望まれる人 明智十兵衛光秀が本能寺の変を起こし、その光秀を秀吉が山崎の戦いで打ち破った後、世は秀吉を中心に動くようになった。謀反人の首を掲げ持つ者に皆は平伏す。秀吉は仕えていた織田家を平らげ、抵抗を示した者たちの首根っこを押さえつけ、関白という地位にまで登り詰めた。名もなき農民であった男は誰もが頭を下げる存在へと駆け上がろうとしている。
その秀吉は本拠地とする大阪城の庭にいた。三河を治める徳川家康から「所用のため近くまで行くので挨拶に伺いたい」との便りがあったため、庭を彷徨きながら彼を待っているのだ。
徳川家康には小牧・長久手の戦いで手を焼かされたが、和議を結んで以降は秀吉に対して従順な姿勢を見せている。腹の底で何を考えているかわからないとはいえ、表面上は良い関係を築いていると判断して良いだろう。但し、油断は禁物だ。
そのようなことに思いを巡らせていると後方から足音が聞こえてきた。
「関白様、お久しゅうございます。」
その穏やかな声音は家康のもの。秀吉はゆっくりと振り返り、柔和な笑みを見せる家康に向けて「よう来たな」と声をかけた。
「前にお主に会ったのはいつだったか……誠に久しいのう。用事というのは済んだのか?」
「はい。近くまで来ておいて関白様にお会いせぬのは不義理というもの。お元気そうなお顔を拝見できて嬉しゅうございます。」
そのように言って家康はにこりと笑った。その笑みが白々しく感じられるのは己の警戒心が強すぎるせいだろうか?
秀吉は作った笑みの下に自嘲を隠しながら家康に近づく。
「うんうん、わしもじゃ!久しぶりに会えたというのに挨拶だけで済ませるのも味気ない。庭の散策に付き合うてくれ。その後は茶を馳走しよう。」
秀吉の言葉に家康は「ありがたく存じまする」と丁寧に頭を下げた。秀吉は家康の頭頂部をじっと見つめてから体の向きを変えて歩き始め、その隣に家康が並ぶ。
散策を始めた二人の後ろを近習が付いてこようとしたが、手振りで「来るな」と命令すれば黙って引き下がった。その流れを見て家康が怪訝そうな顔をする。
「よろしいのですか?」
それに対して秀吉は「構わぬ」と頷いて返す。
「我らだけでしかできぬ話をしようと思うたのじゃ。他の者は邪魔になる。」
「関白様と私だけでしかできぬ話とは?」
「あー、その『関白様』という呼び方は今はせずとも良い。」
秀吉の発言に家康が驚いたように瞬きをした。
「秀吉様、とお呼びすればよろしいのでしょうか?」
「そうじゃ。今だけ許す。」
秀吉がにかっと笑えば家康は苦笑しながらも「かしこまりました」と首を縦に振った。
家康が頷いたのを見てから、秀吉は視線を庭に植わっている木々や花に向ける。美しく整えられた庭の様子を眺めながらも、その心にあるのは庭のことではない。
「山崎の合戦から時が流れて、物事が大きく変わって……それでも『明智光秀が生きている』という噂が絶えぬ。聞いたことはあるか?」
明智光秀という名を聞いて家康の顔に緊張が走った。家康は神妙な顔つきでしっかりと頷く。
「存じております。丹波の山奥に潜んでいるとか。根も葉もない噂でございましょう。秀吉様がお気になさる必要はありませぬ。」
「だが、わしに差し出された首が明智様本人のものだという確かな証はない。あれは損傷が激しくて判別が難しかったからのう。」
光秀の首だと差し出されたものは刀傷や腐敗が激しく、その顔に光秀の面影を見い出すことはできなかった。それでも「謀反人の首を取った」と宣言したのはその後の物事を思い通りに進めていくためだ。後戻りはできなかった。
しかし、そのせいで明智光秀が生きているという話をくだらぬ噂と一蹴できずにいる。刀も弓矢も鉄砲も巧みに使いこなし、知略にも長ける光秀であれば生き延びていても不思議ではない。人柄に魅せられた者の多さから考えれば密かに助けの手を差し伸べる者もいるかもしれない。それ故に秀吉自身が光秀の生存を信じそうになっている。
己の考えに沈む秀吉の耳に家康の「噂を信じておられるのですか?」と問う声が届いた。
「未だ明智様を捜させていると伺っておりますが、仮に生きておられたとしても明智様であるとは誰も信じますまい。明智家は滅び、明智様に味方はおられない。秀吉様に対抗する力などありませぬ。捨て置けばよろしいかと。」
秀吉は「家康にしては冷淡な言葉だ」と思った。思ったが、すぐに「その冷淡さこそ、この男らしい」と思い直して微笑する。
家康が光秀を慕っていたことは知っていた。だからこそ本能寺の変後に彼が沈黙していたのを意外に思ったものだ。しかしながら、徳川家康という男は情勢を冷静に見て己の行動を判断する力がある。それを思えば光秀に味方しなかったことも今の冷淡な言葉も理解できる。
(本心はわからんがな)
胸の内で苦く呟き、家康にちらりと視線を遣る。その表情から本心は覗けない。
秀吉は「付いて参れ」と言って進路を変える。塀に沿って進み、角まで来たところで足を止めた。そこにはひっそりと桔梗が植わっている。
「これは……!」
家康は桔梗を見つめて目を瞠った。桔梗と聞いて思い浮かべるのは明智家の家紋。謀反人を想起させるようなものが秀吉の本拠地である大阪城にあるとは思いもしなかったのだろう。
常に冷静沈着な男が珍しく驚愕を顕にする姿を見て秀吉は少しだけ愉快な気分になった。
「驚いたか?桔梗じゃ。わしが命じて植えさせた。庭師は目をまんまるにしておったわ。」
明るく笑う秀吉とは対照的に家康が顔を強張らせる。
「何故このようなものを植えさせたのです?」
秀吉は顔を強張らせたまま問うてくる家康から視線を外し、美しく咲く紫を見た。凛と咲く姿が光秀の立ち姿を思わせる。
「わしにもわからん。わからんが……明智様にお会いしたいと思うからなのかもしれん。」
「明智様に?」
家康の声には隠しきれない困惑が滲んでいた。それはそうであろう。普通は己が討ち取った相手に会いたいと願うはずがない。
しかし、秀吉はいつの頃からか光秀に会いたいと思うようになっていた。
「明智様を捜させているのは生きていれば殺さねばならんからじゃ。わしの足下が揺らぐような芽は潰しておかねばならん。……だが、最近は違う。」
「違うとは?」
「ただただ、明智様にお会いしたい。会ってお声を聞きたい。お叱りでも構わぬから話がしたい。そのためにあの御方を捜している。」
秀吉はそのように言ってから桔梗の前にしゃがみ込んで紫色の花に触れた。そして懐かしむように柔らかな花びらを撫でる。
「今なら信長様が明智様を傍に置きたがった理由が理解できる。上に登るほどに人は孤独になっていく。だから明智様のように真っ直ぐに向き合ってくれる御方にいてほしいと思う。」
「秀吉様には御正室様や多くの家臣がおられます。皆がお支えしているのです。お一人ではございませぬ。」
その意見を秀吉はゆるゆると頭を振って否定した。
「皆、いつの頃からか貼り付けた笑みしか見せぬようになった。わしの顔色を窺って無難な言葉を選ぶようになった。わしに向かって頭を下げる時、どのような顔をしているのか……舌を出して嘲笑っているのかもしれぬと考えることが多くなった。」
秀吉は嘗ての主君・織田信長も自分と同じ状態だったのではないかと考えている。天下へ近づくにつれて誰もが自分に対して本心を隠すようになり、それ故に相手の心を疑うようになった。自分を褒めそやしながらも心では嘲り、慕う素振りを見せながらも影では死を望む。そのように疑い出せば自分に対して真実を晒す相手など誰もいないのではないかと疑心を抱くようになった。
今の己は無限の孤独に放り込まれたような状態だ。かと言って頂へ続く道の途中で躊躇したり振り返れば天下を狙う誰かに食い殺されてしまうだろう。足を止めることも引き返すことも許されないところにまで来てしまったならば突き進むしかない。
しかし、一人で歩くのは寂しい。心細い。その孤独感を打ち消すために誰かの名を呼ぼうとした時に思い浮かんだのは一人だけ。己が滅ぼした明智十兵衛光秀という男しかいなかった。
「明智様の真っ直ぐな言葉が煩わしい時もあった。何年も苦労をしたと言っても農民出のわしより恵まれていたと妬ましく思う気持ちもあった。だが、わしはあの御方を見下したり嫌いだと思うたことは一度もない。」
「明智様を尊敬しておられたのですか?」
秀吉は「それもわからん」と苦笑いを零したが、それもすぐに消えて切なげに目を細める。
「わからんが、明智様はわしを喜ばせるためだけの言葉は吐かぬ。耳に痛いこともはっきりと仰るだろう。だからといってわしを見下すこともない。わしはきっと、どこまでも真っ直ぐな明智様にお傍にいてほしいのだろうなぁ。だから今でも捜しておる。」
根拠もない噂話を頼って捜させるほどに光秀を追い求める気持ちが庭の片隅に桔梗を植えさせた。美しく咲く花に姿を重ねて心を慰めるなど情けないことこの上ないが、一人で登り続けるのは想像以上に心を疲弊させる。
桔梗を撫で続ける秀吉の後ろで家康が深く息を吐く気配がした。
「──どれほどお捜ししても明智様は見つかりませぬ。他の誰でもなくあなた様が滅ぼしたのですから。明智十兵衛光秀という存在を。」
それは喉元に刃物を突きつけるような言葉だった。それにより桔梗に触れる秀吉の手が凍りつく。
山崎の戦いで負けた光秀は落ち武者狩りに遭って命を落とした。その首は秀吉の元に届けられた。それが全ての結果なのだと決まった。他の誰でもなく秀吉自身がそのように決めたのだ。
「……それもそうじゃな。わしが明智様を滅ぼした。」
秀吉は小さく呟きながら花から手を離した。
己が上へ行くために光秀に戦いを挑んだことを後悔してはいない。明智一族を滅ぼしたことも、その後の己の決断も行動も天下を治めるために必要なことだったと自負している。それでも本当に僅か。ほんの僅かだけ、苦さが残り続けている。
今の自分を見て明智様は何を思うのだろう、と未練がましく考えてしまう自身を秀吉は心の底から嘲笑った。
*****
三河の山奥にある小さな館。その館の主は男で、手伝い兼護衛の男と二人で暮らしている。その館の主を家康は定期的に訪ねていた。
久しぶりに男を訪ねた家康は客間で彼と向かい合って座り、彼が湯呑に淹れてくれた茶を啜る。
「そういえば先日、秀吉様にお会いして参りました。明智様の話が出て、お会いしたいと仰っておられましたよ。」
家康の話を聞いた男が微かに眉を寄せる。
「まだ捜しておられるのか、あの御仁は。」
「頂に近づく御方は孤独になってしまわれるようで、だからこそ明智様にお傍にいてほしいのだと。大層恋しがっておられた故、あなたが明智様を滅ぼしたのだと申しておきました。」
そのように答えて湯呑の中身を飲み干すと、男から苦笑が返ってきた。
「手厳しいことを。秀吉殿はお怒りにならなかったのですか?」
「お怒りにならなかったので、このようにあなたを訪ねてくることができました。怒るどころか落ち込んでおられました。」
「しかし、秀吉殿は何か感づいておられるのでは?だから家康殿にそのような話をなさったのやもしれませぬ。……やはり、ここを出ていくべきか。」
腕組みをして深刻そうに考え込む男に家康は溜め息を吐いた。
この館は徳川家が秘密裏に管理している。一部の者しか存在を知らぬ館なので外部に情報が漏れることは有り得ない。万が一知られたとしても対応できるように策は施してある。心配無用だ。
しかし、武の才能にも智の才能にも恵まれた男はその気になれば己一人でどこへでも旅立つことができるため、しっかりと釘を刺しておかなければ知らぬ間に行方をくらましてしまうだろう。
「それは許可いたしかねます。この家康に恩を感じておられるならばこの館に留まり、あなた様の知恵を授けてくださりませ。それと息抜きの相手も。」
そのように言って微笑むと男が顔をしかめた。
「家康殿もお人が悪い。それを言われてしまうとどこへも行けませぬ。」
「それで良いのです。二百年も三百年も続く平らかな世を共に作るお約束でございましょう?ですから、私の傍にいていただきたい。」
「今しばらくは秀吉殿の天下。先は長うございますな。ならば、共に時を待ちましょう。」
男は穏やかに微笑んだ。その笑みを向けられるだけで家康は嬉しくなる。
目の前の男が傍にいてくれるのならば頂へ登ることも恐ろしくはない。彼が寄り添ってくれるのだから孤独になることもないだろう。
まだ当分は秀吉の天下が続くが、いつか必ず自分が長く続く平らな世を実現してみせる。それまでは冷静に状況を見守りながら待つだけだ。その待ち時間も一人ではなく彼と一緒ならば瞬く間に駆け抜けていく。
家康は男に微笑み返しながら頷いた。
「ええ。共に待ち、我ら二人の夢を叶えましょう。──明智様。」
終