麒麟の影 時は豊臣家の天下であった。正しく表現するならば豊臣秀吉の天下であった。
関白を退いて太閤となった後も実権を握り続けることに眉をひそめる者もいるだろうが、それを表に出すことはない。どの大名も公家も秀吉に逆らうことはできぬ。逆らって生き延びることなど不可能だ。
しかし、その秀吉にも悩みはある。それは自身の老いだ。歳を重ねる度に体が重くなり、視力や聴力が衰えていく。最近では息が上がることも増えた。若い頃は跳んで走って動き回っていたというのに、今ではのっそりと歩くしかない。
老いを実感すると同時に脳裏に浮かぶのは幼い我が子・拾丸のこと。目に入れても痛くないほどに可愛い我が子が一人で立派にやっていけるような年齢になるまで見守ってやりたい気持ちは強いが、嫌でも己の死が頭を過る。恐らく拾丸が元服するまで生きているのは無理だろう。
自分亡き後、拾丸は健やかに育つことができるだろうか?
周りの者はあの子を盛り立てていってくれるだろうか?
己を憎む者が我が子の足を引っ張り、蹴落とそうと企みはしないだろうか?
そのような不安に蝕まれている時、秀吉は己の頭を掻きむしりたい衝動に駆られる。今更どうしようもない後悔が押し寄せて秀吉を責め立てた。
「自分は余りにも血を流し過ぎた」と後悔しない日はない。行く手を阻む者を斬り、足を引っ張る者を斬り、目障りな者を斬り、人を斬って斬って斬り続けた末に数え切れない骸が背後に転がっていた。両手どころか全身が返り血で染め上げられ、その血が呪いとなって拾丸に降りかかるように思えてならない。それでも引き返すことも立ち止まることもできず、未だに目の前に立ち塞がる相手を斬り殺し続けている。
誰にも悟られぬまま悩み続ける日々が続いたある日、秀吉は城内で思いがけない人物を見かけた。
「……明智様?」
廊下の先を歩く男の後ろ姿は明智十兵衛光秀のもの。己が滅ぼした相手だ。この世に存在するはずのない男が城の廊下を歩いている。
光秀の姿を見た時の秀吉の胸に湧き上がったのは恐怖や嫌悪ではなく純粋な驚き。だから傍に近習がいるにもかかわらず咄嗟に「明智様」と呼んでしまった。本能寺の変が起きてから一部の人間の前以外で光秀のことをそのように呼んだことはなかったが、今はそれに構っていられない。先ほどよりも大きな声で「明智様」と呼んでみた。だが、光秀は振り向きもせずに歩いていってしまう。
「明智様!」
秀吉は近習が目を丸くして自分を見ることなど気にも留めずに廊下を走った。久しく走っていない肉体が悲鳴を上げるが気にしない。
ところが、大声で名を呼んでも相変わらず光秀は立ち止まりも振り返りもしない。真っ直ぐに前を向いたまま歩き続けているのだ。その距離も全く縮まらない。
秀吉は息を切らしながらも足を止めることなく必死に光秀を追いかける。
「明智様、お待ちくだされ!明智様!」
呼び止めながら走って角を曲がり、そこで秀吉は目を丸くした。角を曲がった先には誰の姿もなかったのだ。
秀吉が呆然と立ち竦むと、追いついてきた近習が「いかがなさいましたか?」と問うてきた。秀吉はそちらを見遣ることなく答える。
「……何でもない。皆には何も申すな。」
秀吉が城内で光秀の姿を見かけた日から同じようなことが起きるようになった。
光秀は場所を選ばずに姿を見せる。城の中だけでなく外出先にも現れて、後ろ姿だけを晒して歩き去っていく。正面はどうしても見ることができなかった。
光秀が姿を見せるのは秀吉が拾丸の将来を案じて悩んでいる時と決まっている。思い悩んでいて、ふと視線を動かすと光秀がこちらに背中を向けて立っているのだ。そして声をかけても振り向かずに歩いていってしまう。その繰り返しだった。
「なぜ光秀は自分の前に姿を現しては去っていってしまうのか?」と悩み続けていたある日、その答えは天啓のように秀吉の頭に浮かんだ。それは秀吉にとって恐ろしい答えだった。
「明智様は我が豊臣から去っていこうとしておられる。そして豊臣は滅びる。それを警告しておられるのだ。」
よくよく思い返してみれば、光秀に背を向けられた者たちは誰もが栄光を失って地に伏している。美濃の斎藤、越前の朝倉、尾張の織田、そして室町幕府。いずれも光秀に去られた後、その輝きを失った。
明智十兵衛光秀に去られた者は滅びる。それを目にしてきたはずだというのに、なぜ気づかなかったのか。秀吉は自身の鈍さに憤って己の額を叩いた。
「ならん、豊臣が滅ぶなどあってはならん。拾丸が哀れな末路を辿るなどあってはならんのじゃ。滅んではならん!滅んではならん!豊臣が滅ぶなど……!」
叫んだ秀吉が動かした視線は一点に縫い留められた。恐ろしさの余り、全身が凍りついたように動かない。
そこに光秀が、いる。
*****
細川幽斎は秀吉が過ごす伏見城の前に立った。以前より秀吉の家臣から「太閤殿下に会いに来てほしい」との文が送られてきており、最近では遂に秀吉の正室からも同じような文が届いたのだ。ここまでされては足を運ばないわけにはいかない。
幽斎は城内に入り、案内の者に導かれて秀吉のいる部屋を目指す。その道中、案内の者が声を潜めて幽斎が呼ばれた理由を話し始める。
「……近頃、殿下が幻を見て錯乱なさるのです。」
「幻?」
訝しげに眉を寄せる幽斎に相手はしっかりと頷いた。
「明智光秀の幻を見ては『お待ちくだされ』と叫んで走り出されるので城内の者は困惑しております。それゆえ幽斎殿に殿下のお心を安らかにしていただきたいと思い、お招きした次第にございます。」
盟友であった十兵衛の名前を出され、幽斎の心の臓が嫌な跳ね方をした。どれだけ時が流れようとも彼のことを思うと苦さが込み上げる。それを悟られぬように冷静な表情を保ったまま「それはお困りでしょう」と返すに留めた。
やがて、秀吉の部屋の前で案内の者が立ち止まって部屋の中に声をかける。
「細川幽斎殿がお見えにございます。」
その声掛けに反応して「おお、入るが良い」という秀吉の明るい声が聞こえてきた。その声音は前回会った時と変わらない。
部屋の前で控えている近習が障子を開けたので幽斎は頭を下げながら部屋に入った。そのままの姿勢で前へ進み、一定の距離の辺りで平伏する。
「細川幽斎、参上いたしました。ご無沙汰いたしております。」
「おお、堅苦しい挨拶はなしじゃ!面を上げよ。」
幽斎は「はっ」と返事をしてから顔を上げた。「お変わりないようで安堵いたしました」と言うために開こうとした口は中途半端に開いただけで終わる。それほどに秀吉の姿が衝撃的だった。
顔に浮かぶ笑みは以前と変わらないが、頬は痩けて目の周りには薄っすらと隈が見える。身に纏う胴服も布が余っているようだ。恐らく痩せたために体に合わなくなったのだろう。元々痩せ型の男ではあったが、今の彼は弱々しく見えるほどに痩せてしまっている。
幽斎は軽く息を吐いて動揺を静めてから微笑を作った。
「少々、お痩せになりましたな。お体の調子は?」
「余り良いとは言えぬ。年老いてきたせいか動くのが億劫で、食も細くなってのう。あの世へ逝くのも近いかもしれん。」
秀吉は笑いながら言ったが、その内容は彼にしては弱気なものだ。幽斎はいつもと雰囲気の異なる天下人に戸惑いを覚えながらも話を続ける。
「そのような気弱なことを仰らないでください。拾丸様のためにも太閤殿下には長生きしていただかねば。」
溺愛する息子の名を出せばいつもの調子を取り戻すと考えたのだが、予想に反して秀吉の顔に陰りが差した。弱々しく微笑みながら「拾丸、か」と呟く秀吉に幽斎の困惑はますます深くなる。
今の秀吉は明らかに様子がおかしい。先ほど聞いた「明智光秀の幻を見て錯乱する」という話が関係しているのは間違いない。
幽斎は本題を切り出す時だ、と腹に力を入れた。
「この城に到着してから太閤殿下が何かに悩んでおられると耳にいたしました。城内の方々はそれを非常に案じておられる。差し支えなければ悩んでおられることを私にお話くださりませぬか?お力になれることがあるやもしれませぬ。」
そのように語りかけると秀吉は目を見開いて凝視してきた。その顔からは感情が抜け落ちている。
思考の読めない人間の顔から感情が消えるというのは非常に恐ろしい。相手が次にどのような行動に出るかがわからないからだ。特に天下人が相手では恐ろしさが増すというもの。一歩間違えれば首を撥ねられる恐怖が付きまとう。
幽斎は背中にじっとりと汗をかき始めたことを自覚しながら秀吉と視線を重ねたままでいた。そのうちに秀吉が無言で手招きをしたので座したまま滑るように移動する。そして、一人分の距離にまで近づいたところで秀吉が「信じられんだろうが」と囁くように話し始めた。
「近頃、わしの前に明智様が現れる。」
こちらを凝視しながら話す秀吉の目が異様な光を放つ。
「城内だけではない。城外でもじゃ。前触れなく現れるが、決してお顔を見せてはくださらぬ。わしに背を向けたまま歩いていってしまわれる。呼び止めても何の反応も見せず、ただただ歩いていって不意に消えてしまうのじゃ。」
そのように話す秀吉の目は真剣だった。幽斎をからかうためなどではなく真剣に話をしている。
話の内容を聞いた限りでは「それは単なる幻だ」としか思えないのだが、それを声に出したい気持ちを堪えて頷くに留める。天下人の不興を買うことは避けなければならない。
思考を巡らせる幽斎の目の前では秀吉が相手の反応を気にする素振りも見せずに話し続ける。
「なぜ今頃になって明智様が現れるのか考えてみた。お主にはわかるか?」
「いえ、検討もつきませぬ。」
そのように答えると秀吉の視線が幽斎から逸れた。その顔に浮かぶのは憂いだ。
秀吉は溜め息混じりに「わしは理解した」と言った。
「明智様は『豊臣家は滅ぶ』と警告しに来たのだ。」
物騒な言葉に幽斎は眉をひそめる。今の世に豊臣家に抗うほどの力を持つ者はいない。絶大な権力を手にしながら何を恐れているのか?
幽斎は「恐れながら」と反論する。
「豊臣家ほどの力を持つ勢力がない状況で滅びを心配なさるなど無駄でございましょう。それだけでなく、皆は太閤殿下の才覚に尊敬の念を抱いているのです。豊臣家が滅ぶなど有り得ませぬ。」
幽斎の意見を聞いた秀吉は苦笑を滲ませながら頭を振った。
「わしが生きておる間は良かろう。だが、わしが死んだ後はどうじゃ?皆が拾丸を支え、豊臣家を盛り立てると思うか?」
「それは、もちろん──」
「わしは信長様亡き後、織田家を飲み込んだぞ。」
それは背筋が寒くなるほどに冷めた声音だった。暗い目をして言葉を紡ぐ秀吉を前にして、幽斎は寒気を感じずにいられない。
「わしが織田家に対して行ったことを他の者が豊臣家に行わぬと言えるか?……己の行ってきたことを考えれば、わしが恨まれぬはずがない。その恨みが晴らされるのは拾丸の代になってからだろう。わしはそれが恐ろしい。」
幽斎は秀吉が恐れているのは「自分が死んだ後に我が子の代で豊臣家が滅ぼされること」なのだと理解した。
秀吉が生きている間はその威光により皆が豊臣家に頭を垂れる。だが、彼が死ねば豊臣家の放つ光は弱くなる。秀吉という重石がなくなれば伏せていた顔を上げて牙を剥く者が現れるだろう。それが大きな波となった時、豊臣家は飲み込まれてしまうかもしれない。
秀吉は己の所業の苛烈さを自覚しており、それが他者からの恨みに繋がることも理解している。その恨みは呪いへと変化し、その呪いは秀吉本人ではなく彼の愛する息子に降りかかるのだ。そして、それを払ってやる手立てはない。
秀吉が恐れるものの正体を知った幽斎には返すべき言葉が見つからなかった。「恐れが現実にならぬよう手を打てば良い」と慰めたところで無駄だろう。抜け目のない男は既に手を尽くしているはず。それでも彼は恐れているのだ。それならば黙したままでいるしかない。
「明智様が現れるようになってから、あの御方のことを振り返ってみた。そうすると明智様が見限った者たち全員が輝きを失って地に堕ちたと気づいた。」
秀吉はそう言って、薄ら笑いを浮かべながら指折り数えていく。
「美濃の斎藤、越前の朝倉、尾張の織田、足利の幕府。どれも明智様が見切りをつけて背を向けた者たちばかりじゃ。」
その指摘は言いがかりとは言い切れない。斎藤家は戦に負けて国を追われ、朝倉家は攻め滅ぼされ、信長亡き後の織田家は衰退の一途を辿り、足利家が守ってきた室町幕府は滅んだ。いずれも十兵衛に去られている。
幽斎は「それは、そうなのでしょうが……」と返すだけで精一杯だった。それを秀吉が不満に感じた様子はなく、淡々と言葉を紡ぐ。
「明智様はわしを見ておられた。ずっと、わしが平らかな世を作るのを見守っておられたのだ。誰も気づかなんだだけじゃ。……だが。」
秀吉は両手で己の顔を覆うと苦悩に満ちた声を絞り出す。
「明智様はわしの所業に呆れ果て、この豊臣を見限ろうとしておられる。それゆえ背を向けて去っていってしまう。呼びかけても応えてくださらぬ。……このままでは豊臣が滅びてしまう。」
天下人とは思えぬ弱々しい言葉と姿だ。これほどに弱々しい秀吉の姿をこれまでに一度も見たことがない。老いを実感したせいなのか、幼い後継ぎを案じる思いの強さのせいなのか、頂に登った者だけが知る重圧のせいなのか。その全てが当てはまるのかもしれない。
そして「豊臣家が滅びる」という秀吉の不安は明智光秀という形になって具現化した。それほどに十兵衛の存在が秀吉にとって大きいのだと初めて知り、そのことに驚かずにいられない。
幽斎は顔を覆って嘆き続ける天下人を見つめることしかできなかった。滅びへの不安も十兵衛の幻も幽斎には払えない。
*****
秀吉の嘆きの声だけが響く部屋の空気は重い。それを晴らすように部屋の外から「失礼いたします」と近習の声が響いてきた。それを聞いて瞬時に顔から両手を離し、何事もなかったように「入れ」と答えた秀吉に天下人としての顔を垣間見た気がした。
部屋に入ってきた近習は三人。一人は二人分の茶を持ち、残る二人は大量の菓子を運んできた。幽斎は自身と秀吉の前に並べられた菓子を見て狼狽える。
「太閤殿下、二人分にしては量が多いのでは?お気持ちはありがたく存じますが、私如きにこれほどの気遣いは無用にございます。」
幽斎が恐縮すると秀吉は「何を申す」と明るく笑った。
「幽斎殿がわざわざ足を運んできてくれたのじゃ。ぞんざいな扱いをしては……」
秀吉の言葉は中途半端に途切れた。その顔から笑みが引いていくと同時に恐怖が滲み出す。
秀吉の視線は幽斎を飛び越えて後方──廊下へ向けられていた。秀吉は陸に打ち上げられた魚のように口の開閉を繰り返しており、今にも窒息してしまいそうに見える。まるで化け物に遭遇した人間の如き反応に、幽斎は眉根を寄せて後ろを振り返ってみた。廊下にいるのは秀吉の近習だけだ。
幽斎が顔を正面に戻して「いかがなさいましたか?」と尋ねようとした時、秀吉が廊下を見つめたまま床に両手をついて叫ぶ。
「明智様、お待ちくだされ!どうか、どうか豊臣に留まっていただきたい!お願い申し上げまする!」
悲壮な顔で叫ぶ秀吉に幽斎は目を瞠った。本能寺の変以降、秀吉が自分以外の者がいる前で十兵衛の名を出す際に敬称を付けて呼ぶのを一度も聞いたことがない。
言葉もなく目を丸くする幽斎の目の前で秀吉が額を床に擦り付けそうな勢いで平伏した。
「明智様が去れば我が豊臣は滅ぶ!それは承知しておりまする!それでは困るのです!我が子を破滅させとうない!一代で潰えるなど耐えられぬ!明智様、この秀吉に慈悲を与えてくだされ!」
十兵衛の影も形もない空間に向かって平伏したまま必死に訴える秀吉に近習たちが駆け寄り、「お気を確かに!」と体を起こそうとした。秀吉はその手を振り払って頭を下げ続ける。
「お叱りならばいくらでも頂戴いたしまする!あの日のように叱ってくださって構いませぬ!その代わり、ここに留まってお知恵をお貸しくだされ!豊臣が繁栄し続けるためのお知恵を、明智様っ!」
悲痛な叫びを受け止める者はいない。明智十兵衛光秀は死んだ。秀吉との戦に敗れた男は非業の死を遂げたのだから。
幽斎が為す術もなく成り行きを傍観していると、秀吉がのろのろと顔を上げた。その顔は悲壮を通り越して絶望に塗れている。
秀吉は虚空を凝視したまま「なぜです?」と消え入りそうな声で呟いた。
「なぜ何も仰ってくれぬのです?わしにお怒りか?それとも呆れておられるのか?……明智様、答えてくだされ。」
力なく言ってから深い溜め息を落とした秀吉は次の瞬間にはカッと目を見開いて立ち上がる。秀吉が立ち上がった際に茶器や菓子を乗せた器がひっくり返って床を汚した。
「だめじゃ!行かないでくだされ!」
そのように叫びながら秀吉は走り出す。その際に床に転がった菓子が踏みつけられて無残に潰れた。
十兵衛の名を何度も呼びながら走っていく秀吉の背中を幽斎は呆然と眺める。そして主君を追いかけて部屋を飛び出していった近習たちの後に続いて部屋を出て、廊下を走る秀吉の姿を目で追った。
思うように動かなくなりつつある体を引きずって走る男の姿は哀れだ。滅びに怯え、既に死んだ人間の幻に追い縋る姿は堂々とした天下人とは程遠く、哀れとしか表現のしようがない。
しかし同時に明智十兵衛光秀という男の存在感の強さを感じずにいられない。彼と深く関わりを持った者の心には未だに十兵衛がいる。それがどのような形で現れるのかは人によって異なり、幽斎の場合はふとした瞬間に蘇る思い出と苦さであり、秀吉の場合は豊臣家の滅びに対する恐怖なのだ。
──それとも、十兵衛は天下を治める者を見極める存在になったのだろうか?
幽斎の胸にそのような思いが過ぎった。その時、曲がり角の向こうへ消えていく男の姿が目に映る。
「──っ!」
男の姿が見えたのは一瞬だけ。その一瞬で幽斎は男が何者であるかを理解した。
(あれは十兵衛殿。……馬鹿な。いるはずが、ない。彼がいるはずがないのだ)
瞬きの間に見えたのは明智十兵衛光秀、その人。いるはずのない人間の姿を一瞬とはいえ目撃したことに動揺してしまう。
秀吉の動揺に同調したせいで自分も幻を見たのかもしれない、と幽斎は気持ちを切り替えようとした。
しかし「もしかしたら幻ではなかったのかもしれない」という思いが拭えない。十兵衛は平らかな世を求めて、その導き手を探してこの世界を旅している。時に滅びをもたらしながら。
幽斎が胸のつかえを解消するために息を吐き出した時、どこかで「明智様ぁ」と彼を呼ぶ声がした。
終