傍観者の目「木下藤吉郎、参上いたしました!」
呼び出しを受けて信長の京の館を訪ねた藤吉郎は仰々しく平伏して大声で告げた。
予定より早く京へ戻ってきた主君から呼び出しを受けることは予想済みだった。以前から「織田信長討伐」の気配を漂わせていた将軍・足利義昭に動きがあったのだ。
しかし、信長が自分を呼び出した理由はそれではないと藤吉郎は考えている。幕臣として将軍に仕えながら幕府と織田家の調整役として働いている男──明智十兵衛光秀について話したいのだと睨んでいた。
挨拶を終えた藤吉郎が顔を上げると、信長が「声が大きい」と呆れ顔を見せる。
「この場に柴田が居れば怒鳴られておったぞ。それは良いとして、公方様の様子はどうじゃ?探っておるのだろう?」
それを聞いて藤吉郎は姿勢を正し、口の端を軽く持ち上げる。
「近頃、公方様周辺の動きが活発でございましたが、いよいよ本格的に織田討伐へ動かれるようですなぁ。──殿を討とうとするなど愚か者としか言い様がございませぬ。」
「愚か者」と発した声には隠しきれぬ侮蔑が滲んだ。部屋の中にいるのが己と主君の二人だけとはいえ不敬ではあるが、あの将軍に対して敬う気持ちも何もないので仕方あるまい。
そのように考えていることが伝わったのか、信長が面白がるように笑った。
「口には気をつけよ、藤吉郎。まあ、わしも恩知らずと申してやりたい気持ちはある。」
「いやいや、誠に恩知らずな将軍でございます。上洛できたのは殿がお支えしたからであるというのに、その恩をころりと忘れてしまわれた。あれでは国をまとめることなど、とてもとても!」
藤吉郎は顔をしかめて「できるわけがない」との意味を込めて顔の前で手を振った。そのしかめた顔も瞬時に真面目な顔つきに戻る。
「とりあえずは武田と手を結んだようですな。武田としても我らを潰したくて仕方ないのでしょう。公方様は飽きもせず他の諸大名にも文を送っておられるようなので、武田以外にも呼応する者が出てくるやもしれませぬ。」
「ふん、誰が来ようと叩き潰すだけじゃ。将軍のことはもう良い。わしが話したいのは──」
その信長の言葉に藤吉郎は「待ってました」とばかりに笑みを浮かべる。信長が最も関心を寄せる者の情報の入手は疎かにしていない。
藤吉郎は少し目を細めながら口を開く。
「明智様について、でございましょうか?」
確信を持って尋ねれば信長は無言で首を縦に振った。やはり本題は光秀のことだったのだ。
藤吉郎は微笑を浮かべたまま背筋を伸ばして本題に入る。
「先日、明智様は公方様とお会いになったようです。その後、ご自分の館に戻られてからほとんど外にお出にならない。奥方や娘御に至っては敷地の外に一切出ておられぬとの報告を受けております。」
藤吉郎の報告に信長は「そのようじゃな」と頷きながら顎髭に触れる。
「十兵衛には将軍に鵠を届けるよう命じた。それで会いに行ったのだろうが……十兵衛が館に戻ってからすぐに館の警備が強化されておるそうじゃ。それも存じておるか?」
「はい。警備や周辺の見回りを行う人数が増えており、館への出入りも厳しくなっているとのこと。明智様が外出される際の警護の人数も増えておるそうでございます。まるで敵地に滞在しているかのような警戒のなさりよう。」
「敵は──将軍側か。」
信長は鋭く目を細めて独り言のように呟いた。藤吉郎はそれに頷いて返す。
「某もそのように考えております。明智様は公方様と訣別なさり、それ故に公方様の陣営からの襲撃を警戒しておられるのではないかと。……殿、明智様の館へ向かい、明智様の意思を確認する任をこの藤吉郎にお任せいただけませぬか?」
続けて「お願い申し上げまする」と頭を下げると信長の方から短い笑い声が響いてきた。
「そなたがそれほどに十兵衛を気にしているとは思わなんだぞ。」
「明智様は味方であれば心強い御方でございますが、敵方に回れば非常に厄介な相手となりましょう。こちら側へ引き入れるべきかと。何より、殿の望みを叶えなければなりませぬ。」
「わしの望み?」
藤吉郎は顔を少し上げて信長を見た。そして、怪訝そうにこちらを見つめる主君に笑みを返す。
「明智様を己の家臣とすることは信長様の積年の望みと存じておりますが、この猿の勘違いでございましょうか?」
その言葉に信長は一瞬目を見開いた後、すぐに破顔して大きな笑い声を上げた。その様子を見つめながら藤吉郎は薄く笑う。
信長を近くで見ていれば光秀に執着を向けていることなどすぐにわかった。昔からの付き合いだそうだが、それ以上に付き合いの長い家臣たちに対するものとは明らかに質が異なる。信長が光秀に向ける情は寵愛にしては重すぎるのだ。
信長は過去に光秀に対して何度か家臣の誘いをしていたようだが、その度に袖にされたという。躍進目覚ましい信長の誘いを蹴る光秀の度胸は大したものではあるが、藤吉郎からすれば何度断られても寵愛し続ける信長の執着の方が恐ろしい。何度も手を伸ばして得られなかった存在が己の懐に転がり込んできた時、飽いて見向きもしなくなるのか、それとも度を越した執着へ向かうのか。光秀に関しては後者だろう。
光秀が家臣となれば信長の光秀に対する執着はひどくなるだろうが、それは藤吉郎には関係のないこと。賢い光秀であれば上手く対処するはず。重要なのは己が上へ行くことだ。深く執着している相手を差し出してやれば信長は喜び、藤吉郎に対する評価は高くなる。そのためならば何でもしてみせる。
藤吉郎が冷たさを滲ませる笑みを浮かべていることに信長が気づくことはなく、笑顔で「良かろう」と答えた。
「そなたに任せる。直ちに十兵衛の元へ向かえ。」
「はっ!ありがたく存じまする!」
藤吉郎は改めて深く頭を下げた。そして顔を伏せた状態でにやりと笑う。今日は随分と忙しくなりそうだ。
*****
信長からの許しを得た藤吉郎は真っ直ぐに明智家の館を目指した。館の周辺に近づくと見知った顔の武士の姿を多く見かける。明智家の者たちだ。
藤吉郎は油断なく視線を動かして周囲を観察しながら歩き、遂に明智家の館の前に立つ。そうすると門前の警備を行う武士たちが殺気立った様子で立ち塞がった。何度か明智家を訪ねたことがあるので向こうは藤吉郎の顔を知っているはずだが、警戒心を顕に睨みつけてくる。主を守ろうと必死なのが伝わってきた。
藤吉郎は相手の警戒心を解くために笑みを浮かべ、「そう殺気立つでない」と明るい声音で話しかける。
「信長様の命により明智様をお訪ねした。信長様は明智家の様子が尋常でないことを案じておられる。明智様にお会いして事情を聞くようにとの仰せじゃ。お目通り願いたい。」
「……殿にお知らせして参ります。こちらで少々お待ちくだされ。」
武士の一人がそのように答えて館の奥へと消えていく。普段はそのまま中へ通されるのだが、相当に外部の者を警戒しているようだ。
藤吉郎は首を回して視界に入る範囲の様子を観察する。荷造りの済んだものが隅の方に積まれており、遠くでは館の者たちが慌ただしげに廊下を行き交う姿があった。戦支度というよりも居を移す準備を進めているように見える。光秀は家中総出で都を出る覚悟なのかもしれない。
(将軍と訣別したのは確実じゃな)
そのように結論を出したところへ光秀の「木下殿」と呼ぶ声が聞こえた。そちらへ顔を向ければ廊下の向こうから歩いてくる姿が見える。急ぎ足でありながら、その足音は静かだ。
藤吉郎は瞬時に人懐っこい笑みを顔に貼り付けた。
「明智様!お忙しいところへお邪魔してしまい申し訳ござりませぬ!殿からの命令でございまして……」
そのように言うと、光秀は頭を振って「謝っていただく必要はござらぬ」と微笑した。
「こちらこそ門前で足止めしてしまい、失礼をいたした。ご不快に思われたであろう?誠に申し訳ない。」
謝罪と共に頭を下げる光秀を見て、藤吉郎の笑みが作ったものから心からの笑みに変わった。
光秀という男は土岐源氏の流れを汲む由緒正しい家柄でありながら、藤吉郎が農民の出であることを馬鹿にせず敬意を持って接してくれる。彼のこういった人柄を好ましく思う。
「某はちーっとも気にしておりませんぞ。それより、何やら慌ただしい雰囲気と申しますか、緊張感が漂っていると申しますか……何が起きているのかお聞かせ願えませぬか?」
藤吉郎が上目遣いで頼むと、光秀は一つ頷いてから「こちらへ」と先導して歩き始める。
案内された部屋に入ると上座へ座るように促された。信長の遣いということが伝わっているからなのだろう。藤吉郎が茵の上に座り、その正面に光秀も腰を下ろした。
藤吉郎は光秀と視線を交わらせながら話し始める。
「急な訪問で申し訳のう存じまする。ただ、状況を考えますと急いだ方がよろしいかと思いまして。……明智様、公方様と訣別なさいましたな?」
そのように問えば苦笑が返ってきた。
「やはりご存知であったか。……木下殿だけでなく信長様もご存知であろうが、公方様は信長様を討つと決断された。そのために甲斐の武田信玄と手を組まれる。わしにも陣に加わるよう仰せになったが、お断り申し上げた。そのため今のような状況になっておる。」
「警備を強化しておられるのは公方様の陣営からの襲撃を警戒しておられるということで?」
「無論。公方様はわしを殺そうとはせぬだろうが、周りの者が動くやもしれぬ。だから早いうちに坂本へ移ろうと思うておる。他にも対処せねばならぬことが多い故、ほとんど館に籠もって対応しておるのだ。京を発つ前に信長様にご報告申し上げねばならぬというのに動くに動けず……後日にはなるが必ず伺うとお伝えいただきたい。」
その言葉を聞き、藤吉郎は眉間にしわを寄せた。光秀は信長の家臣になろうと思っていないのだろうか?
「明智様、坂本へ戻るよりも殿にお仕えした方が良いのでは?織田家の家臣となれば都を離れずとも済みましょう。」
その提案に対して光秀は困ったように眉を下げる。
「それは、そうなのだろうが……しかし……」
渋る様子を見せる光秀に藤吉郎は焦りを感じ始めた。信長は将軍から離れた光秀が自分のところへ来ると思っているだろう。もし光秀がこのまま都を去れば、その怒りは尋常ではないものになる。下手をすれば巻き添えを食う。
このままでは不味い、という焦りを笑みの下に隠して穏やかに声をかける。
「明智様は殿にお仕えするのがお嫌なのですか?それならば某が無理強いすることはできませぬが、そうでないのならば殿に仕えたいと申し上げるべきと存じまする。明智様が織田家に来てくだされば殿だけでなく某も誠に、誠に嬉しゅうございますぞ。」
そう言って藤吉郎がにかっと笑えば光秀が口の端を微かに持ち上げた。
「木下殿のお気持ちはありがたい。信長様をお支えしたいとも思う。しかし、わしは信長様からのお誘いを断ったことがある。その経緯を無視して公方様と訣別したからお仕えしたいと申し上げるのは虫が良すぎるというものであろう。」
光秀の言い分を聞き、藤吉郎は地団駄を踏みたい気分になった。彼の誠実な人柄が今回ばかりは仇になっている。
藤吉郎は光秀の肩を掴んで「細かいことは気にせず行け!」と叫びたい気持ちを堪えて情に訴えかけることに決めた。
「殿はそのようにはお考えになりませぬ。明智様が幕臣でありながら織田家のために命を賭して戦ってこられたこと、殿だけでなく織田家家臣の誰もが認めておりまする。その明智様を織田家家臣の一員としてお迎えし、保護したいと望むことは許されぬのでしょうか?それは余りにも辛い。」
「木下殿……」
「明智様、どうか織田家に来てくだされ。伏してお頼み申し上げまする。」
藤吉郎は深く頭を下げて額を床に付けた。光秀の「木下殿!」という驚いた声が降ってきたが、構わず平伏し続ける。
相手が他の者であれば平伏してまで「織田家家臣団に加われ」とは乞わない。ここまでのことをするのは信長にとって光秀が価値のある存在だからだ。この男を引き入れることに成功すれば信長からの覚えはめでたくなる。
しかし、別の理由が心の片隅にあることも藤吉郎は自覚していた。自分は明智十兵衛光秀という人間が嫌いではない。
「明智様が殿にお仕えしたいと望まれるのでしたら、この木下藤吉郎、共に殿にお願い申し上げる所存!どうぞ不安をお捨てくだされ!」
大声で言うと床に跳ね返った己の声が耳を貫いた。
少しの沈黙の後、「顔を上げられよ」と静かな声が降ってきた。ゆっくりと体を起こせば光秀が穏やかに微笑んでいる。
「そのように頭を下げられては否とは申せぬ。」
「明智様!では!」
思わず笑みを零す藤吉郎に光秀が苦笑を漏らした。
「明日、家臣の一人に加えていただきたいと信長様にお願いしようと思う。」
「流石は明智様!仕事がお早い!誠によろしゅうございますな!お任せくだされ、殿には某からお伝えしましょう!あ、そうじゃ。明日は某がお迎えに上がりまする。」
そのように宣言すると光秀が困惑したように首を傾げた。
「そのような骨折りをいただくわけにはいかぬ。信長様に頼むのは一人で──」
「明智様ぁ!そのような寂しいことを仰らずともよろしいではございませぬか!某と明智様の仲でございましょう!……ま、それは冗談として。織田家の者がお傍にいれば『明智の背後には織田がいる』と周囲に示すことができまする。さすれば敵方への牽制にもなりましょう。明智家の館の警備も我が手の者たちに命じます故、ご安心くだされ。」
「いや、流石にそこまでしていただくのは申し訳ない。明日、同行していただくだけで良い。」
「されど、某が手配せずとも殿が警備の者を手配なさるでしょうなぁ。明智様、いかがいたします?」
その一言に光秀が溜め息を吐いた。そして、こちらに向かって「お頼み申す」と深々と頭を下げた。頭を下げたことで顕になった美しいつむじを眺めながら、藤吉郎はにっこりと笑った。
*****
明智家の館を訪ねた翌日、藤吉郎は再び明智家の館へ向けて歩みを進めていた。信長を訪ねる光秀に同行するという約束を守るためだ。その藤吉郎の供の数は普段よりも多い。将軍から離れた光秀を幕府側の者が狙う可能性があるため、警護の数は多い方が良い。
昨日は明智家の館を出た後、信長の元へ直行して報告を上げた。藤吉郎の報告に信長は大層喜んだ。明智家の警備を強化したことを伝えれば「流石は藤吉郎じゃ」とお褒めの言葉を賜った。狙い通りに事が運んだことを嬉しく思う気持ちを隠すのには難儀したものだ。
昨日の流れを振り返り、今にも顔が緩みそうになるのを堪えながら歩くうちに館に到着する。門のすぐ近くで光秀が控えていたため、そのことに藤吉郎は目を丸くした。
「明智様、このような場所でお待ちとは……!お待たせして申し訳ござりませぬ!」
慌てて謝ると光秀も焦った様子で「違うのだ」と言った。
「緊張して落ち着かぬものだから部屋の中をうろうろと歩いておったら、熙子から『私どもが落ち着かぬので外でお待ちくださいませ』と叱られてしまった。それで門の近くで待っていたのだが、勘違いさせてしまい申し訳ない。」
「左様でございましたか……。面白い奥方様でございますな!わはは!」
とりあえず笑ってみたが、光秀が肩を落としたところを見て瞬時に笑いを引っ込める。場の空気を和ませることに失敗したようだ。
藤吉郎が気を取り直すように咳払いをしてから「では、参りましょう」と促すと光秀は小さく頷いた。
二人並んで歩き出せば周りを警護の者たちが取り囲む。その異様な光景を通りすがりの者たちが訝しげに眺めていた。
隣の光秀に目を向けてみると彼は居心地悪そうに視線を彷徨わせている。緊張しているのが手に取るようにわかり、思わず苦笑が漏れた。
「明智様、そのように緊張せずとも問題ございませぬ。某の供の数は普段より増やしております。」
「いや、襲撃に対して緊張しているのではない。信長様に受け入れていただけるのか……そのことが不安なだけじゃ。」
藤吉郎は深刻そうに語る光秀の顔を見つめながら瞬きを繰り返した。「この御仁は何を申されているのだろうか?」と不思議で仕方なかった。
「あのぅ……明智様は殿が明智様を家臣に加えることを拒否なさるのではないかと案じておられるのですか?」
その問いに光秀はしっかりと頷いた。
「過去に信長様のお誘いを断ったわしが今になって家臣になりたいと申せば、公方様の間者だと疑われても致し方ない。断られることも覚悟しておくべきであろう。」
返ってきた答えに藤吉郎は天を仰ぎたくなった。
光秀は自分がどれほど信長から寵を受けているのか理解できていないのだ。あれほどにわかりやすい御方もおられないというのに、当の本人は全く理解していない。これは呆れても文句は言えないはずだ。
呆れると同時に、藤吉郎は光秀の鈍感さを空恐ろしく感じた。これは何か宜しくない。そのような気がしてならなかった。
藤吉郎は盛大に溜め息を吐きたい気持ちを堪えて曖昧に笑う。
「心配し過ぎぬ方がよろしいかと、某は思いますぞ。」
襲撃に遭うこともなく無事に織田家の館に到着した藤吉郎は光秀と共に信長に向かって平伏する。平伏していても信長が喜んでいることが伝わってきた。
「顔を上げよ。」
その命に従って顔を上げれば嬉しそうに微笑む主君の顔が見えた。その視線は隣の光秀に注がれている。
信長は喜色を滲ませながら光秀に向かって口を開く。
「十兵衛、よう参った。藤吉郎から話は聞いておる。外出もままならぬ状態であったそうじゃな。ここ数日は不安な日々を過ごしておっただろうが、もう案ずることはない。誰もそなたやそなたの家の者に手出しはさせぬ。この信長が許さぬ。」
流れるように言葉を紡ぐ信長の勢いに光秀は圧倒されていたようだが、「ありがたきお言葉にございまする」と両手を突いて頭を下げた。
「公方様より信長様討伐の戦いに加わるよう申し付けられましたが、私は信長様に刃を向けることなどできませぬ。それ故、公方様のお傍を離れ、信長様にお仕えすると決断いたしました。至らぬ点はございましょうが、全身全霊で信長様をお支えいたします。どうか織田家家臣の末席に加えていただきたく、お願い申し上げまする。」
藤吉郎は美しい所作で頭を下げて熱く語る光秀に思わず見惚れた。これが幾人もの有力武将や将軍を魅了する男なのだと思い知らされる。
ちらりと視線を信長に向けてみれば、恍惚とした表情で光秀を見つめる主君を見ることとなった。
「十兵衛は将軍ではなくわしを選んだ。そのように受け取って構わぬな?」
どこか熱を帯びた声で信長は問いかけた。それに対して光秀が「はい」と答える。
「自らの意思で信長様を主君と仰ぐことに決めました。お許しいただけるならば、信長様を『我が殿』とお呼びしとうございまする。」
何という殺し文句か。藤吉郎は素直にそう思った。
その光秀の言葉を噛みしめるように信長が目を細める。
「殿、か……。十兵衛、わしのことを殿と呼んでみよ。」
光秀は「はっ」と短く返すと顔を上げた。その眼差しは真っ直ぐに信長に向けられている。
「──殿。」
思いを込めて放たれた声に空気が震えた。震えたのは空気だけではなく信長の心も同じだったようで、目を見開いて光秀を見る信長の顔に笑みが広がっていく。
信長は何度も頷いてから立ち上がり、光秀の前に移動して腰を落とした。そして光秀の両肩に手を置いて「よう参った、よう参った」と喜びを垂れ流す。
「そなたは織田家家臣の一員じゃ!わしを殿と呼ぶことを許す!誠に、よう来てくれた……!」
「ありがとうござりまする、殿!」
家臣になることを許された光秀の顔には安堵の笑みが浮かぶ。
藤吉郎は自身が蚊帳の外になっていることを自覚しながら二人の様子を眺めた。信長に拒まれなかったことを安堵する光秀と己が選ばれたことに喜ぶ信長。この歪さを藤吉郎はただただ傍観する。
先ほど感じた恐ろしさの正体がはっきりと見えた。光秀は信長から向けられる尋常ではない執着に気づいていない。己の存在が相手にとってどれほどの影響力を持ち、それが周りにまで波及することを知らないのだ。光秀の振る舞いや心変わりによって二人の周りは焼け野原になる危険性があるということを知るのは傍観者である藤吉郎だけだ。
そして光秀の視線が己に向いたことを異常なほどに喜び、彼への執着を深めていくことについて信長も無自覚だった。ずっと自分を選んでくれず、視線を向けてくれなかった相手が振り向いてくれた喜びを知った信長は以前には戻れない。もしも光秀が他へ視線を移せば、その相手を決して許しはしないだろう。過ぎた独占欲を自覚しなければ抑える術を知らないことになる。
自分たちの状況次第で全てを破壊することになりかねないと自覚していない二人を眺めていて、背筋に寒気が走らずにいられようか?恐れ知らずだと自負している藤吉郎であっても恐怖を感じずにいられない。
(この二人は互いのせいで破滅するやもしれぬ)
藤吉郎は光秀と信長から目を離せぬまま、そのように思った。冷や汗が頬を伝い落ちていくのを感じながらも冷静に判じた。
危うい関係性である自覚のない二人は互いのせいで破滅する。その時は周囲を巻き込んで何もかもを破壊するだろう。それは予想などではなく確信と呼べるものだった。それならば自分は巻き込まれぬように常に状況を把握して見極めるよう努めれば良い。
密かに己の振る舞い方を決めた藤吉郎の視線の先では新たな主従関係を築いた二人が言葉を交わしている。疎外されたのは藤吉郎なのかもしれないが、藤吉郎には二人が世界から疎外されているようにしか見えなかった。
終