言いたげだ。
ニーガンが自分に言いたいことを察したリックは苦笑いを浮かべて彼に近づいていく。
「ニーガン、その顔はやめろ。」
苦笑混じりに言えばニーガンも苦笑して肩を竦める。
「顔の良さは生まれつきだから変えようがない。」
「そういう意味じゃない。──俺も会談に同行したいって顔。それをやめてくれ、と頼んでるんだ。」
リックがニーガンの目の前で足を止めると、ニーガンが珍しく困ったように眉を下げた。彼が困った顔をするのはなかなかに珍しい。
ニーガンは溜め息を落としながら革ジャケットのポケットに両手を突っ込む。
「奴らが罠を仕掛けてる可能性はゼロじゃない。そんな場所にお前を行かせて、俺は刑務所に残る。それが嫌なんだ。どうして俺を置いていく?いつも一緒だったろ、俺たち。」
「理由なら説明したはずだ。ディクソン兄弟を揃って置いていくのも会談に同行させるのも難しい。だからダリルを同行させてメルルを残す。メルルが何か問題を起こした時、大柄な彼に対抗できるのはニーガンだから残ってもらう、と。」
「それは理解できるが、それでも俺は待ってるだけなんて嫌だね。」
「そんなに俺が心配か?」
「ああ、心配だ。」
一瞬の間も置かずに返ってきた答えにリックは目を瞠る。その反応を受けたニーガンがリックから目を逸らして溜め息を吐いた。いつも自信たっぷりな彼らしくない憂い顔からリックは目を離せない。
「リック、お前のことは信用してる。きつい状況に対応する姿を見てきたし、交渉だって問題なくできるだろうさ。だが、総督は今まで相手にしてきた連中とはレベルが違う。厄介すぎる相手だ。──お前を失いたくない。」
最後の一言を告げる時、ニーガンの声が微かに掠れた。そして今までに見たことがないほどに苦悩を顔に滲ませる。
リックも総督との会談の危険性は承知している。ウッドベリーという町の運営に隠された秘密、グレンとマギーへの仕打ち、そして先日の襲撃などから見えてくるのは総督という人物の狡猾さだ。実際に会ったことがなくとも非常に狡猾な人間だということがわかる。そんな相手との会談であれば罠が仕掛けられている可能性を疑うのは当然のことであり、ニーガンがリックを心配して同行したがるのも無理はない。
しかし、リックはこれが最善なのだと心の底から思っている。
「ニーガン、俺の目を見てくれ。」
リックがそのように頼むと、ニーガンが視線をこちらに戻した。
「危険だというのはわかってるが俺は行かなきゃならない。そして、あんたを連れて行く気はない。だが、それはあんたを危険な場所に連れて行きたくないという意味じゃない。ニーガンには刑務所に残るみんなを守って、会談に行った俺たちが帰る場所を守ってほしい。だから連れて行かない。」
そのように告げればニーガンの目が驚きに見開かれた。リックはその目を見つめながら思いを紡ぎ続ける。
「総督が罠を仕掛けて待ち構えている可能性はある。それと同じくらいに刑務所への襲撃の可能性も考えられる。もし俺たちが無事だったとしても、ここが壊滅したら……残ったみんなが死んだら、何の意味もない。ここに残るあんたが俺たちを心配するように、俺は俺たちの帰りを待つみんなのことを心配しているんだ。」
「……そうだな。確かに、お前だって俺たちを心配するよな。」
リックは納得したように頷くニーガンに近づいて彼の胸に手を置いた。
そして、間近で顔を見上げながら心を込めて告げる。
「ニーガンなら何が起きてもみんなと刑務所を守ってくれると信じてる。だから俺のことも信じてほしい。俺は何があっても必ず帰ってくる。ニーガンのところに帰ってくるから。」
リックが「お願いだ」と言うと、ニーガンの顔に微笑が浮かんだ。
ニーガンは微笑んだままポケットから両手を出してリックの頬を包む。それと同時に額同士が触れ合わされたので、リックは思わず笑みを零した。
「そこまで言われちゃ仕方ない。信じてやるよ。で、お前が帰る場所を絶対に守る。だから無事に帰ってこい。」
「ああ、必ず帰る。」
約束を交わし、ニーガンがリックから手を離して一歩後ろに下がった。
ニーガンの顔に憂いはない。そこには普段と変わらない自信に満ちた笑みがあった。その笑みがリックの背中を押してくれる。
「行け、リック。」
それは力強い声だった。それに対してリックはしっかりと頷き、ニーガンの横を通って車へ向かう。
共に会談場所に向かう仲間たちが待つ車に歩いていく最中、リックは背中に視線を感じた。それがニーガンのものなのだということは振り返らずともわかる。
後ろは向かない。前だけを見て進む。会談を終えたら、真っ直ぐに前を見てニーガンのところへ帰るのだから。
*****
リックたちが会談を行う場所として指定された農場に到着した時、見える範囲に相手の車はなかった。
リックは車を降りる前に上着のポケットに地図が入っていることを確認する。交渉の時に使うために持ってきたものだ。その確認が済んだ後、周囲を警戒しながら車を降りる。
リックに同行したのはシェーン、ハーシェル、ダリルの三人。リックはハーシェルを車に残して他の二人と共に農場の周辺を見回る。罠が仕掛けられていないか確認するためだ。
人の手が入らずに寂れてしまった農場の中を拳銃を構えながら進んでいくと、地面に一体のウォーカーが転がっているのを見つけた。そのウォーカーは頭部を銃で撃ち抜かれており、まだ傷口の血が乾いていなかった。血が乾いていないということはウォーカーが倒されてから三十分も経っていないはず。どこかにウッドベリー側の者が潜んでいる可能性が出てきた。
緊張感の増したリックたちが更に先へ進めば、いくつかの小屋が現れた。リックはシェーンとダリルに視線を送り、少し離れた場所に建つ小屋を指差して「向こうの小屋を探れ」と無言で指示を出す。それに対して二人も無言で頷いてから散っていった。
仲間たちが小屋に入る姿を見届けたリックは近くにある小屋の扉を慎重に開けて中に体を滑り込ませる。小屋の中は明かり取り用の窓のおかげで予想していたよりも明るかった。その反面、日差しの届かない範囲が暗い。
農業用の器具や備品が保管されている中で異彩を放つのが中央に置かれたテーブルと椅子だ。椅子は二脚あり、テーブルを挟んで向かい合うように設置されている。まるで今回の会談のために用意されたようだ。
リックが訝しみながらテーブルと椅子に近づいていくと、暗闇の中で何者かが動く気配がした。リックは瞬時に銃口を人影に向ける。
姿を現したのは長身で右目に眼帯を着けた男だった。男はリックから視線を外さないまま両手を上げて笑う。その笑みの白々しさに不快感を覚える。
少しの間、リックは無言で男と視線を交わらせていたが、やがて男の方が顔を逸らして両手を下ろした。男は小さく笑みを零すと再び顔をこちらに向けて悠然と微笑む。
「じっくり話そう。」
この男が総督だ。
そのように思っただけでリックの掌に汗がじわりと滲んだ。
少し言葉を交わしただけで、総督が予想以上に厄介な相手だということをリックは嫌というほど実感する。
現れた総督に対して「先にそちらが自分たちを攻撃してきた」と牽制すると、彼は「皆殺しにすることもできたが、そうしなかった」と涼し気な顔で返してきた。他人の命を己の手で握ることについての重みも責任も感じられない男にリックは強い不快感を抱く。
リックが不快感と警戒心を隠さず睨みつけた時、総督は「互いに武器を外して落ち着いて話をしよう」と提案し、己の腰に下げている拳銃をホルスターごと取り外した。見せつけるように拳銃をこちらに向けて掲げてからそれを柱に掛けて、流れるような動作で椅子に座る。
その次にはリックに向かって「ほら、座れ」と促してきた。その態度からは余裕が漂う。あくまでも主導権は自分にあると主張したいのだろう。
リックは笑みを浮かべる男を睨みつつも拳銃をホルスターに戻した。だが、総督の勧めには従わず、椅子には座らなかった。「お前に主導権を渡すつもりはない」という意思表示のためだ。
目の前の男に対して油断は禁物だ、とリックは警戒心を強める。総督は他人を自分のペースに巻き込むのが得意なようだ。少しでも気を抜けば主導権を握られて相手の思うように話が進んでしまうだろう。保安官として多くの人間と接してきた経験があり、会話の主導権を握ることに慣れているリックであっても総督は非常に厄介な相手だった。
リックが総督と睨み合っているところへアンドレアが現れる。彼女は微かに怒気を漂わせながら総督に鋭い眼差しを向けた。
「何をしてるの?」
アンドレアの問いに総督は「何も」と短く答えた。その答えに彼女は不満げな様子で男を軽く睨んだ。
リックは視線を総督からアンドレアに移す。
「この男は先に来ていたようだ。それより、そっちは本当に話をする気があるのか?」
リックの言葉にアンドレアは「もちろん」と力強く頷き、テーブルに両手をついて話し始める。
「二人ともわかってるだろうけど、戦いになったら大勢が死ぬ。それを黙って受け入れる理由なんてない。きちんと話し合えば平和に問題を解決することができる。そのための会談よ。」
「そんなに簡単な話じゃない。俺はこの男がグレンとマギーにしたことを知ってる。とりあえず来てみたが、どうにも信用する気になれない。」
リックがはっきりと告げれば、総督がおどけたように肩を竦める。
「お前の仲間の件についてはメルルのしたことだ。」
「違う。あんたはメルルのしたことを全て知ってるし、関わってもいる。俺はそのことを知ってるぞ。」
責任から逃れようとする総督の発言にリックは反論した。それに対して当の本人は一瞬だけ煩わしげに眉根を寄せる。
「俺やお前が互いについて何を知ってるかなんて今はどうでもいい。俺たちは前へ進むためにここに居るはずだ。そうだろう、リック。」
そのように言って笑う総督を前にして、リックは口を閉じるしかなかった。
総督は自分たちがグレンとマギーを誘拐して暴力を奮い、殺そうとしたことなどどうでもいいのだ。それについて謝罪する気もなければ弁明する気もない。本当にどうでもいいと思っている。そのような相手にこれ以上食い下がっても無駄だろう。
リックがそう判断した時、アンドレアが気を取り直したように口を開く。
「私は今の世界になってからあなたたちに出会った。二人とも仲間を守ってきた素晴らしい人たちだと思ってる。そんな二人が争う理由なんてない。そうでしょ?」
アンドレアは熱弁を奮うが、総督はそれには興味がないようだ。必死に二人を説得しようとする彼女には目も暮れず、リックが持参した地図に視線を向けて「それを寄越せ」と言った。
リックは総督の言葉に従って地図を差し出す。その地図には川を境界線と定めて線が引いてあった。
「川の西側はウッドベリーの領域で、東側は俺たちの領域だ。互いに境界線を越えず、絶対に関わらない。これなら問題ないはずだ。」
リックの説明を聞いたアンドレアが納得したように頷く。
「彼の言う通り。境界線を決めて互いに干渉しないようにすれば──」
「これは何だ?」
総督はアンドレアの言葉を遮り、地図から視線を上げて訝しげに問いかけてきた。その問いにアンドレアが「解決策よ」と答える。
しかし、それを聞いた総督は失笑と共に地図をテーブルの上に放り出した。
「有り得ない。」
たった一言で解決策を蹴った男にリックだけでなくアンドレアも顔を強張らせる。
リックは腹の底から込み上げる怒りのままに、アンドレアに向かって「どういうことだ!」と声を荒らげた。
「この男が話をすることに応じたと聞いたから俺はここに来たんだぞ?君はどんな話をしたんだ⁉」
リックから怒りをぶつけられたアンドレアが言葉に詰まると、緊迫した状況には不似合いな微笑を浮かべる総督が片手を軽く上げた。
「刑務所側のリーダーと話をするとは言ったが、交渉するだなんて一言も言ってない。そもそも彼女は交渉や条件を決める立場にない。リック、俺が来たのはお前たちを降伏させるためだ。」
総督から返された答えに、リックは指先まで怒りが流れ込んでいくような気がした。
チラリと視線を移せばアンドレアの青ざめた横顔が目に映る。彼女は総督の言葉に大きなショックを受けていた。総督が先ほど言ったようなことを考えていたとは想像もしていなかったのだろう。
総督はアンドレアを利用してリックとの会談の場を用意させたのだ。その目的が降伏だけとは思えない。遠回りなことをしてまでリックとの会談を望んだのは彼にとって利益になる何かを引き出したいからだ。
リックは笑みを浮かべたままの男を睨みつけながら口を開く。
「ウッドベリーに乗り込んだ俺たちが簡単に降伏するなんて思っていないはずだ。違うか?」
リックがそのように問うと、総督は小さく笑って「その通り」と一つ手を叩いた。そして、視線をリックからアンドレアに移して彼女に声をかける。
「君は外に出てくれ。リックと二人で話したい。」
その言葉はアンドレアにとって思いがけないものだったらしく、零れ落ちそうなほどに目を大きく見開いて総督を見つめる。彼女はすぐに衝撃から立ち直ると首を横に振って「嫌よ」と拒否した。
会談を企画して、その実現のために奔走したアンドレアが会談の場に立ち会いたいと望む気持ちは理解できる。総督から「交渉や条件を決める立場にない」と言われたことにショックを受けていたようなので、重要な決定が行われる場にいたいという意地も感じる。
しかし、総督は彼女の前では真の狙いを話そうとしない。仲間たちを置いて自分だけ先に来たのもリックと二人だけで話すためだったのかもしれない。それならば彼女には外に出てもらう必要がある。
リックはアンドレアに申し訳なく思いながらも「外に出てくれ」と告げた。
「リック!私は──」
「俺は彼と話をするために来た。頼む、アンドレア。」
縋るような眼差しを向けてきたアンドレアの言葉を遮って退出を促せば、彼女は悲しそうに俯いた。
そして、アンドレアは何も言わずに扉の方へ歩いていく。肩を落として歩く後ろ姿に胸が痛んだ。
リックはアンドレアが小屋の外に出たのを見届けてから総督に視線を戻した。相手から視線を逸らさずに椅子に座ると扉の閉まる音が耳に届く。総督の仲間が扉を閉めたらしい。
リックが皮肉混じりに「総督、だそうだな」と投げかけた言葉に男が苦笑いを浮かべる。
「俺が名乗ったわけじゃない。周りが勝手にそう呼ぶ。」
「だが、あんたは住人たちを守っている。」
「そうだ。」
一つ頷いて答えた総督にリックは鋭い眼差しを向けた。
「人々を守って総督と呼ばれることを受け入れているなら、あんたには彼らに対する責任がある。」
リーダーとして人々を導くのであれば、己が導く人々を守る責任だけでなく人々の行動に対する責任も負うことになる。人々の上に立って指揮を執るというのはそういうことだ。総督にはそれを理解していてもらわなければ困る。
リックはメルルがグレンとマギーを誘拐した件について総督の責任を問いただすために話を切り出す。
「ディクソン兄弟が俺たちのところに来たのは知ってるな?」
「ああ、もちろん。ダリルはお前たちに肩入れしていたからな。メルルはもう少し現実的な奴だと思っていたんだが、俺の見込み違いだったらしい。」
そのように話す総督からは怒りも悔しさも感じられなかった。部下に裏切られたことを何とも思っていないように見える。
ダリルは総督との関わりが多くなかったそうだが、ミショーンの話ではメルルは総督の腹心の部下と呼べる存在だったらしい。メルルは他の部下への指揮を任せられるほどに総督からの信頼が厚かったと聞いた。だが、総督の口振りからはメルルに対する特別な思い入れは感じられない。
リックは総督の態度を訝しみながら質問を重ねる。
「話に聞いただけだが、メルルはあんたの右腕だったんだろう?」
その質問に総督は「ああ、頼りにしていた」とあっさり首を縦に振った。その姿からも、やはり思い入れは感じられない。
リックは総督に対する違和感を拭えないまま問いかける。
「だが、あんたは彼が厄介な男だと知っていた。暴力的な一面があるとな。それを利用して、グレンとマギーの誘拐をメルルの責任にしたんじゃないか?」
「お前の言う通り、あいつが厄介な人間だということは理解していたよ。理解した上で奴を使ってた。お前の仲間の誘拐についてはメルルが出先でやったことだ。事後報告さ。事態を収めようとした時にお前たちが襲撃してきたんだ。」
「つまり、全てメルルの責任だと言いたいのか?」
リックは眉間に寄るしわが深くなったことを自覚した。
総督はメルルに全ての責任を押し付けようとしている。言外に「メルルが勝手にやったことだから自分に非はない」と言っているのだ。リーダーとしての責任を放棄しようとする男に不快感が込み上げる。
リックに睨まれた総督は口元に微笑を浮かべながら言い放つ。
「あいつは代わりのきく人間だが、役に立つ。汚れ仕事をやってくれた。」
仲間であった人間に対する余りにもひどい言い方に怒りが込み上げる。
しかし、冷静さを失うわけにはいかない。リックは喉元まで上がってきた怒りをどうにか飲み込んだ。
「手を汚したのがあんた自身じゃなくても彼はあんたの部下だった。彼の行いの責任はあんたにもある。」
リックがそのように告げると総督は無表情でこちらを見つめてきた。何の感情も感じられない目が不気味だが、視線を逸らさずに睨み返す。
やがて、総督は小さく笑って肩を竦めた。その笑みには呆れが滲む。
「お前の職業を当ててやろう。警察官か、そうじゃなきゃ弁護士だ。違うか?」
「教える義理はないな。どちらにしろ、総督気取りじゃないことは確かだ。」
総督から投げられた皮肉に対してリックも皮肉を言えば「俺はただのリーダーだ」と返された。
自分の責任から逃れようとする人間のどこがリーダーだ、という反発心がリックの中に芽生えた。その反発心をリックは素直に口にする。
「違うな。あんたは俺たちの住処を襲撃したイカれ野郎でしかない。」
リックの反発に対して総督は少し黙り込んだ後、微かに嘲笑を浮かべながらこちらを真っ直ぐに見た。
「リーダーの在り方についてご立派な意見を持ってるようだが、お前は判断を誤ったことはないのか?ただの一度も?」
その質問への答えを返すことはできなかった。
判断を誤ったことが一度もないとは言えない。その結果、今までに何人もの仲間を失ってきたのだから。
総督の言葉によって思考の淵に沈みそうになったリックだったが、咄嗟に膝の上で拳を握り、目の前の問題に意識を戻す。
(だめだ。気をしっかり持て。目の前のことに集中しないと相手に流される)
リックが気持ちを立て直した時、総督がリズミカルにテーブルを叩いた。男の唐突な行動にリックは目を瞬かせる。
総督は驚くリックを見つめ返しながら笑った。
「ウィスキーを持ってきた。そいつを飲みながら話そう。」
総督はそのように告げて席を立つ。まるでリックが意識を切り替えたのを察したかのようなタイミングだ。その行動は相手に流れを掴ませないための対策のように思える。
リックは敵の動きを目で追いながら、この会談の難しさを改めて実感していた。
緊迫した会談の場において乾杯は不要だ。持参したウィスキーを美味しそうに飲む総督とは対照的に、リックはウィスキーの注がれたグラスをテーブルの上に置いたままでいる。
リックは斜め前に座る総督を見つめながら沈黙を貫く。総督が椅子を移動させて斜め前に座ったことにより二人の距離が近くなった。その距離の近さは不快だったが、移動しようとは思わない。怯えていると受け取られるのは嫌だった。
総督はグラスを手にしたまま話し始める。
「俺もお前も仲間の死は見過ごせない。リーダーという観点から見れば、この戦いは失敗だからな。統率力に影響する。」
「それなら俺たちに構わなければいい。そちらから仕掛けてきたんだから、あんたらが俺たちに関わるのをやめれば戦いは終わる。」
「そうはいかない。問題はもっと大きくなってる。お前たちは町に侵入して大通りで発砲した。お前たちは俺たちにとってとんでもない脅威だ。それを放置すれば俺は弱い人間だと見做されて、リーダーとしての信用が崩れる。」
「それはあんたの問題だ。こうなることを選んだのもあんただろう。」
「いや、俺だけの問題じゃない。だからお前も選択するためにここに来た。」
総督はウィスキーを一口飲むと口角を微かに上げる。その笑みの冷たさにリックは背筋が寒くなった。
「もし俺が戦って全てを破壊することを選んだら、俺たちは刑務所の人間を皆殺しにする。お前が愛し、お前を愛する仲間たちをな。」
笑みと同様に総督の目もひどく冷たかった。誰かの命を奪うことに何も感じていない人間の目だ。この男は決断すれば刑務所側の者たちを躊躇いなく殺すだろう。
リックの頬を冷や汗が伝い落ちた時、総督が「そういえば」と話し始めた。
「お前には生まれたばかりの赤ん坊がいるんだって?その母親は出産して間もなく亡くなったとか。」
総督からローリとジュディスの話を切り出されて、リックは顔が引きつるのを感じた。敵の口から彼女たちの名前が出てくるとは予想もしていなかったのだ。
リックが動揺したまま総督を睨むと感情の読めない笑みが返される。
「アンドレアから聞いた。妻を亡くしたばかりなのにリーダーとして働かなきゃならないなんてな。……俺の妻は俺が仕事をしてる最中に死んだよ。」
思いがけない打ち明け話にリックは目を瞠る。目の前の敵に家族がいる可能性も、その家族に先立たれている可能性にも全く思い至らなかったのだ。
「この話をこれ以上聞くべきではない」と心で思っていてもリックの体は凍りついたように動いてくれなかった。そのリックの視線の先では総督が過去に思いを馳せるように視線を遠くへ向ける。
「年齢もIQも俺より下の上司の仕事を片付けていた時に電話がかかってきた。妻が交通事故に遭ったという知らせだ。『本当に残念です、ブレイクさん。我々も最善を尽くしたんです』と言われたよ。電話を切った後、彼女に二度と会えないんだと悟った。」
総督はそこまで話してから「死んだんだ」と言って指を鳴らした。
「あれは事故だった。誰も悪くない。」
そのように話しながらも総督の顔にはやり切れなさが滲んでるように見えた。
なぜ妻が死ななければならなかったのだろう?
なぜ自分は妻に二度と会えないのだろう?
全てを理解して受け入れたつもりでいても、消化しきれない感情が未だに男の心の底で澱んでいる。リックにはそのように思えた。
そして、その感情はリックの中にもある。ローリの死について割り切れない何かが心の奥底に眠っていることは自身が一番よく理解していた。だからこそ、目の前の男に同情してしまいそうで恐ろしい。それが嫌で、リックは総督から視線を外した。
総督はリックに構うことなく独り言のように過去について語り続ける。
「妻は事故の前に俺の携帯電話に『後でかけ直して』とメッセージを残していたんだが、その機会は永遠に失われてしまった。椅子に座って、携帯電話を握りしめながら考えたよ。彼女は何をしたかったのか、とね。声が聞きたかっただけなのか、夕食の買い物を頼みたかったのか。──彼女は何をしたかったんだろうな?」
最後の問いは総督自身に向けられたものともリックに向けられたものとも判断がつかなかった。いずれにしろ、リックには答えられない。
リックは苦い感情を洗い流したくて近くにあるグラスに手を伸ばした。そして、水や湯で薄められずに原液のままのウィスキーを喉に流し込んでいく。
その様子を総督が探るような目付きで観察していることにリックは気づかなかった。
*****
緊張感の漂う刑務所ではちょっとした問題が発生していた。皆が刑務所の防衛強化の作業を進める中、メルルが「今から総督を襲撃すべきだ」と言い始めたのだ。
ニーガンが「面倒なことになった」と溜め息を吐く視線の先ではメルルが皆の説得を試みている。
「どうせ話し合いなんて上手くいきっこない。あいつらは殺される。そうなる前にこっちから出向いてやればいい。殺られる前に殺るんだ。」
その提案にミショーンが顔をしかめた。
「リックは私たちに刑務所で待つように言ってたし、それを受け入れたのはあんたも同じでしょ?」
メルルはミショーンに視線を返しながら「気が変わった」と答えた。そして、忌々しげに顔を歪めながら思いを吐き出す。
「弟が危ない状況だってのに、こんなところで大人しく待ってられるわけないだろ。見殺しになんてできない。」
ニーガンは兄としての顔を覗かせるメルルに僅かな驚きと好感を抱いた。彼は意外にも弟思いで根性もある。
しかし、メルルに対する印象を変化させたのはニーガンだけのようだ。他の者たちは渋い表情で彼を見ている。
事態を収拾するためにニーガンが口を開こうとしたが、それよりも先にグレンが「だめだ」とメルルの提案を却下した。
「俺たちが総督を襲撃したらリックたちが人質にされるか殺されるかのどっちかだ。下手なことはすべきじゃない。勝手に動くなよ。」
グレンはそれだけを一方的に告げてから工具を持って監房棟の外に出ていった。他の者たちも話は終わったとばかりに自分の仕事に戻っていく。不満げな表情のメルルだけがその場に取り残された。
ニーガンはメルルをこのまま放置するのは得策ではないと判断し、苦い顔で立ち尽くす男に近づいて「おい」と声をかけた。
「少し付き合え。話がある。」
メルルは訝しげにこちらを見たが、ニーガンはそれには構わずさっさと歩き出した。
外で見張りをしながら話すのが良いだろう、と外へ続く扉に手を掛けたところで振り返る。メルルはのろのろと歩いており、ニーガンとの距離はまだ離れていた。その顔には「小言かよ、面倒くせぇ」と書かれている。
歩みが遅いことに焦れたニーガンは男をジロリと睨んだ。
「歩くのが遅い。説教するわけじゃないから早く来い。」
そのように急かせば、メルルは嫌そうに顔をしかめながらも歩幅を大きくした。ニーガンはそれを見遣ってから扉を開けて監房棟の外へ出る。
外へ出ると、監房棟側とグラウンドを隔てるフェンスの前まで移動して、そこから刑務所周辺へ視線を向けた。今のところ怪しいものは見えない。刑務所周辺へ視線を巡らせるニーガンの隣にメルルが隣に並んだ。
メルルはジーンズのポケットから煙草を取り出して口に咥えた。それを見たニーガンは彼に向かって手を差し出す。その手を見てメルルが目を丸くした。
「何だよ?寄越せってのか?」
「俺も久しぶりに吸いたくなった。寄越せ。減るもんじゃないからいいだろ。」
「ふざけんな、減るだろうが。……仕方ねーな。」
メルルは呆れたように言いながらも楽しそうに笑った。その皮肉混じりではない笑みに釣られてニーガンの唇も緩く弧を描く。
ニーガンが差し出された煙草を受け取って口に咥えると、すぐさまライターの火が差し出された。ニーガンが目線だけをメルルに向ければ面白がるような眼差しが返される。煙草の先端から微かに煙が立ち上ると同時にライターが離れていき、メルルは自分の煙草に火を着けてからそれをしまい込んだ。
ニーガンはその動作を見届けて、煙を燻らせながら話を切り出す。
「さて、総督を襲撃する件について話そうじゃないか。弟が心配なのは理解できるが、今は大人しく待つのがお前の仕事だ。下手に奴らのところに突っ込んだら俺たち全員が死ぬぞ。お前一人で勝手に自滅するなら放っておくが、これは他の奴らも巻き込む。もし勝手に動くならお前の両脚を折ってでも止めるから、そのつもりでいろよ。」
正直なところを言えば出会ったばかりのメルルに特別な思い入れはないので、彼が単独行動によって一人で勝手に死ぬのなら「お好きにどうぞ」という気持ちでいる。いい歳をした大人なのだから己の行動の責任は自身にあると理解しているはずだ。
しかし、総督を襲撃すればメルル一人の問題では済まない。その計画の実行は刑務所側の人間全員に影響する。だから放置せずに「刑務所に留まれ」と忠告し、もし単独で動こうとするならば手荒なことをしてでも止める。
ニーガンはそれ以上は何も言わずにメルルの返事を待った。だが、メルルからは「わかった」という言葉も頷くという無言の返事もない。メルルの顔は正面に向けられたままだ。
「理解したなら返事がなくてもいいか」とニーガンが考えていた時、メルルはゆっくりと煙を吐き出した後にニーガンを見た。そして、彼の目が何かを探るように細められる。
「ニーガン、あんたはリックの野郎が心配じゃないのか?俺があいつに触った時は噛みつきそうな勢いだったぞ。大事な大事なリックを敵の目の前に放り出して平気でいられるのか?」
その問いかけにニーガンは思わず眉間にしわを寄せる。
(余計なことを言いやがって……)
舌打ちでもしたい気分だが、余裕のなさを露呈するような気がする。それは嫌だったので舌打ちを堪えた。
ニーガンはメルルを横目で睨みながら「心配に決まってるだろ」と答えた。
「今すぐにでも行ってやりたいさ。だが、何があっても帰ってくると約束されたら信じて待つしかないだろ。だから俺はここでリックを待つ。」
ニーガンの答えを聞いたメルルが目を丸くした。ニーガンが返した答えは彼にとって意外なものだったのかもしれない。
メルルの顔に浮かんだ驚愕は一瞬にして消え失せて、今度は興味深そうな眼差しを送ってくる。
「たぶん、あんたが考えてる以上に総督は危険な男だぜ。それでも待つのか?」
「お前たちやミショーン、それからアンドレアの話を聞いて、総督が想像以上にぶっ飛んでそうな奴だとは思った。それでもリックは簡単にやられるような弱っちい奴じゃないことを俺は知ってる。だから待つ。それに──」
ニーガンはそこで言葉を切り、煙を吐き出してから言葉の続きを紡ぐ。
「総督には何か狙いがある。奴が会談に応じたのはそのためだと思ってる。」
「狙い?」
ニーガンは訝しげなメルルに頷いてみせた。
「もし俺たちを殺すつもりなら、わざわざ誘き出して殺すなんて手間はかけない。この前の襲撃で全滅させた方が楽だ。そうしないのは今は俺たちを生かしておく必要があるってことだ。だからお前の心配は外れるさ。まあ、いずれは殺しに来るだろうが。」
「……なるほどねぇ。」
メルルは苦笑しながらも納得したように何度も頷いた。
「あんたがそこまで言うなら大人しく待機しておくぜ。脚は大事だしな。」
そのように言ってニヤリと笑うメルルにニーガンも同じような笑みを返す。
その後しばらくは互いに黙って煙草を楽しんでいたが、不意に「おい、ニーガン」と話しかけられた。
「どうしてあんたじゃなくてリックがリーダーをやってる?どう考えてもあんたはトップ向きだろ。」
ニーガンは「意外な質問だ」と思ったものの、すぐに「妥当な質問だ」と思い直して笑みを零した。
付き合いの長い仲間内では「リックがリーダーを務めて当然」という雰囲気があるが、仲間に加わったばかりの人間はそのように思えないのかもしれない。外見の雰囲気だけでなく性格から判断してもリックよりニーガンの方がリーダータイプに見えるはずなので、メルルが疑問を抱くのも当然と言えた。
ニーガンは笑みを浮かべたままメルルに問いかける。
「お前から見てリックはどんな人間だ?」
「質問に質問で返すのかよ?まあ、いいか。……あいつはお人好しだな。とんでもないお人好しだ。あのダリルが懐くぐらいのな。リーダーになるには優しすぎると思うね。」
「俺もそう思うし、リック自身も自分がリーダーに向いてないことは自覚してる。だが、このグループはリックが仕切る方がまとまるんだよ。」
その答えがメルルには理解できないらしく、彼は首を傾げている。
ニーガンは「仕方ねぇな」と言いながら煙草を足下に落とし、それを踏みつけて火を消した。それからメルルに顔を向けて答えを告げる。
「確かに、俺はリーダーの適正があるだろうな。軍隊を作って指揮を執ることができるだろうし、上手くやる自信もある。だが、俺たちは軍隊じゃない。単なる一般市民の寄せ集めで、そして家族だ。家族を守るなら俺よりもリックの方が向いてる。」
それは紛れもなくニーガンの本心だった。
軍隊ではなく家族であれば厳しさだけでなく優しさもなければ上手くいかない。それには少々お人好しなくらいが良い。そして、誰よりも愛情深い人間であることも重要だろう。リックは優しさと愛情によって家族である皆を守り、導いていく。それが自分たちにとって一番良い形なのだ。
ニーガンの答えを聞いたメルルは目を瞠った。その目付きが穏やかなものに変わり、口元は微かに緩み始める。どうやらニーガンの答えが気に入ったらしい。
「意外と甘っちょろいことを言うんだな。まあ、悪かねぇさ。あんたらに協力してやる。」
メルルは足下に捨てた吸い殻を踏み潰しながらそのように宣言した。
そして、思い出したように「そういえば」と次の話題を口にする。
「あんたとリックはどのくらいまで進んでる?もう抱いたか?」
遠慮の欠片もない踏み込んだ質問にニーガンは顔をしかめた。メルルのことを少し見直していたのだが、やはり認識を改めた方が良いかもしれない。
ニーガンがうんざりと溜め息を吐きながら「何もしてない」と答えると、メルルは大げさなくらいに目を見開いて驚きを表した。
「冗談だろ?あんたってどう見ても手が早そうなのに?」
「お前は俺を何だと思ってるんだ?下半身で生きてるとでも思ってるのか?」
「それもあるけど──っと、口が滑った。冗談だ、冗談。どう見てもリックの野郎に惚れ込んでるから、とっくの昔に手を出してると思ってたんだよ。」
ニーガンはメルルを軽く睨んでから視線を刑務所周辺に向けた。今のところは敵の姿もリックたちの車も見えない。その事実に溜め息を吐きたくなった。
ニーガンは視線を正面に固定したままメルルの疑問に答える。
「俺とリックは恋人ってわけじゃない。良い相棒さ。俺があいつに惚れてるのは否定しないがな。」
「関係を変える気は?」
「無理に変えるつもりはない。今以上に深い関係になれたら嬉しいが、俺にとって重要なのはどんな形でもリックにとっての一番でいることだ。あいつにとっての一番でいられるなら肩書きは何でもいい。」
「熱烈だねぇ。」
感想を述べたメルルの声には呆れと感嘆の響きがあった。
他人からすれば呆れてしまう考え方なのかもしれないが、ニーガンはこれでいいと思っている。人間性だけでなく恋愛感情としてもリックに惚れているので、彼の恋人になりたいという気持ちを消すことはできないが、そうであっても積極的に迫ろうとは思わなかった。
リックから誰よりも一番信頼されているという自覚はある。それで満たされているというのは嘘ではない。結局のところ、どの種類の感情であってもリックの心が自分に傾いていればいいのだ。
その時、ニーガンはメルルに警告しておかなければならないことを思い出した。
「警告しておく。リックに手を出そうとしたら、お前の手足を潰してウォーカーの群れに放り込むからな。」
少し威圧的に言い放つと、メルルはニヤニヤと笑いながら自身の腕を擦って「おお、怖い」とふざけた。その次には両手を上げて深く頷く。
「心配しなくても手は出さねぇよ。野郎に興味はないし、あんたを敵に回したら自分で自分の首を絞めることになる。俺はマゾじゃねぇ。」
「そいつは賢い判断だ。よかったな、長生きできるぞ。」
「俺が長生きできるかどうかはニーガン次第ってか?そりゃ退屈しないで済みそうだ。」
気安いのかそうでないのか判断のつかないやり取りを交わした後は二人揃って笑みを浮かべる。
その時、監視塔からマギーが慌てた様子で下りてきた。ニーガンは急いでマギーに近づいて何があったのか尋ねる。
「マギー、どうした?」
「リックたちの車が見えた!すぐにゲートを開けなくちゃ!」
返ってきた答えにニーガンは目を瞠り、瞬間的に呼吸を忘れた。リックが戻ってきたという喜びが一瞬にして全身を駆け巡ったせいだ。
しかし、すぐに冷静になるとマギーに「俺たちがゲートを開けるから他の奴らに知らせに行け」と促す。マギーはその指示に頷いて監房棟を目指して走っていった。メルルを振り返れば彼は心得たように頷き、ゲートに向かって移動し始める。その後を追いかけるようにニーガンは走り出した。
一秒でも早くリックの無事な姿を見たい。その一心でニーガンは力強く地面を蹴った。
*****
総督との会談を終えたリックたちは全員で無事に刑務所に帰り着くことができた。そうは言っても揉め事がなかったわけではない。会談が終わった後、小屋の外に出た総督がダリルに「裏切り者が来ているとは思わなかった。大した度胸だな」と皮肉を言って、それに対してダリルが「今まで大勢を騙してきたお前ほどじゃない」と言い返した時には不穏な空気が漂った。それでも大事にならずに済んだのはハーシェルが双方を宥めてくれたおかげだ。
刑務所に戻る車中、リックは仲間たちから会談内容を尋ねられたが、「戻ってから話す」と答えるに留めた。会談の中で総督から提示された「ある条件」の内容が余りにも重く、その時点ではリック自身も受け止めきれていなかったからだ。
刑務所に戻ると一番始めにニーガンとメルルの出迎えを受け、その二人と共に監房棟に入れば仲間たちが無事の帰還を喜んでくれた。
リックは仲間たちの輪から少し外れた場所に立つミショーンに視線を向ける。その顔は普段と変わらない無表情だったが、どこか柔らかな印象を受けるのは彼女がリックたちの帰りを喜んでくれているからなのだろう。そんな彼女に向かってリックは「ミショーン、頼みがある」と声をかけた。
「誰も見張りに立っていないようだから君に頼んでもいいか?」
それを聞いたマギーが慌てて「ごめんなさい」と謝る。
「今の時間の見張り当番は私よ。リックたちの車が見えたから、みんなに知らせるために監視塔を離れて……すぐに戻る。」
急いで監視塔へ戻ろうとするマギーを制したのはミショーンだ。彼女はマギーの肩を掴んで引き止める。
「いいよ、私が行く。」
淡々と告げたミショーンはそのまま監房棟を出ていった。
ミショーンが出ていき、扉が閉まったことを確認してからリックは仲間たちに向かい合う。
「ミショーン抜きで話したいことがある。総督から提示された条件についてだ。」
皆は「総督から提示された条件」という言葉に不安そうな顔をしたり眉根を寄せるなどの反応を見せた。その条件が自分たちにとって良くないものだと察しているのだ。
リックは仲間たちの顔を見ながら話し始める。
「総督は刑務所そのものに興味はないと言った。町よりも環境の悪い場所を乗っ取る気はない、と。……奴はミショーンの引き渡しを要求してきた。彼女を引き渡せば俺たちとは一切関わらないが、拒否すれば皆殺しにすると言われた。」
総督から出された恐ろしい条件を打ち明けた途端にその場の空気が一気に重くなった。それでもリックは話すことをやめるわけにいかない。
「個人の戦闘能力で言えば俺たちの方がウッドベリーよりも上だ。そのことは総督も認めた。だが、向こうは人数が多い。寄せ集めの軍隊でも数で押し切ることはできる。ウッドベリーでは住人たちの訓練を行っているから、俺たちが奴の条件を蹴ればすぐにでも攻めてくるだろう。」
リックは厳しい現実を隠さずに話した。それを聞いた皆の表情は暗い。
ハーシェルは不安に瞳を潤ませるベスを落ち着かせるために肩を抱き、グレンとマギーは互いを励ますように抱きしめ合った。キャロルは怯えた様子で抱きついてきた娘の背中を撫でており、ニーガン、シェーン、Tドッグ、そしてオスカーは難しい顔で黙り込んでいる。カールは幼い妹を腕に抱きながら真っ直ぐにこちらを見つめていた。
その時、メルルがこちらに顔を向けて「一応、言っておく」と意見を述べ始める。
「引き渡したら総督はあの女を簡単には死なせない。拷問して散々苦しめてから殺す。あの野郎はそういう人間だ。」
メルルの意見に同意するようにダリルが頷いた。
「兄貴の言う通りだ。それにミショーンを引き渡しても総督が約束を守るとは思えない。あいつは今までにも相手を騙して殺してきた。信用できない。」
総督に仕えていた二人の意見には信憑性がある。リック自身も総督に対する不信感は会談前より大きい。
ディクソン兄弟に続き、今度はハーシェルが「引き渡すべきじゃない」と声を上げた。
「ミショーンはグレンとマギーのことを知らせてくれた。救出も手伝ってくれた。今も私たちに協力してくれている。そんな彼女を犠牲にはできない。」
その意見に数人の仲間たちが頷く。
ミショーンはウッドベリーとの緊張が高まった状況になっても刑務所に留まり、見張りや襲撃への備えを手伝ってくれていた。表情にこそ出さないものの、皆を案じて気遣ってくれていることも知っている。彼女は既に仲間と呼べる存在になっていた。
その時、Tドッグが顔色を窺うように皆に視線を向けながらおずおずと口を開く。
「あー……、その、でもさ、向こうの要求を拒否したら皆殺しにされるんだろ?ミショーンを犠牲にしたくない気持ちは俺も同じだけど、『拒否したら殺す』って脅されてる今の状況は正直に言って怖い。」
申し訳なさそうに本心を打ち明けたTドッグを責める声は誰からも上がらなかった。彼の恐れは誰もが心の中に抱いているものだからだ。
リックたちの前にある選択肢は「ミショーンを差し出して自分たちの安全を確保する」と「総督の要求を拒否して殺される」の二つ。どちらも選びたくない。
他に意見が出ないまま沈黙が続いたが、それをニーガンが破った。彼はリックに問いかけてくる。
「リック、お前はどう考えてる?お前の中には答えがあるのか?」
リックはニーガンを真っ直ぐに見つめながら自身に向き合う。
己の心の中を探れば答えはすぐに見つかった。それは恐らく刑務所に帰り着くまでに出ていたのだろう。それでも口に出せなかったのは仲間たちがリーダーである自分の意見に流されてしまうことを恐れたからなのかもしれない。もし皆がそれぞれの道を行くことになったとしても、今回ばかりは全員が自分自身の意思に従わなければならないのだ。
リックはニーガンに対して無言で頷いてから仲間たちに視線を向ける。
「ミショーンを引き渡さずに攻めてくる奴らを迎え撃つ。そうすることに決めた。」
リックの答えに皆が驚いた顔をする中でニーガンだけが心得たように頷いた。それを見て、リックは思わず笑みを零した。きっとニーガンはリックの答えを察していたに違いない。
リックは瞬時に笑みを消して自分の思いを紡ぐ。
「付き合いの長さは関係なく誰であっても犠牲にしたくない。俺たちは互いに守り合って生きてきたから。だが、逃げるのも嫌だ。ここは命懸けで手に入れて守ってきた俺たちの家だ。失いたくない。だから俺たちの家を守るために戦う。」
皆はリックの宣言を黙って聞いていた。その表情は落ち着いており、混乱や動揺は見当たらない。
リックは一つ息を吐いてから願いを言葉にする。
「……俺と一緒に戦うことを強制するつもりはない。誰にも死んでほしくないんだ。だから、逃げていい。自分で考えて、自分で決めてくれ。」
そして再び沈黙が落ちる。すぐに決められることではない。
今までで最も長い沈黙を破ったのは今度もニーガンだった。
「俺はとっくに答えが出てるぜ。」
いつもと同じように明るい口調で言ったニーガンはニッと笑いながら皆を見回す。
「俺はリックと一緒に戦う。ウッドベリーの悪い子たちにはきつーいお仕置きが必要だからな。ケツを叩くのは得意だ。」
ニーガンの軽口によって緊張した空気が緩み、皆の顔に笑みが戻った。
ニーガンの宣言を皮切りに仲間たちから「自分も戦う」との宣言が飛び出し、最終的に全員がウッドベリーからの侵攻を迎え撃つと決めた。これにはリックも驚いて目を丸くする。
リックが感謝を伝えるための言葉を見つけられずにいると、近づいてきたニーガンに背中を叩かれた。その彼は頼もしげに笑って次のように言う。
「全員で戦えば勝ち目はある。そうだろ、リック。」
その言葉はリックの頭にじわじわと染み込んでいき、指の先にまで力が行き渡った。
仲間たち全員が残って戦う道を選んでくれた。これで戦術に幅が広がり、「全員が共に戦う」という事実は大きな励みとなる。これは勝利へ近づくための第一歩だ。
リックはニーガンに笑みを返してから仲間たちに顔を向けた。
「みんな、ありがとう。俺たち全員が揃えば乗り越えられる。やってやろう。」
リックの力強い言葉を聞いた皆の顔に笑みが広がっていく。
そして、その場に歓声が響いた。
皆との話し合いが終わった後、リックは監視塔に上った。ミショーンに自分たちの決断を伝えるためだ。
ミショーンはリックが姿を見せると不思議そうにしていたが、特に何も尋ねてこなかった。数秒だけこちらに向いた彼女の視線は刑務所の周辺へ戻り、狭い空間に沈黙が落ちる。
リックはミショーンの横顔を見つめながら一つ深呼吸した。
「……ミショーン、総督から君の身柄を差し出すように要求された。そうすれば俺たちには二度と関わらないと言われた。」
そのように告げた瞬間にミショーンの横顔に緊張が走る。そして、何かを堪えるように唇を噛むのが見えた。
リックたちとミショーンの付き合いは短い。長く助け合ってきた仲間と出会ったばかりのよそ者の命を天秤にかけた時、どちらが重くなるかというのは彼女にもわかるだろう。だから彼女が「自分は切り捨てられる」と覚悟したことは容易に想像できた。
不意に、リックの脳裏に総督から投げかけられた「仲間全員の命を懸ける価値がミショーンにあるのか?」という問いが蘇った。その問いを投げかけてきた時の値踏みするような冷たい目が印象に残っている。きっと、あのような目をする人間にリックたちの考えは理解できない。価値があるかどうかではなく「死なせたくない」と思うから守るのだ、と。
リックは強張ったままのミショーンの横顔に向けて静かに語りかける。
「誤解しないでくれ。ミショーンを犠牲にするのは俺たち全員が嫌だと思ってる。」
リックはそのように言って微笑した。
「俺たちは総督の要求を拒否して、奴らを迎え撃つことにした。全員が自分の意思でその選択をしたんだ。君一人を犠牲にするなんてことは絶対にないから安心してくれ。」
それを聞き、ミショーンは体ごとこちらに向き直った。
驚きを隠せずに目を丸くする彼女に向かってリックはしっかりと頷く。
「俺たちは今までずっと仲間同士で助け合って生きてきた。だから仲間を犠牲にはしない。」
「仲間……」
その言葉を噛みしめるように呟いたミショーンの目は潤んでいた。
ミショーンは片手で目元を拭うと深呼吸を繰り返す。気持ちを落ち着けてから返事をしようとしているのだろう。
やがて、ミショーンは力強い眼差しを寄越しながら口を開いた。
「私も一緒に戦うよ。──仲間を守るために。」
その頼もしい言葉にリックは頷いて応えた。その次にはミショーンに向かって手を差し出す。
ミショーンはリックの差し出した手を見下ろしてから戸惑ったように視線を上げた。
「リック?」
「改めて挨拶したいと思って。……これからもよろしく。仲間としてな。」
その言葉にミショーンは一瞬だけ目を瞠り、すぐに笑顔を見せた。それは彼女が初めて見せてくれた心からの笑顔だった。
ミショーンは嬉しそうに笑いながらリックの差し出した手を握り返してくれた。しっかりと握手を交わせば彼女が本当の意味で仲間になったという実感が湧いてくる。
リックは握手を解くと監視塔の外へ視線を向けた。その目は眼前に広がる森を捉えているわけではない。リックが見ているのは視界の範囲外にいる男──総督だ。
(どれほどの強敵でも負けるつもりはない。攻めてくるなら迎え撃つ。そして──必ず勝つ)
リックは胸の内で決意を固めながら、会談の時に見た総督の目を思い出した。底の見えない暗い目だった。見つめていると底なしの闇に囚われてしまいそうな感覚に背筋がゾッとしたことを覚えている。
しかし、今はあの目を恐ろしいとは思わない。もう二度とあの男を恐れはしない。自分には頼もしい仲間たちがいるのだから。
リックは遥か彼方にいる男を睨みながら、決戦の時が近づいてくる足音を聞いた。
To be continued.