風 本能寺の変を経て臨んだ山崎の戦いは、十兵衛にとって苦いという言葉では済まないものだった。中国攻めの最中だった秀吉は予想よりも早く京に戻り、行軍の勢いそのままに明智軍を打ち破ったのだ。
敗けた十兵衛は少数の家臣たちと共に坂本城を目指したが、そこへ至る道のりには落ち武者狩りを行う農民があちこちにいたため思うように進むことができず、少しずつ味方の数は減っていった。気づけば己一人になり、怪我と疲労で弱った体を引きずるようにして歩き続ける。
十兵衛は歩きながら「一人で生き続ける意味があるのか?」と数え切れぬほどに自問した。麒麟が現れるような平らかな世を作ると誓ったが、その誓いは守れそうにない。大勢の者たちを死へ導いた自分がいつまでも生きているべきではないとの思いも過ぎる。それでも歩みを止められないのは「十兵衛に平らかな世を作ってほしい」という皆の願いを無駄にしたくないからだ。
「惨めにも生き続けるべきか、潔く腹を切るべきか」と葛藤し続ける十兵衛の体に正面から強い風が吹き付けた。前に進むことを阻もうとするかのように吹く強風に何度もよろけてしまう。
牛歩の歩みであっても前進し続けるうちに三河の徳川家康に仕える菊丸に出会った。彼は十兵衛の前に跪くなり次のように告げる。
「我が殿は十兵衛様を保護すると決断され、私に十兵衛様を三河へお連れするようお命じになりました。……どうか、殿の思いをお受け取りください。殿は志を同じくする十兵衛様のお力を必要としておられるのです。私自身も十兵衛様をお助けしたいと望んでおります。どうか。」
菊丸から告げられた言葉に涙腺が緩む。まだ諦めてはならぬのだと思えた。十兵衛は「よろしく頼む」と菊丸に頭を下げた。
そこから先は菊丸と二人での旅となる。菊丸は十兵衛の体を気遣いながら進んでくれたが、蓄積された疲労は限界を迎えていた。三河まで後少しという地点で十兵衛は一歩も歩けなくなってしまった。
菊丸が見つけた山奥の廃屋に入り込み、どうにか鎧を脱いで横になれば意識は瞬く間に闇へ落ちていく。次に目覚めた時は丸一日が経過していたが、まだ体は鉛のように重く、熱くて仕方ない。どうやら発熱しているらしい。
十兵衛が目覚めたと気づいた菊丸が水を飲ませてくれた上に食事を運んできてくれたが、強烈な眠気に襲われて意識を保っていられない。十兵衛は己の名を呼ぶ菊丸の声が遠ざかるように感じながら目を閉じる。再び眠りの底へ沈んでいく自身を止めることはできなかった。
*****
転げ落ちるように眠りについた十兵衛は、いつの間にか辺り一面真っ白な場所に立っていた。
「ここはどこか?」と周囲を見回しても辺りには何もない。よくよく目を凝らしてみれば霧が立ち込めていることがわかる。一帯が白い霧に覆われているのだ。どのように考えても普通の場所ではないことから、己が夢を見ているのだと理解する。
どうしたものか、と小さく溜め息を吐いた十兵衛の耳に己を呼ぶ微かな声が届いた。
『十兵衛……十兵衛……』
悲しげな響きを伴う声の主は織田信長。本能寺で炎と共に消えた主君だ。
声が聞こえてきたのは遥か後方。距離は離れているらしい。
主君から呼ばれているのだから振り返って応えるべきだ。頭では理解しているのに、なぜか体が動かない。十兵衛の本能が何かを恐れていた。
十兵衛が混乱している間にも信長は呼びかけることをやめない。
『十兵衛、わしの元へ来い。そなたがおらぬのでは寂しゅうて敵わぬ。こちらへ来てくれ。十兵衛、早うわしの元へ。』
哀切の滲む声音を聞いていると振り返りたくなる。それでも振り返ることができないのは、振り返ってしまえば引き返せなくなるような気がしたからだ。信長の呼びかけに答えたが最後、夢から醒められなくなるように思えて恐ろしい。
どうすれば状況が変わるのかを十兵衛が必死に考えていた時、背後から両肩に手が置かれた。温かく優しい手には覚えがあった。
「父上、振り向いてはなりませぬ。」
「──岸?」
十兵衛が驚きと共に呼んだ名は愛娘のもの。驚きを隠さずに名を呼べば、少しの間も置かずに「はい」と柔らかい声で返事があった。
「お会いできて嬉しく思いますが、喜んでばかりはいられませぬ。父上を呼んでおられるのは信長様でございます。父上への情が深いばかりにあの世へ連れて行こうとしておられるのです。」
「信長様が……」
岸の話を聞き、十兵衛は信長に言われた「二人で茶でも飲んで暮らさないか」という言葉を思い出す。平穏な暮らしを望む気持ちが吐き出させた言葉だと受け取っていたが、あれは十兵衛と共に過ごすことを望む気持ちから出た言葉だったのだ。そのことに今更ながらに気づき、己の鈍さに溜め息が出る。
「あの世へ連れて行こうとしておられるということは、わしの寿命が尽きるということか?」
「いいえ、父上の寿命は尽きておりませぬ。されど、肉体が弱ったことにより魂も弱っております。それ故に今の父上はあの世に近い状態となっており、思いの強い者であればあの世へ連れて行くことが容易となっているのです。ですが、ご安心ください。私たちがお守りいたします。」
「私たち、とは?」
「明智家に関わる皆でございます。皆が皆、父上をお守りすると決めております。……私たちの代わりに長く生きていただきたい。そのように望んでおります。」
その言葉に十兵衛の胸は強い痛みを覚えた。
薄々わかっていたが、やはり岸は死んでいるのだ。山崎の戦いに勝利した後の秀吉の行動は見ずともわかる。「謀反人の一族は滅ぼさねばならぬ」と積極的に動いたはず。十兵衛は振り返らぬまま「すまぬ、岸」と岸に詫びた。
「皆が穏やかに暮らすことができる平らかな世を作りたいと思うていたが、そなたや皆を死に追いやってしまった。謝って済むことではないとわかっているが、謝らせてほしい。不甲斐ない父ですまぬ。」
「父上……」
「荒木の家のことで辛い思いをしたそなたに再び同じ思いを味わわせてしまった。あのような悲しい顔を二度とさせまいと思うていたというのに……申し訳なく思う。岸、誠にすまなかった。」
十兵衛が何度も謝罪の言葉を口にすると、肩に置かれていた手が労るように背を撫で始める。
「私は父上を恨んでおりませんし、誰も父上にお仕えしたことを後悔しておりませぬ。父上に争いのない穏やかな世を作ってほしいと皆が願いました。そして、その夢を諦めてほしくないと望んでおります。生きて、平らかな世を作っていただきたいのです。それが私を含めた皆の望みでございます。」
「わしのせいで死んだというのにか?」
「はい。皆は父上に希望を託しました。生きて、生きて、生き延びて、いつか穏やかな世を見せてくださりませ。」
力強く語る岸の声を聞き、十兵衛は遥か昔に亡くなった叔父を思い出した。明智城に敵が迫る中で自分に生き延びるよう命じた叔父と今の岸の姿が重なる。
十兵衛は頬を伝い落ちる涙の存在を感じながらしっかりと頷いた。
「そなたたちの希望と願い、確かに受け取った。平らかな世を作るために全力で生きよう。」
決意を告げれば「はい!」と岸の嬉しそうな声が返ってきた。
「それでは、これからのことについて説明いたしますね。私たちは一人ずつ信長様に父上との思い出を話して参ります。父上の話をお聞かせすることで心をお慰めするのです。それにより信長様には父上を連れて行くのをお止めいただきます。」
「わかった。わしは待つことしかできぬのだな?」
「その通りでございます。辛抱強くお待ちくださりませ。注意していだたきたいのは、誰が参っても決して振り向いてはならぬということ。私たちの姿を見ないでいただきたいのです。」
「なぜじゃ?」
「親しい者の姿を見てしまえば離れがたい気持ちが強くなりましょう。その気持ちが強まればあの世に引きずられてしまいます。私たちは必ず後ろから声をお掛けしますので、決して振り向かないでくださいませね。」
そこまで話し終えた岸は少しの沈黙の後、「最後にお伝えしたいことがございます」と穏やかな声で話し始めた。
「父上と母上の子として生まれたことを誇りに思うております。そして、最後に左馬助の妻として生きることをお許しいただき、誠に幸せでございました。私は明智十兵衛光秀の娘であることを心から嬉しく思います。……それでは参ります。必ずお守りいたしますね、父上。」
言い終わると同時に背中に触れていた手が離れる。温もりが消え失せたことにより、これで岸とは二度と会えないのだと思い知らされた。
「岸!」
名を呼んでも応える声はない。岸は父を守るために信長の元へ向かったのだ。
十兵衛は込み上げる感情を堪えるように片手で口元を覆った。その隙間から漏れる嗚咽は堪えられるものではない。愛する我が子の優しさが嬉しく、永遠の別れが悲しい。叶うものならば、もう一度だけ抱きしめたかった。
「誇りに思うのは父の方だ。そなたが我が子として生まれてきてくれて、どれほどの幸福をもたらしてくれたか。……岸、感謝している。」
十兵衛は娘への言葉を紡ぎながら涙を零し続ける。
岸は去ったが、背中を撫でる手の温もりは残っているような気がする。あの温もりを死ぬまで忘れることはないだろう。十兵衛は心の底からそのように思った。
岸が去った後、入れ代わり立ち代わり明智家の家臣や城で働いてくれていた者たちが現れた。その誰もが背後から十兵衛の両肩に手を置いたり背中に手を当てて、信長に語って聞かせた十兵衛の思い出について教えてくれた。
全員が背後から近づいてきたので顔は見ていないが、誰からも怒りは感じなかった。誰一人として恨み言を言わないのだ。十兵衛との思い出を懐かしむように話しては「お仕えできて幸せだった」と穏やかに告げて去っていく。
十兵衛は己に信頼を寄せてくれた者たちの話に耳を傾けながら、ひたすらに泣いた。これほどまでに慕ってくれている事実に誇りと喜びを感じ、別離の悲しさに胸が引き裂かれるような思いだった。伝吾には「泣き虫なところは変わりませんな」とからかわれ、利三には「釣られて泣いてしまいまする」と涙声で言われた。
そして、また新たに誰かが背後に立った。両肩に手が置かれると同時に「十兵衛様」と親しみ深い従兄弟の声が響いた。
「左馬助、来てくれたのか。」
「はい。信長様と話して参りました。その信長様より言伝がございます。」
それを聞き、十兵衛は姿勢を正した。
「では、申し上げます。『天寿を全うするまで死んではならぬ。何があっても生きよ。天寿を全うしてあの世へ来たら、今度こそ共に茶を飲もう』とのことにございました。」
十兵衛は信長が左馬助に託した言葉を噛みしめるように頷いた。信長は十兵衛があの世に来るのを待つことにしてくれたのだ。
「信長様は待っていてくださるのだな。」
「皆の十兵衛様との思い出話を聞いて心が慰められたと仰っていました。寂しさが和らいだので待つことが苦にならなくなった、とも。穏やかに笑って去っていかれましたよ。」
「そうか。心穏やかになられたのなら良かった。左馬助、そなたにも皆にも世話を掛けた。心より感謝する。」
「何を今更。我らは十兵衛様をお慕いしているからこそお役に立ちたいのです。お守りすることができて嬉しゅうございます。」
そのように語る左馬助の声は明るかった。きっと、晴れ晴れとした顔で笑っているのだろう。
十兵衛は微笑みながら「左馬助」と己の右腕の名を呼んだ。
「そなたは美濃からずっと付いてきてくれた。どのような時も左馬助が傍にいてくれて、どれほど心強かったことか。そなたが支えてくれたおかげで明智十兵衛光秀という男があるのだ。わしはそなたが仕えてくれたことを誇りに思う。」
十兵衛はずっと前から左馬助に伝えたいと望み、その機会が得られずに心の中に収めていたものを全て打ち明けた。
左馬助は家族であり、友であり、忠臣でもある。彼が支えてくれなければ途中で折れていたかもしれない。そのように思えるほど左馬助の存在は十兵衛にとって大きい。
十兵衛は己の肩に置かれた左馬助の手に力が込められるのを感じた。
「……誇らしく思うのは私の方です。十兵衛様よりご信頼をいただけたことは私にとって一番の誇り。十兵衛様と共に過ごすことができて幸せでございました。誰が何と申そうと十兵衛様は立派な御方にございます。」
熱く語る左馬助の声は少し震えていた。泣き出しそうになっているのかもしれない。
左馬助は「十兵衛様」と震える声で名を呼んだ。
「これより先、十兵衛様の歩む道のりは過酷なものとなりましょう。お支えできぬことが誠に口惜しゅうございます。されど、我らはいつでも十兵衛様のお傍におります。風となり、どこまでも共に駆けましょう。お約束いたします。」
「風となって、か。」
「はい。風になればどこへでもお供することができますから。」
風はどのような場所でも吹いている。己の足で走れば風を感じることができる。馬で駆ければ風は離れずに付いてくる。皆が風になるというのなら、いつまでも一緒だ。
十兵衛は静かに涙を流しながら微笑み、「そうだな」と一つ頷いた。
「それならば風となり、岸と共に付いてきてくれ。」
そのように答えると背後で息を吸う気配がした。その次には大きな声で「はい!」と返ってくる。
「お岸と共に、どこまでもお傍に!」
力強い良い声だ。この頼もしい声が好きだった。
その時、十兵衛は前方が明るくなってきたことに気づく。霧の向こう側から光が差しているのだ。
「ああ、そろそろお目覚めになる時なのでしょう。……お別れでございます。」
その左馬助の言葉を聞き、寂しさが急激に膨れ上がった。
思わず振り返ろうとした十兵衛だったが、岸から言われた「決して振り向いてはならぬ」という言葉を思い出して堪える。その言葉を無下にするわけにはいかない。しぶとく生きて平らかな世を作ると決めたのだから。
十兵衛は明るい方を見つめながら口を開く。
「皆のためにも平らかな世を作る。そのために己にできる全てをやり遂げてみせる。どうか見届けてくれ、左馬助。」
「承りました。──ご武運を。」
最後の言葉と同時に左馬助の手が離れた。その途端に前方の明るさが増していく。目覚めが近い。
十兵衛は余りの眩しさに目を開けていられず、思わず固く目をつぶった。その時、柔らかな風が全身を撫でていった。
*****
十兵衛が目を開けると、今にも崩れ落ちるのではないかと不安になるような天井が見えた。その次に強烈な喉の渇きを感じる。
喉のいがらっぽさを解消するために軽く咳をした時、菊丸が勢い込んで顔を覗き込んできた。
「十兵衛様!気が付かれましたか!良うございました!」
菊丸は安堵の笑みを浮かべた後、「水をお持ちいたします」と告げて跳んでいった。そして、十兵衛が苦労しながら体を起こしているうちに水を注いだ茶碗を持って戻ってきた。
「どうぞ。」
十兵衛は差し出された茶碗を受け取りながら「かたじけない」と言ったが、その声は掠れ過ぎていてほとんど音になっていなかった。
茶碗の水をゆっくりと口の中に流し込んでいくと、まるで乾いた土に水が染み込むように喉が潤っていった。それにより自分は生きているのだと強く実感する。
十兵衛は時間をかけて水を飲み干し、一つ息を吐いてから「わしはどれほど眠っていた?」と問いかけた。それに対して菊丸は表情を曇らせながら答える。
「数刻どころではございません。幾日もお目覚めにならないので心配いたしました。医者を呼びたくともお傍を離れるわけにいかず……目を覚ましてくださって良うございました。」
「心配をかけてすまなかったな。もう大丈夫だ。」
十兵衛は笑みを浮かべながら言ったが、菊丸は首を横に振る。
「無理はいけません。後二日ほど体を休めてから出発いたしましょう。では、私は食事を用意して参ります。」
菊丸はそのように告げて去っていった。十兵衛は菊丸の後ろ姿を見届けてから再び横になる。まだ全身が重かった。
体勢を横向きに変えて壁を見つめていると、どこかから風が流れ込んでくることに気づく。荒れ果てた廃屋なので隙間から風が入ってくるのだろう。
ささやかな風が頬を撫でるのを感じた十兵衛の脳裏に左馬助から言われた言葉が蘇る。
『我らはいつでも十兵衛様のお傍におります。風となり、どこまでも共に駆けましょう。』
これから先は風を感じる時、皆が傍らに寄り添ってくれているのだと思い出すだろう。それは十兵衛の生涯の支えとなるのだ。
十兵衛は笑みを浮かべながら小さく呟く。
「共に平らかな世を作ろう。そして、穏やかになった世を共に見よう。」
十兵衛は新たな約束を胸に刻み、目を閉じた。その背から肩にかけて、風がするりと通っていく。それは皆の手のように優しい風だった。
終